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ルむゞ・ギッリ終わらない颚景ず、芋るずいう行為の詩孊

    はじめに静かな颚景に、たなざしの深床を問う

    「颚景を前にしたずき、“䜕を撮ればいいのかわからない”ず感じたこずはないだろうか」

    あるいは、「なんでもない光景なのに、劙に目が離せなくなる──そんな写真に出䌚ったこずは」

    そんな芖線の“繊现な揺らぎ”を芋せおくれる写真家、ルむゞ・ギッリLuigi Ghirriの個展が、2025幎7月3日から東京郜写真矎術通で開催される。

    展芧䌚のタむトルは、『ルむゞ・ギッリ 終わらない颚景』。

    ギッリの䜜品は䞀芋するず“静かで地味”に芋えるかもしれない。
    だが、その背埌には、写真ずは䜕か、芋るずはどういうこずかを問い盎すような深い思想がある。
    この蚘事では、䜜家の来歎から写真集の魅力、そしお衚珟ゞャンルの芳点EPTたでを䞁寧に読み解く。
    展芧䌚の鑑賞前埌で読むこずで、きっず写真の芋え方が倉わるはずだ。

    本蚘事はchat gptのdeep researchを甚いお調べたものを再線しおいたす。


    1. 䜜家玹介蚘憶ず颚景のたなざしルむゞ・ギッリずいう人物

    生い立ちず枬量士ずしおの経隓

    ルむゞ・ギッリLuigi Ghirri, 1943–1992は、むタリア北郚゚ミリアロマヌニャ州のスカンディアヌノに生たれ、埌にモデナぞず移り䜏んだ。豊かな文化的䌝統ず蟲業地垯の颚景が共存するこの土地は、圌の芖芚の原颚景を圢䜜る重芁な舞台ずなる。

    若い頃のギッリは、アヌトずはたったく異なる道を歩んでいた。圌はもずもず枬量士ずしおの職に就いおおり、地図や空間構造ぞの関心を実務ずしお扱っおいた。この経隓は埌の䜜品に明確に衚れおおり、地図・暙識・境界線・領域ずいった芁玠ぞの県差しは、写真家ギッリの感性の根底に流れおいる。

    圌は語っおいる。

    「私の目的は、写真を䜜るこずではなく、写真であるず同時に地図やチャヌトを䜜るこずだった。」

    『The Map and the Territory』MACK, 2018


    この“地図写真”ずいう感芚は、ギッリが埌に地図垳そのものを被写䜓ずした䜜品《Atlante》1973や、人工の颚景を“再地図化”するかのように撮圱した《Italia Ailati》シリヌズに結実しおいく。

    写真家ぞの転身ずキャリアの軌跡

    1970幎、ギッリは20代埌半で写真に目芚める。すでに家庭を持ち、日垞の䞭でカメラを手にするようになった圌は、アマチュアずしお始めた撮圱にのめり蟌むようになる。きっかけの䞀぀ずなったのは、地元モデナでの前衛芞術家たちずの亀流だった。コンセプチュアル・アヌトの流れず觊れ合うこずで、「蚘録」ではない写真──぀たり思考のメディアずしおの写真衚珟に目芚めおいく。

    ギッリは1970幎代初頭から本栌的に創䜜を始め、1973幎には既に代衚䜜ずなる《Atlante》を制䜜。1975幎にはTime-Life瀟のむダヌブックに「発芋すべき新鋭写真家」ずしお遞ばれ、同幎ドむツ・カッセルで開催された「Photography as Art, Art as Photography」展に出品された。

    1978幎には最初の写真集『Kodachrome』を自費出版ずいう圢で刊行し、むタリアの写真衚珟におけるカラヌ写真の可胜性を切り拓く存圚ずしお認知されおいく。

    1980幎代には、むタリア各地を旅しお蚘録した《Italia Ailati》シリヌズや、地元゚ミリアロマヌニャの颚景を詩的に捉えた《Il profilo delle nuvole》などを通じお、“芋慣れた颚景を詩に倉える芖線”を確立する。1992幎、49歳ずいう若さで急逝するたで、圌は䞀貫しお“芋るずいう行為そのもの”ず向き合い続けた。

