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もがき続けた15年間は、僕にとっての「最高の近道」だった。

    piroro

    あなたが今歩いている道の先が
    見えなかったとしても、
    振り返ったとき、
    目的地への最短ルートだったと、
    気づく日が必ず来る。
    もがき続けた僕の15年がそうであったように。


    第1章:モニターの光に負けた日

    「東大に行くんだ。」


    18歳の春、私は祖父に向けて
    そんな大口を叩いていた。

    親族の多くが高学歴だったこともあり、
    根拠のない自信と見栄だけは人一倍だった。
    滑り止めの大学には受かっていたが、
    「自分はもっと上に行けるはずだ」という
    軽い気持ちで、
    私は浪人の道を選んだ。

    祖父の「楽しみにしてるよ」という言葉が、
    誇らしくもあり、心地よかった。

    しかし、その「軽い気持ち」が、
    地獄への入り口だった。

    私は元々、興味のないことには一切のやる気を示さない極端な性格だ。
    学校という強制力がなくなった途端、
    机に向かう時間は、モニターに向かう時間に取って代わられた。
    気づけば、
    私は1日15時間をMMORPGとアニメに捧げる、
    絵に描いたような引きこもりになっていた。

    私がのめり込んだのは、
    最大レベルが300という、
    過酷なオンラインゲームだった。

    私はそこで、レベル289という「廃人」と呼ばれる領域まで上り詰めた。
    この数字の凄まじさは、プレイした者にしかわからないと思う。
    レベルが一つ上がるごとに、必要となる経験値は加速度的に増えていった。

    例えば、
    レベル250から251に上げるためには、
    レベル1から180まで上げるのと同等の経験値が必要になる、
    といった狂気の世界だ。

    現実の世界では、志望校の判定が「E」から動かない絶望に打ちひしがれていたが、仮想世界では、膨大な時間を投じれば確実に「レベル」という成果が返ってきた。

    私は、塾に行くフリをしてネットカフェへ走り、朝から晩まで画面の中でモンスターを狩り続けた。
    同じ場所に通いながらも、独特のネットカフェの匂いを感じ乾燥した店内でドリンクバーでとって片手にマウスを走らせる。

    一切会話がなく、カチカチという音がひびいて、もくもくと画面に向き合い続ける。

    レベルMAX手前の、あの絶望的に上がらない経験値バーが1ミリ動く瞬間、私の心はかろうじて満たされていった。
    現実の停滞を、仮想の進歩で上書きしていた。

    だが、画面を閉じれば、
    そこには、目を背けたくなるような現実が待っていた。

    自宅でも夜はずっとPCに向かい合ってモンスターを狩りつづけていた。
    夜中に降りてきた親とは、激しい口論とになった。
    降りてくる階段の音が聞こえる度に、「邪魔しやがって」と汚い想いがふつふつと湧いてくる。

    私は親の期待を裏切っている自責の念を、
    怒りに変えてぶつけた。
    汚い言葉を浴びせ、泣かせ、家中の壁に拳大の穴をいくつも空けた。
    親の携帯番号を着信拒否し、自ら孤立を深めていった。

    当時の私にとって、
    正しい言葉を投げかけてくる親は、
    自分の無力さを突きつけてくる「敵」でしかなかった。

    浪人一年目は、
    案の定、一校も受からなかった。
    全落ちだ。


    迎えた2年目の春

    親からは
    「今年入れなかったらもう後回しはない」
    と、最後通牒を突きつけられた。
    プレッシャーで押し潰されそうになりながらも、
    相変わらず私は勉強に手がつかない。
    毎日30分勉強するのがやっとだった。
    そんな負の連鎖の中で、私の命綱となったのは、
    やはりオンラインゲームの世界だった。

