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介護は、“誰かの安心”になる仕事だった


    #創作大賞2026
    #お仕事小説部門

    あらすじ
    新卒でデイサービスに入職した私は、90歳のアルツハイマー型認知症のおばあちゃんと出会う。お風呂介助を激しく拒否し、怒鳴り、職員に暴力を振るう姿に、私は恐怖を感じていた。何度も心が折れ、“介護士に向いてない”と悩む日々。しかし先輩から「この人は怖いんだよ」と言われたことをきっかけに、私は“介助”ではなく“不安に寄り添う”ことを意識し始める。少しずつ心を開いていくおばあちゃんと、成長していく新卒介護士。認知症介護のリアルと、人と向き合う温かさを描いたお仕事小説。

    本編

    春だった。

    駅前の桜がまだ少し残っていて、新しいスーツを着た人たちがたくさん歩いていた。

    私もその中の一人だった。

    新卒の介護士。

    大学で福祉を学び、「高齢者と関わる仕事がしたい」と思って入ったデイサービス。

    介護の仕事に、不安がなかったわけじゃない。

    でも、それ以上に“楽しみ”の方が大きかった。

    大学の実習で出会った利用者さんたちは優しかったし、「ありがとう」って言われるたびに、この仕事いいなって思ってた。

    “人の役に立てる仕事”

    そう信じてた。

    初出勤の日。第一火曜日。

    先輩職員に案内されながらフロアへ入ると、利用者さんたちが一斉にこっちを見た。

    「新人さん?」

    「若いねぇ〜!」

    「かわいい顔してるじゃない」

    何人かのおばあちゃんが笑いながら手を振ってくれる。

    私は緊張しながら頭を下げた。

    その空気が、なんだか少し安心した。

    介護施設って、もっと静かで暗い場所だと思ってたから。

    でも実際は違った。

    テレビの音。
    利用者さんたちのおしゃべり。
    職員の笑い声。

    “生活”の音がちゃんとある場所だった。

    先輩たちはみんな忙しそうだった。

    送迎対応して、トイレ介助して、お茶出して、レクリエーション準備して。

    ずっと動いてる。

    でも、その忙しさの中にも優しさがあった。

    利用者さんに自然に声をかけて、笑わせて、安心させて。

    「すごいなぁ」

    純粋にそう思った。

    私も早く、あんな介護士になりたかった。

    でも、その数日後。

    私は初めて、“現場”を知ることになる。

    「嫌ぁぁぁぁぁぁ!!!」

    突然、フロア中に響いた怒鳴り声。

    私はビクッとして固まった。

    浴室の方からだった。

    先輩たちが一気に走る。

    私も慌てて後を追った。

    そこで見た光景、今でも忘れられない。

    小柄なおばあちゃんが、職員を叩いていた。

    「触るな!!!」

    細い腕を振り回して、必死に抵抗している。

    「帰る!!帰る!!!」

    職員のエプロンを掴み、押し返す。

    90歳とは思えない力だった。

    私は入口で立ち尽くした。

    怖かった。

    先輩たちは慣れた様子で対応していた。

    「森さん、大丈夫ですよ〜」

    「すぐ終わりますからね」

    でも、おばあちゃんは全然聞いていない。

    泣きながら暴れていた。

    その姿が、私には衝撃だった。

    “認知症”

