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芋出し画像

名前のない感情だった

    父が死んだ。

    その蚀葉は、思っおいたよりも軜かった。

    電話を切ったあずも、しばらく実感は来なかった。

    窓の倖では電車が走っおいた。

    い぀もず同じ音だった。

    コヌヒヌは冷めおいたし、スマホには仕事の通知が届いおいた。

    䞖界は䜕も倉わっおいないように芋えた。

    それなのに、䜕かひず぀だけ、倧きな柱が抜け萜ちおいる。

    そんな感芚だけがあった。

    葬儀が終わり、人が垰り、花がしおれ始める頃になっおも、その感芚は倉わらなかった。

    泣いた蚘憶もない。
    悲しくなかったわけではない。
    けれど悲しみより先に、やるこずがあった。

    圹所の手続き。
    銀行。
    保険。
    実家の片付け。

    人がひずり死ぬずいうのは、思った以䞊に事務䜜業が倚かった。

    「この抌し入れも芋ずいお」

    母がそう蚀っお、奥の和宀を指差した。
    倕方だった。
    障子越しの光が黄色くなっおいる。

    抌し入れを開けるず、叀い垃団や段ボヌル箱が積たれおいた。

    埃の匂いがする。
    子䟛の頃、この抌し入れは秘密基地だった。懐䞭電灯を持ち蟌んで、挫画を読んだ。

    芪父に怒られたこずもあった。
    その芪父は、もういない。

    䞍思議なものだず思った。

    昔はあんなに倧きかった人間が、今は骚壺ひず぀になっおいる。


    段ボヌルを䞀぀ず぀匕き出しおいく。

    工具。
    叀いカメラ。
    䜿わなくなった扇颚機。

    どれも芪父らしい気がしたし、どれも芪父ではなかった。

    奥の方に、薄汚れた玙袋があった。
    䜕気なく取り出す。
    䞭には倧孊ノヌトが数冊入っおいた。
    衚玙は日に焌けおいる。

    䞀冊を開く。
    日蚘かず思った。

    違った。

    最初のペヌゞには、こう曞かれおいた。

    昭和五十䞃幎六月二日
    今日も倱敗した。

    たった䞀行だった。

    思わずペヌゞをめくる。

    次のペヌゞ。

    どうにもならん日もある。

    たた䞀行。

    さらにめくる。

    将棋は負けた。 酒はうたかった。

    思わず笑っおしたった。

    「なんやこれ  」

    誰もいない和宀で声が出た。

    芪父の日蚘なんお芋たこずがない。

    そもそも、そんなものを曞く人だずも思っおいなかった。

    口数の少ない人だった。

    仕事の話もしない。

    若い頃の話もしない。

    自分のこずを語らない。

    そんな人だった。

    だから俺は、芪父のこずをだいたい知っおいる぀もりでいお、実は䜕も知らなかったのかもしれない。

    ペヌゞをめくる。

    障子の倖で颚が鳎った。

    その音の向こうで、

    知らない男が少しず぀姿を珟し始めおいた。


    ペヌゞをめくるたびに、芪父は思っおいたよりよく喋った。

    いや、喋ったずいうより、こがしおいた。

    誰かに読たせる぀もりではない蚀葉ばかりだった。

    字は綺麗ではない。

    急いで曞いた日もあれば、酔っおいた日もある。

    読みにくい箇所も倚かった。

    それでも、䞍思議ず手は止たらなかった。

    昭和五十䞃幎九月䞉日
    仕事で怒られた。
    腹が立぀。でも向こうの蚀うこずも分かる。
    腹が立぀。

    同じこずを二回曞いおいる。

    思わず笑う。

    芪父らしい気もする。

    らしいず蚀いながら、その「らしさ」が本圓に芪父のものなのか、自分でも分からなくなっおいた。

    昭和五十䞃幎十月十二日
    垰ったら息子が寝おいた。寝おる顔しか知らん気がする。

    その䞀文だけで、指が止たった。

    郚屋が静かだった。
    障子の向こうで颚が鳎る。
    遠くで犬が吠えた。


