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「芸術家」小説

    私の一日は、たいてい静かに始まる。 目覚ましは鳴らない。 鳴らす必要がないからだ。 起きても、誰かが待っているわけではないし、 締め切りがあるわけでもない。 売れない芸術家(、、、いや、ただの自称でしかないが)の生活は、 時間の区切りが曖昧で、 朝と夜の境界がゆっくりと溶けていく。

    布団から出るまでに、 いつも三十分ほどかかる。 起き上がる理由が見つからないのだ。 胸の奥に沈んでいる重い石が、 体を下へ下へと引っ張る。

    「今日も、何も書けないだろうな」

    そう思いながら、 私は机に向かう。 机の上には、 何度も書いては捨てた紙が積み重なっている。 どれも同じような言葉ばかりだ。

    「書けない」 「浮かばない」 「誰も読まない」

    その言葉たちは、 私の心の中にある“諦め”の写し鏡のようだった。

    鉛筆を握る指先は、 まるで他人のもののように冷たい。 書こうとすると、 胸の奥で何かがひっそりと拒む。 拒むものの正体は分からない。 ただ、 「書いても無駄だ」という声だけが、 静かに、しかし確実に響く。

    そんな生活の中で、 私にはひとつだけ“色”があった。

    彼女だ。

    彼女は有名人だった。 名前を呼ぶことをためらうほどの存在。 テレビに映る彼女は、 いつも明るく笑っていた。 その笑顔を見ると、 胸の奥が少しだけ温かくなる。 だが、その温かさはすぐに冷える。 冷えると、 自分の部屋の静けさが、 余計に深く感じられた。

    私は、 彼女のことを“好き”だと思ったことはない。 恋という言葉を使うには、 あまりに遠すぎた。 崇拝というには、 熱が足りなかった。 ただ、 彼女の存在が、 私の生活の中で唯一“色”を持っていた。

    彼女の出演する番組を録画して、 何度も再生した。 だが、再生するたびに、 私は画面から少し距離を取った。 近づきすぎると、 自分の惨めさが反射してしまう気がしたからだ。

    彼女の舞台を観に行ったことはない。 チケットは何度も買った。 だが、劇場の前まで行くと、 私はいつも引き返してしまった。

    「会ってしまったら、終わってしまう気がした」

    そんな言い訳を自分に与えながら、 主人公は彼女を遠くから眺め続けた。次元が違うような存在は 遠くからなら、 彼女はいつまでも光のままだった。

    しかし、 その光は突然消えた。

    ニュース速報のテロップ。
    彼女の名前。 “急逝”という二文字。

    私はその瞬間、 何も感じなかった。
    驚きも、悲しみも、涙もなかった。
    ただ、 胸の奥で何かが静かに沈んだ。
    沈んだものは、 もう二度と浮かび上がらない気がした。

    その夜、私は机に向かった。 書こうとした。
    だが、言葉は出てこなかった。
    代わりに、 胸の奥で、 小さな痛みがひっそりと動いた。

    「……もう忘れてしまおう」

    そう呟いた声は、 自分でも驚くほど軽かった。 軽いのに、 その言葉は胸の奥に深く沈んでいった。

    部屋は静かだった。
    静かすぎて、 自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえた。

    私は、 その静けさの中で、 自分の心がどれほど疲れていたのかを ようやく理解した。

    理解したところで、 何かが変わるわけではない。 ただ、 胸の奥に沈んだ石が、 少しだけ重さを増したような気がした。

    さよなら さよなら さよなら

    手をふる自分をかき消すように
    好きな自分を隠すように

    誰も知らない 私のこと
    誰も呼ばない 私の名を
    いつか救われると、楽になれると思ったのに

    なんだよ このざまは!

     これで私は知りました。
     有名になっても、夢を叶えても、
     私が欲しいのは楽になれる場所であって、
     あなたに知ってもらうことだったのではと。

     これで私は知りました。
     消えない恐怖は、喪失と老いだ。
     地位を手にしても、一度成功しても、
     楽になることはない。
     人生100年なんて言われても、
     動けない体でいるのは怖い。

    これが繰り返す前に、続く前に、
    私は私をペンで塗り潰しました。


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