
流星の下で、キミに恋をした ― 星を見に行こう ― 第三話
第3章:星の話(前編)
深夜二時。
海斗は、寝台の狭いカーテンを開けて通路へ出た。
船内はすっかり静まり返り、時折、遠くで船底のエンジンが低く唸る音が聞こえるだけだった。乗客の多くはすでに眠りについているのだろう。
薄暗い通路を抜け、重い金属製の扉を押し開けると、遮るもののない夜の世界が目の前に広がった。
「うわ……寒っ」
思わず声が漏れた。
真夏だというのに、夜の太平洋を渡る海風は驚くほど冷たく、鋭い。薄いTシャツ一枚の肌にじわりと冷気が染み込んでくる。
しかし、その寒さを忘れるほどの光景が、海斗の視界をジャックした。
空があった。
東京や仙台の街中で見る、明かりに塗りつぶされた空ではない。墨汁を流したような漆黒のキャンバスに、大小無数の光の粒が、息をのむほどの密度で散りばめられている。天の川が白く煙るように海へと流れ落ち、水平線の彼方まで続いている。
船が立てる白い波しぶきと、頭上の星々。世界が真っ二つに分かれ、その間を自分たちだけが進んでいるような、奇妙な錯覚に囚われる。

「遅い。待ちくたびれちゃった」
甲板の隅、白い手すりに寄りかかっていた人影が、振り返って笑った。
華香だった。
彼女はTシャツの上に大きなデニムジャケットを羽織り、両手をポケットに深く突っ込んでいる。風に煽られて、栗色の髪が不規則に踊っていた。
「ごめん。ちょっと寝過ごしかけて」
「うそ。海斗くん、本当は来るの迷ってたでしょ」
「……見透かされてるな」
海斗が苦笑しながら隣に並ぶと、華香は「だって、真面目そうだもん」と言って、満足そうに夜空を仰いだ。
「すごいよね、これ。プラネタリウムみたい。電波をあきらめて、わざわざ外に出てきた甲斐があったと思わない?」
「正直、舐めてた. こんなに綺麗に見えるもんなんだな」
「でしょ? 飛行機だったら、雲の上を通り過ぎて一瞬で終わり。でも船はさ、この星空の下をずーっと、何時間も歩いていけるの。それがいいよね」
華香の言葉は、まるで詩のようだった。けれど不思議と、鼻に突くような気取った感じはしない。彼女自身が、この空間の一部に溶け込んでいるように自然だからだ。
海斗はポケットからスマートフォンを取り出してみたが、画面には当然のように『圏外』の文字。
東京の彼女は、今頃もう自分の部屋で眠っているだろう。自分が今、どこの海の上で、どんな女の子と星を見ているかも知らずに。
罪悪感がなかったと言えば嘘になる。けれど、それ以上に「今だけは、すべての現実から切り離されている」という解放感が、海斗の心をひどく心地よくさせていた。
「ねえ、北海道に着いたらさ、海斗くんはどこから行くの?」
華香が冷えた息を白く吐き出しながら、尋ねてきた。
「まずは苫小牧から札幌に出て、そこから少し北の方へ向かうつもり。ばあちゃんのノートにあった最初の住所が、そのあたりだから。華香さんは?」
「私はね、ノープラン!」
「え? 本当に何も決めてないの?」
「うん。とりあえず札幌のビジネスホテルだけ二泊押さえてある。あとは、その日の気分で美味しいもの食べて、綺麗な景色が見られたらいいかなって。だから……」
華香は手すりから体を離し、海斗の方を真っ直ぐに向いた。
「もしよかったら、おすすめの場所、教えてよ」
「おすすめって言われてもな。俺も調べるだけ調べて、まだ行ったことない場所ばかりだし」
「いいよ、それで。海斗くんがどこに行こうとしてるのか、知りたいだけだし」
そう言って、華香はまた悪戯っぽく微笑む。
海斗は少し気恥ずかしさを覚えながらも、出発前にガイドブックやネットで必死に集めた知識を頭の中から引っ張り出した。
