『助けてって言ってるのに、誰も来ない』
【あらすじ】
仕事中、背後から突然襲われた佐久間は、意識を失い、暗闇の中で目を覚ます。体は動かず、どこかへ運ばれていく感覚と、腕に刺さる鋭い痛みだけが現実だった。助けを求めても声は届かず、誰かが近くにいる気配だけがある。監禁されたのだと確信する彼は、必死に抵抗しようとするが、時間の感覚は崩れ、記憶は曖昧になっていく。やがて聞こえてくる断片的な声と光の中で、ひとつの事実が浮かび上がる――ここは監禁場所ではない。彼はただ、目覚めないまま“現実に取り残されている”だけだった。
【本文】
誰かいる。
そう思った瞬間、首の後ろに鋭い衝撃が走った。
振り返る暇もなかった。ただ、空気が歪んだような気配と、すぐ後ろに“何か”が立っている確信だけがあった。
床に倒れるまでの数秒が、やけに長く感じた。
——なんで、後ろに。
意識が落ちる直前、そんなことを考えていた気がする。
暗転。
どれくらい経ったのか、わからない。
目を開けているのか閉じているのか、それすら判別がつかなかった。ただ、視界はずっと黒いままだった。
体が動かない。
指先ひとつ、動かせない。
息はできる。いや、できているはずだ。胸の奥で、空気が出入りしている感覚はある。
でも、それだけだ。
まるで自分の体じゃないみたいに、すべてが遠い。
そのとき、不意に体が揺れた。
ガタン、と鈍い衝撃。
続いて、規則的な振動。
——運ばれてる。
そう思った瞬間、全身の奥から冷たいものが這い上がってきた。
車か何かだろうか。いや、違う。揺れ方が変だ。上下に小さく跳ねるような、不規則な感覚。
床じゃない。何かの上に乗せられている。
ベルトのようなもので固定されているのか、体はびくともしない。
口を開こうとした。
声を出そうとした。
でも、喉はひくりとも動かなかった。
音にならない空気だけが、口の奥で虚しく震える。
——助けて。
そう言ったつもりだった。
でも、何も聞こえない。
代わりに、別の音が耳に入ってきた。
カチ、カチ、という規則的な音。
機械のような、乾いたリズム。
それと、靴音。
コツ、コツ、と近くを歩く音。
誰かいる。
すぐそばに。
なのに。
——なんで、何も言わないんだよ。
喉の奥で、叫びが詰まる。
視界は相変わらず真っ暗で、どこにいるのかもわからない。ただ、確かに人の気配だけがある。
そのとき、腕に鋭い痛みが走った。
針で刺されたような、細くて冷たい感触。
思わず体をよじろうとする。
でも、動かない。
逃げられない。
何かが体の中に入ってくる感覚だけが、はっきりと伝わってくる。
——薬、打たれてる。
頭の中で、誰かがそう言った。
いや、自分だ。
自分の思考なのに、どこか他人事みたいに響く。
カチ、カチ。
コツ、コツ。
音だけが続く。
誰も、何も言わない。
時間の感覚が、壊れていく。
数分なのか、数時間なのか、それすらわからない。ただ、同じ暗闇と、同じ音と、同じ無力感が延々と続く。
そのうち、ふと、声が聞こえた。
「……識……まだ……」
遠くで、誰かが何かを言っている。
でも、言葉にならない。
音が途切れ途切れで、意味が繋がらない。
助けを呼ぶ。
呼んだつもりになる。
でも、やっぱり何も届かない。
——ここ、どこだよ。
頭の中で問いかける。
返事はない。
ただ、暗闇と音だけが続く。
腕の痛みが、また走った。
冷たい何かが流れ込んでくる。
そのたびに、意識がぼやける。
遠のく。
沈んでいく。
それでも、必死に踏みとどまる。
ここで落ちたら、終わる気がした。
もう二度と戻れない、そんな予感があった。
だから、必死に意識を繋ぎ止める。
声にならない声で、叫び続ける。
——助けて。
誰でもいい。
頼むから、気づいてくれ。
ここにいるんだ。
ここに、いるのに。
そのとき、はっきりとした声が聞こえた。
「……意識レベル、変化なし」
「このまま経過観察で」
言葉が、理解できない。
意味がわからない。
ただ、その声だけがやけに現実的で、逆に怖かった。
誰かがいる。
すぐそばにいる。
なのに。
——なんで、助けてくれないんだよ。
怒りとも恐怖ともつかない感情が、胸の奥で膨らむ。
でも、体は動かない。
声も出ない。
ただ、暗闇の中で、音だけが流れ続ける。
カチ、カチ。
コツ、コツ。
そして、誰かの声。
意味のわからない言葉。
届かない叫び。
どれだけ時間が経ったのか、もうわからない。
ただひとつだけ、確かなことがある。
——俺は、ここにいる。
それなのに。
誰も、助けてくれない。
助けてって、言ってるのに。