
水の音だけ
(あらすじ)
神戸・東灘区の中学二年生、瀬川律は六年間「力で水をねじ伏せる」水泳を続けてきた。才能はあると言われながら、タイムは伸び悩んだまま。そこへ明石から転校生・中島透が現れる。「タイムが縮まるなら、恥ずかしくない」プライドを手段として捨てられる透に、律は苛立ちと、説明のできない引っかかりを覚える。だが阪神地区大会の尼崎、ポートアイランドの県大会、淡路島の三日間の合宿、洲本の花火大会、明石焼きの帰り道……ふたりの距離は、水の中の感覚を共有するたびに、静かに、確実に縮まっていく。これは勝ち負けではなく、自分の中の何かと向き合った、ある夏の話だ。その変化に、名前はまだない。
(本文)
俺は昔から自分のことが苦手だ。
他人の目には、そう見えないらしい。クラスでも部活でも、俺はたいてい強気に振る舞う。言いたいことを言い、やりたいことをやる。躊躇いがないと言われる。それは間違っていない。でも、それと自分を好きであることは、別の話だ。自分に対して公平でいることと、自分のことが得意であることは、全然違う。俺は前者はできる。後者は、苦手だ。
俺の名前は瀬川律。神戸市東灘区に生まれ、今も東灘区に住んでいる。二月生まれの中学二年生だ。家から阪神電車に乗って十分ほどの公立中学に通っていて、水泳部に入っている。身長は百六十八センチ。体型は「引き締まっている」と言われる。水泳をしているからだろう。引き締まっている、というのは褒め言葉として使われることが多いが、俺は特に何も感じない。体は道具だ。速く泳ぐための道具だ。それ以上でも以下でもない。
家族は父と母と、二歳下の妹がいる。父親は機械関係の会社に勤めていて、口数が少なく、やると決めたことは最後までやれ、というのが口癖だ。母親は明るく社交的で、近所の人たちとよく話している。妹は父親より母親に似ていて、友達が多い。三人の中で、俺だけが少し浮いているかもしれない。
水泳を始めたのは小学二年生のときだ。理由は正直なところ覚えていない。母親に連れて行かれたのか、自分から行きたいと言ったのか。記憶の中では始まっているが、そこまでの経緯は霧の向こうだ。
でも、初めて水に入ったときのことは覚えている。プールに体を沈めた瞬間、耳の奥まで水が入ってきて、外の音が全部消えた。先生の声も、プールサイドの笑い声も、何もかも遠くなって、自分の息の音だけが残った。怖かった、という記憶はない。むしろ静かで、よかった、と思った。水の中は、誰にも邪魔されない場所だ。幼い俺は、その感覚に引っかかったのだと思う。
家に帰って、母親に「続けたい」と言った。母親は驚いた顔をしたが、結局そのまま通わせてくれた。父親は「やると決めたならやり通せ」と言った。良くも悪くも、父親の言葉だ。
それから六年間、俺はずっと泳いでいる。
小学校のプールでは、最初の年のうちにクラスで一番速くなった。別に努力した覚えはない。ただ、泳ぐのが好きで、放課後も自主的に練習した。好きなことをやっていたら、気づいたら速くなっていた。あの頃は、それで良かった。
問題は、中学に入ってからだ。
中学の水泳部では、同い年にも速いやつがいた。地域の強豪のスイミングクラブに通っていたやつとか、特別な指導を受けてきたやつとか。そういうやつたちに混ざると、「放課後も泳いでいたら一番になれた」時代は終わった。ちゃんとした練習が必要になった。
コーチの竹田先生から「肩の筋力が足りない」「体幹が弱い」と言われた。俺は言われた通りにやった。ダンベルを買い、腹筋を毎日百回やった。それで少しタイムが縮んだ。縮んだから、もっとやれば縮むと思った。もっとやった。
でも、ある時期からタイムが止まった。
二年になった今、俺のタイムは五十メートル自由形で二十七秒二だ。部内で三番目のタイムだ。三番目というのは微妙な数字だ。一番でも二番でもないが、上位ではある。コーチからも「素材はいい」と言われる。でも俺はずっとその言葉に違和感を持ち続けていた。素材がいいなら、なぜ記録が伸び悩むのか。「素材がいい」というのは「まだ本来の力が出ていない」という意味だ。それは褒め言葉ではなく、宿題だ。
答えは単純だと思っていた。練習量が足りない。だから毎朝、学校が始まる一時間前にグラウンドを走った。放課後の練習後も、一人でプールに残って追い込んだ。部活のない日曜日も、近くの市営プールに行って黙々とタイムを計った。肩の筋力が足りないと言われればダンベルを買い、体幹が弱いと言われれば腹筋を百回やった。コーチに言われたことは全部やった。言われる前からやっていたものもある。
それでも三番目のまま、タイムが止まっていた。
いま思えば、そこに気づくべき何かがあった。でも俺には、気づく準備ができていなかった。
これはそういう話だ。準備ができていなかった俺が、一人の転校生と出会って、ゆっくりと変わっていく話。完全には変わりきれなかった話でもある。人間はそんなに簡単には変われない。特に俺みたいな人間は。でも、何かが変わった。それだけは確かだ。
俺の住んでいる東灘区は、神戸の中でも好きな場所だと思う。
北を向けば六甲山がある。冬は雪をかぶる。春になると芽吹いた緑が鮮やかで、夏は濃い緑の塊として北の空を占領する。秋になると少しずつ色が変わる。山の色が季節の目印だ。南を向けば大阪湾だ。学校の屋上から、天気のいい日には海が見える。青い時間と灰色の時間がある。どちらも本物の色だ。
通学に使う阪神電車は、梅田と尼崎と三宮を結ぶ路線だ。東に乗れば大阪、西に乗れば神戸の中心地に着く。三宮から歩ける距離に、元町の商店街がある。中華街の南京町もハーバーランドも北野の異人館街も、三宮を起点に動ける。
俺はたまに自転車で西に向かう。灘区を通り抜け、ハーバーランドのモザイク前で港を眺めることがある。神戸港は、見るたびに違う顔を持っている。朝は靄がかかり、昼は光が反射し、夕方はオレンジに染まる。大きな貨物船がゆっくり動いているのを見ると、自分の速さがちっぽけに感じて、逆に落ち着く。
小学校のとき、父親に連れられて旧居留地を歩いたことがある。明治の西洋建築が残る石畳の一角で、自分がここにいることが少し不思議な感じがした。神戸はそういう街だ。異質なものが並んで、でもどこかで溶け合って存在している。港と山と、洋館と下町と、全部が混じっている。それが窮屈でないのは、街が海に向かって開いているからだと思う。
俺は神戸のことが好きだと思う。「好き」という言葉を人にはあまり使わないが、街に対しては使える。ここで育ったから、ここの空気が自分の一部になっている。
話が逸れた。本題に戻る。俺がここに書いておきたいのは、転校生のことだ。中島透のことだ。
やつが来るまでの話を少しだけ書いておく。出会う前の俺がどういう人間だったか、記録しておかないと後で忘れそうな気がした。人間は変わった後に、変わる前の自分を過小評価する。もっとひどい人間だったのに、そんなに悪くなかった気がしてくる。それが嫌だから、正直に書く。
俺は、出会う前、かなり嫌なやつだった。自覚はなかった。それが、もっと嫌なところだ。
一年のとき、部活に入ったばかりの後輩に一言だけ言い放って歩き去ったことがある。「お前のフォーム、無駄が多い」。廊下ですれ違いながら放って、振り返らなかった。後で聞いた話では、そいつは練習を切り上げて更衣室にこもり、翌日も休んだらしい。俺は自分のせいだとは思わなかった。正確には、思わないようにした。事実を言った、何が悪い、と。
今は違う。あれは俺の物言いが悪かった。俺は「気づいたこと」を伝えたかったのではなく、「俺は気づける人間だ」ということを確認したかっただけだ。相手への気遣いは、最初から存在しなかった。こういうことを、俺はよくやる。無意識に。誰かを傷つけているとき、自分が正しいことをしている気がしている。だから質が悪い。
もう一つ。一年の夏の記録会で、同い年のやつのタイムが俺と同じくらいになったとき、俺は練習後の自主練でそいつのレーンを使ったことがある。そいつが使おうとしていたレーンに先に入った。理由をつけた。「俺の方がここを使う頻度が高い」と言った。そいつは何も言わずに端のレーンに移った。翌週、そいつは部活に来なくなった。
関係ないかもしれない。俺が原因じゃないかもしれない。でも可能性はある。その可能性を、俺は長い間見ないようにしてきた。
こういうことを書くのは、自分を責めたいからではない。単純に、記録したかったからだ。俺は透に出会う前、こういう人間だった。それを覚えておきたい。
水泳についても、正直に書く。
六年間、俺がやってきたのは「力で水をねじ伏せる」練習だった。肩の筋力を上げ、腕の回転を速くし、脚のキックで前へ進む。これが正しいと思っていたし、コーチもそう指導していた。タイムが伸び悩んでも「量が足りないせいだ」と信じていた。
