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長編小説・アグレイアの冬芽

    あらすじ

     心に傷を抱えているアグレイア・チェスターは、誰かと心の底から打ち解けるということができない。そんなアグレイアは、誰とも結婚をしないと胸に秘めている。
     しかし、そんなアグレイアに思いを寄せているルドルフ・マクマナスは、紳士としてアグレイアに接し続ける。
     アグレイアに仕えている老執事は、アグレイアの結婚を望んでいながらも、ルドルフが紳士であることに油断ができない。
     そんなチェスター家に詩人で旅人でもあるハロルド・スナイダーが冬を越させてほしいと訪ねてくる。ルドルフはハロルドがチェスター家で暮らすことが許されるのなら自分もと言い、かくして四人の共同生活が始まる。

    アグレイアの冬芽

       一

     チェスター邸は森を背にして建っていた。
     南天にかかる太陽が優しげな眼差しを送ってくる。しかし窓の外で庭木は、もう葉を落としていた。それでも室内に差し込む日は床の木目に柔らかく反射をし、暖色系に包まれた空気のなかへと溶け込んでゆく。チェスト、揺り椅子、編みかけの手袋、そして暖炉で燃える薪もまた暖色だ。
    「体が、あたたまりますね」
     ティーカップを手にルドルフは、テーブルの向こうに微笑む。
    「なんという名前でしたか、いや、失念してしまう私では、また同じことを聞いてしまいます。このハーブは血流をよくする効果があるのですね。ハーブティーというものは面白いです」
    「お気に召されたようで、なによりです」
     アグレイアは、ティーカップを受け皿にもどして微笑んだ。
     ふたりを隔てるテーブルは他家のような長さはなく、白いテーブルクロスもかけられてはいない。それでも中央の花瓶には花が活けられている。もっとも、その花もどこかしらから摘んできた野花なのではあるが。
    「私はハーブというものをよくは知らないのですが」
     ルドルフもティーカップを受け皿の上に置く。
    「香りがいいということで妹が好んでいますが、母はやはり紅茶を嗜好していますからね。しかし、その香りのことまでは考えていませんでした。この香りを、虫たちは避けるのですね」
    「もちろん、虫によっても避ける香りと、そうではない香りとがございます」
    「そういうものでしょう」
     アグレイアの答えにルドルフはうなずく。
    「生物とは、そのようなものです。片方が好まないものを、もう片方もまた好まないとは限らない」
    「わたくしたちもまた、そうですから」
    「だから人は争うのかもしれません」
    「生きるということは、そういうことなのでしょうから」
     アグレイアは笑ってみた。しかしそれは、どこか寂しげな笑みだったかもしれない。
    「やはり、アグレイアさんの考えは深い」
     ルドルフも笑う。それは大仰な笑い。
    「私はアグレイアさん、あなたを是非、学会に連れて行きたいですよ」
     ルドルフは、アグレイアに微笑んだ。
    「学会に?」
     アグレイアは小首をかしげる。
    「わたくしには大それたお話です」
    「そうでしょうか。学会が科学的な好奇から始まった以上、知恵のある者なら誰でもそこに参加する権利があると私は思いますが」
    「ルドルフ様のお考えは革新的すぎて、わたくしには遠い世界のことのように思えます」
    「アシュレー伯爵夫人は、ご存知でしょう。夫人は女性ですよ」
    「あの方は、大変な才気にあふれた方ですから、わたくしがそのような方のお名前と同時に挙げられることは畏れ多いことです」
    「ああ、いえ、これは私が失礼しました」
     ルドルフは首を振る。
    「私は、学会はもっと門戸を開くべきだと、そのようなことを言いたかったのです」
     ルドルフは、しかしそこでアグレイアの目を見た。
    「アグレイアさん、あなたはハーブの話をしてくださる。虫がハーブの香りを嫌う話は、私には興味深い響きでした」
     アグレイアの目を見たままルドルフは微笑む。アグレイアは目をそらす。それでもルドルフは構わずに続ける。
    「おそらく、アグレイアさんはハーブの香りと虫の関係を自分の目で観察してはいないでしょう。それは誰からか聞いた話ではありませんか」
    「そうです」
     アグレイアはルドルフを見た。
    「土地の者から聞きました。わたくしに知恵があるとルドルフ様は仰いますが、それは見聞、噂話のたぐいのものです」
    「私は、それこそが学術の本来あるべき姿なのだと思うのです」
     ルドルフは、あえて目をそらした。虚空にある幻の星でもさがすように斜めを見る。
    「望遠鏡は金星の不規則な動きを教えてくれました。数多の星々が東から西へと動くのに、この金星は明け方の空で上昇し、下降する。明けの明星、これの観察の結果が地動説につながるのです」
     アグレイアは何も話さない。ルドルフの話す、その先を聞く。
    「望遠鏡や顕微鏡から見えてくる真実はあります。観察から得られるものは大でしょう」
     ルドルフは、そこでふたたびアグレイアを見た。
    「ですが、もっと身近なところにも発見はあるはずなのです」
    「あまり持ち上げられましても、困ります」
     アグレイアは弱く笑う。
    「そのように持ち上げられては、わたくしは自惚れの流れのなかで溺れてしまいます」
    「あなたが溺れるというのなら、私は舟になりますよ。ですが、今日はここまでですね」
     ルドルフは微笑んだ。あたたかな室内では午後の日が暖色に踊っている。
    「これ以上は、アグレイアさんのご不興を買うことになる。そうなれば、困るのは私なのですからね」
     ルドルフは笑ってみる。アグレイアは笑えない。ルドルフはティーカップに視線をおとしかけ、そんな自分に気付き、ふたたびアグレイアに笑みかけた。
    「夏鳥は冬には姿をみせないものです。もうすぐ冬ですからね」
    「そうですね」
     アグレイアは、そう返して、しかしそれでは失礼にすぎると気付く。
    「夏のあいだ、あれほどうるさく感じられていた太陽が恋しくなるのですから、不思議なことですね」
     アグレイアは、そう付け加えた。
    「日溜まりであたたまっていれば、ふたりとも頭髪が白くなるかもしれません」
     ルドルフはそう返す。
    「気の長いお話ですのね」
     アグレイアは笑った。ルドルフは、そんなアグレイアに笑みかけるだけだった。
     暖炉では薪が燃えていた。チェストがあり、揺り椅子があり、揺り椅子の上には編みかけの手袋。そこは、あたたかな部屋だった。

     馬小屋から馭者が馬車をひてくる。玄関先でその様子を見守っていたルドルフは、馭者が馬車を停めたことを確認してからアグレイアに向き直った。
    「また立ち寄らせていただきます」
    「蜂蜜を、ありがとうございました。明朝の楽しみといたします」
     アグレイアに漂う空気も、ルドルフのそれと同じだった。ルドルフは差し出されたアグレイアの手をとると、その甲に軽く口付けた。
    「太陽はなぜ短くなるのでしょうね」
    「それが自然の摂理ですから」
     アグレイアは小さくうなずく。ルドルフもまたその答えにうなずくと、笑みをつくってから馬車を振り返った。馬車までの十歩を胸を張って歩く。そして自らの手でそのドアを開けると、赤いその座面に納まった。
    「出してくれ」
     馭者に言いながらルドルフは馬車のドアを閉める。そして窓越しにアグレイアへと手を振った。馭者が手綱で馬に合図をする。馬は、ゆっくりと走り始めた。
     アグレイアは窓越しのルドルフへと手を振る。そのときアグレイアは、なぜだか馭者が蝶ネクタイをしているような気がした。ルドルフ・マクマナスとは、そのようなことができる人なのだということが、アグレイアにはわかった気がした。
     馬車は遠ざかってゆく。アグレイアはその姿が木立の陰に見えなくなるまで手を振った。アグレイアの斜め後ろには白髪の老執事がいる。
    「あの馭者の方、蝶ネクタイをしていませんでしたか」
     馬車の走り去った方を見たままアグレイアは老執事にたずねた。
    「しておりました。わたしと話すときも折り目正しく、よく教育されていますな」
     老執事もまた馬車の走り去った方を見ていた。
    「マクマナス様、油断のならない方です」
    「おかしなことを言いますのね、爺」
     アグレイアは老執事を振り返った。
    「いつもうるさく言うのは、爺ではありませんか」
     老執事は玄関の扉を開く。
    「わたしは旦那様と奥様にお嬢様を任されているのです」
    「ルドルフ様は、わたくしを学会へ連れて行きたいと仰いました」
     アグレイアは邸内へと入る。後ろを振り返ることなく老執事にたずねる。
    「爺は、どう感じまして?」
    「アシュレー伯爵夫人のようにですか。わたしは、よいお話だと思えますが」
    「あの方も、そのような仰りようでした」
    「お嬢様は、嬉しくはなかったということでしょうか」
    「さあ、わかりません。ただ、わたくしには遠い世界のことのように感じられた、そのようなところでしょうか」
     アグレイアは暖炉の部屋へともどり、そのテーブルに残されたティーカップを見た。太陽が西へと傾きつつある。
    「いずれにしましても、わたくしにはこの土地で暮らしていくという責任があります。それは爺、心に留め置いていてください」
     アグレイアは老執事を振り返る。
    「わたしとしましては、お嬢様にはもっと広い世界へと羽ばたいていただきたいのですがね」
     老執事は目を細める。そして一礼してから、テーブルの上のティーカップを片付け始めた。

     馬車は町のはずれへとさしかかる。車輪が地面を掻く音と蹄の音だけがルドルフの耳にとどく。
     しだいに傾きつつある太陽は、景色を単調なものへと変える。ルドルフはそれ以上車窓を眺めていることに耐えられず、座席にもたれて目を閉じた。
     馬車は速度を変えることなく走る。馬車は、ひとつの町から別の町へと向かう。そんな馬車が誰かとすれ違う。鞄を背にした誰か。
     それは旅人だった。鞄に必要なものを収めて土地から土地へと渡り歩く旅人だった。
     旅人は町を見ていた。旅人の目には、この町が輝いて見えていた。なかでも一番輝いているのが、少し郊外にある小さな邸宅だった。
     その邸宅は森のそばで日を受け金色に輝いていた。近くの木立は冬枯れし、わずかに数枚の葉が梢に残っているだけだった。
     あそこへ行ってみよう。旅人の目は郊外の小さな邸宅に惹き付けられていた。旅人は歩き始めた。太陽は少しずつ西へと傾き始めていた。

       二

     西日が斜めから室内へと射し込んでくる。長くのびる橙色の太陽は、しかし壁にはばまれてアグレイアの姿をうかがうことはできない。
     アグレイアは陰のなか、揺り椅子に揺られながら手袋を編んでいた。太陽の色に似た毛糸で、アグレイアの手には少し大きい手袋を編んでゆく。
     編み針は、しかし時々不意に止まる。編み目を確かめて、時にはほどいて、手袋は少し形がいびつだ。
     暖炉では薪が燃えていた。時々水分のはじける音がするが、それはアグレイアの耳には届いていなかった。老執事のことも忘れてアグレイアは不器用に手袋を編んでゆく。
     そのアグレイアの耳が何かを聞いたような気がした。何かの音。扉をたたく音。
     扉をたたく音。聞き間違いではない。誰かが訪ねて来たのだろうか。アグレイアは立ち上がり、編みかけの手袋を揺り椅子の上に置いてから、廊下へと出た。老執事が同じく台所から出てくる。
    「このような夕時に、不思議ですな」
     老執事はアグレイアを見て言った。
    「なにか火急の用があるのかもしれません」
     アグレイアは、そう返した。扉をたたく音は、まだ聞こえる。老執事が用心しながら玄関に近付く。アグレイアも老執事の陰に隠れるようにして玄関に近付く。
    「誰かいませんか」
     今度は声がした。若い声。聞き覚えのない声。
    「どちらの方でしょうか」
     老執事は扉の向こうに問いかける。
    「旅の者です。一晩ご厄介になりたく、うかがいました」
     扉の向こうから声がする。
    「そのような者をあげる道理は持ち合わせておりません」
     老執事はアグレイアを後ろにかばうようにして扉の向こうに返した。
    「お引き取りを」
    「怪しい者とは重々承知しているのですが、僕には他に行くあてがありません。こちらは、この土地のご領主のお屋敷ではないでしょうか」
    「確かにそうではありますが、こちらにも都合というものがあります。お引き取りを」
    「待ってください」
     扉越しの声は、少しあわてたようだった。
    「理由を説明します。扉越しで失礼ではありますが、少しのあいだお付き合いください」
     だが、その声には迷いがない。老執事はアグレイアを見た。アグレイアも老執事を見る。声は、ふたりを構わずに続ける。
    「この町には落ち葉が落ちていません。通りはすべて掃き清められています。それは、このお屋敷のそばの木立にも見られます」
     その声は、すべてを見てきたかのようだった。扉の向こうで、声はこの町のことを語っている。
    「町の外に広がる畑を見ました。土が柔らかそうです。おそらく腐葉土が使われているのでしょう」
     アグレイアは扉を見る。扉越しの声は言いよどむことなく続ける。
    「腐葉土というものは今年の落ち葉でつくられるわけではありません。何年もかけて落ち葉を腐らせることでできるものです。つまり、それだけ先を見据えながら生活をする風土がこの町に根付いているということになります」
     アグレイアは、今度は老執事を見た。老執事は肩越しにアグレイアを見て首を振った。扉の向こうでは旅人が話す。
    「風土というものは昨日今日でつくられるものではありません。長い年月のかかるものです。それは人間関係の豊かさに裏打ちされた、あたたかな衣服のようなものです。そのようなあたたかさを持った方が、見知らぬ旅人とはいえ、ひとりの人間を日暮れの空の下へと放逐するものでしょうか」
     声は、そこで止んだ。アグレイアは老執事に苦笑してみせる。老執事は目を閉じた。
    「爺」
    「わかってはいるのですが」
     老執事は何かと闘っているかのように苦悶の表情を浮かべる。
    「しかし、これは一晩とは限りませんぞ。三日が十日となり、ここへ居着くつもりなのです」
    「おっしゃるとおりです」
     扉の向こうから悪びれる様子もなく声が割り込んでくる。
    「実のところ、僕はこちらでこの冬を越すことができたらと考えています。ですが、僕は乞食ではありません。詩人です。僕は詩をつくるための環境を探しているだけでして、冬のあいだは僕を使用人として使ってはいただけないでしょうか」
    「爺」
     アグレイアは老執事を責めるように言う。
    「この方の仰っていることは、道理にかなっています。これ以上はチェスター家の恥です」
     それでも老執事は目を閉じている。アグレイアは、そんな老執事を詰問するように言った。
    「爺。爺が開けてはならないと言うのであれば、わたくしが開けます」
    「お待ちください」
     老執事は目を開けた。小さくため息をつく。
    「ふたつの強情にはさまれて、わたしは難儀をします」
     小さくかぶりを振ったあとで、老執事は扉の向こうへと問いかけた。
    「旅人と申される方、まずは名を名乗られませ」
    「ハロルド・スナイダーと申します」
     明るい声が返ってくる。
    「スナイダーと申される方、誓って二心はありませんな」
    「誓えるものでありましたら、何にでも」
    「であれば、御身の母君に誓われよ」
    「お誓いします」
     老執事はアグレイアを見た。アグレイアはうなずく。老執事は小さく首を振ったあとで、扉へと歩み寄り、その錠を解いた。
     扉が開かれる。西日を受けて色濃く浮かび上がる木立を背景に、ハロルド・スナイダーと名乗った旅人は鞄を背負って立っていた。
    「ありがとうございます」
     ハロルドは朗らかに言う。
    「もしかすると開けてはいただけないかもしれないと不安になっていました」
    「わたしではない。お嬢様のご慈悲だ」
    「ありがとうございます、お嬢様」
    「アグレイア・チェスターと申します」
     アグレイアは微笑む。
    「そちらは当家の執事、ペンドルトン・キャルフーン」
     老執事が軽い会釈をする。だが、その目はハロルドを観察するように冷たく光っていた。
    「爺は咬みますの」
    「それは怖いですね」
     アグレイアの言葉にハロルドは笑う。柔らかな笑み。アグレイアは、きびすを返した。
    「当面は爺と同じ部屋となりますが、よろしいですね」
    「もちろんです」
     アグレイアのあとを追いながらハロルドは返す。
    「爺には迷惑をかけます」
    「もちろんのことです」
     扉を閉め、錠をかけた老執事が、ふたりを追いながら言う。
    「当然のことです、お嬢様」
     老執事は、栄誉をたまわったとでも言いたげだ。アグレイアは、そんな老執事を振り返った。
    「夕食の支度は、どうなっていますか」
    「あとは、よそうだけにございます」
    「スープがさめてしまっていますね。あたためておきますから、爺は客間から寝具を運んでください。じきに日が暮れます」
    「かしこまりました」
     台所へと消えたアグレイアに恭しく礼をして、老執事は自らに芽生える誇りを感じずにはいられなかった。
    「聡明な方ですね」
     ふたりのやりとりを見ていたハロルドが言う。
    「アグレイア様だ。ついてこられよ」
     老執事は邸内の奥へと進む。日は加速度をもって西へと遠ざかる。邸内には夜がその食指をのばそうとしていた。

     食卓のロウソクにあかりが灯る。日は陰り、青白い闇が次第に黒へと変わってゆく。
    「スナイダーさんと仰いましたか、寝具は充分でしょうか」
    「あたたかく夜を過ごせそうです」
    「そうですか。なによりです」
     ハロルドの答えを聞いてから、アグレイアはスープに手をつける。それを見守ってから、老執事もまたスープに手をつけた。ハロルドもまたスプーンを手にする。
    「そうかたくならなくても、けっこうです。あまり作法などと細かなことは言わないのが当家ですから」
    「それでは遠慮なく」
     ハロルドはハムとチーズのひと皿に手をのばすと、そのひと切れに噛みついた。
    「チーズが好きなのです」
     ハロルドは笑う。
    「もっと、いかがですか」
    「これは、ありがとうございます」
     うながされてハロルドは、ふた切れ目に手を出す。アグレイアは、そんなハロルドを見ていた。
    「スナイダーさんは詩人だと仰いましたが、あちらこちらをまわって詩作にふけっておられるのですか」
    「そうです。方々へ出かけ、その土地々々の生活、情景といったものから詩をつくっています」
    「その詩は、どうされているのですか。どこかしらの版元から出版されているのでしょうか」
    「残念ながら、僕の詩を買ってくれる版元は、まだないですね。でも、将来はどうかは、わかりません。だから僕は、そのためにも詩をつくる必要があるのです」
     ハロルドはスープを飲む。
    「あたたかいですね。このスープだけでも詩をつくれそうですよ」
    「ためしに聞かせていただけませんか」
     アグレイアの声に、老執事がハロルドを見る。ハロルドは老執事に笑顔を向けてから言った。
    「スープのあたたかさを知る者は幸いかな。その者は心のあたたかさを知るのだから」
     それからハロルドはロウソクを見た。
    「闇に灯るあかりを知る者は幸いかな。その者は太陽を知るのだから」
     ハロルドは老執事を見る。
    「太陽を知る者は幸いかな。その者は自己の誇りを知るのだから」
     そしてハロルドはアグレイアを見た。
    「誇りを知る者は幸いかな。その者はあたたかさを知るのだから」
     ハロルドは、そこでうなずいた。
    「こんなところですかね」
     ハロルドは、ふたたびスープを飲んだ。ロウソクのあかりが揺らめく。沈黙。だが、そんな沈黙をやぶるようにしてアグレイアは言った。
    「わたくしは、詩のことはよくわからないのですが」
     アグレイアは言葉を探すように言う。
    「わたくしたちに気を利かせてくださったのかもしれませんが、それでもスナイダーさんの詩からは透き通った何かを感じたような気がいたします」
    「ありがとうございます」
     ハロルドは会釈をする。そのとき、それまで黙っていた老執事が口をひらいた。
    「詩人殿は、このような生活を続けてこられたのかな」
    「かれこれ三年ほどでしょうか」
    「よろしい」
     ハロルドの答えに老執事はうなずく。
    「詩人殿は使用人として使ってもかまわないとの仰せだ。明日からはそのつもりでおられよ」
     老執事はスープを飲む。アグレイアは老執事に笑んでみせる。ハロルドは笑顔をつくってから、またスープを飲むのだった。

       三

     翌日から老執事による教育が始まった。
    「灰かきを教えよう」
     老執事はハロルドを暖炉のまえにうながして言った。
    「灰は洗剤になる。これから雪が降れば、道にまいて雪を溶かす役目も負う。大切な灰だ」
     老執事は灰かき棒を示す。不慣れなハロルドは、その粉塵にむせてしまった。
    「痴れ者が」
     老執事は、そう言ってハロルドを笑った。
    「水を汲んでこられよ」
     老執事はハロルドに水桶を示した。
    「森に泉がある。その泉から水を汲んでこられよ」
     木桶を手に裏門から出ると、邸宅のそばを水路が流れていた。その水路をさかのぼれば、確かに森のなかに泉がある。ハロルドは泉と邸宅とを三往復して水瓶に新鮮な水をためた。
    「ハーブティーの淹れ方について教えよう」
     老執事は火鉢をはさんでハロルドに言った。
    「ハーブは、お嬢様お手植えのものだ。粗雑に扱ってはならんぞ」
     老執事は自ら淹れてみせる。だが、ハロルドがその様子をまねようとすると、首を振るのだった。
    「なんという手つきの悪さ。そのような手つきの者に大切なハーブを任せるわけにはいかん」
     老執事は、そう言って嘆くのだった。
    「詩人殿は給仕をするだけでよい」
     老執事は盆にティーカップを載せる。
    「行ってまいられよ」
     うながされて、ハロルドは台所から暖炉の部屋へとハーブティーの淹れられたティーカップを運ぶ。アグレイアには毎日誰かしらの客人があった。そのほとんどが町の者なのだが、話題は土地境界線の問題から家庭内のこと、子供の名付けに至るまで多種雑多であった。
    「お客様が帰られます」
     呼び鈴はハロルドを呼ぶ。暖炉の部屋でアグレイアはハロルドの顔も見ずに言うものだった。
    「お送りしてください」
     ハロルドは客人のまえに立って廊下を進む。扉を開けて客人を送る、それもまたハロルドの役目となった。
    「あなたが、うわさの新人さん?」
     あるとき、ハロルドは玄関先で婦人に聞かれた。
    「うわさの、と言いますと?」
    「みんな言ってるんですよ。新しい人が入ったって」
     ハロルドの答えに、婦人は嬉しそうに言う。
    「ほら、このお屋敷には爺やしかいないでしょう。何かあったらどうするのだろうって、みんな心配していたんですよ」
     婦人は朗らかに言う。
    「そりゃあ、アグレイア様は、しっかりした方ですよ。でも、あの方は女性なんですからね。そうでしょう、あなた」
    「それは、そうさ」
     黙っていた夫がうなずく。
    「サムが馬車馬を下げ渡されて、わしらの生活がどれほど楽になったことか。わしらは、いままで倍の値段の塩を買わされていたんだからな」
    「お父様も、それは素晴らしい当主でいらしたけど、アグレイア様は本当に素晴らしい方よ。そう思うでしょう」
     ハロルドは、黙ってうなずく。
    「とにかく、サムに馬車馬を下げ渡された、あのご判断は見事だった。おかげでロズイーは真っ青よ」
    「ざまを見なさいよね」
     夫の言葉に婦人がおかしそうに笑う。
    「ロズイー家は、なんとかしてアグレイア様に取り入ろうとしたみたいだけど」
    「意志のかたい方だからな、アグレイア様は」
    「そこが少し問題でもあるのよ」
    「まあ、そうだが、マクマナス様がいる」
    「だめよ、あの方は。鳥が好きなだけの方でしょう。それも、どこにでもいるような鳥が好きな方」
    「能力の有無は関係ないさ。アグレイア様は立派な方なんだから」
    「だからと言って、道楽な方はね。そう思うでしょう?」
     突然話を向けられて、ハロルドはあいまいに笑うしかない。
    「あら、やだ、長話しちゃって」
     婦人はご機嫌に笑う。
    「あなた、アグレイア様のこと、しっかりお支えするのよ」
     婦人はハロルドの目を覗き込むようにして言うと、にこやかに笑ってから歩いていった。夫もハロルドに手を振って、婦人を追いかけるように歩いていく。ふたつの影は、やがて追いつき、少し言葉を交わしたあとで、ゆっくりと木立の陰へと消えていった。ハロルドは、そんなふたりを見送ってから邸内に入った。

