
回遊都市ナハ #5|未来編:シュリエリア
わたしが読むのを待っているかのように、目の前のホログラムのメッセージが表示されている。
わたしは、ゆっくりと味わうように、それを読み始めた。
*
『このメッセージを受け取った方へ
突然のことで驚かれているかもしれません。
僕はあなたのことを知りませんし、あなたも僕のことを知らないでしょう。
もしかすると、この文章を読んでいるのは、遠い未来の誰かなのかもしれません。
それでも僕は、このメッセージが誰かに届くことを願ってここに遺します。
僕は二〇■■年に生きているAI研究者です。
数年前、那覇市のある雑貨店で、一つのマグカップに出会いました。
真っ赤な色をしたカップで、側面にはラ□□ンの紋章が描かれていました。
強く惹かれて手に取った瞬間、僕の耳に音楽が聴こえてきました。
最初は店内BGMだと思いました。しかしカップから手を離すと音は消え、もう一度触れると再び聴こえる。
その音楽は、僕の好きな『ビートルズ』の曲でした。
不思議に思った僕は、この現象を調べ始めました。
すると同じ体験をした人が、沖縄でいくつか確認されていることが分かりました。
そしてある条件のもとで、特定の人だけがこの音を聴くことができる。
この現象は、【協鳴】と呼ばれるようになりました。
調査の中で、いくつかの特徴が見えてきました。
・強い想像力
・沖縄への強い関心
・音楽への感受性
・『自分らしさ』への意識
これらを持つ人ほど、この現象に強く反応します。
そして興味深いことに、人によって聴こえる音は違うのです。
ある人には音楽として、
ある人には雑音として。
もしあなたが、このマグカップに触れたとき、音楽ではなく、雑音や不協和音のようなものを聴いたのなら、それは【協鳴】がまだ完■していない状態です。
その場合は、ぜひ『首里蒸留所』を訪ね□ください。
そこには、この現象□理解す□□□□最後の鍵があります。
もちろん、それを選ぶかどうかは、あなた■■の自由□□。
ただ、もしこの協鳴が、誰□の未来につなが□□□□、僕はそれだけで十分だと思っ□□□□。
ここま□■んでくれて、あ□がと□□□□□□□。』
*
メッセージを読み終わり、両手を離すと、ホログラムは消えた。
わたしは、しばらくの間、不思議な気持ちに包まれ、半ば放心状態だった。
古代文字をキカイが現代語訳しており、特に後半は判読不能な個所があったが、内容は十分に理解できた。
「ねぇねぇ、この『首里蒸留所』って、もしかして『シュリ発電所』のことかな?」
一緒に読んでいたキンが、その場所が表示されてる地図を指しながら、担当ロボットに問いかける。
「はい、恐らくそうだと思われます。キカイが敢えて現代の呼称に翻訳してないのは、百パーセント確実ではないからかと」
「でも、ここって、昔は特殊な飲み物をつくるところじゃなかったけ?えーと……」
「『オサケ』」
わたしは答える。
「それを飲むといい気分になったりするけど、呑みすぎると病気になったり、中毒性が高くて、大昔に製造は禁止されたって、歴史の授業でならった」
「この『蒸留所』というのは、そのオサケをつくる工場ですね」
担当ロボットが、補足した。
「そのオサケの製造方法を応用して、このシティの発電システムが長らく成り立っています。」
「へ~なんか習ったような?ま、難しいことはさておき、行ってみようよ!」
キンは、もう行く気満々らしい。
「その施設への入館方法についても、併せてデータがあるので、お渡しできますよ」
わたしは、ちょっと考え込む。
このままこれを続けていいのだろうか?
このままシュリに行くべきかな?
わたしは、昔から新しいことに取り組むのが苦手だ。
趣味や人間関係でも、一つに拘り、新しいことや人との出会いに、二の足を踏む。
このナハの土地だって、できれば離れたくない。
いま隣で担当ロボットに質問攻めしているキンも、幼馴染だし……
わたしの、このナハへの愛情は強い。
それは、ナハの住民とかごはんというより、この土地への慕情、というか。
メッセージの【協鳴】だっけ?その条件のオキナワ好きにてきごうしたってこと?
『自分らしさ』っていうのも、あながち外れてはいない。
というか、割と強めかも。
昔から本読んだり一人遊びが好きだけど、自分の世界に浸りたい、から?
マグカップの音も気になるし、ちょっと行ってみるか。
「ねえねえ、せっかくだから、ナハエアポート、寄ってかない?」
隣の友人は、すでに行くこと前提で話を進め始めているようだ。
「エアカーで直で向かえばすぐだけど、この時間帯、景色もキレイだし」
「あ、いいね」
「で、そのあとは、ナハエアポートステーションから、ユイレールストリート沿いでいくのとか?」
「賛成!」
わたしたちは、お店の研究所を後にすると、エアカーをナハエアポートへ向かった。
お店からさっき来たときと逆走して、ヤチムンエリアの海中ストリートを浮上したあと、今度は西へ向かう。
*
ヒョウはエアポートステーションの屋上に立っていた。
この施設は、空港としてずっと前に役目を終えた。海中輸送が主流になったのと、一度に大量の人を運ぶ旅客機の必要性が、ほとんど意味を持たなくなったからだ。
それでもこの建物だけは残された。
都市協鳴の観測所として。
屋上からはナハの街が見渡せる。
海。
コクサイエリア。
ヤチムンエリア。
そのすべての上空を、サカナが回遊する。
昼の光はもう消えかけている。
午後のあいだ続いていた無機質な青白い色が、ゆっくりと橙に変わりつつあった。
夕焼けだった。
ナハの夕焼けは独特だ。
赤土の島の空は、沈む光を柔らかく散らす。
鉄を含んだ土の色が空に混ざるように、橙色がじんわりと広がっていく。
都市の輪郭が少しずつ影になり、海と街の境界が曖昧になっていく時間だった。赤土の島の空は、夕方になると独特の色になる。鉄分を含んだ赤が、空の紫と混ざる。
その色合いの中に、サカナが浮かんでいた。
最初は、光の粒のように見える。
だが目を凝らすと、形がわかる。
群れだった。
琉球グラスのような色をしたサカナたちが、空中を回遊している。
群青と薄緑。
赤と黄色。
半透明の体が夕焼けを透かして、光の破片のように揺れる。
夕焼けの光がサカナの体を通って砕ける。
空が、琉球グラスの破片で満たされたみたいだった。
サカナの大きさはまちまちだった。
小さいものは三十センチほど。だが大きいものは、建物よりもはるかに大きい。
百メートル近いサカナが、ゆっくりと空を横切る。
巨大な影が都市を通過する。
サカナは音を立てない。
だが完全な静寂でもない。
微かな振動がある。
都市の奥から伝わる振動。
泡盛の発酵。
地下に広がる樽。
その振動が、サカナの動きと重なっている。
ヒョウは目を細めた。
サカナの群れがゆっくり形を変える。
渦だった。
空中に巨大な渦が生まれている。何百匹ものサカナが旋回する。そしてまたほどける。
また別の場所で渦になる。
ヒョウはこの動きを何度も見ていた。
サカナは自由に動いているようで、完全に自由でもない。
見えない回遊ルートがある。
コクサイエリアの上。
ヤチムンエリアの上。
