
lull
あらすじ
親友が死んだ。主人公・隼人は未成年の時を毎日ともに過ごしていた親友・夜の死を受け入れられず、夜が生きている痕跡を探し始める。そして数年が経ってそれを諦めた頃、隼人は実家から送られてきた荷物の中に白い封筒を発見した。二十歳になった年度の一月、切手も貼られないまま実家のポストに投函されていたその封筒。差出人は中学時代にいじめられていた山内だった。山内からの手紙には「僕のせいであなたの学生時代をめちゃくちゃにしてしまいました」と書かれていて……。意味のわからない手紙に悶々としていたある日、隼人は子どもたちのいじめの現場を見た。そして隼人は親友のせいでついた人生を壊す傷を思い出す。
虫を踏み潰す。柔らかい殻を破って、粘性のある液体が石材を汚す。俺はその味を知っている。
たまたま地元に帰っていたその日、突如激しい揺れで目を覚ました。眠っている間の地震は揺れよりも先に轟音を感じた。円を描くように揺れる照明を見て、死ぬのかもしれないと思った。
「隼人!」
一階から母の呼ぶ声が聞こえて、部屋のドアを開ける。懐中電灯を持った母の目が心配一色で潤んでいた。
幸いにも家が壊れることはなく、家具も倒れず、こまごましたものが落ちる程度の被害で済んだ。ただし電気とガスが止まって、下手にスマホを使えない状況になってしまった。
昼になってもスーパーの中が暗い。残っている食材を求めて住民たちが群がるが、レジが使えないから混乱を極めていた。
企業にはそういう仕組みがあるのか、場所の問題なのかはわからなかったが、父の会社では電気が通っているようだった。だからそこで充電をさせてもらう。水は出る。食う物も手に入らないわけではない。それでもライフラインが通常でない状態は、心身を疲弊させた。
そうして日が落ちて、ようやく電波が通じ始めた頃、俺は夜の実家に電話をかけた。
「……はい」
出たのはたぶん、夜の父だった。長い間その姿を見ていなかったけれど、項垂れたような丸い背中が目に浮かぶ。
「あの、隼人です。お久しぶりです。地震、大丈夫でしたか」
「え、ああ、まあ……」
「夜と連絡通じなくて……夜も大丈夫そうですか?」
俺がそう聞くと、電話の向こうは一瞬無音になった。そして受話器から離れたところで何か話しているような声が聞こえて、次の瞬間、高い声が耳に刺さった。
「あの子はずっと前に死にました。もう電話かけてこないで」
電話が切れる。もう何も聞こえないスマホを耳に当てたまま、何も考えられなくなっていた。
夜が死んだなんて。
蓮見夜とは幼稚園からの仲だった。とくに家が近いわけではないけど、初めて話したあの日から妙にうまが合う気がして、自然と一緒にいるようになった。小学校と中学校が同じで、クラスが違っても休み時間になれば何も言わずとも顔を合わせた。
小さい頃は鬼ごっことかゲームばかりしていた。当然、年齢とともに遊びの種類は変わっていったけれど。
夜は昔からよく、ありえない妄想の話を俺に聞かせてきた。もし真っ白い部屋で目が覚めたらどうするか、とか。聴覚以外を失ったらどうやって人に思いを伝えるのか、とか。初めは何を言っているのかわからなかった。変わった奴なんだと思った。夜は何歳になってもこんな話ばかりしていたから、次第に俺は苦笑いをしつつも夜の言うくだらない話について真剣に考えるようになった。
この頃から夜は、背が高く体格がしっかりしていて、俺よりも大人っぽかった。そして街灯に寄り付くように、夜の周りには人が集まっていたけど、夜は笑顔と裏腹に優しくなかった。気に入らないから仲間外れにするなんてことはない。嫌いな相手でも遊びには誘う。それでも見下している相手にはお菓子をわけず、ゲームをさせず、ただそこで気まずそうにしている相手を見て嬉しそうにしていた。
俺はそんな夜を見るたびに「なんて意地悪なことを」と驚いて、注意するようにしていた。夜は大抵笑いながら俺に謝って、気に入らない相手のそんな扱いをすぐにやめた。
中学からは同じ塾に通っていた。俺が親に言われて塾に入ることを話したら、夜もすぐ自分の親に言って同じ塾に入った。俺たちは大体上から二番目のクラスに居続けて、何度試験を受けても一番上のクラスには入れずじまいだった。それでも塾の行き帰り、夜と気を抜いた話ばかりできるのは楽しかった。
高校も同じところを受験した。二人とも通学時間が中学の頃の二倍ほどになってしまって、文句を言いながら毎日一緒に登校した。高校からは学校のすぐそばにあった予備校に通うようになった。放課後は一緒に塾へ向かって、エントランスで一緒に簡単な飯を食う。授業を受けて自習をして、帰りの時間を合わせて暗い中を自転車で並んで帰る。
俺と夜は、十八で地元を出るその日まで、ほとんど毎日顔を合わせていた。平日は約束なんかしなくても自然と待ち合わせをしていたし、休日もどちらかが塾へ行くならば一緒に行き、休むつもりならファミレスかカラオケに行った。
高校時代、友達に「お前ら付き合ってんのかよ」なんて茶化されたことがあった。それくらい俺たちは一緒の時間をすごしていた。夜は「バレちまったか」なんて笑っていた気がする。懐かしい。
夜と違う大学に進学するのは不安だった。俺は当然夜と同じ大学に進むものだと思って、本来の実力よりも高い大学を受けたのに、なぜか俺だけが合格してしまった。夜は悔しそうな顔もしていなかった。一瞬だけ結果に驚いた顔をして、すぐに「すげーじゃん」と言ってくれた。
さすがに気まずかった。この大学に行きたかったのは夜の方だ。それでも不安や罪悪感に似たことを口にしたら夜を馬鹿にしているように映る気がして、俺はお礼を言うだけに留めた。
行ったことのない都会で、一人で生きていけるのか。
高校までの暮らしでは、どこでも自転車で行けた。そもそも通っているのはバスと路面電車くらいで、東京を走るような速い電車は実際に見たこともなかった。アプリで電車の時刻を調べる。これだけ人がいて、ちゃんとこの時刻通りにたどり着けるのだろうか。少し移動するだけでも不安が付き纏う。
もし夜と一緒に大学に通えていたら。初めて乗る電車だって、料金システムの違うバスだって、あーでもないこーでもないと言い合いながら乗れただろう。近くに部屋を借りて、毎日のように飲み歩く未来もあったのかもしれない。
空が狭くて息が詰まる。何か困っても、誰にも助けてもらえないのではないか。でもそんなことを言っても変わらないし、親を心配させるのも本意ではなかった。
そうして暮らしているうちに、電車なんて当たり前に乗れるようになった。東京は田舎にはいない奇抜な人間がたくさんいて、人々はそういうのを見ないふりしていた。それでも俺が駅の出口を見つけられなくなっていた時、知らないサラリーマンが方向を教えてくれた。大学では気の合う友達ができた。授業もついていけないということはない。サークルもバイトも、忙しいと言いつつ両立できた。同じ大学に通う早希と付き合い始めた。俺は夜がいなくても案外大丈夫だった。
帰省をする時には必ず夜に知らせる。夜もそうしてくれた。そしてタイミングが合えば、高校時代によく行っていたファミレスで顔を合わせた。
