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誰にも見せなくても、満たされるものがある。


昔の私は、

何か良いことがあったら、
誰かに知ってほしいと思っていました。

何かを手に入れた時。

何かができた時。

少し頑張った時。

「すごいね」

と言ってもらえたら嬉しい。

反応がなければ、

せっかくやったことまで
少し価値が下がったような気がする。

たぶん私は、

自分がどう感じたかより、誰かがどう反応したかで、その出来事の価値を確かめていた

んだと思います。

でも、

初めて山頂に立った時、
少し違う感覚を知りました。


誰も褒めていないのに、満たされていた

登っている途中は、普通にきついです。

息は上がるし、

足も重くなる。

「まだ着かないのか」

と思いながら、

目の前の道を一歩ずつ進む。

誰かに評価されるために
登っているわけではありません。

途中で誰かが、

「頑張ってますね」

と褒めてくれるわけでもない。

ただ、

自分の足で歩く。

そして、

ようやく山頂に着いた時。

目の前に景色が広がって、

風が吹いて、

さっきまで汗をかいていた体が
少し冷えていく。

その時、

不思議なことに気づきました。

誰にも「すごい」と言われていないのに、もう十分だったんです。


「自分がここまで来た」という事実だけが残った

誰かから賞状をもらったわけでもない。

お金が増えたわけでもない。

肩書きがついたわけでもない。

ただ、

自分の足でここまで来た。

それだけ。

でも、

それまで誰かから何かをもらった時とは違う満足感がありました。

「評価されたから嬉しい」

ではなく、

「自分がやったことを、自分が知っている」

という感覚。

山頂に立った自分を、

誰かに説明しなくてもいい。

証明しなくてもいい。

その瞬間を知っているのは、
自分だけでもいい。

それでも、

ちゃんと満たされていました。


承認されたい気持ちが、なくなったわけじゃない

山に登ったからといって、

誰かに認められたい気持ちが
全部消えたわけではありません。

今だって、

褒められたら嬉しいです。

書いたものに反応があれば嬉しい。

誰かから、

「ありがとう」

と言ってもらえたら、もっと嬉しい。

だから、

「他人の評価なんて必要ない」

とは思っていません。

人からもらえるものには、

人からしかもらえない温かさがあります。

ただ、

山で私はもう一つ、

別の満たされ方があることを知りました。

誰かからもらう満足ではなく、自分の経験そのものから生まれる満足。

どちらか一つを選ぶ必要はない。

でも、

前の私は前者しか知らなかったんだと思います。


誰にも見せないとしたら、それでもやりたいだろうか

SNSがあると、

経験したことをすぐ誰かに見せられます。

綺麗な景色。

美味しかったもの。

行った場所。

頑張ったこと。

それ自体は悪いことじゃない。

私も使います。

でも時々、

考えることがあります。

これを誰にも見せないとしても、私はやりたいだろうか。

誰にも報告しない。

いいねもつかない。

「すごいね」もない。

それでもやりたいなら、

そこには、

他人の反応とは別の何かがある。

山は、

私にその感覚を初めて分かりやすく教えてくれた場所でした。


誰も知らない「できた」を持っていてもいい

考えてみれば、

山じゃなくても、

似た瞬間は日常にあります。

ずっと後回しにしていたことを終えた時。

誰にも言わずに決めたことを守れた時。

一人で出かけて、

「来てよかったな」

と思えた時。

誰にも見せない文章を書いた時。

そこに、

いいねはありません。

拍手もありません。

でも、

自分だけは知っています。

「今日の私は、これをやった」

ということを。

それって、

思っている以上に大事なものなのかもしれません。


昔の私は、

自分の外側から何かをもらわないと、
満たされないと思っていました。

でも、

山頂で景色を見ながら、

初めて少しだけ分かった気がします。

人からもらわなくても、

自分の中に残るものがある。

誰にも見られていなくても、

価値がなくなるわけじゃない。

誰にも褒められなくても、

自分の足で歩いた道は消えない。

だから今は、

誰かからの「すごい」も嬉しいけれど、

それとは別に、

自分しか知らない「よかった」を持っていたい

と思っています。

誰にも見せなくても、

満たされるものがある。

その感覚を一つでも知っていると、

誰かの評価がない日にも、

自分の中にちゃんと何かが残ります。

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