
小説『海がくる』 第二部
<あらすじ>
大手IT企業で働くシステムエンジニア・浦部透は、過重労働と上司からの執拗なパワハラにより心を壊しかけていた。ある日、偶然訪れたファッションヘルスで出会ったのは、元看護師の風俗嬢マナ。透は性的なサービスを求めることなく、ただ彼女の温もりに身を委ねるようになる。
一方、マナもまた、誰にも言えない過去と現実を抱えながら働いていた。社会の片隅で傷ついた二人は、少しずつ互いの存在に救われていく。しかし、風俗という現実は、その関係を簡単には許してくれない。
これは、恋から始まる物語ではない。
絶望の中で出会った二人が、互いの心を支え合いながら「ありのままの自分」と「人としての尊厳」を取り戻していく物語。
第五章『透と七海』
枕元にあるスマホの小さな振動で、透は目が覚めた。
朝7時30分——
スマートフォンを手に取り、アラームを止める。
ベッドの隣では、彼女が毛布にくるまり、静かな寝息を立てていた。
あどけない可愛らしい寝顔に、透は思わず頬を緩める。
起こさないよう、そっとベッドを抜け出し、洗面所へ向かった。
洗面台には、歯ブラシが二本並び、その脇には化粧水とクレンジングのボトルが置かれている。顔を洗い、歯を磨き終えると、寝室へ戻ってクローゼットを開けた。
スーツに袖を通し、鏡の前でネクタイを締める。
身支度を終えた透はもう一度、ベッドへ目を向けた。
彼女はまだ、穏やかに眠っている。
透は眠る彼女を見つめたまま、「いってきます」と唇だけを動かす。そして、静かに部屋を後にした。
透が暮らす世田谷区太子堂の住宅街は、まだ朝の静けさに包まれていた。
人通りの少ない細い路地には、手入れの行き届いた民家や低層のマンションが整然と並び、どこか隠れ家めいた落ち着きがある。駅へ向かって歩き出すと、街は少しずつ目を覚まし始めていた。
すれ違うのは、犬の散歩をする人や、大きなリュックを背負った通学途中の中学生。どこかの家から漏れ聞こえるテレビの音や、食器の触れ合う音が、朝の澄んだ空気に静かに溶け込んでいく。
やがて住宅街を抜け、小さな商店街へ入る。八百屋やクリーニング店、昔ながらの惣菜屋が軒を連ね、開店準備を始める店もあれば、まだシャッターを下ろしたままの店もある。パン屋から漂う焼きたての香りが、朝の街にゆるやかに広がっていた。
商店街を抜けると、その先には、三軒茶屋のシンボルであるキャロットタワーが、朝の空を背に静かにそびえ立っていた。
『マナ』が——いや、『七海』が透の部屋で暮らすようになって、1か月が過ぎようとしていた。
あの日——
歌舞伎町のネットカフェから七海を連れ出し、透はとりあえず、自分のマンションへ連れてきた。
「うわぁ……広い、キレイ……」
透の部屋に足を踏み入れた七海は、感嘆とも戸惑いともつかない声を漏らしながら、キョロキョロと辺りを見渡す。その様子がどこか幼く見えて、透は思わずクスリと笑ってしまった。
「どうぞ、そこに座って」
「は、はい。失礼します……」
遠慮がちに、七海はリビングにあるソファの端へ、ちょこんと腰を下ろした。
透はキッチンへ向かい、スティックタイプのインスタントコーヒーをマグカップへ入れた。ケトルのお湯を注ぐと、ほのかなコーヒーの香りが立ちのぼる。軽くかき混ぜると、七海の前へそっと差し出した。
七海は「ありがとうございます」と言って受け取ると、カップを両手で包み込むようにして、一口、そっと口に含んだ。
しばらくの沈黙の後、透は意を決して口を開いた。
「これからどうするかって、決めてたりする?」
その問いに、七海はすぐに俯いてしまった。
「すみません、まだ、何も……」
震える声でそう言うと、七海は深く頭を下げた。
それを見て、透は胸の奥がチクリと痛んだ。そして、ずっと気になっていたことを思い切って切り出した。
「あの……君が店を辞めたのは、僕があんな事を言ったから……だよね?」
七海は激しく、首を横に振った。
「いえ、ちがいます! 浦部さんのせいじゃないんです」
「まったく、別の理由で……」
語尾が次第に消え入り、再び、沈黙が降りてきた。
カチ、カチ、と規則的に時を刻む時計の針の音。冷蔵庫の低い駆動音。窓の外の喧騒とは無縁の、止まっているかのような空気。
透は頭の中で、必死に考えを巡らせた。
目の前にいる彼女は、住む場所も仕事もない。そして、これからどうしたいのかを自分で決めるだけの気力も、今はまだない——
ならば今、自分が言えることは一つしかなかった。
「よかったら、この部屋で暮らさないか?」
その言葉に、七海は大きく目を開いて驚く。
「でも……これ以上、浦部さんに迷惑かけられないです」
「迷惑なんかじゃないよ」
透は静かに首を横へ振った。
「第一、住む場所もないまま、この東京で女性が一人で過ごすのは危ないよ。ネットカフェを転々としたり、公園で夜を明かしたり……僕は君に、そんな生活をしてほしくない」
透は慎重に言葉を選びながら、続けた。
「遠慮しなくていいよ。どうせ、僕は仕事で、ほとんどこの部屋にはいないから」
七海はしばらくの間、手の中のコーヒーカップをじっと見つめていた。
そして、顔を上げて透の目を見つめた。
「本当にいいんですか? ここにいても」
透は、微笑みながら七海の目を見つめた。それが返事だった。
七海の目が潤んだ。
「……ありがとうございます」
そう言われて、透はようやく胸をなで下ろした。
その時、七海は何かを思い出したように、手元のバッグを開いた。
財布を取り出し、一枚のカードを抜き出す。
彼女はそれを、両手で透の方へと差し出した。
運転免許証だった。
「私の、本名です」
「え?」
「どうぞ、確認してください」
戸惑いながらも、透はその免許証を受け取った。
本籍——北海道積丹郡積丹町
氏名——工藤七海
そして、生年月日に目を落とす。
透より二つ年下。今年で二十六歳だった。
透は免許証の顔写真と、目の前で緊張した面持ちで見つめてくる彼女を見比べ、小さく頷いた。
「はい。確かに」
透は、免許証を返した。
「七海さん、っていうんだ。いい名前だね」
そう言われて、七海は恥ずかしそうにする。
透明で広い北の海の光景が、頭に浮かぶ。目の前の彼女に、ぴったりの名前だ。
もう、ヘルス嬢の『マナ』はいない。
今、透の目の前にいるのは『七海』という、一人の女性だった。
だが、その素顔を透はまだ、ほとんど知らない。
なぜ、七海は風俗の仕事をするようになったのか。
それ以前は、どんな人生を歩んできたのか。
七海は話そうとしない。
彼女について、新しくわかったことは「工藤七海」という名前と「北海道の積丹町」の出身だということ。
それだけだった。
透はスマートフォンを開き、検索欄に『積丹町』と入力した。検索結果をタップすると、画面いっぱいに息を呑むような景色が広がる。
「積丹ブルー」と呼ばれる、どこまでも澄み切った深い青い海。
その向こうには、吸い込まれそうなほど高く澄んだ空が広がり、海と空の境界さえ曖昧になっていた。
駅のホームで電車を待ちながら、透は考えた。
肌を重ねることでしか分かり合えないことがある。
けれど、肌を重ねるだけでは決して、分からないこともある。
七海を理解したい。ありのままの七海を受け入れたい。
だが、その道のりは、まだ始まったばかりだった——
透が出社するとほぼ同時に、システム運用管理部に急遽、ミーティングの招集がかかった。
嫌な予感しかなかった。
会議室には透を含め十人ほどのメンバーが集まり、何事かと互いに顔を見合わせている。
河田は資料を机に置き、全員を見回した。
「前から取って回してくれ」
透は一部取ると、残りを隣の席へ渡した。資料は順番に手渡され、全員の手元に行き渡る。
「昨日、東部鉄道の情報システム部から、一部機能の対応を前倒ししたいという申し入れがあった。国土交通省からの要請を受けてのことだそうだ」
「そのため、昨日の夜、急遽、先方と小野寺で協議を行った」
河田は資料を一枚めくる。
「結論から言う」
「システム全体のリリースを、一か月前倒しする」
まるで床が抜け落ちたかのような衝撃が、会議室を襲った。
透の顔から、さっと血の気が引いた。
河田は、それに構わず続けた。
「今日から全工程を前倒しで進める。各担当、作業計画を組み直してくれ」
第六章「穏やかな暮らしと不安」
もう、日はすでに高く上がっていた。
カーテンから差し込む太陽の光が、七海の顔につきまとう。
「……あ」
スマホの時計を見ると、9時18分。
七海は、慌てて身体を起こした。
「あ、また、寝ちゃった……!」
スマートフォンには、7時に鳴ったアラームの履歴が残っている。
止めたことまでは覚えている。そのあと、また眠ってしまったのだ。
昼夜逆転した生活は、そう簡単には元へ戻らない。
マナとしてあの店で働いていた頃は、朝方に眠り、昼過ぎに起きる生活が当たり前だった。
本当は、起きていたかった。
激務で、ほとんどこの家にいない透が会社へ行く前に「おはようございます」「いってらっしゃい」ぐらいは、言わないといけないのに——
ダメだなあ、私は——
落ち込んだ七海はため息をつくと、ベッドから起きだして、顔を洗った。
そして窓を開け、部屋の掃除を始める。
透は自分に何も言ってこない。それでもこの部屋に住まわせてもらっている以上、自分にできることはしたかった。
掃除を終えると、鏡の前に立ち、薄くファンデをつけ、唇に淡い色のグロスを塗った。