「ベース始めたんだよ」
夜がそう言っていた。地元にいた頃は楽器なんて興味を示していなかったし、軽音楽部のステージを見に行くこともしなかったのに。ただ突然音楽に興味を持った夜は、ギターよりもベースの方がかっこいいと言っていた気がする。
夜との関係は変わらない。話すことが変わったくらい。お互い、大学でできた友達の話とか、バイトはどんなことをしているのだとか、そんなことを話しているうちに日が暮れた。帰りには俺の家まで続く坂道を自転車で下って、夜は手を振って、自分の家へ向かってそのまま坂道を下っていく。
そして二十歳、成人式の後の同窓会で会ったのを最後に、夜とは連絡がつかなくなった。あの日は同窓会の後、何人かでカラオケに行こうとしていた。当然夜も来ると思っていたのに、夜はそのまま帰路につこうとした。「行かないの?」そう言うと、夜は「いい」とだけ笑って言った。
それからメッセージを送っても既読がつかないまま、諦めきれずしつこく連絡を送って、一年が経っていた。
夜が死んだなんて信じられない。
『夜と連絡取ってる? 連絡先知ってたら教えてほしい』
一人暮らしの家に戻り、俺は男女問わず、夜のことを知っていて、かつ俺が連絡先を知っている相手にこのメッセージを送った。
夜が死んだとは思えない。夜の両親が言っていたことなのに、なぜだか受け入れられなかった。
何か少しでも手掛かりが得られれば。もし夜が生きているなら、俺からの連絡を一年も無視しているのは相当ムカつく。でも、最悪それでもよかった。
結局、メッセージを送った相手から返ってきたのは概ね「卒業後は疎遠になって、連絡先も知らない」というものだった。みんな、俺と夜の関係を知っているから「喧嘩したの?」とも聞いてきた。喧嘩にすらなっていないなんて事情は、面倒でとても話せなかった。
高校時代の担任にまでメッセージを送った。異様に情報通で、生徒のことなら話していないようなことまで知っていた、学年主任でもある笹谷先生。最後の望みだったけど、返ってきたのはこうだった。
『夜は担任してたわけじゃないから知らないんだよね、ごめん! 隼人は今何してるの? 大学行ったよね? 来年就職? 彼女は? 地元には戻ってくるの?』
母親と同年代の女性特有の感じにうんざりしながらも、嫌いなわけではないからすべての質問に答える。収穫は何も得られないまま。
夜はミステリアスというのとは違うかもしれないけど、独特の雰囲気があって、男女のどちらからも人気があった。勉強は俺ほどしていないはずなのに、俺よりもできた。背が高くて、髪がさらさらで、スポーツも何でもできた。アニメや漫画にも詳しいから、どんな話題を振っても面白く話を広げてくれる。主人公みたいな奴だった。
男子からよく遊びに誘われていた。女子から告白されることも少なくなかった。どこにいったってその場に溶け込んで、中心になる。そんな夜が、今はもう誰とも繋がりを持っていないなんて。
ネットで夜の名前を検索した。珍しい名前だと思っていたけど、ペンネームなんかにはよく使われているようで、夜に関する情報は見つけられなかった。
そうして夜が一人暮らしをしていた土地を訪ねた。早希には一人旅だと伝えたけど、突然思い立ったように遠方へ行くのは不自然だったかもしれない。
この旅行はほとんど無計画だった。なぜなら俺は夜がこの県の、どこに住んでいるのかも知らなかったから。
夜を知っている人がいるかもしれない。学部も知らないのに、夜の通っていた大学へと足を運ぶ。知らない人ばかり、当たり前だけど。
ギターを背負っている女性を見つけて、声をかけた。
「すいません、夜って知ってますか? 蓮見夜、音楽やってたと思うんですけど」
女性は不審者に向けるのと同じ視線を向けて、俺を制止するように手をかざし、そのまま行ってしまった。苛立ちはしない。当然の反応だと思う。
それでも諦められない。構内を進んで、またギターケースを持つ、今度は男子の集団を見つけた。
「すいません、蓮見夜、知ってますか?」
男子たちが「え、蓮見?」「夜?」と口々に言う。顔を見合わせて、全員が俺の方を見た。
「蓮見君、同じサークルだったけどバンド違ったんで、あんまり……」
手のひらに汗をかく。
「もうサークル、辞めてるってことですか?」
「うーん、ていうか、大学辞めてるんじゃないかな。三年になったあたりで見なくなりましたよ」
夜に関する情報はこれ以上なかった。お手上げ状態で帰りの新幹線に乗り込む。存在するのかわからない情報を求めてホテルに連日泊まり込むほど、俺には金がなかった。
もうこの土地に夜はいないのかもしれない。なんとなく、そんな気がしていた。
それからは積極的に夜を探さなくなった。霧の中で手を伸ばすような、そんな思いをしながらも行動せず、俺は二十五歳になった。
夜がいなくたって楽しい。大学を卒業してからは広告の仕事に就いて、もう三年になる。初めは右も左もわからないまま、お仕事ごっこをしている気分だった。それでも自然と慣れてきて、今では新卒の教育係を任されるほどには見られるものになっている。
早希とは取り立てて喧嘩をするようなこともなく、学生時代と変わらない付き合いを続けていた。お互いに土日休みということもあって、デートがしやすい。これからもこのまま、一緒の時を過ごしていくのだろうと思う。
大学時代の友達とも時々会うけど、やはり地元の友達の方が気が合う。高校時代の友達とは変わらず飲んでいて、もう誰も夜のことを話題に出さない。それでいいと思っていたんだけど。
「あのさ、お前らさ、本当は夜の連絡先知ってるくせに俺に教えないんだろ」
その日は正隆と本橋と飲んでいた。クラスが一緒になったのは高校一年の一回きりだし、部活も違ったけど、何だかうまが合って今でもよく会う。そして正隆と本橋の顔を見て飲んでいたはずなのに、気づけば俺の視界に広がっているのは濡れたテーブルだった。ジョッキを握る手から力が抜けて、握り直して、それでも気づけば力が抜けていた。
「隼人、酔ったね〜」
本橋が笑う。否定しようと思ったがやめた。今すぐ椅子から降りて、床に蹲りたいと思っていた。これは酔っている時のサインだった。
「あいつに口止めされてんのか? あいつは俺が嫌いなのか?」
こんな惨めなことは言いたくなかったけど、もうそうだとしか思えなかった。誰も夜の連絡先を、居場所を知らないなんて、じゃあ夜は今誰といるんだよ。
死んだなんて思えない。本当に頭を抱えて転がりたいほど嫌だけど、俺がなぜだか夜に嫌われて、誰経由でも連絡を取れないだけなのだと思えば腑に落ちる。
「隼人、俺らも本当に夜の連絡先知らないんだよ」
本橋が言う。
「ていうかお前が一番仲良かったんだから、お前が関わりないなら俺らは絶対ないって、なあ」
「マジでそうだよ、あと俺らは夜とそんな仲良くなかったし……二人で遊んだこととかないくらい」
正隆がそう言ったから、俺は顔を上げた。照明の光がやけに強く目に刺さる。神妙な顔をした二人がそこにいた。
「そうなの?」
