骨折日記14🦴🌈 幽霊の視点から
東京駅に着いて、私に充電コードを貸してくれた女性が席を立つときにお礼を伝えた。
彼女は目を合わせず、微妙に会釈して去っていった。
その対応が普段の私と全く同じで、気づかされた。
私も電車などで席を譲ったとき、お礼を言われても目を合わせず軽く会釈だけしてそそくさと遠くへ行っていた。
こんなことで負担に感じないで欲しい、何かいい人ぶってるみたいで照れ臭い、というような理由で目を合わせなかったが、お礼を言う側は、目を合わせてちゃんとお礼の言葉を受け取って欲しかったんじゃないかと反対の立場になってわかった。
目を合わせて「とんでもないす」「お茶の子さいさいでさぁ」またはビスケットブラザーズ風に両手を上げて「ユアウェルカム!」とか平気で言えるようになりたい。
特急列車を降りる時も、邪魔にならないように降りる順番を譲って最後まで待ったが、松葉杖を見ても一切譲る気のない人々の無関心な目に、心ならずまた傷ついてしまった。
困ってる人を見ると過剰なまでに世話を焼く教師の母のもとで育ったので、こういうドライな世界はちょっとカルチャーショックを受ける。
私も望む世界は、誰であれ困っていたら助け合うピースフルな世界なのに、自分が映し出す現実は思った以上に厳しかった。
しかし、電車から降りると駅員さんが車椅子を用意して待っていてくれた。
「待機場所を間違えてすみませんでしたあー」
私の降りる場所がずれただけなのに、丁寧に謝ってくださり、車椅子に乗せてくれた。
底抜けに明るくて優しくていい人だった。
若いが話し方と雰囲気が吉本新喜劇のあほの坂田師匠のようだった。
しかし私は、多分仕事ができないからみんなが嫌がる車椅子介助の仕事を押し付けられたんだろうか、と偏見満載なことを考えて暗い気持ちになった。
そんなこととは知らず、駅員さんはどこまで行きますか?と聞いてくれた。
私に対して何の強制もダブルバインド(あんまり遠いところ言うなよ的な圧)もない純粋な問いかけだった。
病院は見つからないし、東京は松葉杖の人に冷たいし、気力が尽きて、もう家までタクシーで帰ろうと思い、乗り場まで送ってもらえることになった。
「じゃあ行きますよおー」
「はいすみません。車椅子通りまーす!車椅子通りまーす!」
声を裏返しながら元気に車椅子を押してくれる駅員さん。
まるで吉本新喜劇の「ごめんやして〜! おくれやして〜! ごめんやっしゃ〜!」という感じで東京駅を疾走する。
こんな駅員さんの雰囲気とは対照的に、車椅子を避けて通り過ぎる人は冷ややかだった。
東京駅はめちゃくちゃ混んでいたが、行き交う人と一切目が合うことがなかった。目もくれないのに、みんなギリギリのところを無表情で交わして行った。
車椅子に配慮して遠巻きにするわけでもなく、まるで車椅子なんていないかのごとくすんでのところをサッと交わす。危ないが逆にすごい技術だった。
その奇妙な動きが、まるで幽霊の軍団の中を車椅子で走行しているようだった。
いや幽霊は私か?
車椅子に対する意図的な無視を感じて、これ以上ここにいたら、心が傷だらけになっちゃいそうだと思った。
しかし、それは今までの私がやっていたことだった。
私は今まで車椅子や松葉杖の方などに対して、ジロジロ見たら失礼だと思って、できるだけ見ないようにしていた。
でも本当は見たかった。何があったのか知りたかったし、松葉杖や車椅子に興味があった。しかしその好奇心が人を傷つけるかもしれないと思って、見ることを禁止していた。
今、自分がその立場になると、無視される方が辛かった。
完全に存在ごと無視されると、まるでこの街にいてはいけない類いのように感じた。
なんで怪我したの?と純粋に好奇心を持ってもったり、見てもらった方が嬉しかった。(あくまで私の話です)
ただ東京駅の人々は失礼にならないよう配慮してると言うよりも、もっと無機質に感じた。
家に帰ったら優しいお父さんかもしれないが、東京駅という場所では完全に心のシャッターを下ろしているのかもしれない。
こんな大勢もみくちゃになる場所で、いちいち心を使っていたらボロボロになっちゃうかもしれないから。
無機質に通り過ぎる人々の中を、声を裏返しながら、明るくのんきな駅員さんがごめんやっしゃ〜!と車椅子を押し続ける。
シュールなコントのようだった。
とにかく、忙しい上に狭い場所に人が多すぎるのが問題だ。
物理的に人との距離が広がれば、心にシャッターを下ろす必要もなくなる。
みんながハートを開いても安心できるような、空間的にも時間的にもゆとりがある世界を目指そうと幽霊の私は思った。
