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小説【霧消にいとしい】

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     好きだったはずの顔を、うまく思い出せない夜がある。重く引いたカーテンの隙間から外を覗き、爪に込められた愛情に目を遣った。冷蔵庫の低い唸りが、その夜を一層際立たせた。違和感もあったはずなのに、悲しいくらい愛しく光った。

    付き合いたての頃、交通費のお金が無くて、デートをキャンセルした。だけど、その日の午後には数週間前に隣へ越してきた女の子の家のチャイムを鳴らして、「無人島にもし流されるとしたら、僕は君とふたり流されたい」なんて馬鹿げたことを言って接吻をした。

    いいかげんな人間だったのに、僕が隠しきれなかった夜の痕跡を見つけても、彼女は僕を責め立てたりしなかった。思い返せば隣の部屋も、なんだか分からない家電が音を立てていた。「このままでいいよね」なんて言い回しで二人の未来を問われると、そのたび僕はマウスウォッシュでうがいをした。それでも。この部屋のマウスウォッシュは、だいぶ前から切らしてしまっていた。

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    第一章『美知香』

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    空港の天井は無機質にそして硬質に、突き抜けて高かった。反響する音の粒が、思い出の残滓に似ていて落ち着かない。美知香はいつも結い上げている髪を、今日は下ろしていた。五月晴れの陽射しが、白い床に乱反射した。花粉症が深刻で目を擦りすぎたからか、瞳が濡れたままだった。

    「じゃあ、行くからね」

    美知香が、少しだけ気の抜けたような声で言った。ネイルを際立たせるために伸ばしている爪が、今にもパスポートを落として失くしそうだと思った。

    「付き合ってよ」
    「冗談やめて、すぐ果てるくせに」

    ——ホテルでどの夜も決まって、このやり取りをした。お互いに乱れ、子供みたいに果てて眠りそうになった時間、僕はいつもそう言った。僕から彼女を家に呼ぶ時は、紫葉がいない夜だった。だけど、美知香が僕を呼ぶ夜はいつも感情が読めなかった。仕事が順風満帆なとき、彼女は連絡がつかない。なんとなく彼女にも誰かが隣にいないと泣きたくなる夜があるんだと思っていた。それでも、記憶を遡れば彼女は、会うたびにブラの模様を変えてくれていた。

    「そっか、君はちゃんと最後まで」

    目を覗きながら、僕はなんとなく言った。

    「何言ってんの。てか、普通さ搭乗口までは男がスーツケース持つもんだよ」

    そう言いながら、彼女は僕の頬を軽くつねってきた。指輪をした手でそれを制しながらも、言い返す言葉は無い。会話も冗談もなくなって、沈黙が絡まった。立ち食いそば屋のサラリーマンたちの背中を、ふたり見るともなく見つめた。もう行ってしまうんだと思った。さよならを言われる前に、身勝手に抱きしめた。

    「またね」
    「そういうの、似合わない」

    スーツケースを代わりに持ってあげようとしたら、「いいよもう、気にしないでさっきのは」と言って駆けていった。その背中は、どこかウサギに似ていた。彼女が僕にしてくれたネイルも、ウサギさんだった。幾度となく彼女の冗談には付き合ってきたが、その経験のどこにも属さない後味が残った。突き放されたようにも、救われたようにも思った。僕はただ目線を上げて、青を探した。

    第二章『シヨウ』

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    公園にピクニックに行きたいと彼女が唐突に言い出したので、思わず舌打ちをしてしまった。パーソナルジムを立ち上げるために、奔走している時期だった。不動産屋が提案してくる物件はどれも駅からのアクセスが悪く、パーソナルジムをオープンするのに適した場所が見つからなかった。筋肉痛とはまた違う、チクチクとした痛みと焦燥が駆け巡っていた。両親に「お前は一体何になりたいんだ。筋肉ばっかつけて中身はずっと高校生の時から変わらない。こんなことなら産まないんだった」と言われたばかりだった。身体がデカくなって臆病な心もどうにかなると思っていた。それでも、街に出たら俺は脇役だった。銃声のような音を鳴らしながら走る車が通ると、いつも胸がドキドキした。殺されるわけがないのに、大きな死の気配が胸に迫った。

    「いい加減にしろよ。ピクニックしたいなんて発想はどこから湧いてきた? 見てわかるよね俺が忙しいこと。計画が全部頓挫してほしいって思ってんだろ。なぁ、俺の筋肉そのものをお前は信じてないだろ。努力じゃなくステロイドで獲得した肉体だってな」

    ダイニングテーブルを踏み越えると言わんばかりの体勢で激昂した僕を見て、明らかにシヨウは引いていた。やってしまった。そう思っても、もう遅かった。暴風雨に曝された桜のように、全てが散ってしまった。

    「なんで……なんで、そんな話になるのよ!」

    か細い声で第一声を発し、そこから絶叫にも近い声色で彼女は怒鳴った。完全に俺が悪者だった。後悔してももう遅くて、シヨウは髪を振り乱しながらトイレに立て篭り、この世の終わりみたいに泣き叫んでやがて静かになった。

    幼少の時分に移されたウイルスのせいだと思った。まだ名前もついてないほどの人間関係破壊クラッシャーウイルスが、俺の体内を巡っていた。

    その日の午後、一人で公園に行き、ボールのリフティングを練習した。風が強くて、なかなか回数が伸びなかった。それを動画に収めて、「バカみたい」ってシヨウを笑わせたいと思った。だけど、途中で年季の入ったボールにひっそり書かれていた所有者の名前が目に入り、僕は釘付けになった。そこには、ショウという名前が書かれていた。