トートバッグを持って玄関のドアを開けると、暖かな風が七海の頬を撫でた。
三軒茶屋で暮らし始めて1か月——
まだ、この街に慣れたとは言えない。
それでも、1か月前の自分とは明らかに違っていた。
あの店で働いていた頃は、知り合いに会わないよう、どこか周囲を気にしながら俯いて街を歩いていた。
けれど今は、少しだけ、顔をあげられるようになった気がする。
駅前へ向かう途中、内科クリニックのガラス窓に貼られた求人ポスターが目に入った。
『看護師急募 パート可 ブランクのある方でも歓迎』
七海は思わず足を止め、しばらく、そのポスターをじっと見つめる。やがて視線を落とし、何もなかったかのように歩き出した。
***********
「システム全体のリリースを一か月前倒しする」
「今日から全工程を前倒しで進める。各担当、作業計画を組み直してくれ」
誰もが手元の資料に視線を落としたまま、言葉を失っている。
ページをめくる音すら聞こえない。
「……一か月前倒し?」
誰かが、信じられないというように小さく呟いた。隣では、別の社員が額に手を当て、深いため息をつく。
重苦しい空気が、会議室全体を包み込んでいた。
しかし、透は資料を見つめたまま、口を開いた。
「無理です」
その場にいた全員が、一斉に透のほうを振り向いた。
会議室の空気が一気に張りつめる。
誰もが胸の内では同じことを思っていた。
だが、それを口にする者はいなかった。
その沈黙を破ったのは、透だった。
河田が、ゆっくりと顔を上げた。
「何だと? もういっぺんいってみろ」
「無理です」
透の声は震えているが、はっきりとした言葉だった。
「無理じゃない、やるんだよ」
「今の体制では対応できません」
河田の眉間に皺が寄った。
「設計変更を行えば、影響調査からやり直しになります」
「その後に設計、製造、単体試験、結合試験、総合試験があります。どの工程も前の工程が終わらなければ進めません」
河田の机の下では、右足が絶え間なく床を打ち続けている。
トン、トン、トン。
その乾いた音だけが、会議室の張りつめた空気をさらに重くした。
「並行で進めればいいだろう」
「それは、できません」
「設計が固まらないまま試験を始めれば、試験データを確定できず、不具合が出ても原因を特定できなくなります」
「大勢の人の命を預かる鉄道のシステムです。試験工程は削れません。障害が起きれば、人命に関わる事故につながる可能性も……」
「もういい!」
河田は机の上のクリップで綴じられた資料を勢いよく、壁に叩きつけた。
叩きつけられた反動で、資料が跳ね上がる。
その先端に付いていた黒いダブルクリップが、透の額をかすめた。
机の資料にポタ、ポタッと血が滴り落ちる。
「うわ……」
誰かが、声を漏らした。
透は額に手を当てる。手のひらに赤い血が付いた。
ゆっくりと顔を上げる。
河田と目が合う。
さっきまで威圧的だった河田の顔から血の気が引いていた。唇が小さく震えている。
会議室は静まり返っていた。誰も口を開けない。
透の胸の奥で沸々と、怒りが渦巻く。
しかし、奥歯を噛み締め、その感情を必死に抑えた。
ポケットからハンカチを取り出し、額に当てる。
「……人事部へ行ってきます」
そう言うと、会議室を出ようとした。
「待て、浦部君」
河田の隣にいた宮田課長が立ち上がり、透を引き留める。
「まずは医務室へ行って傷の手当てをしよう。話はそのあとだ」
医務室では、看護師が透の額の傷の応急手当をしていた。
傷は浅かったが、頭部だったため思った以上に血が出た。
消毒液が傷口に触れた瞬間、透はわずかに眉をひそめる。
「少し、しみますよ」
「……大丈夫です」
ガーゼを当て、テープで固定してもらう。
「はい、終わりました。今日は念のため、激しい運動は控えてくださいね」
「お世話様でした」
透が医務室を出ると、廊下で宮田が待っていた。
廊下の奥にある応接室に入り、宮田は静かにドアを閉めた。
部屋には革張りのソファが向かい合って置かれ、中央には低いガラステーブルがある。窓の外には汐留の高層ビル群が広がっていた。
「座って」
透はソファに腰を下ろした。宮田も向かいに座る。
先ほどの会議室での空気が引きずられているせいか、しばらく重苦しい沈黙が流れた。
「浦部君」
「あのスケジュールが現実的じゃないことは、私も同感だ」
「だが、相手はあの河田部長だ。正論だけで話が通じる相手じゃないことは、君もこれまで一緒に仕事をしてきて、よく分かっているだろう」
「ああいう場で、真正面から『無理です』と言えば、部長がどう反応するか……君なら、ある程度は予想できたはずだ」
透は黙ったまま聞いていた。
宮田は透を見ながらため息をついた。
「君は真面目すぎる。正しいことを言えば、相手も理解してくれると思っている。だが現実は違う。相手の立場や面子を考えたうえで話をしなければ、そもそも話し合い自体が成立しない」
再び、沈黙が落ちた。やがて宮田が口を開く。
「……人事に行って、どうするつもりだったんだね」
「部長にケガをさせられたことを報告するつもりでした」
「……そうか」
宮田はしばらく黙っていた。
「君がそうしたいと言うなら、私もこれ以上は何も言えない。だが、これだけは聞いてくれ」
「君が人事へ報告すれば、河田部長は処分の対象になるだろう」
「管理職が会議中に部下へケガを負わせたんだ。正式な調査も入るはずだ。そうなれば、部長一人の問題では済まない。この部署全体の問題になる」
「正式な調査が入れば、プロジェクトが一旦、止まる可能性もある。そうなれば取引先にも迷惑をかけることになる」
その言葉に、透の表情がわずかに揺らいだ。
「君だって、社内でのトラブルのために取引先へ迷惑をかけたくはないだろう」
応接室に重い沈黙が流れる。
透はゆっくりと視線を落とした。
「……わかりました」
宮田は小さくうなずいた。
「心配するな。今回の件は、私からも上へ報告しておく」
胸の奥には重いものだけが残った。
河田部長が悪い。
だが、自分にも非があった——宮田はそう言いたいのだ。
結局、この会社には、自分の味方は誰もいない。
透はその思いを胸に抱えたまま、静かに応接室を後にした。
透はその後、予定どおり、埼玉の取引先の物流センターへ向かった。
物流システムの定期点検を行い、入出庫ゲートやハンディターミナルの動作を一つひとつ確認していく。
作業を終えれば、本来なら会社へ戻り、報告書をまとめるつもりだった。
だが、今日はもう河田と顔を合わせる気にはなれなかった。
額に残る鈍い痛みを感じながら、透は会社へは戻らず、そのまま直帰することにした。
物流センターを後にし、最寄り駅へ向かう途中、外科クリニックの看板が透の目に入った。
************
夕方の車内は仕事帰りの人々で混み合っていたが、透は窓際にもたれかかるように立ち、ぼんやりと流れる景色を眺めていた。
窓ガラスに映る自分の顔には、額の白いガーゼが痛々しく貼られている。
『河田部長が悪い。しかし、君にも落ち度はある』
宮田の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
『組織では、正しいことを言えば通るわけじゃない』
わかっている。
そんなことは、入社してから嫌というほど何度も思い知った。
それでも、あの場で「無理です」以外の言葉は、どうしても思いつかなかった。
透はため息をついた。
窓の外には、トンネルの闇が流れていく。
ふと、思いついてスマートフォンを取り出した。メッセージアプリを開き、七海とのトーク画面を表示する。
『もう、ご飯食べた?』
送信してまもなく、既読がついた。
『まだです』
すぐに返ってきた文字を見て、透の指が画面を滑る。
『今、仕事終わった。よかったら三軒茶屋の駅前で一緒に何か食べようか』
ほどなくして、飛び上がるキャラクターの可愛いスタンプと一緒に、
『もちろん!』
と返信が届いた。
その無邪気な返事を見た瞬間、不思議と胸の奥につかえていた重苦しさが、少しだけほどけていくのを感じた。
宮田に言われた言葉も、河田に怒鳴られたことも、ほんのひととき頭の隅へ追いやられる。
透は思わず、くすりと笑ってしまった。電車の窓ガラスには、さっきまでより少しだけ柔らかな表情の自分が映っている。
電車を降りて地上へ出ると、夜の三軒茶屋は会社帰りの人たちで賑わっていた。
キャロットタワーの前では、待ち合わせをする人たちが絶えず行き交っている。
その中に、七海が立っていた。
透の姿を見つけると、小さく手を振る。
しかし、笑顔はすぐに消えた。
「どうしたんですか、そのケガ」
七海は駆け寄り、不安そうに透の顔をのぞき込んだ。
「ああ、ちょっと会社でぶつけて」
透は額に触れながら、苦笑する。
「大丈夫。たいしたケガじゃないよ」
七海はまだ心配そうな表情を浮かべている。
「それより、何食べたい?」
「本当に……大丈夫ですか? このまま帰って休んだほうがいいんじゃ……」
七海は心配そうに額のガーゼを見つめた。
河田の怒鳴り声。
宮田に言われた言葉。
それらが透の胸の奥に、まだ重く残っていた。
「いや……今日は、なんだか飲みたい気分なんだ」
「だから、つきあってくれる?」
七海は少し驚いたように目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。
「わかりました」