    当時のギルドは30人規模が一般的だったが、
    私はあえて5人だけの少数精鋭のギルドに所属していた。
    何百時間も同じ時間を共有し、互いの心情を吐露し合う密な関係だ。
    ある日、そのギルドマスターがチャット越しに、
    私の話を真摯に聞いてくれた。

    彼女は、私の置かれた状況を否定しなかった。
    自身の体験を踏まえながら、「こういう道もあるよ」と、
    画面越しに静かに言葉を置いてくれた。
    会ったことも、顔も知らない。
    けれど、正論で殴ってくる現実の大人たちよりも、
    彼はずっと「大人」に見えた。
    真面目な話が照れくさいのか、最後には決まって「ウヒャヒャヒャwww」という変な笑い声をチャットに残すような人だったが、
    その軽やかさが、どん底にいた私を救ってくれた。

    「今年こそは、絶対に大学に入ってやる」。
    そう「少し」だけ思い直せたのは、二年目の春のことだ。

    今振り返れば、あの15時間の没頭も、壁に空けた穴も、すべては私が「自分の山」を見つけるために必要な、あまりにも不器用な試行錯誤だったのかもしれない。
    当時の私は、自分が「人」の心情や物語にこれほどまで救われ、やがてそれを仕事にするとは夢にも思っていなかった。

    「1番の近道は遠回りだった。遠回りこそが、僕の最短の道だった」

    後年、私が人生の指針とするこの言葉の種は、あの暗いネットカフェの隅で、レベル289の経験値バーを見つめていた時に、確かに蒔かれていたのだ。


    第2章:止まった時計と、15分間の奇跡


    浪人2年の春。
    親からは「今年入れなかったらもう後回しはない」という最後通牒を突きつけられていた。

    相変わらず勉強には手がつかず、1日の大半をゲームに捧げ、
    たまに外へ出ても一人でカレー屋を巡るような孤独な日々だ。
    浪人とは、かつての仲間たちが大学という次のステージへ進む中で、自分だけが取り残される「孤独との戦い」だ。
    私は世界から切り離され、1人きりで止まった時間の中にいた。


    そんなある日、1本の連絡が届いた。


    小学校時代の同級生(Y君)からだ。
    「20歳の同窓会を、一緒に主催しないか?」という誘いだ。
    普段の私なら、無様な自分を見せたくなくて断っていただろう。

    しかし、その時は「皆に会いたい」という純粋な気持ちが勝った。
    何より嬉しかったのは、
    彼が私を「2浪中の落第生」というフィルターを通さず、ただの「昔からの友人」として扱ってくれたことだった。

    このフラットな誘いが、凍りついていた私の心を動かした。
    「無様な姿で皆に会いたくない」。

    その一心で、私は極端な行動に出た。
    1ヶ月で20キロのダイエットを決行したのだ。
    夜の土手を、水を飲みながらひたすら歩く。

    次第に歩く速度は上がり、いつしかそれは競歩のようなスピードになり、
    やがてランニングへと変わった。

    MDプレイヤーから流れる中島美嘉の『FIND THE WAY』を聞きながら、夜の闇の中をがむしゃらに走った。
    あんなに嫌いだった運動が、自分を変えるための儀式に変わっていった。

    級友を集めたり、2次会を予約したり、準備などは順調に進んでいき、
    当日に期待が膨らんでいった。

    そして、同窓会当日。想像もしない形で私の想いは崩れ去った。

    なんと、皆と会う以前に会っていた少し髪の長い友達(K君)は
    「俺は行かない」と言い出したのだ。
    突然のことで私は混乱した。

    私は事前にK君と再会して飲んでる時に、久々の同窓会で他の皆と楽しそうに話すK君の姿が頭の中で想像出来ていた。
    その光景が現実になるのを、とても楽しみにしていたからだ。

    「どこにいる?」
    「とりあえず来いよ」

    私が言っても、全く取り付く島もなく、
    しまいには嘘の居場所を言われてしまい、
    電車で行ったり来たりを繰り返した。

    他の級友はK君を諦める中、
    一緒に準備した友達Y君だけが、
    「俺もK君がどこにいるか探すから」と、
    2人でK君を同窓会に連れて来ようとしていた。