ナハエアポートの上。
サカナたちはその道を巡回している。
まるで都市を見回るように。
「また大きい群れだな」
後ろから声がした。
キンだった。
いつのまにか屋上に来ていた。
ヒョウは振り返らない。
「回遊率は?」
キンは腕の端末を見る。
「七十二」
「高いね。お昼間より増えた?」
「うん」
キンはサカナを見上げる。
しばらく黙っていた。
そして笑う。
「楽譜みたいだ」
ヒョウは眉を上げる。
「楽譜?」
キンは空を指さす。
「ほら」
サカナの群れが形を変える。
渦がほどけ、列になる。
「音符」
キンが言う。
「音符が並んでる」
ヒョウは空を見る。
最初は意味がわからない。だがしばらくすると理解できる。
サカナの列。
間隔。
旋回。
すべてが一定のリズムで繰り返されている。確かにそれは楽譜のようだった。
ヒョウには音楽には見えない。むしろ逆だった。
サカナの動きは、記憶の断片のように見える。
人の声。
店の音。
酒場の笑い声。
そういうものが都市に残り、
サカナがそれを運んでいる。
ヒョウはそう感じていた。
サカナは都市を回遊している。
だがそれはただの回遊ではない。
記憶の回遊だった。
ヒョウはふと気づく。
地下からの振動が強くなっている。
これから向かうシュリエリアだ。
その瞬間だった。
サカナの群れが一斉に向きを変える。
巨大な影が都市の上を滑る。
ヒョウは息を止めた。
都市が動いた。
いや。都市が呼吸した。
その呼吸をサカナが運んでいる。
ヒョウはゆっくり言った。
「キン」
「ん?」
ヒョウは空を見上げた。
「たぶんサカナって、都市の記憶なんだ」
キンはしばらく黙っていた。
そして笑う。
「なるほど」
キンは空を見上げる。
「じゃあナハって」
サカナの群れが夕焼けの中を回遊する。
キンが言う。
「忘れない都市なんだ」
空が暗くなっていく。都市の灯りがひとつずつ点き始める。
サカナの群れが、ゆっくりと夜の形に変わる。
昼のサカナは熱帯サカナのようだった。
だが夜になると、姿が変わる。
深海サカナだ。
光を放つ。
ゆっくり漂う。
数は減る。
昼のオーケストラが、夜のカルテットになる。
ヒョウはそれを見ていた。
どこからとなく、地下から振動が来る。
長い時間をかけて作られる振動。
都市の奥から、それが広がる。
ヒョウは思う。
ナハは静かな都市ではない。
ただ、音が見えないだけだ。
キンが言う。
「行く?」
ヒョウは頷いた。
シュリの灯りが、夜の坂の向こうに見えている。
*
わたしたちは、エアカーに乗り込み、さっき来た方向に戻る。
最寄りのナハエアポートステーションから、ストリートに沿ってシュリステーションまで向かう。
ステーションと名前に着いてはいるが、大昔そうだった名残で、今は駅ではない。一応、交通規制のある地面走行路、といったところだ。
わたしとキンのエアカーはマキシステーションに着くと、自動運転モードに切り替わり、地面走行モードへと移行する。
あとは、目的地まで道沿いに走らせるだけだ。いつもなら自動運転モードに切り替えるところだが、なんとかくいまは手動な気分だ。
途中、マキシステーション近くの、コクサイエリアに寄ることにした。
あたりはすっかり夜の色になっている。
昼間とは違う。
この時間の街は、輪郭そのものが少し曖昧になる。
通りの床や壁には、ナハ特有の赤土を思わせる色が沈んでいた。昔からこの土地に多い鉄分――酸化鉄の赤。その色が、この時代の照明設計にも受け継がれているらしい。
海中から立ち上がる光は、その赤をいっそう強調していた。水を透かして届く青白い光と、通りの足元を染める赤い光。二つが混ざると、街全体がどこか生き物の内側みたいに見える。
店はもうほとんど閉まっていた。
昼間は無音の市場として整然としていた通りも、夜になるとまた別の静けさをまとい始める。
人の数は少ない。たまに地元の住民らしい人影が、通りの端をゆっくり歩いていくだけだ。
「なんかさあ」
前を走っていたキンが、エアカー越しに通信を入れてくる。
「夜のここって、昼よりちょっとだけ怖くない?」
「……わかる」
ヒョウは少し意外に思いながら答えた。
キンは何でも面白がる方だと思っていたからだ。
「でもアタシ、嫌いじゃないんだよね。なんか、昼のコクサイエリアが表の顔だとしたら、こっちは裏の顔って感じで」
「裏というか……記憶の顔、かな」
ヒョウは、自分でもうまく説明できないままそう言った。
夜の音は、昼と違う。
昼間、この通りの音はまだ、人の気配に紛れていた。器の触れる音も、遠くの気流の揺れも、サカナの影の気配も、すべてが街の営みの一部として聞こえていた。
けれど夜は違う。
音の数が減るぶん、一つひとつがむき出しになる。
水の音。
どこか遠く、海中トンネルの継ぎ目を流れていくわずかな水圧の変化。
目には見えないのに、耳の奥だけがそれを拾う。
風の音。
正確には、風というより気流だ。空を泳ぐサカナたちの通り道に引かれて、街の上を撫でていく流れ。それが建物の角や樹木の葉先に触れるたび、低い、かすかな擦過音になる。
そして、発酵の音。
閉まった店の奥から、なお消えずに残る、ゆっくりとした泡立ちの気配。炭酸飲料の仕込みか、あるいは保存食か。この街では、発酵は味や香りだけでなく、音としても生きている。
ヒョウは、その三つの音が夜の中で重なっているのを感じた。
それは音楽ではなかった。
少なくとも、昼間キンがマグカップから聞いたと言っていたような、旋律を持つものではない。もっと断片的で、まとまりがなくて、少し怖い。
でも、ただの雑音とも違う。
ヒョウには、それが記憶に近いものに思えた。
だれのものかわからない記憶。
土地の記憶なのか、街の記憶なのか、それともここを通り過ぎていった無数の人間の気配なのか。
「ヒョウ、また難しい顔してる」
キンが笑う。
「アタシにはね、これ、ちょっとだけ音楽っぽく聞こえるよ」
「これが?」
「うん。昼はオーケストラって感じだったけど、今はもっと少人数。ほら、カルテットみたいな」
「カルテット……」
「そうそう。ちょっと静かめで、でもちゃんと息は合ってる感じ」
「わたしには、あまりそうは思えないけど」
「ヒョウは真面目すぎるんだよ」
「なにそれ」
「だってヒョウ、音を聴くとすぐ考え込むじゃん。アタシは先に感じる派」
「……キンはいつもそうだよね」
「褒め言葉として受け取っとく!」
通信越しに、キンがけらけら笑った。
そのときだった。
ヒョウはふと、上空の気配の変化に気づいた。
「……サカナ」
夜のコクサイエリアにも、サカナはいた。
ただし、昼間とはまるで違って見えた。
昼は熱帯サカナみたいだったはずの輪郭が、夜になると深海サカナのように変わる。体表は暗く、ところどころだけが淡く発光している。その光も昼のように面ではなく、点だった。
一匹。
また一匹。
数はずっと少ない。
天気予報の回遊率とは関係なく、夜になるとサカナたちは数を減らす。
しかも、その泳ぎ方は昼よりずっとゆっくりしている。
まるで深い海の底から、そのまま空へ迷い出てきたみたいに。
ところどころに灯る小さな光は、ヒョウには四つの楽器が別々に鳴っているようにも見えた。