    言葉では知ってた。

    大学でも勉強した。

    でも私はどこかで、“優しくて穏やかなおじいちゃんおばあちゃん”を想像していた。

    こんな風に怒鳴って、暴れて、人を叩くなんて思ってなかった。

    休憩中、私は先輩に聞いた。

    「さっきの方って……?」

    先輩は麦茶を飲みながら言った。

    「ああ、森さんね。アルツハイマー」

    90歳、女性。
    森さん。
    デイサービス利用歴3年。

    特にお風呂介助が大嫌いで、毎回拒否があるらしい。

    「新人のうちは、無理に関わらなくていいよ」

    先輩はそう言って笑った。

    私は少しホッとした。

    正直、かなり怖かったから。


    送迎車から降りる時から不機嫌だった。

    「帰る!!」
    「ここ嫌い!!」

    職員がなだめても怒鳴る。

    フロアでも不穏になることが多かった。

    他の利用者さんに怒る時もある。

    「うるさい!!」

    テーブルを叩くこともあった。

    私は自然と、その人を避けるようになった。

    怖い。

    どう関わればいいか分からない。

    笑顔で話しかけても、

    「放っといて!!!」

    って怒鳴られる。

    そのたびに心が縮こまる。

    大学で習った“寄り添うケア”なんて、頭から吹き飛んだ。

    現場は綺麗事じゃなかった。

    先輩たちはすごかった。

    怒鳴られても、叩かれても、ちゃんと対応してる。

    でも私は、近づくだけで緊張してた。

    ある日。

    送迎の時間だった。

    娘さんが迎えに来ていた。

    50代くらいの女性。

    疲れた顔をしていた。

    職員が今日の様子を説明すると、娘さんは深く頭を下げた。

    「本当にすみません……」

    「家でも最近ひどくて……」

    声がかすれていた。

    私は少し驚いた。

    認知症で大変なのは、本人だけじゃないんだ。

    家族も、ずっと戦ってるんだ。

    娘さんは続けた。

    「夜中も起きちゃって、“帰る”って玄関行くんです」

    「家なのに……」

    最後の方、少し泣きそうだった。

    私は何も言えなかった。

    その日、帰り道でずっと考えてた。

    認知症って何なんだろう。

    昨日まで普通に暮らしてた人が、家も家族も分からなくなる。

    怖くないわけない。

    でも、その時の私はまだ。

    “理解すること”と“関われること”は別だった。

    数週間後。

    私は初めて、その森さんのお風呂介助につくことになった。

    「大丈夫、横についてるだけでいいから」

    先輩に言われ、私はぎこちなく浴室へ向かった。

    森さんはその時点で怒っていた。

    「嫌!!!」

    「帰る!!!」

    脱衣所で立ち止まり、職員を睨む。

    私は怖くて声が出なかった。

    先輩が優しく説得する。

    「森さん、お風呂入ったら気持ちいいですよ〜」

    でも森さんは叫ぶ。

    「触るな!!!」

    その瞬間だった。

    森さんの手が、私の腕を強く叩いた。

    パシン、という音がした。

    私は固まった。

    痛かった。

    でも、それ以上にショックだった。

    私は何もしてないのに。

    怖くて、情けなくて、涙が出そうだった。

    介助が終わった後、私はトイレにこもった。

    個室の中で、小さく泣いた。

    “向いてないかもしれない”

