
『ドアスコープ』
ドアスコープは、玄関ドアに設置された広角レンズの覗き穴である。室内から外の訪問者を安全に確認し、防犯性を高める目的で普及した。しかし、その構造は物理的に内外を「見る・見られる」の非対称な関係に置く。近年ではリバースドアスコープや盗撮用カメラの悪用、スマートインターホンの普及に伴い、安全の象徴だったはずの覗き穴が、逆にプライバシーの侵害やストーカー犯罪、心理的恐怖の温床となる事例が指摘されている。
「トントントン」
その軽快なリズムは、深夜2時の我が家の玄関に響き渡るには、いささか陽気すぎた。
私の名前は真司。自慢じゃないが、ガラスのハートを持つチキンな男だ。この令和の時代、防犯対策こそが知性ある現代人の義務である。だからこそ、私は今、息を殺して玄関のタタキに立ち、ドアの「それ」に向かって顔を近づけている。
そう、ドアスコープ。直径わずか数ミリメートルの、奇跡の防犯デバイス!
この穴を覗けば、外の世界のすべてが魚眼レンズの魔法によって180度丸見えになる。こちらからは見えるが、あちらからは見えない。まさに「神の視点」!私はこの安全圏から、怪しい新聞勧誘や、顔色の悪い宗教の勧誘をフライドポテトでも齧りながら見下ろすのが、密かな快感だったのだ。
「おいおい、深夜2時に訪問なんて、どんな非常識なサイコパスだよ。さあ、神の審判を下してやるからな……」
私はにやにやしながら、右目をドアスコープにぴたりと押し当てた。
視界が広がる。歪んだ廊下の景色。蛍光灯の青白い光。
そこには――誰もいなかった。
「あ、あれ?空耳か?」
肩透かしを食らって息を吐き出した、その瞬間。
「トントントン」
まただ。ダイレクトにドアの木肌が震える振動が、私の額に伝わってきた。しかし、スコープの向こうには、誰もいない。ただの無人の廊下だ。空間が歪んでいるだけ。
「おいおいおい、怪奇現象か?それとも超高速で動く忍者がインターホンを連打してんのか?」
私は緊張のあまり、逆にテンションが上がってきた。脳内麻薬がドバドバと分泌される。そうだ、これはいわゆる『ピンポンダッシュ』の深夜大人向けバージョンに違いない!不届きなガキめ、防犯カメラに録画してネットの海に晒し上げてやるからな!
私はもう一度、目を皿のようにしてスコープに張り付いた。
すると、歪んだ視界の端から、何かが「にゅっ」と生えてきた。
それは、指だった。
異様に長くて、青白い、人間の指。それがドアスコープのレンズに向かって、まっすぐに伸びてくる。まるで、私の右目をピンポイントで目潰ししにくるかのような軌道。
「うわあああ!?」
私は飛び退いた。心臓がバック転を決めたかと思うほど跳ね上がった。心拍数は一気にギガヘルツの領域へ。
「なんだよ今の!指!?指だけ浮いてたぞ!?」
冷や汗が滝のように流れ落ちる。建前としては「警察を呼ぼう」だ。しかし、本音としては「一歩も動けないし、何も見たくない」。だが、人間の好奇心と恐怖心というのは、最悪のブレンドコーヒーだ。飲みたくないのに、どうしても口を付けてしまう。
私は震える脚を叱りつけ、もう一度、ドアスコープに顔を近づけた。今度は数センチ離れた位置から、恐る恐る覗き込む。
スコープの向こう。
今度は、指ではなかった。
レンズの向こう側、ぴったり数ミリメートルの距離に、「眼球」があった。
茶色い、血走った、大きな眼球。
それは、外から中を覗き込もうとしていた。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴が漏れる。お互いの目が、数センチの鉄扉とガラスレンズを挟んで、完全に静止していた。相手の眼球は、狂ったようにキョロキョロと動き回り、こちらの気配を察知しようとしている。
待て。おかしい。ドアスコープは「中から外」を見るためのものだ。外から中を見たって、真っ暗で何も見えないはずだ。学校の教科書にもそう書いてあった。性善説的な科学の勝利、それがドアスコープのはずだ!
しかし、外の眼球は、明らかに「私」を見つけて、にやりと歪んだように見えた。
その時、脳裏を最悪の雑学がよぎった。 『リバースドアスコープ』――外から中の様子を覗き見るための特殊レンズ。
「逆だ……!」
私はガタガタと震え出した。神の視点に立っていたのは、私ではなかった。私は安全圏にいたのではない。ただの「覗き穴付きの箱」に閉じ込められた、無防備なモルモットだったのだ。
外の眼球が、ゆっくりと瞬きをした。そして、パチリという音と共に、眼球が消えた。
代わりに、スコープの向こうに現れたのは、小さな、黒い「金属の筒」だった。それは、スマートフォンのカメラレンズのようでもあり、あるいは、もっと別の、機械の目のようでもあった。
カシャ。
静かな廊下に、シャッター音が響いた。
「あ……」
私は理解した。外の何者かは、最初から私を襲うつもりなどなかったのだ。彼らが欲しかったのは、恐怖に歪んだ私の顔、私のプライバシー、私の生活の全て。そして、それはすでに、電子の海へと送信された後だった。
カシャ。カシャ。カシャ。
連続するシャッター音。私はドアスコープから目を離すことができない。なぜなら、その小さな穴の向こうには、無数の「他人の目」が、私を覗き見ようと列をなして集まってきているのが見えたからだ。
静まり返った部屋の中で、私のスマートフォンの通知音が、狂ったように鳴り響き始めた。
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