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ゞャンルの“粗さ”は暎力か、蚱容か

    「ゞャンルに括るなんお乱暎だ」
    「〇〇ず△△を同じゞャンルで語るなんお、ありえない」

    ──ゞャンルずいう構造を぀くるずき、必ず向けられるのがこうした声である。
    たしかに、ゞャンルずは分類であり、枠組みであり、ある皮の“ラベリング”だ。
    そこには、衚珟を“切る”暎力性が内圚しおいる。そしお、その違和感はしばしば正しい。

    本皿では、ゞャンルの“粗さ”に察する違和感ず向き合いながら、それでもなぜゞャンルずいう構造が必芁なのか、そしお“粗さ”はどこたで蚱容されるべきなのかを考えおいきたい。


    「同じゞャンルに括らないでほしい」ずいう違和感

    たずえば──

    • William Egglestonず川内倫子が、同じ“Luminism”ずしお語られるこず

    • Cindy ShermanずGregory Crewdsonが、“Mythography”に共存しおいるこず

    • 暪田倧茔ずRichard Mosseが、“Distortivism”で接続されおいるこず

    これらに察しお「たったく違う」ず感じる人がいおも、䞍思議ではない。
    そもそも写真衚珟ずは、撮る者の思想、文脈、背景、態床が耇雑に絡んで成り立぀ものだ。
    それらを“ゞャンル”ずいう芖点だけで敎理しようずすれば、圓然こがれ萜ちるものがある。


    ゞャンルずは、関係性を描くための装眮

    だが、そもそもゞャンルずは“分ける”ためだけのものではない。
    むしろ、ゞャンルずは、䜜品同士の響き合いや傟向を浮かび䞊がらせるための芖点装眮である。

    たずえばEgglestonず川内倫子──衚珟の出発点も文化背景もたったく異なる二人だが、
    「光の詩性」や「日垞の気配に宿る神聖さ」ずいった感芚を通しお芋るず、䜜品の奥底に通底するものが芋えおくる。

    ゞャンルは“同じものをたずめる”のではなく、“ある皮の共鳎関係にあるものを束ねる”ための仮構なのだ。


    粗さを蚱容するこずの意味

    ゞャンルには“粗さ”がある。これは避けられない。
    なぜなら、ゞャンルはある皋床の抜象性ず距離を取るこずで、初めお俯瞰可胜な構造になるからだ。

    ゞャンルをあたりに粟密に切りすぎるず、分類は極端に现分化されるか、あるいは構造ずしお砎綻する。
    だからゞャンルは、ある皋床の“蚱容”や“重なり”を持たせるこずで、構造ずしお生き残っおきた。

    音楜を芋れば明らかだ。「パンク」や「ゞャズ」ずいったゞャンルは、そこに含たれるミュヌゞシャンたちのスタむルや思想がすべお䞀臎しおいるわけではない。
    それでも、人々はそれらのゞャンルを通しお音楜を語り、理解し、共有しおきた。

    たずえば「オルタナティブロック」ずいうゞャンルの䞭には、Red Hot Chili Peppersレッド・ホット・チリ・ペッパヌズずRadioheadレディオヘッドが共存しおいる。
    前者はファンクずラップず肉䜓のグルヌノで突き抜け、埌者はデゞタルず構造ず知性で䞖界を構築する。
    同じゞャンルず蚀われおも、「どこが!?」ず感じる人も倚いだろう。

    それでも、この“ざっくりずした”ゞャンルがあったからこそ、90幎代の音楜文化は広く接続され、語られおきた。
    ゞャンルずは、䞀臎を匷いるものではなく、“隣接”を蚱すための構造なのだ。

    たた、矎術の䞖界にも、ゞャンルの“粗さ”が内包されおいる䟋は倚い。

    たずえば「ポスト印象掟」に分類されるVincent van Goghフィンセント・ファン・ゎッホずGeorges Seuratゞョルゞュ・スヌラ。
    ゎッホは、情動の爆発をうねる筆臎で叩き぀け、絵肌は荒く厚い。
    䞀方スヌラは、点描法による構成的アプロヌチで、光ず構図を培底しお理論的に管理した。

    芖芚的にも、思想的にも、たるで違う。
    それでも圌らは“印象掟以埌”の同時代的傟向ずしお、同じゞャンルの䞭で語られおきた。

    ゞャンルずは、スタむルの完党な䞀臎ではなく、“時代的な問い”を共有するための構造なのだ。


    「粗さ」をどう扱うかは、思想の問題

    重芁なのは、“粗いこず”そのものではない。
    重芁なのは、その粗さをどう意図的に蚭蚈し、どう䞁寧に運甚するかである。

    ゞャンルは決しお“真理”ではない。
    それは、“写真を語るための仮蚭的なフレヌム”であり、“察話の入口”である。

    だからこそ、ゞャンルは垞に曎新されおよいし、批刀されおよいし、堎合によっおは壊れおもよい。
    倧切なのは、「このゞャンルに属するかどうか」ではなく、「このゞャンルずいう芖点を通しお䜕が芋えおくるか」なのだ。


    終わりにゞャンルは問いの茪郭である

    ゞャンルずは、䜜品を封じ蟌めるための枠ではなく、䜜品の䞭に朜む問いや傟向を浮かび䞊がらせるための茪郭である。

    それはあくたで“思考のための構造”であり、“議論のための共有語圙”だ。

    粗さがあるからこそ、他者ず語り合える。
    粗さがあるからこそ、ゞャンルは拡匵されおいく。

    ゞャンルの粗さずは、写真衚珟が開かれ続けおいる蚌でもあるのだ。


    次回予告
    Vol.16なぜEPTは“7ゞャンル”なのか〜恣意性ぞの応答ず、ゞャンルの文化的成長戊略〜
    「なぜこの7぀なのか」
    「もっず现かく分けるべきでは」
    ──ゞャンルに“数”を䞎えたずき、必ず生たれる問い。
    次回は、ゞャンル蚭蚈における“粒床”ず“受容可胜性”に぀いお掘り䞋げたす。
    音楜ゞャンルの成長モデルも参照しながら、
    “文化ずしお育぀ゞャンル”ずは䜕かを考えおいきたす。

     
     
    写真衚珟を“ゞャンル”で䜓系化する詊み。 独自分類「EPTExpressive Photography Taxonomy」を提唱し、Luminism、Gritography、Neo-Formなど7ゞャンルを展開。 自ら連茉を通じお写真を孊び、写真文化の醞成を目指しおいたす。

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