俺の才能がどこにあるか、早い段階から薄々わかっていた。水を「感じる」力は人よりある。波の向きや、水の流れの微妙な変化を、体で読み取る感覚がある。プールで泳いでいると、水が「ここを通れ」と言っている気がすることがある。他の部員にそれを話したら「何それ」という顔をされたから、それ以来誰にも言っていない。
でもその感覚を信じ切ることができなかった。目に見えない、数字に直結しない感覚を頼りにするより、筋力という確かなものを積み上げる方が安心できた。プライドがそうさせていた。「感覚で泳ぐ」というのは、理由を説明できない。説明できないものに頼っていると思われたくなかった。もし「なぜその泳ぎ方を選んでいるのか」と聞かれたとき、「感じたから」とは言えなかった。
そうして俺は、六年間、ズレた方向に一生懸命だった。一生懸命であること自体は本物だった。間違いない。でも、一生懸命が正しい方向に向いていなかった。そしてそのズレは、プライドで蓋をしていたから誰にも見えなかった。俺自身にも。これが、透と出会う前の俺の話だ。
四月の最初の週、新学年が始まった。
二年一組の教室は、一年のときより少し東側にあって、窓から六甲山の稜線が見えた。春の山はまだ明るい緑で、薄い雲が時々頂上を隠した。朝のホームルームが終わって、一時間目の授業が始まる前の数分間、俺はその山をぼんやりと見ていた。特別なことを考えていたわけじゃない。ただ、一年という時間が過ぎたことを確認していた。
担任の山田先生は昨年と同じで、進級しても変わらない部分は変わらないな、と思った。先生は「今年一年、よろしく」と言って、クラスの名簿を配った。名前と出席番号の確認だ。俺の名前は「瀬川律」で出席番号は二十番台後半にある。律、という名前を好きかと聞かれれば、嫌いじゃない。自分の名前に意味があると思ったことはないが、呼ばれたとき反応できる名前だから実用的だ。
ホームルームの後半で、山田先生が「隣のクラスに転校生が来た」という話をした。二年三組に、明石から来た男子生徒だという。俺には直接関係のない話だったから、右から左に流した。三組は俺のクラスじゃない。
午後の授業が終わって、放課後になった。水泳部の練習は三時半からだ。着替えて廊下を歩いていると、更衣室の前に三年の木村先輩がいた。
木村雅人先輩は水泳部のキャプテンで、部内で一番タイムが速い。一メートル七十五の体格で、肩幅が広く、泳いでいるときと陸にいるときで印象が全然違う。陸では地味な感じで、廊下で会っても「先輩だ」とわからないくらいだ。でも水の中では、別の何かに変わる。その変わり方を、俺は一年間見てきた。
その木村先輩の前に、見たことのない男が立っていた。
細かった。背は俺より低く、肩幅も薄い。水泳部というよりは文化系のクラブにいそうな体型だ。色白で、顔立ちは地味だが目だけが少し大きい。全体として、目立たない見た目だった。廊下を歩いていても気づかないような種類の人間だと思った。
その男が、木村先輩に向かって深く頭を下げた。自然な動作だった。計算されたものじゃない。必要だから頭を下げる、という動き方だった。何かを聞こうとしている前傾姿勢で、恥ずかしそうな素振りは一切なかった。
木村先輩が何かを答えた。男は頷いて、また頭を下げて、更衣室の方へ歩き出した。俺の横を通り過ぎた。目が合った。向こうは特に反応しなかった。会釈もしない。ただ通り過ぎた。
それが、中島透との最初の接触だった。
その日の練習が始まる前、西村雄二が来た。
西村は同じ一組で、水泳部の同期だ。タイムは俺より遅いが、場の空気をほぐす能力は誰にも負けない。明るく、あまり気にしない性格で、俺とは不思議と話が続く。正確には、向こうが話しかけてきて俺が最小限の返答をする、という形だが。それでも会話が続くのは、西村が相手の反応の薄さを気にしないからだ。
「見た?転校生。今日から水泳部入るらしい」
「さっき見た」
「細いよな。でも木村先輩に直接質問してたじゃん。入ったばかりでそれは緊張するよ、普通」
「必要だから聞いたんだろう」
「俺、先輩に話しかけるの一年のときはドキドキしてたけどなあ」
「それはお前が小心者なだけだ」
「ひどくない?」
俺はそれ以上答えずにプールへ向かった。透はすでに端のレーンで泳いでいた。アップをしていた。フォームは素人くさい。腕が硬い。キックが深すぎる。飛び込みの角度が悪い。タイムは遅いだろう、と思った。水泳部として見るなら、入門レベルだ。
練習が始まった。竹田先生がメニューを提示して、部員たちが動き出した。透は竹田先生に軽く挨拶をして、指定されたレーンに入った。その動き方は、新入りにしては落ち着いていた。
練習が終わって、透がプールから上がってきた。俺の隣を通った。また会釈がなかった。
俺は何も言わなかった。言う理由もなかった。
翌週の火曜日、透が三年の別の先輩に話しかけているのを見た。木村先輩ではなく、別の三年生だ。やはり深く頭を下げていた。今度は俺は近くに行っていた。気づいたときには近づいていた。
「恥ずかしくないのか」
口から出た声は、自分でも驚くくらい冷たかった。近くの部員が何人か振り返った。透も振り返った。
俺はそのとき、何を言いたかったのか。怒っていたのか。違う気がする。何か別の感情が、「恥ずかしくないのか」という言葉に変換されて出てきた。プライドを安売りしている、という苛立ちだったかもしれない。あるいは、自分の中にない何かを見て、不快になったのかもしれない。
透の顔は、怒っているわけでも怯えているわけでもなかった。少し考えるような間があって、それから言った。
「タイムが縮まるなら、恥ずかしくない」
俺は、何も言えなかった。言い返す言葉が、どこにもなかった。
透の目はまっすぐで、嘘がなかった。媚びている目でも強がっている目でもない。一つのことしか見えていない人間の目だった。タイム。コンマ一秒。それ以外は全部、その目的のための手段だった。プライドも、人の目も、自分が下手だという事実でさえも。
俺はその場を離れた。わけもなく、胸の奥に不快感があった。不快感の正体は、その場ではわからなかった。帰り道も、夕飯を食べながらも、風呂に入りながらも、それを考えた。
結局、眠れなかった。
透の「タイムが縮まるなら」という言葉を何度も反芻した。シンプルすぎて、反論できない。俺は泳ぐ目的をタイムに置いていると思っていた。でも本当にそうだったのか。俺がプライドを守ることと、タイムを縮めることの間に、本当に齟齬はなかったか。
透はプライドをタイムのための手段として使える。俺はタイムをプライドのための証拠として使っていた。この違いが、あの言葉を聞いて反論できなかった理由かもしれない。
答えは出なかった。でも初めて、問いを持った夜だった。
翌日、西村から透の情報が届いた。
「明石から転校してきたって。向こうでも水泳やってたらしい。タイムは五十メートル二十七秒台後半だって」
俺は黙った。入部直後に二十七秒台後半というのは、あのフォームで出しているなら伸びしろが大きいということだ。フォームが整えば、もっと速くなる可能性がある。
「なんかすごくない?転校してすぐに水泳部入って、先輩に話しかけて。ブレないよね、あの人」と西村が言った。
「泳ぎが下手なだけだろう」と俺は言った。
「でもタイムはほぼ律と同じじゃん」
「ほぼ、じゃない。俺の方が速い」
「コンマ何秒でしょ?大差ないじゃん」
俺はそれ以上答えなかった。コンマ何秒は、世界が変わる差でもある。少なくとも俺にとっては。その夜、市営プールに一時間余分に行った。タイムを計った。なぜ余分に行ったのか、自分でもよくわからなかった。
四月の終わりに部内のタイム計測があった。全員が五十メートルを一本泳ぐ、定期的な記録会だ。
俺は二十六秒九を出した。自己ベストだった。拳を握りしめた。これで差が広がった、と思いたかった。
透は二十七秒一だった。入部から一か月でそのタイムを出した。
コーチの竹田先生が透のそばで何か話していた。先生は白髪まじりの体育会系で、口数が少ない人だ。部員を個別に呼んで話すことは滅多にない。その先生が、透に向かってうなずいていた。何を言っているのかは聞こえなかった。でも先生の顔に、珍しいものがあった。少し気に入っている、という顔だった。
俺は自分でも気づかないうちに、透を見続けていた。水から上がって、タオルで顔を拭いている透の横顔。記録用紙を見ていない。タイムを確認する様子もない。周りの声も聞こえていないみたいだ。一人で、何かを考えている顔だった。水泳のことを考えているのだろうとは、なぜかわかった。
「律、なんか複雑な顔してる」と西村が言った。
「してない」
「転校生のタイム気になってるでしょ」
「気にしてない」
嘘をついた。気になっていた。でも気になっている理由が、嫉妬なのか別の何かなのか、うまく仕分けができなかった。
透のタイムは俺より下だ。でも入部一か月での二十七秒一は、俺が一年かけて積み上げてきた結果に近い。この差がいつか逆転するかもしれない。それが不快なのか、それとも、あいつの泳ぎに何か気になる部分があるのか。
両方だった、と今ならわかる。