     一日は、足早に過ぎていく。夜は冬至へと向かって長くなり、反対に昼は日を追うごとに短くなっていく。
     老執事がロウソクを消す。部屋は暗闇に包まれ、しかし残像がハロルドのなかでおぼろげに灯りの世界を結像させる。
    「アグレイア様は、とても慕われているんですね」
     ハロルドは闇のなかで、もう片方の闇のなかにいる人物へと話しかけた。
    「お昼に来られたご夫婦に聞かされました。アグレイア様が馬車馬を下げ渡したから、塩の値段が下がったと。どれほど生活が楽になったかと」
     ハロルドの脳裏には、あの夫婦の姿が浮かぶ。
    「確かに、このお屋敷の馬小屋には馬がいないのです。馬がいれば、方々へ出かけることができるのに、です」
    「人を使うという方法もある」
    「そうでしょう。しかし、それでは貧素とそしられはしないでしょうか」
     ハロルドは夜具の下から体の向きを変える。
    「馬だけではありません。このお屋敷には使用人がいません。爺殿だけです。僕は新しい使用人と間違われました。これでひと安心だと、そう言われました」
    「何が言いたいのか」
    「それは、僕にもわかりません」
     ハロルドは目を閉じた。灯りのある幻影は闇へと侵食されてゆく。
    「僕は、このお屋敷がこの町で一番素敵なところだと思って、こちらの扉をたたきました。このお屋敷に、アグレイア様と爺殿のふたりしかいないなどと、考えもしなかったのです」
     闇は何も返さない。ハロルドは目を開けて、もう一方の闇を見た。
    「僕は、あえて聞かないようにしていたことがあります。それは失礼にあたることですから、触れないでいることが礼儀だと思っていたのです」
     ハロルドの声は、そこで少し戸惑った。
    「お昼のご夫婦が言っていました。アグレイア様のお父様は立派な方だったと。これは過去の話をしているような言葉です」
     ハロルドは、闇のなかの老執事を見た。
    「このお屋敷には、アグレイア様と爺殿しかいません。アグレイア様のお父様とお母様は、どうされたのですか」
     ハロルドは応えを待つ。老執事は何も返さない。静寂だけが支配する邸宅。
    「すみません。失礼なことをお聞きしました」
     ハロルドは、また天井を見る。天井は、どこまでも高く遠いところにあるかのように、闇のなかで姿を隠してしまっていた。永遠とも思える闇。そんな闇のなかで、老執事がつぶやくように言う。
    「詩人殿には両親がおられるか。ご息災か」
    「故郷で元気に過ごしていると思います」
    「であれば、このような暮らしをしていていいという道理はあるまい」
     老執事は笑うように言う。
    「だが、それは個人の問題だな。詩人殿が言うように、踏み込んではいけない問題なのだろう」
     その声は、いつになく穏やかだ。
    「わたしは、そうやって問題と向き合うことを避けていたのかもしれない」
    「何があったのですか」
    「それはわからん。おそらく誰にもな」
     ハロルドの問いに老執事の声は揺れることを知らない。
    「お嬢様のなかで何かがあったことは確かだ。だが、お嬢様はそのことをお話にはならない。話されたくないのだろう」
     老執事は、しかしそこで言いよどんだ。ハロルドは続きを待つ。老執事は、ためらいがちに続けた。
    「旦那様が亡くなって、奥様まで亡くされて、お嬢様は自棄になられていたのかもしれない。ご自身ですべてのことをすると仰られてな。使用人たちは暇をあたえられた。わたしにもな」
    「でも、爺殿は、いまもアグレイア様に仕えているじゃないですか」
    「わたしが譲らなかったからだ」
     老執事は少し語気を強めた。
    「わたしは、そればかりは譲れなかった。たとえお嬢様に嫌われようとも、譲ることはできん」
    「つまり、アグレイア様が唯一信用することができたのが、爺殿というわけですね」
     ハロルドは闇に話しかける。
    「少し喋りすぎたようだ」
     もう片方の闇で老執事が姿勢を変える音がする。ハロルドは老執事を見ようとしたが、それは闇にはばまれて叶わなかった。
    「おやすみなさい」
     ハロルドは言う。老執事は何も返さなかった。

     日は昇る。昨日と同じ今日がまた始まる。
     ハロルドは灰をかく。ハロルドは泉に水を汲みに行く。それから食事となり、その片付けをし始めるころになると、誰かしらの来客がある。
     玄関の扉をたたく音に応えてハロルドがそれを開けると、そこにはひとりの少年がいた。
    「お兄さんが、新しい人?」
    「そう言われているね」
     ハロルドは、にこやかに返す。
    「アグレイア様に、ご用かい」
    「手紙を持ってきたんだ」
     少年は背中に隠していた手紙をハロルドに見せた。
    「おれ、字はよく読めないけど、恋文ってやつだぜ、きっと」
     少年は歯をみせて笑う。
    「届けてくれて、ありがとう」
     少年から手紙を受け取って、ハロルドはその宛先を確かめなかった。少年は、つまらなそうに両手を頭のうしろで組んだ。
    「まあ、お兄さんも頑張ってよ」
     少年は、そう言ってからハロルドに手を振り、来た道へと引き返していった。
     ハロルドは少年に手を振ってから邸内に入った。手紙を暖炉の部屋へと届ける。アグレイアは揺り椅子に揺られながら編み物をしていた。
    「お手紙です」
    「どなたからでしょうか」
    「差出人を見ていないので、わかりません」
    「そうですか」
     アグレイアは手紙を受け取る。ハロルドは一礼をしてから部屋を出ていった。
     ひとりになって、アグレイアは差出人を確認する。その文字は見慣れた筆跡だった。
     チェストからペーパーナイフを出し、封を切る。なかには丁寧に折られた便箋。アグレイアはその便箋に綴られた文字を読んで、少し笑った。
    「大変なことになりました」
     アグレイアは、ひとりでそう言う。手紙には近日中のルドルフの来訪が記されていた。

       四

     テーブルの片方にはアグレイアが、もう片方にはルドルフが座っていた。老執事がテーブルの長辺のアグレイア側に、ハロルドがルドルフの側に立たされている。暖炉では薪が燃えていた。
     ルドルフは何も喋らなかった。老執事も、ハロルドもまた、そうだった。その場の全ての意識がアグレイアへと向けられている。
     アグレイアは、味わうようにハーブティーで喉を潤したあとで、ティーカップを受け皿に戻した。磁器と磁器が触れ合う堅い音がする。
    「ルドルフ様は、わたくしに何かお話があるとか」
     アグレイアはルドルフを見て微笑んだ。
    「どのようなお話でしょうか」
    「私の書いた論文が学術誌に載ることになりまして、そのことをお話ししたいと思い、うかがったのです」
     ルドルフもまたアグレイアを見る。その目は笑ってはいない。
    「おめでとうございます」
     アグレイアは目礼する。
    「ルドルフ様の知見が認められ、わたくしも嬉しく存じます」
    「ありがとうございます。アグレイアさんの言葉こそが何よりの栄誉です」
     ルドルフはアグレイアの目を見た。だが、ルドルフにはアグレイアに戸惑いを見付けることができなかった。
    「茶番ですか」
    「何がでしょうか」
    「アグレイアさんは、私の気持ちを知っておいでのはずだ。それを、どうしてこのように踏みにじるのですか」
     ルドルフは語気を荒げる。だが、すぐにそんな自分に気付いた。
    「すみません。少し冷静ではありませんでした」
     ルドルフは目を閉じる。アグレイアは何も返さない。老執事は窓の外を見ているかのように、ふたりに関係しようとはしない。ハロルドもまた窓の外を見ようとするが、どうしても視線はアグレイアへと向いてしまう。
    「ルドルフ様には知っておいていただきたいことがあります」
     はたしてアグレイアは言った。
    「わたくしには、この町で暮らす人々の生活を守るという責任があります」
     ルドルフは目を開けない。天井を見上げる。
    「ルドルフ様からのお手紙を拝読した時、わたくしはその思いを強くいたしました。わたくしは、わたくしひとりのことだけを考えるわけにはいかないのです」
     アグレイアは、なおも続ける。
    「ルドルフ様は、わたくしを学会にお誘いくださいました。それは、わたくしには名誉あることであったかと思われます。ですが、わたくしはこの地を離れるわけにはいかないのです」
     アグレイアは言いよどむことなく言葉をつむいでゆく。
    「わたくしの父は様々な改革を行いました。その甲斐あって、人々の暮らしは良くなっていきました。ですが、そうなると、今度は別の問題が湧き起こってしまうようです」
     テーブルのそばに立たされてハロルドは、ルドルフを見た。ルドルフは目を閉じて天井を見ている。
    「現在、わたくしのもとには様々なお誘いがあります。とても甘美な誘いの言葉です。この地を手に入れるための方便としての言葉たちです」
     アグレイアは澄んだ声で言う。ハロルドはルドルフを見ている。ルドルフは動かない。
    「わたくしは、人々の暮らしを守っていかなければなりません。ルドルフ様には様々に心を砕いていただいたにも関わらず、このような仕儀となりましたこと、申し訳ありません。それでも、学会にお誘いくださった、そのお気持ちは嬉しかったです。ありがとうございました」
     アグレイアはルドルフへと頭を下げる。ルドルフは目を閉じている。沈黙。
     ハロルドは、今度はアグレイアを見た。アグレイアは微笑んでいた。まるで人形のようにアグレイアは微笑んでいた。
    「お話は分かりました。いや、分かりますと言った方が正しいでしょう」
     ルドルフが目を開ける。その目は、正面からアグレイアを見た。
    「アグレイアさんの仰ることは、おそらく半分は事実なのでしょう。しかし、残り半分もまたそうとは限らない」
     ルドルフは自分の言葉を確かめるようにうなずく。
    「アグレイアさんには様々な誘いの言葉があるとのこと。そうなのでしょう。私もまた、そうなのですから。しかし、私とそれらの者たちが、はたして同じでしょうか」
     ルドルフの目は正面からアグレイアを見ている。アグレイアもまた正面からルドルフを見ている。
    「私も馬鹿ではありません。私が特別な存在としてアグレイアさんの胸のなかにあるのだとしたら、どうしてただの思い出になりましょう」
     ハロルドはアグレイアを見ている。アグレイアは、もはや笑ってはいなかった。その顔には感情というものをうかがうことはできなかった。
    「アグレイアさんを思い悩ませるものは、責任というものなのかもしれません。人々の暮らしに対する責任、それは確かに重いものでしょう」
     だが、ルドルフはそこで意図したのだろう。自らの言葉から力を抜いた。
    「アグレイアさん。アグレイアさんはハーブの話をしてくれました。血流をよくするハーブの効能の話。ハーブの香りを嫌う虫の話。私は、そんな話をするアグレイアさんが、私を嫌っているとは思えないのです」
     ルドルフはアグレイアを見る。アグレイアは無表情のままルドルフを見ている。それは本当にお人形さんのようでもある。
    「私はひとつ、恐れていたことがありました。私は、アグレイアさんが私を拒絶していることを知っていたのです」
     ルドルフは寂しげに笑う。
    「アグレイアさんは、おそらく私のことを嫌ってはいないのでしょう。これは自惚れなのかもしれませんが、私はそう思っているのです。ですが、その一方でアグレイアさんは私に好かれることを恐れてもいる」
     ルドルフは天井を見上げた。
    「矛盾だ」
    「ですから」
     アグレイアが細い声で言う。ルドルフはアグレイアを見る。アグレイアの瞳には生気がない。
    「ですから、わたくしには、どなたとも結婚をする気持ちがないのです」
    「お嬢様」
     突然、沈黙のなかにあった老執事が声を発した。
    「お嬢様、いけません。それは、いけませんぞ」
    「いいのです、爺。決めていたことなのですから」
    「いけません」
     アグレイアの言葉に老執事はかぶりを振る。
    「女性の幸せが結婚にあるなどとは申しません。そのようではない事例を、わたしも見聞きしておりますから。しかし、結婚をしないと仰られることは、ひとつの可能性を否定することになります」
    「爺、わかっているのです」
    「いいえ、わかってはいません。お嬢様は、数多ある枝のなかから不要な枝を剪定したつもりなのかもしれませんが、多くの花はその枝に咲くのです。そのことを、お嬢様は、わかっておいでではない」
    「爺」
    「いいえ、言わせていただきます」
     老執事はルドルフを一瞥してから続けた。
    「マクマナス様は、お嬢様を学会にお誘いくださいました。アシュレー伯爵夫人のように学会で才覚を発揮するべきだと。素晴らしいお話です。そのような道もございましょう。ですが、アシュレー伯爵夫人のご活躍は、ご夫君の力添えがあってこそです。伯爵夫人がどれほど才知に富んでいたとしても、女性ひとりの力だけで扉を開くなど、時代はまだそこまで追い付いてはいないのです」
    「爺殿」
    「詩人殿は黙っておられよ」
     間に入ろうとしたハロルドをさえぎって、老執事はアグレイアに迫らんばかりの勢いだ。
    「お嬢様、幸せになるということは、とても難しいことです。ですが、不幸せになることは造作もないことなのです。だから誰しもが幸せでありたいと願うのではないでしょうか」
     老執事は懇願するかのようにアグレイアを見る。アグレイアはうつむいていた。小さくなって、うつむいていた。
     沈黙。そして静寂。暖炉では薪が燃えている。パチパチと音をたてて薪が燃えている。
    「幸せを求める権利ですか。多くの人に聞いていただきたい演説でした」
     そう言ったのはルドルフだった。
    「幸せのなかにも、幸せになると、幸せにするは、また別の話なのでしょう」
    「どちらを向いているかの違いかもしれませんが」
     独白するようなルドルフにハロルドが返す。ルドルフは少し笑った。街角で意外な人と出会った、そんな笑いだった。
    「私は、いま、おかしなことを思いました。おかしな思い付き。アグレイアさんを困らせる思い付き。ですから、それを話すまえに、これはアグレイアさんを困らせるためのものではないと前置きをしたいのですが」
     ルドルフはハロルドを見、老執事を見、それからアグレイアを見た。
    「私は、しばらくこの家で暮らそうと思います。そうでもしないと、アグレイアさんは本当のことを仰らないでしょう」
    「そのようなことはできません」
    「なぜでしょう。女性の家で男性が寝起きすることが恥となるなら、詩人という彼は、なぜ許されるのでしょうか」
    「スナイダーさんは旅人なのです。それに、爺の手伝いをしています」
    「では、私もまたそうなら、私がこの家にいる理由になりますね」
    「ルドルフ様は、そういうお方ではないでしょう」
    「では、私が旅人になれば、この家に置いていただけるのでしょうか」
    「ルドルフ様は、なぜそんなに私を困らせるんですか」
    「あなたを愛しているからです」
     ルドルフは、笑顔で言った。
    「私は愛しているのですよ、アグレイアさんを」
     アグレイアは何も返せない。沈黙。ハロルドは小さく拍手をした。老執事は沈黙に戻っている。アグレイアは目をそらした。
    「勝手にしてください」
     アグレイアは立ち上がる。だが、そんな自分の行為に気付いて、アグレイアは小さなため息をついた。
    「ルドルフ様はご存知かと思いますが」
     椅子の背もたれを手に、アグレイアはルドルフに向き直る。
    「当家には馬がおりません。来客用に、いくらか飼い葉を用意してはおりますが」
    「手紙を持たせますよ」
     アグレイアの先を読んでルドルフは言う。
    「無理なことを言っているのは私です。そのことを手紙に書いて馭者に持たせます」
    「わたしが馬屋へ行って、少し説明してきましょう」
     老執事が、静かな落ち着いた、いつもの口調で言う。
    「爺、すみません」
     アグレイアは老執事を見た。
    「わたしの役目ですから」
     老執事は一礼をしてから部屋を出ていった。
    「いいお人だ」
     ルドルフが言う。
    「言うべきは言う。言わざるべきは言わない。そんな人には、素直に敬意を持てます」
    「わたくしは、爺に甘えているのでしょう」
    「ひとつ、いいでしょうか」
     ルドルフとアグレイアの話にハロルドが割って入る。
    「マクマナス様がこのお屋敷で暮らすとなると、寝起きする部屋が必要になります。僕は爺殿と同じ部屋ですが、マクマナス様もまた、そうなのでしょうか」
    「そうですね」
     アグレイアは思索する。
    「ルドルフ様には、客間を使っていただくことになりますが、スナイダーさんもルドルフ様と同じ部屋ではいけないでしょうか。ルドルフ様を信用していないというわけではないのですが、殿方をひとりというわけにもいきません」
    「私は構いません」
     ルドルフが返す。ハロルドもうなずく。
    「ルドルフ様とスナイダーさんは歳も近いですから、それほど気を遣わなくていいかもしれません。爺も、ゆっくりできるかもしれませんし」
     アグレイアは、つぶやくように言ったあとで気が付く。
    「ああ、そうでした。手紙でした。便箋を用意しましょう」
    「アグレイア様。僕は寝具を運んでおきます」
    「はい。わかりました」
     チェストのなかに便箋をさがすアグレイアは、ハロルドに振り返りもせずに言う。ハロルドは、そんなアグレイアに笑みかけてから部屋をあとにした。

       五

     ルドルフ・マクマナスがチェスター家で暮らし始める。だが、チェスター邸は何ら変わることがないようにも見えた。
     食事の席でルドルフはハロルドに話を振るようなことはしなかった。ルドルフが話すことは気温と天気のたぐいといったところで、そろそろ雪が降る時期だと、そのようなものだった。
     その食事もおわり、アグレイアが寝室に引き上げると、ルドルフもまた自身にあてがわれた部屋へと引き上げていった。ハロルドは寡黙な老執事と食器を洗い、暖炉の火を確認してから、新しく時間を過ごすこととなった部屋へと引き上げていった。
     邸内は静まり返っていた。緊張に近く、それとは趣を異にする空気に覆われ、邸内はひっそりとしていた。
    「ご苦労様」
     ハロルドが部屋の戸を開けると、暗闇のなかから声がした。
    「眠れないのですか」
     ハロルドは相手に返す。
    「君が来るのを待っていた」
     ルドルフは返す。
    「君と話がしてみたかったんだ」
    「なんだか、改まったような話ですね」
    「そうかな。いや、そうなのかもしれない」
     闇のなかでルドルフの声は笑っている。ハロルドはロウソクを台の上に置いて、その灯りのなかで寝間着に着替え始めた。
    「私は君を観察していた。いまも観察している。君という人間が、どういう人物なのかを考えながらね」
    「何か、わかったのですか」
    「わからない。わかったことといえば、君が変わった人物だということかな」
     ルドルフの声は笑っている。
    「アグレイアさんは、何か秘めたところがあるから、他人とのあいだに距離を保とうとする。少なくとも、私に対しては、そうだ」
    「そうですね」
    「だが、君に対してはどうかと言うと、私に対するような距離感はないように見える。執事との距離感とも違う。君だけの距離感だ」
     ルドルフの声は、もう笑っていなかった。
    「私は、アグレイアさんにとって特別な存在である自負がある。アグレイアさんが、ああしてまで私と距離を置こうとするのは、そこに特別な何かがあるからだと」
    「嫌いな人が同じ屋根の下で暮らすことを受け入れる女性はいませんよ」
     話のあいだにハロルドは寝間着に着替え終えていた。
    「灯りを消しても、いいですか」
     ルドルフは無言でうなずく。ハロルドはロウソクを吹き消した。夜具に潜り込む。そうして姿勢を整えてから、ハロルドはようやく言った。
    「つまり、あなたは自信が持てないというわけですね。自分が意中の女性の特別だという自信が」
    「そうだな。そうなのだろう」
     ルドルフは、つぶやくように言った。
    「こんな気持ちは初めてだ。私は、ものの見方も、それを扱う方法も知っているつもりだった。それがいまは、何を頼りに自分がその判断をしてきたのか、わからない」
    「初恋ですか?」
    「いや」
    「どうやって知り合ったんですか」
    「そうだな」
     闇からの声は、少し考えるようだった。
    「君は詩人らしいから、ツバメの飛ぶ高さが違うことは知っているだろう。雨が降るとき、ツバメは低く、晴れの日には高く飛ぶ」
    「知っています。農家の人たちと話をすると、そのようなことを聞かされますから」
    「ツバメは虫を食べていてね。この羽虫は湿度が高い環境では低くしか飛ぶことができない。パルクが論文に書いたことだがね」
     ルドルフの声は何かを思い出そうとしているかのようだった。
    「空気のなかには水がある。結露する窓を見れば、そのことはよくわかるだろう。生物ではないガラスが、まるで生命を身にまとったかのように水を集める」
    「その水が、どこから来たのかということですか」
    「湿度計というものが発明されてね。空気のなかに水があることが証明されているんだ」
    「その水が羽虫の飛ぶことを邪魔しているというわけですか」
    「アグレイアさんも、同じように理解してくださった」
     ルドルフの声は笑う。
    「空気中の水の量と天気の関係について調べていくうちに、私はツバメ以外の鳥にも興味を持つようになった。すべての鳥がツバメのように飛ぶ高さを変えるのかとね」
    「どうなのですか」
    「それは、わからない。だが、トビが晴れの日に高く飛ぶことはわかった。では、トビは羽虫を食べているのか。いや、違う」
    「トビは魚を獲りますね。上空から翼をたたんで水中に飛び込む」
    「そのとおり」
     ハロルドの答えにルドルフは闇のなかでうなずく。
    「だから私は、鳥のことをもっと知る必要があった。ひとつの鳥だけではなく、全体の鳥をね。そこで、鳥が多くいるという、この地域で調査をすることにしたというわけさ」
    「そしてアグレイア様と出会った」
     ハロルドが付け加えた言葉にルドルフは何も返さなかった。沈黙がおとずれる。ハロルドは暗闇を見た。ルドルフが、その向こうにいる。
    「アグレイア様は聡明な方です。惹かれる気持ちは、わかります」
     ルドルフは返さない。ハロルドは続ける。
    「町の人が言っていました。アグレイア様が馬車馬を下げ渡したおかげて塩の値段が下がったと。素晴らしい当主だと。アグレイア様が、この土地を大切に思うことも、うなずけます」
    「私は、そんなアグレイアさんを土地の者たちから引き離そうとしているというわけかな」
    「いいえ。ものの見方の話です。アグレイア様が大切にされているものと、あなたが大切にしているものが同じであればいい、そういうことです」
     ハロルドは天井を見る。
    「僕は、それが一番大切なことだと思っているんです」
    「君は、正直なやつだな」
     ルドルフの声には柔らかさがあった。
    「私はルドルフ。ルドルフ・マクマナス。君の名前を聞いてもいいかな」
    「僕はハロルド。ハロルド・スナイダー」
     ハロルドは目を閉じる。
    「おやすみ、ルドルフ」
    「ああ、おやすみ、ハロルド」
     闇から声が返ってくる。そしてそれを境にして言葉は交わされることなく、夜はいよいよ更けていくのだった。

     翌日からルドルフはハロルドについてまわった。
     灰かきをするハロルドをルドルフは観察した。水を汲みに行くハロルドをルドルフは観察した。老執事の手伝いをするハロルドをルドルフは観察した。ルドルフは、ハロルドが自分の研究対象であるようにハロルドを観察した。
    「ルドルフ様は、何か面白いことを見付けられたのですか」
     ロウソクにあかりが灯される。アグレイアとルドルフは長いテーブルで向かい合って座り、その長辺のアグレイア側に老執事が、ルドルフの側にハロルドが座る。だが、ルドルフはアグレイアではなくハロルドを観察していた。
    「そうですね」
     ルドルフは、そこでアグレイアを見て笑った。首を横に振る。
    「正直なところ、まだよくわかりません。ハロルド・スナイダーという人物について私は何か研究論文を書いてみたいと思うのですが、その生態はまだ謎のままですね」
    「スナイダーさんは詩人ですから」
    「あいにく私は文学にそれほど親しんではこなかったのです」
    「スナイダーさんは以前、詩を披露してくださいましたよ」
    「私はそれを聞いたことがありません。是非、聞いてみたいのだが」
     ルドルフはハロルドを見る。アグレイアもハロルドを見る。老執事はスープを飲んでいる。ハロルドは苦笑した。
    「出せと言われてお出しできるようなものではないのです、詩は」
    「そうでしょう」
     アグレイアは楽しそうに笑う。
    「わたくしも、ルドルフ様に見られていては、緊張してしまって、何も喉を通らなくなってしまいますから」
    「それは、意地の悪い仰りようです」
    「ですが、わたくしはルドルフ様の好奇心がスナイダーさんに向いていて、幾分か気を楽にしております。ルドルフ様の目は、まるで心の裏まであばいてしまうようで、わたくしは委縮してしまうのです」
    「そのような目をしていますか。自分では気が付きませんでした」
    「人は誰しも自分のことが一番わからないものなのです」
    「クセというものは他人から指摘されて初めて気付くように、ですか」
     ルドルフは爪を噛む仕草をする。
    「私は爪を噛むクセがあって、よく母に叱られたものです」
    「爺殿」
     ふたりの話をさえぎるようにして、ハロルドはとなりの席の老執事に話しかけた。
    「今朝は氷が張っていました。薪は充分でしょうか。必要なら薪割りをしますが」
    「必要ない」
     老執事はハロルドを見ることなく言う。
    「ふたりが四人に増えたところで、燃やす薪の量は変わらん。冬を越すには充分の薪は用意してある。足りぬとなれば、森から枯れ枝を拾ってきてもよい。薪は充分だ」
    「しかし、時期に雪でしょう」
     そう言ったのはルドルフだった。
    「私の見立てでは、明日か明後日にでも雪になると思うのですが、ハロルドが言うように薪は充分以上の用意をしておく必要があるのではないでしょうか」
    「今年は積もりませんな。風向きが違いますからな。もう少し西に風がまわると積雪の心配をしなければなりませんが、風がこうして穏やかなうちは、それほど過敏になる必要はありませんな」
    「爺は、もう四十年も当家に尽くしてくれていますからね。爺が言うことが正しいのでしょう」
    「これは、私が失礼しました」
     アグレイアの言葉に、ルドルフは老執事に一礼する。老執事は黙ってうなずいた。
    「ハロルド、君も謝っておいた方がいいぞ。君が言い出したことなのだからな」
    「ただの確認ですよ」
     ハロルドはそう返したが、となりの老執事に対して頭を下げた。
    「少し僕の考えすぎでした」
     老執事は、黙ってうなずく。
    「ハロルド、君は確かに考えすぎだ。しかし、だからこそ様々な兆候を、その事前に知ることができるのかな」
    「ルドルフの観察眼には負けますよ」
     ハロルドは苦笑する。
    「おふたりとも、とても怖い目をしていらっしゃるのですね」
    「いえいえ、私などはハロルドの足元にも及びませんよ」
     愉快そうに笑うアグレイアにルドルフは笑みかける。老執事はスープにパンをひたして、それを食べた。ハロルドもスープを飲む。
     風は西へと向きを変えない。それでも気温は下がる。窓の外では雪が静かに降り始めていた。