    探したり周りの証言を聞いた結果、K君は自宅にいる事が分かった。

    「分かった、1人で行くから取り敢えず話そう。」

    私はそう言って、K君も渋々承諾、
    K君の最寄駅の構内で2人で話す機会を作る事ができた。

    「何でだよ、あんなに楽しみに話してたじゃないか」

    「俺はいきたくない」

    K君がどういう心境かどうだったか今となっては分からないが、

    恐らく今のK君自身の状況が、他の級友に対して、
    堂々とできる物ではなく引け目を感じていたのかもしれない。

    でも、その時の私にはそんな事理解するわけもない。
    話も折り合いがつかず、構内で胸ぐらを掴み殴り合いの喧嘩になった。
    その時の私は絶望と怒りでいっぱいだった。

    私は、一緒に準備した友達とK君と一緒にいるのが好きだったからだ。
    だから、同窓会も3人で出たかった。

    でも、K君は、私と同じ気持ちではなかったみたいだ。
    時間が人を変えてしまう事を知らずに、浪人という時間の中で、
    私の時間だけが小学生のままで止まったままだ。
    昔のままだった。

    口論を続けるうちに、つかみ合いから殴り合いに。

    何回殴ったか、殴られたか、どんな言い合いをしたか、
    今では思い出せない。

    ですが、結果としてK君は帰宅し、私は泣いていた。

    「結局だめだったよ」
    「そうか、でもお前は来るよな同窓会」

    Y君は裏切りたくないと、私は1人で会場に向かった。
    そこにはかつての「可愛い子」もいたが、チャラい級友に囲まれていて、
    私はただ遠くから見ているだけの「負け犬」でしかなかった。
    数ヶ月かけて準備した夢が、一日にして瓦解した瞬間だった。

    「もう死にたい」

    そうこぼす私に、もう一人の親友Y君――スポーツ万能でイケメンな、
    後に娘ができたらお互い「ユウナ」と名付けようと誓い合った仲の彼――が、ある計らいをしてくれた。

    「とりあえず、その子と一回だけ話してぶつかって来いよ」
    彼は私の携帯を操作し、その子と直接会って話す機会をセッティングしてくれた。学校から駅までの、たった15分間の帰り道。
    振られると分かっていながら、2人だけで歩いた。

    不思議な時間だった。
    たった15分、たわいもない話を交わしただけで、あんなに重く沈んでいた心が、嘘のように解きほぐされていった。
    別れ際、私は彼にこう報告した。

    「ありがとう。……あと、大学受験、頑張るよ」


    それまで、

    私は「親のため」や「将来のため」といった「公的な理由」で受験を捉えていた。
    しかし、それでは心が動かなかった。
    この15分間の対話を経て、私は初めて「私的な理由」を見つけました。

    小学校で止まってしまった自分の時間を、この手で進めたい。

    小学校の級友は皆、公立の中高に進んでいるのに、
    私だけ私立に進学した事が、ずっと寂しかったのかもしれない。

    人生のステージを次に進めたい。そう心から納得できた。
    それからの三ヶ月、私はこれまでの人生で最も必死に勉強した。
    そして、ついに合格を手にする。

    合格を報告した時、泣きながら喜んでくれた両親の姿、
    そしてJR池袋駅の階段を上りきる直前に、
    伯父さんからかけられた「大変だったね」という言葉。

    これらはすべて、あの暗闇の中を遠回りしたからこそ得られた宝物だった。
    その言葉から、私は誰かに寄り添える人間になりたいと心から思った。
    その人が大変な思いをした時でも、たった1人の味方に。