    初めてそう思った。

    利用者さんが怖いなんて、介護士失格だ。

    でも怖かった。

    また怒鳴られるかもしれない。
    また叩かれるかもしれない。

    そう思うだけで胃が痛くなった。

    しばらくして、先輩がトイレの前に来た。

    「大丈夫?」

    私は慌てて涙を拭いた。

    休憩室に戻ると、先輩が隣に座った。

    「叩かれた?」

    私は小さく頷いた。

    すると先輩は、静かに言った。

    「でもね、あの人、本当は怖いんだと思うよ」

    「え……?」

    「知らない場所に連れて来られて、知らない人に服脱がされて、お風呂入れられるんだよ」

    私は言葉を失った。

    その発想がなかった。

    私たちは“介助”だと思ってる。

    でも本人からしたら、“意味の分からないこと”なのかもしれない。

    先輩は続けた。

    「認知症の人って、“できない人”じゃなくて、“不安な人”なんだよね」

    その言葉が、ずっと頭から離れなかった。

    その日の帰り道。

    私は電車の窓をぼーっと見ながら考えていた。

    私はずっと、“どう介助するか”ばかり考えてた。

    でも、森さんは、もしかしたら、ずっと“助けて”って言ってたのかもしれない。

    まだその時の私は、“寄り添う”の意味を全然分かってなかった。

    「おはようございます」

    朝、デイサービスの扉を開ける。

    利用者さんたちの声。
    テレビの音。
    消毒液の匂い。

    入職して数ヶ月。

    少しずつ仕事には慣れてきていた。

    送迎も覚えた。
    トイレ介助も、食事介助も、レクリエーションも。

    先輩に頼らなくても動けることが増えてきた。

    でも。。。

    第一金曜日。森さんがくる日。

    送迎車が到着する音がすると、自然と身体が緊張する。

    「今日はどうかな」

    そんなことを考えてしまう。

    その日も、車から降りた瞬間から不機嫌だった。

    「帰る!!!」
    「ここ嫌い!!!」

    職員が声をかけても、怒ったまま。

    私は少し離れた場所で見ていた。

    すると先輩が小さく笑った。

    「ぴすちゃん、今日はお風呂担当ね」

    私は一瞬固まった。

    「……私ですか?」

    「うん。いつまでも避けてられないからね」

    分かっていた。

    いつかはちゃんと向き合わなきゃいけない。

    でも正直、怖かった。

    また叩かれるかもしれない。

    また怒鳴られるかもしれない。

    そんなことばかり頭に浮かぶ。

    お昼過ぎ。

    ついにお風呂の時間になった。

    脱衣所へ向かう途中から、森さんは不穏だった。

    「嫌!!!」
    「帰るって言ってるでしょ!!!」

    フロア中に声が響く。

    他の利用者さんたちも、少し心配そうに見ていた。

    私は笑顔を作ろうとした。

    「森さん、お風呂気持ちいいですよ」

    でも声が少し震えていた。

    森さんは私を睨みつけた。

    「嫌だ!!!」

    そして、腕を振り払われた。

    私は反射的に身体が引いた。

    怖い。

    その感情が、顔に出てしまった気がした。

    先輩がすぐ横に来る。

    「大丈夫、大丈夫」

    でも私は、大丈夫じゃなかった。

    脱衣所で、森さんは泣き始めた。

    「帰りたい……」

    その声は怒鳴り声というより、“怯えてる声”に聞こえた。

    でも私は余裕がなかった。

    どうしたらいいか分からない。

    先輩みたいに上手く声もかけられない。

    すると突然、森さんが私の腕を強く掴んだ。

    「やめて!!!」

    そのまま、叩かれた。

    パシン、と乾いた音。

    一瞬、頭が真っ白になった。

    周りの音が遠くなる。

    怖かった。

    悲しかった。

    情けなかった。

    介護士なのに。

    利用者さんにこんな感情持っちゃダメなのに。

    介助が終わった後、私はそのままトイレへ向かった。

    個室に入った瞬間、涙が出た。

    静かに泣いた。

    “向いてない”