       六

     雪が積もっていた。白い雪が大地を隠し、昨日までとは異なる世界を創生させていた。
     雪は、しかし草を隠すほどではなかった。降り積もった雪は本格的な冬の到来を告げてはいるが、それはまだ始まったばかりだった。
    「積もりましたね」
     暖炉にくべた薪がまた炎をつくるのを見ながら、ハロルドはとなりの老執事に言った。
    「こちらでは、どれぐらい雪が積もるのですか」
    「多ければ膝の高さほどだが、これぐらいの雪であれば数日で溶けるだろう」
     老執事は窓の外を振り返った。太陽は分厚い雲にはばまれて射してはこないが、白く包まれた庭は雪明りでほのかに明るい。
    「お嬢様のハーブも、これよりは冬ごもりだ」
    「ハーブも、寒ければ頑張る気力も出なくなるものなのでしょう」
    「冬に採れる野菜もあるがな」
    「ああ、そうですね」
     ハロルドはうなずく。老執事は少し笑った。
    「詩人殿は、おかしな御仁だ」
     そこへルドルフが入ってくる。
    「おはようございます、爺殿。積もりましたね」
    「おはようございます、マクマナス様。これぐらいの雪、すぐに溶けますよ」
     老執事はルドルフを見てうなずく。ルドルフもうなずいた。
    「そうあってほしいものです」
     そこへアグレイアも身支度を終えて入ってくる。
    「みなさん、おそろいで何を話されているのですか」
    「雪が積もりましてね」
     ルドルフは窓の外をうながす。アグレイアはそれを見て、それからルドルフに笑みかけた。
    「それは、雪は積もるものですから」
    「女性は、そういうところがありますね」
     ハロルドが苦笑する。ルドルフもつられて笑う。ハロルドは老執事に言った。
    「爺殿。僕は、雪に灰をまくというのをやってみたいのですが」
    「これぐらいの雪、放っておいても溶けてしまうが」
    「白い雪に黒い灰をまくとは詩的ですし、自分の手でそうするとなると、これは創作の強みになります」
    「なるほど、そのようにして詩は生まれるのか」
     ハロルドと老執事の会話にルドルフがうなずく。
    「私もその詩的な景色というものを見てみたいな。爺殿がよしと言うのであれば、ですがね」
    「少し待っていなされ」
     老執事は、かぶりを振って部屋を出ていった。アグレイアは、そんな老執事を見送る。
    「雪が積もると、爺は何かと大変でして。それでも爺は、わたくしに何もさせようとはしません」
     アグレイアは老執事の背中を見送る。
    「わたくしも、多少のことでしたらできますのに」
    「スープをあたためてくれました」
    「それぐらいのことは、当然のことでしょう」
     ハロルドの言葉にアグレイアが返す。
    「自分にできることを自分ですることは、当然のことです。わたくしも、もう子供ではないのですから」
    「爺殿にしてみれば、まだまだアグレイアさんには子供でいてほしいのかもしれませんが」
     ルドルフが言う。
    「愛というものは人を強くさせますから」
    「わたくしは、そういうことは、よくわかりません。わたくしは、ただ、爺には無理をしてほしくないだけなのです」
    「矛盾ですね」
     ルドルフは目を細める。
    「そのような仰りよう、ルドルフ様ですね」
     アグレイアはルドルフを見て少し笑った。そこへ老執事が自室を出て歩いてくる。歩幅の大きな、その歩み。手には黄色の何かを持っている。それは手袋だった。
    「手袋をしていかれよ」
     老執事はハロルドとルドルフに黄色い手袋をわたす。形のいびつな手袋。
    「お嬢様が編まれた手袋だ」
    「ありがとうございます。でも、僕はこれから灰をまくのですよ。せっかくの手袋が汚れてしまいます」
    「いいのです」
     ハロルドの声にアグレイアは微笑む。
    「編み物は、好きでしていることです。編むだけ編んで、爺に押し付けているようなものですから、気にせずに使ってください。汚れたなら、洗えばいいのですから」
    「この色の毛糸は見たことがあります。そこの揺り椅子でアグレイアさんが編んでいたのは、この手袋だったのですね」
     ルドルフはアグレイアに笑みかける。
    「ありがたく使わせていただきます」
    「爺殿の手袋は、あるのですか」
     ハロルドは老執事を見た。
    「編み物は、冬のあいだのお嬢様の楽しみだ。わたしの手袋はある」
    「そういうことでしたら、遠慮なく使わせてもらいます」
     ハロルドは手袋を両手にはめ、そんな両手をたたく。
    「あたたかいですね」
     老執事に言う。
    「では、少し行ってきます」
    「私も、行ってきます」
     部屋を出ていったハロルドを追いかけるようにしてルドルフもまた玄関へとむかう。アグレイアは、そんなふたりを見送った。
    「色々と、さわがしいふたりです」
     老執事は苦笑する。アグレイアは、そんな老執事にうなずいた。
    「爺。わたくしは、おそらくルドルフ様と結婚をすることになるのだろうと思います」
     アグレイアはテーブルへと歩み寄る。老執事はアグレイアを見る。アグレイアは、テーブルの中央に活けられていた花から、しおれたものを摘んだ。
    「殿方に、ああまでさせて、そのお気持ちを無下にすることはできません。この家を残していくという責任もあります」
    「わたしは、結婚が幸せのひとつの道だとは申しましたが、チェスター家のためと仰せなら、わたしは反対いたしますぞ」
    「そうではないのです」
     花のかたちを整えながらアグレイアは言う。
    「ルドルフ様は、わたくしのことを何より大切に思ってくださいます。わたくしも、それは嬉しいのです」
     アグレイアは老執事を振り返った。
    「嬉しいのですよ、爺」
     アグレイアは寂しそうに笑った。それは痛々しいアグレイアの一面。
     老執事は姿勢を正し、一礼した。老執事は、アグレイアがまた、その心の扉を閉める音を聞いたような気がした。誰も立ち入ることが許されないそれは、固く重たい扉。
     老執事は暖炉の部屋をあとにする。アグレイアは摘んだ花を暖炉の火のなかへと投げた。花は火に包まれ、その身を折り曲げて燃える。
    「どうして火は燃えるの」
     幼いアグレイアが言う。思い出のなかで幼いアグレイアは父を見る。いまはもういない父。
    「燃えるからさ」
     父は、そう返した。アグレイアは、それを覚えている。そう返したあとで、父は何かを考えたように付け加えたことも。
    「アグレイアは蝶を知っているだろう」
     父はアグレイアに笑みかける。アグレイアは、うなずいた。
    「蝶は、ひらひらと飛ぶが、この蝶になるまえの姿をアグレイアは知っているかな」
    「イモムシ」
    「そうだな」
     元気な答えに父は笑う。
    「蝶は、ひらひらと飛ぶ。イモムシは飛べるだろうか」
    「飛べないよ。イモムシなんて、菜っ葉をかじってるだけなんだから」
    「そんなイモムシがサナギになり、羽化をすると蝶になる。不思議だが、当たり前なことだな」
     父は、いたずらな笑みを浮かべている。アグレイアは、うなずいた。
    「火もまた、そうだ。不思議な当たり前なのさ。それがどう不思議で、どう当たり前なのかは、アグレイア自身が考えなくてはいけない。お父さんも、本当のところは、わからないんだ。だから、アグレイアが自分で考えて、答えがわかったら、お父さんに教えてくれないかな」
     父は、楽しい夢でもみているように言った。アグレイアは、そんな父の顔を覚えている。父が揺り椅子に揺られていたことも、その揺り椅子がその位置にあったことも。
     そんな父は、もういない。そして、母もまた。
     アグレイアは揺り椅子に座る。あのとき父は、この揺り椅子に揺られていた。自分はそのかたわらで父の話を聞いていた。そして母は、そんなふたりを見ていた。
     母。ロズイー家。チェンバロ。アグレイアは、かぶりを振る。思い出してはいけない。そう自分に言い聞かせる。
     いま、この屋敷には爺がいる。そこにハロルドがやって来た。ルドルフもまた、ここで暮らし始めた。そして、おそらく自分は、そんなルドルフとこの先の人生を歩んでいくのだろう。
     アグレイアは、編針を手にする。黄色の毛糸を編み込んでゆく。
     爺は朝食の支度をしていることだろう。ハロルドとルドルフは、どこまで灰をまきにいったことだろうか。毎日は、少しずつ変わってゆく。
     やがて玄関の扉が開き、ハロルドとルドルフがにぎやかに入ってくる。爺は、そんなふたりが嫌いではないらしい。そして、自分もまた。
     食事の時間になってもアグレイアは、そんな自分を自覚することができていた。ハロルドは聞き上手だったし、老執事は無口だが無表情ではない。そしてルドルフは、よく喋った。
     そんなルドルフが、くしゃみをする。失礼と言いながら、何度も。
    「風邪ですか?」
    「少し体を冷やしたのかもしれないな」
     ハロルドの言葉にルドルフは自嘲気味に言う。だが、それは風邪だった。人を寝床に縫い付ける、それは風邪だった。

       七

     ルドルフの顔は赤かった。その耳も赤かった。そして声もまた、普段のそれとは違っていることだろう。
     ルドルフは、それを確かめる相手がいなかった。ハロルドは一時的とはいえ、老執事の部屋で寝起きをすることとなった。ルドルフは、この部屋でひとり寝るだけ。屋敷は静かだった。
     そんな静けさをやぶるように誰かがドアをノックする。ルドルフは返事をするが、その声は枯れていた。
    「綿布を取り替えにきたよ、ルドルフ」
     部屋に入ってきたのは、木桶を手にしたハロルドだった。
    「体の具合は、どうだい」
    「少し重たいかな」
     ルドルフは笑ってみる。だが、うまく笑えているかがわからない。
    「自分が情けない」
    「何が」
    「君は平気なのに、私はこのありさまだ」
     ルドルフは相手を見た。
    「自分はこんなに弱いのかと思うと、そんな自分が情けなくなる」
    「風邪ぐらい、誰だってかかるだろうに」
     言いながら、ハロルドはルドルフの額の綿布を替えていた。
    「体を冷やしただけさ。すぐによくなる」
     ハロルドは病人に笑みかけた。
    「あとでスープを持ってくる。あたたかいスープで体のなかからあたためれば、風邪なんてすぐによくなる。弱気な自分が恥ずかしくなるほどにね」
    「食欲は、ない。何も食べたくはない」
    「少しでも食べることだよ。大丈夫、食べられるさ」
     軽く首を振るルドルフにそう返して、ハロルドは部屋を出ていった。あとに残されてルドルフは、ひとり天井を見上げる。額の綿布が冷たい。
     自分は、こんなにも弱かったのだろうか。ルドルフは、ひとり考える。風邪をひいたのは子供のとき以来だった。額の綿布の冷たさも子供のとき以来。屋敷の静けさも、所在なく天井を見上げることも。
     子供であれば、それは風邪をひく。子供とは、そういうものだ。だが、いまの自分は子供だろうか。しかも、ここは自分の家ではない。それなのに、自分のしていることは、まるで子供ではないか。アグレイアさんは、どう感じていることだろう。父や母は、このことを聞いたとしたら、息子を恥じはしないだろうか。
     様々な思いがルドルフのなかで渦巻く。その渦はあらゆるものを呑み込み、巻き込み、いつしかルドルフはその流れのなかで眠っていた。ドアをノックする音で気付くまで、ルドルフは眠っていた。ルドルフはそんな自分に気付く。そういえば、ハロルドがスープを持ってくると言っていた。だが、いまは何も食べたくはない。ルドルフは返事をしなかった。
     ドアは開かれる。ルドルフは、その方を見る。そこにアグレイアがいた。両手に盆を持ったアグレイアが、そこにいた。
    「起こしてしまいましたか」
     アグレイアは両手の盆を台に置く。それから入口へと引き返し、ドアを閉めた。
    「食欲がないとのことですが、少しだけでも何か召し上がった方がよろしいかと思いまして、スープを持ってきました」
     アグレイアはルドルフに笑みかける。
    「弱られたルドルフ様は、なんだか少し愉快ですね。わたくしが差し上げましょうか」
    「いえ、自分でできます」
     ルドルフは左腕で自身を支えながら上半身を起こす。アグレイアはルドルフに歩み寄って、その背中に枕をあてがった。
    「ありがとうございます」
     ルドルフは枕にもたれる。体が少し楽になった気がする。
    「アグレイアさんは病人の気持ちがわかるかのようだ。少し楽になりましたよ」
    「父の看病をしておりましたから」
     スープ皿とスプーンを載せた盆をルドルフの膝の上に置いて、アグレイアは言う。
    「ルドルフ様がご存知かはわからないのですが、わたくしは父も母も亡くしているのです」
    「それは知りませんでした。どちらか別のところで暮らしているのだろうかと思っていたのですが……」
    「さあ、スープがさめてしまいます」
     うつむいてしまったルドルフにアグレイアの声は優しい。
    「ハーブの入ったスープです。体があたたまりますよ」
    「できれば、なのですが」
     ルドルフはアグレイアを見る。
    「私は、これまでアグレイアさんのことには触れないようにしてきました。ですが、失礼とは思うのですが、アグレイアさんのご両親のこと、聞かせていただけないでしょうか」
    「ルドルフ様は、風邪をお召しになってもルドルフ様なのですね」
     アグレイアは笑う。そして少し考えたあとで、客間の椅子をルドルフのそばへと運んだ。
    「少し長い話になってしまうかもしれませんが」
    「聞かせてください」
    「ルドルフ様はスープを飲みながらお付き合いください」
     アグレイアは椅子に座る。ルドルフはスプーンでスープをすくった。それを飲む。スープからはハーブの香りがした。
    「ハーブの香りがしますでしょう。わたくしがハーブに関心を持ちましたのは、父の病がきっかけでした」
     アグレイアは笑う。それは慈愛に満ちた笑みだった。
    「かれこれ十年でしょうか。長いようにも感じられますし、短いようにも感じられます。ですが、確かなことは、わたくしにとってその時間が当たり前のものになっていったということです。ですから、悲しくないなどとは申せませんが、同時に懐かしくもあるのです。不思議なことですね」
     アグレイアの言葉には、よどみがない。
    「父は、おなかの病でして、やせておりましたから、医者が言うには神経を遣いすぎたのだろうということでした。父は、とても利発な方で、幼いながらにそう思えたということは、本当に利発だったのだと思います。ですから、必要以上に考えてしまって、神経をすり減らしていったのかもしれません」
    「そのようなところがあったのですか」
    「さあ、わかりません。医者の話から、わたくしがそのように思ったというだけで、父はどちらかというと寛容な人だったような気がします。その分だけ自身には厳しかったのかもしれませんが、これもわたくしの心のなかでの話ですね」
     アグレイアは笑う。懐かしそうに笑う。
    「サミュエルという、馬の世話を任せていた者がいました。この者が言うには、ハーブには心を鎮める作用があるとか。わたくしは、父にはハーブが必要なのではと考えたのですね。わたくしとハーブの関係は、そのときから始まったのです」
     アグレイアはルドルフの膝の上のスープ皿を見る。ルドルフは何も返せない。
    「ハーブが父に効いたのかは、わかりません。薬も処方されましたし、医者も手を尽くしてくれました。父は次第に弱っていって、それでも最期は穏やかに旅立っていきました」
     アグレイアの声は穏やかだった。だが、その声に反して体には力が入っていたらしい。そんな自分に気が付いて、アグレイアはルドルフに笑みかけた。
    「さあ、スープを飲んでください。いえ、このような話のあとでは、とても飲めませんね」
    「いいえ、いいえ」
     かぶりを振って、ルドルフはスープ皿に向かう。スープからはハーブの香りがする。ハーブにはアグレイアの思いが込められている。
    「私は、今日ほど食の大切さを感じたことはありません」
     言いながらルドルフはスプーンでスープをすくう。
    「私は、このスープを残しませんよ」
    「ルドルフ様は、そのように元気になられて、きっと明日には風邪も治っていることでしょう」
     アグレイアは立ち上がる。
    「ルドルフ様は、そうあわてずに、スープを召し上がってください。風邪がうつってはいけませんので、わたくしはそろそろ失礼します」
     アグレイアは軽く礼をして立ち去りかける。
    「アグレイアさん」
     ルドルフは思わず声を発した。だが、その先が浮かばない。アグレイアが振り向く。
    「ルドルフ様の仰りたいこと、なんとなくではありますが、わかります。ですから、何も仰らなくていいのです」
     アグレイアは笑ってみる。その顔は痛々しいまでに優しげだった。
     アグレイアは、ふたたび軽い礼をして部屋を出ていく。あとに残されてルドルフは、ベッドのそばに寄せられた椅子を見るのだった。

     ハロルドがスープ皿をさげにいったとき、ルドルフは眠っていた。こちらに背を向けてルドルフは静かに寝息をたてていた。
     ベッドのそばに寄せられた椅子の上には、盆に載せられたスープ皿とスプーン。ハロルドはスープが残されていないことを確かめると、その盆を持って部屋をあとにした。
    「ちゃんと飲んでくれたみたいですね」
     盆を台所に運んで、ハロルドは老執事に言う。
    「食欲がないと言っていたのですけどね。愛のちからというものでしょうか」
    「詩人殿は、嬉しそうだな」
     食器を洗い始めたハロルドに老執事が言う。
    「詩人殿は、マクマナス様のことを、どうお感じか」
    「好きですよ」
     ハロルドは明るく返す。
    「マクマナス様を見ていると、アグレイア様のことを本当に大切にしていると思えますし、実際にそうですからね。紳士ですよ、マクマナス様は。紳士であろうとしている人です。少なくとも、僕の知る範囲内では」
    「だが、それが偽りであった場合、どうする」
    「人間なんて、偽りだらけの生き物です。猫をかぶるなんて言葉があるほどなのですから」
     ハロルドは食器をすすぐ。
    「大切なことは、アグレイア様がマクマナス様にとっての特別であり続けるか否かじゃないでしょうか。尊敬に値する女性であれば、マクマナス様はその女性を尊重しますよ。紳士ですからね」
    「わたしは、まだそうだとは思えんが」
    「それは、そうですよ。爺殿がアグレイア様と過ごしてきた年月を思えば、僕もマクマナス様も、昨日今日現れた見知らぬ他人です。爺殿が、そう思うのは当然です」
     ハロルドの声は明るい。
    「僕は、おたがいを尊重できる関係が理想なんです。人間なんて、気をゆるめれば堕落する生き物ですからね。ほどよい緊張感、それがきっと大切なのですよ」
     ハロルドは歌うように言う。老執事は、そんなハロルドを見ながら少し笑った。
     何かが少しずつ変わり始めている。変わるべきことなのか、変わってはいけないことなのかは、わからない。それでも老執事は、それが少しずつ変わり始めていることは理解することができた。
     あの冬から十年が経っていた。

       八

     雪は溶けた。ルドルフの風邪も快方に向かい、食事の席には四人がそろうようになった。
     ルドルフはまた軽快な口調で話を振った。子供のときの風邪のこと。屋敷の静けさと孤独感のこと。ハロルドは、それに応えて聞き役にまわった。老執事は相変わらず無言だった。アグレイアは笑わない。
     それは、ほんの少しの違和感だった。何かが微妙にずれている感覚。だからこそルドルフは話を大げさにするのだが、アグレイアは興味を示すようなことはなかった。
    「アグレイアさんは、私を怒っておいでのようだ」
     ふたたび同室になったハロルドにルドルフは闇のなかから言った。
    「何があったのですか」
    「それは言えない」
     闇からの返事にルドルフは首を振る。
    「ただ、私はなぜ最後にひとこと言うことができなかったのだろうかと思う」
    「どう言いたかったのですか」
    「それも、わからない。どのような言葉が大切だったのか、それをいまも頭のなかで考えている」
    「そして、答えが出てこない」
     ハロルドの声にルドルフは何も返さなかった。
    「ルドルフ、僕は君を友人として好意的に見ているのだけど、同時に僕は君の敵でもある。わかるかな、このこと」
    「ああ、よくわかる」
     闇からの声は低く響いた。ハロルドはうなずく。
    「アグレイア様は過去には生きていない方だ。だけど、未来にも生きてはいない」
    「そうだろうな」
     ルドルフは返す。だが、そのあとでルドルフは目を閉じた。
    「そうだな、そうなんだ」
     ルドルフはきつく目を閉じる。
    「なぜ私は君におくれをとるのだろう。ほかのことなら構わない。我慢ができる。それなのに、なぜアグレイアさんのことで私は君におくれをとるのだろう」
     ルドルフは、そこで意図して自らの力を抜いた。それでもルドルフは言わずにはいられなかった。
    「私はハロルド、君を友人と思ったことは一度としてないのだよ」
    「おやすみ、ルドルフ」
     ハロルドは暗闇に声をかける。
    「ああ、おやすみ、ハロルド」
     暗闇からは声が返ってくる。ルドルフは目を閉じていた。そしてハロルドもまた目を閉じた。ふたりは、わずか数歩の距離の闇のなかにいた。

     アグレイアは夢をみていた。
     茶色い箱型の楽器のまえに座らされて、その鍵盤をたたき続ける夢だった。いくら鍵盤をたたいても、楽器は音を奏でない。
     その楽器はチェンバロという名前だった。夢から浮かび上がりながら、アグレイアはそれを思い出す。チェンバロ、ロズイー家で奏でた楽器。
    「この鍵盤は、あの爪につながっているんだ」
     ロズイー家の息子がチェンバロの天板の隙間を指しながら言う。
    「あの爪があの絃をはじいて音が鳴る。ピアノだと、あの絃をハンマーという部品がたたくらしいけどね」
    「ピアノって、なに?」
    「もっと高い楽器さ」
    「フェルナンド」
     アグレイアの問いに答えた息子に母親の声が飛ぶ。フェルナンドは、つまらなそうに返事をした。ロズイー夫人は、またおしゃべりにもどる。おしゃべりの相手はアグレイアの母だった。
    「お母様、わたし、あのチェンバロという楽器、ちっとも楽しくないんです」
     あるときアグレイアは、思い切って母に打ち明けてみた。
    「お母様が習いに行くところへ、わたしがついていって、でも、お母様はロズイーの奥さんとおしゃべりをするだけじゃないですか」
    「フェルナンドは上手にチェンバロを弾きますよ。アグレイアも弾けるようにならなければ、恥ずかしいでしょう」
     母は、そう返した。アグレイアは言葉をさがす。母は、そんなアグレイアに言うのだった。
    「楽器ぐらい弾けるようにならなくては、田舎者と笑われるのですよ」
     アグレイアは、その言葉を覚えていた。母のあの目も。
    「お母様は、そう仰るのなら、ご自身で弾いてみるべきだわ」
     アグレイアは言いたかった。
    「お母様にも、理想の暮らしがあります。都会的、文化的な生活に憧れることは罪ではないでしょう?」
     自身に対してアグレイアは返す。
    「お母様はチェスター家に嫁いで来られて、ご苦労も多かったことでしょう。ロズイー夫人とのおしゃべりが心の慰めであったのなら、それでいいではありませんか」
    「でも、わたし、あのチェンバロの音色は悲しそうで嫌いなの」
     まだ小さなアグレイアが、こちらを見てくる。
    「わたし、チェンバロを聞いていると、悲しくなるの」
     アグレイアは何も返せない。小さな自分の影を見ることだけしかできない。
    「チェンバロの、どこが悲しいのかな」
     父の姿が浮かんでくる。
    「お父さんは、チェンバロを聞いたことがないんだ。どんな音色なんだい」
    「悲しい音。虫の声みたいな音」
    「秋の虫かい。あの声は、お父さんも少し悲しい気持ちになる」
    「お父さんも?」
    「秋は、悲しい季節だからね。太陽が、すぐに隠れてしまう。お昼の時間が短くなって、夜の時間が長くなってしまうんだ」
    「どうして?」
    「それが自然の摂理だからね。夏至と冬至があって、お昼の時間が長くなったり短くなったりするんだよ」
     父は手をのばしてくる。アグレイアは、その手を握った。ふたりは並木道を歩いていく。木の葉が遊ぶように舞っている。アグレイアは、ふたたび眠りに引き込まれていった。