「そうだよ、俺はお前が前から仲良いんだって言うから話すようになっただけだし、本橋もそうでしょ?」
「うん、若干タイプ違うし」
ふーん、と返事をして思い通りにならない上体を起こして、ジョッキを傾ける。冷たくて気持ちいい。
「これ水?」
「水だよ、今日飲みすぎだから。ぶっ倒れられても介抱しねえからな」
本橋が言う。そんなに飲んだ気はしなかったが、言われてみればやけに視界がぼやけている。ビールと、ウイスキーと、ワインと……何を飲んだか思い出せない。
「夜、死んだって言ってたんだっけ。夜のお母さん」
あの日のことを思い出す。父さんが会社にスマホやモバイルバッテリーの充電をさせてもらいに行っている間、母は冷水でもいいからと身体を洗いに行っていた。一人きりのリビング、照明の紐に吊り下げた電源のついていない懐中電灯の下で、夜の実家に電話をした。
『あの子はずっと前に死にました』
首まで鳥肌が立つ。その時、正隆が言った。
「それって本当に死んだってことなの? 実家に勘当されてて、もううちでは死んだことにしてますって意味の可能性ない?」
「夜が? 勘当されるようなことするタイプに見えね~、何したら勘当されるの?」
水を喉に流し込んで、首を振る。正隆と本橋がこっちを見ている。でも言ったって仕方ない。
「どうなんだろうね、ちょっとトイレ行ってくるわ」
そう言って立ち上がる。
何の根拠もない。ただ、夜の両親が夜を勘当して、死んだなんて表現しているとは思えなかった。これは俺の想像だ。そして夜は勘当されたって仕方ないことも平気でする人間だって、言う必要がないから飲み込んだ。
夜への手がかりを得られないままで、二度、暑すぎる夏を超えた。最近の夏は、子どもの頃よりもずっと暑い。
幼い頃、夏休みはTシャツと短パンで、自転車に乗って毎日のように夜の家に行っていた。あの頃は歩道を自転車で走ってよくて、住宅街を通る車道で遊んでいたって大人に怒られることはなくて、どこでも遊び場だった。
夜の家には地下室があった。工具箱と、あとは本がびっしり並んでいるだけの部屋。本当は夜の母からあまり入らないよう言われていたけど、暗くて涼しい地下室は秘密基地みたいで、俺と夜はよくそこで探索をしていた。
夏祭りの日、夜と、もう一人の友達と夜の家の前で集合した時のこと。名前も忘れた友達が、俺の左の二の腕を指して言った。
「その痣みたいなの、何?」
「これ? なんか生まれつきある」
「えー、気持ち悪」
あの時、吸い込まれるような、やけに透明感のある目をした夜が、何と言ったのか思い出せない。
エアコンにそよぐカーテンを眺めていると、スマホから通知音が聞こえた。
『久しぶりです! 今東京で働いてるんだっけ?』
同じ中学に通っていた大貴だった。俺も大貴もバドミントン部に所属していた。夜も。とはいえ大会を目指すような本気の部じゃなくて、なんとなく気が向いたら仲良くやっていこうよという程度のもので、大貴は二年生の初めあたりで部活に来なくなってしまった。それからはたまにXで投稿を見る程度で連絡なんて取っていなかったというのに。
『東京だよ、大貴は?』
『就職で愛知にいたんだけど東京に転勤することになって、会えない?』
『いいじゃん、飲みに行こ』
会って何話すんだよ、が実際のところだった。それでも大人になってから新しい友達なんて増えないし、ここらで懐かしい顔に会っておいてもいいかもしれない。
あの頃は不満を抱えているけど何も言いませんといった表情で部活を離れて行った大貴を気難しい奴だと思っていたけど、大人になった今は違うかもしれないし。
土曜に連絡を貰って、次の金曜の晩には大貴と会うことになった。転勤してきたばかりで疲れているのではないかとも思ったが、大貴から誘ってきたし、いいのだろう。
大貴が指定してきたのは小さいスペインバルだった。友達同士で飲むといえば大体安いチェーン店に予約もせず行くような感じだったから、まさかこんなこじゃれたところを予約してくれるとは思わなかった。このことを話すと、早希は「浮気じゃないよね?」と笑いながら言っていた。
急に会議なんて入らなくてよかった。定時の三十分前に会議が入って見通しの立たないまま残業をするなんてざらにある。そうなったら久しぶりに会うというのに、大貴に悪い。
軽くマップを見ながら店の前に到着した。黒い壁のバルは、入り口に吊られたオレンジ色の照明で照らされていた。そしてスーツを着た男が俺を見た。
「隼人?」
「大貴、マジで久しぶりだね」
なかなか質のよさそうなスーツを着ている。仕事に使うものなんて何でもいいと、こだわりのないスーツを着ている自分が恥ずかしくなった。
そういえば、最後に見た大貴の姿は中学の制服だったかもしれない。
「アヒージョが美味いらしい」
大貴がメニューを見ながら言った。
「こっち来たばっかでしょ? 詳しいじゃん」
「同僚にこういう店好きな奴がいてさ、ここも勧めてもらって気になってたんだよ」
大貴に勧められるがまま、アヒージョと生ハム、レバーパテを頼む。レバーパテはあんまり好きじゃなかったが、こういうところで食べるのはきっと美味いのだろう。
大貴のワインと、俺がこれまたなんとなくで頼んだサングリアがやって来た。乾杯をする。
「仕事何してんの」
「食品メーカーの営業だよ」
「花形だね」
「隼人は?」
「俺は広告」
「シティボーイだな」
「休日何してんの」
「合コンみたいな質問だな。何もしてねーよ、彼女もいないし」
素早いラリーが続く。生ハムの味が濃い。
「俺の知ってる奴とまだ付き合いある?」
大貴が聞いてきた。大貴とは高校も違った。大貴はやりたいことがあるとかで中学を卒業したら県外に行ってしまったから、本当に俺みたいなのとは違うのだなと思ったことを覚えている。
「いやー、ないね。ああ、鈴木とは……卓球部だった鈴木、わかる?」
「ああ、わかるわかる」
「あいつとは一応連絡取ってるけど、北海道いるらしくてずっと会ってないわ」
「Xにはよくいるよな」
「そうそう、あれは何だ、仕事中も呟いてるのか?」
懐かしい人物を思い出して笑っていれば、ふと大貴の目から笑みが消えた。グラスの結露が指を伝う。
「まだ蓮見とつるんでんの?」
「え、いや……今は」
「ああ、よかった」
その低い声を聞いて、これ以上何も言わなくても大貴の言いたいことがわかったつもりだった。
「隼人がまだあんなのと一緒にいるなら、胸ぐら掴んでやろうかと思ってた」
「そんな物騒な」
「いやあ、だって嫌だろ。好意持ってる友達がさ、あんな」
大貴の放った言葉を否定するように耳鳴りがした。うるさいくらいだった音楽が遠くに聴こえる。笑おうとして、喉が渇いていることに気づいた。サングリアを飲む。
「ていうか俺、大貴にとって好意持ってる友達なんだ」
「ん? うん、まあ、いろいろ」
「いろいろ?」
「明るい、いい奴だなと思って」
「じゃあ中学卒業してからも連絡くれればよかったのに」
大貴が笑う。口元だけ。ああ、これまで疎遠だった理由がよくわかる。俺には大貴が何を考えているのかわからない。
それでも久しぶりの再会も、懐かしい話を気兼ねなくできるというのも、なかなか嬉しいことではあった。こんなおしゃれな店も教えてもらえたし。