たしかにキンの言う通り、カルテットなのかもしれない。
いや。
自分はそうは聞いていない。
そう見えているだけだ。
ヒョウは、自分の感覚の揺らぎに少し戸惑う。
住民の中には、この時間の音を記憶として受け取る人もいれば、ただの雑音にしか感じない人もいるという。キンのように、音楽として聞いてしまう人もいる。観光客には、そもそも聞こえないことの方が多い。
同じ街にいて、同じ光景を見ているのに、聞こえるものだけが少しずつ違う。
それが、ヒョウには少し怖かった。
「ねえ」
キンが急に声の調子を変えた。
「この街ってさ、たぶん昼より夜のほうが正直だよね」
「正直?」
「うん。昼はみんな、ちゃんと街として振る舞ってる感じ。でも夜は、街そのものが何考えてるか、ちょっと出ちゃってる感じする」
ヒョウは返事をしなかった。
ただ、少しだけわかる気がした。
この時間のコクサイエリアには、表面の賑わいがないぶん、土地そのものの気配がむき出しになっている。
音も、光も、サカナも。だからこそ、夜は少し怖い。
でも同時に、目を離せない。
ヒョウは前方を見た。
コクサイエリアの赤い光は、もう少し先でゆるやかに薄れ、その先に続く移動路は、シュリの方角へと伸びていた。
「……行こうか」
「うん!」
キンの声だけが、妙に明るかった。
二台のエアカーは、深海魚のような夜のサカナたちを頭上に見ながら、静かな街を抜けていった。
*
「それにしてもさあ、なんでキンには、あの音楽が聴こえるのかな?」
自動運転モードに切り替えて、さっきお店で買ったオリジナルクッキーを頬張っている。
「うーん、なんでだろ……?
あんま自覚ないけど、さっきのキョウメイ?あれの条件的には、音楽は子供のころからなんでも好きでバイオリン習ってたし、地元ラバーだし、すぐいろいろと連想しちゃうし、自他ともに認めるゴーイングマイウェイで……って、ぜんぶそろってるね」
「確かに言われてみると、そうだね。天性の才能があったのかもよ?」
「いやーそーかな~」
わざとらしく照れ隠しする、エアカー越しの友人の横目に、わたしは自分の中のジェラシーの感情に気づかないふりをする。
空中とは違い、地面走行モードは、車輪を地面に設置させて回転させることで推進力を得る仕組みなので、当然、適度に揺れる。 わたしは、この揺れが嫌いではない。ナハという地域に生息する地球人である実感が得られるからだ。
その昔は、移動するキカイはぜんぶこうだったらしいけど、先祖も同じ気持ちだったのだろうか。 いくつかのステーションを経由して、北方向にぐるっと迂回する形で、目的知に近づいてきた。
気のせいか、目的地方向付近のサカナたちの群れが大きくなってる?まるで、わたしたちを歓迎してるかのように……
「もうすぐ到着~」
キンは、いつの間にか手動走行モードに切り替えて、先頭だってシュリステーションを抜けている。
わたしも追うようにして、目的地を目指す。
シュリ発電所。
ナハシティ最大規模を誇る発電所で、我が国のエネルギー源の中枢を担う施設だ。
シュリの塔は、遠くから見ると、一本の建造物には見えなかった。
それはむしろ、都市の地面からゆっくりと生え出した植物のようだった。
幾層にも折れ曲がる構造体が、らせんを描きながら上空へと伸びている。
一本の柱ではなく、幾つもの束が互いに絡まり合い、ほどけ、また結び直されながら、ゆっくりと空へ向かって回転しているようにも見える。
ヒョウはそれを見上げながら、どこかで見たことのある形だと思った。
DNA。
遠い昔、人間という生き物の身体を記述していた、あの螺旋構造に似ている。
ただし、この塔はもっと自由だった。
直線ではなく、風に揺れる花束のように曲がりくねりながら、いくつもの層が絡み合っている。巨大な曲がりくねった花束――伝統衣服の『カリユシ』のデザインにちなんで、地元民からは、『カリユシタワー』の愛称で呼ばれてりもする。
まるで都市そのものが、ここから生きているかのようだった。
塔の表面を覆っているのは、細く長い管の群れだった。それらは建造物の一部というより、むしろ植物の蔓のように見えた。互いに絡み合い、ほどけ、再び結び直しながら、塔の内部へと流れ込んでいく。
その管の中を、何かが流れている。
ときどき、微かな光が走る。
蒸気が漏れる。
その蒸気は、白くはなかった。夜の蛍のような、淡い光を伴っていた。
瞬く。
消える。
また別の場所で、瞬く。
塔全体が、巨大な呼吸をしているようだった。
ヒョウは歩きながら、その匂いに気づいた。
甘い。
しかし花の匂いではない。
紫陽花に似ている。湿った土と、花と、水が混ざったような匂い。
そしてもう一つ。
サカナの匂いだった。
海ではない。
生き物でもない。
どこか懐かしい、遠い記憶のような匂いだった。
「……ここが、シュリ発電所か」
ヒョウが小さく呟く。
キンは答えない。
友人は塔を見上げていた。
しかし目で見ているのではなかった。
耳で、聴いている。
塔の内部で起きている振動は、まだ音になっていない。しかしキンにはそれが分かる。
振動が重なり、ゆっくりと、音楽になろうとしている。
「まだ、始まってない」
キンが言う。
「何が?」
ヒョウが聞く。
キンは少し考えてから言った。
「協鳴」
塔の内部では、巨大な容器がゆっくりと光を変えていた。
群青。
朱。
紫。
その色は固定されていない。ゆっくりと移ろい、また別の色へと変わる。
ヒョウはそれを見て、ふと手の中のものを見た。
マグカップ。ライオンの紋章。
やちむん通りで買ったものだ。
塔の中にある容器は、それの何百倍も大きい。
しかし形は似ていた。
円筒の身体。
広い口。
そして側面に刻まれた、威厳のある獅子。
ただしこちらの獅子は、もっと荘厳だった。
王の紋章のように見える。
いや、都市の紋章かもしれない。
巨大な容器の内部では、液体がゆっくりと動いている。
泡が立つ。
しかし、それは発酵の泡というより、振動そのもののように見えた。
「古酒(クース)」
ヒョウは言った。
キンは頷く。
ただの酒ではない。
シュリの発酵は、普通の時間では起きない。
何十年。
何百年。
特殊な条件の下で眠り続けた泡盛が、ある瞬間、爆発的な発酵を起こす。
そのとき生まれるのは熱ではない。
振動だった。
都市を揺らすほどの振動。
その振動が、音になる。
協鳴。
そして、その音が、ナハを動かす。
ヒョウは塔を見上げた。
その周囲を、サカナたちが回遊している。
数えきれないほどのサカナ。
群れ。
渦。
それぞれが、どこかへ向かっている。
ただ漂っているわけではない。
探している。
何かを。
協鳴の種。
都市のどこかで生まれた振動を見つけると、
サカナたちはそれをここへ運んでくる。
シュリへ。
塔の上空を、一匹の巨大な影が横切った。
ヒョウは顔を上げた。
あれは、空港で見たサカナだった。
「サカナたちが……歓迎してる……?」
わたしは、思わず独り言のように、つぶやいた。
「ホントだね!この辺り、いつもこんなにいたっけ?天気予報外れたのかな」
さっき遠目で見た時よりも、明らかにサカナの数も増えている、動きも激しくなってる……!
