
【創作】シロと、いのちのバトン ~ 悲しさは、愛の大きさ ~
第一章 しんとした家
ゆいは、自分の気持ちをうまく言葉にできないでいた。
お父さんとお母さんが別居してから、一年以上が経つ。離婚という言葉の意味は、もちろん知っていた。でもそれが自分の家のことになると、頭では理解できていても、心のどこかがずっとついてこなかった。悲しい、というより、何かが胸の中に引っかかったまま取れない感じ。そういう状態が、ずっと続いていた。
学校では笑えた。友達といれば楽しかった。でも一人になると、また胸の奥にあのつっかかりが戻ってくる。
秋のある週末、お母さんに連れられて、おじいちゃんとおばあちゃんが暮らしていた古い家を訪れた。二人が亡くなってから数年が経ち、今は誰も住んでいない。
玄関を開けると、古い木の匂いと、かすかな線香の残り香がした。廊下はしんとしていて、自分の足音だけが響いた。誰かが住んでいたはずなのに、今はもぬけの殻。その静けさが、なぜかゆいの今の気持ちに似ていると思った。
縁側に出ると、白い猫が日向に丸くなっていた。
シロだ。おじいちゃんが十年以上かわいがっていた猫で、今は近所の人が餌をやりながら世話をしているらしい。毛並みはすっかり年老いてくすんでいたが、目だけが澄んでいて、まるで何かを見通しているようだった。
「シロ、久しぶり」
声をかけると、シロはゆっくりとゆいを見た。それから立ち上がり、縁側から家の中へと歩いていった。まるでゆいを案内するように。
ゆいは、なぜかその後をついていった。
第二章 写真の中の時間
シロが止まったのは、仏壇のある和室だった。
部屋に入ると、線香の匂いが濃くなった。仏壇の横の棚には、アルバムや写真立てが並んでいた。ゆいはそれを、一枚一枚、ゆっくり見ていった。
赤ちゃんのころのゆい。お母さんが小学生だったころの写真。結婚式のもの。おじいちゃんとおばあちゃんが若いころに二人で写っているもの。その背景には、今とは違う街並みが広がっていた。
ゆいはしばらく、おじいちゃんとおばあちゃんの若いころの写真を見つめた。
この人たちも、自分と同じくらいの年齢だったことがあったんだ。学校に行って、友達と笑って、悩んで、泣いたこともあったはずだ。それでもこうして生きて、お母さんを育てて、ゆいが生まれるところまでつないでくれた。
写真の中の二人は笑っていた。その笑顔が、急にずっと近くに感じられた。
シロは仏壇の前に座り、静かに目を閉じた。
その横顔を見ながら、ゆいは思った。シロも、ずっとここにいたんだ。おじいちゃんたちがいた時間を、この猫は全部知っている。
第三章 眠れない夜
その夜、ゆいは古い家に泊まることになった。
お母さんはすぐに寝息を立てたが、ゆいは眠れなかった。古い天井を見上げながら、頭の中がぐるぐるした。
お父さんとお母さんが別々になったのは、自分のせいだったのだろうか。もっとうまくやれていたら、二人の間がぎくしゃくすることもなかったのかもしれない。そんな考えが、消えようとしてはまた浮かんでくる。
理屈では違うと分かっている。先生も、お母さんも、子どものせいじゃないと言った。でも夜になると、感情は理屈を聞かなくなる。
隣でシロがくるりと丸くなった。その温もりが布団越しに伝わってきた。
ゆいはシロの背中にそっと手を当てた。やわらかくて、小さく上下している。生きている。その感触だけが、今夜の自分には確かなものだった。
いつの間にか、眠っていた。
第四章 夢の中のおばあちゃん
夢の中で、ゆいは仏壇の部屋にいた。
昼間と同じ部屋なのに、光の質が違った。やわらかくて、どこか遠い感じがした。
気がつくと、おばあちゃんが目の前に座っていた。シロもいた。そしておじいちゃんも、少し離れたところで静かに座っていた。
おばあちゃんはゆいをじっと見て、こう言った。
「ゆい。最近、悲しそうだね」
「……うん」
「その悲しさを、どこかに押し込もうとしていない?」
ゆいは少し考えてから、うなずいた。
