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💟太平記巻21の4「先帝崩御事」

    後醍醐天皇遺詔(現代仮名遣いに改めました。)
    主上しゅじょう苦しげなる御息を吐かせ給いて、妻子さいし珍宝ちんぽう及王位きゅうおうい、臨命りんみょう終時じゅうじ不随者ふずいしゃ、是れ如来の金言にして、平生へいぜい朕ちんが心に有りし事なれば、秦の穆公ぼくこうが三良さんりょうを埋うずみ、始皇帝の宝玉を随えし事、一ひとつも朕が心に取らず。只生々世々しょうじょうぜぜの妄念ともなるべきは、朝敵を悉ことごとく亡ぼして、四海を泰平せしめんと思う計りなり。朕則ち早世の後ちは、第七の宮を天子の位に即け奉って、賢士けんし忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行ないなくば、股肱ここうの臣として天下てんがを鎮しずむべし。之を思う故に、玉骨ぎょっこつはたとい南山の苔に埋うずもるとも魂魄こんぱくは常に北闕ほっけつの天を望まんと思う。若もし命めいを背そむき義を軽かろんぜば、君も継体けいたいの君に非あらず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細いさいに綸言りんげんを残されて、左の御手に法華経の五の巻まきを持たせ給い、右の御手には御剣おんつるぎを按あんじて、八月十六日の丑の剋こくに、遂に崩御ほうぎょ成りにけり。(「太平記」先帝崩御の事)


    1、口語による書き下し分(一部・後醍醐天皇の遺勅)

    「妻子珍宝及王位(さいしちんぽうきゅうおうい)、臨命終時不随者(りんみょうじゅうじふずいしゃ)、是れ如来の金言にして、平生(へいぜい)朕が心に有りし事なれば、秦の穆公(ぼくこう)が三良(さんりょう)を埋(うず)み、始皇帝の宝玉を随えし事、一つも朕が心に取らず。只生々世々(しょうじょうせぜ)の妄念ともなるべきは、朝敵を悉く亡して、四海を泰平ならしめんと思う計りなり。朕則ち早世の後は、第七の宮を天子の位に即け奉って、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行いなくば、股肱の臣として天下を鎮むべし。之を思う故に、玉骨(ぎよっこつ)は縦(たと)い南山の苔に埋(うずも)るとも、魂魄は常に北闕(ほっけつ)の天を望まんと思う。若し命(めい)を背き義を軽んぜば、君も継体(けいたい)の君に非らず、臣も忠烈の臣に非じ。」

    2、原文(全部)

