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⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)の神風串呂-神皇正統家極秘伝

    串呂哲学研究ノート

    🎀串呂哲学研究ノート第479号

    はじめに

    🌷地名学に基づく古代史研究家「丸谷憲二さん(黄蕨の会)」は、岡山県瀬戸内市長船町おさふねちょう長船天王にある「⛩️靭負ゆきえ神社」は、旧社名を「⛩️崇神天皇社すじんてんのうしゃ」と称し、ここに崇神天皇の皇居が存在したと主張しておられます。

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    崇神天皇(3世紀後半~4世紀前半)
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    向って左側が崇神天皇社、右側の瓦屋根のみえる小社が靱負神社。
    元崇神天皇社を靱負神社と称するのは本末転倒といわねばなるまい。

    この⛩️靱負神社が、元は⛩️崇神天皇社と称した歴史的事実は、文献史料があり間違いありませんが、現在、地元の関係者すら知らないことなのです。

    ましてやこの⛩️靱負神社が崇神天皇の皇居跡であると説かれる人は丸谷憲二さんのほかに知りません!

    その原因は、元々は長船の大森にあった⛩️靱負神社が江戸時代の寛文9年(1669年)2月に崇神天皇社に移設され、崇神天皇社という社名が消されたことにあります。

    これは、時の為政者(岡山藩主 池田光政)による「崇神天皇の出自隠し」であり、その背景には徳川幕府の政策があったため、地元の人々は、御上おかみの御意向を忖度して今日に到るのです。(大日本史の編纂を命じた徳川光圀が「倭人太伯の子孫説」を嫌ったことはよく知られている。)

    ⛩️元 崇神天皇社の正式名は「⛩️靱負神社」でありますが、地元の方々は、「天王社てんのうしゃ」と呼んでいますので、丸谷憲二さんの主張される「⛩️靱負神社に崇神天皇の皇居が存在した説」を「長船町天王社 崇神天皇御所跡説」と呼ぶことにします。

    当記事では、はじめに⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)、その次に⛩️元 崇神天皇社の神風串呂、その次に「長船町天王社 崇神天皇御所跡説」の根拠となる資料をご紹介します。

    「長船町天王社崇神天皇御所跡説」の資料は、「丸谷憲二さん(黄蕨の会)」のご研究に依るものです。

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    ⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)

    主祭神
    御眞木入日子印惠命みまきいりひこいにえのみこと(崇神天皇)
    天忍日命あめのおしひのみこと
    天目一筒神あめのまひとつのかみ

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    ⛩️靱負神社(元⛩️崇神天皇社)
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    ⛩️崇神天皇社

    🟣中央に⛩️崇神天皇社、東側に⛩️靭負神社が位置している。
    🟣元々は長船の大森にあった「⛩️靭負ゆきえ神社」が寛文9年(1669年)2月に⛩️崇神天皇社に移設された。

    🟡靭負神社 - Wikipedia
    🟡長船町 - Wikipedia

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    岡山県瀬戸内市長船町長船天王(国土地理院地図)

    【参照】
    長船町(おさふねちょう)は、岡山県の南部にあった町。2004年(平成16年)11月1日に邑久郡内の邑久町おくちょう・牛窓町と新設合併して瀬戸内市となり、町役場は瀬戸内市役所長船支所となっている。
    🟡長船町 - Wikipedia

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    天王社刀剣の森・靱負神社

    ⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)の神風串呂


    🌷下記の様に、⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)の串呂が解明され、黄蕨の会代表 丸谷憲二 先生が説かれる「長船町天王社 崇神天皇御所跡説」を強化発展させることが出来ました。

    🟡超重要地文のみを掲載してみました。詳細は各リンク先でご覧下さい。

    (1)崇神王権東遷説立証-⛩️内宮と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂

    入野いりのー東入君ひがしいりぎみ-高門町たかかどちょう-大内おおち-⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)-纒向地区(崇神天皇皇居跡)-⛩️内宮ないくう