少しして、エアカーは自動運転モードに切り替わった。
さっきやちむん研究所で指示された通りで、あとは、行先まで待つだけだ。
わたしたちのエアカーは、サカナたちの群れをかき分けるように、発電所の上空部に近づくように上昇し始めた。
どこの向かうのだろう……?
そもそもわたしたちは発電所内部に入ったことなどない。
不安と緊張、そして、高まる感情。
「あそこに入るのかな?」
最上部の雲にかかる『花』の真上まで来ると、エアカーはゆっくりと下降し始めた。
下の方を見てみると、花が開くように大きな扉が開いた。
――あそこに着陸するんだ……
*
二台のエアカーはゆっくりと高度を下げ、さっきの開いた扉を通り過ぎると、何もない空間に着陸した。上を見上げると、いつの間に、扉は締まっている。
「おつかれさまでした。エアカーを降りて、前方の案内に従って移動してください」
エアカーのドアが自動で開き、わたしは、その空間に降り立つ。
「すごい……まるで、海中みたい……」
キンもエアカーから降りて、あたりを見渡している。
わたしもあたりを見渡すも、上下左右どこを見渡しても、ただ『青い』空間が果てしなく広がっている。
塔の入口は、意外なほど静かだった。
都市の中心にある巨大な発電施設にしては、あまりにも素朴だった。
石畳のような床。曲線を描く壁。そこを這うように走る管の束。
建造物というより、巨大な生き物の内部に入ったような感覚だった。
ヒョウは立ち止まり、空気を吸った。
湿っている。
これがきっと、酒蔵の匂いだ、と思った。
麹。アルコール。木。
そして時間。
その匂いの奥に、さらにもう一つの気配がある。
発酵。
ゆっくりと何かが変化し続けている、あの独特の空気。
目の前に、巨大な容器が現れた。
やちむんの甕に似ている。
ただし、その大きさは建物ほどもある。
表面は群青色だった。
しかし固定された色ではない。
朱へと移り、紫へと変わり、また深い青へ戻る。
色そのものが、ゆっくり呼吸しているようだった。
ヒョウは思わず呟く。
「……マグカップだ」
やちむん通りで買った、あの獅子のマグカップ。
それを、何百倍にも拡大したような形だった。
側面には獅子の紋章がある。
しかし人の持つ器の装飾とは違う。
王の紋章のような威厳。 都市の印のような重さ。
甕の上部から、太い管が何本も伸びていた。
それらは直線ではない。
花の蔓のように曲がりくねりながら、塔の内部へと広がっていく。
その管の中を、液体がゆっくり流れていた。
いや。
液体だけではない。
振動。
ヒョウはそれに気づいた。
管が微かに震えている。
人間の耳では聞こえないほどの、低い振動。
しかし、それは確実に存在していた。
キンは甕の前で立ち止まった。
目を閉じている。
耳で聞いているのではない。
身体で感じている。
「まだ若い」
キンが言う。
ヒョウは甕を見上げた。
「若い?」
「古酒になる途中」
発酵は終わっていない。
この都市の酒は、人間の時間では熟成しない。
何十年。
何百年。
あるいはそれ以上。
極端に長い時間の中で、静かに変化し続ける。
そしてある瞬間。
爆発的な発酵が起きる。
それは熱ではない。
振動だった。
甕の底から生まれた振動が、管を通り、塔全体へ広がる。
さらに都市の地下へと伝わっていく。
その振動が、音へ変わる。
協鳴。
都市のあちこちで起きている小さな振動が重なり、
一つの巨大な音になる。
ヒョウは、遠くで何かが動く気配を感じた。
サカナだ。
シュリの外で回遊していたサカナたちが、 塔の周囲をさらに密集して回り始めている。
管の一本が、微かに光った。
振動が強くなる。
甕の内部の液体が、ゆっくり揺れる。
ヒョウはふと気づいた。
この施設は、発電所ではない。
もっと近いものがある。
「酒蔵だ」
ヒョウは、小さく言った。
キンは頷いた。
その通りだった。
ここは工場ではない。
時間を作る場所。
発酵させているのは、酒だけではない。
都市そのものだった。
塔の上空で、巨大な影が回遊している。
空港で見た、あの巨大サカナ。
ヒョウはその影を見上げた。
すると、その瞬間。
甕の内部で、泡が一つ弾けた。
小さな音だった。
しかし、その振動はすぐに管を伝い、
塔全体へと広がっていく。
キンが目を開く。
「来る」
ヒョウはまだ理解していない。
「何が?」
キンは塔の上を見た。
サカナの群れが、急に動きを変える。
回遊の速度が上がる。
「協鳴」
*
キンの声が落ちた瞬間、塔の周囲を回っていたサカナたちの動きが、目に見えて変わった。
それまでの回遊は、遠くから見ればただの群れにも見えた。都市の上空を漂い、渦をつくり、ほどけ、また別の流れをつくる。ヒョウもこれまで、そういうものとして見てきた。記憶の断片。街に残された気配。土地の声のようなもの。けれど、いまシュリの内部から見上げるサカナたちは、もっと明確な意志を持っているように見えた。
群れの一部が、急にひとつの方向へ折れた。
遅れて、別の群れも同じように曲がる。
それは生き物の反応というより、命令を受け取ったキカイの挙動に近かった。
ヒョウは塔の外壁に沿って走る光の線を見た。さっきまで淡く明滅していただけの管の一部が、今ははっきりと方向を示している。群青から朱へ、朱から紫へ。まるで塔そのものが、サカナたちに道を返しているようだった。
「……これ、呼んでるの?」
ヒョウが呟く。
キンはサカナの動きを見ながら、ゆっくりと首を振った。
「呼んでる、というより、返してる感じかな」
「返してる?」
「うん。この街で起きたものを」
ヒョウは意味を測りかねて、黙ったまま空を見た。
すると、塔の内部のどこかで、またひとつ泡が弾けた。
小さな振動。
だが今度は、それがどう伝わったのかを、ヒョウはほとんど見た気がした。甕の中で生まれた震えが、管を通り、壁を伝い、塔の外へ滲み出る。そして、その震えに触れたサカナたちが、一斉に向きを変える。
受け取っているのだ。
それだけではない。
選んでいる。
