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転生監査機関《RAC》CASE.018

    ぽんにむ

    「進撃」


     北方平原の戦いから二日。

     かつて魔王軍と勇者軍が三十年にわたって睨み合いを続けていたその大地は、今や完全に勇者軍の前線基地へと姿を変えていた。
     無数の天幕。急造の防壁。各国の旗を掲げた補給車列。治療用の簡易結界。魔導砲台の再配置。兵站を担う役人たちと、戦果に酔いしれた兵士たちの怒号と笑声でごった返している。

     戦場の匂いは、依然としてまだ濃い。
     土に染みこんだ血も、焼け焦げた肉の臭いも、二日程度で消えるはずがない。
     しかしこの場に満ちている空気は、以前までの北方戦線とは明らかに違っていた。

     各天幕には、勇者軍は勝ったという共通認識が広がっているのだ。
     それも、ただ一度の会戦で、三十年動かなかった戦線をこじ開けるという、誰もが夢想しながら現実には起こり得ないと半ば諦めていた勝利をもぎ取ったのだ。
     この事実を前に、戦争というしがらみから解放されるのだと有頂天になるのも、ある意味では仕方のないことだろう。
     もはや慢心に片足を突っ込んでいる状態で、兵たちは剣ではなくジョッキを手に、国歌を口ずさんでいた。

     そして、勿論その中心にいるのがエリオット・レインフェルだった。

     現在、彼は基地中央に設けられた最大級の軍議用天幕の中にいる。

     広い。
     王侯の仮宮殿と見紛うほどに広い。
     中央には大机が据えられ、その上には北方一帯の詳細な地図が広げられている。周囲には将軍、武官、魔導士、聖職者、各国の使者までが集まり、誰もが一様に、勝利の先にある次の一手について議論を交わしていた。

     そして、その机の端。
     まるで授業参観にでも連れてこられた生徒のような顔で、エリオットは椅子に座っていた。

    「やはりこの流れだと、魔都ダーナポリスへの侵攻が最短ですな」
    「北方を押さえた以上、他戦線も連鎖的に崩れるでしょう。補給線の再編が済み次第、我々は一気に北上できます」
    「残る問題は魔王の出方だが……」
    「出るしかあるまい。あの都を失えば、連中に後はない」

     朗々と語られる未来予測。
     そこに悲観の要素は皆無。
     もはや勝ち筋ではなく、どう勝ち切るかの話になっている。

     その中で、グランド将軍だけが堂々と胸を張り、机の中央をどんと叩いた。

    「よし。ではいよいよ決戦だ。三十年の泥沼を終わらせる最後の進軍といこう」

     重々しい宣言に、幕内の空気が一段と熱を帯びる。

     ゼノは隣で心底楽しそうに笑っていた。
     ミークは眼鏡の奥の目を輝かせており、ロッテだけが、皆の熱に反比例するように静かに胃のあたりを押さえていた。

    (はぁ……)

     大勝利後の会議は往々にしてこうなる。
     人は勝利の直後、自分たちがなぜ勝てたのかを都合よく忘れるのだ。
     あの北方平原の会戦は、決して勇者軍の総力が魔王軍を圧倒した結果ではない。
     たった一人の規格外が、戦争の構造そのものをねじ曲げたから起きたイレギュラーにすぎないというのに。

     だが、それを心から理解している者は少ない。
     皆、あの惨劇を“勝利の象徴”として飲み込んでしまっている。
     実力主義で、人の深くを踏み込まないこの勇者軍だからこそ、誰もエリオットの異常性を認識しようとしないのだ。

     この何とも言えない気持ちの悪い状況に、ロッテは昨日から一睡もできていなかった。

     その時、天幕の入口からざわめきが起こった。

    「大賢者様のご到着だ!」

     場の空気が変わる。
     将軍たちが一斉に姿勢を正し、魔導士たちは息を呑み、聖職者すら畏敬に似た眼差しを入口へ向けた。

     ゆっくりと姿を見せたのは、長い外套を纏った壮年の男だった。
     銀がかった髪を後ろで結い、知性を湛えた切れ長の眼差しと、柔和な微笑を同居させた顔立ち。片手には簡素な杖。だが、纏う空気そのものが凡人と異なる。
     力を誇示しているわけではない。にもかかわらず、そこに立たれるだけで場が自然と静まり返る。