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    北風が帰る場所を求めるように強くなり、空の日が傾いてきていた。薄く白い三日月が、遠くから僕を眺めている両親を思わせた。小学生の頃だけ、サッカークラブに入っていた。だけど絶望的にセンスは無く、僕の方から親に「ごめん。サッカーのセンス、無さそうだから辞めるね」と言った。それまで練習相手になってもらっていた父親には申し訳なかった。それでも、クラブを続けた先のゴールがどこにあるのか、僕はそれすらも難しく考えていた。

    家に帰って、ダイニングテーブルに積まれたタッパーが目に入った。そして、その手前には空になったマヨネーズがあって、テレビから報道特集が流れていた。屋根を一定のリズムで叩く音があって、雨が降り始めたと気がついた。だけど、それを見越したように、洗濯物は今日は室内干しだった。それでも、いや、それだから僕はわかった。この部屋のどこにも、ショウは見当たらない。どこかへ、行ってしまった。

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    第三章『カナエ』

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    いつも通っていた24時間ジムの受付に、正面の緑色の不思議な壁と常ににらめっこしている子がいた。レンタル品のタオルを借りに行く時、はたまたシェイカーやサラダチキンを購入する時、「カナエ」と胸に書かれたその子は自分で使わないクーポンをいつも俺にくれた。

    「これ、お兄さん良かったら」

    当初、僕はこのやり取りがマニュアルによって仕組まれた色恋で、キャバクラ的な発想で売上を伸ばそうとしているオヤジ共の顔が浮かんでいた。このままではカモにされる。そう思ったのも束の間、受付の顔が変わった。

    「どうしていつも、クーポンくれるんですか」

    それすらも聞けなかった。周りでも、何人かの男が、その子のことを噂していた。オヤジ相手に美人局をやっていて検挙されたらしい、職場の金庫から札をしょっちゅう抜いてたらしい、振り込め詐欺の受け子だったらしい、自分を孕ませてきたホストを非常階段から突き落としたらしい——。どれも滑稽だけども悪意がある、冗談としても面白くない噂ばかりだった。

    それから数週間後、僕は競馬場に出掛けた。気分転換、というわけではなかった。胸の奥にカナエの不敵な笑みが、途方もなくわだかまっていた。馬が特段好きというわけでもなかったけれど、その日の予想には自信があった。どうしてかは、今でも説明できない。

    トイレを済ませてから、売店で生ビールを買って、外に出た。昨日は雨が降って、ダートは『重』の表示だった。パドックで、その馬と目が合った気がした。あの受付の女に見つめられた時と、同じ反応を僕はした。客席はまばらで、言葉を選ばずに言えばその日は賑わっていなかった。僕が推していた馬は、まっすぐゲートに入った。勝利を確信してしまうほど、軽やかな足取りだった。白い毛並みがたなびく、中山11R。

    スタートした。颯爽と走り出したその馬は、逃げるというほどでもなく、丁度いい位置取りで先行争いには参入している。どの馬よりも内枠ということではなかったが、カーブでも不利にはならない比較的当たりの枠順だった。レースは3コーナー手前にさしかかり、勝負に少し動きが出てきた。しかし。

    少しずつペースが上がってきた僕の賭けていた馬が、突如として身体を震わせた。何が起きたのか、わからない。だけど、その馬のちょうど視線の先で、あまりにも眩い閃光のようなものが現れ、進行方向と真逆に突き抜けたことは分かった。それは、一瞬だったけれども確かなことだった。客席が、静まり返る。かと思えば、ざわめきが波のように僕たちを飲んでいく。見れば馬が、僕の応援していたその馬が、騎手を振り落とし、大きく暴れて、逆走していった。

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    誰も止められないスピードで、跳ねながら駈けていった。もう誰も止められないという現実だけがピリピリと脳天に響いて、僕の手からビールが落ちた。麦芽の香りが、とんでもなく臭かった。僕の応援していた馬、カナエスタミドールは、のしかかった全ての期待を投げ出して、——飛んだ。僕の足元に、何枚か紙が落ちている。件のジムのレシート、そしていつもらったか曖昧なクーポン。ぐっしょり、濡れている。

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    ——Interlude——

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    身から出た錆だと言えばそうなのかもしれないけれど、自分が幼稚園児だったころ、砂場を独り占めしていたらなんとなく頭がおかしくて怖いやつだと思われて、誰も近寄ってこなくなったからこっちからも誰とも話せなくなったことがあって、休み時間はそれでよかったけど教室の中でペアでワークをやるなんて先生が言い出した時には地獄で、膝に擦り傷ばかり作っていた子と組まされてはいつも顔を引っかかれるのに、毎回最後にはなぜか僕が悪いことになっていたものです。

    小学校に入っても中学高校でも、僕は人が怖いままでした。自分の気に入った写真を持ってきて絵を描く授業で、どこかの紛争地域でグチャグチャになったと思われる幼児の写真を持ってきたしんごという生徒は、それを元に絵を描いても何も言われなかったどころか褒められていました。でも彼は、その写真を僕が給食の残飯を食べている時間に見せに来て、僕が精神的に辛い思いをするとわかっている言葉をかけ続け、嫌がらせをしてきたのです。おまえはじきにこういうりふじんにまきこまれてしぬにきまってる、かおがきもいしやきゅうがよわいし、おまえのかおはさかなのうろこみたい。ほしょくされたら、いいのに。きたないおじさんに、くちゃくちゃ、ぐちゃぐちゃ、そうやってさ、ほら、ためしてみたりもしてさ。