五月に入ると、部活の練習が本格化した。竹田先生が週ごとにメニューを更新するようになり、距離と強度が上がった。「六月に地区大会がある。それまでに各自のタイムを固めること」と先生が言った。それ以降、練習の空気が変わった。
俺は合わせてさらに自主練を増やした。放課後の練習後に残るのはもちろん、朝も早起きしてグラウンドを走った。六年間の習慣だ。
五月の最初の週、透が練習後にプールに残っているのを初めて気づいた。先生のメニューが終わって部員がはけた後も、端のレーンで黙々と泳いでいる。俺が自主練のために残ったとき、透がいた。最初は偶然だと思った。でも三日続いた。俺と同じで、あいつも練習後に自分の時間を取る習慣がある。
互いに何も言わなかった。俺はいつもの中央レーン、透は端のレーンを使った。水を共有しているだけで、会話はない。でも同じ時間に同じ水に入っているということは、相手の泳ぎが嫌でも目に入る。俺は透の泳ぎを観察した。
透の泳ぎは、五月に入って少しずつ変わっていた。腕の回転が小さくなり、ストロークが長くなった。体のロールが増え、水面に沿う時間が延びた。力まかせに見えた四月の泳ぎと、同じ人間とは思えない変化だった。
俺の泳ぎと正反対だった。俺は腕の回転数を多くし、キックを強くし、前面で水を押して進む。コーチに「パワースイマー型だ」と言われたことがある。それが俺のやり方だと思っていた。透は逆だった。水の中での「重さ」を消そうとしている。抵抗を減らして、残った力を推進力に変える発想で泳いでいる。
ある日、練習後の自主練をしていたとき、透に話しかけられた。
「瀬川さん、もし良かったら、聞いていいですか」
名前を覚えていることに、少し驚いた。これまでほとんど言葉を交わしていない。
「なんだ」
「ラスト十五メートル、どうやって上げてますか。俺、そこだけ伸び悩んでいて」
「回転数を上げる。蹴りを強くする」と俺は答えた。それ以外に言い方を知らなかった。
透は少し間を置いて考えた。
「俺、それをやると逆に遅くなる感じがして。回転数を上げると、すごく水の抵抗が増す気がするんですよね」
俺はその言葉を聞いて、うまい返事ができなかった。「回転数を上げれば速くなる」というのが俺の常識だったが、透の言葉はその常識に対する小さな疑問符を投げかけていた。
「まあ、人によって違うかもしれない」と俺は結局言った。
「そうですよね」と透は言って、水に入っていった。
その日の帰り道、電車の中でその言葉をずっと考えていた。逆に遅くなる。回転数を上げると水の抵抗が増す。そうなると、俺のラストでの失速は何が原因なのか。結論まで辿り着かなかった。でも、何かが引っかかり続けていた。
五月の中頃、透が貧血で倒れかけた。
練習後の自主練で、透が急に水から上がった。プールサイドで座り込んでいる。顔色が悪かった。近くに他の部員はいなかった。俺だけだった。
声をかけるかどうか、一瞬迷った。でも放置はできなかった。
「おい」と俺は声をかけた。
「すみません、少し貧血みたいで」
「水、飲んだか」
「持ってきてないです」
俺はロッカーに置いてあった自分のペットボトルを持ってきた。「飲め」と渡した。
「ありがとうございます」と透は言って少し飲んで、「足りますか」と俺に聞いた。
「俺は要らない。全部飲んでいい」
三分ほど経つと透の顔色が戻ってきた。「もう大丈夫です。ありがとうございます」「また倒れたら面倒だから、今日はもう泳ぐな」「はい」と透は素直に言った。
更衣室に入ろうとした透が振り返った。「瀬川さんって、案外優しいですね」。「案外」という部分が引っかかったが、返す言葉がなかった。案外、か。普段が悪印象なのだろう。否定できなかった。
梅雨に入る前の、曇りが多い季節になった。練習が終わると外はすでに薄暗くなっていた。東灘区の家に帰る途中に小さな川がある。雨の多い時期はその川の色が変わる。晴れた日は透明に近く、曇りの日は緑がかって見える。俺はそういうものをよく観察する。水の色や質感に自然と目がいく。プールの水も、外の川の水も、海の水も、それぞれ違う。違いを言葉にはできないが、体でわかる。これが自分の才能の一端だと気づいたのは、透と出会ってからずいぶん後のことだ。
五月の最後の土曜日、練習で百メートルを十本というメニューがあった。俺は最初から飛ばした。四本はいい。五本目から落ちてきた。八本目でほぼ限界だった。隣のレーンを見た。透は変わっていなかった。最初から最後まで、ほとんど同じリズムで泳いでいる。速くない。でも揺れない。
十本を終えて、先生が来た。「瀬川。後半落ちてる。問題はどこだと思う」。その日は別の言葉が出てきた。「力の使い方が、最初から間違っているのかもしれない」。先生は少し間を置いた。それから「そうかもしれない」と言った。いつもと同じ言葉だが、響きが違った。
六月の最終土曜日、阪神地区の水泳競技大会が尼崎スポーツの森で行われた。
朝七時に学校集合で、マイクロバスで移動した。阪神高速の湾岸線を走ると、窓から工場地帯が見えた。大きな煙突と白い煙と、護岸の灰色のコンクリートが続いた。神戸の港の景色とは違う、尼崎の産業の風景だ。これも本物の景色だと思った。
尼崎スポーツの森は、尼崎市扇町にある西日本最大の総合スポーツ施設だ。水泳の会場は屋内の五十メートルプールで、天井が高く、観客席がある。声がよく響く。入った瞬間に塩素の空気が顔に当たった。他校の部員が何チームか来ていた。更衣室は混雑していて、緊張の空気が混じっていた。
試合前の俺はいつも黙る。話しかけられても最小限の返答しかしない。西村は慣れているから何も言わないが、透は初めての大会だから少し落ち着かない様子だった。でも、焦っているわけでもなく、ただ準備をしている、という雰囲気だった。
アップを終えて待機エリアに戻ったとき、透が横に来た。
「少し、話してもいいですか」
「構わない」
「瀬川さん、ラストの失速、まだ続いてますよね」
図星だった。地区大会でも、練習でも、ラスト十五メートルの失速は解消されていない。
「言いたいことがあるなら言え」
「最初の五メートルだけ、力を入れてみたらどうですか。飛び込んでから水に乗るまでの五メートル。そこだけ集中して力を使って、残りは乗るを意識する。力を最初に使い切ると後半が楽になる気がします。俺の場合はそうだったから、参考にならないかもしれないけど」
「根拠は」
「理屈じゃなく、感覚で言ってます。でも先月試してみたら、後半の呼吸が楽になった」
俺は透の言葉を聞いた。感覚で言っている。俺が一番頼ることを避けてきた感覚の話を、透は当然のように言う。「試してみる」と俺は言った。
木村先輩がAヒートで泳いだ。二十六秒一。無駄がなく、力強く、美しかった。他校の選手が何人かそちらを見ていた。
俺のBヒートが来た。スタート台に立った。号砲前の静けさがあった。プールの天井の高さと、塩素のにおいと、水面の青さが一体になって感じられる瞬間だ。号砲。俺は腕を回した。前半は先頭に出た。ターンを決めた。後半、少しずつ落ちてくる。ラスト十メートル、いつもの重さが来た。踏ん張って壁に届いた。二十六秒八。Bヒートトップだった。悪くない。でも満足できなかった。
透のCヒートは三十分後だった。俺はプールサイドから見ていた。号砲。透が飛び込んだ。入水の角度が先月より良かった。腕の動きが滑らかだった。前半から後半にかけて、ほとんどペースが変わらない。ラスト五メートル、わずかに上がった気がした。壁に届いた。
電光掲示板を見た。二十六秒七だった。俺の二十六秒八より、コンマ一秒速かった。
しばらく動けなかった。プールサイドに立ったまま、掲示板の数字を見ていた。コンマ一秒。その差は、俺が一か月かけて縮めようとしてきた距離だ。あいつは入部から二か月で、俺を上回った。悔しい、という感情は確かにあった。でもそれだけじゃなかった。あの泳ぎで出たタイムなら、仕方ないという感覚もあった。
帰りの阪神電車の急行。窓の外を眺めた。梅雨の空が低く、灰色だった。
ホームに着いて降りようとしたとき、後ろから声がした。「瀬川さん」。透だった。他の部員はもう先に歩き出していた。「なんだ」「今日のラスト、力が入りすぎてませんでした?」。俺は立ち止まった。透は俺の泳ぎを見ていたのだ。「……自分でもわかってる」。正直に言ったのは初めてだった。
透は「そうか」とだけ言って、先に歩き出した。余計な言葉をつけ足さない。それが透の話し方だった。
俺は夜、ラストの十五メートルについて初めてちゃんと考えた。力が入りすぎている。なぜ力が入るのか。なぜラストに限って失速するのか。答えは出なかった。でも初めて問いとして正面に置くことができた。その問いを持ったまま、俺は眠りについた。
県大会は七月の最終週、神戸市立ポートアイランドスポーツセンターで行われた。