「今日来てよかったわ」
サングリアを飲み干し、俺は店員に声をかけた。
土曜、インターホンの音で起こされた。時刻は八時半。今日の予定は昼から早希とご飯を食べに行くくらいだから寝坊ということはないが、平日に比べて寝すぎてしまった。乱れた髪を軽く手櫛しながら、寝巻のままで玄関へ向かう。
実家からの荷物だった。そういえば母が荷物を送ると言っていた。部屋に戻って伝票とガムテープを剥がす。中にはフルーツの缶詰がいくつかと、よれた紙袋、隙間を埋めるように薄いタオルが入っていた。
実家が土地の権利関係で取り壊されるのだそう。戸建てだったから、まさか土地が借り物だったなんて知らなかった。とにかく両親は同じ町内で引っ越すことになり、引っ越し作業中に出てきた俺の捨てにくい荷物を送ると、以前母が言っていた。
一体何を送ってきたのか。紙袋の中を覗き、そこに溢れるように入っているハガキを見てがっかりした。
小学生の頃は年賀状を送るなんて文化があった。見返すこともないそれは確かに俺の部屋の……机の引き出しにしまってあったかもしれない。がっかりするほどいらない上に、捨てにくい。年賀状を大して見ないまま束ねる。
それと写真もたくさん入っていた。学生時代、行事ごとにカメラマンが撮ってくれていた写真だ。写真なんて興味なかったけど、親に言われて自分が写っているものを購入していた。これは早希に見せたら面白がるかもしれない。そう思って写真を適当に見ていると、その中に女の子が一人で写っているものがあった。急いでそれを手に取ると、小さな声で謝罪をしながら、罰が当たらないよう丁寧に四つ折りしてゴミ箱に捨てる。好きな子が単独で写っている写真を購入するなんて若い感性が、いつかの俺にもあったようだ。
どれもこれも送られたって困るようなもの。そりゃそうか。母も家にあって困ったから俺に送ってきたのだ。すべて紙袋にしまいなおそうとして、次の瞬間、脳みそに鳥肌が立った。
白い封筒。俺宛のそれを手に取る。指先に弱い電流が走ったような緊張を感じながら、それを裏返す。そこには『山内 陽太』と書かれていた。
胃液がせり上がってくる直前みたいに、口の中に唾液が湧く。それを飲んで、鼻からゆっくり息を吐き出した。
この封筒は二十歳になった年度の一月、実家のポストに切手も貼らない状態で投函されていたものだ。俺はちょうど、成人式と同窓会に出るため実家に帰っていた。山内はそのことがわかっていて、わざわざ夜中から早朝の間にこの封筒を直接、実家のポストに放り込んだのだ。
あの日も母からこの封筒を手渡されて、山内の名を見た俺は今と同じような拒否反応を示した。そして不自然に分泌される唾液を飲み、乱れそうな呼吸を飲み込みながら、この封筒を開けた。それでも肝心の中身を覚えていない。そこに綴られていたのが感謝だったのか、はたまた恨み節だったのか。
なぜだか俺の脳裏には、山内の失望の眼差しが貼り付くようにあった。そんな風に見られた記憶はないはずなのに。だからほとんど内容は確定しているようなものだったけど、このまま放っておくのは気持ちが悪い。俺は頭の中が膨張していくような居心地悪さに包まれながら、その封筒を開けた。
そしてすぐに、今度は抜けるようなため息が出た。
『あの時は申し訳ありませんでした。僕のせいであなたの学生時代をめちゃくちゃにしてしまいました。それがずっと気がかりでした。許していただけなくても構いません。隼人君が前を向いて生きていけるよう、願っております』
心臓の音がうるさい。
山内陽太とは同じバドミントン部だった。大人しい山内はよくからかわれていたけど、本人も特段嫌そうにしていなかったから、きっと大丈夫なのだろうと思っていた。
それが一年生の秋、気づけば山内へのからかいはいじめへと姿を変えていた。バドミントン部一年男子のほとんどが山内を馬鹿にするようになった。山内が何かしたとか、そういうことは俺にはわからなかった。
山内のラケットケースがゴミ箱に捨てられた。シューズが切り刻まれた。LINEのグループで部員が山内の嫌いなところを言い合った。自殺を勧める言葉もあった。学校裏掲示板みたいなものがあって、山内が殴られる動画が載せられた。これには男子だけが参加していて、女子は見て見ぬふりをしていた。冬あたりから山内は学校に来なくなって、LINEで悪口を送るようなことだけが続いた。
そして春休み、山内は自殺を図った。一体どんな方法を取ったのかは知らない。ただ、夜、山内の家に救急車が来ていたそうだった。パートを終えた母は帰り道、親しくしている山内の母が担架で運ばれる山内に泣き縋っている姿を見た。動揺しながらそのことを俺に話す母の、瞳の揺れが忘れられない。
幸いにも山内は一命を取り留めて、中学二年の秋には再び学校に来るようになった。ただ当然、バドミントン部には戻って来なかった。
あの時、一番つらかったのは山内だ。理由もわからないままいじめを受けて、生活が一変してしまった。命を絶つことすら考えた。そんな山内に謝られる理由がわからない。
ソファに身体を沈めながら、深く息を吐く。
再び登校するようになった山内は、合唱部に入った。合唱に興味があるなんて知らなかったから、意外に思ったことを覚えている。でもそうではなくて、バドミントン部から離れて、安心できる人たちといることが重要だったのかもしれない。
思えば山内と行動するようになった合唱部の奴らと廊下ですれ違う時、何も言われなかったけど、何度も睨まれていた。俺は何も悪くない。それでも居心地が悪かった。
夜が、率先して山内をいじめていた。いや、あのいじめ自体、夜が始めたものだったように思う。もしかしたら俺は夜と一緒になって、山内をいじめていたのか。
顔を覆う。心臓が嫌な音を立てている。覚えていない。覚えていないけど。もし俺が、記憶にあるよりずっと最低な人間だったら。
勝手なのをわかっていて、早希に断りの連絡を入れた。とても明るい場所で食事を楽しめる気分じゃない。
「本当にごめんなさい……」
目の前にいない早希に詫びを入れる。
それに真実を確かめなければこの胃のムカつきが収まりそうにない。もし自分が許されないような人物だったら、どうしたらいいのかわからないけど。
すぐ大貴にメッセージを送った。
『昨日の今日でごめん。聞きたいことあるので会えない?』
返信が来るまでの間、心臓を掻き毟るように、シャツの胸あたりを握っていた。息を吐くたび頭の中が痒い。
『いいよ』
ちょうど俺と大貴の家の中間地点あたりにやって来た。電車に揺られている間もずっと胃が気持ち悪くて、俯いて店を調べていた。ちょうど駅前に朝から営業している安い居酒屋があって、そこで集まることにした。
先に来ていた大貴は、当たり前だけど昨日よりもずっとラフな格好をしていた。
「ごめん、急に。そして待たせてごめん」
「別に予定なかったしいいよ」
メニューを差し出されたけど、とても酒を飲む気分にはなれない。ウーロン茶を注文する。しばらくは他愛のない話をしていたけど、気もそぞろだった。俺の意識は完全に中学時代に向いている。