サカナの群れはただ塔の周囲を回っているのではなかった。あるものは上昇し、あるものは塔の周りを低く旋回し、あるものは都市の方角へ散っていく。その動きには明らかな偏りがある。
ヒョウは思わず、図書館で見た回遊の記録を思い出した。回遊率が高い日ほど、都市では協鳴の報告件数が増える。国際通り。やちむん通り。海中桜の周辺。人が集まり、記憶や気配が重なりやすい場所ほど、サカナは多くなる。
逆ではなかったのか、とヒョウは思う。
サカナが多いから協鳴が起きるのではない。協鳴の起きる可能性が高いから、サカナがそこへ集まるのだ。
そう考えた瞬間、これまでの景色が別の意味を持ちはじめた。
空を泳ぐサカナは、単なる都市の装飾でも、神秘的な自然現象でもない。もっと実務的で、もっと精密な存在なのだ。都市のどこで協鳴が芽吹きそうか、その「種」を探し、見つけ、適切な場所へ運ぶ。それは花粉を運ぶ昆虫に似ていたが、同時に測定機器にも似ていた。
「サカナって……集めてるのか」
ヒョウは、半ば独り言のように言った。
「うん」
キンは即答した。
「きっと、協鳴の種を」
ヒョウはその言葉を頭の中で転がした。
協鳴の種。
目には見えない。けれど、たしかにあるもの。
人が器に触れたとき。音を思い出したとき。土地に対して強い感情を抱いたとき。あるいは、記憶と環境が偶然重なったとき。そういう瞬間に生まれる、ごく小さな振動の核。サカナたちは、それを見つけるために空を巡回しているのかもしれない。
塔の外で、一匹の小さなサカナが急停止した。
群青色の体に、薄い緑の線が一本入っている。体長は三十センチほど。昼間、空港で見た大きな群れのなかなら埋もれていたような、小さな個体だった。そのサカナは空中で一瞬静止すると、くるりと向きを変え、まっすぐ塔へ向かって飛んできた。
壁にぶつかる、と思った瞬間、そのサカナは塔の表面をすり抜けた。
いや、すり抜けたように見えただけで、実際には透明な受け口が開いていたのだろう。サカナはそのまま管の束の中へ入り込み、光のひと筋になって内部を走っていった。
ヒョウは息をのんだ。
「いまの、見た?」
「見た」
キンは笑っている。
「戻ってきたんだね」
「戻ってきた?」
「外で集めたものを、ここへ」
ヒョウはもう一度、塔の内部を見渡した。
巨大な甕。花の蔓のような管。淡く明滅する蒸気。そこへ、都市の上空から帰ってくるサカナたち。ひとつひとつの動きが、急に有機的な秩序を持ち始める。
この施設は、発電所であると同時に、回収所でもあるのだ。
都市中で芽吹いた協鳴の種を、サカナたちが拾い上げ、ここへ集める。
サカナたちは、ただ空を泳いでいるわけではない。
ヒョウはそのことを知っている。
子供のころ、学習システムで習ったからだ。
サカナたちは都市のセンサーでもある。
音。
振動。
人の感情。
風。
建物。
樹木。
音楽。
都市のあらゆる協鳴の兆しを拾い上げる。
協鳴の種は、目には見えない。けれどサカナたちはそれを感じ取る。
小さな振動。
微かな音。
人の心の揺れ。
それらを拾い上げ、空を回遊しながらシュリへ運ぶ。
シュリは都市の心臓だ。
サカナたちは血液みたいなものだ。
ヒョウは空を見上げる。
サカナたちはゆっくりと泳いでいる。
回遊率二十パーセント。
今日は少し少ない。
けれどヒョウにはわかる。
いま、この街のどこかで協鳴が始まりつつある。
サカナたちはそれを探している。
都市の音楽の種を。
甕の中では、長い時間をかけて育った古酒が爆発的な発酵を起こし、それを受け取って振動を増幅する。甕の中では、長い時間をかけて育った古酒が爆発的な発酵を起こし、それを受け取って振動を増幅する。増幅された振動は再び音へ変わり、オトは都市へ返る。その循環のなかで、ナハは静かに動き続ける。
ヒョウは、子供のころに習った知識の断片をかき集めながら、いままさに見聞きしている目の前の事実と照らし合わせる。
協鳴の循環モデル。都市環境学の授業で見た、あの古い図を思い出す。
「じゃあ……サカナたちも、シュリ発電所の一部なんだ」
「たぶん、そう」
キンの声は、いつもの軽さを残しながらも、どこか真剣だった。
「外にいるから別の存在に見えるけど、ほんとは発電所の手足みたいなものかも」
ヒョウは、空港で見た巨大サカナを思い出した。
あれもまた、この循環の一部なのだろうか。
小さなサカナたちが街じゅうを巡回し、協鳴の種を拾って戻るのだとしたら、巨大サカナは何をしているのか。回遊の中枢か。都市全体の調律か。あるいは、もっと別の――
そのとき、塔の上方で低い唸りのようなものがした。
音というより、圧力だった。
ヒョウは反射的に顔を上げた。
巨大サカナが、さっきよりも低い位置を回遊している。
塔の周囲のサカナたちは、その影が近づくたびに、ごくわずかに軌道を変えていた。避けているのではない。道を譲っている。まるで、群れのなかの秩序そのものが、その巨大な存在を中心に組み替えられているみたいだった。
「中枢だ」
ヒョウの口から、言葉が落ちた。
キンは何も言わなかった。けれど、その沈黙が肯定のように思えた。
小さなサカナたちは都市を回り、協鳴の種を探し、シュリへ返す。巨大サカナは、そのすべてを束ねている。気象。回遊率。社会のざわめき。人の記憶。都市の感情。そういうものを一つの巨大な流れとして保持し、必要なときにシュリへ接続する。
ヒョウは、急に少し怖くなった。
ナハは静かな都市ではない。
音が見えないだけだ、とさっき思った。
でも違うのかもしれない。
この都市は、見えない音でできている。
サカナたちはその音を拾い、シュリはそれを育て、巨大サカナはその全体を覚えている。
人間だけが、その一部を、たまたま協鳴として聴いてしまう。
塔の奥で、また泡が弾けた。
今度は一つではない。
二つ。三つ。連続して。
周囲のサカナたちが、いっせいに軌道を変える。
キンが、ふっと息をのんだ。
「増えてる」
「何が?」
「種」
ヒョウは聞き返そうとして、やめた。
もう説明されなくても、分かりかけていた。
いまこの瞬間、ナハのどこかで、協鳴が起きている。ひとつではない。いくつも。サカナたちはそれを拾い、ここへ返し始めている。シュリの甕は、それに応えるように震え、蒸気はさっきよりも明るく瞬いている。