    グサッ、

    ——そんな音がして、なんか温かいと思えば壁に反射した鈍い光と、誰かが吹き鳴らすリコーダーの音がやけにくっきり飛び込んで、僕は鳩尾に目をやって、フォークが刺されてることに気づいて、当然だけど大量に出血とかはなかったけれども白いTシャツ、大きく数字がプリントされた部分の穴に、ちょうど赤くなって、それが模様みたいで。痛くはなかったけれど、痒くて、悲しくて、恐ろしくて、噛まれたみたいになったその部分にガムテープを貼りました。まるで濡れ場前の俳優だったな。今ではそんな風に茶化せるけど、子供の頃の記憶はそれ以外にありません。他を忘れてしまったから、これだけを笑える話にして、いつでも取り戻せるように、その時の生々しい感情を冷凍保存しているわけです。後にも先にも砂を噛んだような劣等感を味わったのはあの時だけで、僕は風の冷たい夜には昆虫の図鑑を眺めたりして、その嵐の中に身を置きながら、正論が耳に入ることのないように、時計じかけの愛にじっと顔を埋めていたのです。

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    ドアが叩かれているので、一時中断。
    今日の話はここまでにさせてください。僕はいつ何を頼んでいたっけ。マウスウォッシュかな。取りに行かなきゃ。取りに、行かなきゃ。

    第四章『コトネ』

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    内覧に来ていた女は、はじめから僕の輪郭を外して立っていた。こちらを見ていない、というより、視界のどこにも僕を置いていないような立ち方だった。彼女は壁の向こうで鳴っているはずの音を、耳でなぞるようにして受け止めていた。空のテナントは、何もないぶんだけ音に居場所を与え、僕が一歩踏み出すたび、わずかに遅れて同じ形の足音が背後に生まれた。

    「ここ、音がきれいに返ってきますね」

    女はそう言って、天井を見上げた。照明は落ちているのに、外光が薄く回り込み、骨組みだけを浮かび上がらせている。

    「ジムにするつもりなので、音はそんなに」

    「でも、リズムで身体って変わると思うんです」

    言い終えると、彼女は何もない床でかかとを軽く鳴らした。乾いた音が、奥へ奥へと転がっていき、見えない壁にぶつかって戻ってくる。

    「……名前、聞いてもいいですか」

    「コトネです」

    ほんの一瞬だけ口元がほどけ、すぐに元に戻った。そのとき彼女がどこを見ていたのか、結局わからなかった。

    不動産屋が説明を続けるあいだ、コトネは壁際に寄り、空気を叩くような指の動きで音の輪郭を確かめていた。僕は配られた資料の賃料欄ばかり見ていた。数字はどれも似通っていて、違いはあるはずなのに、見分けがつかない。