「あのさ、山内、覚えてる?」
「ああ、バド部の」
何気ないように言いながら、大貴の表情が硬い。
「あの、あのさ……山内って……」
「蓮見がいじめてたよな」
呼吸が止まる。目を瞑って、息を吐き出す。
ウーロン茶と、大貴の頼んだビール、いくつかのつまみがやって来た。
「蓮見、すごかったよな。山内がうじうじしててムカつくとか言い出して、物隠したり捨てたり、普通に暴力も振るってたし、度胸試しだとか言って窓から飛び降りさせようとしたりしてたっけ。本当に胸糞悪かった」
「大貴は、だから夜が嫌いなんだ」
「まあそうだね、カス野郎だし」
「じゃあなんで、俺とは会えるんだ」
覚えている。大貴は山内へのいじめに参加していなかった。積極的に止めようとはしていなかったけど、とにかく部内で堂々と行われるいじめに嫌悪の目を向けていた。そして結局、大貴も部活に来なくなった。いじめが嫌で、夜が嫌いだったなら当然だ。でもそれなら、俺だって夜と同じなんじゃないか。
「二十歳の時、山内から手紙もらって、そこになんか謝罪が書いてあったんだよ。俺、思い出せば山内の友達から睨まれたり……してた気がする。俺も山内のこといじめてたはずなのに、大貴が俺と会ってくれたのも、山内が申し訳なく思ってんのも意味がわからない」
許されたい。最低でありたくない。そんな思いばかりが先行した、無様な吐露だった。
「まずお前、山内のこといじめてないじゃん」
そんな大貴の言葉にほっとしたけど、表情に出すのは恥ずかしいことだった。そして何より俺は。
「覚えてない」
「ええ? 蓮見に言って、いじめ止めようとしてただろ。だから山内もさ……」
大貴は途中で視線を下に向けて、黙り込んだ。
「覚えてない、自信がない」
「ほ、本当に? お前が一番、蓮見にキレてたんだよ。山内のこと庇って、先生にも相談してさ。山内があんなことになった後も、ちゃんと謝れよって、お前、蓮見に言ってたじゃん」
何も覚えていなかった。記憶の端に何かあることだけはわかるのに、上には重たい鉄板が粗雑に置かれている。
「蓮見に……あの、殴られたのも、覚えてないってこと?」
「は?」
「蓮見がお前に謝れって言われて、逆ギレして」
すべて嘘の話をされているみたい。自分のことのはずなのに、何も覚えていない。中学生のあの頃、大事件なんて起きなかった。山内が自殺未遂をしたことくらいだ。本当にそんなことがあったなら覚えていないわけがない。それに納得できない理由があった。
「俺、夜とは幼稚園からの仲で、喧嘩なんてしたことないよ」
「いやいやいやいや、ええ?」
「夜は確かに性格悪かったし……山内のこといじめてたのも覚えてるけど、俺のことまで殴るとか、そういうのは……ちょっと考えられない」
見れば、大貴は口元を手で押さえて、俺から目を逸らしながら何か考え込んでいた。つまみが全然減っていない。ウーロン茶を飲む。大貴は俺から目を逸らしたまま話し始めた。
「俺、小学生の頃いじめられてたことあって、蓮見が山内のこといじめ始めた時、怖かったんだよね」
「知らなかった」
「あの時のバド部の雰囲気、最悪だった。マジで見ていられなかった。蓮見のこと軽蔑してたけど、止めてあの矛先が俺に向いたらって思うと、怖かった」
「それは……当然だよ」
「でも隼人は蓮見と対等だって疑ってない顔して止めようとしてたじゃん。すごかったけど、危ないかもって思ってた。俺は……部活辞めて逃げるべきじゃなかったな」
大貴が姿勢を崩して、前髪をくしゃりと握った。
「いや、俺は結果として嫌な思いとかはしてないし……」
大貴の瞳の奥が揺らめいている。見たことのある目だった。
「本当に、覚えてないんだ」
俺が頷く。それを見て大貴も頷いた。
「じゃあ、思い出さない方がいい。この話はもうしない」
大貴がビールを飲み干そうとするのを黙って見つめていた。脳の奥、確かに仄暗い場所があるのに、直視できないまま。
深夜一時、トイレに起きると洗面所の鏡の中に夜がいた。夢か幻覚かはっきりしないけど、それは二十歳頃の夜の姿をしていた。怖くないから目を逸らせない。手も拭けないまま、夜を見つめていた。そして何を言ったらいいのかわからずにいると、夜が口を開いた。
「なんでお前はまだ生きてんだよ」
指先から水滴が落ちる。
「隼人は俺より勉強できなかったし、モテてなかったし、面白くなかったじゃん。俺が死んだのに、お前はまだ生きてんだ」
目が離せない。
「就職なんかして、大人になったつもりかよ」
夜が死んでいないならそれがよかった。もうこの世に存在しないんじゃなくて、ただ俺のことが嫌いで、連絡を絶っているだけだったら。それでも、矛盾しているけど、夜に憎まれているなんて思ってもいなかった。
「平気そうな面してるけど、知ってるんだからな。山内に謝れなんて言ってたくせに、ちょっと殴っただけで縮こまって、情けないんだよ。ああそうだ、あれはウケた。公園で」
鏡の中にいたのは俺だった。手は濡れたまま。洗面所の照明がやけに暗い気がした。
夜が何度も現れる。枕元に、窓の向こうに、テレビの反射に、棚の隙間に。そして俺を詰る。
夜が現れるたび、目も逸らせないまま困惑していた。山内からの手紙を見た時、大貴から知らない記憶について触れられた時、確かに激しく動揺した。それでも自分が病んでしまったとは思っていなかった。起きていてもこれほど鮮明な幻覚を見るなんて。夜を通して自分を責めるなんて。
エアコンの効いた部屋で、麦茶の入ったグラスが汗をかいていた。早希から「話があって」と言われてから随分と時間が経っていた。早希は今にも何か言い出しそうな顔をしながらも、なかなか口を開かない。
きっとそういうことなのだろうとわかっていた。そしてどうにか回避できないものかと思いながら、エアコンの風で痛んだ頭では何もいい案が浮かばなかった。もう冷房を止めてしまいたい。でも恐らく止めたら暑いのだろう。
「……別れ話?」
愚かしくも、耐え切れずにそう聞いた。
「いや、そうじゃなくて……」
歯切れの悪い返事。早希が落ちてきた髪の毛を耳にかける。
もう付き合って七年になる。その間、取り立てて大きな喧嘩もしなかったから、俺と早希は相性がいいのだろうと勝手に思っていた。この関係は早希の我慢のもとに成り立っていたというのか。
「あの……重たい話になっちゃうんだけど、私、三十までに子どもほしくて」
予想外の言葉に、手の中の麦茶を飲めないまま、早希の黒髪を見つめていた。
「お互い仕事もしてるし、どうなんだろうってずっと思ってて……でも、もし隼人がこれからのこと考えてないなら」
「結婚しよう」
早希の黒くて丸い目に波が寄せる。グラスから手を離して口元を抑える。結露が冷たい。濡れた顔を手の甲で拭う。勢いの言葉を何とか整えなければ。
「いや、ごめん、違った? 俺が何も考えてないなら別れたいってことだよね?」
「えっと、話し合いたいなと」
「なるほど」
自分の後ろ髪に両手の指を通す。言葉を考え直したい。格好悪い言葉しか頭にない。何だか焦っている。言ってしまう。
「別れたくない、結婚しよう」
