【掌編小説】『その正論、取扱注意につき』#1
第1章:凍りついた伝達式
「運営会議で話が上がったんだが、最近、部全体の残業が多いとのことだ」
夕方のミーティング。
会議室の片隅で、主任は手元のバインダーから目を離さずに淡々と言った。
「時間外労働は必要な分だけ行うように。それから、部内では以前からアナウンスしている通り、自己研鑽は残業に含まれないので注意してほしい。業務後の勉強会や、学会発表の準備なども同様だ」
主任の抑揚のない声が、静まり返ったスタッフルームに低く響く。
自己研鑽。
業務と個人の学修の境目を曖昧にしがちなその言葉。
その言葉が落ちた瞬間に誰かが小さく息を吐く音が聞こえた。
スタッフの誰もが視線を落とし、手元のメモに目を落とす。
「……ちょっといいですか?」
その重苦しい空気を叩き割るように、勢いよく手が上がった。
隣に座る後輩だ。
「私たちは日々、患者様の環境設定や多職種との調整、カンファレンスに向けた書類作成に追われています。その上で処方単位も目いっぱい取得しているんです。その状況で学会や勉強会の準備まで重なれば、時間外作業にならざるを得ません。『残業を減らせ』と言う前に、もっと他に削減できる業務を探すのが先ではないですか?」
後輩が言い終えると、前の席のスタッフが小さく頷き、すぐに前を向き直した。
だが、
主任は表情を崩さない。
怒るわけでもない。
ただ、上から降りてきた言葉をなぞるように、静かに返した。
「なるほど。言いたいことは分かるよ。ただね、時間外にならないように日頃からコツコツ計画的に進めるなど、個人の工夫で時間を超えないようにしていくのも大事なアプローチではないのかな」
すれ違い。
噛み合わない議論。
主任は手元の時計をチラリと見て、周囲に視線を投げかけた。
「他に、意見のある人はいますか?」
その問いかけに対して、
主任と目を合わせようとする者は誰一人いなかった。
空調の低い唸り声だけが響く。
モヤモヤとした怒りを滲ませながら、後輩が椅子に座り直した。
そして、横に座る僕の袖をぐいっと引っ張り、小声で囁いてきた。
「先輩も、なんか言ってくださいよ……!」
僕は、顎に手を当てたまま、じっと思考を巡らせていた。
(ここで僕が加勢して、「そうです、業務を減らすべきです」と言ったところで、主任はどう動く? 「上からの決定事項だから」と門前払いされるか。それとも、主任の防衛本能に火をつけて、余計にガードを固めさせるか……)
感情をぶつけても、相手は変わらない。
……たぶん。
今ここで声を上げるのは、本当に最善手なのか。
「ちょっと、先輩……!」
「……特に意見もなさそうなので、皆さん、各自注意しながら取り組むように。以上」
主任はそう告げると、バインダーをパタンと閉じて席を立った。
不完全燃焼のまま終わった会議室で、後輩は燃えさかるようなジト目を僕に向けていた。
(続)
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