    第3章:誰かの想いを引き継いで

    浪人時代をやっとの事で突破して、大学生になる事ができた。

    そこで私の中の大学生のイメージは、サークルでしたので、
    サークルに入ろうと思う。
    しかし、私に勧誘してくれる人はあまりいない。

    その理由は、きっと私が大人びていたからだ。
    大学1年生で20歳だったから。

    そんなこんなで、茶道のサークルとテニスのサークルに入った。

    なぜこの2つのサークルに入ろうとしたか。
    それは静と動どちらも兼ね備える人が強い、と思っていたからだ。
    もはや厨二病だ。

    しかし、大学デビューで調子に乗ってしまい、
    どちらもうまくいかなかった。

    それから、どちらもサークルを辞めてしまい、暇な時間が沢山出来た。

    なので、スポットのバイトを沢山やってみました、20〜30程。

    この時に、深夜の倉庫作業をやって、
    とても自分には合わなかった思い出があり、
    将来的には人と接する仕事がしたい、と強く覚えている。

    そんなこんなで、自分の方向性が決まらないまま大学1年生は冬を迎えてしまった。


    運命の日

    バイトもふらふらして次は単発で一気に稼げる仕事と思い決めたのが、
    冬の夜の、車の交通量調査だ。
    交通量調査ってご存知だろうか??

    道とかで座りながらカチカチやってる人だ。
    楽そうと感じるだろう?私もそう思った。
    だが、実施にやってみるとやった事ある人には分かると思うが、地獄だ。

    何がきついかって、実施したのは真冬で極寒の中逃げる事ができない。
    防寒着を着ても、中にホッカイロをつけても寒い。
    1時間だか2時間に1回休憩があるので、その度にマクドナルドに逃げて
    ホットコーヒーを頼んで体を休めていた。

    一緖に働く人も10人程いて、年上の方が多かったが一人だけ、
    年が近そうな男の人がいた。

    そう、この人こそが私の大学での運命を変える人だ。

    ポツポツと話したのだが、後半はすっかり仲良しだった。

    話を聞いてみると、その人は同じ大学の4年生で今度卒業。
    思い出せる会話の流れだ。

    「まだ1年生の終わりか〜、いいな〜、時間沢山あるね。」

    「そうですかー?、この前テニスサークルも合わなくて辞めちゃって」

    「そうなんだ、でもサークルいいよね。
     俺大学生活で結局入らなかったんだよね、心残りだな。」

    「もう1回大学生活やり直せるとしたら、入りたいサークルとかありますか?」

    「マンドリンサークルとかうちの大学にあるよね、音楽好きだから入ってみたいな。」

    What's マンドリン???


    画像

    こんな形の楽器。形は琵琶的なイメージかな?詳細を聞く所、
    イタリア発祥の弦楽器で、
    BUMP OF CHICKENの『車輪の唄』の冒頭で藤原さんが弾いている、
    等が聞けた。

    そして、その話を聞いた瞬間、なぜかとても惹かれた。
    単純な興味もあるかもしれないが、それ以外にも

    「この人の叶えられなかった事を、
     僕が代わりに入部する事で叶えてあげたい。」

    純粋にそう思った。


    そして後日

    掲示板からアポを取り部室の門を叩いた。
    最初はなぜこんな時期にと、部室の人はキョトン顔だったが、
    入部の事情を説明すると、納得してくれた。

    そこで、私はマンドリンサークルはオーケストラだという事が分かった。
    すると、クラシックギターパートの先輩が、何か弾いてあげようか?
    なんて言ってくれたので、お任せで、と私が言って先輩が弾いてくれたのが、

    ドラゴンボールGTのED曲「ひとりじゃない」

    その瞬間、運命を確信した。

    私はドラゴンボールは、GTの最終話でボロボロ泣いた程だ。

    つまり大の大の大好きだ。

    そんな、ドラゴンボールの曲を自分で弾けるようになれるかもしれない。
    「ギターは、1台でたくさんの音が出せるからたった1人のオーケストラとも言われているんだよ」
    という言葉も、自分を高まらせた。