格好悪くてため息が漏れそうだったけど、それもまた格好悪いので耐えた。
ここ最近、俺は夜のことばかり気になっていた。俺が忘れていることが何なのかわからないから、恐ろしい幻覚ばかりを見ていた。夜の睨みつけるような顔を見るたび、ここが夢なのか現実なのかわからなくなった。
食欲などの気力が失せる。そうして早希との約束を断るのも一度や二度ではなかった。不安にさせるに決まっている。それにまだ若い気がしていたけど、俺たちはもうすぐ二十八なんだ。
「ごめん、本当に、毎日のことしか考えてなくてこれからのこととか全然考えてなかった。でも結婚するなら早希しかいないし、早希となら大丈夫だと思うから。結婚したいです」
早希の目に涙が溜まっていって、笑ったらその頬を滑り落ちた。頷く。綺麗な雫が落ちていく。
「ちょっと格好悪すぎる。プロポーズ、いいところでやり直させて」
「十分だよ」
自分が結婚することになるとは思っていなかった。漠然と、将来は孫と遊ぶなんてビジョンはあったけど、過程のことは何も考えていなかった。
目の前で笑みを浮かべる早希は誰よりも美しいのに、俺は当たり前だったこの幸せに気付いていなかった。待たせてしまったことを申し訳なく思いながらも胸はいっぱいいっぱいで、テーブルの上の早希の手をそっと握った。
それから結局、コース料理が出るような店でプロポーズをやり直した。一緒に選んだものだったけど、結婚指輪を渡した。ベタに赤い薔薇でもプレゼントしようかと思ったけど、飾るところがないからと断られてしまった。
満たされていた。世界で一番幸せな自信があった。それでも俺の部屋には夜が現れた。早希がいない時に限って暗闇に現れては、俺を見下すようなことを言う。その目には悔しさに似たものが滲んでいるように思えたけど、指摘するのは憚られた。
その日は初めて、窓に映った夜に話しかけた。
「結婚することになった。二ヶ月後には新居に引っ越す」
夜が何か言おうとしたけど、言葉を続けた。
「俺がなんで夜とのこと覚えてないのかわからないけど、もう気にしてる場合でもないんだ、悪いけど」
最後の会話ができないまま、会えなくなった夜のことが惜しかった。寂しかった。それでもこれだけ呪いの言葉を浴びせてくる夜に、思いのほかうんざりしていたのかもしれない。俺から出た言葉は冷たかった。
夜はいつものように俺を睨みつけて、下の立場のままいなかった俺を詰る。そしてあの日の話になる前に、俺はカーテンを閉めた。小さく謝りながら。
早希とは派手な披露宴なんかをせず、親族だけを招いて簡単な挙式をした後に食事会をすることにした。打ち合わせのため結婚式場の事務所へ向かうのだけど、これが急な坂の上にある。
「マジでここきついなあ」
そんなことを言った直後、学生が自転車を立ち漕ぎで登って行った。
「すごいなあ……私、ここを自転車は無理かも」
今にも息が上がりそうな早希と一緒に坂を歩く。次に来る時はタクシーで来よう。
その時、子どもの悲鳴が聞こえた。驚きつつも、きっとふざけて遊んでいるだけだと思った。そうして声のする方を見ると、やっているのかわからない店と民家の間、空地になっているところで中学生くらいの男子が同じくらいの年の男子三人に押さえつけられていた。
足が止まる。学校のジャージを着ている彼らを見て、心臓が凍っていくようだった。
「え、何あれ」
早希が不安そうに言う。
何の言葉も返せない。今すぐ目を逸らしたい。俺はたぶん、あれを見てはいけない。
羽交い絞めにされたその子は悲鳴を上げて抵抗している。面白そうに笑う男子たち。一人が、必死に閉じて声を漏らすその口に、近づけた。
目が離せない。その指につままれた、黒くて肉の詰まっていそうな虫から。
止めるべきだった。いじめの被害に遭っているのであろうその子を助けるのが最優先だ。頭ではわかっていた。
でも、踏み躙りたい。罰を受けさせたい。後悔させたい。抵抗したかった。
思いのほか華奢な身体だった。中学生というのは、過去を思い返すよりも幼い。俺は虫を食べさせようとしていたその男子を突き飛ばしていた。俺を見上げるその子の目が、情けない怯えに染まっていた。
簡単なことだった。抵抗が足りないだけだった。夜が死んだって、突き飛ばしてやればよかったんだ。どうせ死ぬんだから。
三人が逃げ出して行った後で、いじめられていた男子も俺に「すいませんでした」と言ってその場を去った。蝉の声だけが聞こえる。芝の色。視界が揺らぐ。俺は何をしているんだろう。
「隼人!」
突然揺さぶられて、全身の力が抜けた。土の上に尻もちをつく。気づけばもう誰もいなかった。地面についた手に蟻が這う。蚯蚓が干からびている。蝉が必死に叫んでいる。
手で口を押えたけど間に合わなかった。胃液とともに昼に食ったものが出る。ツンとした臭いに目を瞑った。早希の声に答えられず、差し出されたハンカチを受け取れない。
全部思い出してしまった。
「何か食べる?」
早希に聞かれて首を振った。腹の中が空っぽなはずなのに、まったく食欲がわかなかった。
「ごめん」
ソファに項垂れながらそう言う。
「俺のせいで予定なしにしてばっかだ」
弱っているとアピールしているようで恥ずかしい。顔を手で覆う。
「いいよ、予定振り替えたから。あんな状態で行けないよ」
「ごめん」
「いいっていいって、とにかく体調不良を治しましょう」
机の上に、早希が買ってきてくれたスポドリと経口補水液が置いてあった。早希は何も聞かない。でもこのまま何も言わないのはおかしかった。
「中学生の頃、部活でいじめがあって」
本当に話すべきなのだろうか。わからないまま、口は勝手に語り出した。早希は手を止めてこっちを見ている。
「いじめの主犯が俺の……幼馴染で、いじめられてた奴は自殺未遂までしたんだよね」
昼間吐いたものと変わらないような言葉。価値のない回顧。
「幼馴染はそういういじめというか……意地悪みたいなこと、昔からよくしてて、でも俺が注意するとちゃんとやめてたんだ。だからその時も言えばやめてくれるって思ってたんだけど、なかなかやめなくて、結局、被害者の方が自殺未遂しちゃって」
すぐそこで夜が見ているような気がした。窓の外、鏡の中、家具の隙間で笑っている。
「幼馴染に、被害者に謝罪しないともう友達でいられないみたいなこと、言った気がするんだよ。そしたら言うこと聞いてくれると思って。でも」
腹の中を、蟻が列を成す。潰れたカメムシから臭いが立ち昇る。羽音が木霊する。
「ごめん、なんでもない」
いつの間にか隣に来ていた早希が俺の背をさすっていた。
早希が眠った後で、ベッドを抜け出した。ベランダに出て夜風に当たる。とはいえ夏の夜は蒸し暑い。
『電話していい?』
彼女みたいなメッセージを送る。
『いいよ』
大貴からはすぐ返信が来た。電話をかける。二度のコールで出る。
「夜中にごめん」
『彼女?』
「気持ち悪いな、俺も思ったよ」
生ぬるい風が頬を撫でる。
「いろいろあって、思い出しまして、忘れてたこと」
大貴は何も言わない。
「夜は、何が気に食わなかったのかな。悪いことをした時に謝れなんて、今までもいくらでも言ってきたと思うんだけど。俺、相当殴られたんだよね」
