
透明な距離 #8透明な檻
澪が、僕の部屋にいる。
それだけのことなのに、どこか現実感がなかった。
ソファに座って文庫本を読んでいる。
膝を少し抱えて、ページをめくるたびに髪が揺れる。
僕はキッチンでコーヒーを淹れながら、その横顔を見ていた。
気づかれないように。
気づかれたくなかった。
今の自分の目が、どんな目をしているのか、わかっていたから。
付き合い始めて、三週間が経った。
澪は変わらず観察している。
僕の癖、僕の表情、僕の些細な変化。
全部、拾っている。
それは付き合う前から知っていた。
でも付き合ってから気づいたことがある。
澪の観察は、甘い。
隙があって、感情が滲んでいて、全部顔に出る。
好きだということが、全身から漏れている。
僕の観察は、違う。
冷たくて、静かで、澪には気づかれない。
その非対称が、ひどく心地よかった。
コーヒーを二つ持ってリビングに戻ると、澪が顔を上げた。
「ありがとう」
受け取る指が、少し触れた。
澪の呼吸が、一瞬止まった。
わかっていた。
わかった上で、すぐに離さなかった。
ほんの二秒、それだけ長く触れていた。
澪の耳が、赤くなった。
それを見て、胸の奥で何かが満ちた。
引き出した、と思った。
「何読んでるの」
隣に座った。意図的に、少し近く。
「恋愛小説です」
「どんな話」
「好きな人に好きって言えない話」
「言えばいいのに」
「そういう話じゃないんです」澪が少し笑った。
「言ったら終わる気がして、言えないんだと思います」
僕は答えなかった。
言ったら終わる、か。
わかる気がした。
言葉にした瞬間に、何かが固定される。
輪郭が定まって、そこから溢れた部分が、こぼれ落ちていく。
僕が澪に「好きだ」と言わないのも、たぶんそういうことだった。
言葉にしたくなかった。
言葉にしない方が、もっと深いところに置いておける気がした。
夜が深くなった。
澪が眠そうに目を細めた。
ソファにもたれて、肩が僕の腕に触れた。
触れたまま、動かなかった。
しばらくして、寝息が聞こえた。
眠ってしまった。
僕は動かなかった。
澪の顔を、見た。
起きているときは、常に何かを抑えている。
でも眠ると、その力が抜ける。
口元が緩んで、呼吸が深くなって、本当に無防備になる。
触れたいと思った。
眠っている澪の髪に、指を伸ばした。
起こさないように。気づかれないように。
毛先だけ、そっと触れた。
柔らかかった。
もっと触れたいと思った。
でも止めた。今夜は、これだけにした。
───これだけに、した。
澪が目を覚ましたのは、一時間後だった。
「寝てた?」
「少しだけ」
「ごめんなさい」
「いい」
澪が顔を上げた。至近距離で目が合った。
寝起きの目だった。
焦点が合いきっていない、柔らかい目。
普段は絶対に見せない顔だった。
僕だけが見ている、と思った。
その独占感が、静かに、深く、胸に溜まった。
「律」
名前を呼ばれた。
「なに」
「……なんでもない」
澪は視線を落とした。
でも口元が、微かに緩んでいた。
何を言おうとしたのか、聞かなかった。
聞かない方が、想像できるから。
想像している間は、澪の全部が僕のものになる気がするから。
帰り際、玄関で澪がコートを着た。
ボタンをかけながら、少しもたついていた。
黙って手を伸ばして、一番上のボタンを留めた。
澪が息を呑んだ。
顔が、近かった。
このまま、と思った。
このまま、行けた。
でも一歩引いた。
「気をつけて」
「……うん」
ドアが閉まった。
玄関に一人残って、ドアをしばらく見ていた。
さっきの澪の顔が、まだ目の前にある気がした。
息を呑んだ瞬間。近すぎた距離。あと少しで触れそうだった、唇の手前。
全部、きれいに仕舞った。
引き出せた、と思った。
でもまだ足りなかった。
もっと深いところまで、乱したかった。
もっと、引き出したかった。
──この感情を、愛と呼んでいいのか、律はまだ知らない。
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