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足

    あらすじ
    夫が変わった。
    家が変わった。
    子供たちまで変わっていく。
    それでも、寝る前に足を触れ合わせる癖だけは残っていた。
    暗い布団の中。
    足先の触れ合いだけが、彼女の心を癒した。

    彼と結婚してから、どれくらい経ったのだろう。
    新しくなった広いソファの上で、ふとそう思った。
    二十歳の秋に結婚して、子供たちが生まれた。
    今、その子供たちは二人ともこの家にはいない。
    子供部屋の扉を開ける。
    「お母さん、急に開けないでよ。」
    そんな声が聞こえてきそうなほど、ベッドも机も、あの頃のままだ。

    しかし、リビングのこのソファ。
    私はもっと、こう、きゅっと身体に収まるような小さいものが好きなのに。
    いつの間にか、この広いソファに替わっていた。
    もてあました私は、端の方で三角座りをする。
    ノースリーブでは少し寒い。
    冷えた腕と足を抱え込み、いつものように庭へ顔を向けた。
    毎日、ここから庭を眺めて暮らしている。
    しかたがない。
    どこにも行く気になれないのだから。
    庭には、夏野菜を片付けたあとの畝だけが残っていた。
    掘り返した土がやわらかく、静かに次の苗を待っている。

    十年前の夏の終わりも、こんなふうに少し肌寒かった。
    あの日も、ノースリーブのまま庭を眺めていた。
    気づけば、玄関に立っていた。
    それから先のことは、あまり思い出したくない。
    いや、思い出せないだけかもしれない。
    気づけば、また家にいた。
    その日から夫はあまり話さなくなった。
    最近は外泊することも増えた。
    帰ってくるたび、
    「どこに泊まっていたの?」
    と問いかける。
    夫は無言のまま、広いソファの真ん中に座りテレビをつける。
    ニュースの音が、私の声をかき消していく。
    各部屋の片付けや模様替えも始まった。
    ソファも、その一つだった。
    お気に入りの絵は外され、カーテンも新しくなった。
    一緒に選んだはずの物たち。
    少しずつ、家の中から消えていく。
    しかたがない。
    私が悪いのだから。
    私はまた、ソファの端で膝を抱える。

    彼と私が、また二人きりになったのは、子供たちが一人、また一人と家を出ていった冬だった。
    嬉しいような、淋しいような。
    なんだか新婚の頃に戻ったみたいで、少し照れくさかった。
    夕飯の支度をしていると、珍しく彼が台所に入ってきた。
    「何すればいい?」
    「じゃあ、お味噌汁お願い。」
    包丁の音と、湯気の立つ音。
    子供たちのいない食卓は静かだった。
    「広いな。」
    彼がぽつりと言った。
    「これからは二人だな。」
    そう言った彼の気持ちが知りたかった。
    嬉しいのか。
    淋しいのか。
    それとも、ただ思ったことを口にしただけなのか。
    聞けばよかった。
    でも、聞いてしまうと、なんだか恥ずかしくて。
    「そうね。」
    とだけ答えた。
    若い頃からそうだった。
    彼は、好きとか、ありがとうとか、そういうことを言わない人だった。
    その代わり、雨の日には私の傘を持っていたし、寒い日は黙って灯油を買ってきた。
    私は私で、文句ばかり言っていた。
    「もっと話してよ。」
    「何考えてるか分からない。」
    そう言いながら、本当に知りたいことは聞かなかった。
    夜になって、足をくっつける。
    それが、私たちの返事だった。
    だから、返事がなくても寂しくなかった。