『らしい、俺はその場にいなかったから見てないけど』
「その後のことも?」
『うん、話に聞いただけ』
あの日、昼休み、俺は夜に「山内に謝れよ」と言った。夜は確か「なんで?」と心底不思議そうに言った。山内は自殺未遂をしたのに。夜だってそのことは知っているはずだった。
話が通じない。頭に血が上っていた。俺はすぐ隣にいた夜の胸を強く押した。そして言った。
「最低だよ、お前。謝らないなら友達やめるからな」
そんなことで謝ったって仕方ない。今ならわかる。でもあの時の俺は、夜が反省して山内に謝罪すれば、山内も多少は溜飲が下がるんじゃないかと呑気に思っていた。
そして帰り道、小さい公園の前を通りかかった時、俺は誘拐でもされるかのように砂と草の上に引きずり倒された。
腕がしっかり押さえつけられていた。抵抗すると腕が外れそう。俺を押さえていたのは山内のいじめに参加していた二人だった。目の前に立つ夜を睨みつける。
怖くはなかった。昔から、夜は気に入らない人間に対して意地悪だ。それでもその矛先が俺に向くことはなかった。
夜は山内に謝ってくれると思っていた。それでも今の夜の、反抗的な目を見ていたら、その気がないことなんて容易にわかった。俺に嫌がらせをして、謝罪をしなくていいという許しを得ようとしているのだと思った。
口を開こうとしたその時、拳が飛んできた。血の味が滲む。夜は被害者みたいな顔をしながら、何度も俺を殴りつけた。
「俺より馬鹿なくせに生意気なんだよ」
言い返す間もない。
「今まで危害加えないでいてやったのに」
今にも涙が零れそうな夜の目を見ては、すぐに視界が反転する。
「友達やめるなんて言うな、撤回しろ、謝れ」
公園の向こう、誰も通りかからない道を眺めながら、嘆きのようなその言葉を聞いていた。やがて夜の拳にどっちのものかわからない血が付くと、それを見て夜は笑った。
必死に抵抗したのを覚えている。地面に引きずり倒されて、無理矢理に口を開けられて、迫ってきたのは足を必死にバタつかせている肉厚な虫だった。触角が、足が、舌を撫でる。胃液がせりあがってくるけど、口は押さえられていた。そうしてくぐもった絶叫を上げている間に、虫は滑り込むように喉の奥へと入り込んでいった。何匹も、何匹も、不快感が薄まらないまま体内を這って行く。
ようやく解放された時、真っ暗になった公園でたまらず嘔吐した。こんな暗さで見えるわけがないのに、吐瀉物の中で無数の虫が蠢いているように見えた。
「思い出したのにうまく繋がらない、あんなことされて死にたかったのは覚えてるのに、あの日とそれからの毎日のことが、どうしても繋がらない」
『隼人は普通にしてたよ』
「そう」
『何もなかったみたいに蓮見と登校するようになって、昼休みのたびに蓮見とふざけてて、部活にも普通に参加してた』
夜との関係が何も変わらなかったことは覚えている。俺が忘れていたあの日のことだけ、すっぽりとこの世からなくなったみたいに。
夜は全部忘れて笑っている俺を見て、どう思ったんだろう。
『あの時は……隼人がおかしくなったんだと思った。記憶を失ってたなんて知らなかったから、なんであんなことされても蓮見と一緒にいるんだよって。でもお前に怯えた様子とかもなかったからさ、みんな怖くて何も言えなかったんだよ』
ベランダの柵に手をつく。星が見えない。
結婚のことを大貴に伝え、電話を終える。スマホをポケットにしまった。柵に手をついたまま下を覗く。街灯だけが明るい道を、誰も歩いていなかった。そうしてぼんやりしていたその時、突然ベランダの窓が勢いよく開いた。心臓が捻り上げられるような気がして、振り返ると、早希が目に涙を溜めて立っていた。
「何してるの」
「あ、ちょっと、夜風に当たろうかと」
「本当?」
責めるような目。すーっと全身が冷えていく。
「いや、あの、電話をしてたんだけど、男だから。中学の、大貴って、バド部で一緒だった、今なんか、なんかの営業やってる、それで電話終わって外を見てただけで」
必死に取り繕いながら早希に近づく。早希がそんな俺の腕を素早く掴んだ。
「浮気とか、そんなこと疑ってないよ。早く戻ろう」
少し零れた涙を指先で拭って、早希は俺を引っ張るようにして部屋に入る。うまく脱げなかったサンダルがベランダで片方ひっくり返った。強い力で握られて、情けなくなった。
夜のせいで過去が汚れた。そもそも意地の悪い奴だとわかっていながら仲良くしていた俺にも問題があったのかもしれない。
俺の人生には障害も悩みもないと思っていた。落ち込むようなことはあったって、人生を立ち止まらせるようなことはなかった。
トラウマができたのは夜のせいだ。それでも早希が勘違いしたように、投げ出すつもりなんてない。これまで夜がいなくても生きてこられたから。
冷たいフローリングを踏みながら俯く。ただ知りたかっただけ。夜がどうしているのか。成人式の夜、一緒にカラオケに行こうとしなかった夜を見て、望む未来が待っていないことはわかっていた。
「お前が大学受かった時、不快だった」
早希のいない夜、突然聞こえたその声に目を開いた。ベッドの脇で、夜が俺を見下ろしていた。俺は目を瞑って夜に背を向ける。
「お前は俺の志望校真似しただけのくせに、俺が落ちたのに、なんで一人で行ったんだよ」
その通りだった。小学生の頃からずっと、勉強は夜の方ができた。母に「やりたいことがないなら大学くらい行っておけば」と言われて、夜の志望校を真似した。なんとなく、この先もずっと夜とつるんでいくのだと思っていたから。
そして俺だけが受かった。たまたまか、その日のコンディションの問題だろう。模試だってずっと夜の方が好成績だったのだから。
「会うたび興味ねえ大学生活の話ばっかしてきやがって、マウントのつもりだったのかよ」
枕元に置いておいた耳栓をして、布団を深く被る。
嫌われていても構わない。もう死んだ人間にどう思われていたって関係ない。布団の中、息を細く吐き出す。これが本心となっていくことに、もう戸惑いすら覚えずにいた。
よく晴れた日だった。早希は大学時代の友達と遊びに行くのだと言っていたが、何の予定もない俺は麦茶を入れて、無為にテレビを見ていた。まだまだ蒸し暑くて、外に出るのが億劫だ。
先日の打ち合わせでもらってきた式場のパンフレットを見る。よく陽の入る素敵な会場だった。早希があまり花に興味を示していなかったから、装飾はプランナーに任せることにした。親族だけの小さな挙式だし、それくらいでちょうどいいのかもしれない。
ウエディングドレスは肩が出ているとはいえ、なんだか暑そうだった。式を挙げる頃には気温が少し下がっていればいい。
「幸せそうにすんじゃねえよ」
真後ろの鏡の中、そこから聞こえる声に俺はもういちいち振り返らずにいた。もはやこれが幽霊なのか、俺が作り出した幻覚なのかはわからなかったけど、聞く意味のない言葉だった。
「お前、一瞬でも惨めな思いしましたって彼女に言ってないんだろ。格好悪いもんな」
動物園でペンギンの赤ちゃんが生まれたらしい。インタビューを受けた人は「早く会いたいです」とデレデレな笑顔で言っている。
