自動販売機

二〇二六年五月三十日。
午前三時、散歩に出た。
百二十円ばかりを握りしめ、外へ出る。
これは習慣であった。
「なぜ君はそんなにも恋愛が下手なのかい?」
「いやぁ、下手というわけではないが、どうしてか最近上手くいった試しがなくて」
「毎度それじゃないか。君と関わり始めてからというもの、君が恋愛で成功しているところを一度も見た覚えがないよ」
「醜い一面ばかりを見せてしまっているよ。君からしたら、私は恋愛下手の男だろう」
「そりゃそうだ。恋愛とやらについて語りたがるには、少し実績が足りない」
「次こそ成功するさ」
「前回と同じことを言ってやがる。まあ、君が何をしようと私には関係ないがね」
「そう見放さないでくれよ。悲しいじゃないか」
頭の中で、まだ声だけが鳴っていた。
深夜、外に出るには少しの小銭と煙草が必要だった。
家からいちばん近い自動販売機に百二十円を放り込み、缶コーヒーを一本買った。
いつもなら仲間はずれが一つは居たはずの数字が、今日に限って揃った。
私は少しだけうれしかった。
同時に、煩わしかった。
奇妙な話である。
本来なら、歓喜だけで終わるはずの出来事に、私は素直になれなかった。
私の頭に浮かんだのは、当たりを引いた幸運などではなかった。
直近で最も幸せであった瞬間が、今だった。
ただ、その事実だった。
たかが自動販売機で当たりを引いたこと。
もう一本、缶コーヒーが出てきたこと。
それだけが、ここ最近の私に与えられた最も明確な幸福であった。
そのことが、どうしようもなく腹立たしかった。
私は二本の缶をポケットにねじ込み、歩き出した。
声はもうしなかった。
音のしない住宅街は、人間の跡だけを見せつけてくる。
干されたままの洗濯物。
消し忘れた玄関灯。
誰かが乗り捨てた自転車。
誰かの生活の残骸ばかりが、私よりも確かにそこにあった。
少し落ち着いたところで缶コーヒーを飲もうと、だだっ広いだけで何の面白みもない公園のベンチに腰を下ろした。
缶コーヒーを口に運ぶ。
不味い。
ただ、不味い。
空腹のせいだろうか。
それとも、私自身のせいだろうか。
珈琲を飲むときには、煙草に火をつける。
足元の吸い殻だけが増え続け、空が白濁し、世界が輪郭を少しずつ取り戻していく。
街灯も、眠りにつこうとしている。
私はもう一本の缶を取り出し、しばらく眺めた。
当たりで得た缶は、当たり前だが、一本目と何も変わらなかった。
同じ形をしていた。
同じ重さだった。
同じように冷えていた。
それが、どうにも可笑しかった。
幸福とは、案外この程度の顔をしてやって来るのかもしれない。
だが、この程度の顔をしてやって来られても、こちらには受け取るだけの準備がない。
私はその缶を開けなかった。
私には、帰る理由が必要だった。
結局、開けていない缶をポケットに戻し、来た道を引き返した。
家に帰る理由としては、あまりにも頼りない。
それでも、何もないよりはましだった。
六月一日。
クソッ。
また当たりが出た。
これで今週二回目だ。
遂に自販機すらも、俺のことを見放しやがった。

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