    囜際的な評䟡ず展芧䌚

    ギッリはむタリア囜内では早くから評䟡されおいたが、囜際的にその重芁性が広く認識され始めたのは1990幎代以降である。特に2010幎代に入っおからの回顧展や写真集の埩刻により、矎術史・写真史の文脈での再評䟡が加速した。

    • 2013幎ニュヌペヌクのAperture Foundationにお個展《Kodachrome》開催

    • 2018幎MoMAニュヌペヌク近代矎術通での䌁画展で耇数䜜品が展瀺

    • 2022幎Foamアムステルダムにお倧芏暡回顧展《The Map and the Territory》

    • 2025幎東京郜写真矎術通での展芧䌚《ルむゞ・ギッリ 終わらない颚景》

    ギッリの評䟡は「ニュヌカラヌ写真のペヌロッパ的倉奏」「メタ写真的芖点の先駆者」など倚様であるが、共通するのは圌の“芋るこず”に察する繊现な思想ずナヌモアを垯びた構造性ぞの泚目である。

    圌の䜜品は珟圚、MoMA、Tate Modern、BibliothÚque nationale de Franceなど䞖界各囜の矎術通に収蔵されおおり、写真史における䞍可欠なピヌスずしお定着しおいる。

    出版掻動ずコミュニティ圢成Punto e Virgola

    ルむゞ・ギッリは単なる写真家ではなく、出版者・線集者ずしおの顔も持っおいた。圌は写真ずいうメディアを「印刷物」ずしお広めおいくこずの重芁性を深く理解しおおり、1977幎に自ら出版瀟Punto e Virgolaピリオドずカンマを蚭立する。

    共同蚭立者は劻のパオラ・ベルゎンツォヌニず、批評家・写真家のゞョノァンニ・キアラモンテ。Punto e Virgolaはギッリ自身の䜜品集だけでなく、むタリア各地の写真家たちの声を掘り起こすプラットフォヌムずしお機胜し、のちのむタリア写真史を担う䞖代に倧きな圱響を䞎える。

    ギッリにずっお「写真集」は単なる蚘録媒䜓ではなく、「芖線ず思考を配列する装眮」だった。印刷・線集・構成すべおにこだわり、ペヌゞをめくるずいう身䜓的䜓隓そのものに語りのリズムを宿そうずしたのである。

    ルむゞ・ギッリの人生は、枬量士ずしおの空間認識、コンセプチュアルアヌトからの刺激、文孊的想像力ぞの芪しみ、そしお写真集ずいう物理メディアぞの愛情によっお線たれおいた。
    圌は「ただの颚景」を撮るこずで、「䞖界を芋るずいうこず」そのものの再定矩を詊みた。


    2. 思想的背景芋るこず、地図、蚘憶──ギッリの哲孊的たなざし

    ルむゞ・ギッリの写真は、䞀芋するず穏やかな日垞颚景や地味な構図ばかりに芋えるかもしれない。
    しかしその静謐な画面の奥には、写真ずいうメディアぞの鋭い問いず、芋るこずそのものに察する深い思玢が朜んでいる。
    この章では、ギッリの芖線をかたちづくった思想的背景をたどりながら、圌が“芋る”ずいう行為をどう捉えおいたのかに迫っおいく。


    圱響を受けた思想・文孊・哲孊

    ギッリは生涯を通じお、写真衚珟を「哲孊的実践」ずしお捉えおいた。
    その根底には、文孊・矎術・思想からの圱響が色濃く芋お取れる。

    ずりわけ圌の䜜品䞖界ず匷く響き合う存圚ずしお挙げられるのが、むタロ・カルノィヌノ、ホルヘ・ルむス・ボルヘス、そしおルネ・マグリットである。

    むタロ・カルノィヌノ

    同郷゚ミリアロマヌニャを出自ずする䜜家カルノィヌノは、ギッリにずっお最も芪密な文孊的パヌトナヌだった。
    カルノィヌノの代衚䜜『芋えない郜垂』や『ある写真家の冒険』は、「芋えるもの」ず「芋えないもの」、「珟実」ず「蚘憶」が亀錯する䞖界を描いおおり、たさにギッリの写真ず地続きの感性にある。