翌日、透が目を覚ますと、時計の針は十二時を少し回っていた。
昨夜は、あんなことがあったせいで、いつもより酒を飲んだ気がする。
頭が痛い、身体が重い、起きたくない。
ふと、部屋に人の気配がないことに気がつく。
透がベッドから出て、リビングへ出ると、ちょうど玄関のドアが開く音がした。
「ただいまです」
買い物袋を提げた七海が帰ってきた。
「あ、起きてたんですね。よかった」
七海はドラッグストアの名前の入った袋をテーブルへ置いた。中に入っていたのはガーゼや医療用テープ、生理食塩水、それに軟膏だった。
「それ…」
「座ってください。額のガーゼ、替えますから」
七海は透をソファに座らせると、額のガーゼをゆっくりとはがした。
傷口を確認し、生理食塩水で丁寧に洗浄する。
新しいガーゼを当て、空気が入らないように医療用テープで固定する。
その手つきは無駄がなく、まるで毎日繰り返してきた仕事のようだった。
透は目を閉じたまま、思わず笑う。
「なんか看護師さんみたいだね」
「……」
七海は何も言わず、最後のテープを軽く押さえた。
「はい。終わりましたよ」
「ありがとう」
透は礼を言った。
七海は壁の時計へ目をやった。
「あ、もうこんな時間」
ガーゼやテープを手際よく片付けると、バッグを手に取る。
「ちょっと出かけてきますね。駅前の喫茶店で、サキと会う約束をしてるんで」
靴を履きながら、七海は振り返った。
「帰りに晩御飯買って、帰りますから」
「うん。気をつけて」
七海は小さく笑った。
「いってきます」
玄関のドアが静かに閉まった。
三軒茶屋駅の近くにある『喫茶セブン』のドアを開けると、コーヒーの香りと煙草の匂いが混じった懐かしい空気が鼻をくすぐった。
店の奥では、サキがすでに煙草をくわえ、窓際の席で待っていた。七海に気づくと、軽く片手を上げる。
「おう」
「サキ」
七海も小さく笑って席へ向かった。
「久しぶりだね」
「だね」
七海はメニューを開き、カフェオレを注文する。
注文を終えると、サキは煙をゆっくり吐き出した。
「悪いね、いきなり呼び出して」
「ううん。それより、何かあったの?」
サキは少し笑って、灰皿に煙草の灰を落とした。
「実はさ、私も店を辞めたんだ」
「え? ホントに?」
七海の表情がパッと明るくなった。
「昔、センター街でよく遊んでた友達がいるんだけど、そいつが今、恵比寿でダーツバーやっててさ」
そこそこ流行っているダーツバーらしい。インフルエンサーや著名人、芸能人も多く訪れるそうだ。
「人手が足りないから手伝ってくれないかって、前から誘われてて。いろいろ迷ったけど……」
サキはそう言って、タバコの火を灰皿に押し付けて消した。
「あんたもいなくなったことだし。ま、ある意味、ふんぎりがついたっていうか……」
やがて、店員がカフェオレを運んできた。
「お待たせしました」
七海は両手でカップを包み込み、小さく口をつける。
サキもコーヒーカップを手に取り、一口飲んでから七海を見た。
「どお? そっちはうまくやってる?」
そう言われて、七海は少し寂しそうに笑った。
サキはコーヒーカップを静かに置いた。
「上手くいってないの?」
七海は何度も首を横に振った。
「浦部さん、本当に私に優しいの」
「……優しすぎるくらい」
その答えに、サキはかえって困惑した。
「じゃあ、何が問題なわけ?」
七海はカフェオレの表面を見つめたまま、小さく首を振る。
「私は、浦部さんのそばにいていい女じゃないから」
「は?」
「だって私、元ヘルス嬢だもん」
「私は、浦部さんに好かれる価値も、大切にされる価値もない」
七海は自分に言い聞かせるように続けた。
「だから……いつかは身を引かなきゃいけないって思ってる」
サキは腕を組んだまま、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「もしさ」
「私が今度、結婚するって言ったら、あんたは反対するわけ?」
突然飛び出した「結婚」という言葉に、七海は思わず面食らった。
「え?」
「ヘルスで働いていたくせに、結婚なんかしていいの?って、私に向かって言うの?」
「そんなわけない……」
七海はすぐに首を横に振った。
「でも、あんたが言ってることは、それと同じことだよ」
そう言われて、七海は言葉を失った。
「私たち、そんなに幸せになっちゃいけないの?」
「……」
七海は、答えられなかった。
「あんたさ、少し、自分に厳しすぎるよ」
「ヘルスをやってたのだって、どうしようもない理由があったからじゃん」
二人が喫茶店を出ると、夕暮れの三軒茶屋は仕事帰りの人たちで賑わい始めていた。
七海とサキは、黙ったまま駅へ向かい、改札の前で、サキが立ち止まる。
サキは何か言いたげに七海を見つめるが、すぐには言葉が出てこない。
「よく考えてよ。あんたには幸せになってほしいんだよ」
「……マジで」
サキは悲しそうな目で七海を見つめている。七海の胸が疼いた。
「ありがとう。よく考えてみる」
「きっとだよ」
そう言って軽く手を振ると、そのままサキは三軒茶屋駅の改札を通って行った。
七海は、その後ろ姿が人混みに消えていくまで、しばらく見送っていた。
やがて踵を返し、駅前の惣菜店へ立ち寄る。
夕食用に、二人分の弁当とサラダを買い、袋を提げてマンションへの道を歩き始めた。
夕暮れの住宅街は、昼間とは違う穏やかな空気に包まれている。家々の窓には明かりが灯り始め、どこからか夕飯を作る匂いが漂ってきた。
サキの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
——私たち、そんなに幸せになっちゃいけない?
——ヘルスで働いていたってだけで、幸せになる資格までなくなるの?
——浦部さんが決めることを、なんであんたが先に決めちゃうの?
わかっている。
サキの言っていることは、きっと正しい。
もし、サキが「結婚する」と言ったら、七海は心から祝福するだろう。
それなのに——
自分のことになると、どうしてもそうは思えなかった。
私は、幸せになってはいけない。
その思いだけは、どうしても消えてくれない。
サキは昔から、痛いほど本当のことだけを、まっすぐ口にする。
だからこそ、その言葉は心の最も痛い部分に鋭く突き刺さる。
胸の奥に残った棘は、抜けるどころか、歩くたびに少しずつ存在を増していくようだった。
七海は買い物袋を握り直し、ゆっくりとマンションへの坂道を歩いていった。
——どれくらい眠ったのだろう。
透が、ふと目を覚ますと、部屋は夕暮れの淡い光に包まれていた。
壁の時計を見る。
午後五時を少し回っている。
七海は、まだ帰ってきていないようだった。
「……薬、飲まないと」
透はゆっくりと身体を起こした。
リビングへ出ると、ソファの横に置いてあった通勤用のバッグを手に取る。
ファスナーを開け、中から薬袋を取り出し、キッチンへ向かった。
袋から錠剤を一つ取り出して口へ入れる。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、そのまま飲み下した。
飲み終えると薬袋をバッグへ戻し、ファスナーを閉める。
小さくため息をつくと、そのままリビングのソファへ腰を下ろした。
深く背もたれにもたれかかり、ぼんやりと天井を見上げる。
宮田は、「今回の件は私から上へ報告しておく」と言っていた。
河田にも、きちんと話をすると。
だが、透にはどうしても楽観的には考えられなかった。
国土交通省からの要請。
そして、取引先からの前倒し要求。
そこまで話が進んでしまった以上、結局は一か月前倒しになるような気がしてならない。
もし、本当にそうなったら——
透は頭の中で工程を順番に思い浮かべた。
影響調査 ⇒ 設計変更 ⇒ 製造 ⇒ 単体試験 ⇒ 結合試験 ⇒ 総合試験。
どれ一つとして省くことはできない。
それでも納期だけが縮まるのなら、残る方法は限られている。
サービス残業。
休日出勤。
そして、終わりの見えない長時間労働——
透は目を閉じた。
——だめだ。
どう考えても、無理がある。
システムは、前の工程が終わらなければ次へは進めない。
設計が終わらなければ製造には進めない。
製造が終わらなければ試験も始められない。
どこか一つでも遅れれば、その後ろにある工程すべてに影響が及ぶ。
会議室の重苦しい空気が、脳裏によみがえる。
あの場にいた何人かが、今ごろ本気で転職を考え始めていたとしても不思議ではなかった。
何より、こんな状況で逃げ出したいと思わない人間なんているのだろうか。
透も、そう思う。
だが、自分にはそれはできない。
転職——考えたことがなかったわけじゃない。
むしろ、何度も考えた。
しかし、自分は人見知りで、人と話すのが苦手で、他人とうまく打ち解けることもできない。
今の会社だから、何とかやってこられたと思っている。
そんな自分が、新しい会社で一から人間関係を築き、仕事を覚え、居場所を作っていけるとは、到底、思えなかった。
それに——
取引先の担当者たちの顔が浮かぶ。
物流センターで毎月顔を合わせる担当者。
「浦部さんなら安心です」
そう言ってくれた人たち。
その信頼を裏切るようなことだけは、したくなかった。
もちろん、このまま働き続ければ、いつか限界が来ることくらい自分でもわかっている。
それでも辞められない。
どうすればいい?
どうすれば、この状況を変えられる?
