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舌打ちバエリアン、ミニマリズムに没す

    「20XX年世界は映えの炎に包まれた!素顔は枯れ、日常は裂け、全ての映えないものは絶滅したかに見えた。だが、バエリアンは死滅していなかった」

    YOUはショッーク 映えでフィードが落ちてく〜る〜
    YOUはショッーク 俺のタイムラインに落ちてく〜る〜
    熱いフォロークサリでつないでも〜
    映えはむ〜だだ〜よ
    邪魔するや〜つは
    指先ひとつで〜いいね👍さ〜

    「インスタ映え」が流行語になってからしばらく経った。世は映えに溢れ、見るもの食べるもの様々なものが、いいねを増やすための餌になった。
    私はそういうことに時間を割き、命を削り、人生を捧げている人たちのことを

    『バエリアン』

    と呼んでいる。映え+エイリアンの造語だ。
    そもそも映える、映えない、何を基準に判断しているのだろうか。

    セクシーな女性と風景→大映え!即いいね!100いいね!
    おじさんと風景→全く映えない。ブロックして通報。

    こんな単純な構図ではない。いいねが多ければ、映えるかと言えばそうでもない。
    共通しているのは、引き立たない存在があって、引き立つ存在があるという世の中の構造だ。

    3月末、世界最大級の現代アートフェア「アートバーゼル香港」に行ってきた。
    絵画や彫刻といった従来のアートからAIやテクノロジーを使った最新のアートまで、幅広く展示されていた。6,7割は中国や香港の人で残りは欧米人、日本人はちらほら。買い付けに来ている客層はお金持ちで派手な人が多かった。ブランド物を身につけ、腕や首は金で装飾されていた。私のように1,000円で買った古着のTシャツを着ている人はいなかった。

    私は絵画が好きで、自分でも描いている。李禹煥やアグネス・マーティン、サイ・トゥオンブリー。影響を受けてきたアーティストの作品を実物で見ることができ、心は踊っていた。

    アグネス・マーティンの絵画を鑑賞していた時のことだ。鉛筆で描かれた線は、手の動きで微細に揺れていた。それを集中して見ていた。突然、横にいた中国人女性に舌打ちされた。何か悪いことをしただろうか。嫌な気分で作品の前から退き、横に移動した。横目で見ると、彼女は作品の前でポーズを取り、写真を撮っていた。

    作品を見て回っていると、同じような人がそこら中にいた。みんな写真を撮っている。だが、撮っているのは作品の写真ではない。作品と一緒に写る「私」の写真だ。バエリアンは作品を見ていたが、鑑賞はしていなかった。自らが一番映える作品を探し、ポーズを決めて写真を撮っていた。

    観察しているうちに、バエリアンが選ぶ作品には傾向があることに気づいた。
    まず、体より大きいもの。そして、色彩は控えめ。単色や落ち着いた色合いのものが選ばれていた。絵の具の粗い質感や力強いストロークが残る作品の前には、誰も立たない。

    岡本太郎の「芸術は爆発だ!」を地でいく作品は人気がなかった。選ばれていたのは、静かで、整っていて、削ぎ落とされた、ミニマリズムの作品だった。韓国でもここ数年、ミニマリズムがリバイバルしていると聞いた。

    ミニマリズムが、流行っているのではない。
    ミニマリズムが、バエリアンに利用されているのだ。

    意味や感情、装飾性を削ぎ落とし、最小限の要素で構成する。それは、アーティストが人生をかけて磨いてきた美意識だった。
    バエリアンは、それを「背景」として使っていた。

    昔のプリクラ機を思い出した。今のように自動で背景が用意されるのではなく、何枚もの柄布の中から自分で選んでセットしていた。シマウマ、ハート、キラキラ星空。背景は、盛られた自分を引き立てるための装置だった。プリクラ機は、初代バエリアン量産機だった。アートバーゼル香港でも、同じことが起きていた。背景の柄布が現代アートに置き換わっていただけだ。

    静かな作品を背景にすれば、作品の良さを理解する「文化的な私」を演出できる。自己顕示欲も同時に満たせる。「私」の写りを邪魔せず、存在を際立たせ、記録に残せる。
    バエリアンは、主張しないミニマルな作品の前で、激しく自分を主張していた。

    そんなバエリアンたちを横目に、井田幸昌の油絵の前に立った。
    殴り合うような、それでいて繊細にも見える色使い。身体を存分に使った激しいストローク。画面いっぱいに吹き込まれた命。
    私はその絵とそっと自撮りした。


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