     寒くなってからは、アグレイアに来客はなかった。
     アグレイアは暖炉のまえの揺り椅子で編み物をしたり本を読んだりした。ルドルフも、同じ部屋で学術誌を読んでいた。
     老執事とハロルドは町へ買い出しに行くことがあった。細々とした家事をすることもあった。あるいは台所で火鉢を囲んで話をすることもあった。いずれにしても、暖炉の部屋にはアグレイアとルドルフしかいなかった。
    「もうすぐ冬至ですね」
     ルドルフは学術誌を読みながら言う。
    「冬至、一年で一番日が短い日。でも、冬至を過ぎれば夏至に向かって日が長くなっていくのですからね」
    「そうですね」
     アグレイアの声には気がない。ルドルフは構わずに続ける。
    「私の父は、冬至を憂鬱だと言ったものです。寒い日は嫌いだと。すると、母が言うのです。これから夏至に向けて日は長くなっていくのだからと。父は、それでもう寒いなどと言えなくなるわけです」
    「おもしろいお母様ですね」
     アグレイアの声は笑ってはいない。ルドルフは、それでも続ける。
    「母は、あまりそういうことを考えないようです。寒ければ寒いし、暑ければ暑いといったようで、あまり右往左往しないようですね。父とは対照的に」
    「どうされているでしょうね」
    「手紙をもらいました。精一杯頑張れと、そのようなことが書かれていました。アグレイアさんに、くれぐれもよろしくとも」
    「いいご両親ですね」
    「子供のときは、きびしい親でしたがね」
     ルドルフは、少し笑う。
    「はなれてみると、親の有り難味がわかるものですね。はなれてみなければ、わからないものなのかもしれませんが」
     アグレイアは何も返さない。ルドルフは、そんなアグレイアを見る。揺り椅子にもたれて本を読んでいるアグレイア。
    「私の両親は健在です。それでも両親に思いを来すのですから、アグレイアさんの思いは、いかほどでしょう。私は、あのとき、それを思ってしまったのかもしれません」
    「あのときと仰いますと?」
    「私が風邪をひいたときのことです」
     こちらを見ないアグレイアにルドルフは返す。
    「私は、あのとき自分が何を言いたかったのか、それを自問してきました。私はアグレイアさんに失礼ではなかったかと」
    「そのようなことはありません」
    「そうでしょうか。いや、違う。こんなことを言いたいのではないのです」
     ルドルフは首を振る。
    「私は、あのとき不謹慎にも嬉しかったのです。アグレイアさんのことを知ることができて、私は嬉しかったのです」
     ルドルフはアグレイアを見ている。アグレイアは本に視線をおとしたままだ。だが、その本のページが進まないことをルドルフは観察していた。
    「私は、アグレイアさんのことを、あまり知りません。おかしいですね、そのような女性に好意をよせるなど」
     ルドルフは、ふたたび学術誌にもどる。
    「説明することのできない気持ちというものは、存在するのですね。私は、時々自分がわからなくなってしまいます」
    「それは、わたくしも同じです」
     静かにアグレイアが返す。
    「わたくしも、自分の気持ちというものが、わかりません」
     ルドルフはアグレイアを見る。アグレイアは本に視線をおとしたままだった。その本のページをめくって、アグレイアは言う。
    「それでも、ルドルフ様のことを信じていないなどということはないのです」
    「現時点での最大級の評価ですかね」
     ルドルフはアグレイアに笑みかける。アグレイアは答えない。
    「大丈夫、待ちますよ。待てますから」
     ルドルフは学術誌にもどる。アグレイアは本を読んでいる。ふたりだけの空間。
     暖炉では薪が燃えている。老執事とハロルドは町へ買い出しに行ったのか、邸内は静かだ。
     ルドルフは学術誌を読みながら思う。アグレイアさんは父君の話をしてくださった。父君は利発な方だったらしい。アグレイアさんは、そんな父君に似たのかもしれない。
     そこでルドルフの考えは、また振り出しにもどる。アグレイアさんは父君の話をしてくださった。だが、では母君は、どのような方だったのだろうか。
     ルドルフは、まだそれを聞くことができない。ハロルドは、それを知っているのだろうか。
     ルドルフは学術誌のページをめくる。学術誌には、この問いに対する新しい論文は書かれていそうになかった。

       九

     並木道は冬枯れし、雲は低くその枝先に触れようとするかのようだった。それでも空の所々に青いものも見受けられる。冬の雪国の空。
     老執事とハロルドは、ならんで歩いていた。背には買い物かご。牛乳瓶、ニンジン、パン、卵、それに銀杏。
    「銀杏のにおい、嫌いな人は嫌いでしょうね。僕は平気ですが、爺殿はどうですか」
    「好き嫌いではないな」
    「冬至とくれば銀杏ですからね。冬至の太陽、銀杏。僕は、そういうのって、好きなんですよ」
     ハロルドは笑顔で言う。この詩人には、こういうときに裏表がない。老執事にはハロルド・スナイダーという人物はいまだに謎のままだったが、それでもこの詩人に野心という炎を見出せなかったことも事実だった。
    「詩人殿は、何を大切に思われるか」
     老執事は、となりを歩く詩人にたずねる。
    「変化ですね」
     ハロルドは、屈託なく返す。
    「小さな変化。小さな気付き。それを大切にしたいと思っています」
    「気付くことができると?」
    「少なくとも、そんな自分でいたいと思っています。目標ですかね。そうであれないのなら、詩はつくれませんから」
     ハロルドは笑顔だ。老執事は、うなずいた。
    「なるほど。詩人であるための心掛けのようなものかな」
    「そんな大それたものではないですけど」
     ハロルドは苦笑する。だが、老執事は構わずに言った。
    「わたしは、お嬢様が結婚をされるのであれば、そのお相手は学者である必要はないと考えている」
     足を止めて、老執事はハロルドを見る。
    「学者とは、頭で考えてしまいがちだ。心で感じるということを、なおざりにしてしまいかねない」
    「マクマナス様は、そのようなところはないと思いますが」
    「人には心というものがある」
     ハロルドに構わずに老執事は続ける。
    「心というものは目には見えないものだ。よかれと思ってかけた言葉が、その人を深く傷付けてしまうこともある。それなのに、その傷は、外から見ただけでは見えないのだ」
     老執事はハロルドを見ている。その目は、鋭く光っている。
    「科学とは、物事を明るみに出すものだ。もしも科学で人の心を理解しようとしたら、どのような悲劇が待っているだろうか。世の中には、明るみに出てはならないものもある」
    「仰ることは、わかります」
     ハロルドは、うなずく。
    「人の心は、かたちにできない。僕も、そう思います。思いますが」
     ハロルドは、そこで考えた。
    「どうにも爺殿は、何か物事を複雑にさせているようにも思えるのです。まるで空が降ってくるとでも言いたげに」
    「空は降るのだ。それを笑ってはいかん」
    「故事にありますよ。空が降ってくることを恐れた羊飼いが狼に羊をとられるという話。僕は、この話が嫌いなのです。まわりの人は羊飼いに空が降ってこないということを、どうして教えてあげなかったのだろうと」
    「詩人殿であったら、教えているだろうか」
    「いいえ、たぶん僕も羊飼いを笑うひとりでしょう。僕は、自分で思うほど他人に優しくはないですから」
    「マクマナス様は、どうだろうか」
    「彼なら教えますよ。紳士ですから」
     ハロルドは、そこに迷いはなかった。
    「マクマナス様は、紳士であろうとする紳士です。自分自身に対する誇りが、そうさせるのでしょう。公平と公正を重んじる、彼は紳士です」
    「わたしは、そうは思えない」
     老執事は首を振る。
    「完成された人間など、いるはずがない。たとえいたとしても、その姿を保ち続けることができるだろうか。結婚とは、生活なのだ」
    「でも、それこそ空が降る話ではないですか。先のことなんて、ふたりで解決していくしかないのですから」
    「わたしは、それを知りたいのだ」
     老執事は、まっすぐにハロルドの目を見る。シワの刻み込まれた目。
    「いやですよ」
     ハロルドは目をそらした。
    「それでは、僕は間者です。人の心を試すようなことは、したくありません」
    「お嬢様は、ご両親を亡くされて、心を閉ざしてしまわれた。この家でお嬢様に仕えるのは、わたしひとりだけだ」
     老執事は邸宅を見る。チェスター邸は森を背に、そこにあった。
    「わたしは、あとどれだけ生きていられるだろうか。お嬢様は、おひとりで暮らしていかれるおつもりなのだろうか」
    「やめてください」
    「詩人殿が来なければ、このようなことは考えなかったのかもしれないのだ」
     老執事の声は優しかった。
    「何でもないことは、積み重なると重みが増す。そのことに気付いたわたしは、もう年をとっていたのかもしれんな」
     ハロルドは何も返せない。老執事は少し笑った。それは何かを懐かしむような、そんな笑みだった。
    「さあ、入ろう。冬至が近い。体が冷えてしまうわい」
     老執事は邸宅へと歩いていく。ハロルドも、その後ろをついていく。チェスター邸は、ひっそりとそこにあった。

     食事の席でルドルフは、機嫌がよかった。
     ルドルフは冬至に触れ、太陽の出ている時間が短くなるのだから、地上は寒くなるのだと言った。それは日溜まりからわかるように、太陽の光にあたたかさがあるのだと言った。ハロルドは上手く聞くことができなかった。
    「ハロルド、私はまた何か失態を犯したのだろうか」
     食事のあとで、ふたりきりになった部屋。その暗闇のなかでルドルフが言った。
    「君は、いつもと様子が違う。いや、心当たりはある。そのことを君が怒っているのなら、申し訳ない」
    「そんなことは、ありませんよ」
    「そうだろうか」
    「ルドルフは、なんだか楽しそうですね。アグレイア様と何かありましたか」
    「それは、どうだろうな」
     闇からのルドルフの声は、少し笑っている。
    「君は、私にとって一番親しい敵だ。だから私は、君には話せないことがある」
    「そうでしょうね」
    「そして、君にも私に話せないことがある」
    「それは、そうです」
    「だが、だからといって私が君を嫌っているわけでもない。それは、わかってくれるだろうか」
     ルドルフの声は笑ってはいない。ハロルドには、それがおかしかった。
    「ルドルフ、君は人生において、手ひどい裏切りにあったことがあるだろうか」
     ルドルフは返さない。
    「人は、生まれながらにその人生を決せられているのかもしれない」
    「運命論か。それは好きになれない」
    「でも、だったらなぜトビは水に飛び込んで魚を獲るのだろう。ツバメのように虫を食べることはせずに」
    「虫では満腹にはなれないのだろう」
     だが、そこでルドルフは笑った。とても愉快なものを思いがけず見たような笑いだった。
    「君が正しい。トビが魚を獲ることは不思議だ。なぜトビは、そうまでして魚を獲るのだろう」
     ルドルフは、そこで大きく息をつく。
    「君は不思議だな。君のそばにいると、なぜだか素直になれる」
     ルドルフは、片方の闇に向かって言う。
    「私は、だからこそ君が怖いと思う」
    「僕は、春になったら、このお屋敷を去ります」
     ハロルドは、もう片方の闇に返した。
    「もともとそういう約束で住まわせていただいていますからね。だから、ルドルフはその先を心配する必要は、ありませんよ」
    「何があった?」
     ルドルフの声は鋭い。
    「夕食のときの君の様子は、いつもとは違っていた。君は私のことを怒っているわけではないと言う。アグレイアさんが君に何かを言うとも思えない。君は、自然と相手のなかに入っていくことができるのだから。そうなると執事と何かがあったのだろうか」
     ルドルフの声は怒っているかのようだった。
    「執事は君を気に入っているように見えたが、人間関係は親しくなるにつれ油断をしてしまいがちだ。考えられる可能性といえば、それぐらいしか思い浮かばない」
    「だいたい、そんなところです」
     ハロルドは、このルドルフ・マクマナスという紳士がおもしろかった。
    「ちょっとしたケンカのようなものです。どちらが悪いというわけでもないのです」
    「だとしたら、明日の朝にでも改めて話をした方がいい。こうしたことは時間が経つと、かえってこじれてしまうからな」
    「そうですね」
     ハロルドは闇に笑みかけた。
    「明日の朝、爺殿とはよく話してみることにします」
     そしてハロルドは姿勢を変えた。
    「おやすみ、ルドルフ」
    「ああ、おやすみ、ハロルド」
     ふたりは、そこから会話をすることはなかった。それぞれの闇はそれぞれを包み、数歩はなれてハロルドとルドルフは眠りへと落ちていくのだった。

     チェスター邸が目覚める。
     老執事は灰かきをした。ハロルドは水を汲んできた。老執事は平焼きパンを焼く。いつもの朝。
    「今朝は、それほど冷えず、少し春のようです」
     朝食のそれぞれの席について、アグレイアが言う。
    「このまま今日が穏やかに晴れてくれるといいのですが」
    「今日は晴れるでしょう」
     ルドルフが返す。
    「冬至のころには、そのような日があるものです」
     ルドルフは平焼きパンに手をのばす。アグレイアは、うなずく。
    「そうあってほしいものです」
     アグレイアは平焼きパンを小さく千切りながら言った。老執事は黙って平焼きパンを食べている。ルドルフもまた平焼きパンを千切る。
    「アグレイア様、ひとついいでしょうか」
     ハロルドがアグレイアを見て言う。アグレイアは顔をあげた。その顔は、ハロルドが平焼きパンのおかわりを申し出ていると思っているかのようだった。
    「以前から疑問に思っていたことなのですが、今朝は春を思わせる穏やかな朝ですから、あえてこの話をさせてください」
     ルドルフがハロルドを見る。ハロルドはルドルフを無視して続けた。
    「僕は、春になれば、このお屋敷を去る身です。僕が去れば、このお屋敷には爺殿ひとりとなってしまいます」
    「ハロルド」
     ルドルフが低く言う。ハロルドは、それさえ無視をして言う。
    「爺殿は、いつまでも元気というわけではありません。アグレイア様は、どのようにしてこの先の暮らしを立てていくつもりなのでしょうか」
    「ハロルド、君は」
     ルドルフが立ち上がる。だが、ルドルフは首を振った。老執事は何も言わない。ハロルドはアグレイアを見ている。ルドルフもアグレイアを見た。アグレイアは、うつむいていた。
    「アグレイアさん」
     ルドルフの声は少し震えていた。
    「アグレイアさん、ハロルドは少し心を乱しているのです」
     テーブルに手をついて、ルドルフはアグレイアを見る。
    「昨夜話したときのハロルドは、少し様子がいつもとは違っていました。人には誰にでも、そのようなときがあるものです」
    「いいのです」
     アグレイアは顔をあげた。
    「スナイダーさんの仰ることは、当然のことなのですから」
     アグレイアはハロルドを見る。
    「わたくしは、そのことから逃避しています。それは事実です。人を雇えばいいということも、わかっているのです」
     アグレイアは、そこでルドルフを見た。ルドルフは立っている。アグレイアは、そんなルドルフにうなずた。
    「食事を続けましょう」
     平焼きパンを千切ってアグレイアは言う。
    「穏やかな朝です。いい一日にいたしましょう」
     そう言ってアグレイアは平焼きパンを食べた。老執事は何も言葉を発することはなかった。

       十

     暖炉では薪が燃えていた。赤いそれは太陽を思わせる。
     揺り椅子は、そんな暖炉のまえにあった。父の好きだった揺り椅子。その揺り椅子にアグレイアは今日も座る。
     父は様々なことを教えてくれた。様々なことを聞かせてくれた。アグレイアには、そのひとつひとつが夢のように感じられる。自分の望んだ夢の世界。
     だが、そんな夢はさめ、アグレイアは現実の世界に目覚める。母のいる世界。あの母の目。
    「アグレイアさん」
     学術誌から顔をあげてルドルフは、アグレイアの様子をうかがうように言う。
    「アグレイアさんは、どう感じたのかはわかりませんが、ハロルドは爺殿のことを心配して、あのようなことを言ったのです。ハロルドは爺殿と親しく接していますから」
    「わかっています」
     アグレイアは暖炉の火を見たまま返す。
    「スナイダーさんが正しいのです。それは、わかっていたことなのですから」
     青白い光がさしてくる。月の光。
    「冬とあれば人手は余るというもの。誰かしら人を探しましょう」
    「アグレイアさん」
    「それでも、時期に正月です。正月が過ぎるまでは難しいことでしょう」
     アグレイアは、独り言のように言う。
    「スナイダーさんは春になれば当家を去りますが、春までは爺を支えてくれるかもしれません。春までに、誰かを探さなければなりませんね」
     青白い光。母。あの母は、現実の母だったのだろうか。アグレイアには、それがわからない。あの母は、もしかすると夢だったのかもしれないのだから。
    「ルドルフ様は、そのように身構えられては困ります」
     アグレイアはルドルフに笑みかける。
    「わたくしは、パンのひとつすら焼いたことのない女です。誰かにそれをしていただいているからこそ、わたくしは暮らしていけるのです」
    「だとすれば、私もまたそのひとりです。私は、馬車馬に飼い葉をあたえたことすらありません」
     ルドルフはアグレイアを見る。
    「身分の違いとは言いません。どのようなことであれ、人の行為には労苦が付きまとうものです。ですから、それを和らげるための労苦もまた存在すると私は考えます」
    「そうでしょうね」
     アグレイアは、うなずく。
    「父が、そのような考えでした。人は、生まれながらにして、それぞれに役割を負っているのだと、話して聞かせてくれたことがありました」
     父は、虫眼鏡を買ってくれた。イモムシに興味を持った私に父は虫眼鏡を買ってくれた。私は、もうチェンバロを弾かなくてもいい。
    「父は、様々な改革を行いました。土地の者たちの言葉に耳を傾け、時にはその仲裁をし、父は慣習というものを少しずつ変えていきました」
     しかし、あの虫眼鏡は、ある日そのガラスにヒビが入った。チェストの奥に大切に入れていた虫眼鏡。ヒビなど入るはずのない虫眼鏡。アグレイアは声をあげることができなかった。
    「人の上に立つ者には、その者にしかできない務めがあるのでしょう。ですが、そのことに甘えて爺に負担をお願いしている現況は、やはり忌むべきことなのだと思います」
    「爺殿は、それを負担と考えるでしょうか」
     ルドルフはアグレイアから視線をはずした。椅子にもたれる。
    「私の家にジミーという馭者がいます。馬の好きな者です」
     ルドルフの脳裏にジミーの姿が浮かぶ。もう長いこと会っていない気がするジミー。
    「このジミーは馬の扱いは素晴らしいところがあるのですが、生活においては野放図なところがあります。自身も馬になってしまうのですね」
     窓からは穏やかな日がさしている。ジミーは、いまごろ馬の世話をしていることだろう。
    「あるときジミーは馬方に言われました。馬に見下される馭者ほど危険なものはないと。そのとおりなのです。馭者と馬とは友になりえません。馭者の役目は馬を走らせることで、いかなるときでも手綱を手放すことは許されないのです」
     ジミー、馬を愛するために生まれてきた者。
    「私もまたジミーに言ったものです。馭者の品格は、そのまま馬の品格として見られる。君は君に従う馬を人に笑われてもいいのか。ジミーは、自身の奔放な性格を見直すようになっていきました」
     ルドルフは、そこで少し天井を見上げた。アグレイアが続きをうながす。
    「人は見られているのです」
     ルドルフはアグレイアを見た。
    「見られていることに恥じない生き方をしなければ、尊厳というものは保てません。馬を扱うことも、パンを焼くことも、改革を進めることも尊厳です」
     ルドルフは、うなずく。アグレイアは首を振った。
    「わたくしには、わかりません」
     アグレイアの声は透き通るかのようだった。
    「わたくしは、本当のことを言えば、誰のちからも受けずに、ひとりで立って歩いてみたいのです。どこまで歩いていけるのか、それを知りたいのです。爺に甘えている、わたくしなのに」
     アグレイアは少し笑った。
    「イモムシは、誰の助けも受けずにサナギとなり、やがて羽化をして蝶となります」
     アグレイアは虫眼鏡のことを父に言うことができなかった。父は何も聞くことはなかった。
    「イモムシにできることが、わたくしにはできません。なぜでしょうか」
     父は、イモムシがサナギになる不思議を解くことはなかった。そして自分もまた、その不思議を解くことはないのだろう。
    「人間はイモムシではありません」
     ルドルフは、そう返した。そう返したが、その先が出てこない。沈黙。
     アグレイアは沈黙した。ルドルフもまた沈黙した。それでもルドルフは、何かを言いたい自分を感じていた。自分が何を言いたいのかもわからないまま、ルドルフはその言葉を求めた。

     その日は、誰も何も話しはしなかった。確認のために交わされる言葉を除けば、アグレイアもハロルドも老執事もルドルフさえも、何かを喋るということをしなかった。
    「ハロルド、君は以前、人は生まれながらにしてその人生を決められていると言ったかと思うが」
     ベッドで横になり、ルドルフは同室の闇のなかにいるもうひとりに言葉を投げた。
    「であるとしたら、自分という存在は、なんのために生まれてきたのだろうか」
    「意味は、必要ですか?」
    「必要だと思う。少なくとも、自分を保つという意味において、何事にも意味は必要になってくるのではないだろうか」
    「科学的ですね」
     ハロルドの声は、少し笑っている。
    「僕は、実のところ、夜が来ることが怖かったのです。夜になれば、この空間が待っているのですからね」
    「怒っていないわけではないさ」
     ルドルフは穏やかに言う。
    「私はアグレイアさんを大切に思っているし、そんなアグレイアさんを傷付ける者であれば、それが誰であれ許すことはない。しかし、おきてしまったことを論じていても仕方がないだろう。私たちは未来へと歩んでいくのだから」
    「そういうところがルドルフなのですよ」
    「あるいは、そうなのかもしれない。しかし、あえて言うなら、君の口にした疑問は私の疑問でもあった。私もまたアグレイアさんを傷付けていたのだとするのなら、私も私を許さないだろう。だから、私は声高に君を責めることができない」
    「ルドルフらしいですね」
     ハロルドは、闇のなかでうなずく。
    「ひとつお節介をすると、アグレイア様がそんなルドルフのことを、どう感じているか、ではないかな。僕でもなく、爺殿でもなく、この問題は本来なら、ふたりだけの問題なのだから」
    「そうなのだろうか」
     ルドルフは天井を見上げている。そこは黒い闇に支配され、何も見通すことはできない。
     父も母も、こうだったのだろうか。ルドルフは闇を見る。母に頭のあがらない父。そんな父を思うと、自分もまたアグレイアさんに対してそうなるのだろうかと考えるルドルフは、自分がおかしかった。
    「ハロルド、人間は生まれながらにして、その人間なのだろうか」
     ルドルフは闇にたずねる。
    「本質というところで、そうだと思いますよ」
     ハロルドが返す。
    「花は花として咲きますし、鳥は鳥として空を飛びます。ツバメの巣にトビが産まれないように、花もまたその種に逆らうことはしないものでしょう」
     ハロルドの声には迷いがない。
    「人間という本質にしても、生まれ持った性質というものは変わらないと思います。性質という言葉が正しくないのだとすると、資質というものなのかもしれませんが」
    「君は詩人だったはずだが」
    「だからこそですよ、ルドルフ。人間を信じるということは、その汚さを知ると同義であるのですからね」
     ハロルドは、そこで姿勢を変えた。
    「これ以上は水掛け論ですね。おやすみ、ルドルフ」
    「ああ、おやすみ、ハロルド」
     ルドルフは暗闇に返す。だが、ルドルフは考えることをやめられなかった。人間の資質は生まれながらにして決まってしまうのか、その答えを知りたかった。
     父、母、家族、親しい人たち。ルドルフはジミーを思い出す。馬を愛するために生まれてきたジミー。
     奔放なジミーは馬だった。そのジミーは馬方に言われて自身を見直していった。ジミーが馬なら、その馬は教育される。
     突然、ルドルフの頭に、ある考えが浮かんだ。それは一頭の馬だった。その馬はジミーを背に野山を駆けめぐる。
     ルドルフは、その人馬を脳裏に遊ばせる。この考えは正しいだろうか。ルドルフは考えをめぐらせる。ルドルフは考える。やがてルドルフは、自身の考えに安堵して眠りへとおちていくのだった。

