おばあちゃまと青山の東京大空襲
先日ニュースで原爆被爆者の方が、今や生存者も少なくなり高齢となった原爆被爆者に代わって、「被爆体験を聞いた若い世代が、私たちの体験を語り継いで行くことには大きな意味がある。ぜひ、語り継いでほしい」という事をおっしゃっていました。
それを聞いて、私たちは、むしろもっと早くそうしていくべきだったのではないか。私も祖母から聞いた空襲体験について、なぜもっと伝えてこなかったのか反省しました。
これは、私が小学校3〜4年生の頃、身近な人の戦争体験を作文にする宿題のために、祖母から聞いた話です。もう40年以上前のことで、その作文も学校に提出したきり手元にないので、少しうろ覚えですが、覚えていることを書き残したいと思います。
宿題が出た時、私は母親から、父方の祖母が青山で東京大空襲を経験したはずだから、聞いてみたらと言われました。私が電話で「おばあちゃまの空襲の話を聞かせてほしい」と頼むと、「そう?まあ、良いけど…」とあまり気が進まない様子だったのを覚えています。孫の私の頼み事は、だいたい何でも「いいわよ」と軽く通るので、「もしかして話したくないのかな」と思ったのを覚えています。
祖母は、大正6年、表参道生まれ、表参道育ちでした。祖母の実家、私のひい祖父は、今でいう表参道ヒルズのすぐ裏で病院を開業していました。
空襲の日、祖母は、私の父親と伯母である子どもたちを連れて、当時住んでいた荻窪の家から表参道の実家に帰っていました。私の父親は、喘息や湿疹が酷く体が弱かったので、定期的に治療でお里帰りしていたのです。
まだ1歳の父親をおんぶして、3歳の伯母の手を引いて「2人とも小さかったから、大変だったわ」と体の弱い息子を育てるのが大変だったという、育児の苦労話は、何度も聞かされたものでした。
ことの始まりは、空襲警報が鳴ったからか、ちょっと定かではないのですが…
襲撃の前、子どもたちを連れて外に出ると、周りにいた親切な人に青山墓地の方へ逃げるように言われたそうです。2人の幼子を連れて必死なあまり、何がなんだかわからないうちに手を引かれ、青山墓地方面へ向かうことに。
「敵は目立つ要所を爆撃するから、お墓なら爆撃されないって。機転が効いた人がいたみたいなの」と祖母は言っていました。青山墓地で一緒に逃げた人たちと避難していると、少し離れたところで焼夷弾が落ちる音がしたそうです。
東京大空襲の記事では、襲撃は真夜中に始まり未明まで続いたとのこと。そうだとすると、祖母が青山墓地方面へ逃げてから空襲が終わるまで、かなりの時間だったはずですが、その間の話の記憶があまりありません。私の記憶が曖昧なのもありますが、祖母があまり具体的には語りたがらなかったのも事実です。
祖母も覚えていないのか、思い出したくなかったのかは、わかりません。
ただ、空襲が終わってからのことは、具体的に話してくれました。
おかげさまで祖母たちのいた青山墓地周辺は無事でした。空襲が落ち着くと、ものすごく静かになって、元来た方面を見ると焼け野原が広がっていたそうです。
そして、家は戻る途中、今まで嗅いだことのないような変な匂いが、あたりにしていたそうです。後になって思えば、「あれ、人が焼ける匂いだったのよね」とのこと。
表参道の実家に戻って、自分の逃げた方向と反対の方向をみたら、歩道の植え込みがあったところに、ところどころ黒いものが見えたそうです。祖母は、この見たことのない不自然な黒いものを「なんだろう」と思って、近づいてしっかり見ました。すると、それは、うずくまって黒焦げになった人間でした。思わずゾッとして目を背けたそうです。
「何だか変な真っ黒な塊があって、よく見たら、人だったのよ。驚いたわ。きっと、植え込みに逃げ込んで隠れて、そのまま急に死んじゃったのね。反対方向に逃げていたら、私もああなっていたと思うと、怖いわね」と淡々と話してくれました。