答えは、どこにも見つからない。
透は両手で頭を抱えた。
呼吸だけが浅く速くなっていく。
胸の奥で、何かが張り裂けそうだった。
「……ああっ」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど大きかった。
「ああああっ!」
その時——
ガチャ。
リビングのドアが開いた。
七海だった。
買い物袋を提げたまま、呆然として立ち尽くしている。
「……浦部さん?」
透は、はっと顔を上げる。七海と目が合った。
「あ……おかえり」
声を掛けると、七海は慌てて駆け寄ってきた。
「…どうしたんですか?」
透は、困ったように笑う。
「あ、いや……なんか」
「仕事のことをいろいろ考えてたら、なんかもう……」
言葉はそこで途切れた。
七海は何も聞き返さなかった。
手にしていた買い物袋をそっと持ち上げる。
「ご飯、買ってきました」
少しだけ笑顔を作る。
「食べましょうか」
透は、その言葉に救われたように、小さく頷いた。
「……うん」
七海は買ってきた弁当とサラダを食卓へ並べた。
透も立ち上がり、食器棚からコップを二つ取り出す。
七海は冷蔵庫からウーロン茶を取り出し、それぞれのコップへ静かに注いだ。
透は割り箸を袋から出し、二人分をテーブルへ並べる。
向かい合って椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
二人の声が重なる。
しばらくは箸の音だけが静かに部屋へ響いていた。
やがて透が口を開く。
「サキさん、元気だった?」
「ええ、相変わらず」
七海は頷いた。
「サキ、店を辞めて、恵比寿のダーツバーで今、働いてるんですって」
「へえ」
透は少し驚いたように顔を上げた。
「そうなんだ」
七海は小さく笑う。
「サキって、見た目はかなり派手でしょう?」
透も思い出して、笑う。
「でも、言っていることは、すごくまともだと思うよ」
七海は、思わず笑った。
「そうなんです」
「私が見ないようにしてることを、平気で目の前に突きつけてくるんです。だから、たまに険悪になっちゃう」
「わかる。僕もやられたから」
「え?」
七海は驚いて顔を上げた。
「以前、君の居場所を教えてもらえないかと思って、彼女に会いに行った時——」
七海は箸を止めた。
「そのときに、はっきり言われた」
透は静かに当時を思い出す。
「ヘルス嬢じゃない、ありのままのマナを受け入れられるのかって」
七海は目を丸くした。
「……そんなこと言ったんですか。サキは」
「でも、あの一言を言われたおかげで、覚悟が決まったんだ」
七海は黙って、透を見つめている。
「そういう意味では、サキさんに感謝してるよ」
夜も更けてきた。
七海はそっと、ベランダへ出る。
眼下には、三軒茶屋の街の灯りがどこまでも広がっている。
車の走る音。遠くを走る電車の音。
どこかの店から聞こえてくる人々の笑い声。
浴室からは、シャワーの音が聞こえてくる。透は今、お風呂に入っていた。
七海は手すりに軽く手を添え、夜空の月を見上げる。
さっきの透の姿が、叫び声が頭から離れない。
あんな透を見たのは、初めてだった。
きっと、会社で何かあったのだろう。
詳しくは話してくれなかった。
でも、それでよかった。話したくないことまで無理に聞き出したくはない。
夕食の席で透が言った言葉。
『あの一言で、覚悟が決まった』
七海は目を閉じた。
透は本気で、自分のすべてを受け入れようとしてくれている。
それなのに、自分は何をしているのだろう。
透に支えられ、住む場所を与えてもらい、毎日、その優しさに甘えている。
私は何一つ、返せていない。
このままじゃ、だめだ。
七海はゆっくりと目を開けた。
せめて、自分も前へ進まなければ。
透のために。そして、自分自身のために。
七海はリビングへ戻り、テーブルの上のスマートフォンへ手を伸ばした。
しかし、指先が画面に触れる直前で、ピタリと動きを止める。
——ダメだ。
拒絶するように静かにスマートフォンを置くと、逃げるように再びベランダへ向かった。窓を閉め、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。
怖い——
いいかげん働かなきゃいけないことは、自分が一番よくわかっている。
今はまだ貯金があるけど、毎月それなりに減っていくし、例の奨学金の返済だってまだ少し残っている。
そう考えると、今すぐにでも仕事を探すべきだ。
でも、元ヘルス嬢という過去を持つ自分を、普通の職場が受け入れてくれるのだろうか。
履歴書の空白をどう埋めればいい。この二年間を、どう説明すればいい?
面接官の冷ややかな視線が脳裏をよぎる。
『この期間は、何をされていたんですか?』
そう聞かれたら、なんて答えればいい?
七海は両膝を抱え込み、額を強く押しあてて、嵐が過ぎるのを待つように身を縮めた。
そのとき、不意に以前見かけたネットニュースの記事が脳裏によみがえった。
——風俗で働いていた女性の社会復帰を支援する団体。
以前、ネットニュースで見かけて、活動内容をざっと読んだことがあった。
だが、そのときは気が進まなかった。
まだ、自分が元ヘルス嬢だったことを誰にも知られたくなかったからだ。
でも、もうそんなことを言っている場合じゃない。
誰かのサポートがなければ、今の状況からは抜け出せない。
それに、そういう場所なら……少なくとも、最初から冷たく「甘えるな」と切り捨てられることはないかもしれない。
七海はゆっくりと立ち上がった。もう一度リビングへ戻り、今度は迷わずにスマートフォンを掴む。
検索欄を開き、硬直する指先で文字を打ち込んだ。
『風俗 社会復帰 支援』
指先はかすかに震えていたが、それでも画面をタップする。
無機質な検索結果がずらりと並ぶ中、一つの名前が七海の目に留まった。
——NPO法人「ひだまり」
そこには、性産業に従事する女性たちの社会復帰や、夜の街からの転職を支援している、と書かれていた。
七海は息を止め、祈るような気持ちでそのリンクをタップした。
第七章『デスマーチという地獄』
数日後——
昼休みが終わると同時に、システム運用管理部の全社員へ第一会議室への招集がかかった。
透もノートパソコンを閉じ、重い足取りで会議室へ向かう。
室内には、すでに全員が集まっていた。
誰も雑談をしない。
静まり返った空気の中、河田部長がゆっくりと口を開いた。
「取引先との協議が終わった」
一瞬、会議室の空気が張り詰める。
河田は全員を見回した。
「結論から言う。一か月前倒しでリリースすることが正式に決まった」
誰も声を上げない。
驚きよりも、諦めに近い沈黙だった。
透は静かに目を伏せる。
——嫌な予感は、当たった。
河田は隣に立つ小野寺へ視線を向けた。
「小野寺」
「はい」
プロジェクトマネージャーの小野寺は立ち上がり、スクリーンへ新しい工程表を映し出した。
「本日より、工程を全面的に組み直します」
画面には、新しいスケジュールが表示される。
一か月分圧縮された工程表だった。
「影響調査、設計変更、製造、各種試験を並行して進めます」
小野寺は一つひとつ説明していく。
「また、他部署への応援要請を行います。協力会社にも増員を依頼しています」
誰も資料から目を離さない。
「厳しい状況ではありますが、体制を強化しながら何とか乗り切りたいと考えています」
説明を終えると、河田が再び前へ出る。
「厳しい案件なのは承知している」
その声だけが、静まり返った会議室に響く。
「だが、これは会社として受けた仕事だ。何としても納期には間に合わせる」
河田は一人ひとりの顔を見回した。
「以上だ」
会議は、それだけで終わった。
誰も口を開かない。
椅子を引く音だけが静かな会議室に響く。同僚たちは無言のまま席を立ち、それぞれのデスクへ戻っていった。
透も資料を抱え、ゆっくりと立ち上がる。
新しく配られた工程表へ目を落とした。
これから始まる日々を思うと、胸の奥が重く沈んでいく。
誰も口にはしなかった。
だが、その場にいた全員が同じことを思っていた。
これから、本当の地獄が始まる——
同じ頃——
地下鉄表参道駅のB2出口を出ると、まぶしい日差しが七海を包んだ。
その日の七海は、水色のワンピースを身にまとい、長い髪をシニヨンに結っていた。
相手に少しでも、きちんとした印象を持ってもらいたい——
そんな思いから選んだスタイルだった。
ショーウィンドウに映る自分の姿をふと目にする。普段より少しだけ大人びて見えるその姿に、七海は少しだけ緊張した。
目の前には、青山通りと表参道が交わる大きな交差点。
ブランドショップが立ち並び、行き交う人々もどこか洗練されて見える。
信号が青に変わる。
七海は、人の流れに合わせて、横断歩道を渡った。
スマートフォンで地図を確認しながら、表参道をゆっくり歩く。
目的地は、東京都の施設『東京ウィメンズプラザ』だった。
地図の通りに歩くと、ガラス張りの現代的な建物が見えてくる。入口の前で足を止め、七海は建物を見上げた。
(ここか……)
緊張で胸が高鳴る。これまで、こういう相談機関を訪ねたことは一度もなかった。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟き、自動ドアをくぐった。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
案内された相談室には、三十代半ばくらいの、二人の女性が待っていた。
一人は肩までの髪をきちんとまとめた、落ち着いた優しい雰囲気の上品な女性。
もう一人は、透き通るような白い肌が印象的な透明感のある女性だった。
「はじめまして。小島さゆりです」
「高坂里佳子です。よろしくお願いします」
二人はそれぞれNPO法人「ひだまり」の名刺を差し出す。
NPO法人「ひだまり」は、性産業で働く女性や、そこで働いていた女性を対象に、生活相談や就労支援、行政機関との連携などを行い、社会復帰をサポートしている団体だった。
七海も頭を下げ、両手で名刺を受け取った。
「工藤七海です。どうぞよろしくお願いします」
席に着くと、小島が穏やかな口調で言った。
「緊張しなくても大丈夫ですよ」