    その言葉ばっかり頭に浮かぶ。

    大学では、「利用者さんの気持ちに寄り添いましょう」って習った。

    でも現実は違う。

    怒鳴られる。
    叩かれる。
    拒否される。

    優しくしたいのに、怖くて近づけない。

    しばらくして、コンコン、とドアが鳴った。

    「ぴすちゃん?」

    先輩だった。

    「大丈夫?」

    私は慌てて涙を拭いた。

    「すみません……」

    休憩室に戻ると、先輩が隣に座った。

    しばらく沈黙が流れる。

    その後、先輩がぽつりと言った。

    「怖かったよね」

    私は小さく頷いた。

    すると先輩は、優しく笑った。

    「みんな最初はそうだよ」

    私は少し驚いた。

    先輩たちは、最初から何でもできる人だと思ってたから。

    「でもね」

    先輩は続けた。

    「あの人、本当はすごく怖いんだと思う」

    私は顔を上げた。

    「怖い……?」

    「認知症って、自分がどこにいるか分からなくなる時あるから」

    「……」

    「知らない場所に連れて来られて、知らない人に服脱がされて、お風呂入れられるんだよ」

    私は何も言えなかった。

    その発想が、本当になかった。

    私たちは“介助”してるつもりだった。

    でも、おばあちゃんからしたら。

    突然知らない場所で囲まれて、身体を触られてる感覚なのかもしれない。

    先輩は続けた。

    「認知症の人って、“困らせたい人”じゃないんだよ」

    「不安でいっぱいなだけ」

    その言葉が、胸に刺さった。

    私はずっと、“どう介助するか”ばかり考えてた。

    上手くお風呂入れるにはどうするか。
    拒否されたらどう動くか。

    でも、“何で嫌なのか”を考えたことなかった。

    夕方。

    帰る前、おばあちゃんはフロアの隅で窓の外を見ていた。

    さっきまで怒鳴っていた人とは思えないくらい静かだった。

    小さな背中。

    私は少し迷ってから、隣に座った。

    何を話せばいいか分からなかった。

    でも、逃げたくなかった。

    「……今日は暑かったですね」

    おばあちゃんは何も言わない。

    私は続けた。

    「お花、好きですか?」

    すると少しだけ、こっちを見た。

    その目を見た瞬間。

    私は初めて思った。

    この人は、“怖い利用者さん”じゃない。

    不安で仕方ない90歳のおばあちゃんなんだって。

    帰り際。

    送迎車へ向かう時、おばあちゃんが小さく呟いた。

    「家、帰りたいなぁ……」

    その声が、ずっと耳に残った。

    あの日から。

    私は少しずつ、“認知症”を見る目が変わり始めていた。

    第二火曜日。

    私は朝から少し緊張していた。

    でも、前みたいに“逃げたい”だけではなかった。

    森さんに対して、怖さ以外の感情が少しずつ増えていたから。

    “なんであんなに怒るんだろう”

    じゃなく、

    “何が不安なんだろう”

    そう考えるようになっていた。

    送迎車が到着する。

    職員が扉を開けると、いつものように森さんが不機嫌そうに降りてきた。

    「帰る!!」

    「こんなところ嫌!!」

    でも前より少しだけ、その言葉の聞こえ方が違った。

    怒ってるというより、“助けを求めてる”みたいだった。

    その日、私は先輩に言った。

    「今日、お風呂……私メインでやってみてもいいですか」

    先輩は少し驚いた顔をした後、笑った。

    「いいじゃん。やってみな」

    正直、自信なんかなかった。

    また叩かれるかもしれない。

    拒否されるかもしれない。

    でも、今度は逃げたくなかった。

    お昼過ぎ。

    お風呂の時間。

    脱衣所へ向かう途中から、森さんはやっぱり不穏だった。

    「嫌!!!」
    「帰るって言ってるでしょ!!!」

    私は深呼吸した。

    “説得しようとしない”