箱入り娘のお嬢様で、性格も人見知りな祖母にとって、知らない人に話しかけられて、ついていくというのは、普段ではありえないことでした。
自分でも笑いながら、「よくついて行ったわよね。でも一緒に行かなかったら、今頃ここにいなかったわね。よく生きていたわよね」と。
おかげさまで、祖母も父も伯母も祖母の実家も無事で良かったという結末で、祖母の話は、あっさり終わりました。
祖母は当時を思い出すように少し遠くを見ていましたが、その目つきは、何も見ていない、無表情で虚な感じだったのを覚えています。
祖母は終始、まるで近所にお買い物に行って「お魚を買ったのよね」とでも言うように、特別な感情も全く表さず淡々と「なんか、こっちにって言うから一緒に行ったのよね」「向こうで、なんか焼夷弾が落ちる音がしたのよね」「あまり覚えていないわ」と言う感じでした。
もともと、感情を露わにする人ではありませんでしたが、それにしても、こんな一大事を淡々と、自分のことではないように普通に話す様子は、子どもながら不思議でした。
今思えば、祖母は、ものすごく大きなショックを受けた、ギリギリを生き抜いた人にしかわからない境地にいたのかもしれません。
あまりの壮絶な体験は、事実として淡々を祖母の中で処理されるしかなかった。涙も、怒りも、悲しみも、何もなく、淡々と語るしかないのかもしれません。
そして、できれば、思い出したくもない、話したくもなかったのだと思います。
祖母の体験談はもちろん大きなインパクトでしたが、それを語るそんな祖母の様子も私の印象に強く残っています。
祖母は存命の間、空襲の話をまともにしたのは、もしかしたら、この一度だったのではないかと思います。
私が祖母に聞いた話を父親にしても、そういう話は聞いたことがないと言われました。また、母親も「空襲にあったという程度で、詳細は、あの時以外聞いたことなかったわね」とのこと。
私も祖母とは月1回くらいは会っていて、昔話もよく聞きましたし、祖母の若い頃の写真も見せてもらっていました。でも、戦争や空襲の話は、その前も後も、聞いたことがありませんでした。
おそらく、無理やり、聞き出した感じになってしまったのだと思います。話している最中も何度も、「こんな話でいいの? これを作文に書くの? へえ、変な話を聞きたがるのね。変な宿題ね」という感じでした。
孫の頼みだから、仕方ないと思ってくれたのでしょう。
ありがとう、おばあちゃま。
広島の原爆体験をされた知人のおばあさまも、長年、その当時の話をしなかったとのこと。恐ろしい思い出は、思い出したくない、話したくないですよね。自分にとって、もう忘れたいことだから。
大人になって色々な映画や話など、キレイにまとまった戦争の経験談を色々と聞いてしまったあまり、祖母のあまりに淡々とざっくりした東京大空襲談は「これ本当に東京大空襲の話だったのかな」と自分の記憶を疑うこともあります。
だけど、思いがけない方向へ逃げる様子、黒焦げの人を見つけた時の話のリアリティは、間違いなく経験した人の目線からしか語れないものでした。
リアルだから、淡々と語られても、こんなにも深く私の中に刻まれたのではないかと思います。年を重ねて、以前より、この話の重要性を感じています。
大袈裟なストーリーがあるわけでもなく、実際に体験した人にとっては、自分の淡々とした日常の中に急に起きた衝撃は、ものすごく複雑な位置付けとして記憶の中に組み込まれるのではないかと思いました。それこそが現実なのだと。
祖母にとっては、戦時中とはいえ、あくまで、淡々とした日常の中に起きた出来事だったのです。
そして、戦争は、そんな当たり前で普通の日常を壊してしまう、恐ろしいものだと言うことを伝え続けないといけないと、つくづく思います。
うろ覚えの記憶で祖母には申し訳ないですが、祖母の貴重な経験が少しでも皆さんに伝わればと心より願っています。