     レーゲンブルク・レインフェル。
     人は彼を“大賢者”と呼ぶ。エリオットの育ての親、その人だ。

    「お初にお目にかかる、マルバスター将軍」
    「これはこれは、大賢者殿。遠路はるばる感謝する」
    「北方戦線が動いたと聞けば、流石に顔を出さぬわけにもいきますまい」

     そう言って、レーゲンブルクは穏やかに笑う。
     だが、その視線はすぐに一人の少年へと向いた。

    「なぁ、エリオット」
    「父さん」

     周囲がざわついた。
     大賢者と、この規格外の少年が並ぶ。それだけで一幅の絵になってしまう。

    「話は聞いている」

     レーゲンブルクはゆっくり近づく。

    「よくやった……と言いたいところだが、やりすぎだな」
    「やっぱり?」
    「やっぱりではない!全く……」

     ぴしゃりと返されたその一言に、エリオットは少しだけ肩をすくめた。
     怒鳴るでもなく、声を荒げるでもなく、ただ短く切るだけ。
     もはや何度も繰り返されてきた会話なのか、それがかえって二人の距離感を感じさせた。

     ロッテは少しだけ安堵する。
     少なくとも、この場でエリオットに真正面から釘を刺せる人物が来たことはとても大きい。

    「使ったのか、あの魔法を」
    「今回はうまくいったよ、父さん。やっぱ複数の魔法の同時発動は効率がいいね。無詠唱はまだ難しいけど、いずれは改良――」

     レーゲンブルクはそっとエリオットの髪を撫で、彼の暴走を止める。

    「さすが……自慢の息子だ。だがもう少し、限度というものを覚えたほうがいい。な?」
    「限度? あれはあの魔法が一番手っ取り早かったからだよ。実際、勇者軍は被害ゼロ。三十年も続く泥沼な戦いに終止符を打っただけ。やっぱ戦争なんて無駄なことは、早めに終わらせるに限るよ」
     
    「エリオット……」

     そういう問題ではない。
     どうしてこうも何事においても最適な答えを求める性格となってしまったのだろうか。
     
     才覚は、己を遥かに凌駕する傑物。
     だがその器は未熟も未熟。
     生まれ持ったものは仕方ないが、このままいけば大きなことをしでかすことは、とうの昔に分かっていた。
     だからこそ見識を深めるため、心に彩を与えるために追放したというのに、より悪化しているではないか。

     そして、恐れていたことが起きてしまった。

    「エリオット……大丈夫なのか? 大勢を殺した枷というのはとてつもなく重いものだ。やせ我慢などせず、腹の中のものを全てこの父に吐くが――」
    「何言ってんだ父さん。やせ我慢なんてしてないよ。というか、なんで来たの?」

     レーゲンブルクは小さくため息をつく。

    (……どうすればこの子を正しき道に導けるのだろうか)

     ちらりとロッテを見ると、彼女は申し訳なさそうな顔をして目を背けた。

    (彼女という常識人を足枷として付いて行かせたが……やはりゼノとミークを行かせたのはダメだったか)

     ゼノは元々異質な生徒であったし、ミークはエリオットの行動を助長してしまう癖がある。
     いくらハイフレイム家のご息女でも、荒れ狂う三人の変人はさすがに重荷だったらしい。

    「どうしたものか……」

     大賢者という肩書は二の次に、彼は悶々と息子の未来の行き先を案じていた。

    「ハハハハ!しかし、結果として勝機をもたらしたのも事実だぞ、大賢者殿」

     グランド将軍が豪快に笑うことで、二人の間に割り込む。

    「いやはや、噂以上だ。さすがは大賢者の息子」

     その言葉に、レーゲンブルクの表情がほんのわずかに曇る。
     だが、それは一瞬だった。

    「息子、というには少々難しい年頃ですがね」
    「フフフ……それでも血より濃い縁というものもありましょう」

     朗らかな笑いが広がる。
     すでに会議の空気は、祝勝会のそれに近かった。

    「予定は?」
    「おっと、そうでした。現在、我が軍は他戦線を打破、魔都を囲むことでじわじわと奴らを疲弊させる寸法――でした」
    「……というと?」

    「今、我らにはエリオット殿がいる! もはや兵糧攻めなどというまどろっこしいことはしまい! 彼の大魔法にて魔都を木っ端みじんにし、憎き魔物どもを駆逐する!」
    「それが君たちの総意かな?」
    「否、これは我々の発案ではありません」
    「……?」