    崇神天皇(扶余王依羅)が、吉備国から纒向地区へ東遷した事を解明立証。

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    ⛩️内宮と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂(Google.map)

    (2)天皇の杜古墳を串線-⛰️御正体山と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂

    ⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)-JR伊里駅いりえき-天皇てんのうの杜古墳もりこふん-竜王町りゅうおうちょう-⛰️御正体山

    ⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)は、崇神天皇(扶余王依羅)の皇居(御所)であったことを解明立証。

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    ⛰️御正体山と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂(Google.map)

    (3)総領町上領家を串線-⛩️崇神天皇陵と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂

    入野-総領町上領家-⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)-三宝町さんぽうちょう-元依羅郷よさみごう-⛩️崇神天皇陵-石鏡島いじかじま

    崇神天皇は、三種の神器を天窓に捧げ高御座に登極した大王であったことを解明立証。

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    ⛩️崇神天皇陵と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂(Google.map)

    (4)崇神天皇の吉備国御所を表わす御所市御門町を発見!-大王町と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂

    帝釈始終(庄原市)-⛩️元 崇神天皇社(靱負神社)-御門町(御所市)-大王町(志摩市)

    崇神天皇の皇居が、瀬戸内市長船町長船天王の⛩️靱負神社(元 崇神天皇社)に存在していたことを解明立証!

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    大王町と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂(Google.map)

    (5)王頭山&大宮町を貫線!-大酒と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂

    ⛰️王頭山(丸亀市)-⛩️元 崇神天皇社(長船町)-大酒(佐用町)-大宮町(京丹後市)

    (6)長船御所の崇神天皇-王頭山と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂

    父野川-⛰️王頭山-🎯金山団地-⛩️元 崇神天皇社-大酒-大宮町

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    王頭山と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂(Google.map)

    (7)大王崇神の爪あと-JR厄神駅と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂

    ⛩️元 崇神天皇社-米田町神爪🔴-神爪🔴1丁目-JR厄神駅-⛰️竜爪🔴山

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    JR厄神駅と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂(Google.map)

    (8)続 大王崇神の爪あと-JR厄神駅と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂2

    ⛩️元 崇神天皇社-伊里川-穂浪(旧 伊里町)-神爪-神爪1丁目-JR厄神駅-「⚔️崇神天皇軍 🆚 武埴安彦軍の古戦場跡🏹」-⛰️竜爪山

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    伊里川と岡山県備前市「穂浪(旧伊里町)」を貫線している
    JR厄神駅と⛩️元崇神天皇社とを結ぶ串呂(Google.map)

    (9)瀬戸町弓削を貫線!-つるぎ町半田天皇と⛩️元 崇神天皇社との神風串呂

    🟢弓削(瀬戸町)-⛩️元崇神天皇社-天皇(つるぎ町)

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    天皇(つるぎ町)と⛩️元 崇神天皇社(長船町)との串呂(Google.map)

    つづく


    🔴長船町天王社 崇神天皇御所跡説(資料)

    地名学に基づく古代史研究家「丸谷憲二さん(黄蕨の会代表)」は、岡山県瀬戸内市長船町おさふねちょう長船天王にある「⛩️靭負ゆきえ神社」は、旧社名を「⛩️崇神天皇社すじんてんのうしゃ」といい、ここに崇神天皇の皇居が存在したと主張しておられます。

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    黄蕨の会代表 丸谷憲二さん

    当ブログでは、この丸谷憲二さんの学説を「長船町天王社 崇神天皇御所跡説」と呼ぶことにしました。

    🟡関連資料
    🍀丸谷 憲二(Facebook)
    🍀黄蕨の会
    🍀先史古代研究会
    🍀日向石神社と石上神社
    🍀日向石神社と石上神社 (瀬戸内市長船町石上)
    🍀祇園石天王(日向石神社旧跡)
    🍀瀬戸内魅力物語「古代史から見る豊安地名」
    🍀瀬戸内魅力物語「百枝八幡宮より見える吉備国の古代史」
    🍀百枝八幡宮より見える 吉備国の古代史『地名学では邪馬台国は岡山です』説の元になった地名の調査研究です
    🍀石上郷と日向石神社(石上神社)考 (瀬戸内市長船町磯上)