    南朝の年号延元三年八月九日より、吉野の主上御不予の御事有けるが、次第に重らせ給。医王善逝の誓約も、祈に其験なく、耆婆扁鵲が霊薬も、施すに其験をはしまさず。玉体日々に消て、晏駕の期遠からじと見へ給ければ、大塔忠雲僧正、御枕に近付奉て、泪を押て申されけるは、「神路山の花二たび開る春を待、石清水の流れ遂に澄べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進せらるゝ事はよも候はじとこそ存候つるに、御脈已に替せ給て候由、典薬頭驚申候へば、今は偏に十善の天位を捨て、三明の覚路に趣せ給ふべき御事をのみ、思召被定候べし。さても最期の一念に依て三界に生を引と、経文に説れて候へば、万歳の後の御事、万づ叡慮に懸り候はん事をば、悉く仰置れ候て、後生善所の望をのみ、叡心に懸られ候べし。」と申されたりければ、主上苦げなる御息を吐せ給て、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五巻を持せ給、右の御手には御剣を按て、八月十六日の丑剋に、遂に崩御成にけり。悲哉、北辰位高して百官星の如に列と雖も、九泉の旅の路には供奉仕臣一人もなし。奈何せん、南山地僻にして、万卒雲の如に集といへ共、無常の敵の来をば禦止むる兵更になし。只中流に舟を覆て一壷の浪に漂ひ、暗夜に燈消て、五更の雨に向が如し。葬礼の御事、兼て遺勅有しかば、御終焉の御形を改めず、棺槨を厚し御坐を正して、吉野山の麓、蔵王堂の艮なる林の奥に、円丘を高く築て、北向に奉葬。寂寞たる空山の裏、鳥啼日已暮ぬ。土墳数尺の草、一経涙尽て愁未尽。旧臣后妃泣々鼎湖の雲を瞻望して、恨を天辺の月に添へ、覇陵の風に夙夜して、別を夢裡の花に慕ふ。哀なりし御事也。天下久乱に向ふ事は、末法風俗なれば暫く言に不足。延喜天暦より以来、先帝程の聖主神武の君は未をはしまさざりしかば、何と無共、聖徳一たび開て、拝趨忠功の望を達せぬ事は非じと、人皆憑をなしけるが、君の崩御なりぬるを見進て、今は御裳濯河の流の末も絶はて、筑波山の陰に寄人も無て、天下皆魔魅の掌握に落る世に成んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進らせし卿相雲客、或は東海の波を蹈で仲連が跡を尋、或は南山の歌を唱て寗戚が行を学んと、思々に身の隠家をぞ求給ける。爰に吉野執行吉水法印宗信、潜に此形勢を伝聞て、急参内して申けるは、「先帝崩御の刻被遺々勅、第七の宮を御位に即進せ、朝敵追伐の御本意を可被遂と、諸卿親り綸言を含せ給し事也。未日を経ざるに退散隠遁の御企有と承及候こそ、心ゑがたく存候へ。異国の例を以吾朝の今を計候に、文王草昧の主として、武王周の業を起し、高祖崩じ給て後、孝景漢の世を保候はずや。今一人万歳を早し給ふとも、旧労の輩其功を捨て敵に降んと思者は有べからず。就中世の危を見て弥命を軽ぜん官軍を数るに、先上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、武蔵国に其家嫡左少将義宗、越前国に脇屋刑部卿義助、同子息左衛門佐義治、此外江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族都合四百余人、国々に隠謀し所々に楯篭る。造次にも忠戦を不計と云事なし。他家の輩には、筑紫に菊池・松浦鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床、淡路に阿間・志知、安芸に有井、石見には三角入道・合四郎、出雲伯耆に長年が一族共、備後には桜山、備前に今木・大富・和田・児島、播磨に吉河、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪の西阿・真木の宝珠丸、紀伊国に湯浅・山本・井遠三郎・賀藤太郎、遠江には井介、美濃に根尾入道、尾張に熱田大宮司、越前には小国・池・風間・禰津越中守・大田信濃守、山徒には南岸の円宗院、此外泛々の輩は数に不遑。皆義心金石の如にして、一度も変ぜぬ者共也。身不肖に候へども、宗信右て候はん程は、当山に於て又何の御怖畏か候べき。何様先御遺勅に任て、継体の君を御位に即進せ、国々へ綸旨を成下れ候へかし。」と申ければ、諸卿皆げにもと思れける処に、又楠帯刀・和田和泉守二千余騎にて馳参り、皇居を守護し奉て、誠に他事なき体に見へければ、人々皆退散の思を翻て、山中は無為に成にけり。

    3、読み仮名付き(全部)