    「ここでやるんですか、ジム」

    「ええ、まだ探してる途中ですけど」

    「音楽と合わせたら、面白いと思います」

    「音楽?」

    「テンポに合わせて動くと、余計なことを考えなくて済むから」

    余計なこと、という言い方だけが、妙に引っかかった。何が余計なのかは、聞かなかった。


    そのあと、近くの店でコーヒーを飲んだ。昼と夜のあいだに落ちたような時間で、客はまばらだった。氷が溶ける音だけが、やけに大きくテーブルに残る。

    「普段、どんな音を聴くんですか」

    「色々ですけど……同じのを繰り返すことが多いです」

    「飽きないんですか」

    「飽きる前に、別のものに聞こえてくるので」

    コトネはストローを指で回しながら言った。グラスの中で水が円を描き、かすかな渦がほどけていく。

    「それ、どういうことですか」

    「同じでも、少しずつ違うじゃないですか」

    そう言ってから、ほんのわずか間を置き、こちらを見た。初めて目が合った、気がした。

    「人の話も、そうですよね」

    言葉が出なかった。返すべき場所が見つからないまま、沈黙だけが残った。


    別の日、もう一度だけ会った。候補にしていた別の物件の前で、偶然という形をした再会だった。彼女は偶然だと言ったが、どこかで時間を合わせられていたような気もした。

    「決まりそうですか」

    「まだですね」

    「ここは、ちょっと音が硬いかも」

    コトネは壁を軽く叩いた。鈍い音が短く鳴り、すぐに途切れる。

    「硬い?」

    「跳ね返り方が強いから、疲れそう」

    僕も同じように壁に手を当ててみたが、違いはわからなかった。ただ、冷たさだけが手のひらに残った。

    帰り道、駅まで並んで歩いた。夕方の風が少し強く、看板が同じ高さで揺れては鳴り、いくつもの似た音を重ねていた。

    「海、好きなんです」

    コトネが唐突に言った。

    「海?」

    「行ったこと、あまりないんですけど。ずっと同じ音がしてるのに、ずっと違う感じがして」

    さっきと同じことを、少しだけ言い方を変えているように思えた。

    「今度、行きませんか」

    口に出してから、自分でもわずかに驚いた。理由は、とくになかった。

    コトネは少し考え、それから首を横に振った。

    「ごめんなさい」

    「なんでですか」

    「行っても、たぶん違うものを見てると思うので」

    ——意味は、掴めなかった。


    改札の前で足を止める。人の流れが一瞬だけ途切れ、すぐにまた繋がる。

    「あなた、ちゃんと見てないですよね」

    コトネは淡々と言った。

    「何がですか」

    「全部」

    短く、それ以上は続かなかった。

    「目はこっちにあるのに、違うところを見てる」

    言われて、内覧のときの自分を思い出した。数字ばかりを追っていた。

    「……そんなことないと思いますけど」

    そう言うと、コトネはわずかに笑った。肯定でも否定でもない、どちらでもいい、という顔だった。

    「そう思ってるなら、それでいいです」

    彼女は改札を通り、そのまま振り返らなかった。


    それから連絡は来なかった。こちらからも送らなかった。名前を打ちかけて、途中で消したことが一度だけある。どういう漢字だったのか、急にわからなくなったからだ。

    帰り道。コンビニで野菜のパックを見た。「抗酸化」と書かれていて、意味は知っているはずなのに、どう効くのかは説明できない。

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    店を出ると、遠くで同じ音が繰り返されていた。工事なのか、踏切なのか、判別がつかない。しばらく耳を澄ませていると、わずかなずれが混じりはじめ、違う音に聞こえてくる。

    同じなのに、違う。

    それが本当にそうなのか確かめる前に、僕は歩き出していた。

    【第五章】無題

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    今年は桜の開花が例年より幾分早まり、その分散るのも驚くほど早かった。僕はこの頃眠りが深くなって、ジムの開業は遅れに遅れ、ガールフレンドとして僕のすり減った情緒を補い、ぎりぎり正しい道に導いてくれそうだった素敵な女性たちもみな、一様に姿を消してしまった。だけどそれは裏を返せば自分が彼女たちから姿を隠して息を潜めているという状態にも他ならず、マウスウオッシュはいつまでも届かなかった。

    桜が早く咲いて散ったように、僕を取り巻く小さな世界は倍速で進みゆき、急にパタリと透けてしまう。ベンチプレスでバーベルを上げる。前までは100キロなんて余裕だった。だけど、今では潰れることも多くなった。月が出た頃に買い物に出て、プロテインパウダーやブロッコリー、卵を値段も見ずにカゴに入れて、レジに行って、少し財布の額では足りないことに気づいてバーコード決済でなんとかそのピンチを乗り越え、スーパーを出て、道中で自分がヨーグルトを買い忘れたことに気がついた。つまらない音楽が流れていたせいで、買い忘れという余白を探し当て、喜ぶこともできなかったのだ。恨めしかった。次第に狭くなっていく世の中が。

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    自室まで帰る時、今までも散々通ってきたフロントに、熱帯魚の水槽が置かれていることに気がついた。その中の一匹が死んだようにひっくり返っていたので、僕は手を合わせながら目を瞑った。そうしたら、それはただ眠っていただけだった。指先を硝子に近づけると、揺れる藻を器用に避けながら突進してきて、口をパクパクさせながらぶつかった。僕は泣いた。あるいは笑った。たくさん笑いながら、たくさん瞳を濡らした。波の音がした。耳の外で鳴っているわけではなく、それは僕の内側で、鳴っていた。

    買い物から戻った後、ぼんやり僕は街の人々に違和感があった。今日すれ違った人はみな、何かの仕掛け人のようだった。悪いことを企む顔ではないけれど、みな好奇心の奴隷になってしまったように顔をニタニタとさせていた。ツギハギでできた世界に、旅をしに来た異星人のようだった。散らかった部屋で考え事をするのは、随分と久しぶりに思えた。僕は流しでタッパーを洗った。シェイカーも洗ってそのままプロテインを作り、飲んで直後に吐き下した。ひどい味で、安い味だった。同じものを買ったはずだったのに、見慣れないパッケージが目に入った。冷蔵庫の唸りが、どこか馬鹿にして笑っているみたいだった。エアコンの送風口から水が垂れてきて、頭がおかしくなりそうで、注射器を手に取った。闇雲にその針の先を腕に突き刺し、薬を注入した。罪に縋りながら、乱れたリズムで息をしていた。

    僕はそのまま、長いこと眠ってしまっていた。ミルクを飲みたかった。母の乳。女の肌の柔らかさを一心に受け止めながら、たくさん大きく育ってねと言われたあの頃が、最も人生の中で人に優しくされていたはずの、愛されていたはずの時間が、器からすべてこぼれてしまったようだった。時計が止まっていた。その時間に、僕の嘘が刻まれているような気がした。案外、まだ吐ける不幸の連鎖がそこにあった。誰かを空港で見送った日、僕は僕ではなくなった——、そんな気がしなくもなかった。昔の話だ。今はもうない。ひとが誰かの生きていた一コマを一緒に生きたという真実は、その両者が定期的にそれを思い出して、定着させ、所有する権利を伸ばし続けなければ、有することができないように思う。相手からその瞬間が欠落したら、僕はそこにはいなかったことになる。そこに僕がいなかったと仮定するならば、僕はここにもいないことになる。

    ……思い出した。街の人々はみな、胸元に『最愛の人』の名前を書きつけたシールを貼っていた。それはどうやら東京都が頒布しているものだったようで、都のマークが描かれていた。あれがあることによって、人々は不安や疑いから解き放たれているように見えた。夕飯に出るビーフシチューを、週末に待っているディズニーを楽しみに生きているようだった。だけど、その楽しみが消費された後には何が残るのだろうか。虹がいつまで出ているのか、分からないのに。