「自分の彼氏がいじめられっ子だったなんて普通無理だもんな」
短いニュースの時間が終わって、昼の番組が始まった。騒がしく話す芸人の声が入ってこない。麦茶を飲む。そうめんでも茹でよう。立ち上がった時、夜の姿が目に入った。
「何か言えよ、昆虫食が」
スマホの当たったところを中心に鏡が割れた。床に飛び散った破片がやけに黒い。夜はもうそこにいない。
土日を使って地元に帰って来た。実家の場所が変わったということで、駅まで両親が迎えに来てくれた。父も母も、前に見た時より幾分老いて見える。
「久しぶりだな」
「なかなか帰って来られなくてごめん」
「元気にやってるならそれでいいよ」
母が笑う。父は真顔だったけど、なんとなくわかる。これでこの人は寂しいと思っていたのだろう。
「早希さんは?」
そう父に聞かれた。
「また今度一緒に来るよ、その前に結婚式かもしれないけど」
「結婚式って何着て行ったらいいのかしら? 早希ちゃんの親御さんは留袖とか着るの?」
「とめそでって何?」
「も~、早希ちゃんはわかると思うから聞いておいて」
簡単なドレスでいいんじゃないの、と思ったけど、その場で早希にLINEを送っておいた。
その日は両親が寿司を取ってくれていた。なかなか普段は見ることのない寿司桶を前に目を輝かせる。
食事の最中、母はパート先での話とか、今でも繋がりのあるママ友との会話とか、俺の同級生の話とか、そんなことをノンストップで話していた。そして父は嫌な顔をせず相槌を打つ。俺がいなくてもいつもこうなのだろう。
「そういえば夜君見ないね、仲良かったのに。今どこで何してるの?」
「……夜の母さんと話さないの」
「夜君のお父さんお母さんね~ほんと悪いけど私昔からちょっと苦手なのよ、なんか厳しそうっていうか真面目そうっていうか、お母さんこんなんだから話噛み合わなそうで!」
母の笑い方にはどこか若さを感じる。
母に聞きたいことがあった。
「俺、中学の時にさ、変な日なかった? 覚えてる?」
「何かあったっけ? あんたは昔から外で遊んでばっかだったから……あ、中学からは塾も頑張ってたか」
「怪我して帰ってきたりさ」
母が鮪を食べながら目だけ動かして、ぐるりと辺りを見渡す。
「ああ、ああ、二年生の時? 殴られたみたいな怪我して帰ってきたことあったね」
「覚えてんだ」
「覚えてるよ~でもあんた部屋閉じこもっちゃって何も言わないし、男の子だからこんなこともあるのかなって……あんまりお母さんが口出ししない方がいいのかしらって思ってね」
母は咀嚼の合間に言う。箸は止まらない。
「でも次の日には普通の顔して学校行ったでしょ? お母さんが、帰りは? って聞いたら夜君と遊んでから帰るって言ってたから」
俺は母の目を見つめながら、指一本も動かせなくなっていた。一言一句、脳に焼き付けるみたいに、母の言葉を聞く。
「夜君と本当に仲良いんだなって、夜君のおかげで立ち直ったのかなって思ってたんだけど……あれは何があったの?」
「あんまり覚えてないけどたぶん友達と喧嘩したんだよ」
自分で話を切り出しておいて、おかしな言い分なのはわかっていた。でも母は安心したような顔をして、また別のことを話し出す。
両親に今さら心配をかける必要はない。俺だって困ってなどいないし。
ただ、部屋に夜が現れることだけは何とかしないといけなかった。
翌日、朝早くに夜の実家へ行った。インターホンを押す。
『はい』
「隼人です」
インターホン越しにも家の中の空気が凍るのがわかった。夜の名前も俺も、もう禁止ワードなのだろう。
『前も言ったけど、夜ならもう』
「ご両親に用あって来たんですけど」
蝉の声と、すぐ後ろを走っていく車の音だけ。しばらく間があったから、このまま無視するつもりなのかと思ってもう一度インターホンを押そうとした。その時、少しだけドアが開いて、夜の母の目が見えた。
「何?」
髪にもだいぶ甥を感じる。夜の母は真面目で堅い雰囲気がありつつも、小綺麗にしている印象があったのに。
「夜の墓、どこにあるんですか」
「知ってどうするの」
「墓参りしかないでしょう」
夜の母がドアを閉めようとしたから、すぐに足先を滑り込ませた。物語なんかではよく見るけど、まさか本当にやることになるなんて。ドアに挟まれた足先が案外痛い。
「夜、学生時代にひどいいじめしてましたよね。俺、あの時の被害者と繋がってますよ」
夜の母は黙っている。
「今さら昔のことで脅したくないです。親友の墓参りがしたいだけです」
通報されたらまずいことになるのかな。そんなことが頭をよぎったけど、夜の母はそこまでのことをしないようにも見えた。
「青葉霊園、もう来ないで」
ドアを閉めようとする手に力がこもっていた。
「わかりました、あと」
夜の母と目が合わない。
「夜、なんで死んだんですか」
夜の実家を訪ねたその足で青葉霊園を訪れた。喪服を着た人たちとすれ違った。蓮見家の墓を探して練り歩く。
夜はどこか人を惹きつける雰囲気があった。それはまったくごわついていないあの髪にあったのかもしれないし、引きずり込まれるような瞳にあったのかもしれない。真面目そうな両親と違って、本当にあの人たちの子どもなのかと疑うほど、夜は奔放なところがあった。
見下している人間にはとことん性格が悪かった。だからいじめなんてしたのだろう。山内に謝るよう言った時、夜は何が悪いのかわかっていないようだった。それでもそうではない人には、どこか甘いような、懐いてくれた黒猫みたいな顔を見せた。男女問わず、夜が肩にもたれかかってくることが嬉しかったのだろう。
俺はそんな夜のことがすごいと、面白いと思っていたのに。間違ったことをしても、気づいてくれると思っていた。
惨めなもんだ。
蓮見家の墓の前に立っていた。墓誌の最後に夜の名前がある。
夜とずっと一緒だった。幼稚園で仲良くなってしまったのが運の尽き。なぜあれだけ好きだったのかわからない。ユーモアのある奴だったかと言えば、そうではないと思う。それでも毎日会って話したって飽きなかった。
そうだ、友達が俺の腕の痣を見て気持ち悪いと言った時、夜は。あの時、俺は、何があったって夜が味方でいてくれるのだと勘違いしてしまった。俺も結局、夜に盲目となった一人に過ぎなかったのだろう。
夜の入っている墓を見下ろす。前にも言ったけど、結婚することになった。心の中で夜に言う。
今、俺は紛れもなく幸せだ。結婚するなら早希しかいない。子どもなんて考えたこともなかったけど、早希となら大丈夫だと思う。ちゃんと家族になっていきたい。
夜は結局、俺のことだって下に思っていた。きっと自分以外の全員を見下していたのだろう。人の痛みなんてわからないみたいに、山内を、俺を殴りつけていた時の夜の顔を思い出す。
よかった。ちょうどよかった。これから大事な人と家族になるんだから。
「お前みたいなの、自殺してくれてよかったよ」
夜の墓に虫が這っている。墓石を蹴りつけるようにしてその虫を潰した。柔らかい殻を破って、粘性のある液体が石材を汚す。振り返らず、霊園を後にした。