「今日は二時間ほどお時間をいただいています。お話しできるところからゆっくりお聞かせください」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
七海は深呼吸をひとつして、ゆっくりと口を開く。
「あの、メールでもお伝えしましたが……私、いろいろあって、最近、二年ほど働いていたヘルスを辞めました」
二人は黙って頷き、続きを待つ。
「それで、これからどうやって仕事を探せばいいのか分からなくて……」
七海は膝の上で両手を握りしめた。
「私の場合、前職が前職なので、履歴書には書けないし………」
「他の人たちは、どうやって仕事を見つけているのか、そのことを教えていただきたくて、今日は、ご相談に参りました」
七海の声は震えていたが、はっきりと言葉にして伝えられた。
高坂と小島は、穏やかに微笑みながら頷いた。
「履歴書のことを心配されている方は、工藤さんだけじゃありません」
「そこも含めて、どういう方法があるのか、一緒に考えましょう」
七海はバッグから小さなノートとボールペンを取り出し、机の上にそっと置く。
「……具体的には、どんな方法があるんでしょうか?」
「そのお話をする前に、少しだけ工藤さんのことを教えてください」
「今後、こういう仕事をしたいとか、何か希望はありますか?」
七海は少し考えてから首を横に振った。
「……いえ、特には」
「そうですか」
小島はメモを取りながら続ける。
「では、風俗のお仕事をされる前は、どんなお仕事をされていましたか」
七海の息が止まった。
やはり、その質問は避けられなかった。
膝の上で握ったハンカチに、自然と力が入る。
喉の奥が詰まり、すぐには声が出ない。
やがて視線を落としたまま、絞り出すように答えた。
「……看護師を」
その答えを聞いて、小島と高坂は一瞬だけ互いに顔を見合わせた。
「看護師……さん」
驚いたというより、「なるほど」という表情だった。
「そうだったんですね」
小島は七海の表情を見ながら、言葉を選ぶように続けた。
「もし、差し支えなければ——」
「どうして看護師を辞めて、風俗のお仕事をすることになったのかを、お話しいただけますか?」
その問いかけは、どこまでも穏やかだった。
責めるような口調でも、詮索するような目でもない。
それでも、七海の胸は強く締めつけられた。
ここで話せば、恥ずかしい自分の過去をすべて認めることになる。
七海は握っていたハンカチを口元へ運んだ。
でも、でも、もう逃げたくはない——
涙をこらえるように、強く目を閉じる。
部屋には、静かで優しい空気が流れている。
小島も高坂も、何も言わない。
七海が自分の言葉で話し始めるのを、ただ待っていた。
七海はようやく、口を開いた。
「……私は、北海道の小さな町で生まれ育ちました」
高坂が穏やかに尋ねる。
「ご家族とは、どのように暮らしていたんですか」
七海は小さく息をついて答えた。
「両親は、私が三歳のときに離婚しました。その後、母は私を自分の両親……祖父母に預けて、そのまま戻ってきませんでした」
小島も高坂も、黙って耳を傾けている。
「それからは、祖父母が私を育ててくれました。祖母はいつも優しくて、本当の母親みたいな存在でした。でも、私が高校二年生の時、脳梗塞で倒れて、寝たきりになったんです」
「それは、大変でしたね」
小島が静かに頷く。
「それで、週に何度か、診療所のお医者さんと看護師さんが往診に来てくれていました」
「その看護師さんが、本当に優しい人だったんです。祖母の身体を丁寧に拭いてくれて、優しく話しかけて……私たち家族にもすごく気を遣ってくれて」
七海は当時の光景を思い浮かべるように目を細めた。
「その姿を見て、私も看護師になりたいと思うようになりました」
「でも、祖母はそれから半年も経たないうちに亡くなりました」
七海は視線を落とした。
「育ててくれた祖母に、私は何も恩返しができませんでした。だから、その分、誰かの役に立てるような看護師になりたいと思ったんです」
高坂は静かに頷いた。
「それで、看護学校へ進学されたんですね」
「はい。ただ、祖父は年金暮らしだったので、私の看護学校の学費まで負担できる状況ではありませんでした」
「進路指導の先生に勧められて、東京の病院の奨学金制度を利用しました」
「卒業後、その病院で一定期間働くことを条件に、学費を負担してもらえる制度ですね」
高坂が確認するように尋ねる。
七海は、頷いた。
「はい。でも、それだけでは生活費が足りなかったので、日本学生支援機構の貸与型奨学金も借りました」
高坂はメモを取りながら、さらに尋ねた。
「その二つの奨学金は、それぞれどなたが保証人になられたのですか」
七海は少しためらってから答えた。
「母の兄……私の伯父です」
「本当は機関保証もあったんですけど、その分お金がかかるので……祖父が、伯父に頼んだんです」
七海はどこかつらそうに微笑んだ。
「伯母は反対しました。『もし、七海ちゃんが途中で返せなくなったらどうするの。うちだって子どもが二人いるのよ』って。でも伯父は保証人になってくれたんです」
七海は膝の上でハンカチを握りしめる。その手は震えていた。
「保証人になってもらったとき、私は伯父に約束しました。『伯父さんたちに、絶対に迷惑はかけないから』って」
その言葉を口にした瞬間、七海の目が潤んだ。
小島は何も言わず、静かに頷く。
「その頃は、本当に何とかなると思っていたんです。国家試験に合格して、病院で三年間働けば奨学金は免除される。看護師になって働きながら、もう一つの奨学金も返していけばいいって。……そう思っていました」
七海は猛勉強の末、看護師国家試験に合格した。
高坂が静かに尋ねた。
「看護学校を卒業後は、東京の病院へ就職されたんですね」
「はい」
七海の表情が曇る。
「でも、最初に配属されたのが、その病院のなかでも最も過酷な急性期病棟の外科でした。手術を終えた患者さんが次々に運ばれ、急変もある、一分一秒を争うような戦場でした。何もかもが初めてで失敗ばかりして、指導看護師からは毎日のように怒られていました。」
“何度も同じこと言わせないで”
“そんなことも知らないの、看護学校で何を勉強してきたの”
七海は自分の腕をそっと抱いた。
「新人なんだから、最初は怒られても仕方ないって、頭では分かっていたんです。でも……つらくて」
「家へ帰っても、翌日受け持つ患者さんの病気や薬を調べたり、提出しなければならない振り返りのレポートを書いたりして、寝る時間もなくて」
「夜勤も始まって、だんだん今日が何曜日なのかも分からなくなって…」
相談室が静まり返る。
「でも、辞めることだけは考えませんでした。考えられなかったんです」
「それは、奨学金の条件があったからですか?」
七海は目に涙を溜めて頷いた。
「三年間勤めないと、病院から借りた奨学金を全額返さなければいけませんでした。それに…」
七海はハンカチを握り直した。
「保証人になってくれた伯父に、絶対に迷惑はかけないって約束していたので。私には辞めるという選択肢はありませんでした」
「でも…だんだん、おかしくなっていって…朝起きると、涙が止まらなくなってしまって…」
「ある日、本当に起き上がれなくなってしまって……」
七海は、とうとう病院へ行けなくなった。
部屋に閉じこもり、病院からの電話にも出られない日々が続いた。
「そうしたら、一か月くらいして……病院から内容証明が届いたんです。連絡をくださいって……このまま連絡が取れなければ、保証人へ連絡しますって書いてありました」
小島も高坂も、言葉を挟まない。
「そのあと病院へ連絡して……退職したいことと、もう働き続けることはできないと伝えました」
「差し支えなければ、お借りしていた奨学金は、その時点で、どれくらいだったんですか?」
七海は少しためらってから答えた。
「……400万」
涙が頬を伝う。
「退職後は、毎月五万円ずつ返済していくことで話がまとまりました。でも……看護師はもう続けられなくて」
七海は言葉を切り、しゃくり上げそうになるのを必死にこらえる。
「看護師以外の仕事も探しました。でも、フルタイムで週五日働いても、手取りはせいぜい16万円くらいです。家賃を払って、生活して、税金を納めたら、ほとんど手元には残りません。そこから毎月5万円を返済し続けるなんて、現実的に無理でした」
「それに、当時はまだ体調も悪くて、一日中寝ている日も少なくなかったんです」
七海は膝の上で握りしめた手に視線を落とした。
「でも、ここで返済が滞ってしまったら、今度こそ伯父のところに督促がいきます。それだけは、どうしても避けたかった……」
声が震えていた。
「だから……週に三日ぐらいで、数時間しか働けない私でも、生活費を賄いながら、毎月5万円の返済ができる仕事を探しました」
七海は唇を噛み、しばらく黙り込んだ。
「そんな仕事は、ひとつしかありません」
七海は何度も唇を震わせてから、ようやく言葉を絞り出した。
「それで……あの店で……」
言い終えた瞬間、七海は顔を覆った。肩が小さく震えている。
相談室には、七海の押し殺した嗚咽だけが静かに響いていた。
小島は静かに席を立った。
七海の隣へ歩み寄ると、そっと背中に手を添える。
そして黙って、優しくその背中をさする。
暖かい、人の手のぬくもりに触れた瞬間、七海の中で張りつめていた糸が切れた。
「私が……」
七海は顔を覆ったまま首を横に振る。
「私が、悪かったんです」
嗚咽で言葉が途切れる。
「働きながらお金を返すことが、どれだけ大変なことなのかも知らないで、たくさんお金を借りて……」
「死んだおばあちゃんに恩返しがしたいなんて、そんな憧れだけで看護師になって……」
「だから……」
「これは全部、身の程知らずだった私への罰なんだって、そう思わないと……」
「そうやって自分に言い聞かせないと、身体を売るなんて、とても……」
七海は子どものように声を上げて泣いた。
小島は、何も言葉をかけない。
ただ、七海の背中をゆっくりとさすり続けた。
部屋には七海のすすり泣きの声だけが、静かに響いていた。
しばらくして、七海はようやく涙を拭いた。
小島はティッシュの箱をそっと差し出す。
「……ありがとうございます」
鼻をすすりながら礼を言うと、七海は深く頭を下げた。
七海が外へ出ると、日差しが、穏やかに降り注いでいた。
七海は二人へ向き直り、もう一度深く頭を下げる。