    そう決めていた。

    脱衣所の前で、森さんは立ち止まった。

    「嫌だ!!!」

    私はその前にしゃがんだ。

    目線を合わせる。

    そして、小さく言った。

    「怖いですよね」

    その瞬間。

    森さんが少し黙った。

    私は続けた。

    「知らない場所で急に服脱ぐの、嫌ですよね」

    周りが少し静かになる。

    先輩たちも、何も言わず見守っていた。

    森さんはまだ怒った顔だった。

    でも、その目が少しだけ揺れた気がした。

    私はタオルを触りながら言った。

    「でも、お風呂入ったら気持ちいいかもしれませんよ」

    「……」

    「すぐ終わります。一緒に頑張りましょう」

    沈黙。

    数秒なのに、すごく長く感じた。

    そして森さんが、小さく言った。

    「……すぐ終わる?」

    私は思わず大きく頷いた。

    「はい!」

    その日。

    森さんは、大きく暴れなかった。

    もちろん拒否はあった。

    途中で「嫌!」って言う場面もあった。

    でも前みたいに叩いたり、泣き叫んだりはしなかった。

    私は介助しながら、少し泣きそうだった。

    嬉しかった。

    介助が終わった後、先輩が小さく笑った。

    「すごいじゃん」

    私は首を振った。

    “すごい”んじゃない。

    多分今まで、ちゃんと見れてなかっただけだ。

    その日から、少しずつ森さんとの距離が変わった。

    フロアで隣に座る時間が増えた。

    無理に会話はしなかった。

    ただ、一緒にテレビ見たり、お茶飲んだり。

    すると、少しずつ向こうから話してくれるようになった。

    「昔ね、お花屋さんで働いてたの」

    初めて聞く昔話だった。

    「え、そうなんですか?」

    「百合が好きだった」

    その時の森さん、すごく穏やかな顔してた。

    認知症の人って、“何も分からない人”じゃない。

    ちゃんと人生があった人なんだ。

    当たり前のことなのに、私はやっと実感した。

    ある日、昼食の時間。

    私がお茶を配っていると、森さんが突然言った。

    「あなた、優しい顔してるねぇ」

    私は一瞬止まった。

    そんな風に言われると思ってなかった。

    「……ありがとうございます」

    そう返すのが精一杯だった。

    でも本当は、泣きそうだった。

    介護士になってから、“ありがとう”は何回も言われた。

    でもその言葉は、なんか違った。

    “ちゃんと見てもらえた”気がした。

    夏が終わる頃には、森さんの暴力も少し減っていた。

    もちろん、ゼロじゃない。

    不穏な日もある。

    怒鳴る日もある。

    でも、“落ち着ける時間”が増えた。

    そして何より、笑うことが増えた。

    職員みんな、その変化に気づいていた。

    ある日、先輩がぽつりと言った。

    「森さん、ぴすちゃん来てから変わったよね」

    私は慌てて首を振った。

    「そんなことないです」

    でも先輩は笑った。

    「いや、あるよ」

    「多分、“安心できる人”になったんだと思う」

    その言葉が、胸に残った。

    介護って、“何かしてあげる仕事”だと思ってた。

    でも違った。

    認知症の人を変えるんじゃない。

    安心してもらう仕事なんだ。

    そのことを、私は森さんから少しずつ教わっていた。
    秋を過ぎた頃には、森さんは前よりずっと穏やかになっていた。

    もちろん、認知症が治ったわけじゃない。

    「帰る!!」って怒る日もある。
    急に不安になって泣く日もある。

    でも、最初みたいに毎回暴れることは減った。

    特にお風呂。

    あれだけ拒否していたのに、今では私の顔を見ると、

    「今日お風呂?」

    って聞いてくれるようになった。

    私はその変化が、嬉しかった。

    介護士って、“ありがとう”がやりがいってよく言われる。

    でも実際は、そんな綺麗なことばかりじゃない。

    身体もきつい。
    人手も足りない。
    夜は眠れないくらい落ち込む日もある。

    向いてないって思ったこと、何回もあった。

    でも。

    森さんと関わる時間だけは、不思議と“介護士でよかった”って思えた。

    ある日、送迎の時だった。

    娘さんが迎えに来ていた。

    前より少しだけ、表情が柔らかくなっていた。

    職員が今日の様子を伝える。

    「今日はレクでたくさん笑ってましたよ」

    すると娘さんが、小さく笑った。

    「最近、家でも穏やかなんです」

    私はその言葉に思わず顔を上げた。

    娘さんは続けた。

    「前まで毎日、“帰る”って怒鳴ってたんです」

    「夜中も何回も起きて……私もずっとイライラしてしまって」

    声が少し震えていた。

    「でも最近、“デイ楽しかった”って言うんです」

    その瞬間。

    娘さんの目から涙が落ちた。

    「本当にありがとうございます……」

    私は何も言えなかった。

    むしろ、こっちが泣きそうだった。

    介護って、利用者さん本人だけじゃない。

    家族の人生も変えてしまう。

    好きだから頑張れる、なんて簡単な話じゃない。

    毎日怒鳴られて、暴力があって、終わりが見えなくて。

    家族ほど、壊れていく。

    だから私は、娘さんの涙を見て思った。

    “頑張ってたんだな”

