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「ステージは一度きり」という呪いが、 わたしの、そしてあなたの才能を消している


「ステージは一度きり。だから失敗は許されない」


今までの人生で、そんな風に考えたこと、
ありますか?

もし、あなたが今でもそう信じているなら、
今すぐその幻想は手放したほうがいい。

完璧に準備を整えてから、満を持して勝負に出る。

それは一見、美しくプロフェッショナルな姿に見えるかもしれない。

だけど。

わたしはここで敢えてハッキリ言いたい。


「完璧な準備」それはただの逃げの口実だ、
ということを。


プロなら100%のものを出すのが当たり前。
未完成なものを出すなんて、相手に失礼。


かつてのわたしはその呪縛の底にいた。


わたしは3歳からピアノを始め、
大学院まで学び35歳までの32年間、
文字通り人生のほとんどをピアノに捧げてきた。


本番は常に「一発勝負」。
気の遠くなるような練習を繰り返し、
先生にはこてんぱにされながら、
自分が納得する100%の完成度を創り上げる。


「少しでも良くなるなら何度でもやり直す。
 そして本番ですべてを出し切る」


それがわたしのアイデンティティだった。


でも、結果はどうか。
わたしはピアノを「仕事」
として生き抜くことはできなかった。


完璧を求めすぎた代償。
それは、「失敗への異常な恐怖」として
わたしの奥底に染み込んでいたのだ。


ピアノを諦めたわたしは、「ピアノに変わる何か」を手に入れようと必死だった。

別の道を模索し、ビジネスを学ぼうとした時も、
「60%でいいからまずは出そう」
という教えに、わたしは強烈な抵抗を感じた。

「まだ良くなるはず」
「こんな未完成でお金をもらおうとするなんて恥ずかしい」

そう言い訳を並べながら、いつまでも
「完璧な本番」を待ち続けていた。


そんなある日、
メンターがこんな実験の話をしてくれた。


「何度でもやり直していいグループ」と
「一発勝負のグループ」


どちらがいい作品を創ったと思う?


わたしは当然「一発勝負」だと思った。
プレッシャーこそが人を本気にさせるから。


だけど、答えは
「何度でもやり直していいグループ」の方。
「何度失敗してもいい」という安心感が、
圧倒的な質を生み出す。


わたしはショックで、
自分でも訳の分からない涙が止まらなかった。


わたしが32年間、全力を注いできた
「本番のための完璧な準備」は、
いつの間にか、わたし自身を縛るものになっていた。


ここで少し視点を変えてみる。

皆さんは、
自己投資や挑戦の意味ってなんだと思いますか?


わたしはこれらを、
「何者かになるための鎧」を買うことだと思っていた。


でも違う。


「何度でも転び、堂々と恥をかく権利」
それらを手に入れることじゃないか、
そう思うようになった。


ピアノの世界には、強制的な「本番」があった。


●月●日に演奏会がある。
嫌でもその日に世に出さなければならない。


だけど、大人の挑戦には、
誰かが用意してくれる「本番」なんてない。


「もう少し勉強してから」
「もう少し準備して整ってから」


自分で自分のリミットを決めない限り、
私やあなたが時間をかけて少しずつ形にしてきたアイデアを、外の世界に出す瞬間は、


未来永劫やってこない。


想像してみて。
自分が時間をかけて大切に育ててきた作品が、
誰の目にも触れず、
誰の耳にも届かない。


こんなに悲しくて、
やりきれないことがあるだろうか?


「とりあえずやってみる」
「60%で出す」


これは決して質を落とせという意味ではない。


「その瞬間の最善を尽くしたら、
 怖くても、一度世に出してみればいい」


ということだ。


ステージは一度きりなんかじゃない。
人生という長いスパンで見れば、

今日の「100%」は、
明日の私から見たら60%かもしれない。
でも、その「100%」を一度外に出したからこそ
また次の、「新しい100%」を目指せる。


失敗は恥ずかしいことじゃない。
一番恥ずかしいのは、準備だけを続けて
一生舞台に上がらないこと。

自分の中にある「大切な自分だけの種」を
自分で消してしまうことだ。


完璧な準備は逃げの口実


誰も本番を用意してくれないなら、
自分で作るしかない。


とにかくやってみる。
それが次のステージを作る唯一の手段。


わたし自身のGOサインはわたし自身が。
あなた自身のGOサインはあなた自身が。



突然こんな記事、どした?
と思われただろうか・・。


でも、
自分への戒めとして書いたこのnoteが、
どこかの誰かにも響くといい。


そう、思っています。


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