「あの……すみませんでした。就職の相談に来たのに、関係のない話ばかりしてしまって」
高坂は優しく首を横に振った。
「いいえ。先ほどのようなお話を伺うことも、私たちの大切な仕事です」
小島は七海の目をまっすぐ見つめた。
「工藤さん」
「あなたは、お祖父様や保証人になってくださった伯父様に迷惑をかけたくない。その一心で、すべてを一人で背負い込んできたんですね」
七海は何も言えず、ただ、俯いた。
「でも、本来なら、そこまで一人で背負う必要はなかったんです」
「もっと早く誰かに助けを求めてもよかった。でも、それはあなたが弱かったからではありません。一人で抱え込まざるを得ないほど、当時は追い詰められていたからです」
小島は穏やかな表情のまま続けた。
「そして今日、あなたはここへ来て、ご自分の過去を話してくださいました」
「それは、逃げた人にはできないことです」
「私は、その勇気を大切にしてほしいと思います」
七海は目を潤ませたまま、静かに頭を下げた。
「それに、せっかく苦労して取った看護師という国家資格を、このまま眠らせてしまうのはもったいないと思います」
「看護師の仕事は病院だけじゃありません。特別養護老人ホームや訪問診療、福祉施設、それに健診センターやクリニックなど、活躍できる場所はいろいろあるんです」
高坂はバッグを開け、一冊のパンフレットを取り出した。
「よかったら、これ」
表紙には『東京都ナースプラザ 再就業支援研修』と書かれている。
「ブランクのある看護師さん向けの研修です。費用は無料ですから。よかったら、目を通してください」
七海は両手で受け取り、表紙を見つめた。
「……ありがとうございます」
小島と高坂が笑顔で手を振る。
七海も小さく会釈を返し、ウィメンズプラザを後にした。
泣きはらした目はまだ赤い。
それでも、来たときより足取りは少しだけ軽くなっていた。
その日の夜——
時計の針は、午後11時半を回っていた。
七海はリビングのソファに座り、スマートフォンの画面を見つめていた。
『東京都ナースプラザ 再就業支援研修』
画面には、申込み受付完了画面が表示されている。
「これでよし」
七海がそう呟いた、その時だった。
玄関のドアが開く音がした。
「あ、おかえりなさい」
「……ただいま」
透は靴を脱ぐと、そのまま無言でリビングへ入り、ソファへ力なく腰を下ろした。
ネクタイも緩めないまま、ただ前を見つめている。
七海は少しためらった。
今日の出来事を話そうか。
ウィメンズプラザで相談したこと。
そして、ナースプラザの研修に申し込んだことを。
「浦部さん。あの、ちょっといいですか」
返事はなかった。
「実は、私……」
そこで七海は、透の様子がおかしいことに気づいた。
視線は宙をさまよい、焦点が合っていない。
まるで、そこにいるのに、ここにはいないようだった。
「……浦部さん?」
七海がそっと声を掛ける。
「浦部さん、どうかしましたか?」
その時、透は肩をビクッと震わせた。
「あ……」
七海の方をゆっくりと振り向いた。
「なに?」
少し間を置いて、困ったように笑った。
「ごめん。聞いてなかった」
七海は一瞬だけ言葉を失った。
そして、小さく首を横に振る。
「……いえ。大したことじゃないんです」
そう言って微笑む。
「それより、早く休んだほうがいいですよ。すごく疲れているみたいですから」
透はゆっくり頷いた。
「……そうする」
それだけ言うと立ち上がり、寝室から着替えを持って浴室へ向かった。
シャワーの音が聞こえ始める。
七海は閉まった浴室のドアを見つめたまま、じっと立ち尽くしていた。
——何か、おかしい。
仕事で疲れているだけではない。
一か月前倒しが正式に決まった翌日——
システム運用管理部の空気は、文字通り一変した。
誰も雑談をしない。
朝の「おはようございます」という声だけが小さく交わされると、社員たちは黙ってパソコンを立ち上げた。
キーボードを打つ音だけが、フロアに途切れることなく響いている。
昼休みになっても、社員食堂へ向かう者はほとんどいない。
コンビニのおにぎりやカップ麺をデスクで食べながら、画面から目を離さない。
「小野寺さん、工程表できました」
「……すまないが、もう一回引き直そう」
「え?」
「国交省の追加要件が来た」
誰も文句は言わない。
言ったところで、納期は変わらないことを全員が知っていた。
午後になると、小野寺は会議室へ呼ばれ、河田の部屋へ行き、また戻ってくる。
そのたびに工程表には赤い修正が増えていく。
夕方の17時。
定時を知らせるチャイムが鳴った。
立ち上がる者は、一人もいない。
夜——
会議室には、空になったコンビニ弁当の容器と、栄養ドリンクが積み重なっていく。
「浦部さん、このテスト結果、確認お願いできますか」
「はい」
透は目をこすりながら画面へ向き直る。
そして、午後11時40分。
小野寺が静かに立ち上がった。
「……今日は終電を気にしなくていい。会社でタクシーを手配する」
誰も驚かなかった。
「ああ、やっぱり」
そんな空気だけが流れる。
午前0時半——
オフィスの照明だけが、ビルの一角を白く照らしていた。
透はコーヒーを口に含む。
もう味はしない。画面の文字が少し滲む。
眠い。疲れた。
それでも手は止められない。
翌朝9時には、また会議が始まる。
土曜日も出勤。
日曜日は自宅で資料作成。
気がつけば、一週間という感覚は消えていた。
今日が何曜日なのか。
そんなことを考える余裕さえ、誰にも残っていなかった。
数日後——
システム運用管理部の会議室には、いつも以上に重い空気が漂っていた。
プロジェクトマネージャーの小野寺が、ホワイトボードの前に立つ。
疲労の色は隠せない。目の下には濃い隈ができていた。
「みなさん、お疲れさまです」
誰も返事をしない。
小野寺は一枚の資料を配る。
「昨日、協力会社と他部署へ応援要請を出しました」
会議室の空気がわずかに動いた。
「他部署から二名。協力会社から三名。合計五名の応援が決まりました」
その瞬間だけ、誰もが小さな希望を抱いた。
しかし、小野寺はすぐに続けた。
「ただし……五人とも、このシステムは未経験です」
再び、会議室は静まり返る。
「仕様の説明や環境構築には時間がかかります」
「実際に戦力になるまで、一週間から二週間は見込んでください」
誰もが顔を上げない。
透は配られた工程表へ目を落とした。
一週間。いや、それ以上かもしれない。
教えるのは、自分たちだ。
新人が仕事を覚えるまでの間、既存メンバーの負担はむしろ増える。
それでも、小野寺には他に選択肢がなかったのだろう。
透は目を閉じる。
やはり始まる。いや、もう始まっている。
終わりの見えない長時間労働と過酷な開発。IT業界では、それを「デスマーチ」と呼ぶ。
そのデスマーチが——
七海は東京都ナースプラザの再就業支援研修を修了した。
その後、小島たちの紹介で、看護師の単発派遣に登録する。
いきなりフルタイムで働くのではなく、まずは、慣らすことから始めたほうがいいとアドバイスを受け、七海もそう思ったからだった。
最初の仕事は、市民スポーツ大会の救護待機だった。
競技場の救護室で待機し、擦り傷や熱中症の応急処置を行う。幸い大きな事故はなく、一日が終わった。
次は企業の健康診断。
血圧測定や受診者の案内を担当した。病院とは違う。怒鳴る医師もいない。忙しくはあっても、誰かに追い立てられることもない。
週に一日から始めて、やがて週に二日、働くようになった。
七海は少しずつ、自信を取り戻していった。
ある日曜日——
七海は朝九時から、川崎市内のデイサービスセンターで働いていた。
利用者の血圧や体温を測り、入浴前後の体調を確認する。昼食後は服薬を確認し、体調の変化がないか一人ひとりの様子に目を配った。
病院のような慌ただしさはない。
利用者と笑顔で言葉を交わし、「ありがとう」と声をかけられるたびに、看護師という仕事が好きだった頃の自分を取り戻していくような気がした。
その日の利用者の中には、亡くなった祖母によく似た女性がいた。
帰り際、その女性は七海の手をそっと握り、優しく微笑んだ。
「また来てね」
「はい。また来ます」
七海も自然と笑顔になる。
利用者たちとスタッフに見送られ、七海は施設を後にした。
溝の口駅から田園都市線に乗り三軒茶屋駅に着いた。帰り道、夕食用の弁当を二つ買う。
夕暮れの街を歩きながら、七海は空を見上げた。
今日もなんとか一日働けた——
その小さな達成感が、七海の胸をほんのりと温かくしていた。
しかし、マンションのエントランスへ足を踏み入れた途端、七海のその表情は静かに引き締まった。
——透の様子がおかしいことには、ずっと前から気づいていた。
しかも、ここ半月ほどで、その様子はさらに深刻になっていた。
会社から帰宅しても、ノートパソコンを開いて仕事を続ける日が増えていった。
休日も朝からパソコンに向かい、ほとんど部屋から出てこない。
何かに取り憑かれたように画面を見つめ続けるその姿は、以前の透とは別人だった。
食事の量も少しずつ減り、頬はこけ、明らかに以前より痩せていた。
七海には、その変化が痛いほど分かった。
看護師を辞める直前の自分と、あまりにもよく似ていたからだ。
これ以上、静観はできない。
——このままでは、今に取り返しのつかないことになってしまう。
七海は静かに覚悟を決め、玄関のドアを開けた。
リビングでは、透がソファの上でぼうっと座っていた。
髪は少し乱れ、その目はどこか遠くの虚空を映しているように生気がない。
七海はバッグを置き、努めて明るい声を意識しながら、ソファの傍らへ近づいた。
「ただいま。浦部さん」
透の反応はない。
「今日のデイサービス、無事終わりました。お年寄りの人たちの中に、死んだおばあちゃんに似た人がいて…」
そこまで話して、七海は言葉を止めた。
透の視線は彼女の方を向いているようでいて、その実、何も捉えていなかった。七海の声は今の彼の耳には届いていないのが、空気で分かった。
「浦部さん」
声を一段低く落とすと、透が弾かれたように、はっと肩を揺らした。
「え……?」
「私の話、聞いてました?」
透は気まずそうに目をきょろきょろと泳がせ、それから小さく頭を下げた。
「ごめん、聞いてなかった。……なに?」
沈黙が、二人の間に重くたれ込める。