    って。

    冬が近づいていた。

    窓の外の木が少しずつ色を失っていく。

    その日、森さんは珍しく静かだった。

    レクリエーションの後、窓際に座って外を見ていた。

    私は隣に座った。

    「寒くなってきましたね」

    すると森さんが、小さく笑った。

    「冬は嫌い」

    「寒いから?」

    「寂しいから」

    その言葉に、私は何も返せなかった。

    しばらく沈黙が流れる。

    でも、不思議と嫌な空気じゃなかった。

    最初はあんなに怖かったのに。

    怒鳴り声を聞くだけで身体が緊張してたのに。

    今は隣に座る時間が、少し好きだった。

    帰りの時間。

    送迎車へ向かう前、森さんが急に私を呼んだ。

    「ぴすちゃん」

    私は駆け寄った。

    すると森さんが、私の手を握った。

    小さくて、冷たい手だった。

    でも最初より、ずっと柔らかかった。

    森さんは私の顔を見ながら言った。

    「ありがとうねぇ」

    その声は、とても優しかった。

    私はその瞬間、涙が止まらなくなった。

    介護士になってから、辛いことはたくさんあった。

    怒鳴られた日。
    叩かれた日。
    トイレで泣いた日。

    “向いてない”

    そう思った日も、一度じゃない。

    でも。

    森さんは、そんな私を介護士にしてくれた人だった。

    暴力も。
    拒否も。
    不穏も。

    全部、“助けて”だったのかもしれない。

    認知症の人を変えることはできない。

    記憶を戻すこともできない。

    でも、不安を減らすことはできる。

    安心できる場所を作ることはできる。

    私は、森さんからそれを教わった。

    送迎車が出発する。

    窓越しに森さんが小さく手を振った。

    私は深く頭を下げた。

    その姿が見えなくなるまで、ずっと。

    春。

    何も分からなかった新卒介護士は。

    冬になって、少しだけ“介護士”になれていた。

    介護士4年目になった今でも、たまに新人時代を思い出す。

    特に冬。

    冷たい風が吹く帰り道とか、送迎車の暖房の匂いを感じた時とか。

    ふと、あのおばあちゃんを思い出す。

    90歳。
    アルツハイマー型認知症。

    お風呂が大嫌いで、毎回「帰る!!!」って怒鳴っていた人。

    新人だった私は、正直あの人が怖かった。

    叩かれた日なんて、トイレで泣いた。

    “向いてない”

    何回もそう思った。

    でも今なら分かる。

    あの頃の私は、“介護”をしようとしすぎてた。

    ちゃんとお風呂に入れなきゃ。
    ちゃんと落ち着かせなきゃ。
    ちゃんと対応しなきゃ。

    “正しい介護士”になろうとしてた。

    でも、本当に必要だったのは、多分そんなことじゃなかった。

    安心できること。

    ただそれだけだったんだと思う。

    4年目になった今、私は新人さんに教える立場になることも増えた。

    この前も、新人の子が利用者さんに怒鳴られて、裏で泣いていた。

    その姿見た瞬間、昔の自分思い出した。

    “怖いよね”