    芪父も、そんなこずを考えおいたのか。

    俺が寝おいる間に垰っおきお、
    朝にはもう仕事ぞ行っおいた。
    子䟛の頃は、それが圓たり前だった。
    圓たり前すぎお考えたこずもなかった。

    ノヌトは䞀冊ではなかった。

    二冊目。
    䞉冊目。
    幎代も飛び飛びだった。

    曞いおいない時期の方が長い。
    続かなかったのだろう。
    それも芪父らしかった。

    平成元幎五月八日
    犁煙䞉日目。
    吞いたい。

    平成元幎五月九日
    無理だった。

    「意志匱っ」

    思わず声が出る。

    母が隣の郚屋から、

    「䜕笑っおんの」

    ず聞いおきた。

    「いや、芪父」

    そう答えるず、母も少し笑った。

    「しょうもないこずばっか曞いおるやろ」

    「読んだこずあるん」

    「ない」

    母は銖を振った。

    「でもそんな人やったから」

    その蚀葉が劙に残った。

    そんな人。

    母は四十幎以䞊、その人ず生きた。
    俺は息子ずしお生きた。
    それでも、芋おいた人間は同じではない。


    倕方になり、敎理の手は止たっおいた。
    本圓なら段ボヌルを分けお、捚おるものず残すものを決めなければならない。

    なのに俺は、畳の䞊に座り蟌んだたた、
    知らない男の話を読んでいる。

    平成五幎十䞀月二十日
    息子が反抗期に入った。
    目も合わせない。

    たあ、そんなもんか。
    芚えおいる。
    その頃のこずは。

    芚えおいるが、自分の蚘憶しかなかった。
    芪父がどう思っおいたかなんお考えたこずもなかった。

    平成五幎十䞀月二十二日
    蚀いすぎた。
    悪かったず思う。
    でも今さら蚀えん。

    そこで、ペヌゞをめくる手が止たった。
    しばらく動かなかった。

    俺はその日を芚えおいる。
    怒鳎られたこずを芚えおいる。
    腹が立ったこずも芚えおいる。
    理䞍尜やず思ったこずも。

    でも、その二日埌に芪父がそんなこずを曞いおいたずは知らなかった。

    知らなくお圓然だ。
    誰にも芋せおいないノヌトなのだから。

    倕日が畳の䞊をゆっくり移動しおいた。
    埃が光の䞭を挂っおいる。
    時間だけが静かに流れおいく。

    芪父はもういない。

    今さら謝られおも遅い。
    今さら分かっおも遅い。

    それでも、人ずいうのは死んだあずにも、
    少しず぀知らない顔を芋せるものなのかもしれなかった。


    ノヌトはただ続いおいた。

    文字の濃さが倉わる。
    䞇幎筆だったり、ボヌルペンだったり。時々、鉛筆も混じっおいた。

    その時々で、手元にあったものを䜿っおいたのだろう。

    几垳面な人間ではなかった。
    それは息子の俺が䞀番よく知っおいる。

    平成八幎四月䞀日
    息子が高校に入った。
    䜕を話したらええか分からん。

    そこで終わっおいる。
    思わず次のペヌゞをめくる。

    平成八幎四月䞉日
    自分も芪父ず䜕を話したらええか分からんかった。血は争えん。

    思わず息が挏れた。
    祖父の顔が浮かぶ。
    怖い人だった。
    少なくずも俺にはそう芋えた。

    芪父もたた、
    その人の息子だった。
    そんな圓たり前のこずを、
    今たで考えたこずがなかった。

    平成十幎䞀月二十䞃日
    健康蚺断。
    酒を枛らせず蚀われた。
    無理やず思う。


    平成十幎䞀月二十八日
    ずりあえず今日は枛らした。
    偉い。

    「自分で蚀うなや」

    誰もいない郚屋でたた笑った。
    笑うたびに、少しだけ芪父ずの距離が倉わっおいく気がした。

    父芪ではなくなる。
    かずいっお他人でもない。

    説明の難しい堎所ぞ移動しおいく。


    気が぀けば倖は暗くなっおいた。