ポートアイランドは、神戸港に作られた人工島だ。三宮からポートライナーで十数分、空港方向への路線だ。橋の上から海を見下ろすと、水が深い青をしている。神戸の港でも、この辺りの色は特に濃い。人工島に入ると景色が変わる。高い建物が少なく、空が広い。海に囲まれているから、どこからでも海が見える。
スポーツセンターは島の北側にある。規模は尼崎スポーツの森より大きく、天井が高く、観客席の数も多い。入った瞬間にプールの空気が顔に当たった。大きな空間特有の、塩素と冷気が混じった空気だ。照明が強く、水面が白く光っていた。俺はこの場所が好きだ。大きな空間の緊張感が、集中を呼ぶ。
「でかいな」と西村が言った。
「公式プールだから当然だ」と俺は言った。
透は着替えた後、アップエリアに向かって黙って歩いた。迷いのない足取りだった。試合会場に来てからの透はいつも以上に言葉が少ない。
アップを終えて待機エリアに戻ったとき、透が横に来た。
「最初の五メートルだけ力を入れてみたらどうですか。飛び込んでから水に乗るまでの五メートル。そこだけ集中して力を使って、残りは乗る、を意識する。後半の呼吸が楽になる気がします」
「理屈じゃなく、感覚で言ってます」と透は続けた。俺は透の言葉を聞いた。感覚を土台に動く人間が俺に向かって言っている言葉だ。「試してみる」と俺は言った。
自分のヒートが来た。Bヒートの三コース。スタート台に立つ。プールが見える。五十メートル先の壁が見える。号砲。飛び込んだ。最初の五メートル、力を入れた。腕を大きく回して、キックを強くして、前に進む。ここだけ力を使う。水面に出て、ストロークを始めた。そこから先は、乗る。力を抜く。水の上を滑る感覚を探した。
怖かった。力を抜くと遅くなる気がした。プライドが「こんなやり方で勝てるか」と言った。でも体は軽かった。前半二十五メートル、思っていたより速く感じた。ターンを決めた。後半に入った。失速しなかった。ラスト十五メートル、いつもなら来る重さが来なかった。体が最後まで動いた。壁に届いた。タイムを見た。二十六秒四。自己ベストだった。
プールの縁に手をついて、しばらく動けなかった。水の冷たさと、自分の体の熱と、両方が手のひらに伝わってきた。何かが変わった。変わり始めた。その感触が、手のひらに残っていた。
透の結果は二十六秒五だった。先月より大幅に縮まっていた。木村先輩は五十メートルで二十五秒九を出した。
表彰式が終わって、ポートアイランドの外に出た。七月の夕方の光が強かった。島の外周を歩くと、すぐに海が見える。波のない静かな水面だった。六甲山が遠くに見えた。東灘の方角だ。その山の向こうに、俺の家がある。
透が隣を歩いていた。「どうでしたか」「自己ベストが出た」「感覚、どうでした」「最初の五メートルで力を入れて、その後乗った。ラストまで持った」「それです。それが正しいと思う」「お前に言われる前から気づいていたかもしれないが」「でも気づけてなかったでしょ」
透は笑った。笑い方が珍しくて、少し驚いた。そんな笑い方をするやつだとは思っていなかった。「うるさい」と俺は言った。でも怒っていなかった。むしろ、何か緩んだものがあった。夕方の海が橙色に変わっていた。
七月の最終週から夏休みが始まった。
水泳部の夏は忙しい。午前中に部活、午後は各自でトレーニング。それに加えて今年は夏合宿があった。「今年は淡路島で二泊三日やる」と竹田先生が練習前に言った。「兵庫県立淡路佐野運動公園の施設を使わせてもらう。強化練習と、チームとしての連携を作ること。それが目的だ」
部員がざわついた。淡路島と聞いて、明らかに浮き立つ空気になった。特に西村は「玉ねぎ食いたい」「花火ある?」と早速浮かれていた。木村先輩が「部屋割りはどうなりますか」と聞いた。「四人部屋が基本だ。後で発表する」
数日後に部屋割りが出た。俺と透と西村ともう一人の四人部屋だった。もう一人は一年の高橋という男で、おとなしい性格だった。
西村は「最強の部屋じゃん」と言った。透は無言だった。俺も無言だった。
「律と透ってさ、なんか不思議な関係だよな」と西村がにやにやしながら言った。
「別に」と俺は言った。
「仲悪いわけじゃないし、仲いいわけでもない感じ。でも確実に、四月より話してるよね」
「あれは俺が余計なことを言ったんだ」
「珍しく素直」と西村が言った。
俺はそれ以上答えなかった。西村のいうことはたいてい正確だから、反論が難しい。
合宿前最後の練習日、終わった後に透と二人になった。
「合宿、楽しみですか」と透が聞いた。
「楽しみというより、何か変わりそうな気がしている」
「俺も同じです。合宿で本格的に試したい」
「お前の泳ぎも、相当変わってきてる」
「瀬川さんも気づいてましたか」
「見てるから当然だ」と俺は言った。言ってから少し後悔した。「瀬川さんの泳ぎも、俺も見てます」と透は言った。
対等だ、という気がした。見ている、見られている。どちらも隠さない。そういう関係がいつの間にかできていた。
合宿の前日の夕方、阪神電車で透と一緒になった。電車に乗って、最初の数分は黙っていた。透は窓の外を見ていた。俺は中吊り広告を読んでいるふりをしていた。
「淡路島、行ったことあるか」と俺は聞いた。
「明石にいたとき、一回だけ。バイクで行ってた父親の後ろに乗って。まだ小さかったから、よく覚えてないですけど」
「合宿の目標はあるか」
「フォームを固めたい。泳ぎを練りたいです。瀬川さんは」
「乗る、を習得したい」
透がこっちを向いた。「先日の試合で少し出来てましたよね」「半分くらいは」「残りの半分は」「まだ力が邪魔をする」
透は「そうか」と言って、また窓の外を向いた。雨が降り始めていた。線路沿いの住宅の屋根が濡れていくのが見えた。俺の降りる駅が来た。立ち上がって透に言った。「明日、よろしく」「はい」と透は言った。ホームに降りて、電車が出て行くのを見た。
翌朝、七時に学校へ集合した。
バスが出発したのは七時半だ。部員全員と竹田先生と、もう一人の引率教員が乗り込んだ。俺は窓側の席に座った。透は最初、通路側の別の席に座っていたが、出発直前に西村に「瀬川の隣空いてるじゃん」と言われて移動してきた。西村はああいう気のきかせ方をする男だ。
神戸市内を西へ走った。東灘、灘、中央区、兵庫区と通り抜けていくにつれて、街の表情が変わっていく。東灘は住宅と商業施設が混在する落ち着いた街並みで、中央区に入ると三宮の高層ビルが見えてくる。更に西に進むと神戸の下町的な雰囲気になる。俺は普段、東灘から西に長距離で走ることがないから、同じ神戸市内でもここまで違うのかと思った。
垂水区に入ると、急に海が近くなった。右手に大阪湾が広がる。夏の朝の海は、光を反射して白く輝いていた。そこから少し走ると、前方に明石海峡大橋が見えてきた。
部員たちがざわめいた。何度も渡った経験がある部員もいるだろうが、でも毎回驚く。それくらい大きい。二本の主塔が空に向かって伸びていて、そこからケーブルが扇状に広がっている。近くで見ると、その大きさに圧倒される。
「橋の上から見ると、海の流れがわかる」と透が言った。
「見えるか」と俺は聞いた。
「水面の色が変わってる部分があるんです。明石海峡の、流れが速いところは濃い青で、遅いところは薄い色になってる。子どもの頃、橋を渡るたびに見てました」
「そういうの、気になるのか」
「気になりますよ。水のことは何でも気になる」
窓の外に橋の主塔が近づいてきた。橋の上に入ると、真下に海峡が見えた。水が深い青をしている。流れが速い場所と遅い場所で、確かに色が違う気がした。透の言う通りだ。
「俺も見た。確かに違うな」と俺は言った。
「でしょう。俺、ずっと気になってたんですよね、あれ」
透が少し生き生きした顔で言った。水の話をするときの透は、表情が変わる。いつもより言葉が多い。それが面白かった。
橋を渡り終えて、淡路島に入った。トンネルを抜けると、目の前に島の景色が広がった。山と田畑と、海岸線。全部が一緒くたになっている、こじんまりした島の景色だ。神戸の市街地とは全然違う。空気まで違う気がした。
兵庫県立淡路佐野運動公園に到着したのは九時過ぎだった。
バスを降りた瞬間、最初に気づいたのはにおいだった。潮の香りと、土と草の青臭さが混じっていた。それに、もう一つ、かすかに甘いようなにおいがした。玉ねぎだ、と後で気づいた。このあたりには玉ねぎ畑がある。
空が広かった。どこを向いても遮るものが少なく、空が直接地面まで落ちてくる感じがした。神戸市内にいると、南と北に山と海があるから、見上げる空には奥行きがある。ここは違う。島の、平らな部分に立っている感覚だ。
「なんか、空がでかい」と西村が言った。
「島だから、遮るものが少ない」と俺は言った。
「いいな。プールにも空があったらいいのに」
「野外プールが好きなのか」
「なんかいいじゃん。空を見ながら泳ぐの。今日はそれができる」
公園のプールは屋外の五十メートル公式プールだった。コースロープが張られ、電光掲示板がある。天井がないから、頭上に空がある。西村の言っていた通りだ。