       十一

     日は昇る。どのようなときにでも。
     アグレイアの様子に変わったところはなかった。少なくともルドルフの目には、アグレイアはいつもの落ち着いたアグレイアに映った。そのアグレイアが、いつもの席に座る。老執事もハロルドも、ルドルフもまた朝食の席に座る。
    「昨日、あれから考えてみたのですが」
     平焼きパンを千切りながらアグレイアが言う。
    「スナイダーさんは冬のあいだだけというお話でしたが、春以降も当家で過ごされるおつもりはありませんか」
    「僕は季節を旅する渡り鳥のようなものですからね。あまり長い間同じ場所ですごしていては、飛ぶことを忘れてしまいます」
    「そうですね。聞いてみただけですので、あまり気にはしないでください」
     ハロルドの答えにアグレイアは表情を変えることはない。
    「爺。誰か人を雇おうかと思うのですが、爺は、どのように考えますか」
     アグレイアは老執事を見る。老執事は視線をあげた。
    「わたしは、どちらとも申せません」
     アグレイアを見ることなく老執事は言う。
    「わたしのことを案じてのことでありましたら、それはありがたくもあり、寂しくもあります。ですが、わたしもまた、いつまでもお嬢様にお仕えすることができないというのも、また事実でしょう」
    「爺には、長く元気でいてほしいのです。ですから、爺を助ける誰かをと考えているのですが」
    「それは、ありがたいご配慮です」
     老執事は頭をさげる。
    「わたしは、四十年ものあいだ、チェスター家に仕えてきました。大旦那様、旦那様、そしてお嬢様。わたしは、幸せ者です」
     老執事は、ふたたび頭をさげる。
    「チェスター家では、幾人もの者が働いておりました。あのにぎやかな日々は、いまでは懐かしい思い出となっております」
    「ですが、爺、その者たちを呼び戻すということは、できないことなのですよ」
     アグレイアは柔らかく言う。
    「その者たちは、わたくしのわがままで当家を去りました。いまでは、それぞれの暮らしがありましょう。それをまた、わたくしのわがままで呼び戻すということは、それは許されることではありません」
     アグレイアは穏やかに言う。老執事はうつむいている。ハロルドはそこに関係することなく平焼きパンを食べている。ルドルフは、そんな三人を見ていた。
    「まあ、そう急ぐ話ではないでしょう」
     ルドルフは、そう言った。
    「春までは、ハロルドもこの家にいるでしょうから、今日明日というわけでもないでしょう。そうだな、ハロルド」
    「ええ、そうですね」
     話を振られたハロルドは、少し驚いたように言った。ルドルフは、うなずく。
    「この話は、ここまでにしましょう。爺殿が何も食べられなくなってしまう」
     ルドルフは平焼きパンを千切る。
    「朝は、一日の始まりです。一日の始まりらしくすごしましょう」
     ルドルフは平焼きパンを食べる。
    「そうですね」
     アグレイアもうなずいて、平焼きパンを食べた。老執事もまた、自らが焼いた朝食に手をのばす。ルドルフは、この老執事の背が縮んだような気がした。老執事の手にはシワが寄っていた。

     食事がおわると、暖炉の部屋にはアグレイアとルドルフが残される。アグレイアは暖炉のまえの揺り椅子に座り、編み物をするか本を読むか。だが、ここしばらくアグレイアは編み物をしていない。今日もまたアグレイアは本を手に取った。
    「アグレイアさんは、ここのところ、あまり編み物をしませんね」
     学術誌に視線をおとしたままルドルフは言う。
    「毛糸にも、限りはありますから」
     アグレイアもまた本に視線をおとしたまま答える。
    「それに、様々な知識に触れるということも、大切なことですから」
    「そうですね。知識は必要なものですから」
    「本当のことを申しますと、わたくしは、セーターを編んでみたいと思っているのです」
     アグレイアは本を読みながら返す。
    「ですが、わたくしは不器用ですから、手袋しか編むことができないのです」
    「なるほど。あの手袋は練習だったのですね」
     学術誌を読みながらルドルフは笑う。
    「そのようにお笑いになられては、わたくしは気落ちしてしまいます」
     アグレイアもまた笑う。
    「失礼しました」
     ルドルフは、そう返した。暖炉では薪が燃えている。薪は、パチパチと音をたてて燃えている。時々薪のなかに残っていた水分がはじけて短い音をたてる。それでも薪は炎をくねらせながら赤く燃える。
    「アグレイアさん。私も昨日、あれから考えたのですが」
     はたしてルドルフは言った。
    「あれからと仰いますと?」
     アグレイアはルドルフを見ない。
    「蝶とイモムシの話ですよ」
     ルドルフもまたアグレイアを見ない。それでもルドルフは続ける。
    「イモムシは蝶になる。鳥になるわけでもなく、人間になるわけでもなく、決まって蝶になる。考えてみれば不思議です」
     アグレイアは何も返さない。それでもルドルフは続ける。
    「花は花として咲きます。その花の種はその花を咲かせます。異なる花にはなりません。森羅万象、すべてに通じることです」
     ルドルフは、もう学術誌を見てはいない。アグレイアを見ている。アグレイアは本を読んでいた。暖炉のまえの揺り椅子に座り、本に視線をおとしていた。
    「私は、人間もまた変わることのない生き物なのかと自問しました。人間は、成長することのない生き物なのかと」
     ルドルフの脳裏に、ある映像が浮かぶ。形をもった生命、白馬。
    「私は、この考えにあらがう例を探してみました。答えは、身近なところにいるものですね。馬です」
     白馬。その白い毛並み。
    「馬の毛色は親の特性を受け継ぎます。赤い花の種が赤い花を咲かせるように、馬の毛色も親に似ます。ところが、ごくまれに親の毛色と似つきもしない馬が産まれることがあります。白毛という馬です」
     ルドルフは、その白い馬を見ていた。純白の馬。
    「白馬は白い馬ですが、この白馬と呼ばれるのは、葦毛の馬です。葦毛の馬は葦毛の親から産まれますが、白毛の親は白い馬ではないのです。突然産まれてくる、親とは異なる毛色の馬、白毛」
     その馬を、ルドルフは馬方に聞かされたことがあった。不思議な馬がいるという話は、幼心を刺激したものだった。
    「なぜ、そのような馬が産まれてくるのかは、わかりませんがね」
    「仰りたいことが、わかりません」
     気が付けばアグレイアがこちらを見ていた。その目は、まるでルドルフを見知らぬ人であるように見ている。
    「つまり、ですね」
     ルドルフは笑ってみた。
    「親に似ない子もいるということです。そこから私は、人間もまた変わるのだと結論付けをしようとしたのです。まだうまく結び付いてはいないのですが」
     ルドルフは、自分がおかしかった。昨夜は、あれほど素晴らしい思い付きだと感じられたこの発想が、いざアグレイアをまえにすると、しぼんでしまう。それでもルドルフは続ける。
    「人には生まれもった性質というものがあるかもしれません。性質という言葉が正しくないとするなら、資質でも構いません」
     ハロルドの影がちらつく。それでもルドルフは続ける。
    「その資質が脈絡と続くのであれば、人は変わることがありません。教育というものは意味を持たないでしょう。しかし、そうではない。昨日お話ししたジミーのことを覚えていますか。ジミーは奔放な資質を教育によって整えていったのです」
     ルドルフは首を振る。
    「いや、違う。これを言いたいのではないのです」
     ルドルフは目を閉じる。ジミーがそこにいる。どこか遠くに感じるジミー。そんなジミーが馬にまたがる。白毛の馬。
    「もし、資質というものが脈絡と続くのだとしたら」
     ルドルフは目をあける。アグレイアを見る。
    「もしそれが永遠に変わらないのだとしたら、私は白毛の馬について説明することができなくなります」
     ルドルフはアグレイアを見る。アグレイアもルドルフを見ている。その目は、寂しげでもあり、優しげでもある。
    「白毛は親に似つきもしない毛色。この白毛の馬がいるということは、資質というものが変わりうるということ。私には、そう思えるのです」
    「ルドルフ様は、科学的なお方ですね」
     熱弁のおわりに、アグレイアは微笑む。優しげで寂しげでもある微笑み。
    「ルドルフ様の仰りたいこと、わたくしにはまだよくわかっていないのかもしれません。それでも、ルドルフ様の真心を、わたくしは聞いたように思います」
     アグレイアは視線をそらす。しかし、すぐにルドルフに向き直ると、頭をさげた。
    「ありがとうございます」
     アグレイアは本へともどる。ルドルフは、そんなアグレイアに笑みかけてから学術誌にもどる。ルドルフの胸は大きな音をたてていた。

       十二

     小麦粉、砂糖、牛乳、卵。食器を洗い終えて、老執事はまた何かをつくり始める。甘い香り。
    「爺殿、それは何をつくっているのですか」
     老執事の手元を覗き込むようにしてハロルドは言う。
    「明日は冬至だからな」
     老執事はハロルドを見ることなく返す。小麦粉と砂糖と牛乳と卵は、かき混ぜられてひとつになってゆく。
    「ふるまいのお菓子ですか」
    「それぞれに、ふるまいというものはある」
    「お手伝いします」
    「いや、いい」
     老執事はハロルドを見ない。
    「チェスター家ではパンケーキを焼く。それは、いつものことだ。何ら変わったことではない」
    「アグレイア様が爺殿を嫌ってというわけではないのですよ」
     言ってしまってから、ハロルドはそれが失言だと気付いた。
    「すみません。いまの僕の発言は失礼でした」
    「そんなことはない」
     老執事はパンケーキを焼き始める。甘い香りは一層甘くなる。
    「わたしには子供がいなくてな。妻にも、ずいぶんまえに先立たれた。わたしは、そんな自分の人生をお嬢様に託してしまっていたのだろう」
     老執事の声は、言葉と裏腹に優しい。
    「お嬢様にはお嬢様の行く道がある。それをわたしは、わたしの人生のやり直しに使おうとしていたのかもしれん」
    「ですが、それは当たり前なことではないでしょうか」
     ハロルドは、つぶやくように言う。
    「何の見返りもなしに他人に奉仕できるほど、人間は強くはありませんよ」
     そう言ったあとで、ハロルドは笑った。
    「親なんて生き物は、なんだかんだで子供を支配しようとするものです。子供は発達の途中にありますからね。子供を導く責任が、大人にはあります」
     甘い香りがしている。パンケーキの香り。
    「親と子の関係でさえ、そうなのです。アグレイア様は爺殿の子供ではない。そのアグレイア様に、爺殿はどれだけ献身的に仕えてきたことでしょう」
    「詩人殿は、やはり不思議だな」
     老執事は微笑する。
    「なぜ他人のために、そうも懸命になれるのだろうか」
    「僕は、誰かを思いやる心を大切にしたいのです」
     ハロルドはパンケーキを見ながら言う。
    「おいしそうですね」
    「味見をしてみるか?」
     老執事が、いたずらな笑みを浮かべる。
    「いいんですか?」
     ハロルドは老執事を見た。
    「そう多くは来ないものだ。余れば、お嬢様やわたしたちが食べることになる。早いか遅いかの違いでしかないのなら、それがいまでも構わんだろう」
     老執事はパンケーキをひっくり返す。
    「こういうのを役得というのだよ」
    「爺殿」
     ハロルドは、うなずく。パンケーキは、きつね色に焼けている。
    「お嬢様には内密にな。マクマナス様にも言ってはならん。もっとも、お嬢様は先刻ご承知のことだがな」
    「そうですよ。多少のおいしい思いがあってこそですよ」
     ハロルドは笑顔だ。老執事はパンケーキを見る。
    「あと少しといったところか」
     老執事はゆっくりと二十を数える。そしてパンケーキをひっくり返すと、それが焼けているのか確認してから皿の上に載せた。
    「詩人殿が千切られよ。わたしは続きを焼く」
     老執事は二枚目のパンケーキにとりかかる。ハロルドは焼き立てのパンケーキに手をのばす。熱いそれに、思わず声が出る。
    「そこつ者が」
     老執事が笑う。
    「聞かれていませんでしたかね」
     ハロルドは暖炉の部屋の方を見る。
    「お嬢様は、先刻ご承知だ」
    「マクマナス様も、とがめることはないでしょうけど」
    「あの方も、そう小さなことは言うまい。それは、わたしにも、そう思えるようになった」
     老執事はパンケーキを焼いている。
    「詩人殿には申し訳ないことをした」
    「だとしたら、このパンケーキは、僕の分は少し大きくても構いませんね」
     ハロルドは、少しさめてきたパンケーキを両手に持つ。老執事は苦笑した。
    「詩人殿は、不思議だ」
    「僕は、思いやる心を大切にしたいのです」
     ハロルドは微笑む。そしてハロルドはゆっくりと、なるべく同じ大きさになるようにパンケーキをふたつに千切るのだった。

     空気というものは入れ替わる。それは、つかむことはできない。
     ルドルフは、何かいいことがあった様子だった。アグレイアもまた、やわらかな雰囲気をしている。老執事も、もう暗い表情はしていない。ここには調和がある。ハロルドは、それが嬉しかった。
     太陽は空を往く。日は南天へと昇り、西へと傾く。ルドルフは饒舌だった。アグレイアには品格が備わっていた。老執事は多くを語らないが、そこにはぬくもりがあった。
    「ご苦労様」
     暖炉の火を確認してから自分たちの部屋へと引き上げてきたハロルドに、ルドルフが声をかけた。
    「今日のルドルフは、ご機嫌ですね」
     ロウソクを台の上に置いて、ハロルドは寝間着に着替え始めた。
    「何かいいことがあったのですか」
    「どうだろうな」
     ルドルフの声は、今日という日を慈しむかのようだった。
    「君も、爺殿と何かあったのではないかな、ハロルド。爺殿の雰囲気に重たいものは感じられない」
    「ふたりでパンケーキの味見をしました。明日は冬至でしょう。そのふるまいのお菓子に、パンケーキを焼いていたのです」
    「それは、つまみ食いというものだな」
    「消しますよ」
     寝間着に着替え終えたハロルドは、ロウソクを吹き消す。夜具へと潜り込んで、姿勢をととのえる。
    「爺殿は、つまみ食いのこと、アグレイア様がとやかく言うことはないと話していました。それは、ルドルフもそうでしょう」
    「そこまで小さな器ではないさ」
    「爺殿にとって、アグレイア様は特別なのでしょう。爺殿の過去の話をしてくれました。聞きたいですか?」
    「いや」
     ルドルフは闇に返す。
    「本人の口からではないものを聞くのは、失礼なような気がする」
    「おそらく、そうでしょう」
     ハロルドも闇に返す。
    「人には、話せることと話せないことがありますからね」
    「そうだろうな」
     ルドルフは闇のなかでうなずく。
    「それは、アグレイアさんのなかにもあるのだろう。私は、どうしてもそれを知りたいと思ってしまう。結果として、そんな自分がアグレイアさんを傷付けてしまうというのにな」
    「でも、それが恋というものでしょう」
     ハロルドは天井を見上げる。千里の闇がそこにはある。
    「人は、誰かを大切に思うほど、誰かを独占しようとする生き物です」
    「そなのかもしれない」
     ルドルフは、闇のなかでうなずく。
    「だが、だとしたら、人間に言えることは、馬にもまた言えるのだろうか」
     ルドルフは、自分の思い付きを同室の闇にたずねる。
    「人間は誰かを独占しようとする。だとしたら、馬もまた、そうなのだろうか。それとも、馬は馬として生きるのだろうか」
    「さあ。僕は馬のことはわかりません」
    「馬には、白馬がいる。白い毛並みの馬だ。葦毛という馬の子は、この白馬になる」
     ルドルフは、アグレイアに語ったことをハロルドにも語る。
    「しかし、葦毛の親を持たない白馬もいる。突然この世に産まれることとなった白毛だ」
    「白馬の親は白馬なのですか?」
    「馬方は、そうだと言っていたがね」
     ルドルフは笑う。
    「うわさ話のたぐいさ。伝聞だ」
    「でも、おもしろい話でもあります」
     ハロルドの声は、見知らぬ国のことを聞かされた子供のそれに少し似ていた。
    「白馬の親は白馬」
    「その親を持たない白馬もいる。白毛という馬だ」
     ルドルフはハロルドの声に付け加える。
    「白毛は、本来であれば白馬にならなかった子供だ。しかし、そんな子供でも、葦毛の子のように白馬として生まれてくる」
    「親に似ない子供ですか。少し残酷ですね」
    「しかし、同時に可能性でもある」
     ルドルフは、自分の言葉にうなずく。
    「馬が白馬になるのなら、人間もまた変わらないはずなどない」
    「汚いだけの人間は、いませんからね」
     ハロルドは返す。そして付け加えた。
    「きれいなだけの人間も、いませんが」
     その声には迷いがなかった。
    「そうだろうな」
     ルドルフは、もう片方の闇に返す。千里の闇が部屋を支配している。千里の闇がハロルドを隠す。
    「そろそろ寝ようか」
     闇のなかでルドルフは言う。
    「明日は冬至だ。一年で一番日の短い日に、寝過ごしてはいけないからな」
    「そうですね」
     闇から声が返ってくる。ルドルフはその闇に言う。
    「おやすみ、ハロルド」
    「おやすみ、ルドルフ」
     闇が返す。ハロルドの声は普段のそれと何ら変わらない。それはハロルドが一日の終わりを実感として持っているからなのだろう。ルドルフは、眠るにはまだ少しの時間を要しているかもしれない。

     日が昇れば冬至である。
    「爺。るふまいは用意してありますね」
     朝食の席でアグレイアは老執事にたずねる。
    「用意してございます」
    「パンケーキを、いくつも」
     ハロルドが割って入る。
    「どれぐらいの方が来られますかね」
    「そう多くはありません。毎年、パンケーキは余るのですから」
    「そのパンケーキなのですが」
     ハロルドは老執事を見る。
    「爺殿には、失礼ですが、年齢というものがあります」
    「当然のものとして、そうだろうな」
     老執事は、うなずく。ハロルドはアグレイアを見た。
    「アグレイア様は、人を雇おうかと考えています。だとしたら、今日来られる方々に、その話をしてみてはどうでしょうか」
     ハロルドはアグレイアを見ている。アグレイアは、しばらくの沈黙のあとでうなずいた。
    「そうですね。それがいいのかもしれません」
     そう言ったあとでアグレイアは老執事を見る。
    「爺、構いませんか」
    「わたしも、お嬢様の強情なところは、少し持て余しておりましたからな」
     老執事は微笑する。アグレイアは笑った。
    「意地の悪いことを言うようになったものです」
     老執事は軽く頭をさげる。
    「ルドルフ様は、どうお感じですか」
     アグレイアはルドルフに笑みかけた。
    「そうですね。アグレイアさんには確かに強情なところがあるように思えます」
     ルドルフは、そう笑った。
    「みなさんが、わたくしのことをどのように見ておいでか、よくわかりました」
     アグレイアは平焼きパンを千切る。老執事も苦笑して平焼きパンを千切る。ハロルドもルドルフも。
     この日は冬至。一年で一番日の短い日。太陽は東の雲間から地上を覗き見していた。

       十三

     冬至のあいさつが終わったあとで、アグレイアを黄色い声が囲んでいた。女性は乙女であり、より正確に言うなら、かつては誰しもが乙女であった。
     ハーブティー、パンケーキ。だが、話の中心にいたのは、チェスター家で寝起きをしているという男性のことだった。
    「それで、アグレイア様の意中の方は、どちらですの?」
     ひとりの婦人が頬を紅潮させてたずねる。
    「さあ。どちらと仰られても」
     アグレイアは苦笑する。
    「マクマナス様は鳥の研究をされている方です。この地には鳥が多くいるとのことで、当家に滞在しておりますのも、その研究のためです。スナイダーさんは、旅をしながら詩をつくられていて、春になれば当家を去るおつもりのようです。そうなると、爺の負担が大きくなります。どなたか、当家で働く人を紹介していただけませんか」
     だが、婦人方はアグレイアの話を最後まで聞きはしない。
    「マクマナス様ですって」
    「春になると離れてしまいますのよ」
    「そう、そう。会えなくなると知っているからこそ、思いは燃え上がるものなのよ」
     黄色い声はアグレイアを抜きにして盛り上がる。アグレイアは微笑みを絶やすことなく、その場に座っていることだけしかできなかった。

     ご婦人方が帰られる。アグレイアは玄関先で顔馴染みの人たちを見送る。今年は知らない顔もいた。
    「アグレイア様、よいお年を」
     最後の婦人が軽く頭をさげて歩いていく。アグレイアは手を振った。婦人の影が並木道へと消えていく。婦人は、そこで振り返り、アグレイアにおじぎをした。アグレイアは微笑んで手を振った。
     客人の去った邸宅は静かだった。アグレイアは扉を開けてなかへと入る。暖炉の部屋へと向かえば、ハロルドがその片付けをしていた。
    「みなさん、帰られましたか」
    「少々気疲れをしました」
     アグレイアは苦笑する。
    「みなさん、お元気なことで」
    「元気があるというのは素晴らしいことですよ。元気がなければ冬を乗り越えられませんからね」
    「ルドルフ様は、どうされていますか」
    「部屋で難しそうな本を読んでいます。賢明な判断ですね」
     ハロルドは笑う。
    「呼んできましょうか」
    「いいえ。いまルドルフ様のお顔を見てしまうと、余計に疲れてしまいそうです」
     アグレイアは首を振る。
    「それよりも、パンケーキは余っていませんか。いま、わたくしは無性に甘いものが食べたいのです」
    「爺殿に聞いてみます」
     盆をテーブルの上に残したままハロルドは台所へ向かう。アグレイアは揺り椅子に座り、その座面にもたれた。
     今朝は、どのようなことがあっただろう。アグレイアには、朝が数日もまえのように感じられた。ああ、そうだ。爺はもう気落ちをしてはいないのだ。そう思うと、アグレイアの体をこわばらせていた力が抜けていく。そこへハロルドが戻ってきた。
    「パンケーキは、これが最後の一枚だそうです」
     ハロルドは、お皿の上に載せられたパンケーキをアグレイアに差し出す。
    「いつもの年よりも多く来られたようですね。爺殿も、そこまでは予想していなかったようです」
    「それは、わたくしもそうです」
     アグレイアは、お皿を受け取る。
    「人は、うわさ話が好きですね」
    「川の水とうわさ話は止められない。そんな言葉がありますね」
     ハロルドはアグレイアに笑みかけて、食器の片付けにもどる。アグレイアは小さく笑った。少し疲れたのかもしれない。パンケーキを食べよう。最後の一枚。だが、アグレイアはそこでふと思った。
    「スナイダーさん」
     アグレイアはハロルドに振り向く。
    「ルドルフ様は、パンケーキを食べてはいないでしょう。半分だけになってしまいますが、ルドルフ様にパンケーキを持って行ってあげていただけませんか」
     アグレイアは膝の上にお皿を載せたままで言う。ハロルドは口を開きかけ、それから笑みをつくった。
    「はたして、マクマナス様が甘いものを好きかどうか、僕にはわかりません。もしかすると、甘いものは苦手かもしれませんよ」
     ハロルドは微笑む。
    「アグレイア様が届ければ、いいのではないでしょうか。マクマナス様が苦手だと言えば、アグレイア様がパンケーキを独り占めできますから」
    「わたくしは、そのように幼くはありません」
     アグレイアは笑う。
    「それでも、そうですね。お客様が帰られたことをお知らせすることも大切ですね」
     アグレイアは揺り椅子に揺られる。アグレイアは考える。アグレイアは立ち上がった。
    「少々行ってまいります」
    「はい」
     ハロルドは食器を片付けながら返事をする。アグレイアは、お皿を手に客間へと向かった。
     台所のまえを通り、廊下を進み、客間のドアのまえに立つ。ドアをノックすれば、ルドルフの声。アグレイアはドアを開け、なかへと入った。
     ルドルフはパンケーキに首を振った。アグレイアさんが食べてくださいと言うだけだった。ルドルフは、椅子に座りパンケーキを食べるアグレイアを見ていた。アグレイアは少し気疲れをしたと苦笑いした。