    丸谷憲二さんが主張される「長船町天王社 崇神天皇御所跡説」の根拠について、上記に記載した丸谷憲二さんの研究資料を基に、その要点を簡潔に述べますと次のようになります。

    (1)地名学にもとづく根拠
    地元の地名に天王(天皇)、天王原(天皇原)、尾張(尾張大海媛)、豊原(豊鋤入姫、豊城入彦)などが残っている。

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    邪馬台国は岡山です(黄蕨(きび)の会 丸谷憲二)

    🟡元 崇神天皇社の住所
    岡山県瀬戸内市長船町長船天王
    天王社刀剣の杜一帯を「天皇原」と称した。

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    長船町長船天王

    🟡長船町磯上いそかみの天皇地名と日向石神社の磐座
    長船町磯上油杉ゆすぎに天皇地名がある。
    【日向石神社(石上の社)鎮座地の地名】

    池田 家文書の『神社明細帳』に日向石神社が式下社 湯次ゆつぎ神社の末社として記録され、祭神は崇神天皇と須佐之男神。

    「日向石神社とは、太陽に向かう石上の社の意」であり、日向石神社が古代からの石上神社。布都御魂を祀った磐座です。

    🟡瀬戸内市邑久町尾張
    「尾張大海媛」は「邑久町おくちょう尾張」に因む名前である。

    尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)は、古事記や日本書紀に登場する崇神天皇の妃の一人であり、大入杵命おおいりきのみこと(大入来命)など4人の子供をもうけたとされています。

    (あ)大海=瀬戸内海と考えると信憑性が増しますね。ヤマト地方の天理市、桜井市の近くには大海はありません。

    (い)邑久町の沿革(名前の由来)によると、邑久町の古い呼び名の一つに大来町おおくちょうがありますが、大来町おおくちょうの「大来」と大入来命(おおいりきのみこと)の「大入来」は、「入」があるか無いかの相違です。

    大来おおくで生まれた崇神天皇の皇子に依羅いり(入)を入れ「大入来命」と名付けたと考えると、この地に崇神天皇の皇居があったとする丸谷憲二さんの地名学が信憑性しんぴょうせいが増します。


    🟡邑久町豊原
    崇神天皇の皇子女「豊鋤入姫」「豊城入彦」


    (2)歴史的記録にもとづく根拠
    下記に列記した古文書に崇神天皇に関する記事があります。

    🟡池田家文書の『神社明細帳』
    崇神天皇社が記録されている。

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    池田家文書の『神社明細帳』(百枝八幡宮より見える 吉備国の古代史 
    『地名学では邪馬台国は岡山です』説の元になった地名の調査研究です)


    🟡池田家文書の『神社明細帳』
    靭負ゆきえ神社が寛文九年( 1669)に崇神天皇社社地に遷座。

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    池田家文書の『神社明細帳』(百枝八幡宮より見える 吉備国の古代史
    『地名学では邪馬台国は岡山です』説の元になった地名の調査研究です)