    僕はコンシェルジュを呼んだ。そのシールなのかワッペンなのかを、取り寄せてもらうことにした。それでも、拭えることの無い思いがずっと滞留していた。部屋に飾られた絵画、その下にある『無題』という題のように。テレビにかつて好きだった人が出ていても、もう僕の心は動かない。

    【第六章】無性にいとしい

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    久しぶりに部屋のカーテンを開けた僕は、その向かいに視線の先に新しいタワーマンションが建設されていく様を眺めた。世界に関心を無くしたような独りよがりで傲慢な建設の音が、ドリルの音が、何か不穏な気配すら感じさせるまっすぐな入道雲に穴を開けてしまえばいいと思った。繁栄を象徴する宝箱のアップリケ。地面の下に追いやられた電線と柱。僕はずっと迎えを待っていた。来る日も来る日も待っていた。あまりに汚れを蓄積して変色したYシャツを、漂白してほしいのだった。タッパーに残されていた作り置きを、この世で最も醜い方法で処理した日の午後、ここから立ち去ってほしいと働きかけがあった。ホテルの支配人からである。僕はそんなことよりテレビにたびたび生じるノイズをどうにかするのが先だろ、職務放棄すんなよ、と満面の笑みで返した。魚は死んだ。ロビーにいた雑魚。鰭の内側を器用に使って、僕を抜いてくれたこともあったのに。残念だ、そんな短命で儚いものとは知らなかった。すごく大きい太陽に雲が覆いかぶさり、僕は途端に萎えた。ウェットティッシュを持ち、エアコンの上に溜まった埃を掃除した。まるで賢者タイムか事後みたいだと思った。そこで、長い長い雨が降り出したのだった。日本で観測上最も長い雨。渋谷がまさかあんなことになろうとは、この時誰も想像していなかった。

    【第七章】水際

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    風の音が止まないことを少し不思議に思いながら、僕は部屋でただその一週間、眠るだけの身体になっていた。蝶番が軋むような耳鳴りと頭痛は、なかなか快方に向かってはくれない。それでも、一週間前のあの日のように、僕は痺れた指を自覚しながらカーテンを開けた。そこで、気がついたのだった。雨が長期間ずっと降っている。もう一週間から十日ほどになるだろうか。マンホールが見上げるような高さまで噴き上げられ、道路標識に捕まっている人がいて、目がひどく虚ろだった。異常気象。緊急事態。そんな放送が、途切れることなく響き渡っているのは、誰かに向けてのはずなのに、街に人の姿は無かった。ネジを巻くような音に反応して引っ張られた視線が、近くにあった電信柱に止まった。そこに待機ステイしている鴉の横で電線がショートを起こして、火花が散っていた。もう夏なのか、と少しだけ焦る気持ちになった。サイドテーブルの上、湿気ったナッツがやけに汚いものに見えた。それでも、僕は呼吸を確かめた。溶けるようなキスを、燃えるような抱擁を最後にしたのはいつだったろうと考えた。僕は思い出せなかった。

    部屋に電話がかかってきたのは、僕がパスタを茹で終え、ソースはたらこか和風醤油かカルボナーラのどれを和えるかで迷っていた時だった。電話口の男(フロントマンだと思ったが、彼は変声期の中学生のような声だった)は、開口一番にこんなことを言った。

    「世界が変わった、君は外へ出ていくべきだ」

    僕は問い返した。なぜ?
    きっと会ったこともない、一緒にテニスをプレーしたこともない、どこの馬の骨かも分からない男にそんなことを言われる覚えはないと、そう考えた。

    「とにかく、君はまず雨に洗い流されてもなお、買い物に向かうことで明日の自分への解像度を上げる。その未来が、歪められては困る。困るというのは半ばウソだけれど、それでも君、わかるだろ? そういうのが大事なことで、本質なんだよ。君はきっと気がついてる」

    バナナの皮も剥けなさそうな頼りない声で、そんなことを言われて腹が立った。僕は電話の回線を切ってしまおうかと思ったが、備品を壊すわけにはいかない。溜め息をついた僕は、部屋に転がっていたハイネケンを空けながら言った。

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    「あのね君、僕の未来をそうやって勝手に決めつけないでくれないかな。まず会ったこともないだろうに、つまらない陰謀論はオカルト誌の編集者にでも聞かせてくれないか。僕は君の話を聞きたくない。午後のビールがまずくなるのはよしてほしい。だから僕からの提案はこうだ。君は今から僕が出題するいくつかのクイズに答える。5問か4問出してやる。だけど、間違えた瞬間に君は君自身でこの電話を切る。僕は悪者になりたくないからね。それでも、僕の現実よりも面白い回答を君が頻発したなら、その時には一番僕が気に入ってる靴下のブランドを教える。どうだ君、異論はあるかい?」

