
【創作BL小説】金時豆のパン−3
夜にだけ開くパン屋がある。 突然の休職で行き場を失った佐藤は、夜にさまよい歩いているうち、パン屋「よなか堂」を見つける。どこか浮世離れした店主・望月と、焼きたてのパンの匂い。会話、食事、心の動きを見つめ直して、二人が眠るための定位置を見つけようとする物語。
2026年11月開催の文学フリマ43に出店予定です。鋭意執筆中。
夕暮れの時間だった。オレンジの夕日がビルの壁や窓を光らせて、散歩に出た犬と飼い主、下校中の学生たちとすれ違う。あてもなくふらふらと歩けば、春の生ぬるい風が顔に当たって気分が悪い。次第に灯り出した街灯がぼんやりと足元を照らし始める。車が行き交うたびに排気の匂いがする。どこからか若者の大きな笑い声がして肩が跳ねる。街で聞く人の笑い声は嫌いだった。振り払うように歩みを早める。
気がつけば、会社の近くに来ていた。ぞっとした。就職してから数年間、家と会社の往復で、それしか知っている道がなかったとはいえ、無意識で。とんだワーカホリックだ。鳥肌を立てながら、せめても、と普段通らない道に入る。似たようなオフィスビルが立ち並ぶ中を、適当に右へ左へ曲がって歩く。ハンコ屋、レコード屋、外国人向けホステル、中学校。ぐるぐるとそこを回っているうちに、ある店に目が止まった。正面がガラス張りになっている店から、店主らしき男が出てきたかと思うと、店の玄関入り口に看板を置いて、中へ引っ込んだ。
ビストロか何かだろうかとその看板を覗き込むと、クロワッサンのイラストがチョークで書いてある。その下には店名だろうか、「よなか堂」とあった。営業時間は、17時から24時。ずいぶん変則的な営業時間だ。たまには外で食べるのもいいかと店内の様子を窺うと、暖かいオレンジ色の照明に照らされたいくつものパンが並んでいた。看板にもあったクロワッサン、メロンパン、食パン、カレーパンらしき円形のパン……最初の予想は外れたらしい。どこからどう見てもパン屋だ。それも、とても正統派な。ずっと通っていた街なのに、こんなところがあるとは知らなかった。きっと数日前に見つけていたら、と思ったものの、どうせ横目に退勤の電車に乗ろうと帰り道を急いでいただろう。ちょうどいい、一つ二つパンを買っていって、家で食べよう。
ガラスのドアを開けて中へ入ると、レジカウンターの向こうから、さっきの男性が「こんばんは〜」と声をかけてきた。小さく会釈して、店内を見回す。
それほど広いわけではなく、カフェスペースもない、いたってシンプルな内装。焼きたてのパンの香りが店内に漂っている。トレーとトングを持って好きなものを取っていく昔ながらのスタイルのようだった。手を除菌してトレーとトングを手に取り、並ぶパンを眺めた。商品名と価格は、名刺大の紙に手書きされている。整った字だった。ぼんやり眺めながら店内を一周して、ふと丸いパンが並ぶ列が目に入った。金時豆のパンと書いてある。丸い生地の表面の所々に豆の形があらわれて、ごつごつと輪郭を野暮ったいものにしている。隣に並ぶクリームパンとは月とスッポンと言っていい。地味でうだつの上がらない、芋っぽいパン。昔祖母が買ってきのを仕方なく食べていたけど、その時はあまり美味しいと思えなかったっけ。寂れた温泉街の商店街に、高齢の店主がひとりでやっているパン屋で、いつも売れ残っていたそれを、祖母は「かわいそうだ」と買ってきては人に食べさせていた。巻き込まれる家族としてはうんざりだった。以来、金時豆のパンを見ると、かわいそうだという気持ちになる。地味で、うだつが上がらなくて、本人なりに必死でやっていても、うまくいかなくて、売れ残って……
ぼろ、と目から何かが溢れた。頬が濡れている。店主の男性がレジの向こうから「あれっ」と声を漏らす。ぼろぼろ、涙が止まらない。
トレーにトングを乗せて、右手の袖口で目元を擦る。なぜ突然涙が出たのか、自分でもわからない。ず、と鼻をすする。パン屋の中で一人立ち尽くして泣く成人男性ってなんだよ。自分でも思うものの止まらない。
店主の男性が何かを手に近寄ってくる。
「あの、これどうぞ」
ティッシュ箱を差し出される。眉を下げてこちらを覗き込む顔はなんだか心配そうだった。再び会釈をしてそれを受け取る。
