
推しが逝くということ
半世紀以上生きていれば、年をとったと実感する場面はいろいろある。
たとえば体力。これは説明不要、全人類の定め。
ある朝起きて悟ったのだが、
「若さとは、体調が良いというただ一点のみにある」。たぶん。
それから、モチベーション。
モチベーションの喪失とか低下ということではなく、自分のなかで質が変化する・・気がする。
「こうありたい、ああしたい」という直線的な思いから、もっとふんわりした、それでいて若い頃よりも壮大な思考に寄っていくような・・気がする。
「気がする」ばかりなのは、いろんな人がいるから年齢で区別して一般論みたいに言うのは違うだろうし、さらに、還暦未満のわたしには「年をとった」悲哀から醍醐味まで、語る資格はまだまだないだろうから。
それでもはっきりと知った、年をとることの感慨がひとつある。
若い頃憧れ、傾倒したものや人の変化。
とりわけ、影響を受けた人の死に直面したときの心境だ。
出会いがあれば別れがある。人はみないつか死ぬ。
それはよくわかっているはずなのに、それでも、あの人が死ぬことを想像はできなかった。
この場合の「あの人」とは、一方的にこっちが「ファン」だったアーティストや有名人。つまり昔からの「推し」だ。
推しが逝くということ。
その人のいちばんキラキラしていた時代を見ていた自分も、今思えばその頃が人生でいちばん元気で希望があって、キラキラしていたんだと気付く。
推しが逝くということ。
そんな自分のささやかなキラキラ時代が、推しの命と同時に永遠に凍結されてしまうような、息の詰まる感覚。
推しが逝くということ。
著名人が発信する追悼メッセージや、SNSでの多数の人の反応を見て、「やっぱりすごい人だった」と誇らしく思う自分は、今も「やっぱり推している」。
推しが逝くということ。
それでも推しが与えてくれたものは残り、わたしの一部であり続ける。
昭和の紙媒体から、劣化のないデジタルデータまで、すべて失ってしまったとしても、だ。
そんなことを確信した。