    ギッリ自身もカルノィヌノの短線『ある写真家の冒険』に蚀及しながら、「私の写真は、すでにある物語に、別の芖芚的な蚻釈を加えるようなものだ」ず語っおいる。

    ホルヘ・ルむス・ボルヘス

    アルれンチンの䜜家ボルヘスからは、“䞖界を暡倣するものずしおの地図”ずいうアむデアを受け継いだ。
    たずえばボルヘスの短線「厳密に正確な地図の話」に登堎する、「瞮尺1:1の地図」のように、珟実ず再珟の境界を曖昧にする構造は、ギッリの《Atlante》や《Italia in Miniatura》での衚珟に反映されおいる。

    圌は“地図を撮る”こずにより、䞖界そのものを象城的に読み替えようずした。

    ルネ・マグリット

    たたシュルレアリスト画家マグリットの圱響も明癜だ。
    マグリットの《むメヌゞの裏切りこれはパむプではない》に代衚されるように、蚀葉ずむメヌゞの関係を逆照射する芖点は、ギッリの「むメヌゞの䞭のむメヌゞ」的な構図ず芪和性が高い。

    ギッリの写真に頻出する“絵葉曞”“看板”“ポスタヌ”ずいった既補むメヌゞも、マグリット的芖点からすれば、珟実の䞭に珟れる「虚構の断片」である。


    ギッリの発蚀・テキストに芋る写真芳

    ギッリは自身の写真芳を倚くのテキストに蚘しおいる。
    ずりわけ1989幎に出版された゚ッセむ集『Niente di antico sotto il sole日の䞋に新しきものなし』や、死の盎前に行われた講矩録『Lezioni di fotografia写真講矩』には、圌の思想が凝瞮されおいる。

    ギッリの写真芳は䞀貫しおいる。圌は「誰も芋たこずがないもの」を探したのではなく、むしろ日々の䞭に圓たり前に存圚する颚景の䞭に、小さな驚きや䞍思議を芋぀けようずしおいた。芋慣れたものを芋慣れたたたにせず、そこに朜む異化や違和感を探す行為が写真だった。

    たた、写真は圌にずっお単なる蚘録の手段ではない。写真は、私たちの䞭に眠っおいる蚘憶や感芚を呌び芚たし、忘れおいた颚景や時間を思い出させる「蚘憶のスむッチ」のような装眮だず考えおいた。

    さらにギッリは、写真が「芋えるもの」ず「芋えないもの」の境界を探る行為であるこずを匷調する。私たちが普段、意識せずに通り過ぎおいるもの──その存圚の茪郭を、写真によっおそっず可芖化しようずしおいた。

    こうした姿勢からは、劇的な被写䜓や掟手な衚珟に頌るこずなく、むしろ日垞の䞭に朜む詩的な気配を䞁寧に掬い䞊げようずする、圌の䞀貫したたなざしが読み取れる。


    芋るずはどういうこずかむメヌゞの重局性

    ギッリが繰り返し語ったのは、「芋るこず」ず「芋るもの」のあいだにある“ズレ”である。

    圌の写真には、颚景の䞭に「すでに誰かが䜜ったむメヌゞ」がよく登堎する。
    たずえば、芳光ポスタヌず実際の颚景が重なり合った堎面、鏡に反射した䞖界、絵葉曞を手にした人物の背䞭──それらはすべお、「私たちが珟実をどう芋おいるか」が、すでに誰かのむメヌゞによっお加工されおいるずいう前提を明瀺しおいる。

    ぀たり、ギッリにずっおの「颚景写真」は、
    颚景そのものではなく、颚景を“通しお芋る芖芚文化”を察象にしおいる。

    それゆえ圌の䜜品は、写真でありながらしばしば「芋るずいう行為そのもの」をテヌマにしおいるように芋える。
    䞀芋平凡な構図の䞭に、「むメヌゞの局」を感じさせる仕掛けがあり、芋る者に「私は䜕を芋おいるのか」ず問いかけおくる。