「……よければ、なんですけど。お茶飲みませんか?レジの横にある……あれなんですけど」
彼はレジ横を指さした。ジャムの小瓶が数種類並ぶ棚に、素朴なクラフト紙の袋に横文字でなにか書いてある小さなパックが並んでいる。
「水出しできるやつで、ほうじ茶にりんごの香りがついてるんです。面白いでしょ」
内緒話をするようににやりと笑って、レジの奥へ引っ込んでいく。その背を目で追って待った。少しして、紙コップをふたつ、手にして戻ってくる。
「はい、どうぞ。お試しサイズ」
「どうも……」
店主は茶を一口啜って、うん、と満足げな顔をした。自分も一口、茶を含む。ふわりと懐かしいほうじ茶の香りに、りんごの甘い香りが重なる。美味しい。
「お茶飲むとほっとしますよね」
店主は外を行き交う人を眺めてそうつぶやく。視線は合わない。付かず離れずの距離で、隣に立っている。
「……そこの、豆のパン、見てたら」
口から言葉が落ちた。同じように外を眺めながら、独り言のようにゆっくり、頭の中にあるものを言葉にしていく。
「地元のこととか、祖母のこととか、思い出して」
「うんうん、お年寄りは好きですよね」
「……ちっちゃい頃、豆のパンは嫌いで。地味で、ぱっとしなくて……」
「うん」
店主は驚く様子も戸惑う様子もなく、相槌を返してきた。静かな居酒屋で友人の愚痴を聞いている時のトーン。
「売れ残ってばっかで……」
「そうかも」
「俺だって地味に、俺なりに、頑張ってるけど、努力したって無駄みたいだって思って。今も、こんな、パンに感情移入して、……すみません、わけわかんないな、おかしいっすよね。はは、なんなんだろ、ほんと……」
自嘲の笑みが洩れた。本当に、馬鹿みたいだと思った。店の人に気を遣わせて、見ず知らずの他人に自分の身の上を突然話し出して。胸のあたりが冷えていく。すう、と涙が引いていく。
「すみません、変な話して」
「売れ残っても、いいじゃないですか」
「……え?」
隣にいた店主が、前に移動してくる。怒っているのかと思えば、そんな表情ではない。売れ残るなんて失礼なことを言ったのに、なんとも思っていないような顔だった。
「売れ残ったからこそ、こうやって、お客さんが地元を離れても、心に残って縁ができてるし。悪いことばっかじゃなかったと思います。金時豆パンさんはきっと、よかったなって思ってますよ」
「金時豆パンさん……?」
パンに敬称をつけている。こちらが変な話をしたと謝ったはずが、自分を上回る変なことを言う人間が現れて、思わず復唱する。店主はこちらの視線を気にせず、明るい声色で言って金時豆のパンの近くに寄った。
「つまりまあ、何にでも意味はあるってことです。お客さんがうちに来たのも、こうやって、泣いてスッキリするためだったのかもしれないし」
突然スケールの大きい話に飛躍した。けれど、自分を励ますために言葉を尽くしてくれているのだ、とは、理解できた。そのやさしさを、嬉しいと感じていることも、なんだかストンと胸の中に落ちて、呼吸が落ち着いた。
「って、ロマンチックなこと言ってても、金時豆パンさんはたしかによく売れ残るので、そうなったら僕も廃棄するしかないんですけどね。ははは」
それ言っていいのかよ。新喜劇みたいにずっこけそうになった。
「でも……熱心なファンのおじさんがいて。今日はないのかい、って度々聞かれるから、僕もつい作っちゃう」
『なつかしの味 金時豆のパン』と書かれたカードを指先でなぞって、店主はまたお茶をすすった。ふと、その横顔を見た。当然だが、飲み物を飲むと喉が動いている。
「そういう人、きっとあなたにもいるんじゃないですかね。知らないけど」
彼が目尻を下げてこちらを見た。おどけたように眉を上げて。そこでふと気がついた。こうやって、人の顔を眺めたのはいつぶりだろう。その表情が面白くて、つい口元が緩んだ。
「最後の、テキトーすぎる」
「初対面のただのパン屋にアツく励まされるのも、それはそれで怖いでしょ」
「たしかに」
お茶を飲み終えると、横から手が伸びてくる。店主は空になった紙コップを回収して、レジの奥へと引っ込んだ。そつのない動きだった。
