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もしもクマに出会ったら?

 国土の七割を占める山。その山の合間を縫って流れる川。
 私の暮らしているところは、山と川にはさまれています。川は滔々と流れています。山は高くはありませんが、その先もまたその先も、延々と続いています。
 そんな山にクマが出たというウワサが立ったのは、これから書くことの前年のこと。出所のわからないウワサは、早朝散歩組のあいだでもささやかれました。早朝に写真を撮る私も、そのウワサを耳にします。私は、あまり住宅地から離れないようにと用心をすることにしました。
「見間違いだよ、きっと」
 早朝の散歩ですれ違うおじいさんは、そう笑ったものです。ほがらかに笑う、おじいさん。ですが、私は用心深い性格。
「何かあったらイヤなので、住宅地から離れないようにしてるんです」
 ですが、クマのウワサは、それ以来聞かなくなります。やがて秋が来て冬になり、雪が積もり、雪が溶け、そうして桜が咲きます。私は山に桜を撮りに行きました。クマのウワサが再び流れたのは、桜が散ったころのこと。
「木の上から黒い何かがドサッと落ちた」
 そんなウワサが流れたのです。目撃されたのは山のなかの墓地の近く。それは私が撮った桜から少し行ったところでした。
 それでも墓地は、人里から離れたところにあります。もしクマがそれ以上里におりてこないのなら、住宅地のあたりは安全かもしれません。ですが、用心はして悔めということわざもあるのです。
 私は早朝散歩のルートを変えることにしました。なるべく人家のそばを通るようにしたのです。4Gの携帯電話も、すぐに手にすることができるようにしました。
 クマのウワサは、それ以来耳にすることはありませんでした。それでも私は人家のそばを歩きます。
 私の暮らしているところは山と川にはさまれています。その山と川のあいだに住宅地がひろがり、周辺には畑と田んぼ。私は田んぼのそばにも行くようになりました。田んぼの写真を撮るようになりました。
「今年のお米は高くなりますよ」
 時折顔を合わせるようになった農家の方が言います。
「物価が上がってますからね」
 私は、そう返しました。
 季節は初夏を越え、梅雨を飛び越え、夏は朝から容赦をしません。
「稲を暑さから守るために、田んぼに水を張ってください」
 そんなニュースが流れました。
「水を張るってなっても、水の使い過ぎで川の水位が下がったら困るんですけどね」
 農家の方は言います。
「ここらは海から潮があがってくるから、取水口を高くするしかないんですよ」
「潮?河口から十キロは軽く離れていますよね」
「もう少し上流まで川の底を潮があがってくるんですよ」
 驚いた私に、農家の方は当たり前のように言います。風がそよぎます。でも、それは涼しいものではありません。
 そんな夏も、暑中見舞いが残暑見舞いになり、彼岸花が紅の自己主張を始めると、朝は過ごしやすい時間となります。夏のあいだ姿を隠していた朝露も、そこかしこで輝くようになります。いよいよ稲刈りです。
 私はカメラを片手に、田んぼに通うようになっていました。田んぼでは稲穂が金色に育ち、次第次第に頭を垂れていきます。稲刈りは今日だろうか、明日だろうか。私は田んぼへと歩いていきます。すると、私の目の前、ほんの数メートル先の稲穂のなかから何かが一瞬だけ顔を出したのです。
 黒い顔。正確には頭頂部。私はその黒い頭が姿を隠した田んぼを見詰めながら後退します。田んぼは見間違いだと言いたげに静かです。ですが、私はその映像をはっきりと記憶していたのです。黒い頭、そして三角形の犬のような耳。
 クマだろうか。しかし、クマの耳は三角形だろうか。田んぼは静かなままです。有明の三日月がそれを見ています。私には正解がわかりません。私は来た道を引き返します。その道は堤防沿いの道でした。そして堤防を、田んぼの側から住宅地へと歩いてくる女性がいたのです。この女性は何かを見ていはしないか。私は堤防への階段をのぼりました。
「おはようございます。すみません、相談にのってください」
 私は携帯電話を手にしたまま女性に話しかけました。
「そこの田んぼで黒い何かを見ました」
「見てました。後ずさったでしょう。何かいるんだって思いました」
 女性は返します。少しうわずった声。私は携帯電話を握ったままたずねます。
「一瞬だけなんですが、耳が見えました。耳は犬のように三角形をしていました。山にクマが出たと聞いたことがあります。クマの耳は三角形でしょうか」
「クマは、どうかしら」
 女性は考えます。
「クマの耳は丸ような気がしますけど」
「そうですよね。クマじゃないのかもしれませんね。でも、何かがいるんです。この場合、警察に連絡した方がいいですかね」
「さあ、ちょっと、それはわからないですね」
 困ったように女性は笑います。私は、それで私とこの女性が同じことを考えていることがわかりました。おおごとにしたくないのです。少なくとも自分の責任の範囲では、何事もない方がいいのです。
「ありがとうございました。もう少し考えてみます」
 私は軽く頭を下げました。
「何もないといいですけどね」
