
子どもとお風呂と、泡まみれの王国
うちの風呂場は、ときどきテーマパークになる。いや、正確には事故現場に近いテーマパークだ。
主に夜、寝る前の時間帯にだけオープンする。
入場者はわたしと、娘。
運営責任者は娘で、わたしは現場スタッフである。
そして現場監督は奥さんで、検査基準はやたらと厳しい。
風呂というものは、本来「体を洗って温まって出る」という極めてシンプルな施設であるはずだが、娘の手にかかると、そんな常識はあっさり覆される。泡はただの泡ではなくなり、水はただの水ではなくなり、シャワーはもはや武器として扱われる。
「おふろ、いこっか」
と声をかけた瞬間から、すでに戦いは始まっている。
まず服を脱がせる段階で一悶着ある。
「まだあそぶ」
ここで「あとで」と言ったところで意味はない。子どもにとっての「あとで」は、ほぼ存在しない概念である。なので、こちらも覚悟を決めるしかない。
「じゃあ、アヒルさんもおふろ入るって」
適当なことを言うと、娘は一瞬だけ考え、「わかった」と言って立ち上がる。この「わかった」は信用してはいけない。「わかった(でもあとでやっぱりやめる)」の略である。
案の定、途中で逃げる。
全裸で。
廊下を走る。
なぜか笑っている。
こちらは笑っている場合ではないので、追いかける。全裸の子どもを捕獲するという行為は、想像以上に難易度が高い。滑るし、速いし、妙に楽しそうなのである。
ようやく風呂場に入れると、次はシャワーである。
「つめたいのやだ」
いや、いま出してるのはぬるま湯だよ、と思いながらも、「あったかいよ〜」と声をかける。このへんは完全に雰囲気で乗り切るしかない。
シャワーを頭にかけると、娘は一瞬固まってから、突然スイッチが入る。
「きゃーーー!!!」
ここからテーマパークが開園する。
泡である。
まずボディソープを出す。ここで普通に体を洗えばいいのに、娘はそれを許さない。
「もっと!」
すでに手のひらいっぱいに出ているのに、さらに要求してくる。
「これくらいでいいよ」
と言っても聞かないので、ほんの少しだけ追加する。するとその泡を、腕でも足でもなく、なぜか床に塗りたくる。
床が一面、ぬるぬるになる。
立つのが怖いレベルになる。
ここからが本番である。
「パパみてて!」
娘はそう言って、泡の上をすべる。
当然、転ぶ。
転んでから笑う。
こちらはヒヤヒヤしているが、本人は楽しそうなので、怒るタイミングを失う。
「すべった!」
そうでしょうね。
床は今、あなたが作ったスケートリンクですからね。
さらに、泡は増殖する。ボディソープだけでなく、シャンプーも追加投入される。
「これもやる!」
やらなくていい。
しかし止めてもやる。
結果、風呂場は完全に泡の王国になる。
壁も床も、なぜか蛇口まで泡だらけ。どこを触ってもぬるぬるしている。もはや体を洗っているのか、風呂場を汚しているのか分からない。
ようやく「そろそろ終わりにしよう」と言うと、
「まだあそぶ」
きた。
ここからが一番大変である。
なんとか湯船に入れる。
「でる!」
入って10秒で出る。
「もういっかい入る!」
また入る。
そのたびに泡が湯船に侵入し、湯船もだんだん怪しい状態になっていく。最終的に、なんとか体を流し、タオルで包み、風呂場から脱出させる。
ここまででだいたい30分。
本来なら10分で終わるはずの工程である。
わたしはぐったりしているが、娘は満足げだ。
「たのしかったね!」
それはよかった。
そしてここからが、本当の最終工程である。
風呂場に戻ると、そこには見事な惨状が広がっている。
泡だらけの床。ぬるぬるの壁。なぜか泡をまとった蛇口。
わたしは無言でシャワーを持ち、後片付けを始める。
これが閉園作業だ。
なんとかすべてを流し終え、「まあこんなもんだろう」という状態に仕上げたところで、後ろから声がする。
「終わった?」
現場監督である。
「うん、一応」
そう答えた瞬間に、監査が始まる。
裸足で風呂場に入り、床を確認する。
壁をなぞる。
蛇口に触れる。
一切の遠慮がない。
「……ここ、まだぬるぬるしてるやん」
きた。
「え、うそ」
と自分でも触ってみると、たしかに少しだけ、ぬるっとしている。
見逃していた。
完全に見逃していた。
「もう一回ちゃんと流して」
追加作業である。
再びシャワーを持ち、床と壁と蛇口を念入りに流す。
さっきより明らかに丁寧に。
最初からこれをやればよかったと思いながら。
子どもと暮らしていると、「ちゃんとやる」ということの難しさを知る。
お風呂ひとつで、ここまで工程が増えるとは思っていなかった。
ただ、それでも思う。
あの泡だらけの中で、転んで笑っていた娘の顔は、やけに楽しそうだった。
ちゃんと洗えたかどうかは、正直あやしい。
でも、「楽しかった」という記憶だけは、たぶんしっかり残る。
明日もまた、風呂場はテーマパークになるだろう。
そのたびに、わたしはスタッフとして駆り出される。
安全管理も、後片付けも、そして監査対応も、全部込みだ。
できれば、もう少し静かに入ってほしい。
泡も半分でいい。
滑るのも一回でいい。
そして何より、現場監督は検査基準を少し緩めてほしい。
それでもきっと、明日も同じことが起きる。
そして最後に、娘は言う。
「たのしかったね!」
少し遅れて、背後から静かに声がする。
「ちゃんと見てから出てきてね」
うちの風呂場は今日も、平和に大事故である。