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💟応仁の乱の霊因を探る-魂魄は常に北闕の天を望まんと思う-⛩️後醍醐天皇塔尾陵と京都御所との神風串呂

🎀串呂哲学研究ノート 第509号

はじめに

🔴前号、前々号で天皇親政を望む後醍醐天皇の祈りが明治維新・王政復古の実現に大きな影響を与えたことを考察いたしました。

その中で、神秘的な事は、後醍醐天皇の祈りや遺志をあらわす「⛰️醍醐山」「上醍醐不動の滝」「法華」「御劔町」「南京終町」などの地文が多数配置されていた事でした。

そこで今回は、後醍醐天皇の遺詔ゆいしょう「玉骨ぎょっこつはたとい南山の苔に埋うずもるとも魂魄こんぱくは常に北闕ほっけつの天を望まんと思う。」に着目しました。

⛩️後醍醐天皇 塔尾陵と京都御所は、まるで見えない糸電話のように、互いに響き合う要所であるような気がしたので、⛩️塔尾陵と京都御所とを結ぶ串呂を引いて見たのであります。

🔶北闕ほっけつの天を望まん・・・京都を奪還するぞ!(意訳)
魂魄こんぱく(たましいと肉体を結ぶもの)
北闕ほっけつ=天皇の御所

すると予想通り、まるで神風が空を飛ぶ糸を伸ばしたかのように、御所の北西にある「🪦応仁の乱勃発の地碑」を結びつけたのです。

✳️応仁の乱は室町時代の京都を二分した大乱であり、日本史の大きな転換点でした。

🔴串呂図を見て下さい!

⛩️塔尾陵-京都御所-🪦応仁の乱勃発の地碑(⛩️上御霊神社 境内)

京都御所の北西に位置する「🪦応仁の乱勃発の地碑」は、⛩️塔尾陵-京都御所と飛んで来た神風の糸で結ばれているように見えるのです。

⛩️後醍醐天皇塔尾陵と京都御所との神風串呂(Google.map)
応仁の乱発祥の地 御霊合戦旧跡(⛩️上御霊神社 境内)れきしのくら

🔴この串呂から、応仁の乱(1467~)こそは、その400年後に実現した明治維新王政復古 (1868年)への序章ではなかったかと思われるのです。

【参照】戦国時代の主な原因「応仁の乱」
応仁の乱(1467~1477)は、室町幕府管領家の家督争いや将軍家後継問題を背景に、細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍が激しく対立し、全国に戦火が拡大した11年に及ぶ内乱である。最終的に西軍が崩壊し終結したが、京都は壊滅的被害を受け荒廃した。室町幕府の権威が失墜して日本が戦国時代へ移行した主な原因とされる。(『応仁の乱- Wikipedia』要約)

今号の内容
後醍醐天皇の遺詔ゆいしょうにある「たとえ私の亡骸なきがらが南山の苔に埋もれても、魂は常に京都御所を望む」からヒントを得て、「⛩️塔尾陵と京都御所との神風串呂」を研究することにしました。

その結果、この線上には「🪦応仁の乱勃発の地碑」(応仁の乱発祥の地 御霊合戦ごりょうかっせん旧跡碑)が存在する「⛩️上御霊神社かみごりょうじんじゃ」をはじめ、無念の思いを残して崩御し、天皇親政の実現を熱望する後醍醐天皇の祈りをあらわす地文が多数構築されていました。

応仁の乱は、室町時代の京都を二分した大乱であり、日本史の大きな転換点でした。 しかし、この乱の背後には、単なる権力争いでは語り尽くせない「霊的な因縁」が潜んでいるのではないでしょうか。

後醍醐天皇の魂は、帝都奪還の執念を抱き続け、死後もなお京都御所を望み続けたと伝えられています。⛩️塔尾陵と御所を結ぶ見えぬ糸――それは土地の名前や配置に刻まれた「串呂」として、今も私たちに語りかけているように思えるのです。