巨大サカナの影が、さらに一段低くなった。
まるで、何かの始まりを見届けるために、塔へ近づいてきたようだった。
*
そのとき、サカナたちの流れがふと変わった。
シュリの塔の周囲を回遊していた小さなサカナたちが、まるで何かに呼ばれるように、ゆっくりと進路を変える。
空の深いところから、ひとつの影が降りてきていた。
ヒョウは思わず息を止める。
それは、サカナだった。
だが、これまで見てきたサカナとは、明らかに違う。
巨大だった。
塔の外壁に沿って流れる発酵の蒸気のあいだを、ゆっくりと滑るように進む。身体は群青と紫のあいだを揺れながら、ところどころ半透明に変わり、内部で細かな光が脈打っている。まるで都市そのものが脈動しているようだった。
サカナは、シュリの塔の上空で静かに円を描く。
その動きに合わせるように、小さなサカナたちの回遊も微妙に変わる。
キンが小さくつぶやいた。
「……中枢サカナだ」
ヒョウはその言葉を聞いたことがあった。
都市の協鳴を観測する存在。
都市の気象、交通、人の動き、社会の変化。あらゆるデータを統合し、協鳴の流れを調整する巨大な知性体。
だが実際に見るのは、初めてだった。
巨大サカナの目が、ゆっくりとこちらへ向く。
その瞬間、ヒョウの胸の奥に、かすかな振動が伝わった。
音ではない。
言葉でもない。
けれど、何かが確かに伝わってくる。
巨大サカナは、人間と会話することはほとんどないと言われている。
それでも、ごくまれに、協鳴の波長が奇跡的に一致したときだけ、断片的な意思が届くことがある。
ヒョウは、はっきりとは理解できないまま、その感覚を受け取っていた。
都市の流れ。
協鳴の密度。
発酵の振動。
それらがひとつの巨大な循環として、ナハ全体に広がっている。
巨大サカナは、その循環の中枢にいる。
サカナたちの回遊率が高まるほど、都市の協鳴は増幅される。
そして、協鳴が増幅されるほど、サカナたちの回遊もまた活発になる。
都市は、音楽のように動いている。
巨大サカナは、その指揮者のような存在だった。
ヒョウは、ふと気づく。
巨大サカナは、シュリの塔を見ているのではない。
塔の中の、何かを見ている。
ヒョウの視線も、自然と塔の内部へ向かう。
そこには、長い時間をかけて発酵を続けてきた古酒が眠っている。
人間の時間より、はるかに長い時間。
都市の歴史よりも、長いかもしれない時間。
その時間が、いま、わずかに震えている。
ヒョウは思う。
都市のエネルギーは、機械ではなく、時間から生まれているのかもしれない。
巨大サカナは、もう一度ゆっくりと旋回する。
その巨大な身体の周囲を、小さなサカナたちが取り巻く。
まるで星の群れのようだった。
そして、そのときだった。
シュリの塔の奥から、かすかな振動が広がりはじめる。
発酵の音。
まだ微弱な、協鳴の芽だった。
巨大サカナは、その振動を、確かに聞いていた。
*
中枢サカナは、しばらくわたしたちを観察するようにそこを動かなかった。
そして、タイミングを見計らったかのように、浮上しずっと上空へ消えてしまった。
すると、その奥には突然、前方に道が現れ、
「こちらへお進みください」
と、キカイのアナウンスが聞こえてきた。さっき研究所で聴いた担当ロボットと同じ声だ。
言われた通りに、わたしたちはその『道』に沿って、歩き始める。
しばらくすると、目の前に、扉が現れた。
「中へお入りください」
キンが扉に手をかけようとしたが、わたしは割って入って、扉を開ける――
――中の部屋は、わたしがよく知ってる部屋だった。
子供のころに通っていた図書館。
その端のほうにある、この街の森と海が一望できる場所。
「どうぞ、そちらの椅子におかけください」
わたしは、ノスタルジーの感情を抱きこむように、その椅子に手をかけ、座った。
その隣に、キンも座る。
「こちらの飲み物をお召し上がりください」
テーブルに穴が開き、そこから、少し水色が買った透明なグラスが出てきた。
「そちらの飲料は、その昔『アワモリ』と呼ばれたオサケをベースにしたものです。」
「え?オサケって、大昔にもうなくなったんじゃ…?」
キンがすかさず聞く。
「はい。確かにそうです。しかし、一部例外処置として、その製造は継承されてきました。そして、呑むことも。」
目の前の飲み物に、少し顔を近づけてみる。
何とも言えない、いい匂い。
「オサケって、呑むと気持ち悪くなったり、怒りっぽくなったりするって、聞いたことあるけど…大丈夫ですか?」
わたしは好奇心と戦いつつも、念のため、聞いておく。
「はい、それはご心配なく。あなたの生物学的な体の特性を考慮した、そういったことは起きない配合にしてあります。どうぞご心配なく、呑んでみてください」
わたしは、グラスを口に近づける。
さっきの匂いが強調され、鼻の奥を突き抜けた。
ヒョウはグラスを持ったまま、しばらく黙っていた。
ズイセン発電所の奥では、巨大な樽が静かに並んでいる。
それは発電施設というより、
どこか巨大な生き物の体内のように見えた。
ヒョウはグラスを持ったまま、しばらくグラスを見つめていた。
透明な液体は、わずかに揺れている。だがそれは、手の震えのせいではない。都市全体が、ごくわずかに呼吸しているような揺れだった。
シュリの内部では、見えない振動が重なり合っている。
甕の奥で眠っていた古酒。
サカナたちが集めてきた協鳴の種。
都市のあちこちで芽吹いた、小さな音。
それらが、いまここに集まっている。
ヒョウは、ふと不思議な感覚を覚えた。
この酒は、ただの酒ではない。
ずっと昔、誰かが仕込んだものだ。
その誰かは、もうこの都市にはいないかもしれない。
それでも時間は消えない。
時間は、液体の中に沈んでいる。
人間より長い時間。
都市より長い時間。
それが、この一杯の中にある。
ヒョウは、遠い昔の知識を思い出す。
発酵とは、生き物の営みだ。
微生物が糖を食べ、世界を変える。
だがこの都市では、それはもう少し違う意味を持つ。