    母が郚屋の電気を぀ける。
    蛍光灯の癜い光が畳に広がった。

    「ご飯どうする」

    「あずでええ」

    「たた読んでるん」

    「うん」

    母は䜕も蚀わなかった。
    そのたた台所ぞ戻っおいった。

    平成十四幎六月䞉日
    息子が家を出た。

    ペヌゞをめくる。

    無事に着いたら電話しろず蚀おうず思った。蚀えなかった。

    その次。

    電話は来なかった。
    たあ元気なんやろ。

    俺はしばらく動けなかった。
    あの日のこずを芚えおいる。

    駅たで送っおもらった。
    車の䞭ではほずんど喋らなかった。

    芪父は運転しおいた。
    俺は窓の倖を芋おいた。

    若かった。
    早く家を出たかった。
    自由になりたかった。

    そんなこずばかり考えおいた。

    ホヌムで別れる時も、
    倧した䌚話はなかった。

    「ほな」

    「ああ」

    それだけだった。
    だから俺は、芪父も䜕も思っおいなかったのだず思っおいた。

    違った。

    少なくずも、
    䜕も思っおいなかったわけではなかった。


    ノヌトを閉じる。

    胞の奥が少し痛かった。
    埌悔ずは少し違う。
    申し蚳なさずも違う。
    もっず名前のない感情だった。


    郚屋の隅には、ただ敎理しおいない段ボヌルが積たれおいる。

    工具箱。
    叀いアルバム。
    䜿わなくなった扇颚機。
    昌間から䜕ひず぀進んでいない。

    俺はふず考えた。
    もし芪父が生きおいたら、
    このノヌトを芋せおくれただろうか。

    たぶん芋せない。
    絶察に芋せない。
    恥ずかしがったず思う。

    取り返しお砎ったかもしれない。
    なのに今、俺は読んでいる。
    死んだから読めおいる。

    死ななければ知らなかったこずばかりだ。
    人は生きおいる間より、
    死んだあずに近づくこずがあるのかもしれない。

    そんなこずを考えながら、
    次のノヌトぞ手を䌞ばした。


    次のノヌトは、それたでより新しかった。
    衚玙の色もただ残っおいる。
    ペヌゞの端もそれほど傷んでいない。

    芪父が五十を過ぎた頃のものらしかった。
    俺が瀟䌚人になった頃ず重なる。

    平成十八幎九月十四日
    肩が痛い。幎やな。

    䞀行。

    次のペヌゞ。

    湿垃は偉倧。

    思わず笑う。

    本圓にしょうもない。

    それなのに、なぜか次が気になる。

    平成十八幎十月二日
    息子から電話。
    珍しい。
    金の盞談じゃなかった。

    そこで吹き出した。芚えおいる。
    たしか転職の盞談をした時だ。
    芪父はろくに意芋も蚀わなかった。

    「奜きにしたらええ」

    それだけだった。
    圓時は腹が立った。
    䜕でもっず真面目に聞いおくれぞんのやず思った。

    ペヌゞをめくる。

    自分で決めるこずやず思う。
    倉なこず蚀わんでよかった。

    その䞀行を読んだ時、
    俺は畳に芖線を萜ずした。

    違ったんかもしれない。
    䜕も考えおいなかったんじゃなくお、
    考えた䞊で蚀わなかったのかもしれない。

    思い返せば、芪父はそういう人だった。
    助けないわけじゃない。
    でも先回りもしない。
    転んだら起こしおくれる。
    ただし転ぶ前には手を出さない。
    そんな人だった。

    俺はい぀からか、
    それを冷たいず思うようになっおいた。


    台所から包䞁の音が聞こえる。
    母が䜕か切っおいる。
    日垞の音だった。
    昔から倉わらない音。

    ふず立ち䞊がっお台所ぞ行く。
    母はキャベツを刻んでいた。
    手元だけ芋おいる。
    昔からそうだ。
    料理をしおいる時は、
    あたり人の顔を芋ない。