     夕食の席になってもルドルフの様子はおかしかった。銀杏を手に冬至の言葉をアグレイアが言っても、ルドルフは上の空のようだった。ハロルドがルドルフに銀杏は平気なのかと聞いたときも、どこか気のない返事だった。
    「マクマナス様は、どうしたのでしょうね」
     食器を洗いながらハロルドは老執事に言った。老執事は、来客に疲れたのかもしれないと言う。ハロルドは、そうかもしれませんと返し、話はそれで終わる。
     暖炉の火を確認して、ハロルドは自分たちの部屋へと向かう。ドアを開ける。だが、ルドルフは声をかけてくることはなかった。
    「眠っているのですか?」
     ハロルドはロウソクを台に置く。
    「体調が優れないのですか?」
    「君のことを考えていた」
     ベッドに横になったままルドルフは返す。
    「なぜ君は、話の核心をつくことができるのだろうと考えていた」
     ルドルフの声は低い。
    「私は君に馬の話をした。あの話は、私なりに知恵をしぼったつもりだった。それなのに君は、たやすくそれを越えていく」
     ロウソクの灯りがルドルフの姿を浮かび上がらせる。ルドルフは、にらむようにハロルドを見ていた。
    「アグレイアさんのことでも、君は私の先を行く。執事とのあいだでさえ、君は私には真似のできない世界を築いている」
     ルドルフの目はロウソクの灯りのなかで燃えていた。
    「君は私を嫉妬させる。意図せずに君は私を嫉妬させる。私は、君ほど憎んだ相手はいない」
     ハロルドは何も返さない。黙ってルドルフを見ている。
    「私は、この家を去ろうと思う。このまま君の近くにいては、私の嫉妬は憎しみの色を強めるだけだ」
    「アグレイア様は、どうなりますか」
     ハロルドは返す。その声は静かだった。
    「あなたが僕に嫉妬するのは構わない。それは、あなたの都合だ。だが、あなたが言い寄ったアグレイア様はどうなる。アグレイア様の都合はどうなる」
     ハロルドはルドルフを見おろしていた。
    「あなたが言い出したことだ。この屋敷で暮らすと言い出したのは、あなただ。アグレイア様は、そのためにうわさされる始末だ。あなたが言い出したことのためにアグレイア様に迷惑がかかる。なんとも勝手な話だな」
    「君はどうなる」
    「僕は使用人だ。使用人として振る舞っている」
     ルドルフの異議にハロルドは鋭く返す。
    「あなたは毎日、何をしている。本を読んでいるだけだ。それが新しい何かを産むのであれば、誰も何も言いはしない。だが、自分の言い出したことの始末さえ満足にできない者に未来を切り開けるだろうか」
     ハロルドはルドルフを見おろしている。ルドルフは目をそらした。
    「僕は失望したよ」
     ハロルドは静かに言う。
    「ルドルフ・マクマナス。僕は失望したんだ」
     ハロルドは寝間着に着替える。
    「僕は君に期待をしていた。何か素晴らしくきれいなものを見せてくれると、僕は一方的な期待を君に押し付けていた。でも、そんなことを言うようでは、君に紙切れほどの値打ちはない。君の大切な本とともに過去へと成り下がるがいい」
     いつしかハロルドの声は荒いものとなっていた。
    「何が嫉妬だ。何が憎しみだ。笑わせてくれるね、ルドルフ・マクマナス。そんなもの、越えてみせろ」
     ハロルドはロウソクを吹き消す。
    「さよなら、ルドルフ。おそらく明日にでも消える者」
     ハロルドは夜具に潜り込む。布と布のすれる音がする。その音も、すぐに聞こえなくなる。
     ルドルフは目を開けたまま天井を見ていた。ハロルドがそこにいる。ロウソクの灯りのなかにハロルドの目が浮かび上がる。
     その目はルドルフを見おろしていた。小さな、取るに足りない生き物としてルドルフ・マクマナスを見おろしていた。

       十四

     日は昇る。夜は明ける。
     ルドルフは眠れなかった。眠れなかったルドルフは考え続けた。正確に言えば、ルドルフにはそれだけしかすることができなかった。
     ルドルフは闇のなかで考え続ける。ハロルドのこと、アグレイアのこと、老執事のこと。考え続けたルドルフは、次第にひとつの結論に至っていった。ルドルフは、そこから少しだけ眠った。チェスター家が目覚める。
     ルドルフがその短い眠りからさめたとき、ハロルドはすでに部屋にいなかった。ハロルドは灰かきを終えていた。ハロルドは水を汲んできた。老執事は平焼きパンと冬至のいただきものを食卓に載せる。昨夜の残りもの。
    「いただきましょうか」
     アグレイアは言う。アグレイアは残りものに手をのばす。老執事もハロルドも、それにならう。
    「今年も、もう残り少なくなりましたね」
     アグレイアは言う。老執事はうなずく。ハロルドは何も返さない。ルドルフは顔をあげた。
    「アグレイアさん」
     ルドルフの声は、少し渇いていた。それでもルドルフは言う。
    「爺殿も、ハロルドも、そのまま聞いてほしい。私は、新年を迎えるまえに、この家を去るかもしれません」
     ルドルフはアグレイアを見る。
    「朝からこのような話をして申し訳ないのですが、私は昨日、ハロルドと言い争いをしたのです。ハロルドに非はない言い争いです」
     ハロルドは食事の手を止めていた。うつむいて食器を見ている。
    「私は、正直に言いますと、ハロルド・スナイダーに嫉妬をしていました。人間は、自分よりも優れた者には嫉妬をするものです」
     老執事もまた何も話さない。黙ってルドルフの話を聞いている。
    「ハロルドは、私に到達できない解を簡単に導き出すことのできる人物です。私が熟考を重ねても、それを簡単に飛び越えてしまう人物です」
     老執事はうつむいている。ハロルドもうつむいている。アグレイアはルドルフを見ていた。ルドルフもアグレイアを見ていた。ふたりは、おたがいを避けておたがいを見ていた。
    「私は、もうひとつ正直に言うなら、ハロルドに野心がないことに嫉妬していました。私が望めないすべてを手に入れることができるにもかかわらず、それらのすべてに関心を持とうとしないハロルドに、私は嫉妬していました。あまりにも自分がみじめですからね」
     ルドルフは自らを笑う。アグレイアは小さくうなずいた。
    「私は、ハロルドを恐れていました。この何事にも関心を示さないハロルド・スナイダーが本気になれば、私は到底かないません。そして私は、あることでハロルドを強く恐れるようになったのです。それはアグレイアさん、あなたのことです」
     ルドルフは、そこで正面からアグレイアを見た。アグレイアは目をそらす。
    「私は、アグレイアさんの心をハロルドに奪われることが怖いのです。アグレイアさんを疑ってのことではないのです。ハロルドを疑っているわけでもありません。しかし、私のなかにはハロルドへの恐れと嫉妬が暗くよどんでいるのです。私は、もうそれを否定することができないのです」
     ルドルフは、そこでハロルドを見た。ハロルドはうつむいている。
    「ハロルド。君が悪いわけではない。おそらく君は君で苦心のなかを生きてきたのだろうと思う。しかし、君も人間なら、私もまた人間なのだ。だから嫉妬もするし、恐れもする」
     ルドルフの声は優しい。ルドルフは、そんな自分の声に気が付いて、自分で自分がおかしかった。
    「さて、本題に入らせてください」
     声を変える。明るい声。ルドルフは、ふたたびアグレイアを見た。
    「これから私が言うことに、アグレイアさんは何も答えないという選択肢もあります。唐突なことですし、結論を先延ばしにしてきたことでもあるのですから」
     ルドルフはアグレイアを見ている。アグレイアは視線をあげた。ルドルフを見る。
    「私は、アグレイアさんを学会に誘ったことがありました。知恵のある人は学会で発言するべきだと」
     アグレイアはうなずく。
    「私は、アグレイアさんの高い知性に惹かれていました。アグレイアさんと様々な話をして、それが楽しいのです。アグレイアさんとともにいると、とても楽しい気持ちになるのです」
     ルドルフは笑顔で言う。アグレイアは、そんなルドルフから目をそらしかけ、そんな自分に気付き、正面からルドルフを見た。
    「私はアグレイアさんに惹かれていきました。しかし、同時にアグレイアさんには他人に触れられたくない何かがあるということも、わかっていきました。私は、いつしかそんなアグレイアさんを守りたいと思うようになっていきました。アグレイアさんに安心という贈り物を差し上げたいと思うようになったのです」
     ルドルフは、まっすぐにアグレイアを見ている。ルドルフは微笑んだ。
    「アグレイアさん。私と結婚していただけませんか」
     ルドルフはアグレイアの瞳を見て言う。アグレイアは目をそらさない。まっすぐにルドルフを見ている。
    「アグレイアさんに話したくないことがあるのは、わかります。話せないことなのかもしれません。ですが、私たちは未来へと歩いていきます。未来は、まだ何も定まってはいません」
     ルドルフは、しかしそこでアグレイアから目をそらした。その目は虚空を泳ぎ、ハロルドにとまる。
    「私は以前、ハロルドに言われたことがありました。アグレイアさんは過去には生きていないと。私も、そう思います。アグレイアさんは後悔や悲しみのなかで生きてはいないと、私も思います」
     ルドルフは、ふたたびアグレイアを見た。アグレイアを見てルドルフは笑った。
    「ハロルドは、そういうことを見抜くことができるのですからね。私が彼を恐れる理由が、これでわかるかと思います」
     ルドルフは笑う。アグレイアも少し笑った。
    「だから私は、ハロルドから永遠にアグレイアさんを遠ざけたいと思ってしまったのです。それが昨夜のこと。ですが、それは最後のひと押しでしかなかったのかもしれません」
     ルドルフは、そこで考える。考えたルドルフは、自分の思い付きに笑った。
    「私は以前、私の両親の話をアグレイアさんにしたことがあったかと思います。冬至を寒いと言う父と、冬至を過ぎれば日は長くなっていくのだからと返した母。母もまた、父に求婚されたかと思うと、いまの私は十年後には笑い話でしょう」
     ルドルフは苦笑する。アグレイアも目を細める。
    「私は、そんな未来をアグレイアさんとともに歩んでいきたいのです。十年、二十年と、過去を笑いながら、一緒に同じ時間を過ごしていきたいのです」
     ルドルフは正面からアグレイアを見る。アグレイアはルドルフを見ている。アグレイアは微笑んでいる。
    「アグレイアさん。私と結婚してください。私とこの先十年、二十年を、一緒に過ごしてください」
     ルドルフはアグレイアの瞳を見て言った。アグレイアは、うなずいた。
    「ルドルフ様のお気持ち、とても嬉しいです。ありがとうございます」
     アグレイアは頭をさげる。
    「ルドルフ様は実直な方で、このようなときにも、それは変わりません。ルドルフ様は、きっとわたくしを大切にしてくださることと思います」
     アグレイアは頭をあげる。そこにはあの悲しげな笑みが浮かんでいた。
    「わたくしは、このような日が来ることを恐れていたのかもしれません。わたくしは、ルドルフ様の思われるような女ではないのです」
     ルドルフが見ている。アグレイアは、わずかに首を振った。
    「私は怖いのです。話せば私を見る目が冷たいものとなるのではないかと思うと、私は何も話せなくなってしまうのです」
    「話してください」
     ルドルフの声はかすれている。
    「私はハロルドに嫉妬しました。しかしハロルドを嫌っているわけではありません」
     ルドルフは優しく言う。
    「きれいなだけの人間はいない。きたないだけの人間はいない。これはハロルドに言われたことです。私も、そう思います。アグレイアさんに、きれいなところだけしかないと、どうして思えましょうか」
     アグレイアは何も返さない。首を振る。ルドルフはアグレイアを覗き込むようにして言う。
    「きれいなだけの人間はいない。きたないだけの人間はいない。これを聞かされて、私はハロルドに対する嫉妬を隠せなくなったのです。なぜハロルドは私の探そうとしている答えを簡単に導き出すことができるのかと」
     ルドルフの声は懇願しているかのようだ。アグレイアは、うつむいている。
    「私はハロルドに嫉妬しています。それは、いまもそうです。ですが、それが私という人間です」
     ルドルフはハロルドに視線を投げた。
    「ハロルドもまた、そうでしょう。彼には彼で思うところがあるはずです。爺殿にも」
     老執事をルドルフは見る。老執事もまた、うつむいている。ルドルフはアグレイアを見た。うつむいているアグレイア。
    「きれいなだけの人間はいません。もしもアグレイアさんが私の求婚に少しでも心を動かされたというのであれば、それを話してください。私には、それを聞く権利があります」
     アグレイアは動かない。沈黙。
    「アグレイアさん」
     ルドルフは言いかけた。しかし、これは間違いなのだ。食べたくないと言っている病人にスープを飲ませるようなことなのだ。だとしたら、やりようはある。
     ルドルフは笑顔をつくる。声色を変える。
    「それは、そうなのです。このままでは、私は大人しく引き下がることなどできないのですから」
     ルドルフの声は優しい。アグレイアは顔をあげる。
    「ずるいですね」
     アグレイアは小さく言った。
    「そうですね。ルドルフ様の仰るとおりです。話さないというわけには、まいりません」
     アグレイアも小さく笑った。
    「ルドルフ様はスナイダーさんに似てきたとお感じにはなりませんか」
    「同じ部屋で過ごすうちに、似てしまったのかもしれません」
     ルドルフは笑う。アグレイアは、うなずいた。
    「そうですね。スナイダーさんも、もう当家の家族のようなもの。聞く権利というものは、おありかと思います。もちろん、爺には言うに及ばないことですが」
     アグレイアは老執事を見る。老執事はうつむいている。アグレイアはうなずくと、ふたたびルドルフを見た。
    「お話しいたします」
     アグレイアは微笑む。そしてアグレイアは話し始めた。

       十五

     母がいる。青白い月明かりのなかに母が立っている。
    「私の父は、少し不思議な人でした」
     アグレイアは話し始める。
    「私が何か不思議を見付けると、その不思議について一緒に考えてくださる人でした」
     暖炉では薪が燃えている。暖炉のまえには揺り椅子。父は、その揺り椅子に揺られていた。
    「たとえば、これは科学的にもわかってはいないことなのですが、命の終わりに何があるのかという問いにしても、父はそれをわからないと言うのです。渡り鳥のように、こちらとあちらを行き来していると話して聞かせることはしないのです」
    「精霊の否定ですか」
     ルドルフが言う。アグレイアは首を振った。
    「否定というほど強いものではないのでしょうけど、わらないことに何か理屈をつけるということはしなかったように思えます。わからないことは、わからないのだと」
    「科学的ですね、ある意味において」
    「そうかもしれません」
     アグレイアは、うなずく。
    「父は、私に虫眼鏡を買ってくれました。イモムシが蝶になることを不思議に思った私に、父は虫眼鏡を買ってくれました」
     イモムシ。かつて聞いたその単語にルドルフは緊張を覚える。
    「虫眼鏡は、私に様々なものを見せてくれました。だから私は、使わないときは虫眼鏡をチェストのなかに入れて大切にしていははずなのです。ですが、ある日、そのガラスにヒビが入っていたのです」
     アグレイアの顔に暗い影がよぎる。
    「誰かが虫眼鏡を壊してしまったというわけですか」
     ルドルフは核心を避ける。
    「私は、それは母だと思ってしまったのです」
     アグレイアは静かに言う。
    「私は、確たる証拠もなしに、それを母がしたことだと思ったのです」
    「なぜですか」
     ルドルフはアグレイアを見る。
    「アグレイアさんは、意味もなくそのようなことを思う方ではないでしょう」
    「理由はあります。ですが、わかっていただける自信がありません」
    「話してみてください。私のハロルドへの嫉妬にしても、アグレイアさんにはわからないことなのかもしれませんよ」
     ルドルフは笑みかける。
    「私は、その理由を聞きたいのです」
    「そうですね」
     アグレイアは、小さく笑った。
    「話さなければ、何も始まりませんね。私は、本当は聞いていただきたいと思っているはずなのですが」
     アグレイアは、そこで考えた。ルドルフは次の言葉を待つ。はたしてアグレイアは言った。
    「ひとつだけ確かなことは、私が父に似たということです。物事に対する好奇心は、父に似たのでしょう。母の文化的な面には、あまり似なかったように思えます」
     アグレイアは話す。ルドルフはうなずく。
    「母に似なかった私に、母は楽器を習わせようとしたことがありました。ロズイーの家にチェンバロという楽器があったのですね。ですが、私はチェンバロをひくよりも虫眼鏡に興味があったのです」
    「それで、アグレイアさんの興味を楽器に向けるために、虫眼鏡のレンズを割ったということですか」
    「わかりません。母も虫眼鏡に興味を持って、触ってみたところ、落としてしまったのかもしれません。あるいは父が、あるいは家の者が。そのように考えてもしまうのです。ですが、私はやはり母を疑ってしまうのです」
    「そのことを誰かに、たとえば父君に話されたのですか」
    「いいえ、誰にも話してはいません。虫眼鏡は、いまもチェストの奥です」
    「父君は、そのことを不思議に思わなかったのでしょうか」
    「あきたと思ったのかもしれません」
    「わたしは」
     老執事が、少しかすれた声で割って入る。
    「お嬢様の関心がハーブに移られたものとばかり思っておりました」
    「そうですね。ハーブの話をするようになったのは、このときでしたね」
     アグレイアは老執事にうなずく。老執事は、またうつむいた。
    「ルドルフ様。何も確かなことはないのです」
     アグレイアは、ふたたびルドルフを見る。
    「虫眼鏡は、本当は私が壊してしまったのかもしれません。そのとき私が気付かなかっただけなのかもしれません。確かなことは何もないのです。ですから、これからお話しすることにも、確かなことはありません」
     アグレイアは目を閉じる。ゆっくりと呼吸をする。そしてアグレイアは目を開けて話し始めた。
    「月の照る夜のことでした。私は自室で眠っていたのですが、ふとなぜか目が覚めたのです。暗い部屋には月のあかりが射していて、私はそこに誰かがいることに気が付きました。そこには母がいました。右手にナイフを持った母が立っていました」
     アグレイアはルドルフを見てはいない。幻の母を見ている。
    「私は『お母さま?』と言いました。母は『寝なさい』と言って部屋を出ていきました。私は眠ることができませんでした」
     アグレイアは、しかしそこでルドルフに気付いたように現在に引き戻される。
    「子供ですので、眠れないなどということはありません。私は、いつのまにか眠っていたのですね。ですから、この記憶が本当のものだったのか夢だったのかは、わからないのです」
    「いつのことなのですか」
    「虫眼鏡のあとのことです。ハーブについて調べるようになったころですね」
     震えるルドルフの声に対してアグレイアの声は静かだった。
    「それが本当なのかは、わからないのです。夢だったのかもしれませんし、母は私の寝顔を見に来ただけなのかもしれません。ナイフは私の見間違いなのかもしれませんから」
     アグレイアは微笑む。
    「確かなことは、何もないのです」
     ルドルフは黙ってしまった。
    「母は、都会的な洗練された生活が理想だったようです。楽器もひけないようでは田舎者と笑われますと、そのように仰っていましたから」
     ルドルフは何も話さない。
    「母は、都会に憧れていたのでしょう。ですが、父は牧歌的な人です。そして私は父に似てしまった」
     ルドルフはうつむいている。
    「父は、おなかの病で亡くなりました。その五年後ですね、母は胸の病で亡くなりました。私は、もしかするとそれを望んでいたのかもしれません」
    「ですが」
     ルドルフは顔をあげる。言葉を探す。自分が何を言いたいのか、それはわからない。それでも言葉を探す。
    「それは仕方のないことではないでしょうか。誰しも、自分のことを守ろうとします。それがときには過大となり、争いに発展することもあります。ですが、自分を守るということが、いけないことだとは、私には思えません。きれいなだけの人間はいないのですから。いや、違う」
     ルドルフは首を振る。
    「私は理屈を言っている。違う。理屈ではない」
     ルドルフはハロルドを見る。ハロルドはルドルフを見ていた。まっすぐな目でハロルドはルドルフを見ていた。
    「ハロルド、君には答えがわかるのか」
     ルドルフはつぶやく。
    「私は、また君に及ばない。私は、また君に嫉妬する」
     ルドルフに苦悶の表情が浮かぶ。だが、そんな自分を否定するようにルドルフは首を振った。
    「だが、嫉妬とはなんだ」
     ルドルフは闘いを始めた。自分自身との闘い。
    「嫉妬すること自体が悪なのではない。嫉妬にこの身を奪われることが悪なのだ。であれば、嫉妬、それは私の核心ではないのか」
     ルドルフは独り自問する。
    「私はなぜハロルドに嫉妬するのか。負けたくないからだ。自分の大切なものを守りたいからだ」
     ルドルフは道を探す。暗闇のなかに一筋の道を探す。
    「私はハロルドに嫉妬する。それは、いけないことではない。人間に嫉妬はつきものだ。きれいなだけの人間はいないのだから」
     ルドルフは、そこでアグレイアを見た。
    「アグレイアさんもまた、きれいではないことを思ってしまったのかもしれない。だが、それはいけないことだろうか」
     ルドルフはまた首を振る。
    「違う。そこに答えはない」
     だが、ルドルフはそこで気が付いた。
    「答えがない?アグレイアさんが、そうではないのか」
     ルドルフは思考する。自分の考えを確認する。そしてルドルフはうなずた。
    「アグレイアさんは、ずっと答えのない記憶とともに生きていたのではないか?誰を責めることもせず、誰に打ち明けることもせず、そうしてひとり生きていたのではないか?」
     ルドルフは、まっすぐにアグレイアを見た。
    「アグレイアさんは、本当は名乗り出てほしかったのではないでしょうか。虫眼鏡を壊してしまったのは私だと。もしかすると自分が壊してしまったのかもしれないと思いながら、それでも言葉を待っていたのではないでしょうか。『ごめんなさい』と」
     ルドルフは静かな声で言う。ルドルフは、そこでアグレイアの目に気が付いた。アグレイアは、ドルフを見ていた。ドルフを見て、アグレイアは微笑んでいた。
    「わかりません。それは、わかりません」
     アグレイアは首を振る。しかし、アグレイアは微笑んでいる。
    「わかりませんが、私はいま、ルドルフ様の本当のお姿を見たような気がいたしました。ルドルフ様が、どのようなお人なのかを知ることができたように思えました」
     アグレイアは、そこで姿勢を正した。
    「ルドルフ様。先ほどのお言葉への返事を、私はまだしておりません」
     アグレイアは、まっすぐにルドルフを見詰める。ルドルフも姿勢を正す。
    「私は、このような女です。浅ましくも卑しい女です」
     ルドルフはうなずく。
    「このような私ですが、それでもよろしいのでしょうか」
    「私は、ようやくアグレイアさんに出会えたのです。ようやく本当のアグレイアさんの声を聞くことができたのです」
    「そうですか」
     アグレイアは目をそらす。しかし、ふたたびルドルフと向き合うと、深々と頭をさげた。
    「ふつつかな者ですが、よろしくお願いします」
    「こちらの方こそ、至らぬ点が多々ありますが、よろしくお願いします」
     ルドルフもまた頭をさげる。そしておたがいに頭をあげ、微笑みあった。
    「なんじ罪を負う者。その罪を分かつことなかれ。世に汚れなき者のなかりせば」
     突然、ハロルドが大きな声で言った。ルドルフはハロルドを見る。
    「君の詩かい、ハロルド?」
    「ふたりとも、爺殿の存在を忘れてはいませんか」
     ルドルフにハロルドは返す。
    「僕は、すっかり腹ぺこですよ。誰かと違って、働いていましたからね」
     言って、ハロルドはお皿の上で忘れられていた平焼きパンにかじりつく。
    「そうでしたね。長い話になってしまいました」
     そう言って、アグレイアも平焼きパンを両手に持つ。それをかじる。
    「このような朝は、このように振る舞う方が礼節にかなうのかもしれません」
     平焼きパンで口元を隠しながらアグレイアは言う。ルドルフは笑った。そしてルドルフも平焼きパンを両手に持って、それをかじった。老執事も平焼きパンをかじる。老執事は泣いていた。その顔には、ふたすじの涙が伝っていた。

       十六

     ルドルフは眠っていた。暖炉のまえの揺り椅子にもたれてルドルフは眠っていた。暖炉では薪が燃えている。アグレイアはテーブルの自分の席で編み物をしていた。
    「なんだか眠たくなってきました」
     朝食のあとで言ったのはルドルフだった。
    「ハロルドと口論になり、昨夜はあまり眠れなかったのです」
    「それは是非、聞いてみたかったですね」
     アグレイアは、そう笑った。
    「ルドルフ様、少し眠られるのでしたら、そこの揺り椅子をお使いください。古いものではありますが、座り心地のよい椅子ですから」
     アグレイアは暖炉のまえの揺り椅子をうながして言ったのだった。それにルドルフが答え、アグレイアが返し、ふたりは言葉を交わした。そしていま、ルドルフは揺り椅子にもたれて眠っている。アグレイアは編み物をしている。
    「いい夫婦になりそうですね」
     台所で食器を洗いながらハロルドは言う。
    「求婚のあとで眠ってしまうなんて、あとから言われますよ」
    「力が抜けたのだろうな」
     嬉々とするハロルドの声に対して、老執事のそれは感慨深い様子だった。
    「爺殿には、様々な思いがありそうですね」
     ハロルドは食器を洗う。
    「喜びも、寂しさも、後悔も」
    「わたしは、お嬢様のお声に気付くことができなかった」
     老執事はハロルドのかたわらに立っていた。いつしか食器はハロルドが洗うことになっていた。
    「代わろう。何もせずにいると、自責の念ばかりが強くなる」
    「このように、おめでたい日に、というわけですか」
     ハロルドは場所をゆずる。
    「僕は、すべてはいい方向にまとまったのだと思っています。おさまるべきところへ、おさまったのだと思います」
    「お嬢様は、長く苦しまれてきたのだ」
     老執事は食器を洗いながら返す。
    「わたしは、そのことに気付きもしなかった」
    「仕方がありませんよ。こういうことは、陰で行われるのですから」
     ハロルドは火鉢にあたりながら返す。
    「むしろ、アグレイア様の過去が、いまのアグレイア様を育てたのではないでしょうか。痛みを知らずに人は他人に寛容にはなれないものです」
    「それは理屈だ」
    「そうです」
     ハロルドは悪びれることもなく返す。
    「植物が生まれた土地を選べないことと同じです。アグレイア様は、このお屋敷で育ったのですからね。その人生につきまとう苦労は、当然でしょう」
    「それはそうではあるが。だが、詩人殿は、どうされたのか」
    「僕は、他者に寄りかからなければ生きていけない存在を生命と呼ぶ気はありません」
     自分に振り返った老執事にハロルドは言う。
    「心配と過保護は別物です。アグレイア様は、ちゃんと育ったじゃないですか」
     老執事を見るハロルドの目は、事務的に物事を片付けようとする役人のそれに似ていた。老執事は目を見開いてハロルドを見た。だが、ハロルドに初めて見るその表情は、肺いっぱいにふくらんだ空気が抜けるように静まっていった。
    「すみません」
     ハロルドは小さく言う。
    「昨日から僕は、どうかしているようです」
    「いや」
     老執事は返す。
    「詩人殿の言うとおりだ。お嬢様は、まっすぐに育たれた。それでいいのかもしれない」
     老執事は、また食器にもどる。
    「年をとると、欲張りになるものだな。お嬢様には幸せになっていただきたい」
    「そうですね」
     ハロルドはうなずく。ふたりはそれ以上語ることはしなかった。食器と食器が触れ合う硬い音だけがしていた。