竹田先生が全員を集めた。「今日は午後と夕方に練習する。明日は午前と午後に二回。最終日は午前のみだ。残りは自由時間にする。体調管理は各自でやれ。夜は十一時消灯」先生は少し間を置いた。「最終日の夜、洲本の大浜海岸で淡路島まつりの花火大会がある。十時集合を守れるなら行ってもいい」
部員たちが歓声を上げた。西村が「やった」と言った。木村先輩が「花火、集合は絶対に守れよ」と後輩たちに言った。
宿に荷物を置いて、午後の練習が始まった。
一日目の午後の練習は、竹田先生のメニューにしては珍しい内容だった。
「今日はタイムを測らない。水と自分の関係だけ考えろ。五十メートルを三本。ゆっくりでいい。感じることだけ意識しろ」
タイムを測らない練習は、ほとんど初めてだった。何を基準に泳けばいいのか、最初は戸惑った。でも測られていないとわかると、体が少しずつ解けてきた。
一本目。普通に泳いだ。空が見えた。上を向くと、青い空が見えた。プールの中からこんな角度で空を見たのは初めてだと思った。
二本目。力を意識して抜いた。腕が水の中で「通り道」を探すような感覚がした。いつもより水の重さを感じた。水が俺に触れている面積を、意識した。
三本目。体全体を意識した。体の傾きと、水面との角度と、キックのリズムが一体になる瞬間があった。一瞬だけ、水の上を滑る感覚があった。ほんの二、三ストローク分だったが、確かにあった。
プールサイドに上がったとき、透が横に来た。
「どうだった?」
「三本目、少しだけ違う感覚があった。水面を滑る感じ」
「それです。それが乗れてる状態だと思う」
「お前はどうだった」
「肩甲骨で水を押す感覚がした。コーチには言われたことないけど、自然にそうなった」
先生の目的が、この場所でないと機能しなかったということだと俺は思った。神戸のプールではタイムという物差しが常にある。それがない空間では、体が素直に動ける。
「先生、こういう練習も入れてたんだな」と俺は言った。
「先生、実は水のことよくわかってる気がしますよ」と透が言った。
「口数が少いのに」
「そういう人がわかってることもある」
俺はその言葉を聞いて、自分の父親を思った。やると決めたならやり通せ、と言う人だ。あの人も口数が少ない。でも、的を外したことを言う人じゃない。
夕方の練習は一転して強度が上がった。四百メートルを四本、インターバル二分だ。一本目から体が重かった。午後の練習で使った筋肉がすでに疲れている。
それでも泳いだ。四本全部、タイムを落とさずに泳ぎ切るつもりでいた。実際には三本目から少し落ちた。四本目はほぼ限界だった。
透は四本目まで揺れなかった。俺より遅いが、ペースが安定している。それを確認してから、俺は自分の泳ぎに戻った。
練習が終わって、プールサイドに仰向けに倒れた。空が見えた。もう夕方で、空が橙色になり始めていた。雲が少なくて、広い空の中に夕日の色が広がっていた。
「空が広いな」と俺は言った。誰に言うともなく。
透が隣に座っていた。「空と水が一緒に見える場所って、あんまりないですよね」と透が言った。「プールで空が見えるのは珍しい。なんか、全部が繋がってる感じがする」
俺は起き上がった。「お前、詩みたいなことを言うな」
「そうかな」
「そうだ」
「でも思ったことを言っただけですよ」
透は悪びれない顔で言った。俺は「それはそうか」と言って、水を飲んだ。
夕食は宿の食堂で食べた。
淡路島の食材を使った料理が並んだ。玉ねぎの炒めたものと、タコの煮物と、地元の魚の焼いたものと、白飯と味噌汁だった。玉ねぎが甘かった。本州のスーパーで売っているものと根本的に違う。辛みがなく、甘くて、柔らかかった。
「うまい、これ」と西村が三回繰り返した。「玉ねぎだけで飯食える」
「食えるわけないだろう」と俺は言った。
「食えるって。試してみ」
透は玉ねぎを一口食べて、少し考えてから言った。「甘い。こんなに甘いのは初めて食べた」
「明石にいたときも食べなかったのか」と俺は聞いた。
「玉ねぎ自体はよく食べましたけど、こんなに甘くはなかった。産地が近いと違うのかな」
「土が違うんだろう」と俺は言った。
「土、か」透は考えながら繰り返した。「水泳もそうかもしれない。同じ水泳でも、どの水で育つかで変わる、みたいな」
「どういう意味だ」
「俺は明石の海の近くで育ったから、水の感覚が少し違うのかもしれない。神戸で育った人とは、水との付き合い方が違う可能性がある」
「それは言い訳にならないか」と俺は言った。
「言い訳じゃないですよ。条件が違うというだけで。同じ土台に立てば、勝負できる」
透の「勝負できる」という言葉が妙に響いた。弱気なのか強気なのか判断がつかない。でも言葉には嘘がない。
西村が俺に小声で言った。「透って、意外と喋るよな。俺、最初あんまり話さない人だと思ってたけど」
「俺もそう思ってた」と俺は小声で返した。
「水の話とか、好きなことになると急に口数増えるよね」
俺はうなずいた。それは確かだと思った。
夕食後、外に出た。夜の空気は昼より涼しく、虫の声がした。縁側に座っていると、透が来た。
星の話をした。神戸では見えない星が見える、という話だ。透は「明石でも海の方向には星が見えた」と言った。
「明石の頃の話、聞いていいか」と俺は聞いた。
透は少しだけした。海峡が見える場所に住んでいたこと。対岸の淡路島が遠くに見えたこと。明石焼きが好きだったこと。水泳は明石のスポーツクラブで習い始めたこと。コーチが面白い人で、「水と友達になれ」といつも言っていたこと。
「水と友達になれ、か」と俺は繰り返した。
「変なコーチでしたよ。でも、今思えば、あの言葉が一番大事だったかもしれない」
「友達ということは、対等ということか」
「そうだと思います。制御するんじゃなく、付き合う。水に勝とうとするんじゃなく、一緒にいる」
俺はその言葉を聞いて、六年間の自分の練習を思った。俺はずっと水を制御しようとしていた。水に勝とうとしていた。友達だと思ったことは一度もなかった。
「転校で友達と別れるのは辛くなかったか」と俺は聞いた。
「辛くなかったといえば嘘になります。でも、それ以上に水泳を続けたかった。神戸の方がレベルが高い環境があるから、そっちを選んだ感じです」
「水泳のために転校したようなものか」
「そこまでじゃないですけど、まあ、そういう面もあります」
俺はその言葉の意味を考えた。友達と別れても、水泳を選んだ。それが透の優先順位だ。それを一言で言えば「タイムが縮まるなら恥ずかしくない」だ。最初に見た透の姿が、少し理解できた気がした。
「神戸に来て、よかったと思ってるか」と俺は聞いた。
少しの間があった。
「来てよかったと思い始めてます」と透は言った。
「始めてます」という語尾を、しばらく考えた。まだ確定していないが、なりつつある。そういう意味だ。「そうか」と俺は言った。虫の声が続いていた。天の川らしきものが薄く見えた。神戸では見えない夜空だ。
二日目の朝は五時半に目が覚めた。
宿の廊下に出ると、外がうっすら明るくなっていた。誰も起きていない時間だった。一人で外に出た。
空が、藍色から水色に変わる途中だった。東の方向が少し明るい。島の輪郭がシルエットになって見えた。風がなく、海の音だけが聞こえた。波が規則的に打ち寄せる音だ。
こういう時間が好きだ。誰もいない、静かな時間。水泳部に入って、競うことが増えた。でも元々俺が水泳を好きになったのは、プールの中の静けさのためだ。その感覚が、こういう朝にも似ている。
十分ほど外にいると、背後で扉が開いた。振り返ると、透だった。
「早いですね」と透が言った。
「お前もだ」
「眠れなかった。早起きは得意なんですけど、それより早く目が覚めた」
透が隣に来た。二人で、明るくなっていく空を見ていた。
「今日も練習、ハードそうですね」と透が言った。
「先生のことだから」
「でも昨日の感覚、続けたい」
「俺もだ。あの滑る感覚、一本だけ出た」
「一本出たなら、また出せますよ」
「根拠は」
「一度体が覚えたことは、もう一度できる。俺はそう思ってる」
その言葉が、何かを緩めた。根拠はない。でも透がそう言うのは、単なる慰めではないことがわかった。あいつはいい加減なことを言わない人間だ。
空が白くなった。鳥の声が聞こえ始めた。
「朝飯、食いに行くか」と俺は言った。
「行きましょう」と透は言った。
二日目の午前練習は昨日より強度が高かった。百メートルを十五本、インターバル一分三十秒だ。
俺は最初の五本を強く入れた。六本目から少しずつ消耗を感じた。十本目で完全に限界が来た。それでも泳いだ。十五本全部泳ぎ切った。
透はペースを変えなかった。最初から最後まで、揺れない泳ぎだった。タイムは俺より遅い。でも最後の一本まで崩れなかった。
練習後、俺は地面に座り込んだ。肩が重く、足が上がらなかった。透が水を持ってきた。
「この間、もらったんで」と透が言った。
俺はそれを受け取った。あの日、貧血になった透に水を渡した。それを覚えていた。「お前、ちゃんと覚えてたんだな」
