
『波紋のポートレート』エピローグ 残る波
エピローグ 残る波
どれくらい歩いただろう。
相変わらず、水の上には境界がない。
空と水は、静かに溶け合っている。
どこまでも青い。
どこまでも静かだ。
それでも。
最初にここへ立った時とは、少し違って見えた。
風がある。
音がある。
波紋がある。
世界が、ほんの少しだけ呼吸している。
足を止める。
波紋が広がる。
欠けた円。
けれど、もう歪んではいない。
静かな形を保ったまま、水の上をゆっくり広がっていく。
しゃがみ込む。
水面を見る。
映っているのは、自分だけだった。
遅れもない。
ずれもない。
ただ。
足元の波紋だけが、静かに揺れている。
指先で、水面へ触れる。
冷たくない。
静かな温度だった。
波紋が広がる。
小さな円。
その揺れを見ていると、胸の奥へ遠い音が戻ってくる。
踏切の音。
夜の虫の声。
冷蔵庫の低い音。
遠くで笑う声。
全部、もう遠い。
それなのに。
完全には消えない。
胸の奥に、小さな熱みたいに残っている。
思い出す。
届かなかった背中。
閉じた部屋。
行かなかった夜。
何も言えなかった時間。
全部、自分だった。
選ばなかったもの。
置いてきたもの。
消したかったもの。
でも。
消えなかった。
だから今、ここにいる。
風が吹く。
水面が揺れる。
その瞬間。
遠くに、小さな波紋が生まれた。
ひとつ。
またひとつ。
誰かが歩いているみたいに。
目を細める。
輪郭は見えない。
でも、不思議と怖くなかった。
きっと。
誰にでもあるのだと思う。
見ないまま置いてきたものが。
選ばなかった未来が。
消えなかった感情が。
波紋は残る。
静かに。
何度でも。
立ち上がる。
足を前へ出す。
波紋が広がる。
欠けた円が、水の上に静かに重なっていく。
空は、少しだけ明るかった。
朝焼けにも。
夕焼けにも見える光。
終わりみたいで。
始まりみたいだった。
歩く。
水の上を。
静かな波紋を残しながら。
どこまでも。
振り返らない。
けれど。
忘れてしまったわけでもない。
欠けたまま。
傷を抱えたまま。
それでも、生きていく。
波紋が広がる。
静かな水面の上で。
いつまでも。