西日の差し込む温かいはずのリビングが、にわかに緊張感で満たされていく。
七海は透のうつろな瞳を見つめ、静かに、しかし核心を突くように問いかけた。
「浦部さん」
「私に何か、話さないといけないこと、ないですか?」
その言葉が降ってきた瞬間、透の背中に冷たいものが走った。
「……いや」
透は無理に笑みを作った。
「別に、何もないけど」
七海は黙って透を見つめている。
「気にしないで。ちょっと、仕事が忙しいだけだから」
「浦部さん」
七海の声は震えていた。
「お願いです。話してください」
そう言われた瞬間、透は強く目を閉じて、うなだれた。
いつかこの日が来るかもしれないと思っていた。
同じ屋根の下で暮らしているのだから——
透はソファに深く腰を沈めたまま、しばらく俯いていた。
やがて思い出したように、足元へ置いてあった通勤用バッグへ手を伸ばす。
ファスナーを開け、中を探る指先が小さく震えていた。
取り出したのは、一つの白い薬袋だった。
透は少し迷うようにそれを見つめ、それからテーブルの上へ静かに置いた。
七海は黙って、その袋を手に取る。
袋には精神科クリニックの名前が印字されていた。
袋の口からのぞく錠剤のシートには、ある薬剤名が並んでいる。
パキシル【抗うつ剤】
レキソタン【抗不安薬】
マイスリー【睡眠薬】
七海はそれらを見て、目を閉じ、長いため息をついた。
透は、ずっと以前から精神科へ通い、薬を服用しながら毎日会社へ通い続けてきたのだ。
——そういうことだったんだ。
七海はそっと薬袋をテーブルへ戻した。
透は落ち着かない様子で手を動かし、掠れた声で言った。
「何から話せばいいのか……」
七海は、透の前へそっと膝をついた。
彼の冷たくなった手を両手で包み込むように握り、透を見上げる。
「ゆっくりで大丈夫です。話しやすいことから、ひとつずつ話してください」
透はさらに深くため息をつき、七海の手を握り返した。
「ここ二年くらい…」
「ずっと仕事が忙しくて、やっても、やっても終わらなくて……」
「うん」
「でも責任があるから、やらないといけないって。でも、どんなに頑張ってもどうにもならなくなって……」
「……他には?」
七海の静かな相槌を道標にするように、透はぽつり、ぽつりと、心の奥に澱んでいた言葉を吐き出し始めた。
「だんだん、夜、眠れなくなって。布団に入っても頭がずっと冴えて、仕事のことばかり考えてしまって」
「うん」
「ついに……会社で年に一回あるストレスチェックに引っ掛かって。産業医の面談を受けたら『すぐに専門の病院に行くように』って言われて」
「……それで?」
七海は急かすことなく、ただ透の言葉を丸ごと受け止めるように、先を促した。
「病院にいったら……精神科の先生に『できれば休職したほうがいい』って言われた。でも、その時は仕事を休めなくて……。薬を飲みながら、なんとか働き続けてきた」
そこまで一気に話し終えると、透はまるで罪の告白を終えたかのように、さらに深く首を垂れた。
自分の情けなさ、弱さ。それを今、七海の前に曝け出してしまった。透の肩が微かに震え始めていた。
「それは、いつ頃の話ですか?」
七海の問いかけに、透は遠い記憶を手繰り寄せるように、少しの間を置いてから答えた。
「……君に出会う少し前のことだから、一年くらい前かな」
七海は頭の中でタイムラインを組み立て、考えを巡らせた。
病院で休職を勧められながらも仕事を続けていたのが一年も前からのことなら、彼はその状態のまま、毎日、遅くまで働き続けていたことになる。
透の瞳から、ついに涙がこぼれた。
口元を手で押さえても、嗚咽が漏れる。
七海はそっと透を抱きしめた。
「わかってるんだ……」
透は震える声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
「このまま無理をすれば、いつか本当に倒れる……でも、どうにもできなくて」
七海はゆっくりと身体を離し、透の手を優しく握り直した。
「浦部さんが、休職したいって会社に伝えたら、休ませてもらえそうですか?」
そう問いかけられた瞬間、透は苦しげにきつく目を閉じ、力なく首を振った。
「一度……それを話したんだ」
「え……?」
「一年前、その病院で書いてもらった診断書を、直属の上司の河田部長に見せて、休職させてほしいって。でも……突き返されて…」
「突き返された?」
七海は耳を疑った。そんなことがありえるのか?
「あの日……」
透は、震える声で話し始めた。
一年前——
彼は意を決し、部長の河田に声をかけた。
「部長、お話があるのですが」
河田はパソコンから顔を上げると、透のやつれた表情を見つめ、眉間に深い皺を寄せた。
そして立ち上がり、何も言わずにミーティングルームへ向かう。
透はその後を追った。
扉が閉まる。
無機質な部屋に重苦しい沈黙が流れた。
「どうした、浦部」
透は黙って診断書を机の上へ差し出した。
河田は診断書に目を通し、小さくため息をついた。
「浦部、お前がしんどいのはわかる」
透は俯いたまま黙っていた。
「でも、お前が休んだら、この案件は誰が引き継ぐ?」
「今でもみんな手一杯なんだ」
河田の声は静かだった。
だが、その静けさが、かえって透の胸を締めつける。
「お前が休むってことは、そのしわ寄せが誰かに確実にいくんだぞ」
透は唇を強く噛み締めた。
河田は診断書を掴むと、透の前へ放るように返した。
「……それでも休みたいなら、おれは止めない」
「好きにしろ」
その一言が、透の胸に深く突き刺さった。
途中で仕事を投げ出すことへの恐怖。
様々な思いが頭の中を駆け巡り、「休職します」という一言だけが、どうしても口から出てこなかった。
「……何も言えなかった」
透は掠れた声でそう言うと、再び俯いた。
「あの言葉を聞いて……僕が休んだら、誰かに迷惑がかかるんだって思ってしまって……」
七海は言葉を失い、呆然と透を見つめるしかなかった。
——わかる。
あの恐怖は、経験した人にしかわからない。
自分が休めば、誰かに迷惑がかかる。現場が回らなくなる。
あの日、あの病院で、自分も同じように追い詰められていた。
「浦部さん」
七海は透の手を優しく包み込んだまま、静かに口を開いた。
「その部長さんが休職を認めてくれないのであれば……人事に直接相談することはできませんか?」
「人事に?」
「そうです」
透は戸惑ったように目を伏せた。
「できなくはないけど……でも……」
「でも?」
「人事に直接相談したら、結局、河田部長にも伝わると思う」
透は苦しそうに言葉を続けた。
「それに……部長を飛び越えて人事へ行くなんて、うちの会社ではまずない」
透は力なく首を振った。
「浦部さん」
七海はそっと透の頬に手を添えた。
「もう、自分を責めないでください」
七海の目から涙がこぼれる。
「もう十分です」
震える声で、それでもはっきりと言った。
「お願いです……休んでください」
そう言うと、七海は透を強く抱きしめた。
「これ以上、浦部さんが苦しむ姿を見たくありません」
透はゆっくりと目を閉じ、七海の背中へそっと手を回した。
「……本当に、いいの?」
七海は黙って頷いた。
「もしかしたら……最悪、会社を辞めることになるかもしれない」
七海は透を抱きしめる腕に、そっと力を込めた。
「それが、なんだっていうんですか」
「そんなことより……私は、浦部さんに笑っていてほしいんです」
「だから……お願いです」
透は再び目を閉じた。
七海の温もりが、張りつめていた心を少しずつ溶かしていく。
長い沈黙のあと、透は静かに口を開いた。
「……わかった」
そう言って、七海の頭を優しく撫でた。
「……やってみるよ」
第八章「対決……そして」
朝のラッシュ時の通勤客で埋め尽くされた新橋駅を出ると、透は汐留のオフィス街へ続くデッキをゆっくりと歩き始めた。
高層ビル群の間を吹き抜ける朝の風が、頬をかすめる。
新卒で入社以来ほぼ毎日、歩いてきたはずの道だった。
それなのに、今日はどこか違って見えた。
透は足を止め、自分の会社が入っているビルを静かに見上げる。
その目には、もう迷いはなかった。
昨日、七海に言われた。
『もう十分です』
『お願いです……休んでください』
その言葉が、今、透の背中を押している。
透は胸ポケットからIDカードを取り出し、じっと見つめた。
顔写真は、新卒で入った当時のものだ。
まだあどけなさが残る、7年前の自分——
当時の自分が、今の自分を見たらなんて言うだろう…
透は静かに、IDカードを胸ポケットへ戻した。
他の社員たちと共に、透は正面入り口から入る。
そして、IDカードをかざし、ゲートの中へ足を踏み入れた。
最初は、七海との約束どおり、出社したら、そのまま人事へ行き相談するつもりだった。
だが、その前にもう一度だけ、河田部長へ話をしておきたかった。
人事へ行けば、きっと「直属の上司には相談しましたか」と聞かれる。
それなら、もう一度だけ話そう。
これが、本当に最後だ——
朝礼が終わると透は、A4サイズのクリアファイルを手に持ち、河田のデスクへ歩み寄った。
「部長、少しお時間よろしいでしょうか」
河田はパソコンから顔を上げ、不機嫌そうに透を見た。
ミーティングルームの扉が閉まり、透は河田をまっすぐ見つめた。
「一年前にも一度お願いしたことですが、改めてお願いします。休職させてください」
次の瞬間、河田は激高する。
「バカ言ってんじゃねえよ!」
怒声がミーティングルームに響き渡る。
「今、お前に抜けられたら、この前倒しになったリリースを誰が支えるんだ!」
「クライアントと約束した納期は絶対だ!」
「ここで一人でも欠けたら全部崩れる!」
透は落ち着いた声で静かに、言った。
「……つまり、休職は認められないということですね」
「当たり前だ!」
終わった——
「……では、退職させていただきます」
河田の表情が固まった。
「…………………は?」
怒りに歪んでいた顔から、みるみる血の気が引いていく。
河田は、呆然とする。
「本来であれば、直属の上司を通して退職の手続きをするべきですが……」
「私は、これから直接人事へ行き、退職を願い出ます」
河田は、言葉を失った。
透は立ち上がり、手に持っていたクリアファイルから二通の診断書を取り出し、机の上へ静かに並べた。
一通は、一年前に精神科で書いてもらった診断書。