「当然です」
水を飲んだ。体に染み込む感じがした。「お前のペース配分、教えてくれ」と俺は言った。言いながら、少しだけ頭を下げた。自分でもわかった。初めてだった。
透は少し驚いた顔をした。それからすぐに普通の顔に戻って言った。「最初から最後まで同じ力の使い方をするだけです。最初に力を使いすぎないように注意するだけで、後は自然についてくる」
「それができれば苦労しない」
「最初だけ意識すればいいんです。力任せに泳ごうとすると後半が死ぬ」
「後半が死ぬ」という表現が面白かった。透は普段あまり感情的な言葉を使わない。でも「後半が死ぬ」というのはリアルだった。俺がずっとラストで経験してきたことと完全に一致していた。「俺も六年間、ずっとそうだった」と俺は言った。
「でも最近は違ってきてますよね」と透は言った。
「お前のアドバイスで変わった」
「俺のアドバイスというより、瀬川さんの才能が出てきた感じがします」
その言葉を聞いて、俺は何も言えなかった。才能という言葉を、いい意味で使われたのが久しぶりな気がした。いや、使われたことが、たぶんなかった。
「才能、か」と俺は言った。
「感じる力があるじゃないですか。水を。俺にはあそこまでの感覚はないと思う」
「お前の方が速くなってるじゃないか」
「タイムは違う要素が複合してるから。感覚と体力と技術と、全部合わさって出る。俺は体力と技術で補ってるだけで、感覚は瀬川さんの方がある」
俺はその言葉を、静かに受け取った。否定しなかった。自分でも薄々知っていたことだったから。認めることが怖かっただけだ。
二日目の午後、自由時間に透と海へ行った。公園から歩いて十分で砂浜に出た。
大阪湾に面した海は穏やかだった。波が規則的に来て返す。水平線の遠くに、神戸の街の輪郭が霞んで見えた。そこから東に大阪がある。全部繋がっている。
俺たちは岩場に座った。砂浜ではなく岩場にしたのは、俺が勝手にそちらに歩いたからだ。透は黙ってついてきた。文句を言わない。
しばらく、二人で黙って海を見ていた。
「水泳を続けたい理由、聞いてもいいか」と俺は言った。
「速くなりたいから、というのが一番シンプルな答えです。それと、水の中に入ったとき、外の全部が聞こえなくなる感覚が好きで」
俺は思わず黙った。その感覚を、俺も小学二年のときに感じた。外の音が消えて、自分の息の音だけになる。あれが好きだった。同じ感覚を、透も好きだと言った。
「俺も同じだ」と俺は言った。
透がこっちを向いた。本当に、少し驚いた顔だった。「そうなんですか」
「プールに初めて入ったとき、外が全部遠くなった。静かだと思った。それが好きだった。今でも、水に入るときにその感覚を探してる」
「同じだ」と透が言った。今度は透が言った。
二人で少しの間、海を見ていた。波が砂を引きずる音がした。それ以外、何も言わなかった。でも、何かが埋まった感じがした。うまく言えないが、確かにそれがあった。
「お前、友達多かったか、明石に」と俺は聞いた。
「多くはないです。どちらかというと少なかった」
「なんで」
「興味のあることが、人と違ったから。水泳と、水の話ばかりしてたら、引かれることが多かった」
俺はその言葉を聞いて、自分と似ているかもしれない、と思った。俺も友達と呼べる人間は少ない。西村みたいに向こうから来てくれる人間とは話せるが、自分から作りにいけない。俺の場合は「人に興味がない」からだが、透の場合は「自分の興味が人と違う」からだ。違う理由だが、結果が似ている。
「神戸でも、あんまり友達できてないか」と俺は聞いた。
「クラスではまだ。水泳部の中では、少しずつ」
「西村とは話せるようになったか」
「西村さんは、あの人が来てくれるから。俺から行けるわけじゃないんですよね」
「俺も同じだ」と俺は言った。
「そうか」
「……お前と俺は、どっちが声をかけたんだ、最初」
透は少し考えた。「最初、瀬川さんから声をかけてきましたよ。恥ずかしくないのかって」
「あれは……余計なことを言っただけだ」
「でも、それで話すきっかけができた。もし瀬川さんから何も言ってこなかったら、俺から話しかけることはなかったと思う」
俺はその言葉を聞いた。あの一言が、きっかけになったのか。最悪の第一声だったと思っていたが、そういう見方もできる。
「それは……良かったのか、どうなんだか」と俺は言った。
「良かったと思ってます」と透は言った。間を置かずに。
その言い方が、少し直接的すぎて、俺は視線を海に戻した。波が来て、返した。
二日目の夕方の練習は短めだった。フォームの確認と、翌日に向けた調整だ。
俺は一本一本、昨日の「滑る感覚」を意識した。出る本と出ない本があった。出た本は、腕の力が均等に水に伝わっている感じがした。出なかった本は、どこかで力が空振りをしている感じがあった。
終わったあと、竹田先生が俺を呼んだ。
「瀬川。ここ二日で、感覚掴んできてる」
「まだ不安定です」
「不安定でいい。今は感覚を育てる時期だ。タイムはその後ついてくる」
先生がそんなことを言うのは珍しかった。「タイムはその後ついてくる」なんて、先生の口から聞いたことがなかった。
「先生、その考え方、最初から?」
先生は少し考えた。「最初は、量をこなせば速くなると思っていた。でも、量だけじゃない選手を何人も見てきた。感覚が変わると、タイムが急に変わることがある。そういう選手が面白い」
「俺も、そういう選手になれますか」と俺は聞いた。自分でも驚いた。先生にそういう質問をしたことがなかった。
「なれるかどうかは、お前次第だ。でも、今の方向性は悪くない」
先生は短く言って、次の部員のところへ歩いていった。それだけだった。でも、その言葉はしばらく残った。
二日目の夜、消灯前に廊下に出た。透が先にいた。
「眠れないんですか」と透が聞いた。
「まだ眠くない。お前は」
「俺も」
窓の外に星が出ていた。神戸では見えない濃さだ。天の川らしきものが薄く見えた。
「明日で終わりだな」と俺は言った。
「早いですね」
「お前にとって、今回の合宿はどうだった」
「泳ぎが変わった気がします。この三日で、何かが固まった感じ。感覚的なものが、少し体に入ってきた」
「それと?」
「それと、神戸に来てよかったと思えてきた、ということが、もう少し確かになった気がします」
「どういう意味か」
「転校してきて、最初は正直、自分がここにいる理由が水泳だけだったんです。でも最近は、それ以外の理由も少し出てきた気がしてる」
俺は透の横顔を見た。廊下の弱い光の中で、透の目が窓の外を向いていた。
「話せる人ができたから」と透は続けた。「俺から話しかけることは多くないんですけど、向こうから来てくれて、かつ、ちゃんと答えてくれる人がいると、それだけで少し違う」
「俺のことか」と俺は聞いた。今度は直接聞いた。
「そうです」と透は言った。
俺は何も言わなかった。でも聞いていた。「俺も、悪くない合宿だと思ってる」と俺は言った。
「それは、普段言わないことですか」
「必要ないときは言わない」
「今は必要だと思った?」
「……そうだな」
透は「そうか」と言って、また窓の外を向いた。廊下が静かだった。宿全体が眠り始めた音がした。俺たちはそのまましばらく、窓の外を見ていた。星が動いているのかどうか、肉眼ではわからない。でも、動いているのは知っている。
三日目の朝、最終日の練習が始まった。
午前中のみの練習だ。メニューはシンプルで、五十メートルを五本、百メートルを五本、最後に二百メートルを一本。仕上げだ。
俺は五十メートルの五本で、合宿のベストタイムを出した。二十六秒フラットだった。昨日まではなかなか出なかった感覚が、体に定着してきた気がした。
透は二十五秒九だった。
数字を見た瞬間、俺の中で何かがざわついた。俺より速い。合宿に入って以降、透は確実に進化している。そのスピードが、俺より速い。
でも不思議と、前ほど不快じゃなかった。あいつの泳ぎを見ていたから。あの泳ぎで出たタイムなら、そうだろうな、という感覚があった。
竹田先生が最後のミーティングをした。「三日間、よくやった。ここで感じたことを、神戸に持って帰れ。タイムはその結果だ」。それだけだった。
木村先輩が「全員、お疲れ様でした」と言った。三年の先輩らしい、重みのある言葉だった。
昼食を終えて、荷物をまとめた。宿を出るとき、宿のおばさんが見送りに出てきた。「また来てね」と言ってくれた。
バスに乗る前、透が俺に言った。「また来れますかね、ここ」
「来年も合宿があれば」と俺は言った。
「そのときは、もう三年ですね」
「そうだな。キャプテンとかは誰がやるんだろう」
「瀬川さんじゃないですか」
「俺は向いてない」
「なんで」
「口が悪い」
「そうですね」と透はあっさり認めた。「でも、見てる目は確かだと思います」
俺は何も言わなかった。透がそういうことを言うのは珍しかった。
バスが出発した。公園が遠ざかっていった。島の緑が、窓の外を流れていった。