    電話の男は、めんどくさそうに、あるいは投げやりに「いいえ、やりましょう」と言った。僕はどうせやるなら、徹底的に赤っ恥をかかせてやろうと思っていた。

    「じゃあ一問目。俺はミニシアター系の映画を愛しているが、その中で最も好んでいる東京の映画館はどこだと思う?」

    「シネクイント」

    男は迷うことなく言った。僕は耳を疑った。

    「……正解。なんで分かった」

    「ええ、ええ、分かりますそのぐらい」

    不思議に思いながらも、僕は出題を続けてみることにした。

    「二問目。俺が一番好きな煙草の銘柄は?」

    この出題に、男は少し困ったようである。ここで少しだけ押し黙った。んー、んーと唸る声の奥で、何かやかんが沸騰しているような音が聞こえる。

    「マルボロとかhi-liteほど王道を選びそうではないな……。かといってキャメルとまではいかないだろうし……」

    「……HOPE?」

    僕はニヤけた。2問目にして、彼は選択を誤った。これで平行線で目的不明の会話も幕引き。そう思ったとき。

    「——いや、違ったな。今のはテストだ。君はPeaceを吸っているだろう、しかもロング」

    少し卑怯なトリックを使ってきたのかもしれないと思った。それでも、ここまできて僕の方から撤退するというのもおかしな話で、ここで引くことはできなかった。

    「第三問。月に一度、近所にあるベーカリーで俺はクイニーアマンを食べた後、バスに乗って、檸檬の模様があしらわれたワンピースを纏う女の子の犬の散歩とすれ違ったりしなかったりしながら、墓地に向かう。そこで俺は誰をお参りしに行ってるのだろう?」

    少し難しくしすぎただろうか。僕の問いかけに対して、電話口の男は「うむ」と言ったきり、言葉を発さなくなった。僕はやれやれと思いながら、冷凍庫に入っているレディボーデンを取り出してきて、スプーンで掬って食べた。意地悪な質問だったかもしれない。僕はお墓参りというものに自分の意思で行ったことがないし、最後にそういった場所に足を運んだのは、まだ物心つく前の出来事だったはずだ。ちょうど今読んでいる文庫本にそんな場面が出てきたからクイズにしたまでだったが、そこまでして相手をハメたかったかと言われればそうでもなく、優勝したところで喜びどころも見つからないこの形式は、そもそも初めから破綻しているのでは、と僕は——。

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    「お墓参りなどというものに、君は行っていないだろう。つまり、大切な人を喪ったりなどしていないんじゃないか、まだ」

    突如として発された声にビクッと身体を震わせ、僕は血の気が引いていくような気になった。そんなはずがない。まだこうしてホテル暮らしを始めていない頃、家族がスピリチュアルに傾倒し、占星術師の先生の元に週の半分以上通っている時期があった。そして、部屋にはありがたそうな言葉を認めた書き初めの半紙がいくつも貼られるようになった。 「引き寄せ」や「次元上昇」などの単語から始まり、「シンクロ発幸福アクション」「チャネリング強化」「今年は高次元存在に」などという薄気味悪いスローガンに変貌していった。そして、僕は家族共有のパソコンの検索履歴を見て、彼らが自分に隠してコソコソと何かよからぬことを企てているのを悟ったのだ。「涅槃」「隧道」「煉炭 事件事故」「睡眠薬 市販薬 代替」「ガムテープ 業務用」。これらの字面を見て、違和感、それは確信に変わった。

    たまに庭に迷い込んできた野良猫に、僕は餌をやっていたことがある。今日のような雨の日、その猫と窓越しに顔が合った僕は、いつもとは違う何かを訴えるような猫の表情が気になった。誰もいないリビング、柿の種を食べていた。招かれるようにして、猫についていった。使い古したビニール傘は道中で折れ、それでも僕は歩いた。不良の溜まり場になっているから地元住民もあまり近寄らない、隧道の前で猫は歩みを止めた。暗くて目が慣れるのに時間がかかったが、奥に少しだけ漏れたような光が見え、不登校の学生たちが中から出てきた。何かを相談している。「どうする? 110番に一応かけてみる?」と言っているのが聞き取れた。僕は鳥肌が止まらなかった。そして——、僕は中を確認せずに、全速力で逃げ出した。それからの5年間ほど、僕は記憶がない。

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    「……せい、かいだ」

    思わず声が上ずった。筋肉痛を起こしたように硬くなった喉仏が、僕の恐怖を体現していた。急にこめかみに銃を突きつけられているような、そんな気分になった。

    「やったぁ」と電話口の男は言った。僕は呆然としながら、宙を仰ぎ、溶け始めているアイスの表面を、そこに生まれた無数の気泡を見つめた。

    「……なぁ、最後に俺からクイズ、いや、質問をさせてもらえないか?」

    ——ええ、いいですよ、もちろん。何問でも当ててみせます。こうして電波が繋がっている限り。

    「いや、一問でいい。もう疲れた。早く眠りたいんだ。お前にとって俺はどう映ってる? 加害者に見えるか、被害者に見えるか、あるいは……。いや、やっぱり変える。俺は、ハンドルを握ったら性格が変わりそうだと思う?」

    ——ええ。
    男は即答した。僕は顎が外れるほど驚いて、そして膝から崩れ落ちた。顔も見たことのないお前なんかに、俺の何が分かる。初めはそう思っていたけれど、クイズに全問正解されたのは曲がらない事実であり、現実だった。

    「どんな手を使ったんだよ。気持ちよく負けてやったんだから教えろよ」

    ——負けてやった? 君は何の性懲りもなく勝手に過去を思い返して暗くなっている。頭を掻きむしって、とんでもない形相を浮かべている。見えているんです、私は。全て、見透かしているんです。