「……定番だけど、札幌に着いたら『羊ヶ丘展望台』に行こうと思ってる。クラーク博士の像があるところ」
「へえ、ベタだね」
「ベタだけど、あそこから見る札幌の街並みと、広大な牧草地って、すごく『北海道に来た』って実感が湧くらしいよ。それから、ばあちゃんのノートに書いてある住所の近くに、美味しいスープカレーの店があるらしくて……」
海斗がぽつりぽつりと話す旅行プランを、華香は「うん、うん」と、本当に楽しそうに相槌を打ちながら聞いていた。
「決めた」
話が一区切りついたところで、華香がぱっと顔を輝かせた。
「私も、その羊ヶ丘展望台ってところ、行ってみる。海斗くんのおすすめだし」
「本当に? ただの受け売りだよ」
「いいの。あ、そうだ。だったらさ……」
華香は少しだけ首を傾げて笑う。
「もし同じ日に、羊ヶ丘展望台で逢えたら。」
「うん。」
「その時は、美味しいスープカレーのお店、一緒に行こ。」
「いいよ。」
「じゃあ、先に着いた人の勝ち。」
「勝ち?」
「負けた人がおごりね。」
「なんだよ、そのルール。」
「ふふっ。その方がおもしろいでしょ!」
華香は夜空いっぱいに流れる流れ星を見上げ、小さく息をついた。
「いっぱい流れるなら……きっと願いもかなえてくれるよね。」
「そうかもな。」
海斗も夜空を見上げた。
次から次へと夜空を横切る光の帯。
その光景よりも、嬉しそうに星を見つめる華香の横顔の方が、海斗にはずっと眩しく映っていた。
華香はポケットから自分のスマートフォンを取り出した。もちろん画面は圏外だが、彼女はそれを海斗に向けて、軽く振ってみせる。
「電波が繋がったらさ、LINE交換しよ」
「え?」
「だって、羊ヶ丘行ったかどうか分かんないじゃん」
「監視?」
「証拠写真、送ってもらう」
「なんだそれ 」
「だから私も送る」
「……あはは、分かった。じゃあ電波が戻ったら、真っ先に」
その約束が、ただの旅行者同士の気まぐれなやり取りではないような気がして、海斗の胸が小さく高鳴った。
その時だった。
「あっ、見て!」
華香が小さく声を上げ、夜空を指差した。
海斗が顔を上げた瞬間――漆黒の空を切り裂くように、一筋の光が走った。長い尾を引きながら、ゆっくりと水平線の彼方へ消えていく。
「流れ星……」
海斗は息を呑んだ。
東京や仙台の空では決して見ることのできない、圧倒的な美しさだった。
「すごい、本当に流れた」
華香も空を見上げたまま、嬉しそうに呟く。
その余韻が消えないうちに、今度は少し離れた空で、もう一つ光が流れた。
「あっ、また!」
さらに数分後。
今度は逆方向から、短い光の線が夜空を駆け抜ける。
派手に降り注ぐわけではない。
けれど忘れた頃に現れては消える流星たちは、まるで夜空が二人だけのために瞬きを繰り返しているようだった。
華香は慌ててカメラを構えた。
けれど、すぐにはシャッターを切らない。
何度かダイヤルを回し、液晶画面を確認する。
「流星って意外と難しいんだよ。シャッターを長く開けて待ってないと、ただの黒い空になっちゃうから」
そう言って夜空へレンズを向ける。
カシャ。
静かなシャッター音が響いた。
数秒後、もう一度。
カシャ。
「撮れた?」
「分かんない。でも、今夜なら一枚くらい奇跡が写る気がする」
華香はそう言って笑った。
「海斗くん、お願い事した?」
「いや、一瞬すぎて無理だったよ。華香さんは?」
「私も無理。でも、いいや」
華香は満足そうに微笑み、凍える両手で自分の肩を抱いた。
「お願い事なんてしなくても、もう今夜のことは一生忘れないと思うから」その言葉に、海斗は返事ができなかった。
流れ星よりも。
夜空を見上げながら笑う華香の横顔の方が、ずっと眩しく見えたからだ。
その時の海斗は、まだ気づいていなかった。
