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『婚約者』

    婚約者とは、結婚の約束(婚約)を交わした法的な婚姻関係にない男女の一方を指す。法的婚姻とは異なり、戸籍上の変動や強力な親族関係は発生しないが、婚約指輪の授受や結納、周囲への報告などを経て、社会的には「将来の伴侶」として強固に認知される。近年では、個人の自由やキャリア、経済的な安定性を天秤にかけ、共同生活のシミュレーション期間や、互いの品定めとしての側面も色濃くなっている。


    「おめでとう!ついに年貢の納め時だな!」

    同僚たちの無責任な歓声が居酒屋に響く。高橋健一(28)は、左手薬指のプラチナリングを掲げ、満面の笑みを浮かべていた。相手は大学時代からの恋人、美咲(28)。誰もが羨むお似合いの二人。来月、晴れて籍を入れる。まさに人生の絶頂、幸福のビクトリーロード!

    ……のはずだった。

    「健一さん、これ、結婚生活の『リスクマネジメント合意書』。サインしてね」

    翌週末、タワーマンションの内見を終えたカフェで、美咲が差し出してきたのは、弁護士のハンコが眩しい10枚の書類だった。

    「え、なにこれ?浮気したら罰金とか?」

    健一が笑い飛ばそうとすると、美咲の瞳から一切のハイライトが消えた。

    「それもあるけど、もっと合理的。例えば『体重が5キロ増減した際の日割ペナルティ』『実家への帰省頻度に応じた経済的補償』『将来の子供の学歴がMARCH以下だった場合の教育方針転換権利』。人間なんて、愛だけで動くわけないじゃない?利益と恐怖のインセンティブ設計が必要よ。私たちは『婚約者』、つまり最も信頼できるビジネスパートナーなんだから!」

    ハッチャケた笑顔でマキアートをすする美咲。健一の背中に冷たい汗が流れる。

    「いやいや、美咲、結婚って信頼とか、愛とかさ……」
    「愛? 健一さん、先月の金曜夜、スマホのGPS切って新宿にいたよね? 浮気調査会社の見積もり、もう取ってあるから」

    美咲は満面の笑みで、健一の「完璧なアリバイ」を秒で粉砕した。彼女は健一を愛しているのではない。健一という資産と、自分の未来の平穏を「管理」したいのだ。

    だが、健一もただの被害者ではなかった。彼の脳内コンピューターも高速で冷徹な計算を弾き出す。美咲の実家は資産家だ。ここで破談にすれば、手付金と式場のキャンセル料で、自分の貯金は消し飛ぶ。世間体も最悪だ。何より、美咲のこの「異常な管理能力」は、裏を返せば、今後の人生の面倒な手続きをすべて完璧にこなしてくれることを意味する。

    「……なるほど。合理的だね。じゃあ、僕からも1つ条件を追加していいかな?」

    健一はポケットから、別の書類を取り出した。美咲の目が見開かれる。

    「これは美咲の『裏アカウント特定レポート』。僕の悪口、結構バズってたね。これらをすべて削除し、僕の親族の前では『従順な聖女』を演じ通すこと。これが僕のインセンティブだ」

    二人は、カフェのテラス席で、互いに最も醜い本音を突きつけ合った。しかし、その顔には、今までで一番輝かしい、邪悪でハッチャケた笑顔が浮かんでいた。

    「最高!健一さん、あなたやっぱり私の見込んだ通りの最低な婚約者だわ!」
    「君こそ、背筋が凍るほど完璧なビジネスパートナーだよ!」

    二人は、周囲のカップルが引くほどの勢いで、熱い抱擁を交わした。愛などない。あるのは、互いの弱みを握り合ったことによる、絶対的な安定感。これこそが現代のリアルな絆だ。

    婚姻届に判を押し、二人は手を繋いで夜の街へと歩き出す。

    「ねえ、健一さん。もしこの契約を破ったらどうなると思う?」

    美咲が耳元で、少女のような声で囁いた。

    「さあね。でも、僕たちのどちらかが死ぬまで、このゲームは終わらないことだけは確かだ」

    健一は笑った。しかし、繋いだ美咲の手のひらは、まるで死人のように冷たかった。街灯に照らされた二人の影は、互いの首を絞め合っているように見えた。

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