     グランド将軍がぽんとエリオットの背中を押す。

    「あなたの息子の発案ですよ。いやはや全く、なんという容赦のなさ。さすがというほかない」
    「……それは本当か、エリオット?」
    「だってそれが今一番楽最適じゃん」

     つまりはあの魔法を、民間人すら住まう魔都に直接叩き込むというのだ。
     四十万を殺すのに飽き足らず、まだ足りないという。

     息子でありながら、レーゲンブルクは頭を抱えた。
     やはりこうなるのか、と。

    「グランド将軍。魔都には民間人もいる。その作戦は人道的にいささか問題――」

     その時だった。
     天幕の外から、慌ただしい足音が響いた。

    「急報!! 急報であります!!」

     幕が乱暴に跳ね上がり、血相を変えた伝令兵が雪崩れ込んでくる。
     その瞬間、レーゲンブルクとロッテ以外の浮ついていた空気が一気に引き締まった。

    「何事だ」
    「魔王軍です! 北方より魔王軍急襲! 現在、こちらへ向けて一直線に進軍中!」

     将軍たちの顔色が変わる。

    「何? 規模は?」
    「およそ五万!」
    「たった五万だと?」

     グランド将軍が眉をひそめた。
     もはや勝敗は決したとはいえ、あまりにも無謀な少なさだ。

    「たったそれだけか?」

     伝令兵は息を切らしながらも、必死に続ける。

    「数だけ見れば小勢ですが、異様です! 隊列を無視した強行軍、補給も置き去り、まるで自爆覚悟で突っ込んできているような……!」

     ロッテの背筋を、悪寒が走った。

     普通ではない。
     少なくとも、軍組織の行動としてはあまりに不自然だ。
     五万程度で何ができる。いや、何をしようとしているかはもはや明白だった。

    「は、面白れぇ! 奴ら最後っ屁に特攻しかけてきたってわけか!」

     ゼノが口元を歪めた。

    「向こうもやる気ってわけだ、行くぞ野郎ども!!」
    「お前が仕切るな、たわけ」
    「いで!」
    「何やってるんですか、バカ……」

     勝手に勇者軍を仕切り始めたゼノをソイルが拳骨で黙らせる。
     相変わらずの猪突猛進っぷりにミークはやれやれと呆れた表情を浮かべる。

    「とはいえ、このまま野放しにすればそれなりの被害が出るのでは? 将軍」
    「ふむ……」

     グランド将軍は地図を睨みつけたまま、数秒思案した。
     そしてやがて、重々しく顔を上げる。

    「勢いを殺す」

     その一言だった。

    「今この流れを絶やすわけにはいかん。ここで奴らの出鼻を挫き、そのまま押し潰す。完膚なきまでに叩き潰すのだ」

     全員がその意味を理解する。
     その視線が、一斉にエリオットへと向く。

     エリオットはきょとんとした。

    「え、また僕?」
    「当然だ」

     グランド将軍は断言した。

    「貴殿以上の適任がどこにいる。昨日の再現でよい。敵の敗残兵共を叩き潰せ」

     ロッテは即座に立ち上がった。

    「待ってください!」

     その声は、自分でも驚くほど鋭かった。

    「たった五万に、またあれを撃つつもりですか!?」
    「……たった五万、だと?」

     だが将軍は目を細め、ずいと前のめりにロッテを睨みつける。

    「何も分かっていないようだな、ハイフレイムのご息女よ。戦場において五万という数字は十分すぎる軍勢だ。それを一撃で潰せるなら、安いものだろう」
    「安くなんかありません!」

     会議の空気がぴりつく。
     だがロッテは一歩も引かなかった。

    「あなた達は人の命を……昨日の一撃で何が起きたと思ってるんですか!」

     声は裏返り、悲鳴のような訴えに近い。
     相手が格上の存在であっても、ロッテはもはや我慢ならなかった。

    「四十万の命が……一瞬で亡くなったんですよ? それを間近で見て、何故普通にしていられるのですか!? ――しかもそれを魔都に撃つだなんて…………」

     子供や老人、何も知らぬ赤ん坊などの民間人を巻き添えに爆散する街を想像するだけで心がギュッとなる。
     ロッテは勢い余って涙が零れ落ち始めた。
     目元を手で押さえ、必死に己を取り繕う。その様子に、幕内の兵たち、将軍格の人間までもが口を閉じたままだ。

