
輪郭のない女 第二話
二 確認作業
私の実家は、喧嘩の絶えない家だった。
父と母がいつ仲良くしていたのか、記憶にない。茶碗が飛んだこともあった。怒鳴り声で目が覚めた朝が、何度あったかわからない。私はそのたびに布団をかぶって、息を殺して、早く終わることだけを祈った。
母の言うことは絶対だった。口では反抗した。でも結局、従った。いつもそうだった。反抗と服従を繰り返しながら、私は母の機嫌を読むことだけに神経を使い続けた。
妹は小学校の後半から、学校にあまり行かなくなった。理由は聞かなかった。聞ける空気じゃなかった。家の中でそれぞれが、それぞれの息苦しさを抱えて黙っていた。
自分の気持ちを言葉にする練習を、私はたぶんその家でできなかった。
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大学は、第一希望じゃなかった。
後期日程で滑り込んで、短い期間で見つけたアパートに引っ越した。六畳一間、南向き、駅から徒歩十分。思ったより悪くなかった。
ただ、一人は思ったより怖かった。
実家を出たかったのは本当だ。でもいざ鍵を閉めて、六畳に一人でいると、従う相手がいないことが不安だった。誰かの機嫌を読まなくていい、誰かに合わせなくていい——それは自由のはずなのに、私には空白みたいに感じた。何をしていいかわからなかった。寂しい、というより、自分の輪郭がぼやける感じだった。
入学してすぐ、カースト上位の子たちと仲良くなった。正確に言うと、私がそのグループを作った。それぞれと個別に仲良くなって、引き合わせたのは私だ。明るくて、きれいで、男受けのいい子たち。私はその中心にいた。最初だけ、そういうことが得意だった。初対面の場では愛想よく振る舞えるし、場を盛り上げることもできる。でもそれが長続きしたためしがない。
私はずっとKYだと言われてきた。
空気が読めない。場の雰囲気を壊す。悪気はないのに、なぜかそうなる。母にも言われた。友達にも言われた。自分では必死に読もうとしているのに、どこかでいつもズレる。だから余計に、求められることに敏感になった。求められているときだけは、ズレていない気がしたから。
サークルの新歓で橋本颯太先輩に会ったのは、四月の終わりだった。
ダンスサークルで、実態はほぼ飲みサーだった。颯太先輩は背が高くて、笑うと目が細くなる人だった。それだけで好きになった。十八歳の私には、それで十分な理由だった。
颯太先輩と仲良くなりたくて、同じ学年の村井康介先輩とよくラインをするようになった。接点を作るための計算だったが、話しているうちに気づいたら康介先輩のことが気になっていた。私はそういうところがある。目の前にいる人間に、すぐ引き寄せられる。
康介先輩に呼ばれてアパートの二部屋隣の部屋に行ったのは、五月の終わりだった。ドアを開けたら全員男だった。逃げればよかった。でも私は笑って部屋に入った。場を壊したくなかった。
一気飲みをさせられた。何杯だったか覚えていない。気づいたら部屋の隅のソファに座っていて、隣に浅野壮先輩がいた。その部屋の主で、康介先輩の一個上だった。
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浅野先輩には彼女がいた。
最初から知っていた。でも「もうすぐ別れる」と言われた。信じた。
好きだった。少なくとも最初は。
浅野先輩の言うことがすべてだった。「そういうところが子どもっぽい」「なんでそんな行動するの、意味わかんない」「お前って本当に考えが浅いよな」。会うたびにそういう言葉が来た。おかしいとは思った。でも会うと、なぜかその人が正しい気がした。言われるたびに、自分のほうがズレているような気になった。母に言われるときと、似た感覚だった。
バイト先が同じだった。だから余計に、距離を測れなかった。
浅野先輩は、結婚する相手には専業主婦になってほしいと言っていた。大学のころから、はっきりそう言っていた。私はそれを聞くたびに何も言わなかった。私には到底できないことだったし、そもそもそういう女性像に私は入らないのだと、薄々わかっていた。
気持ちが冷めたのは、二年生のころだった。
好きという感情がいつの間にか抜けて、でも会うとまたあの感覚が戻ってきた。この人が正しくて、私がおかしい、という感覚。それが怖くて、離れることもできなかった。好意とも依存とも違う、名前のつけにくい何かで、私たちはずるずると続いた。
三年生の秋、ある日ラインが届かなくなった。送っても既読がつかない。次に会ったとき、ブロックしたと言われた。新しい彼女ができたから、ラインがあると連絡してしまうからだと。
新しい彼女の名前を聞いたら、知っている名前だった。かつて同時並行だった人と、同じ名前だった。バイト先も同じだった。そのまま結婚したと後から聞いた。
驚かなかった。ショックもなかった。
ただ、ああそうか、と思った。あの人が求めていた女性は最初から決まっていて、私はその枠の外にいた。それだけのことだった。
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好きという気持ちを、別の形で渡すことが癖になった。
従うことだったり、否定を黙って受け取ることだったり、体だったり。でも肝心の言葉だけは、いつも喉の奥に引っかかったまま出てこない。
浅野先輩だけじゃなかった。
大学の四年間で、私はたくさんの男と寝た。サークルの先輩、バイト先の同僚、飲み会で知り合った人、同じ学科の後輩。
正直に言うと、断れなかっただけじゃない。
刺激が欲しかった。日常じゃない何かが。知らない人と話す夜、予測できない展開、行ったことのない場所。大学の間に一人で海外にも行った。言葉の通じない街を歩いていると、自分が誰なのかという重さがふっと消える感覚があった。喧嘩の絶えない実家でも、母の顔色を読み続けた毎日でも、浅野先輩に削られた時間でも得られなかった、あの感覚。
男もそれと似ていた。
誰かと肌が触れる瞬間だけは、日常から切り離された気がした。相手を落とせるかどうか試したくなることもあった。ゲームに勝ったような気がした。でも朝になると消えていた。だからまた繰り返した。
今思えば、刺激がないと自分の輪郭が保てなかったのだと思う。静かな場所にいると、自分が何者なのかわからなくなる。だから常に何かを求めて動き続けた。
卒業が近づいた頃、ふと思った。
もう疲れた。誰かに全部受け入れてほしい。否定されなくていい場所に、ただいたい。
ゲームに飽きたのか、最初からゲームじゃなかったのか。今でもわからない。ただ、もうやめたかった。
誠司と出会ったのは、そういう気持ちを抱えたままの春だった。
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御堂柚子という人間の輪郭は、たぶんあの六畳一間のアパートで、静かに、確実に、形作られた。