「早くして」を言わない母だけが、いい母ですか
朝七時四十二分、娘は片方の靴下を履いたまま、ダイニングテーブルで昨日の図書の本を読んでいました。下の子は玄関に持っていくはずの帽子をかぶり、牛乳の入ったコップを両手で回している。私は娘の髪を結ぶゴムを手首にはめたまま、食洗機から水筒を出し、時計を見て、言いました。
「もう、早くして」
言った瞬間、ああ、また言ってしまった、と思いました。
少し前、スマートフォンで「早くして、では子どもに伝わらない」という話を見ました。「靴下を履いて」「本をしまって」「玄関へ行って」と、してほしいことを具体的に伝えるほうがいいそうです。なるほど、と素直に思いましたし、たしかに大人だって、急いでと言われ続けたら嫌になる。だからその夜、明日からは言い方を変えようと決めました。
でも翌朝、私はやっぱり言いました。
娘の登校時刻と、下の子を保育園へ送る時間と、洗濯機が止まる頃合いと、今日は午前中に届く荷物のことが、頭の中で一度に動いているとき、口から出てくるのは整えられた声かけではなく、昔から知っている短い言葉でした。しかも一度では足りず、洗面所でも、玄関でも、同じ言葉を使ってしまう。
専業主婦で、朝の時間を家族のために使えるのだから、もっと穏やかにできるはず。誰かにそう言われたわけでもないのに、私は勝手にそこまで考えて、言葉ひとつで自分の一日を減点していました。
子育ての言葉は、知れば助かるものがたくさんあります。子どもの気持ちを先に受け止める、選択肢を渡す、行動を具体的に伝える。私もできる日はやっています。娘が算数のプリントで止まっているときは待てるし、下の子が靴を自分で履きたがる夕方なら、左右が逆でも笑って見ていられる。
けれど朝は、別です。
正しい声かけの例を読むたびに少し苦しくなるのは、子どもへの伝え方だけでなく、その言葉を選べるほど余裕のある母親かどうかまで、静かに見られている気がするからなんですよね。怒鳴らず、急かさず、子どものペースを尊重しながら、遅刻はさせず、忘れ物もさせない。文字にするときれいだけれど、全部を同時に抱える人の朝は、そんなにきれいには進みません。
それに、「早くして」の中にあるものは、苛立ちだけではないんです。間に合ってほしい、困らないでほしい、今日も笑って教室へ入ってほしい。もちろん、そこまで子どもに読み取ってもらおうとするのは勝手だし、伝わらない言葉なら言い換えたほうがいい。でも、母親の未熟さだけで片づけられると、少し違う、と感じます。
玄関で娘の髪を結び直しながら、私は「急がせちゃったね」と言いました。娘はランドセルを背負って、「だって本が面白かったんだもん」と笑いました。謝罪でも反省会でもなく、それで会話は終わりました。下の子はまだ帽子をかぶったまま、今度は長靴を履こうとしていました。晴れているのに。
明日の朝は、「本をしまって、靴下を履こう」と言えるかもしれません。たぶんまた、「早くして」が先に出る日もあります。私はそのたび少し気をつけて、でも、その一言だけで自分を雑な母親にしないことにしました。
送り出したあとのテーブルには、娘が閉じた本と、手首から外し忘れた細い髪ゴムが残っていました。朝の光の中では、どちらも責めるほどのものには見えませんでした。