    南朝の年号延元三年八月九日(ここのか)より、吉野の主上(しゆしやう)御不予(ごふよ)の御事(おんこと)有(あり)けるが、次第に重(おも)らせ給(たまふ)。医王善逝(ぜんぜい)の誓約も、祈(いのる)に其験(そのしるし)なく、耆婆扁鵲(ぎばへんじやく)が霊薬も、施すに其験(そのしるし)をはしまさず。玉体日々に消(きえ)て、晏駕(あんか)の期(ご)遠からじと見へ給(たまひ)ければ、大塔(おほたふの)忠雲(ちゆううん)僧正(そうじやう)、御枕(おんまくら)に近付奉(ちかづきたてまつ)て、泪(なみだ)を押(おさへ)て申されけるは、「神路山(かみぢやま)の花(はな)二たび開(ひらく)る春を待(まち)、石清水(いはしみず)の流れ遂(つひ)に澄(すむ)べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進(すてまゐら)せらるゝ事はよも候はじとこそ存候(ぞんじさふらひ)つるに、御脈(おんみやく)已(すで)に替(かはら)せ給(たまひ)て候由(よし)、典薬頭(てんやくのかみ)驚申(おどろきまうし)候へば、今は偏(ひとへ)に十善の天位を捨(すて)て、三明(さんみやう)の覚路(がくろ)に趣(おもむか)せ給ふべき御事(おんこと)をのみ、思召(おぼしめし)被定候べし。さても最期(さいご)の一念に依(よつ)て三界に生(しやう)を引(ひく)と、経文(きやうもん)に説(とか)れて候へば、万歳(ばんぜい)の後の御事(おんこと)、万(よろ)づ叡慮に懸(かか)り候はん事をば、悉(ことごと)く仰置(おほせおか)れ候(さふらひ)て、後生善所(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)をのみ、叡心に懸(かけ)られ候べし。」と申されたりければ、主上(しゆしやう)苦(くるし)げなる御息を吐(はか)せ給(たまひ)て、「妻子珍宝及王位(さいしちんはうきふわうゐ)、臨命終時不随者(りんみやうじゆうじふずゐしや)、是(これ)如来(によらい)の金言にして、平生(へいぜい)朕(ちん)が心に有(あり)し事なれば、秦(しんの)穆公(ぼくこう)が三良(さんりやう)を埋(うづ)み、始皇帝(しくわうてい)の宝玉を随へし事、一(ひとつ)も朕が心に取(とら)ず。只生々世々(しやうじやうせぜ)の妄念(まうねん)ともなるべきは、朝敵(てうてき)を悉(ことごとく)亡(ほろぼ)して、四海(しかい)を令泰平と思計(おもふばかり)也(なり)。朕則(すなはち)早世の後(のち)は、第七(だいしち)の宮(みや)を天子の位に即奉(つけたてまつ)て、賢士(けんし)忠臣事を謀(はか)り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行(おこなひ)なくば、股肱(ここう)の臣として天下(てんが)を鎮(しづむ)べし。思之故(ゆゑ)に、玉骨(ぎよくこつ)は縦(たとひ)南山の苔に埋(うづも)るとも、魂魄(こんばく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望(のぞま)んと思ふ。若(もし)命(めい)を背(そむき)義を軽(かろん)ぜば、君も継体(けいたい)の君に非(あら)ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細(ゐさい)に綸言を残されて、左の御手(おんて)に法華経(ほけきやう)の五(ごの)巻(まき)を持(もた)せ給(たまひ)、右の御手(おんて)には御剣(ぎよけん)を按(あんじ)て、八月十六日の丑剋(うしのこく)に、遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)成(なり)にけり。悲(かなしい)哉(かな)、北辰(ほくしん)位(くらゐ)高(たかく)して百官星の如(ごとく)に列(つらなる)と雖も、九泉(きうせん)の旅の路には供奉(ぐぶ)仕(つかまつる)臣一人もなし。奈何(いかんが)せん、南山地僻(さがり)にして、万卒(ばんそつ)雲の如(ごとく)に集(あつまる)といへ共、無常の敵の来(きたる)をば禦止(ふせぎとど)むる兵(つはもの)更になし。只中流(ちゆうる)に舟を覆(くつがへし)て一壷(こ)の浪に漂(ただよ)ひ、暗夜(あんや)に燈(ともしび)消(きえ)て、五更(ごかう)の雨に向(むかふ)が如し。