    僕は反射的に大声を出していた。
    「不快だよ、訂正しろ! それか今すぐに電話を切れ!」

    男は乾いた笑い声を漏らしながら、言った。

    ——抵抗は無駄ですよ。私から逃れるなんて、君にはできない。君は私を好きだったんだから。私も君のことが手に取るように分かるから。諦めて旅に出てください。いや、出なさい。

    電話は切られた。僕は本当に相手のことを知らなかった。怒鳴りたい気持ちが、向かう場所を失った。癇癪を起こしそうになり、慌ただしく立ち上がった。もう眠ってなどいられない。拳を握りながら窓の外を見た。そこに、湖があった。

    ……渋谷に、湖ができていた。

    僕は入室伝票とルームキーを持って、部屋を出ることにした。間接照明の灯りを消して、乱れたリネン類を「最後くらい」と口に出しながら整えた。休憩の退室時間は、数年前に過ぎていた。超過料金をいくら取られるのかとソワソワしつつ、スリッパを脱いで靴に足を通した。

    時間が止まっているかのように静かなホテルの廊下を抜ける。今にも壊れそうな挙動のエレベーターに乗り込んで、フロントへ向かう。フロントには『ただ今清掃中のため不在』と貼り紙がされていた。僕は仕方なく自動精算機のスキャナに、伝票をかざした。

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    【こちらのお会計は精算済みです】というポップアップが出た。なぜ? 意味は分からなかったが、払わなくていいようなのでそのまま出ていこうとした。だけど少し、躊躇いが生じた。仮に誰かが代わりに支払いをしていてくれたとしても、僕はこの施設にたくさんの面倒をかけ、時間を無視した。チップではないが、気持ちを置いていこうと思い、鉢植えの横に一万円札を置いた。自動ドアから外に出て、最後に一度振り返った。フロントから水槽が撤去されていること以外、何一つ変わったことはなかった。


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    渋谷・道玄坂は湖になっていた。僕は止まない雨に降られながら、変わってしまった世界を見下ろした。人が驕りすぎた末路かもしれない——、神が我々に下した天罰かもしれない——。そう考えるのは、簡単だった。それよりも、この雨を防ぐ方法を知りたかった。

    平均的な商業ビルはそのほとんどが、湖の底に沈んでいた。渋谷で一番大きなビジョンから、『不要不急の外出を控えるよう政府が要請』『未曾有の災害』などというアナウンスがたびたび流れてきた。僕は湖の、畔と呼ぶには荒々しすぎるその外周を歩きながら絶望した。

    日本という国は、このままどうなってしまうのだろう、と考えた。センター街まで辿り着くと、そこはただのシャッター街になっていた。土のうがこれでもかという程積まれ、僕はこれが〝水際対策〟なのかと実感した。人が全く歩いていない。

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    スクランブル交差点は川のようになり、109が避難場所になっていた。総理大臣が、変なツナギを着て会見をしていた。僕はその中でさえ、井戸を探していた。靴はビチャビチャになり、秒で靴下まで浸水した僕は、何もかもを諦めて裸足になった。上空で、気象庁と日本政府が協働で飛ばしたヘリ数機が、プロペラからものすごい音を響き渡らせていた。後ろめたい存在として歩く僕は、社会の必要悪になりたいとさえ思った。

    僕は夜になっても歩みを止めずに進む。ここはどこだろう? 分からないのに、世界が終わることだけはなぜか分かって、受け入れながら歩いている。誇れるほどに何も成し遂げていない僕でも、こんなに道の真ん中を歩けるのか。感動と同時に、何かが胸につかえてくる。信号機の原色の灯りは、湖の水面を彩った。赤色、青色、そして黄色。その色の全てを僕は笑ったが、同時にその色の全てに僕は塗れた。

    看板が流されている湖、
    僕はそれを掻き分けながら更に奥へと泳いだ。

    ——Interlude—— 水無月、紫葉

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    僕が今でも思い出すのは、夕凪の街の長い坂の上で、紫葉という女ひとをバスに乗せて、見送る瞬間のこと。彼女は黒のキャミソールに薄いレースの上着を纏っていて、下はミニスカートを履いていた。麦わら帽子を被りながら変な表情をして、時折僕を笑わせてきた。夏至のことだったと思う。太陽がバカみたいに長く照っていて、アイスがすぐに溶けた。僕らは、二時間に一本しか来ないバスを待っていた。退屈そうにしていた彼女は、蜃気楼の中で踊ってみせた。

    僕はまるで明治時代の駅舎のような趣のあるバス停で、そこに飾られた知らない人の家族写真を眺めていた。写真はひどくボヤけていたが、それでも誰かが大切にしている想い出であることだけは、そこに写っている人たちの顔から伝わってきた。どこかから、火薬の匂いが漂った。僕はバス停の外に出た。

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    紫葉が僕の元に駆けてきた。何かを言っているが、蝉の鳴き声がうるさくて、一音も聞き取れはしなかった。それでも、ただシンプルに愛おしいと思って、僕は彼女を抱き寄せた。昔から、この匂いが好きだった。久しぶりに、こんなにちゃんと向き合えたかもしれないと感じた。

    向日葵が揺れるのを眺めながら、僕たちは唇の感触を確かめ合った。誰も見ていないのに、時々僕が彼女をからかって、「あ、ヤバい」などと見られた風な演技をすると、「ねぇ〜なに!」と頬を膨らませて彼女は跳ねた。

