サニー
去った事より、今あるものを数えろ。
サニーは英国製の翠色したベルベットの椅子に座って、俺が横たわるベッドに乗せたその長い足をぎこちなく組み替えながらそう言った。今はもう使われない文字たちが羅列した哲学書を手に持って、吐き捨てる様に、俺にしか聞こえない様に。それはサニーの言葉ではなく、本の一節をただ気紛れに読み上げただけなのかもしれない。俺にはその本が理解出来ないんだろうなと、頁を捲る手の動きをぼんやりと眺めながら思った。
「いくら金を使っても、部屋がガラクタに溢れても、断言するよ、お前は満ちやしない。」
「ガラクタなんかじゃない、これは、俺の大事なもの...俺が俺の手で集めたもの。この狭い部屋は宝箱だよ。お前にはそう見えなくても。」
「じゃあ他に何が欲しい。知能、知恵、知識?」
それとも金か、と本に目を落としながら宣う。伏せた目は、たった20センチ程下で倒れる俺を遥か天上から裁く様に見えて、俺は目眩がする頭をゆっくりと起こした。
「...全部だ、全部だよ。俺から剥がれ落ちていったもの、手の届かないもの。」
それからほんのすこしの、ほんもののかたちをした愛。
「強欲だな。」
「ふざけるな!」
欲、俺とは正反対だと思っていたもの、遠く離れたかったもの。俺を傷つけると分かっていて簡単に言葉にするサニーと、その事に少し気付きかけていた俺を否定したくて、俺は怒った。
「俺が新しく見つけたものが、お前にとっては過去のもので、皆もそうだ、俺だけ、俺だけが持ってない。それを欲しいと言っているだけだ。お前は知らない、持ち得ない者の気持ちを、苦しみを...欲なんかじゃない。ただの小さな願いだ。」
俺は自分を肯定しようと必死に言葉を吐こうとした。でもそれに抗う程、自分がいかにちっぽけであるかを思い知らされる気がして、それ以上反論する事は叶わなかった。
「あの絵、」
俺は締め切ったカーテンに立てかけられた、俺が昔描いた絵を指差した。真っ赤な背景の中で、ぬるい曲線に抽象化された人の側面。引っ掻いて掠れたその影は、この世の苦しみを静かに背負っているのか、或いは内側で湧き上がる怒りを抑えているのか。俺が描いたのに、俺には想像もできない何かがその人には有った。
「あれはお前だろう、あれになりたいんだろ。」
サニーはやっと小難しい本から目を離して、俺と同じ先を見て言った。
「...俺じゃない。お前にはあれが俺に見えるのか?」
考えた事も無かった。あれが俺だって?違う、でも俺はその人になりたかった。そう言いたかった。サニーは俺が言えないでごちゃごちゃと躊躇っているうちに、また簡単に言葉にする。だからあいつが怖くて、嫌いで、心地よかった。
「ああ、思ってる事が死ぬ程ある癖に、黙りこんで泣いてるお前に見えるよ。」
サニーはベッドから足を下ろして、絵の方を見つめたまま話した。
「お前は言葉という術を持たないから、音にして、絵を描くんだろ、まったく面倒くせえ。お前にはお前の音楽がある、お前の絵があるんだよ、分かるか?言葉を超え、理解を超え、腐りかけた脳みそを蝕むそれは、それは宇宙だ。宇宙を知っているんだよ、お前は。」
んな面倒くせえ事俺はしねえけど、と言ってサニーはまた本に目を戻した。
部屋に再び静寂が戻る。俺はサニーが吐いた音の意味をひとつひとつ拾い集めて、俺の意思が生まれていく時をゆっくりと待った。