     若いふたりは、あまり多くを語らなかった。言葉を交わさずとも、おたがいが相手と同じ空間にいるだけで充分という雰囲気が、ふたりのあいだには流れていた。
     アグレイアは老執事と話した。感謝の言葉、懐かしい思い出。ルドルフは、そこに身を乗り出すようなことはなかった。ルドルフは、それが自分の思い出であるかのように、ただうなずくだけだった。
    「ご苦労様」
     一日は終わり、火の確認をして引き上げてきたハロルドに、ルドルフはいつものように言った。
    「君を待っていた」
    「眠れそうですか」
    「さあ、それはわからない」
     ルドルフの声は笑っている。
    「嬉しくもあり、実感のない気持ちでもある。本当に今日の出来事だったのかとね」
    「一度、寝たことも理由でしょう」
    「そうだな。そうかもしれない」
     ルドルフは、しみじみと言う。
    「眠りとは不思議なものだ。いいことも悪いことも過去の出来事にする」
     ハロルドは何も返さない。ロウソクのあかりのなかで寝間着に着替えている。
    「一日は、眠りとともに終わるのだな」
     ルドルフはハロルドを見る。その先を言おうとする。しかし口を開いたのはハロルドだった。
    「昨日は、申し訳ありませんでした」
     ハロルドは、ルドルフに背を向けたまま言った。
    「ハロルド、それは私が言うべきことだ」
     ルドルフはハロルドの背に向けて言う。
    「どちらにしても同じことですよ」
     ハロルドはロウソクを吹き消す。あたりは真っ暗になる。その暗闇のなかでハロルドが夜具に潜り込む音がした。
    「僕はね、ルドルフ、君に言わずにいたことがあるんだ」
     布と布のすれる音がする。だが、すぐにその音もしなくなり、代わりにハロルドの声がした。
    「アグレア様の過去を、僕は知っていたんだ。知っていて、あえて君に言わなかった」
    「君は、この土地の出なのか」
    「いや、そうではなく」
     ハロルドは、そこで笑った。
    「ルドルフ、君はおそらく人を疑ったことがない。その必要がなかったからね」
     ルドルフは何も言わない。ハロルドは続ける。
    「僕にはそれが必要だった。アグレイア様にそれが必要だったように、僕にもまた過去はある」
    「君も?」
    「そう、僕もだ」
     ハロルドの声は静かだ。
    「親に似ない子供というものは不幸でね。子供にとっても、親にとっても」
    「アグレイアさんも、母君に似ることがなかった」
    「親はふたりいるのだから、どちらかに似ないことは当たり前なことなんだ。僕の場合も、そうかもしれない。しかし、問題はそこじゃないんだ、ルドルフ。問題は、似ていないということを相手がどう思うのかというところにあるんだ」
     ハロルドは静かな声で話す。
    「子供は多くの場合、親に逆らうことはできない。子供は、自分の能力でお金を稼ぐことはできないからね。だから親という存在は大きなものとなる。親が黒と言えば、それは黒になるんだ。たとえそれが灰色だとしてもね」
     ハロルドは、よどみなく言う。ルドルフは何も言わない。
    「人間には、様々な価値観がある。冬が好きと言う人と夏が好きと言う人とは、もしかすると分かり合えないのかもしれない。しかし、どちらが間違っているというわけではない」
     もはやハロルドのそれは独り言であるかのようだった。
    「分かり合えない人であっても、別々に存在できるのなら、何も問題はないんだ。問題は、ひとつの物の見方しか許されないというところにあるんだ」
    「都会的な価値観と牧歌的な価値観の相違か」
    「正しいものなど何もないのに、自分が正しいと来られてしまっては、それはもう分かり合うなんて無理な話なんだ」
     ルドルフの言葉にハロルドは返す。
    「アグレイア様の過去は、その分かり合えないという記憶さ。それは、頭ではどうすることもできない。ともすると信じてもらえない話だからね。言葉が通じない相手がいるということはね」
    「それは、わからなくはない。自分の学説を曲げずに現実から目をそらしていく研究者というものは、往々にしているものだから」
    「問題は、その徒労が子供時代に身内でおきてしまうという点さ。だからアグレイア様は、誰も信じることができなくなった。同じ徒労という恐怖を味わいたくなくてね」
     ルドルフは何も言えない。だが、ハロルドはなおも続ける。
    「それは不毛な世界だよ。たとえるなら、緑の消えた冬の大地さ。だけど、そんな冬にも芽をつける生命がある。その生命は冬の寒さに耐えるしかない。冬芽さ」
     ハロルドは、そこで言葉を切る。だが、ハロルドは、すぐにまた続けた。
    「アグレイア様は、よく耐えたのだと思う。ねじ曲がることもなく、立派に成長したのだと思う。それは、アグレイア様の生命力だ」
    「君は、どうなんだ、ハロルド」
     ルドルフは、この年の近い相手に言葉を投げかける。
    「君も、立派に成長したではないか」
    「僕は逃げ出しただけさ」
     ハロルドは自分を笑う。
    「僕は両親から逃げた。両親から距離をとることにした。そうして逃げた僕は、旅をしながら詩をつくり始めたんだ」
    「私は今日、初めて君の詩を聞いた。私は、あの詩が気に入ったのだが、ひとつ、文字にしてみてはくれないだろうか」
     ルドルフは闇のなかのハロルドを見る。
    「いくらかの対価は支払うから」
    「僕の詩を買うということかい」
     ハロルドの声が笑う。
    「ルドルフ、君が僕の初めての読者だ」
    「春までは、いるのだろう」
     ルドルフは、たずねる。
    「そのつもりかな」
     ハロルドは答える。
    「だとしたら、春までに私はまた対価を支払うに値する詩を聞くことができそうだな」
     ルドルフは姿勢を整える。
    「おやすみ、ハロルド」
     ルドルフは目を閉じる。
    「おやすみ、ルドルフ」
     声が返ってくる。聞きなれたハロルドの声。
     ふたりは、そこから言葉を交わすことはなかった。長い一日が終わろうとしている。ひとつの愛が芽吹いた一日。だが、ルドルフはまだ何も知らない。何かがこの土地に忍び寄っていることを。
     それはハロルドもアグレイアも老執事もまだ知らないことだった。だが、それは静かにその食指をのばしていた。だが、それはこの一日とは関わりのない別の何かだった。少なくとも、現時点の段階においては。

       十七

     馬は荒く呼吸をしていた。ランタンの灯りのなかで、横になった馬が荒く呼吸をしていた。
     サミュエルは綿布で馬の体をこすっていた。馬は寒さを感じていないのだろうか、その体には汗が浮かぶ。サミュエルは馬の体をこすっていた。
     この馬は食べることを拒絶した。ゆでたニンジンの香りすら嫌がった。この馬は水すら飲まない。
    「あなた、どうですか」
     お湯を持ってきた妻が聞く。
    「今夜が峠かもしれん」
     サミュエルは綿布をお湯にひたしてから、それをしぼった。馬はお湯のにおいすら嫌がる。サミュエルは、あたたかな綿布で馬の体をこすった。
    「頑張れ」
     サミュエルは馬の脇腹をこする。馬は楽になるのか、呼吸が落ち着く。
    「大丈夫だ。きっとよくなる」
     サミュエルは馬の体をこする。ランタンの灯りのなかでサミュエルの影が大きく動く。
    「おまえは、寝てくれ」
     綿布をお湯にひたしながらサミュエルは言う。
    「何日も、こんな夜が続くかもしれん。私は昼に少し眠るから、おまえは今のうちに寝ておいてくれ。トムにも手伝ってもらわなければいかんかもしれん」
     綿布をしぼって、サミュエルはまた馬の体をこする。馬は、少し力を抜いたように見える。
    「あなた」
     妻は言葉を口にしかけたが、その先に何を言えばいいのか、わからない。
    「火鉢を持ってきましょうか」
    「いや、ワラが燃えてしまう」
     夫は妻を見ることをしない。
    「寝ておいてくれ」
    「わかりました」
     妻は、自分の声が少しかすれていることに気が付いた。
    「それでは、私は少し休みます」
     そう言って妻は、しかし離れがたいものを感じていた。しかし、ここにいても夫の負担にしかならないことは、わかっている。しかし、夫のことも馬のことも気にならないはずがない。しかし、こんな夜がこの先も続くのだとしたら、休めるうちに休まなくてはいけない。
     葛藤に後ろ髪を引かれながら、妻は馬小屋を離れる。今晩は精霊に祈ろう。妻は思う。どうかあの馬を連れて行かないでくださいと。
     だが、そんな夜は長く続くことはなかった。馬は、次の朝を迎えることはなかった。それは冬至の翌日から翌々日にかけてのことだった。

     日は昇る。薄い雲のなかで太陽は鈍く輝く。
    「今年は、降りませんね」
     チェスター家の窓辺ではアグレイアが言う。
    「毎年、冬至のころは雪だったかと思うのですが」
    「年明けに降ることもあります。あまり降ってほしくはないのですが」
     となりのルドルフが言う。アグレイアは笑った。
    「ですが、降らなければ、夏はひでりとなるでしょう」
    「幸と不幸は表裏一体というわけですね。なかなかうまくはいかないものです」
     ルドルフは首を振る。
    「人間は、あまり欲張ってはいけませんね。しかし、そうも言ってはいられない理由もある」
     ルドルフはアグレイアを見た。
    「ハロルドは春になれば、この家を去るのですからね。私は、ハロルドには式に出てほしいのです」
    「それは、そうです」
     アグレイアはうなずく。
    「スナイダーさんがいなければ、私はまだルドルフ様に私のことを話せてはいなかったでしょうから」
    「ですから、年明けに私の両親に会っていただきたいのです」
    「ええ、もちろん」
    「それから、アグレイアさんのご両親にも、しっかりと挨拶をしておきたいのですが」
    「ルドルフ様は、本当にルドルフ様ですね」
     アグレイアは微笑する。
    「父は喜ぶと思います。母も、おそらくですが」
    「反対される結婚であってはいけませんからね」
    「精霊を信じておいでですか?」
    「信じていないなどとは言いませんが、科学が万能だと信じてもいないのです」
     ルドルフも微笑する。それが、ふたりの一日目だった。そしてそれが、この先二日目、三日目と続いていく。
     ルドルフは、それを想像することができた。それは、アグレイアもまたそうだった。チェスター邸は町のはずれにあり、まだそれはこの家にまで届いてはいない。
     ルドルフとアグレイアは、その日、チェスター家の墓前に参った。ふたりは新たな人生を歩み始めた。一歩一歩を着実に、同じ歩幅で歩き始めた。
     ふたりがそのことを知ったのは翌日のことだった。

     人は自分のことであれば怒りを我慢することができる。しかし他人のこととなれば、それは義憤というかたちで表に出てしまう。少なくともトマスという人物は、そのような人物だった。
     朝早くにサミュエルを連れてチェスター邸をたずねたトマスは、ぼそぼそと語るサミュエルをさえぎることはしなかった。サミュエルはアグレイアに申し訳ないと言った。せっかくの馬を死なせてしまい申し訳ないと言った。
    「それで、これからどうされるのですか」
     たずねたのはルドルフだった。
    「馬がなくては商いはできないでしょう。新しく馬を買われるのですか」
     だが、サミュエルは首を振る。
    「そんな余裕はありません。一頭の馬を養うにも精一杯だったのに、この上新しい馬というのは無理です」
    「ですが、商いをされていたではないですか。商いというものは、自分で値付けをするものです。いくらかのたくわえがあって、しかるべきでしょう」
    「自分で値段を決められるのなら、そうでしょう。しかし、新しく商売を始めた私のような者は、足元を見られるのです」
     ルドルフの疑問にサミュエルはぼそぼそと話す。
    「新参者は、それまでの値段をうのみにするしかないのです。売ってもらえなければ商売にならないのですから。高値で買っていたものを安値で買うことは、とても難しいことなのです」
    「それは、そうかもしれません。しかし、やりようはあるのではないですか」
    「仕入れ先を変えたり、こちらの商品を変えてみたり、色々とやりましたがね。大切なのは信用なのです。信用してもらうためには、それを続けなくてはいけない。だから、まだ数年は我慢と自分に言い聞かせてきたのですが」
    「その矢先に、ですか」
     ルドルフは天井を見上げる。ルドルフとともに話を聞いていたアグレイアは何も言わない。暖炉では薪が燃えている。
    「私は、ロズイーが絡んでいても驚きはしませんがね」
     沈黙を破ったのはトマスだった。
    「サムが商売を始めるまではロズイーから塩を買うしかなかった。サムは、あれこれ手をつくして塩の値段を下げてくれた。私はロズイーの見えない手がサムを追い詰めていったとしか思えんのですがね」
    「慣例というものは、あります。時間はかかるでしょう」
    「だからサムの馬を手にかけたわけです」
     自分を見たルドルフにトマスは挑みかかるような目で言った。
    「私は、バカなことだとは思っていません。ロズイーは、そういうやつらです。ですから、アグレイア様。アグレイア様が何も見なかったことにしてくださるのなら、私に考えがあるのですが」
    「短絡的な考えは危険ではないですか」
     アグレイアを見るトマスにルドルフが返す。
    「役人に目を付けられては、元も子もないでしょう。結局、ロズイー家が得をすることになる。違いますか?」
    「私らはロズイーに倍の値段の塩を買わされていたんだ」
     トマスのそれは叫びに近かった。
     台所から老執事が顔を出す。ハロルドもまた暖炉の部屋の様子をうかがう。ルドルフはトマスを見詰めていた。この視線は絶対にそらしてはいけない。そう自分に言い聞かせる。
    「失礼しました。私は、まだこの土地のことを知りません。そんな私が、知ったような真似をしました。申し訳ありません」
     ルドルフは頭をさげる。
    「塩は、生活に欠くことのできないもの。その塩を倍の価格で買わされていたとあれば、ロズイー家を信用できないというものでしょう」
    「そうよ」
    「しかし、事を荒立てれば役人に介入されるということもまた事実。問題は、馬をどうするのか、その点なのかもしれません」
    「いや」
     トマスはルドルフから視線をそらす。しかし、その声はもう興奮してはいなかった。
    「どうでしょう。馬が必要であれば、たとえば町全体が資金を出し合って共同運営するという方法もあります。株式会社というようですが、この場合、利益はみなで分け合うということになるので、誰かが一方的に損をするということはないと思いますが」
    「いや、ダメだ。そんなことをしても、またロズイーが邪魔をするに違いない」
     トマスはルドルフをにらむようにして見る。
    「私らはロズイーに倍の値段の塩を買わされていたんだ。そのことをロズイーの連中は、わびもしない。そんな連中を信用できますか?」
    「根の深い問題ですね」
    「あんな連中は、一度痛い目にあわせておかんといかんのです」
    「わかりました」
     そのとき、トマスとルドルフのやりとりに口をはさまなかったアグレイアが静かな声で言った。
    「私がロズイー家と話をしてきましょう」
     アグレイアはトマスを見る。
    「ロズイー家が許せない。心情としては、わかります。サミュエルに塩の値段を下げるようにと言ったのは、私なのですから。サミュエルには、そのために苦労をかけました。そのことは、申し訳なく思います」
     アグレイアはサミュエルに対して頭をさげる。
    「私にもう少し配慮というものがありましたら、サミュエルもこのように苦労はしなかったというもの。その意味では、これは私の責任でもあります」
    「いいえ、ロズイーです」
     トマスが異を唱える。
    「あくどい商売をしていたロズイーの責任です」
    「そうかもしれません。ですが、トマス、私は剣に対して剣を用いることはしたくないのです」
    「役人の介入を招くだけですからね」
     アグレイアの言葉にルドルフがうなずく。アグレイアもまたうなずく。
    「トマス。私には少し考えがあります。今回のこと、これまでのこと、これからのこと。トマス、私に任せてはもらえないでしょうか」
     アグレイアはトマスを見る。トマスは何も答えられない。
    「サミュエルも、よろしいですね」
     アグレイアはサミュエルを見る。サミュエルは黙ってうつむいているだけだった。
    「それでは、私は少々出かけてまいります」
     アグレイアは呼び鈴を鳴らす。老執事は、すぐそこにいた。
    「お呼びですか」
    「私は少々出かけてまいります。お客様たちのお相手をしてください」
    「私も行きます」
     ルドルフは立ち上がる。アグレイアを見る。アグレイアはルドルフに笑みかけた。
    「それは、とても心強いことです」
     アグレイアは歩き始める。彼女自身の足で。ルドルフがそこに連れ添う。
     ロズイー家、それはアグレイアが母と歩いた、かつての道だった。

       十八

     老執事は台所でお湯を沸かしていた。火鉢は使い込まれていて、すすけている。ハロルドは暖炉の部屋で、ふたりの人物の応対をしていた。
    「そうですか、サムさんはサミュエルさんというのですね。名前は聞いたことがあるのですが、たぶんはじめましてですね」
    「名前を知っているとは?」
     うつむいているサミュエルに代わってトマスが聞く。
    「アグレイア様から馬をいただいて、塩の値段を下げた方だと、そう聞いています」
     ハロルドはトマスに笑みかける。
    「なかなかできることではないですよね。ものの値段は、上げることは簡単ですけど、下げるのは難しいですから。手取りが減るということですからね」
     ハロルドはうなずく。トマスは何も返さない。ハロルドは構わずに続ける。
    「きっと、そういうことは、ずっと続いてきたのでしょう。アグレイア様のお父様は優れた方だったようですが、そのお父様でも触れられない何かだったのかもしれません。それをアグレイア様は変えた。たぶん、色々な反発はあったでしょうね」
    「どんなだ」
    「ロズイー家とは何度も話し合っていたみたいですね。町の人が言うには、それはロズイー家がアグレイア様に取り入ろうとしたと見られているようですが、ロズイー家の側からするとアグレイア様は面白くない相手ですからね。穏やかな話ではないことでしょう」
     トマスの問いにハロルドは悪びれることもなく返す。
    「アグレイア様も、ロズイー家とは関わりたくはないでしょう。もちろん、ロズイー家のしていたことは間違いです。でも、自分がロズイー家にうらまれていることに思いをきたさないアグレイア様ではないでしょうから」
     ハロルドは屈託なく言う。トマスは視線をそらした。
    「アグレイア様は聡明な方です。ですから、争いを避ける方でもあります」
    「旦那様に似られたんでしょうな」
     サミュエルがポツリと言う。
    「旦那様も不正や悪徳は嫌う方でした。しかし、それを他人に押し付ける方ではありませんでした。旦那様は、誰に言うこともなく、ただ行動で示すだけでした」
    「自分に厳しい方だったのですね」
    「強い方でした」
     サミュエルは、しみじみと言う。そこへ老執事がティーポットとふたつのティーカップを盆に載せて運んできた。ハーブティーの香りが花開く。
    「ああ、いい香りだ」
     力が抜けたようにサミュエルが言う。
    「ハーブのことをお嬢様に話したのは、私なんです。お嬢様は、お嬢様のままなのだなぁ」
     ティーカップにハーブティーが受けられる。サミュエルはその様子を見ていた。トマスもまた、その淡い琥珀色を見ていた。
     ハーブティーは何も言うことはない。ハーブティーは黙って微笑んでいるかのようだ。それはもしかすると誰かに似ているのかもしれなかった。

     町の中心部に近付くにつれ、建物は立派になってゆく。様々に商店がならび、それぞれが造りに工夫をこらしている。そんななかにあってロズイー家は、香ばしいような香りを漂わせていた。
    「これはコーヒーのにおいですね」
     ルドルフは言う。
    「最近は紅茶よりもコーヒーを楽しむ人がいるかと聞きましたが」
    「ルドルフ様は、飲まれたことがおありですか?」
    「ありませんね。あれを飲むと社会運動の加担者として見られかねません。先駆的と自称するようなものですからね。それでも、頭が冴える飲み物だとは聞きます」
     アグレイアの問いにルドルフは苦笑する。
    「そのうち、みながコーヒーを飲むようになるかもしれませんが」
    「それでも、いい香りです」
     そう言ってアグレイアは扉を開いた。ベルの鳴る音がする。大きなガラス窓から入ってくる光で店のなかは明るい。アグレイアは、この二階が吹き抜けになっていることを知っていた。
    「いらっしゃいませ」
     店の者が応対に出る。蝶ネクタイをしめた若い男性。
    「ロズイー商店へ、ようこそお越しいただきました。冷え込む日が多くなってまいりましたが、いかがお過ごしですか。あたたかい飲み物など、いかがでしょう」
    「アグレイア・チェスターと申します。本日はロズイーの方と少々お話をいたしたく参りました」
    「これは失礼しました。どちらの貴婦人かと思いましたら、チェスター家のアグレイア様でしたか」
     蝶ネクタイの男性は頭をさげる。
    「すぐに主人を呼んでまいります。それまで、そちらの席でお待ちいただけますか」
    「いいえ。少々込み入った話になりますので、あまり目立ちたくはないのです。本邸に案内していただけないでしょうか」
    「これはアグレイア様」
     間に声が入る。初老とおぼしき男性。この男性もまた蝶ネクタイをしめている。
    「こちらへ来られるのは珍しいですね。本日は、どのようなご用件でしょうか」
    「ロズイーの方と、内々の話をいたしたく参りました。本邸へ通していただけないでしょうか」
    「わかりました。こちらへどうぞ」
     初老の男性はきびすを返し、先に立って歩く。アグレイアはそのあとを臆面もなくついていく。そしてルドルフも。
     店舗と邸宅を分かつドアを抜け、廊下を渡る。邸宅は突然の訪問客に少しざわついた。アグレイアは胸を張って歩く。ルドルフもそれにならう。
    「こちらでお待ちください」
     通されたのは応接室だった。
    「すぐにフェルナンド様を呼んでまいります」
     初老の男性は頭をさげて部屋を出ていった。応接室にはアグレイアとルドルフ、そして四脚の椅子とテーブル。そのテーブルは、よくみがかれている。椅子も使い込まれていたが、つやがあった。
    「なかなか雰囲気のいい邸宅ではありますね」
     ルドルフは椅子を引く。
    「ロズイー家は、この土地一番の商家ですから」
     アグレイアは椅子に座る。
    「油断ならないというわけですか」
     ルドルフもアグレイアのとなりの椅子に座る。
    「しかし、アグレイアさんは凛としておいでで、私は別人を見る思いです」
     だが、アグレイアは返さない。まっすぐに正面を見ている。
    「緊張しておいでですか」
    「ルドルフ様、祈っていてください」
    「精霊がいるのだとしたら、私たちはアグレイア様のご両親の墓前にあいさつをしました」
     アグレイアの声にルドルフは応える。
    「道をそれるようなことはしていません。大丈夫、うまく運びますよ」
     ルドルフも正面を見ながら言う。正面には二脚の椅子。そして、その椅子と自分たちを分かつテーブル。と、そこへ高らかに靴音を響かせる誰かが近付いてくるのをルドルフは聞いた。
    「珍しいお客があったものです」
     声がした。ルドルフはドアの方を見る。開けられたままのドアに姿をみせたのは、自分よりも少し年上の恰幅のいい男性だった。
    「何もお出しせずに、失礼しています。なにしろ突然のご訪問でしたので。すぐに何か用意させましょう。コーヒーはいかがですか」
    「いいえ、何もいりません。そう長居をすることもないでしょうから」
    「そういうわけにもいかないでしょう。誰ぞある。コーヒーをふたつ持ってまいれ」
     アグレイアを見ることもなくフェルナンドはドアから家の者に呼びかける。それからドアを閉めた。
    「さて、どのようなご用件でしょうか」
     椅子に座ってから、フェルナンドはアグレイアを見て言った。
    「そのまえに」
     アグレイアはルドルフをちらりと見た。
    「私は、こちらのルドルフ・マクマナス様と婚約をいたしました」
    「それは、おめでとうございます」
     フェルナンドはルドルフを見る。ルドルフは軽く頭をさげた。
    「うわさは、かねがね聞いていました。鳥を調べているとか」
     フェルナンドは、そこでまたアグレイアを見た。
    「しかし、私はアグレイアさんが別の男性と結婚されると聞いていたのですが」
    「それは、スナイダーさんのことかもしれません」
     アグレイアは思い出すようにして言う。
    「スナイダーさんは旅人で、詩人で、冬のあいだ当家で働きながら詩をつくりたいと、そのように私どもの扉を叩かれました」
    「ああ、いえ、これは失礼しました」
     フェルナンドは笑う。
    「私はただ、自分の認識が違っていることを確認したかっただけなのです」
     フェルナンドに悪びれる様子はない。そこには落ち着きと、ある種の余裕があった。
    「事実の確認というものは大切でしてね。間違った認識で判断をくだしてしまうと、間違った結果を招くことになります。その結果、私どもは大きな損失をこうむることになる。それは、アグレイアさんはご存知のはずです」
     そのとき、部屋のドアがノックされて、盆を手にした侍女が入ってきた。香り高いカップをふたつ盆の上に載せている。
    「コーヒーでございます」
     侍女はふたつのカップをアグレイアとルドルフのまえに置き、一礼してから応接室を出ていった。
    「コーヒーを飲まれたことはありますか。いま流行りの飲み物です」
    「ちょうだいいたします」
     アグレイアはカップを手にする。そしてそれを飲んだ。ルドルフもコーヒーを飲む。
    「少々にがいですか」
     ルドルフは言った。
    「コーヒーのことは聞いたことがあるのです。頭の冴える飲み物だと聞きました。飲んだのは初めてですが、いい香りのする飲み物ですね」
    「砂糖を入れて飲みやすくしているのですよ。砂糖なしでは、薬でしかありません」
     フェルナンドはルドルフに笑みかける。
    「しかし、よい香りでしょう。この香りにつられて、ひとりまたひとりと客が来るものです」
    「どのような看板よりも有用というわけですか」
    「ご名答。そのとおりです。アグレイアさん、なかなかよい方と婚約されましたね」
     フェルナンドはルドルフからアグレイアに視線を移す。
    「アグレイアさんは時々現実的ではない判断をくだすことがありましたが、少し安心しました。なにしろ、アグレイアさんの判断いかんによっては、私どもも必要な経費というものを計算し直さなければならなくなるわけです」
    「そのことは、そうなのかもしれません。それでも、私は判断しなければならないこともあるのです」
    「アグレイアさん」
     さえぎったのはルドルフだった。
    「その先は私が言いましょう」
     ルドルフはまっすぐにフェルナンドを見る。フェルナンドもルドルフを見返す。テーブルの上にはふたつのカップがあった。応接室には、まだコーヒーの香りが漂っている。
     ここはチェスター邸とは違う。その思いがルドルフのなかで燃えていた。あのあたたかな暖炉の部屋に帰るのだという思いがルドルフを支配していた。
     ロズイー家の応接室、そこはルドルフにとって、あたたかさが感じられる空間ではなかった。