    たまに子供たちが帰ってくると、家の中が急に賑やかになる。
    長女の遥は、最近少しよそよそしい。
    たまに実家へ帰ると、そんなものなのだろう。
    食卓では、久しぶりに彼の笑い声が聞こえた。
    それだけで、なんだか嬉しかった。
    夕食を終えると、子供たちはそれぞれの家へ戻っていく。
    二人で玄関まで見送る。
    「たまには泊まっていけばいいのに。」
    そう言ってみるが、
    「また来るから。」
    と笑って帰っていく。
    静かになった家。また二人きりだ。
    リビングでは、相変わらず彼はテレビばかり見ている。
    私が話しかけても、返事はない。
    それでも、夜だけは違った。
    電気を消して、布団に入る。
    しばらくすると、足先にそっと何かが触れる。
    昔からの癖だ。
    言葉はなくても、それだけで安心できた。
    私は少し足を伸ばす。
    向こうも、応えるように触れ返してくる。
    それだけで十分だった。

    朝、目を覚ますと、彼はもう起きていた。
    最近、朝が早い。
    前は休みの日になると、昼近くまで寝ていたのに。
    年を取ると変わるものなのかもしれない。
    リビングへ行くと、ソファの背もたれに、見覚えのない薄いカーディガンが掛かっていた。
    「あら。」
    思わず手に取る。
    柔軟剤の匂いがした。
    「遥のかしら。」
    畳んで端に寄せる。
    返事はない。
    テレビの音だけが流れていた。
    昨夜の足先。温りさえあれば、素っ気なくても寂しくはなかった。
    そんな夜を繰り返せれば。

    その日は朝から家の中が騒がしかった。
    珍しく、遥も康二も孫たちも来ている。
    「あら、どうしたの。」
    誰も返事をしない。
    まあいい。
    賑やかなのは嫌いじゃない。
    キッチンから、いい匂いがしてきた。
    知らない女の人が料理を運んでいる。
    よく見る人だけど、誰だったかしら。
    彼も笑っている。目尻にしわを寄せて、少し首をすくめながら。照れくさそうに、でも嬉しそうに。
    彼のこんな顔、久しぶりに見た。
    テーブルの上には、大きなケーキ。
    「お父さん、ロウソクつけた?」
    「今年もお母さんの好きだったチーズケーキだよ。」
    「まぁ、気が利くじゃない。嬉しいわ。」
    「お母さん、今年も来たよ。」
    遥が笑う。
    孫たちも笑っている。
    賑やかなはずなのに。
    なぜだろう。
    少しだけ、胸の奥がひんやりした。
    みんな笑っているのに。
    私だけ、上手く笑えていない気がした。

    「六十六歳、おめでとう。」
    遥がそう言って、写真の前に花を置いた。
    私は、初めて振り返る。
    そこには、
    白い花。笑顔の私。
    「あら。」
    思わず笑ってしまった。
    彼の横顔を見る。
    目尻にしわを寄せて。
    少し照れくさそうに笑っている。
    昔、娘たちが小さかった頃と同じ顔。
    こんな顔、久しぶりに見た。
    いや。
    私が知らなかっただけなのかもしれない。
    なんだか急に、彼が遠くにいるような気がした。
    私はここにいるのに……。
    知らない女の人も一緒に写真に向かって手を合わせている。
    ここに居るのに。
    そう思いながら、二人の間に座った。
    すると、知らない女の人が言った。
    「あのソファ、やっと替えてくれたんですね。」
    彼が笑った。
    「あいつが気に入ってたからな。」
    「このきゅっとしたところがええって。」
    みんなが笑った。
    私は、広いソファを見る。
    知らない女の人がまた笑う。
    「やっと替えられたんですね。」
    「十年かかった。」
    彼は少し照れくさそうに言った。
    「なんか、替えたら怒られそうでな。」
    「やっと最近、怒られへんかなと思って。」
    私は、部屋を見回した。
    外された絵。
    新しいカーテン。
    広いソファ。
    全部、
    私を消したかったんやない。
    残しすぎて、動けなくなっていただけだった。

    誰も気づかない。
    でも、もうよかった。

    ケーキのロウソクから溶けた蝋が、泣くのを我慢していた涙みたいに、ゆっくりと側面を伝っていた。

    その日から、夜になっても
    足を伸ばそうとは思わなかった。

                                                        完

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