    「あなたもよ、エリオットッ!!」
    「え、僕?」

    「何も感じないの!? あれだけ殺しておいて、それをまたやるだなんて……あなたなら、あなたの力ならもっと他に取れる方法があるでしょうに……」

     幕内が静まり返る。
     ロッテは力が抜けたように膝から崩れ落ち、そのままえづくように泣き始めた。
     エリオットは状況がうまくつかめず、少しばかり戸惑いを見せる。が、周りを見たことでこの状況を打開できるのは自分だけだと判断した。

    「ロッテ」
    「エリオット…………」

     膝まずき、彼女の肩にそっと手を置く。
     そして耳元で囁いた。

    「わかったよ。あの魔法はもう撃たない」
    「エリオット殿」

     聞き捨てならないことを耳にし、グランド将軍が横やりを入れようとするが、そこをミークが抑える。

    「あの魔法はエリオット様をもってしても多大な負荷を生じます。五万程度、エリオット様なら他の魔法でも十分対応可能です。ね、エリオット様?」
    「うん、そうだね。言われてみればここでの『水爆』はあまり適切じゃないしね」
    「ふむ……」

     レーゲンブルクもまた、ゆっくりと口を開いた。

    「私も反対だ」

     ざわめきが走った。
     大賢者本人の異議。その言葉は決して軽くない。

    「エリオットの魔法はもはや魔法の域を超えている。どんな不具合があるかも分からん。グランド将軍も、何かの間違いであの魔法の矛先がこちらに向くなどという大事故は起こしたくないだろう?」
    「……なるほど。それは一理ある」

     グランド将軍は再度地図を見つめると、高らかに宣言した。

    「決議は成った! ではこれより、エリオット殿の一般魔法で敵の進撃を打ち砕く! 者共位置につけぇ!!」

     歓声と共に兵たちは即座に持ち場へと散っていった。
     がやがやとした雰囲気は無くなり、皆きびきびと装備品を携えて天幕を出た。

    「おっしゃあ! またでっけえの頼むぜエリオットぉッ!!」

     そう言うと、ゼノも最前線の兵士達の後を追い、ミークもそれに付いていった。

    「じゃ、僕もいくよ。というか僕が行かないと何も始まらないみたいだし」
    「ああ……気を付けるのだぞ、エリオット」

     「何を気を付けるんだよ(笑)」と冗談を言いながら、エリオットもまた天幕を飛び出していった。

     
     天幕に残った大賢者と一人の娘。
     レーゲンブルクは地べたに座るロッテへ手を差し出した。

    「あ、ありがとうございます……」
    「いや、良いんだロッテ嬢。君には私の愚息を任せっきりだしな……」

     先ほどの会話を思い出す。
     ロッテの必死の懇願。
     それによりエリオットが考えを変えたという事実に、レーゲンブルクの表情は僅かにほころんでいた。

    「ありがとう。やはりあの時君を行かせたのは正解だったようだ」
    「……校長先生」

     ロッテはすくっと立ち上がり、きりっとした表情でレーゲンブルクを見つめた。

     
    「お任せを。必ず私が、エリオットを導いて見せます!」
     

     ―――――――――――――――
     

     ――十数分後。

     前線高台。
     北方平原を見渡す位置に、再びエリオットと勇者軍首脳陣は立っていた。

     遠方。土煙が見える。
     その中を、黒い軍勢が一直線に迫っていた。

     確かに数は五万ほどだろう。
     情報通り、昨日のような本軍規模ではない――まさに小軍隊。
     だが異様なのは、規模ではなくその勢いだった。

     隊列が乱れようと、足並みが崩れようと、誰一人として減速しない。まるでその先にある死すら折り込み済みで突っ込んできているような、鬼気迫る進軍。
     魔王も不在の様子。
     明らかに命を投げうつ覚悟のある進軍だ。

    「……何よ、あれ」

     ロッテが顔を引きつらせ、あのゼノですら若干引いている。

    「気合い入りすぎだろ、アイツら」
    「鬼気迫るとはまさにこのことですね……」

     ミークが眼鏡の位置を直す。

    「何かを狙っている?……いや、でも魔王抜きに今さら何が――」
    「エリオット殿」

     グランド将軍が低く言う。

    「時は来た。撃て」

     エリオットは静かに頷いた。

     前に出るエリオット。
     風が黒髪を揺らす。
     その視線の先には、突進してくる魔王軍の先鋒。

    (たしかに『水爆』はちょっとやりすぎかもなぁ。昨日みたいに敵は止まってないわけだし、効果半減かも)

     彼は冷静に考えていた。

    (まずは勢いを削ごう。とすれば、やっぱあの魔法だよね)