    どれだけ、自分の心をワクワクさせたか。
    どれだけ、1年間悩み続けた自分の心に光が差したか。

    それから、マンドリンサークルでの私の大学生活、そしてあの時に出会った大学4年生の人が送れなかったサークル生活が幕を開ける。


    第4章:天上院の響きと、切り裂かれた座席表

    そしてサークルを楽しんでいたが相変わらず勉強がおろそかになっていった。バイトは楽しかったが、肝心な大学は行かないことが多くなっていった。
    そうして、順調に単位を落とし続けた2年間、
    大学6年生、つまり二度目の留年が決まっていた12月、
    私は人生の岐路に立っていた。
    法学部で学びながらも、私はある疑問を抱き始めていました。

    当時の私にとって、法律とは「不幸にならないためのガードレール」に過ぎないように思えたのだ。
    それは守りの姿勢であり、そこから「楽しい」「幸せ」と感じる人を積極的に増やすことはできないのではないか。
    もっと攻めの姿勢で、自ら人を楽しませる方法はないか。

    そして、強く思ったのは2浪2留の何も知識がない人間を普通の企業がとるはずがない。
    何か誇れる経験を積まないといけない。

    そう模索していた時、大学の掲示板で
    「外国語ガイドと行く都内バス旅行」という紙を見つけた。

    参加してとてもワクワクした。
    その時MICEという言葉を知って、展示会などでシーバーをつけて接客する姿を想像してとてもカッコよく感じた。

    そして、バスを降りた後、意を決して渋谷の添乗員派遣会社に電話をかけると、電話口の担当者にこう言われた。
    「MICE(国際会議などのイベント)スタッフは学生には難しいけれど、
     添乗員ならできるよ」

    その時、私の頭に浮かんだのは妙な妄想だった。
    「添乗員(てんじょういん)」という響きが、
    日本の歴史に登場する「天上院」という高貴な家柄の名前のように聞こえ、なんだか格好いいと感じてしまった。

    ちなみに、他に「枢機卿」「noblesse oblige」なども好きな言葉だ。
    なにせ、歴史が好きだったから。

    さらに、添乗員の別名の「ツアーコンダクター」は、
    所属していたマンドリンオーケストラサークルの指揮者(コンダクター)を連想させ、私の心を躍らせた。
    この「響き」への一目惚れが、私の新たな挑戦の幕開けとなった。


    翌年2月、私は同期8人とともに実地研修に臨んだ。


    伊豆への河津桜ツアーの帰り道、
    バス車内で部長から「マイクで誰か歌え」という無茶振りが飛んだ。
    誰もが沈黙し、嫌な空気が流れる中、
    「自分がいきます」、と私はマイクを握り、

    Mr.Childrenの『シーソーゲーム 〜勇敢な恋の物語〜』を歌い上げた。

    実は、私は極度の緊張しいだった。
    その性格を変えるため、
    マンドリンサークルの納会(みんなが自由に部員とユニットを組み全員の前で披露する)では、
    「50人の視線を浴びながら一人で演奏する」という試練を自分に課し、
    時には指が止まって、時にはギターを弾かずにみんなの手拍子で歌い、
    爆笑されながらもステージに立ち続けていた経験があった。

    「みんなが白けた顔をしても、ミスチルを歌えるならそれでいいじゃないか」という開き直りの覚悟が、私を動かした。

    意外にも反応は良く、
    部長から「お前、度胸あるな」という言葉をもらえた時、
    さっきまでの雰囲気とは打って変わって皆が楽しそうにしてた時、
    なんか分からないけど楽しい。
    自分の中に眠っていた「人を楽しませる力」への自信が芽生えた。