    って思った。

    介護って、綺麗事だけじゃできない。

    優しくしたいのに、怒鳴られる。
    寄り添いたいのに、拒否される。

    特に認知症介護は、正解がない。

    昨日上手くいったことが、今日は全部ダメな日もある。

    だから、新人さんが泣くのも当たり前だと思う。

    でもあの頃の私は、“怖い”って感情を持つことすらダメだと思ってた。

    介護士なのに。
    人を支える仕事なのに。

    利用者さんを怖いって思うなんて失格だって。

    でも違った。

    怖いものは怖い。

    辛いものは辛い。

    介護士だって人間だ。

    今ならそう思える。

    あのおばあちゃんは、最後まで認知症が治ったわけじゃない。

    最後まで、“帰る”って言う日もあった。

    娘さんのことを忘れてしまう日もあった。

    でも、不思議と。

    私の顔を見ると少し安心した顔をしてくれるようになった。

    それが嬉しかった。

    認知症って、“記憶がなくなる病気”って思われがちだけど、多分感情は残る。

    怖かったこと。
    安心したこと。
    優しくされたこと。

    全部じゃなくても、どこかに残ってる。

    だから介護って、“覚えてもらう仕事”じゃないんだと思う。

    “安心してもらう仕事”。

    今なら、そう思う。

    この前、実家帰った時に母親から言われた。

    「あんた、新人の頃よく泣いてたよね」

    私は笑った。

    確かに、よく泣いてた。

    帰り道、駅のトイレで泣いた日もある。

    夜、ご飯食べながら泣いた日もある。

    “利用者さんに優しくできない自分”が嫌だった。

    でも多分、あの時ちゃんと悩いたから、今の自分がある。

    介護って、技術だけじゃない。

    オムツ交換が上手いとか、介助が早いとか、それももちろん大事。

    でも結局、一番大事なのって、

    “この人をちゃんと見ようとすること”

    なんだと思う。

    新人の頃の私は、それができなかった。

    “認知症の利用者さん”

    として見てた。

    でも、あのおばあちゃんにも人生があった。

    好きな花があって。
    家族がいて。
    若い頃があって。

    ただ認知症になっただけで、“その人”が消えたわけじゃなかった。

    それを私は、あのおばあちゃんに教えてもらった。

    今でもたまに思う。

    もしあの時、逃げ続けてたらどうなってたんだろうって。

    きっと私は、介護の仕事を好きになれてなかった。

    介護って、報われないことも多い。

    給料も高くない。
    体力も使う。
    メンタルも削られる。

    辞めたくなる日なんて何回もある。

    でも、それでも続けてこれたのは。

    “人と向き合った時間”が、ちゃんと自分の中に残ってるからだと思う。

    あのおばあちゃんが、最後に私の手を握ってくれた日のこと。

    今でも鮮明に覚えてる。

    小さくて、冷たい手だった。

    「ありがとうねぇ」

    その言葉を聞いた瞬間、私は初めて、

    “介護士になれてよかった”

    って思えた。

    多分あのおばあちゃんは、もう私のこと覚えてない。

    もしかしたら、名前も顔も忘れてる。

    でも私は、一生忘れないと思う。

    新人だった私を、介護士にしてくれた人だから。

    冬の帰り道。

    冷たい風が吹くたび、たまに思い出す。

    あの時、怖がりながら手を握ったこと。

    泣きながらトイレにこもったこと。

    “帰りたい”って叫んでた小さなおばあちゃんのこと。

    そして今でも思う。

    介護って、人を支える仕事だと思って入ったけど。

    本当は、こっちが支えられてる瞬間の方が多かったのかもしれない。

    駅のホームで、怒鳴っているおじいさんを見かけた。
    スーツ姿のサラリーマンが迷惑そうな顔をして、少し距離を取る。女子高生たちは小声で、「認知症かな」と話していた。