    「なあ」

    「ん」

    「芪父っお、若い頃どんなんやったん」

    包䞁の音が止たった。
    母は少し考えた。

    「若い頃」

    「うん」

    「今ずそんな倉わらん」

    即答だった。

    「いや、もっずあるやろ」

    「ないない」

    母は笑う。

    「䞍噚甚で」

    刻む。

    「酒奜きで」

    刻む。

    「将棋奜きで」

    刻む。

    「口䞋手で」

    刻む。

    「でも案倖気にしいやった」

    そこで包䞁が止たった。

    「気にしい」

    「そやで」

    母は少し笑った。

    「人のこずばっか気にしおた」

    俺は䜕も蚀わなかった。
    そんな印象はなかった。

    「蚀わんだけや」

    母はたるで心を読んだみたいに蚀った。

    「蚀わん人やっただけ」

    その蚀葉が劙に胞に残った。

    和宀ぞ戻る。

    ノヌトを開く。

    平成十九幎䞉月五日
    嫁に怒られた。
    正論なので反論できず。

    次のペヌゞ。

    悔しい。

    思わず声を出しお笑った。

    さらに次。

    でもたぶん向こうが正しい。
    もっず悔しい。

    「なんやねん」

    笑いながら蚀う。
    するず䞍思議なこずに、少しだけ涙が出た。なぜ泣いおいるのか分からなかった。

    悲しいわけではない。
    感動したわけでもない。

    ただ、
    芪父が少しず぀父芪じゃなくなっおいく。

    倱敗しお、
    怒られお、
    酒を飲んで、
    悔しがっお、
    どうしたらええか分からんたた歳を取った。

    そんな䞀人の男が、
    ペヌゞの向こうに座っおいる気がした。

    そしお初めお、俺は考えた。
    芪父は、俺ぐらいの歳の時、
    䜕を怖がっおいたんやろう。

    その時だった。
    台所から、母の声がした。

    「そういや、あの人、
    バス乗る前は材朚屋行っずったで」

    俺はノヌトを持ったたた止たっおいた。

    「知っおたん」

    「知っおるわそんなん」

    包䞁の音がたた再開する。
    トントンずいう芏則的な音。
    キャベツが少しず぀现くなっおいく。
    俺はしばらく䜕も蚀えなかった。

    「でもさ」

    ようやく口を開く。

    「芪父、そんな話䞀回もせえぞんかったで」

    母は少しだけ肩をすくめた。

    「せえぞん人やったからな」

    それだけ。
    説明でもなく、補足でもなく。
    ただ事実みたいに。

    俺はノヌトを芋䞋ろす。
    そこには䜕癟ペヌゞもある「芪父」がいる。

    でもその䞭にはただ出おきおいない時間がある。

    材朚屋。
    喧嘩。
    飛び出し。
    戻る。

    その“戻る”の意味が気になった。


    倜になっおから、たたノヌトを開いた。
    その時は、なぜか手が少し重かった。

    昭和五十六幎䞉月十日
    材朚屋を蟞めた。
    怒鳎られた。
    腹も立った。
    でも、あそこにはもうおれん。

    そこで䞀床止たっおいる。

    次のペヌゞ。

    芪父に申し蚳ないずは思う。
    でも、続けたら壊れる気がした。

    さらに次。

    戻るかもしれん。

    戻らんかもしれん。

    どっちでもええ気がする。

    「どっちでもええっおなんやねん」

    思わず声が出た。

    でもその瞬間、少しだけ分かった気もした。

    芪父はい぀も、
    「決めきらん人」やったんじゃなくお、
    「決めたあずも揺れおる人」やったんかもしれん。

    俺はこれたで、
    芪父を“固定された人間”ずしお芋おいた。
    父芪ずいう圹割ずしお。

    でもノヌトの䞭の芪父は違う。
    蟞めお、
    埌悔しお、
    でも正しいず思っお、
    たた迷っおる。
    ただの䞀人の男やった。


    倜が深くなる。
    母はもう寝おいる。
    家の䞭は静かや。
    冷蔵庫の音だけが遠くで鳎っおいる。

    俺はふず思う。

    もしこの材朚屋の話を知らんたたやったら、芪父はずっず「無口な父芪」のたたやったんやろうな、ず。

    でも今は違う。
    無口やなくお、
    蚀わなかっただけの人間に芋えおきおいる。

    ノヌトを閉じる。

    胞の奥が少しだけ重い。
    知るこずは楜になるこずやず思っおた。
    でも違うかもしれん。
    知るほどに、
    知らなかった時間の長さを思い知らされる。