葬礼(さうれい)の御事(おんこと)、兼(かね)て遺勅(ゆゐちよく)有(あり)しかば、御終焉(ごじゆうえん)の御形(おんかたち)を改めず、棺槨(くわんくわく)を厚(あつく)し御坐(ござ)を正(ただしう)して、吉野山の麓、蔵王堂(ざわうだう)の艮(うしとら)なる林の奥に、円丘(ゑんきう)を高く築(つい)て、北向(きたむき)に奉葬。寂寞(じやくまく)たる空山(くうざん)の裏(うち)、鳥啼(なき)日(ひ)已(すでに)暮(くれ)ぬ。土墳(どふん)数尺(すしやく)の草(くさ)、一経(いつけい)涙(なんだ)尽(つき)て愁(うれへ)未尽(いまだつきず)。旧臣后妃(こうひ)泣々(なくなく)鼎湖(ていご)の雲を瞻望(せんばう)して、恨(うらみ)を天辺の月に添へ、覇陵(はりよう)の風に夙夜(しゆくや)して、別(わかれ)を夢裡(むり)の花(はな)に慕ふ。哀(あはれ)なりし御事(おんこと)也(なり)。天下(てんが)久(ひさしく)乱(らん)に向ふ事は、末法(まつぼふの)風俗なれば暫く言(いふ)に不足。延喜天暦(えんぎてんりやく)より以来(このかた)、先帝程の聖主(せいしゆ)神武(じんむ)の君は未(いまだ)をはしまさざりしかば、何と無(なく)共(とも)、聖徳一(ひと)たび開(ひらけ)て、拝趨(はいすう)忠功の望(のぞみ)を達せぬ事は非じと、人皆憑(たのみ)をなしけるが、君の崩御(ほうぎよ)なりぬるを見進(まゐらせ)て、今は御裳濯河(みもすそがは)の流(ながれ)の末も絶(たえ)はて、筑波山の陰(かげ)に寄(よる)人も無(なく)て、天下(てんが)皆魔魅(まみ)の掌握に落(おつ)る世に成(なら)んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進(つきまとひまゐ)らせし卿相雲客(けいしやううんかく)、或(あるひ)は東海の波を蹈(ふん)で仲連(ちゆうれん)が跡(あと)を尋(たづね)、或(あるひ)は南山の歌を唱(となへ)て寗戚(ねいせき)が行(おこなひ)を学(まなば)んと、思々(おもひおもひ)に身の隠家(かくれが)をぞ求給(もとめたまひ)ける。爰(ここ)に吉野(よしのの)執行(しゆぎやう)吉水(よしみづの)法印宗信(そうしん)、潜(ひそか)に此形勢(このありさま)を伝聞(つたへきき)て、急(いそぎ)参内(さんだい)して申(まうし)けるは、「先帝崩御(ほうぎよ)の刻(きざみ)被遺々勅、第七(だいしち)の宮(みや)を御位に即進(つけまゐら)せ、朝敵(てうてき)追伐(つゐばつ)の御本意を可被遂と、諸卿親(まのあた)り綸言(りんげん)を含(ふくま)せ給(たまひ)し事也(なり)。未(いまだ)日(ひ)を経(へ)ざるに退散隠遁(いんとん)の御企(おんくはたて)有(あり)と承及(うけたまはりおよび)候こそ、心ゑがたく存(ぞんじ)候へ。異国の例(れい)を以(もつて)吾朝(わがてう)の今を計(はかり)候に、文王草昧(さうまい)の主(あるじ)として、武王周(しう)の業(げふ)を起し、高祖(かうそ)崩(ほう)じ給(たまひ)て後(のち)、孝景(かうけい)漢の世を保(たもち)候はずや。今一人(いちじん)万歳(ばんぜい)を早(はやう)し給ふとも、旧労(きうらう)の輩(ともがら)其(その)功を捨(すて)て敵に降(くだら)んと思(おもふ)者は有(ある)べからず。就中(なかんづく)世の危(あやふき)を見て弥(いよいよ)命(めい)を軽(かろん)ぜん官軍(くわんぐん)を数(かぞふ)るに、先(まづ)上野(かうづけの)国(くに)に新田左中将(さちゆうじやう)義貞の次男左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興、武蔵(むさしの)国(くに)に其家嫡(そのかちやく)左少将義宗(よしむね)、越前国(ゑちぜんのくに)に脇屋(わきや)刑部卿義助、同子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治、此外(このほか)江田・大館・里見(さとみ)・鳥山・田中・羽河(はねかは)・山名・桃井(もものゐ)・額田(ぬかだ)・一井(いちのゐ)・金谷(かなや)・堤・青竜寺(しやうりゆうじ)・青襲(あをそひ)・小守沢(こもりさは)の一族(いちぞく)都合(つがふ)四百(しひやく)余人(よにん)、国々に隠謀し所々に楯篭(たてごも)る。