    だが、添乗員としての「初陣」は、そんな甘い自信を完膚なきまでに打ち砕くものだった。


    私はツアーを円滑に進めるため、

    綿密に計算した「座席表」を用意してバスに乗り込んだ。
    でも、現実は残酷だった。

    「添乗員さん、私がみんなが座りやすいように座席表作り替えたから」

    自由奔放なお客様たちは、私が用意した座席表など目にもくれず、
    思い思いの場所に座り始めたのだ。
    私の完璧な計画は一瞬にしてバラバラに乱された。

    「研修では、こんなトラブルシューティングなんて習ってないぞ」

    誰がどこに座っているのか全く把握できず、
    パニックに陥った私は、バスのステップで情けなさと無力感に震え、
    立ち尽くした。

    そこで学んだのは、添乗員の仕事の本質は「旅程管理」という名の泥臭い戦いであるということだ。

    渋滞、お客様の遅刻、施設の混雑、
    次々と襲いかかる障害を、
    私はマインドの中で「バッサバッサと斬り伏せる」ように対処していかなければならなかったのだ。

    レストランに着けばバスから飛び降りて会場まで走り、
    席案内を済ませ、
    お客様の食事が落ち着いてからようやく自分の飯を搔き込む。
    そして、お客様が食べ終わる10分前にはスタンバイをすませておく。
    皆さんの周りにも人当たりが良いのに、食事がとてつもなく早い人がいるかもしれないが、もしかしたらその人はツアーコンダクターの経験者かもしれない。

    そんな戦場のような日々の中で、私の胸に去来したのは、あの浪人時代に伯父さんからかけられた「大変だったね」という言葉だった。
    お客様もまた、日常の苦労を抱えて旅に来ている。
    正論で管理するのではなく、まずはその心情に寄り添うこと。

    時にお客様との話の中で参加した背景を話してくれたり、
    本当に心から嬉しかったとお礼状をもらったりと、
    「ありがとう」を言葉や文字で伝えていただいた。
    そんな小さな幸せで私はまた明日がんばろうと思えるのだった。

    後から考えてみると、
    法学部での葛藤も、留年という挫折も、
    友達との殴り合いも、そして初陣の涙も。
    すべては私が、人の心に光を灯す「イベント」という山を登るために必要な、欠かせない1歩だった。


    最終章:静かな暗闇で決めた、「登る山」

    添乗員として「人の心の機微」に触れ、
    現場の荒波を斬り伏せる日々に充実感を感じていた。
    しかし、私の人生という航路は、その後も決して順風満帆ではなかった。

    その後、建築会社、制作会社と職を転々とした。
    やりたいことは必死に考えていたつもりだった。
    それでも、心の奥底で「自分の進むべき道」を完全に決めきれず、
    どこか漂流しているような感覚が拭えなかった。

    そんな私の足を止め、根底から揺さぶる出来事が起きた。
    母が、ガンになった。

    その知らせを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
    祖父母を相次いで亡くし、ついに「死の順番」が母まで来てしまったという残酷な現実。
    それは、私の人生の1部が、文字通り削り取られていくような絶望だった。
    いつも誰かの葬式に行ったときに、
    私はあまのじゃくですぐに皆の前から姿を消して。
    そんな自分をかばってくれた母親。

    その時の情景が頭に浮かんで、
    じゃあ母が死んだら誰が言葉をかけてくれるんだろう。
    という事を頭に思い浮かべたとき、とても寂しくなると共に、
    湧いてきた感情があった。


    「このまま僕が死んだら、親に金と時間を投資させただけの人生で終わってしまう」

    2留2浪、そして職を転々としてきた自分。
    何一つ恩返しができていないという焦燥感が、胸を締め付けた。
    私は、当時就いていた「施設警備員」という仕事の夜の静寂の中で、
    幾夜も自分自身に問いかけ続けた。

    警備員の働き方の一つに、朝9時から翌朝9時まで拘束される
    「当務(とうむ)」というものがある。
    日本の治安のおかげで、深夜のオフィスビルは大きな動きがない。
    その「戦略的な時間」は、皮肉にも人生を深く考えるための膨大な時間を私に与えてくれた。