もう一通は、河田に額を負傷させられたあの日、万が一に備えて出先のクリニックで書いてもらった診断書だった。
「この二通の診断書を見れば、人事担当者も、なぜ私が直接人事に退職を申し出なければならないのか、その事情を理解してくれると思います」
河田の表情が一変した。
「お前……あの時、診断書なんか取っていたのか」
「まさか……」
河田は、透が本気で人事へ話を持っていくつもりなのだと悟った。
一年前に突き返した休職の申し出。
そして、自分が透に負わせた額の怪我。
そのすべてが、人事の知るところになる。
「おい……」
河田の声から、さっきまでの勢いは消えていた。
透は静かに続けた。
「私は、会社を困らせたいわけではありません」
「取引先への引き継ぎも、私にできることは最後まで責任を持ってやります」
「ですが、このままこの部署で働き続けることは、もうできません」
河田は何も言えない。
透は、二通の診断書をクリアファイルの中へ戻すと、そのまま、ミーティングルームを出ようとした。
河田はようやく我に返ったように机を叩いた。
「おい、待て!」
その声には、先ほどまでの威圧感はなかった。
焦りだけが滲んでいた。
「そんな話を、人事に持っていったら……」
河田は言葉を飲み込む。
その先を口にすれば、自分が何を恐れているのか認めることになる。
「おい、待て! 浦部!」
河田の呼び止める声にも、透は振り返らなかった。
ミーティングルームの扉が静かに開き、そして閉まる。
透の足は、まっすぐ人事部のフロアへ向かっていた。
透は人事部の受付カウンターの前で足を止めた。
そして、受付の女性社員へ声をかける。
「失礼します。システム運用管理部の浦部と申します」
女性社員は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「浦部さん。本日はどのようなご用件でしょうか」
「人事の担当者に直接、ご相談したいことがあります」
「ご予約はされていますか?」
「いえ、しておりません」
女性社員は少し頷くと、内線電話を手に取った。
「あちらに、お掛けになってお待ちください」
透は静かに頭を下げた。
待合スペースの椅子へ腰を下ろす。
透は両手を静かに握りしめた。
もう、後戻りはしない——
待合スペースでしばらく待っていると、一人の男性がこちらへ歩いてきた。
五十代半ばくらいだろうか。
白髪が少し混じった短髪に、紺色のスーツをきちんと着こなしている。穏やかな雰囲気をまとった人物だった。
「お待たせしました。人事部の里村です」
透は立ち上がり、深く一礼した。
「浦部です。予約もせず、突然お伺いして申し訳ありません」
里村は柔らかく微笑み、小さく首を横に振った。
「お気になさらないでください。まずは、お話を伺います」
そう言うと、廊下の奥へ歩き出した。
透はクリアファイルを抱え直し、その後に続く。
案内されたのは、小さな面談室だった。
窓際には丸テーブルと椅子が置かれ、壁際には書棚と観葉植物が並んでいる。
会議室というよりも、相談室のような落ち着いた空間だった。
「どうぞ、お掛けください」
里村に促され、透は静かに椅子へ腰を下ろした。
透は、これまで自分の身に起きていたことをゆっくりと、そしてできるだけ冷静に話した。
直属の上司である、河田部長から受けてきた過度な叱責や威圧的な言動。
過重労働が続く中で心を病み、精神科で休養が必要だと診断されたこと。
一年前、その診断書を提出して休職を願い出たものの、逆に叱責され、診断書を突き返されたこと。
会議中、激高した河田が資料を投げつけ、その資料が額に当たり負傷したこと。
そして今日、もう一度休職を願い出たが、やはり拒否されたこと。
だからこそ、もう退職するしか方法がないと思い、人事を訪ねたこと。
里村は、一度も話を遮ることなく、静かに耳を傾けていた。
ときおり手元のメモへ視線を落としながらも、透の言葉を最後まで聞き続ける。
やがて、透が話し終えると、面談室には重い沈黙が流れた。
里村はゆっくりとペンを置き、透の目をまっすぐ見つめた。
「浦部さん。では、お話を整理させてください」
里村は確認するように、一言ずつ言葉を区切った。
「医師の診断書を提出し、休職を二度願い出た。しかし、いずれも河田部長に認められなかった」
「その結果、退職を決意し、人事へ相談に来られた」
「浦部さんのお話を整理すると、そのような経緯という理解でよろしいでしょうか」
「はい。その通りです」
透は、はっきりと答えた。
里村は静かに頷いた。
そして机の上に並べられた二通の診断書へ視線を落とす。
精神科医の診断書。
そして、額を負傷した際の診断書。
二通に目を通した里村は、小さくため息をついた。
「浦部さん」
透は顔を上げた。
「まず、お話しくださってありがとうございます」
里村は机の上の診断書へ視線を落としたまま、しばらく考え込んでいた。
やがて顔を上げると、静かに首を振る。
「浦部さん。今回の退職は、あなたの本意ではないのでしょう」
「……」
「体調を崩し、休養しなければならないから退職する。しかし、本来なら会社には、そのための『休職制度』があります」
里村は穏やかな口調で続けた。
「あなたが辞めざるを得ない状況に追い込まれたのは、制度の問題ではありません。少なくとも、お話を伺う限りでは、休職制度が適切に機能していなかった可能性があります」
「でしたら、いきなり退職ではなく、まずは休職してはいかがでしょうか」
透は戸惑い、思わず身を乗り出した。
「しかし、河田部長が……。私がこのまま会社に残って休職なんてしたら、黙っているはずがありません。復職したって、きっと……」
「その点については、人事で対応します」
里村の口調は穏やかだったが、その言葉には迷いがなかった。
「河田部長については、これまでも何件か相談が寄せられたことがあります」
透は目を見開いた。
「ただ、今回のように医師の診断書があり、休職を二度願い出ても認められなかったというケースは、極めて重大です」
里村は二通の診断書を静かに見つめた。
「この件については、人事として事実関係を確認し、適切に対応いたします」
そう言うと、診断書を丁寧に両手でそろえた。
「診断書の原本は、休職手続きの正式な書類として、人事部で大切にお預かりします」
続いて、ファイルから一枚の書類を取り出し、透の前へ差し出す。
会社のロゴが印字された、正式な休職届だった。
「今日の勤務についてはこちらで調整します」
「休職手続きは、人事で責任を持って進めます」
里村は穏やかに微笑んだ。
「浦部さんは、まず体を休めることだけを考えてください」
「退職のお話は、そのあとでも遅くありません」
予想もしなかった言葉に、透は言葉を失った。
目の前に置かれた休職届を見つめる。
——退職しかない。
そう思い込んでいた自分の前に、もう一つの道が静かに開かれていた。
三軒茶屋駅前の広場——
夕暮れの柔らかな光が駅前広場を包んでいた。
七海は落ち着かない様子で改札口を見つめ続けていた。
やがて、人混みの中から透の姿が見える。
七海は思わず駆け寄った。
「浦部さん!」
透は立ち止まり、七海を見つめる。
その表情は疲れていたが、どこか晴れやかだった。
「……どうでしたか?」
七海は不安そうに尋ねた。
透は小さく微笑む。
「明日から休職できることになった」
七海は一瞬、言葉を失った。
「……本当ですか?」
透は静かに頷く。
「人事の人が、ちゃんと僕の話を聞いてくれた」
「河田部長のことも、人事で対応してくれるって」
七海の瞳に涙が浮かぶ。
「よかった……」
その一言を口にした瞬間、張り詰めていた糸が切れたように涙があふれた。
透は少し照れくさそうに笑った。
「七海さんが背中を押してくれなかったら……僕ひとりでは何もできなかったよ」
七海は何度も首を振る。
「違います」
「勇気を出して行動したのは、浦部さんです」
透は、空を見上げた。
夕焼けに染まる空は、どこまでも穏やかだった。
七海は、そっと透の手を握った。
「帰りましょうか」
「うん」
二人は手をつないだまま、ゆっくりと三軒茶屋の街へと歩き出した。
仕事帰りの人々が駅へ向かい、自転車が静かに通り過ぎる。
商店街には、夕食の支度を急ぐ人たちの姿があった。
惣菜屋の店先からは、揚げたてのコロッケの香りが漂ってくる。
七海が足を止めた。
「あれ、おいしそう」
透も思わず笑う。
「買って帰ろう」
居酒屋からは楽しそうな笑い声が漏れ、オープンテラスでは若者たちが肩を並べて食事をしている。
いつもと変わらない三軒茶屋の夜。
その日常の中へ、二人も静かに溶け込んでいった。
***
その夜——
透の部屋には、静かな寝息だけが満ちていた。
ベッドの上では、透と七海が肩を並べて眠っている。
眠りに落ちたあとも、二人の手は自然と重なったままだった。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、その手をやさしく照らしている。
穏やかな夜だった。
***
同じ頃——
恵比寿の夜は、まだ賑わいを見せていた。
バーからは笑い声が漏れ、テラス席ではグラスを傾ける人たちの姿がある。
タクシーが静かに客を降ろし、街の灯りは夜が更けても消えることがない。
その一角にあるダーツバー『Lounge 180』では、営業時間が終わった。
サキは店の裏手にある非常階段へ出ると、煙草に火をつけた。
夜風がサキの金髪を揺らす。
ゆっくりと吐き出した白い煙は、夜空へ溶けるように消えていく。
見上げた先には、丸い月が静かに浮かんでいた。
煙草を吸い終えると、携帯灰皿へ押し込み、サキは店へ戻る。
グラスを片づけ、椅子をテーブルへ上げ、一つひとつ戸締まりを確認する。
店内には、もう誰もいない。
バッグを肩に掛け、帰ろうとした、その時だった。
コツン——
爪先に、何かが当たる。
一本のダーツだった。
サキはしゃがみ込み、それを拾い上げた。
そして、壁にあるダーツボードへ狙いを定め、勢いよく腕を振った。
ダンッ!
静まり返った店内に、乾いた音が響く。
サキは、ニヤリと笑う。
店の灯りが消えた。
扉に鍵を掛ける音が、静かなビルの中に響く。
サキはバッグを肩に掛け、夜の街へ歩き出した。
コツ、コツ、コツ……
足音は、やがて街のざわめきへ溶けていった。
【海がくる 第二部】 完