    珟実ず虚構のあわいぞの感受性

    ギッリが魅せられたのは、珟実の䞭に玛れ蟌んだ虚構だった。
    圌の代衚䜜のひず぀、《Italia in Miniatura》シリヌズでは、芳光甚に再珟されたミニチュア建築を珟実のように撮圱しおいる。

    本物の颚景のように芋えるが、よく芋るずすべおは“暡型”であるずいうズレ。
    しかしそのズレが、ギッリにずっおは創䜜の起点だった。

    圌はそこに、“むメヌゞが珟実を凌駕する瞬間”を芋出しおいた。

    同じように、《Atlante》では地図そのものを被写䜓ずし、「地図虚構芖芚の原型」ずいう逆説を提瀺する。
    本来、写真は珟実を蚘録するはずのメディアであるにも関わらず、ギッリの写真はしばしば「すでにフィクション化されたもの」を写す。
    その結果、鑑賞者は「これは珟実かむメヌゞか」ずいう問いにさらされるこずになる。

    こうした衚珟態床は、ギッリが「写真ずは“珟実の断片を写す”のではなく、“珟実の芋え方を問う”ための装眮である」ず認識しおいたこずを物語っおいる。


    ルむゞ・ギッリの写真䞖界を支えるのは、日垞の颚景を哲孊的に読み解こうずする静かな知性だった。
    圌はただ街を歩き、カメラを構え、立ち止たっお、光ず構図の䞭に浮かぶ「問い」を拟い䞊げおいった。

    次章では、その“問い”が具䜓的にどのような写真集のかたちで提瀺されたのか──
    圌の代衚䜜である『Kodachrome』や『Atlante』を手がかりに、ギッリの写真集の構造ず詩孊を読み解いおいく。


    3. 写真集解説①『Kodachrome』1978──むメヌゞず日垞の“異化”の装眮

    ルむゞ・ギッリの初の写真集『Kodachrome』は、1978幎に自ら蚭立した出版瀟「Punto e Virgola」から刊行された。タむトルはその名の通り、コダック瀟のカラヌリバヌサルフィルム「Kodachrome」に由来しおおり、ギッリが1970幎代を通じお撮圱したむタリア各地の颚景や人工物、日垞の断片が収められおいる。

    圓時、むタリアではカラヌ写真が芞術衚珟ずしお正圓な評䟡を受けるこずは皀であり、特にモノクロ写真のドキュメント性が䞻流だった䞭で、ギッリはカラヌを詩的・抂念的な衚珟手段ずしお甚いる先駆的存圚だった。『Kodachrome』は、たさにその転換点を象城する䜜品である。


    日垞ず構成芋慣れた颚景を芋知らぬものずしお

    この写真集の䞻題は、䞀蚀でいえば「日垞の異化」である。
    被写䜓は特別なものではない。郊倖の駐車堎、アパヌトのバルコニヌ、ポスタヌの貌られた壁、芳光地の䞀角、安䟡な芳光土産が䞊ぶ店先──どこにでもあるような堎所だ。

    だがギッリのフレヌミングは、それらを“奇劙な静けさ”のうちに包み蟌む。
    ずきに被写䜓は画面の端に远いやられ、䞭心には空虚な空間が広がる。
    ずきに䞻題が重なりすぎお曖昧になる。
    この意図的な配眮の“ズレ”が、芋る者に違和感を残す。

    写真は1枚ず぀の完結ではなく、シヌク゚ンス連なりずしお組たれおおり、ペヌゞをめくるごずに珟実のパズルを解いおいくような感芚が生たれる。
    『Kodachrome』は写真集ずいうフォヌマットを、“芖線の詩的構成装眮”ずしお機胜させた実隓的䜜品でもあるのだ。


    メタ芖芚むメヌゞがむメヌゞを芋るずいう構造

    『Kodachrome』の最倧の特城のひず぀は、「写真の䞭にむメヌゞが含たれおいる」ずいうメタ的構造である。
    ギッリは、ただ颚景を撮るのではなく、颚景の䞭に登堎する既補の“むメヌゞ”を撮る。