合宿最終日の夜、洲本の大浜海岸へ向かった。
バスの中は、練習後の疲れと花火への期待が混在していた。西村は「屋台で何食べる?」という話をずっとしていた。木村先輩は後輩の一年生に花火大会の注意事項を言っていた。俺と透は窓側に座って、暗くなった島の景色を見ていた。
洲本市に入ると、遠くに屋台の光が見え始めた。空気に焼きそばのにおいが混じってきた。大浜海岸は、洲本市の中心部に面した大きな砂浜だ。大浜公園が隣接していて、夏のイベントの時期はここが人で埋まる。淡路島まつりは島の夏の最大イベントで、本土からも人が来る。以前は尺玉が上がる兵庫県でも最大級の花火大会で、今年もその規模が保たれているという話だった。
バスを降りると、人の多さに圧倒された。浴衣を着た人が多かった。地元の人たちが夏の夜を楽しんでいる。屋台が何十軒も並んでいて、たこ焼き、焼きとうもろこし、りんご飴、金魚すくいの景色が続いた。塩と甘さと油のにおいが混じって、夏の夜の記憶になる種類のにおいだった。
部員たちは屋台に散らばった。西村はたこ焼きの屋台に直進した。木村先輩は後輩たちと一緒に動いていた。
俺と透は流れで同じ方向に歩いた。砂浜の端の方に人が少し少ない場所があった。そこに座ることにした。二人とも、なぜそこにしたのかは特に言わなかった。自然にそうなった。
花火が始まる前の時間、海を見ていた。
夜の海は昼の海とは別の顔を持っている。光がないと、水面の色がわからない。どこまでが海で、どこからが空か、境目が曖昧だった。遠くに船の光が見えた。海の中に浮かんでいる光だ。
「明石から見える淡路島って、遠かったんですよ」と透が言った。
「今は、自分がその島の上にいるな」
「全然違います。遠くから見ていたものの中に入っているのは、全部が近い。それが不思議で、いい」
俺はその言葉を聞いて、なんとなく、自分と透の関係に重ねた気がした。四月に初めて見たときの透と、今隣にいる透は同じ人間だが遠さが全然違う。近くなった。それが「全部が近い」感じだ。言語化するのは照れ臭かったから、黙っていた。
砂浜に人が増えてきた。開始時間が近づいているのだろう。
「初めて花火大会来ましたか、淡路島」と透が聞いた。
「初めてだ。神戸港の花火には行ったことがある」
「規模は全然違うらしいですね。でも、海の上に打ち上がるのは同じか」
「海の反射があるから、空だけじゃない花火になる」
「楽しみですね」と透が言った。その顔が少し柔らかかった。いつもの透の表情には、感情の起伏があまりない。でも今は、少し子どもみたいな期待の顔があった。
花火が始まった。
最初の一発が、音より先に光った。海の上に打ち上げられたから、水面にも映った。空と水面、上と下に花火が開いた。
大きかった。尺玉が上がっていた。空一面が一瞬だけ昼のように明るくなった。周りから歓声が上がった。
連続して打ち上がった。赤、青、緑、金色。水面の反射が、波に揺れて形を変えた。波が来るたびに、反射の花火が歪んで、また戻った。
「きれいだ」と透が言った。
俺は黙っていた。きれいという言葉は正確で、でも何か足りない。水面に映って揺れる花火と、空に開いて消えていく花火と、その両方を一度に見ている感覚は、言葉にならないと思った。
上に開く花火と、下に映って揺れる花火。同じ火が、二つの形になっている。
「なんで水に映ると、また別の花火になるんだろうな」と俺は言った。
「水は形を変えるから。一度通すと全部ちょっと変わる。同じ火でも、水を通すと違うものになる」
「プールも同じか」
「そうかもしれない。水を通して見える自分って、陸から見た自分と違うような気がします。俺は水の中だと、陸より自由になれる気がする」
俺はその言葉を、しばらく繰り返していた。水を通して見える自分。俺が水の中でしか感じられないものを、透はそういう言い方で言った。
金色の大きな花火が上がった。全部の火花が中心から広がって、水面まで届くように見えた。観客が一斉に歓声を上げた。
横にいる透の横顔が、花火の光に照らされた。目を細くして、空を見ていた。俺はその横顔を、一秒か二秒、見ていた。見ていたことに気づいて、前を向いた。
胸の奥に、何か温かいものがあった。それの名前が何か、俺にはわからなかった。友情とも、それとも別の何かとも、うまく区別がつかない。名前をつけようとすると、どれも違う気がする。
でも、ここにあることは確かだった。
花火大会が終わって、人の波に飲み込まれながら集合場所へ向かった。
西村と合流した。「たこ焼き食った。フランクフルト食った。かき氷食った。最高だった」と報告が来た。シャツに何かが付いていた。「律と透はどこいたの?」
「砂浜」と俺は言った。
「二人で?」西村が目を細めた。
「みんな散らばっただろう」
「まあね。でも最近よく見るな、二人」
俺は答えなかった。答える必要を感じなかった。
帰りのバスで、透は座ってすぐに眠った。今日は練習もあって疲れたのだろう。肩が少しこちらに傾いていた。俺は起こさなかった。
俺は眠れなかった。花火の残像が目の裏にある。金色と赤の、水面に映って揺れていた花火が。
バスが明石海峡大橋を渡り始めた。夜の橋は、神戸側の光と島側の暗さが対比になっていた。橋の下の海峡は暗くて見えない。でも流れているのはわかる。常に動いている。
合宿が終わった。いろいろなことがあった三日間だった。タイムのことだけでなく、別のことも。その「別のこと」が何なのか、まだうまく言語化できていない。でも確かにあった。
神戸に戻ってからも、夏休みの練習は続いた。
合宿前と合宿後では、練習の質が変わった気がした。具体的に何が変わったかを説明するのは難しいが、体が水を「怖がらなくなった」感じがある。以前は水を制御しようとしていた。今は、水と一緒に動こうとしている。その違いは、タイムより先に体が感じていた。
八月の第一週、タイムが二十六秒フラットを切った。二十五秒九だ。
透のタイムも動いていた。二十五秒七を出した。俺より速い。むかついた。正直に言えば。でもそのむかつきは以前のとは種類が違った。以前のは「負けたくない」だけだった。今のは「追いつきたい」で、その先に「一緒に速くなりたい」が混じっていた気がする。
竹田先生が俺に言った。「瀬川、泳ぎが変わった。水に乗れるようになってきてる」「まだ不安定です」と俺は答えた。「それでいい。不安定な状態を繰り返すうちに、安定してくる」先生がそんな言い方をするのは珍しかった。
「透も変わってきてますか」と俺は聞いた。
「中島か。あいつは元から水との付き合い方がうまかった。今はそれが整ってきてる。お前たちは互いに刺激し合ってるな」先生はうなずいた。「それは悪いことじゃない」
八月の半ば、約束していた明石焼きを食べに行った。
阪神電車で明石まで行った。三宮を過ぎると電車が空いてきて、海が見える時間が長くなった。明石は神戸より少し西で、対岸に淡路島が見える。今は淡路島を見ると、合宿のことを思い出す。あの島の上にいたのが、数週間前のことだ。
明石の駅前から商店街を歩いて、透の勧める店に入った。
明石焼きは、たこ焼きと似ているが全然違う。生地がふわっとしていて、出汁をつけて食べる。熱くて、やわらかくて、うまかった。
「これは確かにうまいな」と俺は言った。
「でしょう。神戸のとは違うでしょ」
「根本的に別の食べ物みたいだ」
透は「そう、そう」と言って、三つ目を食べた。うれしそうだった。普段の透の表情にはない、少し子どもっぽい顔だった。
「明石にいたとき、よく食べたか」と俺は聞いた。
「月に一回くらい。家族で来てた。母親が好きで。こっちに来てから食べてなかったから久しぶりです」
「そうか。じゃあ、俺が一緒に来てよかったな」
「そうですね」と透は言った。間を置かずに。
何気ない返事だったが、その「そうですね」がなぜか頭に残った。
帰り道、明石城址の近くを通った。石垣が残っていて、古い松の木が何本かある。明石の街は、歴史が混ざっている。新しい建物と古い城址が並んでいる。
「ここに来ると懐かしいですか」と俺は聞いた。
「懐かしい気持ちもあります。でも、戻りたいかと言われると、そうでもない」
「なんで」
「今いる場所がいい、という気持ちの方が強くなってきたから」
俺は黙って聞いていた。透が「神戸の水泳部に入ってよかった」と言った。俺の目を見て言った。俺は視線を受けたまま、「俺もそう思う」と言った。自分から何かを言うのは今でも得意じゃない。でもその言葉は、本当だった。
八月の後半、部活の練習は変わらず続いた。
透との関係も、合宿以降で変わった。以前は話しかけたとき以外は話さない間柄だった。今は、自然に隣にいることが増えた。練習前のアップを一緒にしたり、帰りに同じ電車に乗ったりすることが、当たり前になった。
特別なことは何もない。ただ、以前より多く話す。それだけのことだ。
ある日、練習後に透が言った。「瀬川さん、ラストの失速、ほとんどなくなりましたね」
「気づいたか」と俺は言った。
