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滾らせた人生を

 18歳である病に罹り、入院を余儀なくされた。大学1年生になりたての頃だった。人生終わった、正直そう思った。しかし、まだ諦めきれない気持ちもあった。このまま、病気に負けるものか、そんな思いもあった。私には夢があった。スクールカウンセラーになるという夢だ。中学校、高校と、対人関係に非常に悩んだ時期があった。同じ様に悩んでいる子達の力に少しでもなりたい、そう思っていた。
 1年越しに大学に復帰した。しかし、持病があるので、下宿は無理、自宅から通う、という条件付きの復学だった。大学へは、片道、1時間半以上はかかる。私は途中休学しつつも、6年間、自宅から大学へ通い続けた。
 当時、スクールカウンセラーになるには、臨床心理士という資格が必要だった。その資格を得る為には大学院に行かなくてはならない。私は、大学院受験の為、道中の時間を利用して、英語や心理学を勉強した。
 しかし、大学院受験の結果は、不合格だった。私は、また途方に暮れた。何の為に今まで頑張ってきたのだろう、涙が止まらなかった。
 大学を卒業後、学童保育所の指導員を勤めながら、当時付き合っていた人と結婚した。良いこともなかなか続かないが、悪いこともなかなか続かないものだ。結婚なんて到底無理だ、と思っていた私は、現状に少し浮かれていた。
 一方、学童保育所の指導員として働くのに、限界を感じ、退職した。私は無職になった。ただ何となく、家事をこなす日々が続いた。
 ある日、人から、
 「ピアサポーターというお仕事があるよ。」
 と、教えて貰い、私は、ピアサポーターを志し、研修に参加し、無事ピアサポーターになった。そして、病院に有償ボランティアとして病院に勤務する様になった。
 中でも一番大変で一番おもしろかったのは、病棟への定期訪問だ。患者さんの話をひたすら聞くのは、凄く大変だったが、少しずつ、仲良くなれたりした時には、心底やりがいを感じた。
 ピアサポーターのお仕事は、約4年間続けた。私が大学時代思い続けた「人のお役に立ちたい」という願いが、少しでも実現した、としたら、本望だ。
 その傍ら、不妊治療もしていた。
 不妊治療に疲れ、「もう2人での人生を楽しもう」そう思っていた矢先、命を授かった。しかし、喜んだのも束の間、母子手帳を貰う前に、稽留流産してしまった。暑い夏だった。
 しかし、また再び命を授かった。いつこの命がなくなってしまわないかと、ビクビクしながら、毎日過ごした。
 妊娠中、貧血が酷く、体がしんどかった為、出産予定日より、早目に入院する事にした。病棟の看護士さんに、
 「下血があるの?」
 と、聞かれた。確かに問診票にそう書いた。妊婦でありながらも、内視鏡検査をすると、潰瘍性大腸炎の疑い、と言われた。周りのみんなが、
 「赤ちゃんがお母さん、病気だよ、と教えてくれたんだ。」
 と、言った。
 陣痛促進剤とバルーンで、赤ちゃん(娘)は無事産まれてきた。生きてきた中で一番幸せな瞬間だった。今までの辛い事、悲しい事が薄らいでいく様だた。
 しかし、私は、体に潰瘍性大腸炎を患いながら、早くもワンオペ育児が始まった。大変だったが、月日はあっという間に過ぎた。
 娘は、人前では大人しいタイプだった。保育園に通い、就学前になると、
 「小学校に行きたくない。」
 と、言い出した。私は、念の為、念の為、と心に言い聞かし、児童精神科の予約を入れた。
 娘の特性は、ASDだった。
 初めは、娘のこだわりに凄く手を焼いた。しかし、時が経つにつれ、少しずつではあるが、娘のこだわりポイントの様なものが分かってきた。
 例えば、水が好きで洗濯物を洗っている洗濯機をじーっと見たり、きれい好きで掃除しだすと止まらなかったり。私も何となくだが、「この番組好きそうだな」とか、「この服なら着てくれそう」と、娘の事を思ったりする余裕が少し出てきた。
 今年、私は42歳になる。谷あり、谷あり、の人生だ。しかし、私は、死ぬ時に、「ああ、やり切ったな」と、思って死にたい。今は育児、家事しか考えられないが、それも今の私の幸せの一部だ。そして、言ってしまえば、娘が大好きだ。そして、滾っている自分も少し好きだ。
 

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