【掌編小説】『その正論、取扱注意につき』#3
第3章:沈黙の罪と、変態のスタンダード
「……その通りだ」
僕は短く答え、視線をデスクの端へ落とした。
誤魔化す気にもなれなかった。
彼女の言う通り、僕はただ、怖かったのだ。
数年前。
僕は一度だけ、この組織を変えようと本気で動いたことがあった。
看護師が外出訓練に同行するシステムを作れば、患者の自宅復帰率をもっと上げられるのではないかーーー
そう思い立ち、僕は一人で膨大な資料を作った。
全国平均の看護師配置人数とそれに伴うFIMの改善データ、
何年も遡って集めた院内のカルテデータ。
本来の業務を終えた後の深夜や休日を削り、体調を崩してまで根拠を並べた。
そして、
主任と病棟長の前でプレゼンを行った。
現状を変えようとしない上司。
現状に愚痴を言う環境。
現状を良くしたいという思い。
色々なものが滲むプレゼン。
今思えば、口調はかなり強かったかもしれない。
結果は――
何も変わらなかった。
おそらく、それ以上の会議で話題にすら上がらなかったのだろう。
その後、組織論の本を何冊も読んで、僕は悟った。
『組織は、あまり変わらない』と。
波風を立てて疲弊するくらいなら、
自分の手の届く範囲だけを見ていた方がいい。
そうやって、僕は組織に対するシャッターを下ろしたのだ。
その話をぽつりぽつりとこぼすと、後輩は責めるような視線を少しだけ緩めた。
「……そんなことがあったんですね」
「リハビリ介入以外の業務整理はもちろん賛成だ。ただ、正直、僕自身は、学会が自己研鑽扱いでも、そこまで気にしていないんだよ。趣味みたいなもんだしね」
諦めと、ほんの少しの自己正当化。
けれど、
それは「自分が困っていない」というだけの話だった。
それを聞いた後輩の表情が、再びスッと冷やかなものに変わる。
「先輩のような変態がいるせいで、私たち非変態たちが同じような体制を背負わされるんですよ」
「……は?」
「先輩は休日に文献を読んでも苦にならない変態だからいいですよ。でも、普通のスタッフは違います。先輩が『自己研鑽だから無給でいい』と黙って受け入れることで、それがこの部署のスタンダードになるんです。さっきの会議で先輩が黙っていたのは、主任のルールを承認したのと同じです。声を上げようとした私を孤立させて、変化を止める側に回ってるんですよ」
ぐうの音も出なかった。
痛烈な一撃が、僕の胸を深く抉る。
僕は何も言い返せないまま、
パタン、と静かに手帳を閉じた。
カバンを手に取り、立ち上がる。
「……ちょっと、考えさせてくれ」
それだけを言い残し、僕は会議室のドアへと向かった。
てっきりいつもの調子で理屈をこねて言い返してくると思っていたのだろう。
後輩は目を丸くし、
少し驚いたような表情を浮かべながら、
僕の背中をただ黙って見送っていた。
病院を出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
「……お腹減ったな」
胃袋が、情けない音をひとつ鳴らす。
「ラーメン、食べに行こ」
思考でパンパンになった頭を抱えながら、僕は夜の街へ足を向けた。
(続)
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