    美しいと思う時間が、あの頃そばにあった。失われてしまったのは、とても悲しいことだ。それでも、失われたことを疑ってしまうのは僕の独りよがりかもしれない。

    「さよなら」

    お別れの時間は、思った以上に早く訪れた。

    バスが来て、彼女だけがそれに乗った。
    僕は手を振りながら、溢れそうな思いを必死に抱きしめていた。紫葉の美しい瞳が、見たこともない輝きで満ちていた。彼女が何度もバスを降りようとするから、その度に僕は首を横に振った。
    泣いてしまいそうだった。

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    夏祭りの帰りだったかもしれないし、彼女はお見合いに行くのかもしれなかった。今となってはそれも、水に飲まれたように思い出せない。バスが発車してしまうと、僕は坂道を下った。何度か振り返った気がする。振り返らなかった気もする。

    【最終章】夕霧無常

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    渋谷の大きなビジョンの、そのスレスレまで水面が迫っていた。僕は被災者の名前が流れる放送の中に、コンシェルジュの名前を見つけた。夕方の空が渋谷の湖にマーブル模様を描くように混ざり合う景色が、まるで美知香が描いたペイントのようだった。僕は彼女のギャラリーショップ(あれも今思い返せば渋谷のこの辺だった)で買ったスマホカバーを今も使っている。思わず目の前の景色にかざせば、それは一瞬にして同化して、空を透かしてしまった。

    僕は泳ぎながら、井戸を探した。見つけても意味なんてないかもしれない。その可能性の方が割合として大きいのに、僕はもうその目的の他には何も考えられなくなっていた。

    渋谷区役所も既に、沈んでしまっていた。
    沈んでしまったけれど、行政の職員たちは、いち早く逃げて命を取り留めたらしい。

    気づけば3時間以上泳ぎ続けていたことに、悲鳴を上げ出した腕と肩、脚の疲労で気がついた。それでも、水面に浮かぶワッペン、東京都が配った『好きな人』『最愛の人』を自己開示するワッペンを見て、元気が出てきた。この惑星にいる、溢れるほどの男と、溢れるほどの女。妊娠や生理が無い男を女は憎しみ、デート代を払う必要がなく、身体を売れば金を稼げる女を男は批判する。SNSでは日常茶飯事だ。「自分もそっち側だったら良かったです」などと丸くなることを要求される世の中でも、最後には誰かが誰かを愛しているのだと、当たり前のことに僕は気がついた。しかし見渡す限り、色々な名前が水面には浮いている。そのほとんどが粉々に砕け散る片想いだと分かっても、なるだけ多くの人が結ばれたらいいななんて、他人事みたいに思う。

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    ——井戸。それは、夜の帳が完璧に降りた公園のような広い何もない場所で見つけた。だけど、少し遅かった。そこには先客がいた。しかも、見慣れているような感じのする女の後ろ姿があった。僕は霧の中を、静かに、音を立てないように進んだ。第一声何を話そうか、とイメージを膨らませた。肩に手を触れようとした、その時——。

    彼女は霧消してしまった。

    既にこの世の者ではなかったかもしれない。それでも、僕は名前が呼びたかった。

    ……井戸の中から、声がした。

    モワモワモワ、と反響を伴っているので、不気味で仕方なく、僕は鳥肌が立った。それでも、人が倒れている、身動きが取れなくなっている、そんなシナリオが浮かんだので、自然と体が動いた。

    意を決して、僕は井戸の蓋を開けた。

    中を覗き込む。……暗くて見えない。

    それでも、目を凝らしてみた。

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    ——そこには、部屋があった。

    僕が今日の昼過ぎまで、人生を一時停止していたあの部屋が、泥にまみれたような質感で、浮かび上がっていた。目を閉じ、そして逸らした。

    背中に冷たいものを当てられているようで、体が硬直した。楽しそうな笑い声が、どこからともなくこだまして、僕はもう声も発せない。

    記憶を象った偽物が、水面越しに睨んでくる。
    問いかけてくる。

    ————お前は何を愛していた?

    脳裡に書けなかった『好きな人』のラベルが過ぎる。何も見れず預けられなかった自分が、どんな時代よりも厄介であったことに気付かされる。

    不規則に鳴る風の音も、恐ろしく大きい月も、退廃しながら終わりを待つ渋谷も、その全てがワンダーランドの入場待ちのようだ。中では悪夢が待っている。しかし、列を外れれば現実が待っている。運命。そんな言葉が身に染みて分かる。

    消えるもの。それは愛おしい。
    消えたあとに生まれる何かがあるなら、
    それもまた愛おしい。

    「……そうだな、空白を愛していた」

    長考してから、僕はやっと答えた。
    そして、終わる世界への餞に言葉を足した。

    「今からやっと楽しくなるんだ。空白に世界が追いついて」

    明日にはきっと滅ぶ世界で、僕は一番目を受け入れる。受け入れることの意思表示に、わざとらしく目を瞑る。それでも、瞼の裏には美しいシルエットが写って、光が、潮が、そこに満ちる。

    空白に追いつく世界。
    僕はまだ想像ができていないけれど、きっとそこにラベルは存在しない。ただただ温かくて穏やかな霧に、きっと包まれている。

    さよなら。全てのいとしき余白。
    ちゃんと君にまた、血が通いますように。

    【完】

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    QUILL

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    東京の大学生。 【新企画】『The Quest of QUILL』 【代表作】DEAD STOCK

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