「ここ一週間見てたら、わかります」
「お前も毎回見てたのか」
「お互い様じゃないですか。瀬川さんも俺の泳ぎ見てるでしょう」
否定できなかった。俺は透の泳ぎを、合宿以降、意識して見るようになっていた。「見てる」と俺は認めた。
透は「そうですよね」と言って、プールから上がっていった。当然のように認めたのに、透はあっさり受け取った。それが妙に居心地よかった。
八月の終わり、木村先輩が部員全員を集めた。「秋の新人戦が九月にある。三年は引退後だから出られないが、二年と一年で出ることになる。各自、目標タイムを決めておけ」
引退という言葉が出た。先輩が引退する。わかっていた。でも実感が薄かった。
練習後、木村先輩が俺に声をかけた。「瀬川、タイム変わったな」「変わりました」「何が変わった」「水の使い方だと思います」。先輩はうなずいた。「それを自分で見つけられたのはいいことだ。中島も変わった。お前ら、仲良くなったよな」
「そうでもないです」と俺は言った。
「そうか?毎日一緒にいる気がするが」先輩は笑った。
俺は何も言わなかった。仲良い、という言葉がぴったり来ない。もっと別の言葉の方が近い気がする。でも、その言葉が何かは、わからなかった。
九月に入ると、空の色が変わった。
夏の白っぽい高さから、秋の青い高さへ。東灘区の家から見る六甲山が、緑の中に少し茶色が混じり始めた。まだ暑い。でも空気の質が違う。朝、プールに向かうときの空気が、少しだけ澄んでいる。夏と秋の間の、移ろいの空気だ。
水泳部の練習は続いた。新人戦が九月の最後の週に設定されていた。
俺はこの時期、タイムより泳ぎの質を意識していた。以前なら「タイムが全て」だったが、今は違う。泳いでいる最中に水の変化を感じられるかどうか、力の入れどころと抜きどころを自分でコントロールできているかどうか、そういうことを考えながら泳いでいた。
竹田先生に呼ばれた。「瀬川、秋の新人戦、お前をA種目の最終ヒートに入れる。それに見合うタイムが出てきている」「はい」と俺は言った。「中島も同じヒートに入れる。あいつも随分変わった。お前たちは良い意味で刺激し合ってるな」
先生の言葉は短いだけに重かった。
九月の中頃、三年生を含めた最後の全体練習があった。
そのメニューが終わった後、木村先輩が後輩たちに向かって話した。「新人戦が終わったら、三年はほとんど引退する。受験もあるし、後は任せることになる。来年、このチームがどうなるかは、お前たちにかかってる」
先輩らしい、無駄のない言葉だった。余計な感情を込めない。でもその言葉の後ろに、何かが含まれているのは感じた。
練習が終わって、部員たちが散っていった。俺はプールサイドに残って、水面を見ていた。夕方の光が、プールの水を斜めに照らしていた。水の表面が、金色と青の間の色で揺れていた。
透が隣に来て、同じように水を見た。
「先輩、引退するんですね」と透が言った。
「そうだな」
「俺たちが一年になるのか、来年は」
「先輩の立場に、ということか」
「なれる気がしないですね」
「俺もそう思う」と俺は言った。
木村先輩には言葉にできない重さがある。練習量でも速さでもなく、その重さの正体がまだわからなかった。たぶん時間と経験から来るものだ。それはまだ俺たちにはない。「でも、なっていくんだろうな」と俺は続けた。透は「そうですね」と言った。夕方のプールの水が、揺れていた。
九月の最終土曜日、新人戦が行われた。会場は再びポートアイランドスポーツセンターだった。
島に渡るポートライナーの中で、透が言った。「今日、楽しみです」。「楽しみか」と俺は聞いた。「試合は楽しいですよ。日頃の練習を全部出せる場所だから」。俺はその言い方が少し羨ましかった。俺にとって試合は「結果を出す場所」だった。楽しい、という感覚は薄かった。それが変わってきたのはいつ頃からだろうと思った。
俺のタイムは二十五秒七だった。県大会からさらに縮んだ。木村先輩のタイムとの差は一秒以内に縮まった。
透のタイムは二十五秒四だった。俺のタイムを上回った。プールから上がって、電光掲示板を見た。自分のタイムの上に、透のタイムがあった。
悔しいか、と聞かれれば、悔しい。間違いない。でもそれだけじゃなかった。あの泳ぎが出たなら、仕方ない。透は水に乗って、力を節約して、ラストまで揺れなかった。そういう泳ぎで出たタイムなら、負けていい。初めて、そう思った。
透がプールから上がってきた。タオルで顔を拭きながら、俺の方を見た。
「瀬川さんも自己ベストですね」
「お前の方が速かった」
「そうですね」
透は静かに言った。自慢もしない、謙遜もしない。ただ事実を受け取った。「次、また競おう」と俺は言った。透は「はい」と言った。それだけだった。それで十分だった。
ポートアイランドの外に出て、橋を渡りながら神戸の夜景を見た。この人工島から見ると、神戸の街が海の向こうにある。山の形が見えた。六甲山のシルエットだ。その山の向こうに、俺の家がある。透の家も。西村の家も。俺たちはみんな、あの街に帰っていく。
二月の終わり、学年末テストが終わった週の金曜日だった。
明日からの三連休が明けると、すぐに新学年が始まる。俺たちは中学三年生になる。部活では最上級生になる。一年生を指導する立場になる。そのことを考えると、まだ実感が薄い。
でも確実に、そこへ向かっている。
その日の午後、誰もいない時間にプールに来た。部活の練習ではない。ただ泳ぎたかった。
更衣室で着替えて、プールに出た。二月の外気は冷たかったが、屋内プールの中は暖かかった。空気に塩素のにおいが漂っていた。いつものにおいだ。
水に入ると、いつものように外の音が消えた。二月の水は冷たかった。体が引き締まる感覚がある。俺はそれが好きだ。
三十分ほど泳いだ。タイムを計らずに、ただ感覚だけで泳いだ。一本一本、水が変わる。同じプールの水でも、毎回少し違う。温度も流れも、微妙に違う。それを感じながら泳ぐのが、今は好きだ。以前は気にしたことがなかった感覚だ。
プールサイドに上がって、体を拭いて、縁に座った。水面が揺れて、それが収まっていった。静かになった。
透が来た。俺と同じく、誰に言われたわけでもなく来たのだろう。「まだいたんですか」と透が言った。「お前こそ」と俺は言った。「なんとなく来たくなって」「俺も同じだ」
透は隣に座った。プールの水が、二人の足の先に光を揺らした。しばらく、何も言わなかった。それが普通になっていた。沈黙が不自然ではない。むしろ必要な時間だと思う。
「三年になるな」と俺は言った。
「なりますね」
「木村先輩みたいになれるかはわからないが」
「俺たちは俺たちのやり方でやるしかないですよ」
「そうだな」
透の言葉は短いが、いつも核心に近い。余計なものを足さない。それが俺には心地いい。
今年一年を振り返ると、いろいろなことがあった。透が転校してきて、あの一言を言って、ぶつかって、少しずつ話すようになって、合宿に行って、花火を見た。タイムが変わった。泳ぎが変わった。自分が少し変わった。
全部が、繋がっている気がする。
「一つ、聞いていいか」と俺は言った。
「どうぞ」
「お前、合宿のとき、話せる人ができたと言っただろう。あれ、俺のことか」
透は少しの間、水を見ていた。それから言った。「そうです」
「じゃあ、今は」
「今は、一番話せる人かもしれない」
俺は黙った。何か言おうとして、言葉が出てこなかった。こういう直球は、対処の仕方がわからない。でも嫌ではなかった。むしろ、胸の奥が少し温かくなった。その熱の名前は、まだわからない。友情とも、それとも別の何かとも、うまく区別がつかない。
つける必要もない気がした。名前がついていなくても、ここにあることは確かだった。
「俺も同じだ」と俺は言った。
「そうか」と透は言って、水面を見た。
二月のプールの水は静かだった。
俺は今でも、自分のことが得意ではない。プライドが邪魔をする場面がある。人を傷つける言い方をしてしまうことがある。力で水をねじ伏せようとする癖も、完全には抜けていない。
でも、一つだけ変わったことがある。
捨てられない自分を、捨てられないまま、ちゃんと見られるようになった。蓋をするんじゃなく、見る。見た上で、それが自分だと受け入れる。それだけのことだ。それだけのことが、俺には地面が少し動くくらいの変化だった。
透が立ち上がった。「もう行きます。また月曜日に」「ああ」と俺は言った。透の足音が遠くなって、プールの扉が開いて閉まった。
俺はしばらく、そのまま座っていた。
水面は静かだった。波一つない。でも完全には止まっていない。微かに揺れていた。それが、今の俺みたいだと思った。完全には止まっていないし、完全には動いていない。どこかで揺れている。それでいい。揺れていることが、生きていることだ。
外から、阪神電車の音が聞こえた。誰かが東向きに乗っているか、西向きに乗っているか。俺には関係ない。でも音は聞こえる。世界は外にある。
水の音だけが、しばらく続いた。