    その光景を見ながら、私は新人時代に出会った90歳のおばあちゃんを思い出していた。

    世間の人が見る認知症って、多分“怖いもの”なんだと思う。

    突然怒鳴る。
    同じことを繰り返す。
    家族の顔も忘れる。

    ニュースでも、“徘徊”とか“介護疲れ”とか、苦しい部分ばかりが切り取られる。

    もちろん、それは現実だ。

    実際、介護現場は綺麗事だけじゃない。

    何回説明しても忘れてしまう。
    夜中に何度も起きる。
    暴力や拒否だってある。

    家族も、介護士も、心が擦り減る。

    新人だった頃の私も、認知症のおばあちゃんが怖かった。

    お風呂を嫌がって、怒鳴って、職員を叩くその姿を見て、“なんでこんなに怒るんだろう”って思ってた。

    でも、ある日。

    おばあちゃんが小さな声で、

    「帰りたいなぁ……」

    って呟いた時、初めて気づいた。

    ああ、この人。

    怖かったんだって。

    自分がどこにいるか分からない。
    周りの人も分からない。
    昨日できてたことも、今日はできない。

    そんな毎日、怖くないわけがない。

    認知症って、“何も分からなくなる病気”じゃない。

    “分からなくなっていく恐怖を抱えながら生きる病気”なんだと思う。

    でも世間は、その“怖さ”より、“迷惑”の方を先に見る。

    怒鳴る人。
    徘徊する人。
    介護が大変な人。

    そうやって、“問題”として見られてしまう。

    もちろん現実は簡単じゃない。

    優しい気持ちだけで介護なんてできない。

    でも私は、あのおばあちゃんと出会って思った。

    認知症になっても、“その人”が消えるわけじゃない。

    好きな花があって。
    大事な家族がいて。
    若い頃があって。

    ちゃんと人生がある。

    ただ、少し不安が大きくなってしまっただけ。

    ホームで怒鳴っていたおじいさんは、駅員さんに肩を支えられながら改札の方へ歩いて行った。

    その後ろ姿を見ながら、私は少しだけ思った。

    もし誰か一人でも、

    “迷惑な人”

    じゃなく、

    “不安な人”

    として見てくれる人が増えたら。

    認知症の人も、家族も、もう少しだけ生きやすくなるのかもしれない。

    だからこそ、今は介護の世界に飛び込むか悩んでる若い子達には、ぜひ介護の世界に飛び込んで欲しい。

    確かに、介護の仕事は何歳になってもできる。

    でも、介護は人を成長させてくれるものだと感じる。

    「介護の仕事してます」

    そう言うと、だいたい同じ反応が返ってくる。

    「大変そうだね」
    「きつくない?」
    「給料安いんでしょ?」

    もちろん、間違ってない。

    腰は痛くなるし、夜勤明けは頭回らないし、認知症の利用者さんに怒鳴られて落ち込む日だってある。

    新人の頃なんて、帰り道で泣きながらコンビニ寄ってた。

    “向いてないかもしれない”

    何回思ったか分からない。

    でも、それでも私は今も介護を続けてる。

    多分、“楽しい瞬間”を知ってしまったからだと思う。

    認知症でいつも怒ってたおばあちゃんが、ある日ふと笑ってくれた時。

    「あなたいると安心する」

    って言ってくれた時。

    レクリエーションで普段喋らないおじいちゃんが、大笑いしてた時。

    そういう瞬間を見るたびに思う。

    介護って、“お世話”じゃない。

    人と人の仕事なんだって。

    利用者さんにも、それぞれ人生がある。

    昔の恋愛の話。
    仕事の話。
    家族の話。

    聞けば聞くほど、その人が好きになる。

    だから介護は面白い。

    毎日同じように見えて、同じ日が一日もない。

    もちろん綺麗事だけじゃ続かない。

    でも、人が好きなら。

    誰かの“安心できる場所”になりたいって思えるなら。

    介護は、多分めちゃくちゃ楽しい仕事だ。

     
     
    介護職をしながら、転職・夜職・副業詐欺など、人生迷走しまくってきた、今後もするであろう、ぴすです。 このnoteでは、綺麗事なしのリアルな体験談を書いてます。 誰かの「自分だけじゃないかも」になれたら嬉しいです☺️

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