    俺はふず倩井を芋る。
    蛍光灯の癜い光が滲んでいる。
    芪父はこの家で、
    どれだけ「戻るかもしれん」ず思いながら生きおたんやろう。

    そしお俺は、どれだけそれを知らずに生きおきたんやろう。



    営業所は、思っおいたより叀かった。

    壁の塗装はずころどころ剥がれおいお、 倩井の蛍光灯も少し暗い。

    倖に停たっおいるバスだけが、やけに倧きく芋えた。

    同僚の男は、灰皿に煙草を抌し぀けながら蚀った。

    「バブルの頃なぁ」

    少し笑う。

    「毎日、満員やったで」

    「どこ行っおも人、人、人や」

    俺は黙っお聞いおいた。

    「䌊勢も京郜もな、芳光バスだらけやった」

    「駐車堎、順番埅ちや」

    男は少し遠くを芋る。

    「でもあの人な」

    そこで䞀回止たる。

    「芪父さんな」

    呌び方が少し倉わる。

    「倉わっおたわ」

    「倉わっおた」

    俺が聞き返すず、男は頷いた。

    「真面目やねん」

    「でもな、たたに倉なずこで止たるねん」

    煙草の煙がゆっくり䞊がる。

    「景色芋おな」

    「急にブレヌキかけるみたいに」

    「“ちょっず芋おええですか”っお」

    「え」

    「玅葉ずか、海ずか」

    「そういうの」

    男は笑った。

    「客乗せずんのにやで」

    それは仕事ずしおは倉やった。
    でも、なぜか怒っおる感じではなかった。

    「でもな」

    男は少しだけ声を萜ずす。

    「みんな嫌がらんかったわ」

    「なんでですか」

    俺が聞くず、男は肩をすくめた。

    「なんか、気持ちよかったんやろな」

    その蚀葉が、劙に匕っかかった。

    気持ちいい。

    ノヌトの䞭の芪父ずも、 母の蚀う芪父ずも違う。でも、どこか同じ匂いがする。

    男は続ける。

    「新しい道できたらな」

    「䞀番に走りたがるねん」

    「子どもみたいに」

    その瞬間、 頭の䞭で䜕かが繋がった。
    無邪気。
    探究心。
    真面目。
    愉快。

    党郚、別々の蚀葉やのに、 同じ人間を指しおいる気がした。


    営業所の窓の倖で、 バスが䞀台動き出す。
    ゆっくり、重い音を立おながら。

    「でもな」

    男は最埌に付け足した。

    「家では、ほずんど喋らん人やったで」

    そこで、空気が少し倉わる。

    俺はその蚀葉を埅っおいた気もしたし、 
    埅っおいなかった気もした。
    同じ人間の話を聞いおいるはずやのに、
    どこかで少しず぀ズレおいく。


    営業所を出るず、 空がやけに広かった。
    さっきたでの話が、 ただ頭の䞭に残っおいる。

    芪父は䞀人やなかった。

    ノヌトの䞭の芪父。
    母の䞭の芪父。
    そしお、バスを運転しおいた芪父。
    どれも少しず぀違う。
    でも、どれも嘘には思えなかった。


    車に乗り蟌む。
    ゚ンゞンをかける。
    ふず思う。
    俺は芪父のこずを知っおいた぀もりやった。でも実際は、どの芪父もちゃんず知らんたたやったんかもしれん。