金時豆のパンをトレーに取る。……が、最近まともな食事をしていなかったせいで、自分の胃の許容量がわからない。昨日までの自分だったら、これひとつで十分だったと思うけれど、今はなんだか足りないような気もする。ちらりと横を見て、小さなピザのようなパンとクロワッサンをトレーに取ってレジへ向かった。
「お、そのピザ風のやつ、一昨日から出した季節味なんですよ。しらすと春キャベツ」
「へえ」
「もちろん焼き立てを食べてほしくはあるんですけど、そのピザ以外もパンは1週間くらいなら冷凍で持ちます。トースターに突っ込んでもいいし、常温で戻しても大丈夫です。レジ袋いります?」
「お願いします」
平日の夕方、適当な私服でふらりとやってきた若い男が一体どう見えているのかわからないが、聞いてもないのにそんなアドバイスをして、彼はレジを操作してパンをひとつずつ袋に詰めていく。
レジ袋を手渡されるとき、彼があ、と声をあげた。
「よかったら、ショップカードどうぞ」
レジ横に束で置いてあった名刺大のカードを渡される。クリーム色の画用紙のような紙の上に、紺色の文字で「よなか堂」の文字が並んでいる。裏には、地図と住所と営業時間、インスタグラムのアカウント名とQRコード。きちんとしたデザイナーに頼んだのだろう、シンプルだけれど安っぽくない雰囲気だった。
「うち、夕方から夜しか開けてなくて。変な店でしょ。でもおいしいので。ぜひまた」
ぺこ、と会釈をして、カードとパンを受け取った。
店を出た頃には、日が落ちきっていた。暗くなった街のなか、オフィスビルの窓からは煌々と明かりが漏れている。パンの袋をぶら下げて、家路を急ぐ会社勤めの人々に追い越されながら、家へと帰りついた。
殺風景なダイニングに座って、金時豆のパンを袋から出す。しっとりとして、柔らかい丸。一口齧ると、甘い味が広がった。甘い。けれど、胸焼けする甘さではない。パン生地も甘味があって、所々入っている豆の甘さと合う……気がする。豆はほくほくして、独特の香りがして、やっぱり野暮ったい。でも、食べ飽きない、そんな味。
祖母のことをゆっくり思い出した。おやつの時間に金時豆パンを食べていると、じっと見つめられるのが気まずくて嫌だった。向けられるにやにや笑いも、おいしい?と尋ねられるのも鬱陶しかった。今思うと、幼い孫が小さな手でパンを掴んで、一生懸命口に運ぶ様は、彼女にとってあたたかい時間だったのかもしれない。自分自身を愛おしい存在だとかいうのは恥ずかしくてたまらないが、懐かしい味が過去を呼び起こす、お手本のようなプルースト効果だった。
気がついたらぺろりと完食していた。量が多いとか、高級だとかいうわけでもないのに、『食事を摂った』という満足感があった。おいしいので、と笑った店主の言葉に嘘はなく、ほんとうに美味しかった。食事が美味しかったと思ったのは、いつぶりだろうか。しらすと春キャベツのピザパンも食べた。美味しい。うまく回らない頭では美味しい以外の感想が出てこないが、美味しい。こちらも食べ切って、クロワッサンに手を伸ばした。バターもジャムもないのに、そのままで美味しい。魔法なんじゃないだろうか。結局、買ってきた分のパンを一気に食べてしまった。
しばらくするとふわふわとした眠気が襲ってくる。どこかの漫画で見た、血糖値スパイクだ。多分。体にはよくないやつ。でも、かなり気分がよかった。数日まともに眠れていなかった体は抗えず、布団に吸い込まれた。硬い枕に頭を預けて横になる。また外に出る気力が出たら、高級な柔らかい枕を買おう。今日食べたパンみたいな、しっとりとした、柔らかな枕を。そう思いながら目を閉じた。
『夜はふかふか(仮題)』より第一話「金時豆のパン」でした。
2026年11月開催の文学フリマ43東京に出店予定です。
サークル名「なかよしくらぶ」にて、なかよしの友人ぬるいと一緒です。
ジャンルは創作BLです。
今のところ、『夜ふか』と、CoCセッションで生まれたうちよそ夫夫連作を頒布予定ですが、もう1作ローファンタジー創作BLのコピー本でも持って行けたらいいなあ〜という感じです。
まだまだ諸々未定ですが、ご参加の方はぜひお立ち寄りいただけますと幸いです。