
note60 『ポンヌフの恋人』と『山羊の歌』について。/前回のつづき
カラックスの映画を取り憑かれたように繰り返し観て中也の詩集をお守りのように持ち歩いていたあの時の自分はなんだったのだろう。そんなことを前回のnoteに書いた。
あの時の自分は渡らなければいけなかった橋を懸命に渡ろうとしていた。そんなことを書いた。
だけどあの時から遠くにきた? 前に進んだ? 大人になった? と問いかければぼくはわからなくなる。もちろん年をとって見た目は変わっているけれどこころはむしろあの時の自分よりも脆く幼くなったような気もする。
3年くらい前から体調を崩すようになってわかってしまったというか。こころってやっぱり体の一部なんだなぁ、とわかってきたというか。
『ポンヌフの恋人』をふたたび観て考えたのは過剰に生きてしまうこととはなにか、ということだ。どうしても自分の中から溢れ出てしまうものがあるということ。「ただ生きる」ということがなぜできないのか、ということ。いやもしかしたらできてしまうこと。ぼくとあなた以外は「そうじゃない」ことがわかってしまうこと。
やっぱり圧倒される。最初に観た時からどれくらい経ったのだろう。当たり前だけど劇中のふたりは年をとらない。そのことに感動してしまう。そのことが恐ろしくなってしまう。
そして。ふたたび『山羊の歌』を読んだのも昨年だった。いまの暮らしの中で。いつの間にかできてしまったぼくの隙間に。言葉をぶつけていく。
地平の果に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆しのやうだった。
噫、生きていた、私は生きていた!
『少年時』
私は残る、亡骸として―
血を吐くようなせつなさかなしさ。
『夏』
ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
『いのちの声』
前回のnoteにカラックスの映画を観た時に感じたことと中也の詩を読んだ時に感じたことを「どこかに連れていってくれるようでいてどこにも連れていってはくれない」と書いた。たしかに景色は変わって色も変わってなにかが自分の中に起きているのだけれど目の前の世界はなにも変わっていない。そんな感じのことを言いたかったのだと思う。
ぼくは詩を書くこと、詩を読むことはこころの中にそうした不思議な「なにか」が生まれることだと思っている。カラックスと中也に自分の作品を並べるのはおこがましいけれどぼくは自分の詩のリーディングの練習をしている時にそんな「なにか」がこころの中に現れることがある。もちろんいつも現れてほしいと思っているけれど必ずそうなるものではない。とくに本番はいろいろなことを気にしたり考えたりしなくてはいけないせいか、あまりそういう瞬間は訪れてくれない。うまく読まなきゃ、と意識してしまうとそれはやってこないのかもしれない。
詩を読む時は自分から少し離れることができる。離れすぎてもいけない。自分を演じるのではない。なんだろう。なんて言えばいいのだろう。物語過多になってはいけない。詩を声にする。詩が動き出す。こころがザラザラする。
カラックスの映画も。中也の詩も。思いがけない記憶が蘇る。それがほんとうの記憶なのかもわからない。色があって。音もあって。こころの中のザラザラしたところ。ふれていく。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
『盲目の秋』