    バックミラヌに、 営業所の建物が小さくなっおいく。

    その向こうに、 知らん時間がただ残っおいる気がした。


    営業所を出おから、しばらく車の䞭で䜕も音楜をかけなかった。

    ゚ンゞンの音だけが、やけに玠盎に耳に残っおいた。

    赀信号で止たった時、なんずなくラゞオを぀ける。

    小林旭の「熱き心に」が流れおいた。

    芪父が、昔よく口ずさんでいた曲や。

    うたく歌えおいた蚘憶はない。

    でも、機嫌のええ時だけ、 たたに錻歌みたいに歌っおいた。

    俺は少しだけ聞いお、 たたラゞオを消した。

    さっき聞いた話が、ただ頭の䞭で転がっおいる。


    玅葉を芋るために急に止たるバス。

    新しい道ができたら
    䞀番に走りたがる運転手。

    それず、家ではほずんど喋らない男。

    どれも同じ人間のはずやのに、茪郭が揃わない。



    家に着いたのは、
    倜が少し深くなった頃やった。
    玄関の灯りが、癜く浮いおいる。
    靎を脱ぐ音がやけに倧きい。


    母はただ起きおいた。
    台所の明かりが぀いおいる。
    湯気の匂いがする。


    「遅かったな」

    それだけ蚀う。

    俺は曖昧に頷いた。
    和宀に戻る。
    畳の匂いが少し倉わっおいた。
    昌間よりも、也いおいる。


    ノヌトを開く。
    ペヌゞは、ただ途䞭のたた開きっぱなしになっおいた。

    平成二十二幎䞃月十八日

    文字が少し薄い。
    むンクがかすれおいる。

    最近、あたり景色を芋おいない

    䞀行。

    次のペヌゞ。

    芋おも、前ほど驚かん

    そこで止たっおいる。

    たた次のペヌゞ。

    それでも、止めるのはやめたくない


    俺はそこで手を止めた。
    あのバスの話が、少しだけ繋がる。

    この人はずっず、
    「止たる人間」やったんやないか、ず。

    景色を芋るために止たる。
    でもそれは芳光サヌビスじゃなくお、
    自分のためのブレヌキやったんかもしれない。

    ペヌゞをめくる。

    平成二十䞉幎䞉月十二日

    そこで、空癜が䞀気に重くなる。
    その前埌のペヌゞが、劙に敎っおいる。

    テレビがうるさい

    それだけ曞かれおいる。

    次。

    䜕を芋おも、同じに芋える

    次。

    そしお、数ペヌゞ。

    䜕も曞かれおいない。
    玙の癜さだけが続いおいる。

    俺は指でその空癜をなぞる。
    䜕か曞き忘れた、ずいう感じではない。

    “曞かれなかった時間”やった。

    平成二十䞉幎䞉月。

    俺はその幎を思い出す。
    䜕があったか、すぐには出おこない。
    でも、空気だけは芚えおいる。

    しばらくしお、気づく。

    東日本倧震灜の幎や。

    ノヌトの空癜が、
    急に違う意味を持ちはじめる。

    「テレビがうるさい」

    たぶん、そういうこずやない。
    芋続けるこずができなかった時間や。


    俺はふず、抌し入れの奥を芋た。
    小さい蓄電池が眮いおある。

    黒い箱みたいな圢をしおいた。

    前からあった気もする。
    でも、ちゃんず芋たのは初めおやった。

    芪父がこんなものを買う人やったずは知らなかった。

    たぶん、東日本倧震灜のあずや。
    停電した時のためやったんやろう。

    䞀床も䜿った圢跡はない。

    でも、電源を入れるず、
    ランプだけは静かに぀いた。

    ペヌゞを閉じる。
    音が消える。
    家の䞭が急に遠くなる。
    台所で、母が皿を掗う音だけがしおいる。

    普通の音やのに
    少しだけ違っお聞こえる。

    俺はふず立ち䞊がる。

    「なあ」

    台所の入口で声をかける。
    母は振り返らないたた答える。

    「なんや」

    「芪父さ」

    少し間が空く。

    「止たる人やったんかな」

    母は手を止めた。

    氎の音だけが続く。

    それから、振り返る。

    「止たる」

    「うん」

    母は少し考えおから、
    い぀も通りの声で蚀う。

    「止たるいうか」

    「止たらんず、芋えぞんもんがあったんやろな」

    それだけ蚀っお、たた皿を掗い始める。

    俺は䜕も返せなかった。

    和宀に戻る。
    ノヌトを閉じかけお、やめる。

    閉じたら終わる気がした。


    そのたた座る。

    ふず気づく。このノヌトの䞭に、
    ただ䞀床も出おきおいない時間がある。


    最埌の数幎。

    たぶん、そこが“終わり”や。

    でもそれは、
    きっず掟手な終わりやない。

    たたペヌゞを開く。

    平成二十六幎䞀月䞀日
    寒い

    䞀行。

    平成二十六幎䞀月䞉日
    正月が正月に芋えん

    そこで止たる。

    ペヌゞをめくる手が、少しだけ遅くなる。

    このあたりから、
    文字が枛っおいる。
    蚀葉が枛っおいる。

    いや、違う。
    蚀葉にする前に、
    䜕かが先に枛っおいっおいる。

    俺はノヌトを閉じる。
    今床は、ちゃんず閉じる。

    音がする。
    畳の䞊に、静かに重みが萜ちる。

    その瞬間、ようやく分かる。

    芪父は「語らなかった人」じゃなくお、
    語る必芁がなくなっおいった人や。

    窓の倖を芋る。

    電車の音が通る。

    い぀もず同じ音。

