心、カラダ、頭。それぞれの声
適応障害を発症して、約3カ月が経過した。
未だに体調の良し悪しの波が激しい。
ちなみに私にとっての「体調が悪い」とは、カラダの充電が切れたかのようにまったく動けなくなる状態のことを指している。
未だに1週間ほど日常の動作ができたかと思えば、ストンと「体調が悪い」状態へと移行する。また何日間かベッドを拠点とした生活をして、少しずつ動ける状態へ戻る。そんなサイクルを繰り返している。
だけどここ最近になって、どうやらその「体調悪い」の定義が変わりつつある。
カラダは動けるが、心が無気力となって、何も出来ないという状態という新しいパターンが増えてきた。
カラダも動く、頭も働く。
だけど心だけがぽっかりと穴が空き、何も湧かない、何も感じない。
無理に活動しようとすると、心がどんよりとじわじわ重くなっていき、そのままカラダさえも底なし沼へ引きずり込まれるように息苦しくなっていく。
だから、そんな日は無理に動かず、ただぼーっと過ごすようにしている。
なので、ここ最近は
カラダが動けない日も、「体調が悪い」
心が停止してる日も、「体調が悪い」
2パターンの「体調が悪い」に挟まれている。
暗い話になってしまったが、私は苦しい話をしたいわけではない。この療養期間を通して、自分が「カラダ」「心」「頭」の関係性を正しく把握していなかったことを痛感したのだ。
かつての私は、
「頭=心、時々カラダ」
そんなイメージで生きていた。
思考は頭で行うものだが、それこそが心の声でもある。頭と心は、一心同体。
頭とカラダは密に連携しているけれど、たまにカラダが頭のスピードについていけなくなることがある。
だから、カラダが無理してないかを身体症状で測り、そこさえ気をつけていれば、私は心身ともに健康でいられると思い込んでいた。
しかし、適応障害になってから気付かされた。
「頭」と「心」は、まったく別の場所にあることを。
発症直後、頭の声と心の声はそれぞれバラバラな意見をたくさん私に訴えかけ、身が引き裂かれる想いだった。
そのときに初めて、私の思考(頭)は心ではなかったのかと思い知らされた。
社会人になってからは、こうあるべき、こうするべきという常識や世間体を、まるで強迫観念のように頭は鳴らし続け、その指示に従って生きていた。
周りの人たちからはあとになって、
「本当によく頑張っているなと思ってたよ」
「いつか倒れないか心配だったよ」と。
自分自身のことは1番自分がよくわかってるはずだった。自分がどんな人間で、どんな理想や夢を持っているか、ちゃんと理解しているとずっと思っていた。
気付けば自分自身のことなのに、周りの人でさえも見えていたことが、自分にだけ見えていなかった。
そのため適応障害になってから、自分自身がまったくわからなくなり、自分は何者なのか、何をしたかったのか、完全に見失ってしまった。
だけど今回を機に
「頭」と「心」と「カラダ」は
それぞれ別々に存在している。
そのことに気付けたことだけでも、
大きな1歩と思えるようになった。
まだ療養生活は終わってないが、とにかくこの療養生活ではまず自分の「心」と「カラダ」の存在を意識し、今日は体調いかがですかー?と問いかけて声を聞くようにしている。そこから一歩置いて「頭」の声に耳を傾ける。
療養生活が4カ月目に突入した今、少しずつではあるけれど、自分の心とカラダの声を聞く習慣がついてきたかな。きっと。
今日は、どうやら心が停止している日。
何の気力も湧かないし、何も感じない。
だけど、今のこの停止している、無の心と向き合いながら、こうして生きている「今」を言葉にしてみようかな。
そう思って、今日はこんな記事を書いてみました。