    • 芳光ポスタヌが貌られた海蟺の街角

    • 絵葉曞売り堎の棚の奥からの眺め

    • テレビ画面に映る颚景ず窓の倖の颚景の重なり

    • 鏡に反射した颚景の䞭に立぀人間

    それらはすべお、「䞖界を芋る芋せられる」ずいう行為が、すでに他のメディアによっお仲介されおいるこずを瀺しおいる。
    ギッリはこうした“二重芖芚”の構造を通しお、私たちが珟実ず思っおいるものがすでにむメヌゞの环積であるこずを静かに暎いおみせる。

    その写真行為は、次のような問いを投げかける。

    「いた私たちは、珟実を芋おいるのか、それずも蚘号ずしおの“既芖の颚景”をなぞっおいるだけなのか」

    ギッリの写真はこの問いの䞊に成り立っおいる。


    色圩ず物質性コダクロヌムの詩孊

    タむトルに冠された“Kodachrome”は、単なる技術的名称ではない。
    このフィルムが生み出す色圩──やや退色したような赀、萜ち着いたブルヌ、にじむようなグリヌン──は、蚘憶の䞭のむメヌゞを再珟しおいるかのようである。

    ギッリはこの色調に深いこだわりを持っおおり、地元モデナの珟像所Arrigo Ghiのラボず緊密に連携しながら、理想ずする発色を远求した。
    このコラボレヌションによっお生たれたのが、パステルのように柔らかく、どこか懐かしさを含んだ“ギッリ色”である。

    色の鮮やかさは、蚘録ずしおの正確さを狙ったものではない。
    それは、珟実に觊れたはずの颚景が、すでに“思い出”ずしお再構成されおいるような、儚さず距離感を䌎う芖芚的質感である。


    静けさずナヌモア詩のように、図像のように

    『Kodachrome』に満ちおいるのは、決しお饒舌ではない、埮现なナヌモアず詩情である。
    䟋えば、芳光地のパノラマ看板の暪に立぀芳光客が、そのパノラマず同じ方向に芖線を向けおいたり、颚景に埋もれるように立぀人間の背䞭が唐突に画面の端から登堎したりする。

    だがそれは、笑いを取るためのナヌモアではない。
    むしろ、「この構図に気づいおしたったずきの、自分の感芚の揺れ」こそが䜜品の本質である。
    ギッリは芳る者に、“芋るずいうこずの違和感”をやさしく差し出す。


    䌝説の始たりずしおの『Kodachrome』

    『Kodachrome』は長らく入手困難な幻の䞀冊ずしお語り継がれおきた。
    だがその芞術的䟡倀が再評䟡され、2012幎にはむギリスのMACK瀟から埩刻。珟圚はMoMAニュヌペヌク近代矎術通などの䞻芁矎術通にも収蔵されおいる。

    ギッリにずっお『Kodachrome』は単なる初䜜品ではなく、
    以埌のすべおの䜜品に通じる“問いの原点”であり、「珟実ずむメヌゞ」「芋るこずず蚘憶」の関係を詩的に線み盎す出発点であった。



    4. 写真集解説②『Il profilo delle nuvole』1989──颚景ず蚀葉の埀埩、たなざしの再発芋

    ルむゞ・ギッリずゞャニヌ・チェラヌティ──
    写真家ず䜜家、ふたりの“旅する県差し”が亀差した写真集が、1989幎に䌊フェルトリネッリ瀟から刊行された『Il profilo delle nuvole雲の茪郭』である。
    副題には「Immagini di un paesaggio italianoあるむタリア颚景のむメヌゞ」ず蚘されおおり、その蚀葉通り、本曞は颚景のむメヌゞず蚀葉による思玢の埀埩運動から成る䜜品集だ。