⛩️後醍醐天皇塔尾陵と京都御所との神風串呂


「生まれ育った京都に帰りたい!」

8世紀末、桓武天皇の開都以来500年以上にわたり、歴代の天皇が宮廷生活を営んできた平安京に返り咲くのを熱望しながら、虚しく⛰️吉野山で崩御した後醍醐天皇の祈りをあらわす地文が構築されているに相違ない!との想定から「⛩️塔尾陵と京都御所とを結ぶ串呂」を引いて見たのであります。

🔶串呂起点
⛩️後醍醐天皇 塔尾陵
(奈良県吉野町吉野山如意輪寺裏山)

後醍醐天皇遺詔
玉骨ぎょっこつはたとい南山の苔に埋うずもるとも魂魄こんぱくは常に北闕ほっけつの天を望まんと思う。

【参照】
後醍醐天皇 塔尾陵
後醍醐天皇 - Wikipedia

後醍醐天皇 塔尾陵
後醍醐天皇 塔尾陵(奈良県吉野町吉野山如意輪寺裏山)
⛩️後醍醐天皇 塔尾陵と京都御所との神風串呂

🔶串呂至点 
京都御所(京都御苑の中央付近)

【参照】
『京都御所 - Wikipedia』

『京都御所- Wikipedia』

この串呂の公開は、串呂哲学研究史上、はじめての試みですので、期待と不安が一杯でした。

すると予想通り「上御霊竪町かみごりょうたてまち」(京都市上京区)の「⛩️上御霊かみごりょう神社」境内の「応仁の乱勃発の地碑」のあたりをピシッと貫線しました。


⛩️上御霊神社(京都市上御霊竪町)
応仁の乱勃発の地碑

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京都御所(京都市上京区)
京都御苑中央

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⛩️塔尾陵(奈良県吉野町)

⛩️後醍醐天皇陵と京都御苑との神風串呂(Google.map)
『上御霊神社- Wikipedia』

⛩️上御霊神社は、宗教法人としての正式名は「御靈神社」ですが、京都には下御霊神社があり、また全国に御霊神社がありますので、「⛩️上御霊神社」と記載します。

⛩️上御霊神社
そもそもは桓武天皇の時代、各地で疫病が流行していた。これは御霊ごりょうの祟りであるとして、延暦13年(794年)5月、早良さわら親王(崇道すどう天皇)の御霊みたまをこの地に祀ったのが始めだとされる。(『上御霊神社- Wikipedia』)

この「⛩️上御霊神社」は、上記の由緒のように「怨霊の祟り」と深い関係のある神社であり、かつ境内には「応仁の乱勃発の地碑」があります。

🎯パズルの断片が繋がって来ました!

文正ぶんしょう2年(1467年)正月18日の朝、御霊ごりょうの森の合戦から、応仁の乱がはじまったようです。

⛩️塔尾陵-京都御所-🪦応仁の乱勃発の地碑(⛩️上御霊神社 境内)

応仁の乱をきっかけに我が国は、およそ150年にわたる内戦(戦国時代)に突入し、無辜むこの民が塗炭の苦しみを味わうことになったのでした。

🔴本稿は、このような不幸な現象がなぜ起きたのかを串呂で解明しようというのであります。

散歩と写真(京都・大阪ほか)
⛩️後醍醐天皇陵と京都御苑との神風串呂(Google.map)

💞後醍醐天皇の祈りをあらわす地文を読み解く

ここでは「⛩️塔尾陵と京都御所とを結ぶ串呂」上に配置されている後醍醐天皇の祈りをあらわす主要地文を取り上げ、その意義を読み解き、この串呂が構築された主旨を考察いたします。

後醍醐天皇は、真言密教の庇護者であり阿闍梨の資格を持っていた師僧であったことを念頭に置いて下さい。

真言密教の庇護者であり、阿闍梨の資格を持っていた後醍醐天皇

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