       十九

     つやのある椅子。磨き上げられたテーブル。そのテーブルの上のふたつのカップ。コーヒーの香り。
    「サミュエルという方をご存知ですか」
     ルドルフはまっすぐにフェルナンドを見て言う。
    「チェスター家で馬の世話をしていた方です。その馬をアグレイアさんにいただいて、塩の値段を下げた方です」
    「ええ、よく知っています」
     フェルナンドは笑顔で言う。
    「私どもは同業者には関心をはらっているものですからね」
    「その馬が死にました。そのことは、ご存知でしょうか」
    「いつのことでしょう」
     ルドルフの問いにフェルナンドは驚くことはなかった。
    「つい最近のことのようです」
     ルドルフはフェルナンドを見て言った。
    「では、まだ私の知るところではないというわけですか」
     フェルナンドは少し考えるようにして視線をそらす。そして、ふたたびルドルフを見た。
    「マクマナス氏がご存知かは知りませんが、サミュエルという人物は私どもの取り引きに横から割って入ったような者でしてね。しかし、こうなると少し困ることになりますね。商売というものは売り買いですから。サミュエルは一頭の馬しか持たないのですよ」
    「それは、自らの利益を削って塩の価格を下げていたからだと聞きましたが」
    「当たり前でしょう。わざわざ安く売る者がいますか?」
     フェルナンドはルドルフを笑う。
    「売る側にも売る側の都合があります。その都合を無視されては困りますな」
    「しかし、倍の価格の塩だったというではないですか」
    「それは、おおげさですよ。何割かは高かったことは事実ですがね。それでも払えない額ではない」
     フェルナンドは、いまやルドルフを見おろしていた。その目は冷ややかにこの世間知らずを見ていた。
    「商売というものは、利益の差です。馬をどのように維持していくか。荷馬車をいかにして走らせるか。雨が降ろうと風が吹こうと、切れ目なく商品を運ぶために何をするべきか。そこに対価が生じることは、当然のことでしょう」
    「しかし、塩です。生活に必要なものです」
    「買えない額ではないのですよ」
     反論するルドルフに、フェルナンドは落ち着いた調子で言った。
    「民衆というものは、甘やかせば永遠に甘え続けるものです。その民衆の声に応えていては商売は成り立ちません。サミュエルを見ていれば、わかることでしょう」
     フェルナンドは、もはや不機嫌を通り越して上機嫌ですらあった。フェルナンドはこの世間知らずに道理を説くことの楽しみを感じ始めていた。
    「サミュエルは一頭の馬しか持ちえない。当然でしょう。自らの利益を削っているのですからね。その結果がどうなるか。それは誰にでもわかることです。利益は当然あってしかるべき。違いますか?」
     ルドルフは何も返せない。黙ってフェルナンドを見ている。それでもフェルナンドは続ける。
    「サミュエルの馬は、これはもういないようですが、この馬はチェスター家からもらい受けた馬です。サミュエルは何の元手もなくこの世界に乗り込んできたのです。投資という、当然支払うべき対価を支払わずにサミュエルは商売を始めたのです。言い換えれば、いままさにそのツケを支払っているということですね」
    「ですから」
     そのとき、第三者が言葉を発した。その声はアグレイアのものだった。静かな、透き通るようなアグレイアの声だった。
     フェルナンドはアグレイアを見る。ルドルフもまたアグレイアを見る。アグレイアは、その視線を受けて言った。
    「ですから私は、このようにして厚かましくもロズイー家の扉を叩いたのです」
     アグレイアは、まっすぐにフェルナンドを見ていた。
    「ルドルフ様、ありがとうございました。ここからは私が話します」
     アグレイアはフェルナンドを見たまま言う。
    「私は、ロズイー家から馬をちょうだいするために参りました。若く元気ある馬をいただきに参りました」
     アグレイアの声は落ち着きを取り戻していた。その声にはチェスター家の当主としての響きがあった。だが、フェルナンドは、このチェスター家を見おろせる立場にいた。
    「どのような理由でそのようなことを仰るのか、ぜひとも聞いてみたいものですね」
     冷笑するフェルナンドの目は、アグレイアを見おろしていた。
    「理由は簡単なものです。私がルドルフ様と結婚をするからです」
     アグレイアは自分を見おろすフェルナンドの目を見上げるようにして言う。
    「私には、この土地で暮らす人々への責任があります。チェスター家に生まれた私は、その責任を果たしてきました。サミュエルに馬を与えたことも、またそうです。その私が結婚をします。それは、どのようなことを意味するでしょうか」
     アグレイアは、まっすぐにフェルナンドの目を見て言う。ルドルフは、いまや何も口をはさむことができなかった。
    「私はルドルフ・マクマナス様と結婚をいたします。私は厚かましい女です。その私が、もし、マクマナス家に馬をお願いしたとしたら、どうでしょう。ロズイー家の立場は悪くなるのではないでしょうか」
    「私をおどすつもりですか」
    「事実だけを申しております」
     アグレイアに悪びれる様子はない。フェルナンドは椅子にもたれた。
    「なるほど、そうきましたか」
     フェルナンドは腕を組む。フェルナンドは商人だった。彼は様々に物事を考えることのできる商人だった。沈黙がおとずれる。ルドルフは、そこに科学にも似た冷静さを見たような気がした。
     そんなフェルナンドが腕をほどく。アグレイアを見る。
    「もしも私が断ったら、どうしますか」
     その声は冷静なものだった。
    「私は、誰とも争いたくはありません」
     アグレイアの声もまた静かなものだった。
    「しかし、現にこれは争いですよ」
     フェルナンドは笑う。
    「祝福というものは自発的になされるものです。それを強要すること、これは争いではないでしょうか」
    「そうかもしれません。それでも、あえて無理を言わせてください。サミュエルに馬を、どうかお願いします」
     そう言って、アグレイアは頭をさげる。
    「そんなに安いものではないのですよ」
     フェルナンドは苦笑する。彼は商人だった。そして商人が信じるのは単純な数字だった。だが、その商人の血が、いま何かを感じ始めている。
    「先ほどは、失礼しました」
     声がする。今度は男性の声。フェルナンドがその方を見れば、ルドルフ・マクマナスがこちらを見ていた。
    「ロズイー家にはロズイー家の事情があるでしょう。私はそれをなおざりにして自分の都合だけを押し付けていました。申し訳ありません」
     そう言って、ルドルフは頭をさげる。
    「こちらの都合とは重々承知しています。それでも、人々の暮らしを楽にしたいという気持ちに偽りはないつもりです。ですから、サミュエルにどうか馬をお譲りいただけないでしょうか」
    「ご慈悲を、お願いします」
     ルドルフの言葉に重ねるように、頭をさげたままのアグレイアが言う。ふたりはフェルナンドに対して頭をさげていた。ふたつの頭がフェルナンドに対してさげられていた。
    「茶番ですね」
     フェルナンドは、このふたつの頭を見おろして言う。
    「子供がよくやることです。次はもうしないからと」
     おどけたようにフェルナンドは言う。ふたつの頭は動かない。
    「私にも子供がいますがね。子供の約束を誰が信じますか。同じことの繰り返しですよ」
     フェルナンドは苦笑する。ふたつの頭は動かない。
    「アグレイアさん、サミュエルはまた同じことを繰り返しますよ。またアグレイアさんに泣きつくのです。わかりきっていることではないですか」
     それでもアグレイアの頭は動かない。フェルナンドは今度はルドルフを見た。
    「マクマナス氏も、それはわかっているはずです。民衆というものは、絶えず不足を言うものです。不足しているのであれば自ら行動するべきところを」
     しかし、ルドルフの頭も動かない。ふたつの頭はさげられたままだ。
    「第一、本来ならサミュエルがこの場に来て頭をさげるべきでしょう」
    「私の一存です」
     アグレイアは返す。アグレイアは頭をあげない。ルドルフもまた頭をさげたままだ。フェルナンドは椅子にもたれた。
    「強情なことで」
     フェルナンドは、ため息をついた。
    「わかりました。頭をあげてください。本当のことを言いましょう」
     フェルナンドは、少し笑った。アグレイアが頭をあげる。ルドルフもまた頭をあげる。ふたりはフェルナンドを見た。フェルナンドは、それが少し腹立たしかった。
    「まったく、これですからね。だから腹立たしいというものなのです」
     フェルナンドはアグレイアに冷笑する。
    「正直なところ、サミュエルがこの先商売を続けようと、私は困らないわけです。この考えは、私自身は嫌いなのですがね。それでも事実として、私どもは塩の損失をコーヒーで補っているのです」
     アグレイアを見おろしながらフェルナンドは言う。
    「アグレイアさん、あなたの言う通りですよ。チェスター家への祝福として馬を一頭さしあげることはロズイー家の利益になります。反感を買われないという、消極的な利益ですがね」
    「ありがとうございます」
     フェルナンドの答えにアグレイアは頭をさげる。ルドルフも頭をさげる。ふたつの頭はそれぞれにさげられ、そろうようにしてあげられた。
    「矜持というものを持ち合わせていないのですかね」
     フェルナンドは、ふたりを見下すように言った。
    「まったく、お似合いの夫婦ですよ」
     フェルナンドは唾棄するように言ったあとで、反動をつけるようにして立ち上がった。
    「さっさと馬を選びましょう。こんなことに長々と付き合っていたくはありませんからね」
    「無理を聞き入れてくださり、ありがとうございます」
     アグレイアも立ち上がる。
    「まったくです。マクマナス氏は、本当にこんな人と結婚するのですか?」
     フェルナンドは立ち上がるルドルフに苦笑した。
    「少し考えてみようかと思っていまして」
     ルドルフも苦笑する。
    「ルドルフさん」
     アグレイアが子供をしかるように言う。フェルナンドは、はじけるように笑った。
    「まあ、いつまでもこんなことが続くとは思わない方がいいでしょうね」
     フェルナンドはドアを開ける。フェルナンドはアグレイアとルドルフの結婚の報をふれてまわる。フェルナンドは厩舎へと向かう。好奇の目が若いふたりに向けられる。その視線に祝福されてアグレイアとルドルフはフェルナンドのあとに続いた。

       二十

     チェスター邸の暖炉では薪が燃えていた。赤い火がゆらめいている。そんな火のまえには揺り椅子。アグレイアが座り、編み物をしたり本を読んだりする揺り椅子。かつては、その父が座っていた揺り椅子。
    「たしかに、旦那様は争いを避けられる方でした」
     暖炉のまえの揺り椅子を見ながらサミュエルが言う。
    「それは旦那様のいい面でもあり、悪い面でもあったのでしょう」
    「奥様は対照的に信念を曲げない方でしたな」
     老執事も揺り椅子を見ながら言う。
    「お嬢様の頑固なところは、奥様に似られたのでしょうな」
    「それもまた、いい面でもあり、悪い面でもあるのでしょう」
     サミュエルは遠い景色でも見るかのように言う。トマスは何もしゃべらなかった。ハロルドもまた何も言わなかった。
    「お嬢様は立派になられた。旦那様を亡くされて、奥様も亡くされて、それでもお嬢様は私たちのことを気にかけていてくださる。馬一頭が何だというのか。またやり直せばいい」
    「おそらく、お嬢様も様々に傷付いてこられたのでしょう」
    「お嬢様が率先して歩かれているというのに、そのお嬢様より年を重ねた私があきらめてしまっては申し訳がないというものです」
     サミュエルは自らを鼓舞して言う。
    「お嬢様があきらめな限り、私があきらめていいはずがない。お嬢様が一度でも身勝手だったことがあるだろうか。生きている限り終わりはない。またやり直せばいい」
    「ですが、ほどほどにしてくださいね」
     そのとき、アグレイアが声をかけた。少し太い声のアグレイア。声色を変えた老執事。だが、それはどうしても年の差を感じさせるものでしかなかった。
    「いや、失礼。お嬢様ならそう仰ると思いましてな」
     老執事は平静をよそおうが、その耳は赤い。
    「僕はいま、とても珍しいものを見ました」
     ハロルドは、驚きのあとで次第にこみあげてくる笑いをこらえながら言う。
    「爺殿にも茶目っ気があるのですね。僕は好きですよ」
    「詩人殿に好かれたいとは思っておらん」
    「トマスさん、これは僕たちだけの秘密ですよ。よそに漏らしちゃいけません。たぶん、もう二度と見られない景色です。信じてもらえない光景ですし、爺殿は恥ずかしさで身もだえてしまいますから」
    「わかっておるなら、あえて言うでない」
     老執事は鋭い目でハロルドを見る。
    「こんな一面があったとはね」
     トマスが放心したように言う。
    「チェスター家は、もっと取っ付きにくい印象があったんですがね」
    「爺殿と僕は、ふたりでパンケーキのつまみ食いをした仲ですからね」
     ほがらかにハロルドが返す。
    「アグレイア様も、そのことは知っていますし、みんな同じ人間ですよ。間違いもするし、落ち込みもするし」
    「そうでしょうね」
     返したのはサミュエルだった。
    「間違いもするし、落ち込みもする。しかし、そこで終わりではない」
    「僕たちは生きていますからね」
     ハロルドが返す。サミュエルは、ゆっくりうなずいた。
    「そうですね。生きている限り、やり直しはできる。失敗はない。そこから何を学ぶかだ」
     サミュエルは肩に力が入っていたことを自覚したのだろう。その力を意図して抜いた。
    「お嬢様は、どうされているだろう」
    「そろそろ帰ってくるかもしれません。ひらりと馬の背に乗って」
     笑顔でハロルドは言う。
    「詩人殿のお嬢様の印象は、どのようなものなのか」
     老執事が首を振る。
    「でも、アグレイア様は思い切りのいい方ですよ」
     ハロルドは悪びれる様子もなく返す。老執事は苦笑した。
    「そうだな。そんなお嬢様に考えがあるというのだ。わたしたちは信じて待つことしか、できんのかもしれん」
     老執事は揺り椅子を見る。ハロルドもサミュエルも、トマスも揺り椅子を見る。揺り椅子の主は、ここにはいない。だが、その主は帰ってくる。その足音が一歩また一歩と近付いてくる。四人はそこに、ひづめの音を聞いていた。

     その馬の毛色は黒かった。その馬の毛並みには、つやがあった。その馬は手綱をとるルドルフに大人しくついてきた。
     ひづめの音が同じ調子でつづく。馬は人に驚くことがなかった。馬は誰かに話しかけられても驚くことはなかった。
    「アグレイア様、どうしたんですか、その馬」
    「ロズイー家からいただいたのです」
     ルドルフのとなりを歩きながら、アグレイアは同じ質問に同じように答えた。ルドルフも会釈で返したのだが、馬はそれを驚かない。
    「いい馬ですね」
     町のはずれまで来たところでルドルフは言った。
    「人に驚かないというのは、馬車馬として一番です。毛並みもいい。栄養状態がいいということです」
    「ルドルフさんは、くわしそうですね」
    「鳥もまた、そうですからね」
     手綱をひきながらルドルフは歩く。
    「鳥も、羽根でその鳥の栄養状態がわかるというものです。栄養状態が悪くなると、羽根につやがなくなる。これは人間にも当てはまることなのですが」
    「そうでしょうね。なんだか、いつものルドルフさんみたいです。少し安心しました」
     ルドルフのとなりを歩きながらアグレイアは笑う。
    「ルドルフさん、まるでスナイダーさんのように仰るときがあって、私は少し心配していたのです。ルドルフさんはルドルフさんなのにと」
    「私は未熟な人間ですからね。ハロルドなら、こういうときどう言うのかと考えて、感情的になりそうな自分を制御することにしたのです」
    「ですが、それではルドルフさんではなくて、スナイダーさんになってしまいませんか」
     ルドルフとともに歩きながらアグレイアは言う。
    「それでは、私はどなたと結婚をするのか、わからなくなってしまいます」
    「アグレイアさんは変わりましたね」
     手綱をとるルドルフはアグレイアに振り向けない。まっすぐ前を見て言う。
    「強くなりました」
    「そうでしょうか」
    「強くなりましたよ。以前は、あまり自分から前へ出るということがなかったように思えます。自分の考えを表に出さないところがありました」
    「そうでしたか?」
    「そうですよ」
     前を見たままでルドルフは笑う。
    「だから私はハロルドに嫉妬していたわけです。ハロルドのまえではアグレイアさんも気を楽にしているように見えて」
    「そうですか?でも、そうかもしれません」
     アグレイアも、まっすぐ前を見たまま返す。森が見える。見慣れていた森。
    「スナイダーさんは不思議な方ですね。ひと月まえまでは知らない人でしたのに、いまではずっと以前から知っていた方のような気がいたしますから」
    「スナイダーさん?」
     ルドルフは馬を見た。馬は大人しくついてくる。
    「ハロルドはスナイダーさん。ハロルドさんにはならないのですね」
    「当たり前です」
     アグレイアは微笑する。
    「私がどなたと結婚をするのか、ルドルフさんはご存知ないのですか」
     アグレイアは空を見上げる。空は曇っていて、それでも雨が降るほどではない。その空に向かって背の高い並木たちが腕をのばしている。
    「この馬に鞍がないことが残念ですよ」
     ルドルフは馬を見たまま言う。
    「鞍があれば、アグレイアさんを乗せて駆けて帰るところを」
    「まあ、おてんば」
     アグレイアは驚いたように言う。そしてアグレイアは笑った。
    「今夜は私、気を付けなければいけませんね」
    「ハロルドに付き合ってもらいますよ」
     ルドルフは返す。
    「ハロルドは、おそらく付き合ってくれるでしょうから」
    「そうですね。スナイダーさんなら、いい話し相手になってくれるでしょうね」
     アグレイアは、なんだかそれが納得できた。アグレイアには、なんだかルドルフとハロルドが血を分けた兄弟のように思えるときがあった。であるとしたら、この場合はどちらが兄で、どちらが弟なのだろう。
    「ルドルフさんとスナイダーさんは、実は遠縁の親戚だったということはないですか」
    「さあ、どうでしょうね。私も、そのような気がすることがあります」
     アグレイアの問いにルドルフは笑いながら返す。
    「でも、おそらく違うのでしょう。ハロルドは、おそらく誰に対しても、ああなのだと思います。相手の心のなかに入っていくことができる、おそらくそれは彼の資質なのでしょう」
    「そうですね。スナイダーさんは不思議な方ですから」
     だが、そこでアグレイアはふと何かを思った。アグレイアがルドルフに遅れる。アグレイアは立ち止まった。
    「そうです。そうなのです。不思議なのです」
    「どうしたのですか?」
     ルドルフも歩みを止める。馬もまた歩みを止める。ルドルフは馬とともにアグレイアに向き直った。アグレイアはルドルフが手綱をとる黒い馬を見ていた。
    「私がその馬をいただくことになったのは、サミュエルが馬を失ったからで、それがルドルフさんの想いをお受けしたことと無関係ではありません」
    「そうですね」
     馬が首を振る。ルドルフは馬の首をなでる。馬は、たわむれに首を振っただけのようだった。ルドルフは、またアグレイアを見る。アグレイアは考えていた。何かまだ見えない答えを探すかのように考えていた。
    「私がルドルフさんと婚約しましたのは、ルドルフさんに私のことを話すことができたからです。ですから、あのとき、ルドルフさんに私のことを話していなければ、私はルドルフさんと婚約することはできなかったかもしれません。そのルドルフさんは、前の日にスナイダーさんと言い合いになったのでしたね」
    「そうです」
     自分を見たアグレイアにルドルフはうなずく。アグレイアもうなずく。
    「私は、いつかはルドルフさんと結婚をするのだろうと思っていたのです。ですが、それがいつのことなのかは、まだ先のことのように感じてもいたのです。もしも、そうしてルドルフさんとの婚約を先延ばしにしていたら、私は私の婚約を理由にロズイー家から馬をいただくということは、できなかったのです」
     アグレイアは黒い馬を見た。
    「何かが少し遅れただけで、この馬は、まだロズイー家の馬屋につながれていたのですね」
    「運命論でしょうか」
    「そうではないのです。そうではないのですが、ひとつひとつが積み重なっているのだと、そのように思ったのです」
    「そうですね」
     ルドルフは馬を見る。馬は暴れるようなことはない。
    「ロズイー家は商人の家でした。損得を考える商人が素晴らしい馬を用意したのは、それがロズイー家の宣伝となるためでしょう。つまり、それだけアグレイアさんが人々に慕われているということなのだと思います」
     ルドルフはアグレイアに笑みかける。そしてルドルフは、ゆっくりとその場で馬を旋回させた。
    「人慣れしている、いい馬です。この馬を手放すのです。ロズイー家にとっては、そうするだけの価値があるということなのでしょう」
     ルドルフは、またゆっくりと歩き出す。馬は、ゆっくりとついてくる。アグレイアもまたルドルフのとなりを歩く。ルドルフは、そんなアグレイアに振り向くことなく言った。
    「ロズイー家にそう思わせたのは、アグレイアさんの積み重ねてきた日々が人々のあいだに根を張っていたからでしょう。自分勝手に生きている者に馬を譲ろうと思う者は、おそらくはいないでしょうからね」
    「そうですね。そうなのかもしれません」
     アグレイアはルドルフを見た。ルドルフは、まっすぐに前を見ている。
    「アグレイアさん、幸せになりましょう。ふたりで幸せを築いていきましょう」
    「はい」
     ルドルフの言葉にアグレイアは、そう返す。自分でも驚くほどに素直な声。
     ルドルフが歩いていく。並木道をルドルフが歩いていく。そのとなりを自分もまた歩いていく。この先も、その先も。アグレイアには、それがとても自然なことのように思えた。
     ――私は、この人と結婚をする。
     アグレイアは前を見る。森がある。森を背にして住み慣れた家が建っている。父と暮らした家。母と暮らした家。
     馬をひくルドルフとともに、アグレイアは住み慣れた家へと歩んでいく。自分の暮らしてきた家。自分たちの暮らしていく家。十年、二十年が、そうして流れていくことだろう。
     森を背にして住み慣れた家が建っている。父と暮らした家。母と暮らした家。自分たちの暮らしていく家。家は、森を背にして微笑んでいるようにアグレイアには見えた。

    了

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

     
     
    ペンタックスが好きです。 その控え目なところや、まっすぐなところが好きです。 上手く立ち回れないところに自分を重ねているのでしょう。 だから、私はペンタックスが好きです。

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