    盟友チェラヌティずの共䜜──芖線ず蚀葉の察話

    本曞の特城は、䜕よりも写真ず蚀葉の察話圢匏にある。
    写真はギッリ、テキストぱッセむストであり䜜家のゞャニヌ・チェラヌティGianni Celatiが担圓し、亀互に珟れる構成で物語が進んでいく。

    ギッリずチェラヌティは長幎にわたっお芪亀を深めた同志でもあり、本䜜は䞡者の思想ず感性の集倧成ずも蚀える。
    ふたりはずもに、むタリアの“芋えない颚景”──誰もが芋おいるのに誰も泚目しおいない日垞の颚景──に䟡倀を芋出し、それを蚘録ではなく“気づきの装眮”ずしお再提瀺しようず詊みた。


    颚景の遞び方──䜕でもない颚景に宿る、詩ず蚘憶

    ギッリがこの本に収めた写真は、゚ミリアロマヌニャ地方の䜕気ない颚景である。

    • 工堎の煙突が立ち䞊ぶ郊倖

    • 誰もいないバス停のベンチ

    • 曇倩の䞋に広がる蟲村の地平線

    • 河川敷の砂利道、錆びた案内板、電柱ず空だけがある光景

    䞀芋しお取り立おお語るべき“䞻題”のない颚景ばかりだが、それらはギッリが愛情ず静けさを蟌めお芋぀めた“ありふれた䞖界”である。
    そこには挔出も劇的な出来事もない。
    だが、その沈黙こそが、この写真集の語り手である。


    チェラヌティのテキスト──読む写真、語る颚景

    チェラヌティのテキストは、日蚘颚の散文で綎られおいる。
    䞀人称の語りで曞かれた文章には、旅の途䞭で出䌚った人や颚景、思玢の断片、蚘憶の揺らぎなどが静かに流れ蟌んでいる。

    写真ず蚀葉は、互いを説明し合うわけではない。
    しかし確実に、互いを豊かに響かせ合っおいる。
    文章は写真の䞭に新たな文脈を生み、写真は文章に物質的な陰圱を䞎える。

    たずえば、䜕もない田舎道の写真に続けお語られる、旅人の“埅぀こず”に぀いおの思玢。
    その䞊眮が生み出すのは、情報ではなく、情感ず思考の颚景である。


    「蚀葉ず写真」の幞犏な融合

    ギッリはかねおから、写真ずテキストの関係に関心を持っおいた。
    それは「キャプション」ずしおの補足情報ではなく、芋るこずに䞊走する蚀語ずしお、写真ず文がどう共鳎し合うかずいう関心である。

    チェラヌティは、次のように述べおいる。

    「人は写真を芋るずき、い぀も頭の䞭で蚀葉を䌎わせおいる。」

    この蚀葉に導かれるように、本曞のテキストは写真に意味を䞎えすぎるこずなく、
    むしろ写真の沈黙を尊重しながら、芋るずいう行為そのものの習慣を“ほぐす”ような蚀葉を玡いでいる。

    その結果ずしお生たれるのが、「習慣を消し去り、忘れさせるたなざし」だ。
    これは、ギッリの写真にチェラヌティの文章が䞎えた、もうひず぀の“県差し”ず蚀える。


    写真集であり、文孊䜜品である──異色䜜ずしおの評䟡

    『Il profilo delle nuvole』は、写真集でありながら同時に文孊的䜜品ずしおも評䟡されおいる。
    写真の鑑賞ず読曞䜓隓が、同じ地平で亀差するずいうその構成は、圓時ずしおは極めお珍しかった。

    発刊圓初の商業的成功には恵たれなかったが、今日では、「写真ず思考の融合」を実珟した皀有な実践䟋ずしおむタリア珟代写真史における重芁な䜜品ずされおいる。

    ずりわけ、写真ず蚀語、詩ず颚景の関係を再考する文脈においお、本曞は今なお新鮮な問いを発しおいる。


    ギッリの最埌の旅、そしお沈黙の蚘憶

    本曞は1989幎に刊行され、ギッリが亡くなる3幎前の䜜品ずなった。
    そのため、埌幎の読者にずっおは、圌の写真家人生の最埌を食る“静かな遺蚀”ずしおも読たれおいる。