この夜の記憶が、この先どれほど長く自分を支えることになるのかを。
第3章:星の話(後編)
「……ねえ、海斗くんはさ」
流れ星の余韻が夜空に溶けていった後、華香がぽつりと言った。
手すりにあごを乗せ、遠い水平線を見つめるその横顔は、先ほどまでの快活さが嘘のように静かだった。
「大学を卒業したら、やっぱり普通に就職するの?」
「一応、そのつもり。今もインターンの選考とか、自己分析とか、そういうのに追われててさ。みんながやってるから、流されるみたいに」
海斗は冷えた手すりを握り直した。普段、大学の友人たちとは「どこの企業が安定しているか」といった損得勘定の話ばかりだ。自分の本音を口にするのは、どこか気恥ずかしかった。
「でも、時々分かんなくなるんだ。自分が本当にやりたいことって何だろうって。面接で語る『立派な志望動機』なんて、全部その場しのぎの嘘だしさ。華香さんは?」
「私はね、写真を撮るのが好きなんだ」
華香はトートバッグの底から、小さなデジタルカメラを取り出して見せた。年季の入った、小さなミラーレスカメラ。
「将来それで食べていけるなんて思ってないよ。でも、誰かに『普通はこうだから』って決められた枠にはまるのが、どうしても怖くなっちゃって。東京にいると、みんな同じスーツを着て、同じような顔をして歩いてるでしょ? あの流れに飲み込まれたら、自分が自分でなくなっちゃいそうな気がして……だから、逃げてきちゃった」
彼女の言葉が、海斗の胸に深く突き刺さる。
祖母の手紙にあった『お前はいつも、自分の本当の気持ちに薄い膜を一枚張っている』という言葉。自分が日常に感じていた息苦しさの正体を、華香は「写真」という自分の好きなものを通じて、真っ直ぐに言語化していた。
要領よく生きることで、自分を守ってきた海斗とは対照的だった。
「逃げるのって、悪いことじゃないよ」
「え?」
華香が驚いたように海斗を見た。
「俺も同じだから。ばあちゃんの遺言を言い訳にして、本当はただ、就活とか彼女との冷めかけた関係とか、そういう日常から逃げ出したかっただけなんだ。だから、華香さんが自分の好きなもののために悩んで、ここまで来たのは、むしろすごいと思う」
「……そっか」
華香は少しだけ目を伏せた。
「海斗くんは、優しいね」
小さく笑い、カメラをそっとバッグにしまう。
「ありがとう。少し、救われたかも」
気づけば、東の空の端が、ほんの少しだけ群青色から紫へと変わり始めていた。夜明け前の、一番気温が下がる時間帯だ。華香の身体が、寒さで小さく震えているのが分かった。
「そろそろ、戻ろうか。風も強くなってきたし」
「そうだね。ちょっと冷えちゃった」
二人は並んで、重い金属製の扉を開けて船内へと戻った。自販機コーナーの明かりが、ひどく現実的に感じられる。
それぞれの寝台へと続く通路の分岐点。華香が足を止め、振り返った。
「じゃあ、海斗くん。電波が繋がったら、真っ先にLINEね」
「うん。羊ヶ丘の証拠写真、待ってる」
「ふふ、プレッシャーかけないでよ。じゃあね、おやすみ」
ひらひらと手を振りながら、自分のブロックへと消えていく華香。
海斗もまた、狭いB寝台のカーテンの中へと潜り込んだ。
リネンのシーツに包まれて目を閉じると、耳の奥にまだ、ざざん、と響く波の音と、彼女の「優しいね」という声が残っていた。
東京の日常から遠く離れた、真っ黒な太平洋の上。
海斗の張り詰めていた薄い膜は、気づかないうちに、少しだけ剥がれ始めていた。
第三章 (完)
少しでも「いいかも」と思ってくださった方は、ぜひ左下の「スキ(❤️マーク)」やフォロー、感想コメントをいただけると執筆の大きな励みになります!
続きはコチラから▼(公開後)▼
#創作大賞2026 #恋愛小説部門