発酵とは、時間が震えることだ。
長い時間をかけて蓄えられたものが、ある瞬間に、振動へと変わる。
振動は音になる。
音は協鳴を呼ぶ。
その連鎖が、都市を動かしている。
ヒョウは、グラスを鼻先に近づける。
香りが立ち上る。
紫陽花のようでもあり、
海の奥を泳ぐサカナの匂いのようでもある。
それは懐かしい匂いだった。
なぜ懐かしいのか、ヒョウには分からない。
もしかすると、都市そのものの記憶なのかもしれない。
ナハという場所が、ずっと昔から覚えている匂い。
ヒョウは、ゆっくりと息を吸った。
遠くで、サカナたちが回遊している。
キンは静かにこちらを見ている。
都市の振動が、わずかに強くなった。
まるで、この瞬間を待っているかのように。
ヒョウは、小さく笑った。
「ただの酒なのに」
そう言いながら、グラスを持ち上げた。
*
透明に近い液体の底で、微かな光が揺れている。シュリ発電所の奥では、巨大な甕が静かに並び、そのどれもが眠っているように見えた。けれど、本当は眠っていない。眠っているふりをしながら、長い時間の底で、わずかに震え続けている。
「どうぞ」
キカイの声は穏やかだった。
ヒョウはゆっくりとグラスを口元へ運ぶ。鼻先に、あの匂いが立ちのぼる。紫陽花。湿った土。遠い海。サカナ。花。どれとも言い切れず、どれでもあるような匂いだった。
口に含んだ瞬間、熱が来た。
熱い、というより、身体の内側に光が流れ込む感じだった。喉を通り、胸へ落ち、そこから細い血管の一本一本へ、ゆっくりと広がっていく。味は甘いだけではない。塩気があり、微かな苦味があり、その全部がばらばらではなく、どこかで一つにまとまっている。
ヒョウは思う。
これは、土地の味だ。
ナハの海。森。赤土。そこに住み、そこを歩いてきた人たちの気配。器に残った記憶。発酵という時間そのもの。そういうものが、いま自分の身体の中に流れ込んでくる。
次の瞬間、視界が開いた。
自分の身体が、そこにあるまま遠ざかる。シュリ発電所の天井が透け、塔の内壁が透け、そのさらに向こうへ、ナハの全景が現れる。コクサイエリアの赤い光。ヤチムンエリアの静かな石畳。海中桜の淡い緑。夜の市場。暗い空を回遊するサカナの群れ。
ヒョウは、それを見ている。
同時に、その中にいる。
サカナの視点だった。
空の流れがわかる。都市の上を撫でていく気流の筋が見える。人の集まる場所が、かすかな熱のように立ち上がる。記憶が濃い場所、感情が溜まる場所、協鳴の芽が生まれやすい場所が、地図のようではなく、匂いのようにわかる。
ああ、と思う。
サカナたちは、これを見ていたのか。
都市の上をただ泳いでいたのではない。探していたのだ。まだ音にもなっていない小さな震えを。人が何かを強く思った瞬間に生まれる、ごく小さな種を。
ヒョウの中で、言葉にならない理解が広がっていく。
ナハは静かな都市ではない。音が見えないだけでもない。
この都市は、見えない音の上に建っている。
人の記憶が土に沈み、器に残り、サカナに拾われ、シュリで育ち、また街へ返る。
だからこの街は、忘れない。
だからこの街は、止まらない。
ヒョウは、自分の胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
変わりたくないと思っていた。土地を離れたくないと思っていた。ずっとここに、そのままでいたいと願っていた。けれど、いま見えているナハは、最初から止まってはいなかった。サカナが回遊するように、人も、記憶も、街そのものも、静かに回遊していた。動いているからこそ、ここにあるのだ。
ヒョウの口から、ほとんど無意識に言葉がこぼれた。
「わたしはナハという国を愛してはいたわけではなかったんだ……」
それは独白のつもりだった。けれど横で、キンがちゃんと聞いていた。
「そうでななく、ナハという島を愛してる……!」
その瞬間、シュリの塔の周囲を回遊していたサカナたちが、いっせいに向きを変えた。
キンは目を閉じたまま、小さく笑った。
最初は、一つの音だった。
低い、深い音。甕の底で眠っていた時間が、ようやく目を覚ますときの音。そこへ、別の音が重なる。細く高い光のような音。さらに、そのあいだを縫うように、柔らかい弦の震えに似た音が流れ込む。
キンには、それが最初から音楽だった。
ヒョウが記憶として見ているものを、自分は音として聴いている。その違いが、いまは少しも不思議ではなかった。人によって入口が違うだけで、流れ込んでくるものは同じなのだと、キンははじめて腑に落ちた。
シュリの内部で生まれた振動が、塔を伝って上へ昇る。外ではサカナたちがそれを受け取り、また別の場所から拾ってきた振動と重ねていく。単旋律ではない。二重でもない。無数の線が重なっている。それなのに、壊れない。ばらばらなまま、一つになっている。
キンは、胸の奥で何かが弾けるのを感じた。
「ラプソディだ」
ヒョウがかすかにこちらを見る気配がある。けれどキンは目を開けない。
これは説明しても伝わらない種類の音だ、とわかっていた。クラシックでも、民族音楽でも、ゲーム音楽でもない。けれど、その全部に少しずつ似ている。誰かが作曲した音楽ではなく、都市そのものがたまたま音楽の形を取ったときの響きだった。
ひとつのフレーズが生まれる。すぐに別の音がそれをなぞる。さらに遠くから、重い低音が押し寄せ、また高い光がその上を走る。ボレロみたいに、同じ核が何度も姿を変えながら増えていく。けれど実際には、同じものは二度と鳴らない。いまここでしか成立しない、一度きりの大合奏。
キンは、笑いたくなる。
街って、こんな音を隠していたのか。
昼のコクサイエリアで聞こえたカルテット。ヤチムンの器に触れたときに流れた旋律。空港の上空で見た楽譜みたいなサカナの列。あれらが全部、ここへ来て一つにつながる。散らばっていたものが束ねられるというより、最初から一つだったものの輪郭が、ようやく聞こえる形になる。
キンは思う。
ヒョウはずっと、この街に帰属したいと思っていた。
でも本当は、帰属って入れてもらうものじゃない。