おばあちゃんは、静かに首を振った。
「押し込まなくていい。ゆい、悲しさというのはね、うれしさと表裏一体のものだよ」
「表裏一体?」
「一枚の紙を思い浮かべてごらん。表と裏は、別々に存在できない。表があるから裏があり、裏があるから表がある。感情も同じだよ。うれしいがあるから悲しいがある。悲しいがあるから、うれしいが分かる。どちらかだけの人間なんて、いないんだよ」
ゆいは黙って、その言葉を胸の中で転がした。
「じゃあ……わたしが今、こんなに悲しいのは」
「そう。あなたが深く誰かを愛してきた証拠だよ。お父さんもお母さんも大切だったから、悲しい。一緒にいた時間が温かかったから、その変化が痛い。悲しさの大きさは、そのまま愛の大きさなんだよ」
ゆいの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「おばあちゃん……わたし、悲しんでいいの?」
「いいんじゃなくて、悲しまなきゃいけない。感情というのはね、ちゃんと感じ切ったときに初めて、前へ進める。無理に蓋をすると、感情は消えずに心の中に居続ける。それがいつか、別の形で出てくる」
「感じ切る、って?」
「泣きたければ泣く。怒りたければ怒る。そのままにしておく。感情は川の流れと同じで、せき止めなければ自然に流れていくんだよ」
シロが、ゆいの膝に静かに前足を乗せた。
「ゆい、もう一つ聞いていい?あなたが誰かを愛せるのは、なぜだと思う?」
ゆいは少し考えた。
「……愛してもらったから?」
「そうだよ。愛することは、受け取ってきたものを使うことでもある。お父さんとお母さんから愛をもらった。二人はおじいちゃんとわたしからもらった。そのまた前の人たちから、ずっとずっと受け取ってきた愛が、今のあなたの中に流れているんだよ」
「だからね、ゆい。あなたの悲しみは、あなただけのものじゃない。それはずっと前から続いてきた、大きな愛のつながりの一部なんだよ」
おじいちゃんは、ずっと何も言わなかった。ただ、深くうなずいていた。
「おばあちゃん。わたし、ちゃんと悲しんでいい?」
「いいんだよ。ちゃんと感じ切って。そうしたら、その悲しみがいつか、誰かの痛みに寄り添える力になるから。悲しんだことのある人だけが、本当の意味で誰かにやさしくなれる。それは間違いない」
第五章 シロの傷
目が覚めると、朝の光が障子を白く染めていた。
ゆいはしばらく、天井を見ていた。夢の内容はまだはっきり覚えていた。いや、夢というより、何か大切なことを教えてもらった感覚が残っていた。
頬が少し濡れていた。眠りながら、泣いていたらしい。でも不思議と、胸が軽かった。昨夜あれほど重かったものが、少しだけほどけた気がした。
縁側に出ると、シロが朝日の中でうとうとしていた。ゆいはその隣に腰を下ろした。
しばらくして、シロが前足の内側を丁寧になめ始めた。よく見ると、そこに古い傷跡があった。毛が薄くなって、皮膚が少しかたくなっている。
「シロ、それ、痛かったんだね」
シロはゆいを見て、ゆっくりとまばたきをした。
ゆいは思った。この猫は、ずっとここにいた。おじいちゃんが元気だったころも、病気になったころも、亡くなったあとも。その間に色々なことがあったはずだ。傷だってついた。それでも今、こうして朝日の中で温かくそこにいる。
痛みを抱えながらも、生きていること。それがどれほどのことか、ゆいには今日初めてわかった気がした。
シロがゆいの膝に乗ってきた。重くて、温かかった。
ゆいは仏壇の部屋の方を見た。写真の中のおじいちゃんとおばあちゃんも、お母さんも、みんなそれぞれの痛みを抱えて生きてきたはずだ。それでも次へつないでくれた。自分は、その続きにいる。
第六章 手を合わせる
朝ごはんの前に、ゆいは一人で仏壇の部屋へ行った。
仏壇の前に正座して、写真を一枚一枚、改めて見た。若いころのおじいちゃん。笑っているおばあちゃん。お母さんが赤ちゃんだったころの写真。そして自分が生まれた日の写真。
