腐った牛乳とアンモニアの夜
2007年 タイ
一週間過ごしたチェンマイを離れ、再びバンコクへ向かう。
ゲストハウスのおばちゃんと子どもたちが、バス停まで車で送ってくれた。
「ユーアースペシャル」
別れ際にそう言われ嬉しくなった。長居をすればするほど人と親しくなれるし、その町も忘れられない特別な場所になる。

バンコクまではバスで11時間。この旅で初めての夜行移動だ。宿で手配してもらったツーリストバスなら、ローカルバスより快適なはずだった。
出発早々、ちょび髭のおっさんが膝掛け用の毛布を配りに来た。しかし、その毛布が異様に臭い。周りにまでその臭いをまき散らしている。
思い出したのは、小学1年の時。給食の牛乳をこぼして汚したナフキンを、怒られるのが嫌で自室の机の引き出し奥に隠しておいたことがあった。しばらくして恐る恐る嗅いでみたら、死ぬほど臭くなっていて「おえっ」と吐きそうになった。
毛布はその絶望的な臭いに似ていた。
くさ毛布と距離を置くためすぐに頭上の棚へ押し込んだものの、時々モワッと悪臭が漂ってくる。よくもまあ、こんなものを客に渡せたもんだ。
気を取り直して寝ようとしたら、頭に冷たいものが落ちてきた。
水だ。外は雨。まさか雨漏りかと思いきや、冷房から漏れてくる水滴だった。一晩中、頭上でポタポタと規則正しく刻まれるリズム。眠れるわけがない。
そして仕上げとばかりにやってきたのは、やっぱりあいつだった。
下からモワッと上がってくる、強烈な尿の臭い。バスは客席が2階で、1階は荷物置き場とトイレという変な構造。だけどそのトイレ、便座が外れていて見るからに汚い、到底座れる状態ではない。かわいそうに妻は一回も使えずに困っていた。
上からは腐った牛乳と冷房の水滴。下からは立ち上るアンモニア臭。
この最悪の状況に、僕らは怒りを通り越して笑い出してしまった。
結局ほとんど眠れないまま、朝5時、疲れきった体でバンコクに到着した。
チェンマイで最後に荷物を預けたため、一番最初に出てくるはずの僕らのバッグは、なぜか最後に出てきた。「なんでだろう?」と不思議に思ったけど、その時は深く気に留めることはなかった。
宿で少し体を休めた後、ビザを取るためにカンボジア大使館へ向かった。旅に出て初めてのビザ申請だ。移転を知らず旧住所に行ってしまうハプニングもあったけど、なんとか受付終了間際に新しい大使館へ滑り込んで、無事に取得できた。
夜にはカオサンロードの古本屋でカンボジアとベトナムのガイドブックを買って、準備は万全。いよいよタイともお別れだ。
まだ見ぬ隣国へ胸を躍らせ、明後日にはカンボジアの土を踏んでいることを、僕らは1ミリも疑っていなかった。
この夜までは。