こうして一緒に鳴ることなんだ。
違うまま、溶けきらないまま、でも確かに重なっていることなんだ。
だからキンは、目を閉じたまま、心の中で笑う。
ヒョウ。
いま、あんた、ちゃんと鳴ってるよ。
巨大サカナは、その変化を最初に知覚していた。
シュリの塔の中心部で、ひとつの閾値が超えられたのだ。発酵振動の振幅。サカナ群の回遊密度。都市内各地点の協鳴発生件数。気象条件。気流の偏差。地表温度。人間の感情変位。膨大な層に分かれたデータが、巨大サカナの内部では一つの流れとして処理される。けれど、それは単なる計算ではない。巨大サカナは、数値だけで都市を理解しているのではなかった。数値に乗った感情の重みを、長い時間の蓄積として持っている。
人間はこれを、都市の記憶、と呼ぶかもしれない。
巨大サカナにとって、それは記憶であると同時に現在でもあった。過去に起きた協鳴も、今起きている協鳴も、未だ起きていない可能性も、同じ流れの別位相として存在する。
いま、ひとつの局所的共鳴が、臨界値に近づいていた。
発信源は二つの人間個体。
識別子――ヒョウ。キン。
媒介物――器、発酵飲料、土地記憶。
環境条件――適合。
増幅余地――高。
巨大サカナの周囲で、小サカナ群の軌道が組み替えられる。必要なのは統制ではない。最適な重なりを与えること。協鳴の種をただ集めるだけでは足りない。どの種を、どのタイミングで、どの振動に接続するか。それによって街全体の音楽は変わる。巨大サカナは、そのために存在している。
ヒョウの感情波形が上がる。
キンの聴覚共鳴が増幅する。
シュリ主甕の発酵振動が同調を開始する。
閾値、突破。
その瞬間、巨大サカナには、ナハ全体が一つの円環として見えた。
コクサイエリアの夜の赤。ヤチムンエリアの土。空港跡地の夕焼け。海中桜の緑。人々の足取り。市場に残る静かなざわめき。古書店を改造した住居。研究所に遺されたメッセージ。現代の酒蔵の匂い。そのすべてが一本の大きな流れとなって、シュリへ集まり、また街へ返っていく。
巨大サカナは理解する。
いま、都市はよく鳴っている。
それは祝福に近い。
シュリの最深部で、泡が連続して弾けた。
塔全体が震える。花の蔓のような管が光り、蒸気が一斉に蛍のように明滅する。天井は透明になり、外のサカナ群が渦を描きながら回り始める。小サカナたちは一匹ごとに異なる軌道を取りながら、全体では一つの巨大な楽譜になっていた。
ヒョウには、それが街そのものの回遊に見えた。
キンには、ついに耐えきれないほど壮大なオーケストラに聞こえた。
巨大サカナには、都市全体が最適な循環状態に入ったことが明確な相として観測されていた。
ヒョウは、自分の手の中のグラスが、自分だけの器ではなくなっているのを感じた。これまでこの土地で生きてきた無数の人の気配が、その一口に重なっている。帰属とは、ひとりで閉じることではない。違うもの同士が、ゆっくりと同じ流れに乗ることだ。
キンは、いま鳴っているものがたぶん二度と再現できないことを知る。だからこそ美しい。即興でありながら秩序があり、ばらばらなのに溶けきらない。人も、サカナも、街も、そういうふうにしか一緒にはなれないのだと、音が教えてくる。
巨大サカナは、二つの人間個体を通じて発生した局所協鳴が、すでにシュリの中枢系へ接続されたことを確認する。出力安定。サカナ群同期率上昇。都市内伝播開始。
音は、街を包み込んだ。
樹木が震える。
空が震える。
都市そのものが、ゆっくりと呼吸している。
サカナたちが回遊する。
光の流れのように。
それはまるで、巨大な楽譜だった。
都市が奏でる音楽。
ヒョウは静かに目を閉じる。
口の中には、泡盛の香りが残っている。
紫陽花のような香り。
そして、どこか海の匂い。
昔、この土地には海があった。
ヒョウはそう聞いたことがある。
サカナは海を泳いでいた。
都市は地面の上にあった。
人はそこに住んでいた。
ずいぶん昔の話だ。
いま、この街は空を回遊する。
都市は動く。
サカナも動く。
人も動く。
ヒョウはふと思う。
もしかすると。
この街はずっと回遊してきたのかもしれない。
海から空へ。
土から樹木へ。
そして。
過去から未来へ。
ヒョウは空を見上げる。
サカナたちはまだ泳いでいる。
ナハは今日も回遊している。
静かに。
ゆっくりと。
ナハは静かに回遊していた。
サカナが回遊する。
人が回遊する。
音が回遊する。
記憶が回遊する。
そして街もまた、回遊する。
ヒョウは、もう一度だけグラスを傾ける。
キンは、目を閉じたまま、その響きの中心に耳を澄ます。
巨大サカナは、都市の上空でゆっくりと旋回し、全体の流れを保持し続ける。
その夜、ナハは、国ではなく、都市でもなく、たしかにひとつの島として鳴っていた。
*
ヒョウはそのまま、さらにグラスを傾けた――
おいしい……!
舌の奥から、甘みと塩味と適度な苦味がマリアージュされた。
同時に、さっきの匂いの正体が分かったような気がした。
それは、ナハの、海や森の、土地の匂い。
独特な味は、ナハの人々のやさしさや奥深さ、そして、ちょっとルーズなところ。
わたしは、一口飲み終えると、グラスをテーブルに置いた。
すると、その瞬間、頭の中で、色々な記憶が駆け抜ける――
夢中で読んだ海外のファンタジー小説。
人生におおきな影響を与えた、国内の古い詩集。
キンとの出会い。
ナハの海で初めて泳いだ時の、海の暖かさ。
森の中の、暖かい匂い。
「とても……おいしいです……!」
わたしは、だれにというわけではなく、そうつぶやいた。
「よかったです。その味は、あなたの記憶そのものです。そして、【協鳴】は、記憶と環境が同時に重なったときに起きる現象です。」
わたしは、ふと上空を見上げると、いつの間に天井が透明になっていた。
そして、その天井越しには、無数のサカナたちが群れを成している。
サカナたちが、回遊している。
いや、サカナたち含む、わたしやキン、森、海、街……このナハ全体が回遊してるんだ……
わたしは、カバンの中に持ってきたマグカップに、思わず手をかけた――
<了>