みんなが順番につないできて、今の自分がいる。その事実が、今日は昨日よりずっと、実感を持って伝わってきた。
ゆいは手を合わせた。
「おじいちゃん、おばあちゃん。ここまでつないでくれてありがとう。わたし、あなたたちのことほとんど知らないけど、でも確かにあなたたちがいたから、わたしがいる。それだけは分かった」
声が少しふるえた。
「お父さんとお母さんも、きっとそれぞれがんばってると思う。二人の間がうまくいかなかったのは、わたしのせいじゃないって、今日は少しだけそう思えた。二人がいたから、わたしがいる。それは変わらないから」
言葉にすることで、何かが少しずつ整理されていく気がした。
シロがいつの間にか隣に来て、ゆいの腕にそっと頭を乗せた。
ゆいはシロをなでながら、思った。受け取ってきたものが、こんなにたくさんある。悲しみも、温かさも、愛も、痛みも。それぜんぶが自分をつくっているものだ。そしてそれをこれから、自分なりのやり方で渡していくんだ。
第七章 バトン
帰り支度をして玄関を出ると、シロが塀の上に乗って見送っていた。
ゆいは立ち止まって、シロと目を合わせた。
この猫もいつか死ぬ。おじいちゃんもおばあちゃんも、もういない。人はみんな、どこかで終わる。でも、その人たちが残したものは消えない。温かさも、言葉も、愛も、記憶も。それを受け取った人がまた次へ渡していく。
バトンというのは、走り続けなくていい。ただ受け取って、次の人に手渡すだけでいい。
自分がこれからだれかに優しくできたとき、だれかの悲しみに寄り添えたとき、それがこれまで受け取ってきたものへの返事になる。悲しんだことのある人だけが、本当にやさしくなれる、とおばあちゃんは言った。ゆいはその言葉を、今は素直に受け取れた。
空を見上げると、雲の向こうに青が広がっていた。おじいちゃんもおばあちゃんも、あの向こうのどこかでゆいを見ているかもしれない。
「見ててね」
小さくつぶやいた。シロが塀の上から、静かにまばたきをした。
ゆいは深呼吸して、歩き出した。昨日より少しだけ、背筋が伸びていた。
第八章 ありがとう
家に帰ったのは、夕方だった。
お母さんがキッチンで夕飯の準備をしていた。トントンと包丁の音が聞こえた。
ゆいはランドセルを置いて、キッチンへ行った。お母さんの後ろに立って、しばらく何も言えなかった。
「お母さん」
「なあに?」
ゆいは少し間を置いてから、言った。
「産んでくれて、ありがとう」
お母さんの手が止まった。
しばらく何も言わなかった。それからゆっくり振り返って、ゆいを見た。その目が、みるみる赤くなった。
お母さんはゆいをそっと抱きしめた。ゆいも、その背中に手を回した。
二人とも、泣いた。
でも二人とも、泣きながら、笑っていた。
悲しみが消えたわけじゃない。家のことも、これからのことも、まだ分からないことだらけだ。でも今日、ゆいは一つのことを知った。
悲しみの中には、必ず愛がある。悲しめるのは、愛しているからだ。その愛は、ずっと前から続いてきたものだ。そしてこれから、自分が渡していくものになる。
そう思ったとき、胸の奥にあったあのつっかかりが、すっとほどけた気がした。
おわりに
悲しいとき、その気持ちを隠さなくていい。
悲しめるということは、あなたの心がちゃんと生きているということだ。そして、その悲しさはあなたが誰かを深く愛してきた証拠でもある。
愛することができるのは、あなたがこれまでたくさんの愛を受け取ってきたからだ。その愛は、あなたが生まれるずっと前から、何代にもわたって続いてきたものだよ。
あなたの後ろには、長い長い時間の中でつながってきた、たくさんの人がいる。その人たちの選択と、愛と、苦しみの続きに、あなたはいる。
だから、あなたはひとりじゃない。
悲しみをちゃんと感じ切ったとき、その悲しみはいつか、誰かに寄り添える力に変わる。
それが、受け取ってきたものを次へ渡していくということだ。
今日も、力強く生きていける。
おわり