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『風待ちの宿のクロチ』第八章

    ●最終章●いってらっしゃい


    『風待ちの宿』で過ごした三日間は、
    長かったような、
    短かったような、
    不思議な時間だった。
    帰る朝。
    高原には優しい風が吹いていた。
    空は青く、
    遠くの山々もよく見える。
    さきは部屋の窓を開けた。
    深く息を吸う。
    来た日の自分とは、
    少しだけ違う気がした。
    悩みは消えていない。
    仕事も変わらない。
    これからどう生きるのかも、
    まだ分からない。
    けれど。
    「もう少し頑張ってみようかな。」
    そんな気持ちが、
    心のどこかに生まれていた。
    荷物をまとめ、
    部屋を出る。
    廊下には朝の光が差し込んでいた。
    ステンドグラスを通った光が、
    床に色とりどりの模様を描いている。
    さきは立ち止まった。
    初めて見た時と同じ景色。
    でも、
    今は少し違って見えた。
    割れたガラスも。
    色の違うガラスも。
    一緒になると美しい。
    美和の言葉を思い出す。
    人も同じ。
    傷があってもいい。
    遠回りしてもいい。
    それでも人は、
    ちゃんと輝ける。
    さきは小さく笑った。
    玄関へ向かう。
    そこには美和がいた。
    「お世話になりました。」
    「こちらこそ。」
    美和は優しく微笑む。
    「またいつでもいらしてくださいね。」
    その時だった。
    「おはようございます。」
    後ろから声がした。
    正樹だった。
    二人とも少し笑う。
    まるで待ち合わせをしていたみたいだった。
    「よく眠れましたか?」
    正樹が聞く。
    「はい。」
    「久しぶりに。」
    「それは良かった。」
    短い会話。
    けれど心地よかった。
    外ではバスの音が聞こえた。
    迎えが来たらしい。
    別れの時間だった。
    少しだけ沈黙が流れる。
    そして正樹が言った。
    「もしよかったら。」
    さきが顔を上げる。
    正樹は少し照れたように笑った。
    「また会いませんか。」
    その言葉は自然だった。
    無理も。
    下心も。
    駆け引きもない。
    ただ、
    もう少し話してみたい。
    そんな気持ちだった。
    さきは驚いた。
    けれど。
    嫌ではなかった。
    むしろ嬉しかった。
    「はい。」
    自然に言葉が出る。
    正樹も笑った。
    二人は連絡先を交換した。
    それだけだった。
    けれど。
    それだけで十分だった。

    玄関の横では、
    クロチが丸くなっていた。
    「ありがとう、クロチ。」
    さきが頭をなでる。
    クロチは目を細めた。
    正樹もしゃがみ込む。
    「また来るよ。」
    クロチは小さく、
    「にゃあ。」
    と鳴いた。
    まるで、
    『待ってるよ。』
    と言うように。
    バスが動き出す。
    窓の外には、
    美和とクロチの姿。
    風が吹いている。
    高原の草が揺れている。
    さきは手を振った。
    正樹も手を振る。
    そして風待ちの宿は、
    少しずつ遠ざかっていった。

    その日の夜。
    クロチはいつものように祠へ向かった。
    月が綺麗だった。
    祠の前で座る。
    神様。
    今日も二人、
    笑顔で帰っていきました。
    風が吹く。
    優しい風だった。
    クロチは空を見上げる。
    ありがとうございました。
    木々が揺れる。
    それが神様の返事だった。
    クロチは満足そうに目を細めた。

    その時だった。
    遠くから車の音が聞こえてきた。
    宿の前に一台のタクシーが止まる。
    一人の女性が降りてきた。
    大きな荷物を抱えている。
    疲れた顔をしていた。
    美和が玄関へ向かう。
    「ようこそ。」
    女性は小さく頭を下げた。
    クロチはその様子を見ていた。
    そして静かに立ち上がる。
    神様。
    今度は、
    あの人ですね。
    高原の風が吹く。
    クロチは宿への道を歩き始めた。
    誰かの話を聞くために。
    誰かの心を神様へ届けるために。
    風待ちの宿では今日もまた、
    新しい物語が始まろうとしていた。

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    『風待ちの宿のクロチ』おしまい。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。『小さな幸せがいっぱいの人生になりますように!』クロチ🐾🐈‍⬛🍃🌈📖✨

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     

    Jeny

     
     
    小さな日常の幸せを見つけられるように 『note』はじめます。 黒マンチカンが相棒です。

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