造次(ざうじ)にも忠戦を不計と云(いふ)事なし。他家の輩(ともがら)には、筑紫(つくし)に菊池(きくち)・松浦鬼(まつらき)八郎(はちらう)・草野(くさの)・山鹿(やまが)・土肥(とひ)・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床(はねゆか)、淡路に阿間(あま)・志知(しうち)、安芸(あき)に有井、石見には三角(みすみの)入道・合(がふの)四郎、出雲伯耆に長年が一族共(いちぞくども)、備後には桜山、備前に今木(いまき)・大富(おほどみ)・和田・児島、播磨に吉河(よしかは)、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪(みわ)の西阿(せいあ)・真木(まき)の宝珠丸(はうじゆまる)、紀伊(きの)国(くに)に湯浅・山本・井遠(ゐとほの)三郎・賀藤(かとう)太郎、遠江には井介(ゐのすけ)、美濃に根尾(ねをの)入道、尾張(をはり)に熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)、越前には小国(をくに)・池・風間(かざま)・禰津(ねづ)越中(ゑつちゆうの)守(かみ)・大田信濃(しなのの)守(かみ)、山徒(さんと)には南岸(なんがん)の円宗院(ゑんじゆうゐん)、此外(このほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)は数(かぞふる)に不遑。皆義心金石の如(ごとく)にして、一度(いちど)も変ぜぬ者共(ものども)也(なり)。身不肖に候へども、宗信右(かく)て候はん程は、当山に於て又何(なん)の御怖畏(ごふゐ)か候べき。何様先(まづ)御遺勅(ごゆゐちよく)に任(まかせ)て、継体(けいたい)の君を御位(おんくらゐ)に即進(つけまゐら)せ、国々へ綸旨を成下(なしくださ)れ候へかし。」と申(まうし)ければ、諸卿皆げにもと思(おもは)れける処に、又楠帯刀(たてはき)・和田和泉(いづみの)守(かみ)二千(にせん)余騎(よき)にて馳(はせ)参り、皇居(くわうきよ)を守護(しゆご)し奉(たてまつ)て、誠(まこと)に他事なき体(てい)に見へければ、人々皆退散の思(おもひ)を翻(ひるがへし)て、山中は無為(ぶゐ)に成(なり)にけり。


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    🟣情報拡散のお願い
    神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
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    三浦芳聖師が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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    🟡祈り
    全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします!

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    🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
    串呂哲学研究会 鈴木超世志
    ブ ロ グ 串呂哲学研究会
    メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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    青年時代に、神皇正統家に極秘で伝承された神風串呂を学ぶ神縁に恵まれ、爾来、細々と串呂哲学の研究を実施して参りました一学徒です。神風串呂を紹介しながら、日本神界の神経綸(かみしくみ)を研究考察して参ります。一人でも多くの方々に串呂哲学の存在を知って頂ければ望外の喜びです。

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