     そうして選ばれたのは、昨日の極大魔法ではなく、山をも吹き飛ばしたあの大砲のような魔法だ。
     『水爆』の威力には到底及ばないが、五万の特攻を真正面から崩すには十分すぎるほどの火力である。
     今は、これが“最適”だ。

     掌の前に幾重もの魔法陣が浮かぶ。
     昨日ほどの規模ではない。
     あくまで様子見。
     あくまで牽制。
     本人としては、そのつもりだった。

     
    「水砲アクアバースト」

     蒼白い奔流が一直線に放たれる。

     轟音。
     高圧縮の水塊は大地を削りながら敵軍先頭へ迫り、進軍の勢いごと呑み込まんと牙を剥いた。
     昨日を知る者たちは誰もが息を呑む。
     たとえ“様子見”であっても、エリオットの魔法は常人の尺度をとうに踏み越えている。五万程度の軍勢、その先鋒を叩き潰すには十分すぎる威力だ。

     決まった。
     誰もがそう思った、その瞬間――
     

    「なんですか……あれ……」

     敵軍前方に、いつの間にか黒い歪みが生じていた。

    「……え?」

     ロッテが声を失う。

     それは魔王の闇のような類ではない。
     より黒く、より流動的。
     むしろ水面へ石を投げ込んだ時のような黒い“波紋”だった。
     真っ黒な円環が幾重にも重なり、空間そのものへ染みのように滲んでいく。

     その黒い波紋がエリオットの放った水砲の正面に展開されたのだ。

     その直後――轟、と世界が震えた。

     蒼白い奔流は確かに黒い波紋へ激突。
     強烈な破裂音と衝撃波が生じ、地響きが勇者軍全体に伝播する。

     だが、予想に反して水の大砲は波紋を貫けない。
     消し飛ぶどころか、魔王軍を覆い隠すほどにさらに大きく展開される。
     ただぶつかり合ったまま、そこで止まったかのように。大質量の水の塊が波紋の前で固定されているかのようだった。

    「何……この音?」

     ヴヴヴヴヴヴ、という異音にロッテが気づいた。
     いや、ロッテだけではない。もはや誰の耳にも入るほどの大音量の異音が、あの得体の知れない黒い波紋から放たれていたのだ。
     そして当の魔王軍は、勢いが衰えるどころか、速度を増して進軍している。

     その光景に勇者軍全体が凍りついていた。

    「まさか……受け止めたのですか……?エリオット様の魔法を!」

     ミークが信じられないものを見るように呟く。

     水砲はなおもうなりを上げ、黒い波紋はその圧に軋みながらも崩れない。
     まるで、エリオットの魔法そのものを拒絶しているかのように。

     ゼノの口元が引きつる。
     ロッテは背筋を粟立たせ、グランド将軍も、大賢者レーゲンブルクも、言葉を失っている。

     
     だがエリオットだけが、蒼い瞳を静かに細めた。

    「……なんだよ、魔王軍にもいるじゃんか。ちゃんとした敵・キ・ャ・ラ・」

     それは初めての経験だった。
     この世界に来てから、自分の魔法を真正面から阻まれるというのは。
     この強襲には何かあると思っていたが、やはり隠し玉がいた。その事実に、エリオットは心を躍らせていた。

    「どこの誰だか……『|千里眼・極』」

     水砲の威力を保ちながら、同時に探知系の魔法を起動させることで己の五感を何倍にも拡大させる。
     目的は黒い波紋の正体、そしてその発動主の看破だ。
     
     すると遠方、土煙の向こう。
     なおも突進を続ける魔王軍先鋒の最前列、そのさらに前方の脈打つ黒き波紋。
     その背後から、何かが聞こえた。

    「……『アバドン・システム』10%――『黒凪くろなぎ』」

     直後――

     ミーク曰く、エリオットの意識は数秒ほど途絶えたという。

     
     ————————————————————————————————

     ――報告。
     地球時間170902ZJAN25
     

     特殊第六執行部隊、準下級執行官ドゥーの『アバドン・システム』の実行を確認。
     直後、ターゲットと会敵。『工藤・旭』の執行を開始する。

     以上。

     
     
     
    ぽんにむです。  東北大学大学院医学系研究科に在籍し、医学研究に取り組む傍ら執筆。 現在「転生監査機関RAC」を連載中です。 カクヨム kakuyomu.jp/users/PONYM 小説家になろう https://mypage.syosetu.com/3071966/

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