    でも今日は少しだけ違う。

    その音の䞭に、
    止たっおいたはずの時間が混ざっおいる気がした。



    営業所の男の話を聞いおから、数日が経っおいた。

    仕事は普通に続く。

    電話も鳎るし、メヌルも来る。

    けど、どこか䞀枚だけ薄い膜がかかったみたいに、党郚が少し遅れお届く。


    あの男の蚀葉だけが残っおいる。

    「急にブレヌキかけるみたいに止たるねん」

    それが、頭から離れない。

    その日、俺はもう䞀床営業所に行った。

    甚があったわけやない。

    ただ、確かめたかった。


    バスは出払っおいお、駐車堎には数台しか残っおいない。

    叀いコンクリの匂い。
    油ず、少しだけ雚の気配。

    あの男は、倖でタバコを吞っおいた。
    こっちに気づくず、軜く手を䞊げた。

    「たた来たんか」

    笑うでもなく、怒るでもなく。
    俺は頷いた。

    「もう䞀個だけ、聞きたくお」

    男はタバコを芋たたた蚀う。

    「なんや」

    少し迷っおから、蚀った。

    「うちの芪父、止たるずきっお、どんな感じでした」

    男は䞀瞬だけ黙った。
    それから、遠くを芋る。

    「  別に倧げさちゃうねん」

    「ほんたに、ほんた䞀瞬やねん」

    「ここ、ええなっお思ったら」

    指で空を指す。

    「そこで、ふっずアクセル抜くねん」

    「ブレヌキちゃうねん」

    「アクセル抜くねん」

    その蚀い方が、劙に匕っかかった。
    止めるためやなくお、

    “緩めるため”の停止。

    男は続ける。

    「芳光地でもな」

    「ガむドブックに茉っおぞんずこで止たるこずあったわ」

    「客は最初はびっくりするけどな」

    「そのうち、みんな黙るねん」

    「なんでか分かるか」

    俺は銖を振る。
    男は少し笑った。

    「その人が䞀番芋おるからや」

    その蚀葉で、少しだけ呌吞が詰たった。

    「運転しながらやで」

    「前芋おるはずやのに」

    「景色の方が、ちゃんず芋えおる顔しおんねん」

    それ以䞊は、蚀わなかった。

    颚が少し匷くなる。
    バスの圱が揺れる。
    男は最埌に付け足した。

    「でもな」

    「終点では、普通に降りおったで」

    「なんも残さんず」

    その䞀蚀が、やけに重かった。



    営業所を出おから、 昔のこずを少し思い出しおいた。

    芪父はやたら車を倧事にしおいた。

    掗車のあず、劙に満足そうな顔をしおいたのを芚えおいる。

    ある日、ふず芪父に蚀われたこずがあった。

    「お前、車きれいにしおるな」

    それだけやった。
    耒めるでもなく、説教でもなく。
    ただ芋た事実みたいな蚀い方やった。

    その時の俺は、少しだけ照れくさくお、適圓に返したず思う。

    でも今思えば、あれはたぶん、車を芋おいたんやなくお、

    “ちゃんず手をかけおる時間”を芋おたんやず思う。

    バスを運転しおいた芪父にずっお、
    車はただの道具やなかったのかもしれん。

    止たるこずも、走るこずも、どっちも仕事やった人間や。

    だからかもしれん。
    動いおるものの䞭でしか、
    ちゃんず人を芋られぞん人やった。

    その蚀葉の意味は、
    その時は分からんかった。
    今も党郚は分かっおない。



    家に垰るず、母はテレビを芋おいた。
    音は小さい。
    俺が入っおきおも、画面から目を離さない。

    「たた行っおたんか」

    「うん」

    それだけ。

    しばらくしお、母が蚀う。

    「その人な」

    「バスの運転しおるずきだけ、機嫌よかったで」

    俺は振り返る。

    「機嫌」

    母は少しだけ笑う。

    「機嫌いうか  静かに、ええ顔しおた」

    「家おるずきずは、ちょっず違う顔」

    その蚀葉が、たたずれる。
    同じ人間のはずやのに、
    堎所ごずに“別の顔”がある。

    倜、和宀。
    ノヌトを開くず、
    最埌の方の玙が少し歪んでいた。

    平成二十八幎五月二日
    今日は、海がきれいやった

    䞀行。

    次のペヌゞ。

    止めおよかった

    そのあず、少し空癜。

    そしお最埌の䞀行。

    åž°ã‚‹

    それだけや。

    どこぞ垰るずも曞いおいない。
    ただ、“垰る”だけ。

    俺はしばらく動けなかった。
    この人はずっず、
    行っお、止たっお、芋お、戻っおきおいた。

    その繰り返しだけで、生きおいたんやないかず思う。

    掟手な人生やない。
    けど、止たるたびに䜕かを芋぀けお、
    それを持たずに戻っおくる。

    その積み重ねだけが、
    このノヌトになっおいる。

    ふず、抌し入れの方を芋る。
    ただ党郚は片付いおいない。

    奥の暗さの䞭に、バスの圱みたいなものが残っおいる気がした。

    俺はノヌトを閉じる。
    今床は迷わず。
    閉じた音が、やけに静かに響く。

    その瞬間、ようやく思う。

    芪父は“語らなかった人”でも、
    “止たる人”でもない。
    ただずっず、

    「芋おから進む人」やったんや。

    電車の音が遠くで鳎る。
    い぀もず同じ音。
    でももう少しだけ違う。
    その音は、
    どこにも止たらずに流れおいくくせに、
    䞀瞬だけ、
    どこかで景色を芋おいる気がした。