 女性も軽く頭を下げて、歩いていきました。残された私は田んぼを見ます。田んぼは、そんなことなんてなかったと言いたげに静かです。
 私は携帯電話を握りしめたまま考えます。クマではないのかもしれない。クマの耳が丸いのなら、三角形の耳はクマではないのかもしれない。それでもクマだとしたら?
 クマが出たというウワサは怖いものなのです。そんなウワサを広めてもいいものなのだろうか。私には、それがわかりません。私は、クマのウワサのために山へ行かなくなりました。森、下草、シダ、それに雷の落ちた木。私はクマのウワサのために、そんな写真を撮らなくなったのです。
 ですが、田んぼには何かがいます。ですが、警察に電話をすると、とても大きな話になってしまうかもしれません。ですが、誰かが襲われてからでは遅いのです。
 そのとき、聞き覚えのある声がしました。振り返ると、早朝散歩ですれ違うふたり組が、何かを話しながらこちらへと歩いてくるところでした。
「おはようございます」
 ふたりは私を見付けて挨拶をしてきます。
「おはようございます」
 私も返します。それでも私は、あの田んぼが気になってしまいます。
「どうしたの?」
 そんな私に気付いて、ふたりのうちのひとりが聞いてきます。
「あそこの田んぼなんですが」
 私は例の田んぼを指さします。
「さっき、あの田んぼの近くへ行ったんですね。すると、黒い何かが一瞬だけ顔を見せたんです」
「なに、クマ?」
「クマかどうかは、わかりません。三角形の耳をしてました」
「三角形じゃ、クマじゃないんじゃない。クマの耳は丸いでしょ。ねえ?」
「クマは丸いわよ」
 もうひとりが返します。
「でも、何かがいるんです」
 私は、どうしても心配をなくすことができません。
「あの田んぼには近付かない方がいいと思います」
「そうね。気を付けるわ」
「教えてくれて、ありがとう」
 ふたりは歩いていきます。田んぼと川のあいだに緩やかな弧を描く堤防を歩いていきます。田んぼは静かなままです。田んぼは、ふたりに襲いかかることはありません。
 私の手のひらで、携帯電話は硬さを語っていました。私はまだ、警察に連絡するべきか迷っていたのです。
 と、そのとき、私は田んぼのそばに人影を見ました。私が黒い何かを見たところから対角線のところに白髪頭の人がいるのです。白髪頭の人、農家の方。
 農家の方は稲の様子を見ているようです。あの人は田んぼの異常に気付いているのだろうか。今年のお米は高くなると言った人。潮があがってくるから取水口が高いと言った人。春に田を起こし、水を張り、苗を植え、その成長を見守ってきた人。
「この時間が一番綺麗なんですよ」
 東の空に昇る朝日を見ながら言ったその人に、私はうなずいたものでした。そんな人が毎朝様子を見ていた田んぼは、いま収穫の時期を迎えています。ですが、そんな田んぼには黒い何かがいるのです。
 あの人に知らせなくては。私は携帯電話を握ったまま階段をおります。あの田んぼを迂回して早足で歩きます。農家の方は田んぼの片隅にいます。私は歩きます。角を曲がり、正面に農家の方を見ます。あと百メートル。あと五十メートル。あと少し。
 そのとき、声をかけられそうなほどに近付いた私に農家の方が言いました。
「危ないですよ。さがってください。イノシシがいます」
「イノシシですか」
 私は立ち止まります。見ると、風にそよぐようにして稲穂が揺れ、その合間から黒い何かが顔を見せました。
「さがってください」
 農家の方は片手で私をさえぎるようにして後ずさります。イノシシは私と出くわして対角線に逃げたのでした。その逃げた先で人間の声を聞いたイノシシは、何かに追われているかのように垂直に跳びました。黒い巨体は稲穂の高さもある田んぼのへりよりも高い電気柵を跳び越えます。一メートル近い跳躍。イノシシはそのままとなりの田んぼに突入しました。稲穂が揺れます。
「あいつら、電気柵も関係ないのか」
 農家の方がイノシシの跳び込んだ田んぼを見ながら言いました。
「さっき、田んぼのあっち側で黒い何かを見たんです」
 私は言いました。
「イノシシだったんですね。クマじゃなくて、よかったです」
 田んぼは広がり、それは弧を描く堤防まで続いています。そんな田んぼを見おろすように、有明の空には細い三日月。
 イノシシは、その後、田んぼを突っ切って堤防へと駆けあがり、川の方へと逃げたそうです。クマではなかったと知らせるために堤防にもどった私に、堤防を歩いていったふたり組は興奮したように聞かせてくれました。
 ただ、あの黒い何かが本当にクマだったとしたら?という「もしも」が残ります。あるいはイノシシが興奮のあまり農家の方や私や、堤防を歩いていたふたり組を襲っていたとしたら?
 ――用心はして悔め。
 やはり警察に知らせるべきだったのです。少なくとも警察に相談するべきでした。
 それでも誰も怪我をしなかった幸運を、有明の空に三日月を見るたびに私は思うのでした。あの晩夏の田んぼの上に淡くなりながらも残っていた有明の三日月を思い出すたびに。
 ――もしもクマに出会ったら?

#創作大賞2026 #エッセイ部門

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