    🟡『長船鍛冶由緒書上』(『改訂 邑久郡史 上巻』)
    崇神6年、今の長船町で宝剣を製造した鍛冶職人が崇神天皇に献上した。

    『改訂 邑久郡史上巻』に、『長船鍛冶由緒書上』が収録されています。「一、遠祖は天目 一神の後裔にして、世々鉾剣鍛冶を業となす。崇神天皇の六己丑二月由介比の郷に於て鉾剣を鍛ひ以て天皇に献ず、天皇感賞し給ふに爵を以てす。同年八月鉾剣を鍛冶せしむ。此 時に当り更に爵一階を進む。其後世々鉾剣鍛冶となり、吉備国由介比の郷板屋に住す。一、 仁徳天皇御宇に当り家祖以為く、崇神天皇は我祖神なりと、因て由介比の郷板屋に、崇神天皇及天神宮祭神天目一神天麻喜麻呂を勧請す。・・・」とあります。
    更に、「崇神天皇御宇六 己丑歳於二日本一初テ宝剣ヲ鋳、春二月奉二崇神天皇一叡感不レ斜、賜二五位之位一、同八月 勘定有二宝剣鋳一、其時三位之位ニ昇ル、其後代々宝剣鍛冶ト成、住所者備前国湯桂郷今之 長船也、・・・」  この記録は、崇神天皇が近くの吉備国和気町に居られたから、鉾剣を献上できました。天皇鍛冶場という地名が伝承されています。

    『長船鍛冶由緒書上』の崇神天皇(百枝八幡宮より見える 吉備国の古代史
    『地名学では邪馬台国は岡山です』説の元になった地名の調査研究です)

    漢文の読み方
    崇神天皇御宇六(己丑)歳、日本に於て初て宝剣を鋳る。春二月崇神天皇に奉る。叡感斜ならず、五位之位を賜う。同八月 勘定 宝剣鋳に有り、其時三位之位に昇る。其後代々宝剣鍛冶と成る。住所は備前国湯桂郷、今之長船也


    🟡『吉備温故秘録』(きびおんこひろく)
    江戸時代後期に大沢惟貞が記した『吉備温故秘録』によると崇神天皇社は眼病を患った人々が回復を祈願し、快方に向かったと伝えられる。

    長船町史編纂委員会 編『長船町史 民俗編』長船町、1995年3月30日。
    (靭負神社 - Wikipedia)

    🟡『和気絹』(備前地誌)

    崇神天皇社。長船村に在り。此辺を天皇原といふ。天皇は人皇十代開化天皇の太子也。

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    日向石神社と石上神社(丸谷憲二 )

    🟡池田家文書の『神社明細帳』
    日向石神社が湯次神社の末社として記録されている。
    祭神が崇神天皇と須佐之男神です。

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    『日向石神社由緒書』(池田家文書の『神社明細帳』)

    日向石神社と日生の考察

    🟡その他『先代旧事本紀』

    (3)伝承・遺跡
    地元の伝承や信仰も、崇神天皇との関連を示している。
    神社周辺での発掘調査や遺跡の発見が、古代の重要な拠点であったことを示唆している。

    関連リンク
    🟣丸谷 憲二(Facebook)
    🟣黄蕨の会
    🟣先史古代研究会
    🟣日向石神社と石上神社
    🟣祇園石天王(日向石神社旧跡)
    🟣瀬戸内魅力物語「古代史から見る豊安地名」
    🟣瀬戸内魅力物語「百枝八幡宮より見える吉備国の古代史」


    🟡神風串呂を学びましょう!

    🟡バックナンバー(総合)


    🟣情報拡散のお願い
    神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
    🌷この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師が解明した神風串呂の紹介記事です。

    三浦芳聖師が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

    🌷串呂主宰神 天照大御神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

    ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

    2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

    🌷神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

    神風串呂の主宰神は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
    一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。


    🟡祈り
    全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします!


    出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。


    著者 鈴木超世志のプロフィール
    中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
    串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ74才。
    串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。

    著 書
    「神風串呂入門」
    「ここまで解った元伊勢伝承」
    「開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道」
    「天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編」
    など多数

    ブログ
    串呂哲学研究ノート
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    🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
    串呂哲学研究会 鈴木超世志
    ブ ロ グ 串呂哲学研究会
    メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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    青年時代に、神皇正統家に極秘で伝承された神風串呂を学ぶ神縁に恵まれ、爾来、細々と串呂哲学の研究を実施して参りました一学徒です。神風串呂を紹介しながら、日本神界の神経綸(かみしくみ)を研究考察して参ります。一人でも多くの方々に串呂哲学の存在を知って頂ければ望外の喜びです。

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