    その間にも何か母親に出来る事はないかと色々もがいてみた。
    スポットツアーという公募に、母の故郷の駅のツアー企画を、
    夜勤明け現地の調整や写真撮影に奔走して、
    勝ち取って認定証をプレゼントしたり、

    地下鉄成増駅 - 12言語対応のアプリ SpotTour (スポットツアー)の観光ツアー・モデルコースを紹介

    他にも色々。
    もっと母が生きたいと思い、ガンに勝てる力を与えたかった。
    限り少ない時間の中で自分に何ができる、何か返せる事はないのかと。

    だが見つからなかった。


    そこで大きな転換点があった。


    私はYouTubeで一編の動画に出会った。
    孫正義氏の「自分で登る山を決め、志高くいこう」というスピーチだった。

    「人生は一回しかない。自分の登りたい山を決めてほしい。登る山を決めない人生は、さまようことと同じだ」

    その言葉が、静かな暗闇の中にいた私の心に、濁流のように流れ込んできた。
    気づけば、涙が溢れていた。
    私はそれまで、年収や安定、肩書きといった「社会の価値観」という他人の山を見上げていたのかもしれない。
    しかし、それでは長く登り続けることはできない。

    私は目を閉じ、自分に究極の問いを投げかけた。
    「明日死ぬとしたら、心の底から後悔しないと言えるか?」
    「稼げる仕事で我慢して辛い思いをするのと、
    自分の好きな仕事で誰よりもがんばり一番になる」

    自分の心はどっちがいいんだと。

    その時思い浮かんだのは過去の自分。
    答えは、「過去」に眠っていた。

    子供の頃、プラレールや積み木で時間を忘れて遊んでいた自分。
    人をワクワクさせ、その瞳に光を灯すことが何よりも好きだった自分。

    きっと、私の山は「イベント」の世界にある。
    誰かを喜ばせることにある。

    好きな分野で一番になる。

    そう心に決めた瞬間、そこからの行動は、狂気とも言える没頭だった。
    自分の信念を一切曲げず、理想の仕事を求めて100社の不採用通知を積み上げた。
    そしてついに、子供向けイベント会社という、
    幼い日の自分自身を喜ばせるような場所へと辿り着いた。

    今の私は、友人から「活き活きしているね」と言われる。

    かつて、知らない街をただの「通過点」として最短距離で歩いていた頃の私はもういない。
    細い路地に寄り道し、街の表情を見つめるように、
    一人一人の物語に寄り添いながら生きている。

    正念場でドキドキして足がすくみそうな時、
    私は自分に「おまじない」をかける。
    「これは、無力な私が死の間際、神様にお願いして戻らせてもらった
    『二度目の人生』だ」と。
    そう思えば、どんな失敗も、どんな恥も、
    最高に贅沢なボーナスタイムに変わる。

    2留2浪、ゲーム廃人、添乗員の挫折、母の病。
    かつては「黒歴史」だと思っていたすべての「遠回り」が、
    今の私を作るための「最短ルート」だったと、今は胸を張って言える。

    もし今、あなたが暗闇の中で立ち止まっているのなら、
    少しだけ過去を振り返ってみてほしい。
    あなたの「登る山」へのヒントは、きっと、かつてのあなた自身が握りしめているはずだから。

    一番の近道は、遠回りだった。
    そしてその遠回りが、私を私にしてくれたのだ。



     
     
     

    piroro

     
     
    東京在住 イベント運営とレンタルフラワー営業の現場にいます。 街を歩きながら、人の流れや空間の違いを観察するのが好き。 営業やイベントの現場で見えた小さな発見をメモしています。 趣味は寿司を食べる事・旅行、ミスチルを歌う事。特技は人の流れを読む事。

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