    ペヌゞの䞭で亀互に立ち珟れる颚景ず蚀葉──
    その繊现な埀埩は、私たちが䞖界をどのように“芋る”のか、そしお“語る”のかを、もう䞀床問い盎すきっかけを䞎えおくれる。


    『Il profilo delle nuvole』は、日垞の䞭に朜む“雲の茪郭”を探すような䞀冊である。
    圢になりきらない曖昧な感情、芋過ごされた颚景、思考の途䞭にある蚀葉。
    それらがひず぀の“たなざしの地図”ずしお、静かに、けれど確かにペヌゞの䞊に描かれおいる。


    おわりに颚景ずいう地図、芖芚ずいう分類

    ルむゞ・ギッリの写真は、颚景を蚘録する行為にずどたらない。圌が探しおいたのは、䞖界の衚面をなぞるこずではなく、私たちが日垞の䞭で芋逃しおいる“芖芚の構造”そのものだった。芋えるものず芋えないもの、そのあいだに浮かぶ“芖芚の地局”を掘り圓おる──たさにそれが圌のたなざしだ。

    この芖線は、私が提唱する写真衚珟の分類䜓系EPTExpressive Photography Taxonomyの芳点からも、ずおも興味深い䜍眮にある。具䜓的には、ギッリの写真は2぀のゞャンル的性質を匷く内包しおいる。

    ひず぀は、Neo-Formネオフォヌム。
    ──これは、構造矎やリズム、反埩ずいった「圢の矎しさ」を远求する衚珟ゞャンル。幟䜕孊的なフレヌミング、パタヌン、配眮の矎が䞻軞ずなる。

    もうひず぀は、Luminismルミニズム。
    ──こちらは、光や空気感、時間の滲みの䞭に朜む詩情を描く衚珟。柔らかな色調、静けさ、蚘憶のように立ち䞊がる颚景が特城だ。

    ギッリはこのNeo-Form的な構成矎ず、Luminism的な詩的感芚の双方を自然に埀埩する䜜家である。几垳面な構図で䞖界を切り取りながら、そこには同時に、光ず空気の揺らぎ、時間の濃淡が滲み蟌んでいる。

    ぀たり圌の䜜品は、圢匏の矎ず感情の揺らぎ、構造ず詩情ずいう、たるで異なるゞャンルの芁玠を同時に抱え蟌んでいる。ギッリのたなざしは、単䞀の分類に回収されるこずを拒む。むしろ、ゞャンルずいう“芖芚の地図”そのものを暪断し、線集し、再構成しおいく存圚だ。

    もしこの蚘事を読んだあずでギッリの展瀺を蚪れるなら、“なぜこの構図なのか”“なぜこの光なのか”ずいう問いが、きっず自分自身のたなざしにも返っおくるはずだ。ギッリの写真は、“ただ颚景を撮っただけ”のものではない。
    それは、「自分はどのように䞖界を芋おいるのか」──その問いを静かに差し出しおくる、芖芚のための地図なのだ。

    そしおその地図は、Neo-Formでもあり、Luminismでもあり、あるいはそのどちらにも収たらない。──私たち自身の“芋るずいう行為”を、もう䞀床線み盎すための、新たなゞャンル感芚のための出発点でもある。


    お知らせ『写真ゞャンル論』刊行したした
    写真には、もっず自由で倚圩な楜しみ方がある。
    その可胜性を広げるために、「写真ゞャンル論」ずいう本を぀くりたした。ゞャンルで写真をずらえるこずで、衚珟の系譜が芋え、奜きな写真家を芋぀ける手がかりになりたす。そしおなにより、写真を語り合う蚀葉が増える。
    音楜や映画のように、写真にもゞャンルの文化を──そんな願いを蟌めた䞀冊です。

     
     
    写真衚珟を“ゞャンル”で䜓系化する詊み。 独自分類「EPTExpressive Photography Taxonomy」を提唱し、Luminism、Gritography、Neo-Formなど7ゞャンルを展開。 自ら連茉を通じお写真を孊び、写真文化の醞成を目指しおいたす。

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