訪問入浴看護師は、人の“暮らし”を浴びる仕事だ
わたしは普段、訪問入浴介護事業所で看護師として働いている。
訪問入浴の車は、
だいたい少し湿っている。
浴槽を洗ったあとの水気。
ホースの匂い。
ほんのり残る入浴剤の香り。
夏場なんて、
車内はサウナみたいになる。
その車に揺られながら、
私は毎日、
いろんな家へ向かう。
表札の文字が薄れた家。
庭木だけ立派な家。
玄関に段ボールが積み上がった家。
古い団地。
新築の二世帯住宅。
どの家にも、
ちゃんと“暮らし”がある。
病院で働いていた頃、
私は“病気”を見ていた。
でも訪問入浴に来てからは、
病気の向こう側にある生活を見るようになった。
訪問入浴は、
看護師1人、介護職2人の3人1組で、
利用者さんのお宅へ行く。
組み立て式の浴槽を部屋に広げ、
お湯を張り、
ベッドから浴槽へ移乗して、
その人だけのお風呂を作る。
言葉にすると簡単だけれど、
実際はかなり泥くさい。
狭い家もある。
エレベーターのない団地もある。
夏は蒸し風呂みたいな部屋で、
冬は指先がかじかむ。
汗だくで浴槽を組み立てて、
「もう痩せたんじゃない?」
なんて笑い合う日もある。
でも、
利用者さんがお湯につかった瞬間、
全部ちょっと報われる。
「はぁ~……」
その吐息だけで、
こちらまで肩の力が抜ける。
お風呂って、
身体を洗うだけじゃないんですよね。
“人間に戻る場所”
なんだと思う。
「ちゃんとやってる?」と見られていた家
あるお宅では、
高齢のお母さんと、
知的障害のある息子さんが二人で暮らしていた。
息子さんは、
お母さんを一生懸命介護していた。
でも、
生活はかなり荒れていた。
部屋は物で溢れ、
お湯を直接浴槽にためる方法もわからず、なぜか水をためてから沸かしていた。
何を食べさせればいいかも、
どんな服を着せればいいかも、
たぶん誰にも教わらないまま、
必死にお母さんを支えていた。
その家へ行くたび、
私はいつも、
誰かに見られている感じがしていた。
浴槽を組み立てている時も。
お母さんを洗っている時も。
ずっと。
後からケアマネさんに聞いた。
以前、
娘さんも一緒に住んでいて、
介護をしていたこと。
でもその娘さんは、
家の中で熱中症で亡くなったこと。
私はその話を聞いた瞬間、
妙に納得してしまった。
あの視線は、
「ちゃんとお母さんをお風呂に入れてる?」
そんな気持ちだったのかもしれない。
訪問入浴をしていると、
時々、
“暮らしの念”みたいなものに触れる。
「お母さん、今日もきれいになったね」
別のお宅では、
寝たきりのおばあちゃんを、
80代近い旦那さんが介護していた。
訪問すると、
毎回きちんと髪をとかして、
口紅まで塗って待っている。
「お父さんがやったんですか?」
と聞くと、
少し照れながら、
「女の人だからなぁ」
って笑う。
入浴が終わって、
さっぱりした奥さんを見ると、
「お母さん、今日もきれいになったね」
と嬉しそうに言う。
長年連れ添った夫婦の空気って、
ああいう何気ない言葉に出るんだと思う。
病院では、
なかなか見られなかった景色だ。
病気ではなく、「暮らし」を見ている
訪問入浴をしていると、
家族が見える。
病院では見えなかったものが、
見えてしまう。
冷蔵庫の中。
洗濯物。
仏壇。
玄関に並んだ靴。
飲みかけの栄養ドリンク。
生活保護の書類。
その人が、
どんな人生を歩いてきたのか。
誰と暮らしているのか。
どんなふうに老いていくのか。
全部、
家の中に出る。
時々、
利用者さんより先に、
家族が泣くことがある。
「久しぶりにお風呂入れてあげられた」
「気持ちよさそう」
そう言って、
後ろを向いて涙を拭く。
お風呂って、
生活の一部であると同時に、
尊厳なんだと思う。
“人として扱われている”
感覚に近いのかもしれない。
私は今日も、“暮らし”を浴びている
もちろん、
きれいごとばかりじゃない。
汗だくになる。
排泄まみれになる。
時間に追われる。
ヘトヘトで帰る日もある。
でも私は、
訪問入浴という仕事が好きだ。
病院で働いていた頃より、
ずっと“生きること”に触れている感覚がある。
看護師なのに、
家族の愚痴を聞いて終わる日もある。
世間話だけで終わる日もある。
でも、
それが大事だったりする。
その人が、
その人らしく暮らせるよう支えること。
訪問入浴は、
それを身体ごと感じる仕事だ。
私は毎日、
利用者さんの身体を洗いながら、
その人の人生に触れている。
湯気の向こうで見えるのは、
病気だけじゃない。
人生そのものだ。
今日もまた、
少し湿った訪問車に乗って、
誰かの家へ向かう。
その家にはきっと、
その人にしかない“暮らし”がある。