    それから数日は、ノヌトを開かなかった。
    開けぞんずいうより、
    開いたあずに戻っおこれぞん気がしおいた。

    抌し入れの片付けも止たったたたや。
    段ボヌルの山は、ただそこにある。

    昔の扇颚機の䞊に、薄い埃が積もっおいる。



    ある朝、母が蚀った。

    「今日、仏壇の花倉えずいお」

    それだけやった。

    頷いお、い぀も通り仕事に出た。

    でもその日は、
    垰り道で少しだけ遠回りした。

    理由はなかった。

    ただ、どこにもたっすぐ垰りたくなかった。


    倜になっお家に戻るず、母はもう颚呂に入っおいた。

    台所の電気だけが぀いおいる。

    仏壇の前に座る。
    線銙の匂いはもう薄い。
    花は少しだけ枯れかけおいた。

    花を抜きながら思う。

    芪父は、こういう「途䞭のもの」をどう芋おたんやろう。

    䜕かが完成する前に、必ず終わる。
    それを知っおたんやろか。

    ふず、抌し入れの奥が気になった。
    ただ觊れおぞん箱がある。
    䞀番奥。
    最初に芋たずきから、
    なぜか避けおいた堎所や。

    懐䞭電灯を持っお、和宀に入る。
    障子の圱が長い。
    倜の家は、昌よりずっず広く芋える。

    抌し入れを開ける。
    冷たい空気が萜ちおくる。

    䞀番奥の箱は、小さかった。
    他よりも䞁寧に包たれおいる。

    手を䌞ばす。
    少しだけ迷う。

    開ける。

    䞭には、ノヌトが䞀冊だけ入っおいた。
    衚玙は他ず違っお、ほずんど無地やった。

    名前もない。

    ペヌゞを開く。

    最初の行。

    平成二十九幎二月十日
    今日は、止たれなかった

    䞀行。

    次のペヌゞ。

    止たりたかったのに

    そこで止たる。

    たた次。

    海を芋たかった気がする

    ペヌゞをめくる手が遅くなる。

    その先は、少しず぀乱れおいく。

    平成二十九幎䞉月䞉日
    どこにも行けん日がある

    平成二十九幎䞉月五日
    バスの音がうるさい

    平成二十九幎䞉月六日
    止たる堎所がわからん

    文字が、急に揺れおいる。

    これたでのノヌトずは違う。

    “芳察”やなくお、“迷い”や。

    ペヌゞをめくる。

    平成二十九幎䞉月十日

    そこから先は、しばらく䜕もない。

    癜いペヌゞが続く。

    数ペヌゞ。

    十数ペヌゞ。


    そしお、最埌の䞀枚。

    そこにだけ、たった䞀蚀。

    垰れぞん

    それだけや。

    俺はしばらく動けなかった。


    倖で電車が通る音がした。
    い぀もず同じ音。

    でも今日は、その音が少しだけ割れお聞こえた。


    芪父はずっず「戻る人間」やず思っおた。

    芋お、止たっお、垰っおくる人。

    でも、この最埌のノヌトは違う。

    垰る堎所が、少しず぀薄くなっおいった人間や。



    台所から、母の足音がする。

    「ただ起きずったん」

    背䞭越しの声。

    「うん」

    俺はノヌトを閉じる。

    音がする。

    でもその音は、これたでより少し軜い。

    母は仏壇の前に来お、花を芋た。

    「もう枯れおるな」

    「うん」

    母は少しだけ黙る。

    それから、蚀う。

    「でもな」

    「この人、枯れるの早い花、奜きやったで」

    俺は顔を䞊げる。

    「なんで」

    母は少し笑う。

    「長持ちするや぀は、ちゃんず芋いぞんねん」

    「芋んず、気づかんから」

    その蚀葉で、たた少しだけずれる。

    芪父は、長く続くものを信甚しおなかったんやろか。

    いや、違う。

    “倉わっおいく途䞭”を芋おたんや。

    花も、道も、人も。

    その途䞭にだけ、止たっおいた。


    俺は仏壇の前に座り盎す。

    線銙に火を぀ける。

    火が小さく揺れる。
    その揺れを芋おいるず、ふず思う。

    芪父はほんたに死んだんやろか。

    いや、そうやない。

    死んだんやなくお、
    止たる堎所がなくなっただけなんちゃうか。


    電車の音がたた通る。

    今床は、少し遠い。

    その音の䞭で、䞀瞬だけ気づく。


    芪父が止たっおいた堎所は、どこか特別な堎所やなかった。

    ただ、「今ここ」を芋぀けるための、ほんの数秒やった。

    俺はノヌトをそっず抌し入れに戻す。

    扉を閉める。

    音はしない。

    それでも確かに、䜕かが終わった気がした。

    そしお同時に、終わっおぞん気もした。

    窓の倖を芋る。

    倜の電車が、たた通る。

    止たらずに、進んでいく。

    でもその䞭に、ほんの䞀瞬だけ、
    どこかで景色を芋おいる気配があった。


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    #創䜜倧賞2026 #オヌルカテゎリ郚門


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    WhiskyCat
     
     

    acinori

     
     
    倧阪のバヌ「WhiskyCat」のマスタヌ。 りむスキヌず バむクず、ずきどき将棋。 店のトむレに眮いた䞀枚の玙から、 この物語は始たりたした。 静かな倜の出来事を曞いおいたす。

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