世の中には想像もつかないものがある
世の中には想像もつかないものがある。それはたとえばこれだ。

パッと見た時に、「NDAダンスアカデミー」だと思ってしまった。「秘密保持契約ダンスアカデミー」だ。なにを言っているのだろう? 中目黒駅のホームに降り立った時に考えた。そんなに情報の機密性を保持しなければいけないダンスアカデミーとはいったいどのような種のものなのだろう? 考えてみれば、ダンスのような営みは人前で披露することを前提としている以上、秘密保持とはいささか性質が合わない。
もちろん、場合によっては、教え方とか、レッスン生の個人情報とか、そういったものを秘することを意味しているのかもしれない。なるほど確かに、それは大切だ。とはいえ、それをダンススクールの名前で明示する必要などないのではないか? ない。それは明らかだ(だってそんな名前じゃないのだから)。
しかし、いったん頭の中に「秘密保持契約ダンスアカデミー」が住みついてしまうと、なかなか追い出せない。入会の手続きはどうなっているのだろう。おそらく、体験レッスンの申し込みの時点で分厚い書類を渡される。「では、本日ご覧になりましたステップ、リズムの取り方、ならびに講師の汗のかき方については、第三者への開示を固くお断りしております」。生徒はボールペンを渡され、びっしりと印字された書類の末尾にサインを求められる。ストレッチをする前に、まず署名だ。
カリキュラムはどうなっているのだろう。初級・中級・上級といった区分ではなく、おそらく機密レベルで分類されているのではないか。「本日より、機密レベル3のヒップホップクラスに進級されました。つきましては、これまでお伝えした振り付けの内密性が一段階引き上げられます」。進級とは喜ばしいことのはずなのに、なぜか肩が重くなる。レベルが上がるほど、抱える秘密も増えていく。上級クラスの生徒ともなれば、日常の所作のすべてに契約の影がちらつくはずだ。信号待ちで無意識にリズムを取ってしまった、それすら違反かもしれない。
発表会はどうなるのだろう。客席に入る前に全員のスマートフォンを回収するのだろうか。撮影禁止どころか、鑑賞した内容を口外することも契約上禁じられているため、翌日職場で「昨日、子どもの発表会があって」と話し始めた瞬間に違反となる。家族の間でも話せない。夕食の席で父親がうっかり「今日のターンよかったね」と言おうものなら、即座に内容証明が届く。
では観客はどう感動を処理するのだろう。感動というものは、本来、誰かに話したくなるものだ。「よかったね」「よかったね」と言い合いたいものだ。しかしそれが許されない。帰り道、隣を歩く配偶者と無言で夜の中目黒を歩く。胸の中にある感動の行き場がない。ふたりとも、何かを言いたそうにしているが、何も言えない。そうやって、言えない感動だけが積み重なっていく夫婦というのも、なかなか味わい深いような気がしないでもないが、それはそれで少しもの悲しさがある。
そう言えば、スタジオの鏡はどうなっているのか。鏡に映った自分の姿も、ある種の機密情報ではないのか。「お客様、鏡に映っております御自身のフォームにつきましては、習得の過程にある未完成の動作として、外部への言及はお控えいただきますようお願い申し上げます」。帰り道、電車の中でぼんやりと自分のステップを思い返すのも、グレーゾーンかもしれない。頭の中で反芻するのはどうか。内心の自由というものがある。しかし、夢の中で振り付けを再現してしまった場合、それは開示にあたるのか。弁護士に聞いてみたいが、その弁護士もおそらくNDAを結んでいる。あたるはずもないのに、そんな細かいことまで気になってしまうだろう。
インターネットの口コミはどうなっているのだろう。「先生がとても丁寧で」とか「スタジオが広くて」といった投稿は、契約上どのように扱われるのか。好意的な口コミであっても、それはスタジオの内情を外部に伝える行為だ。「立地が良い」も情報だ。「駐輪場がある」も情報だ。突き詰めれば、そのダンスアカデミーが中目黒に存在するという事実そのものが、すでに機密なのかもしれない。看板を出していること自体、どうなのだろうか。いや、それを言いだすと、この文章を書いている私が最も深刻な違反者ということになるおそれだってある。まぁ、私の場合は、サインをしていないからセーフなのだが。
にしても、そんなダンススクールには行きたくないなというのが最終的な感想だ。もっとも、実際は「NOAダンスアカデミー」という、まったくもって普通な名前のスクールで、NDAとは何の関係もない。中目黒のホームはジリジリ暑くなっていた。扇子であおぎながら、水を飲みたいと思っていた。看板はそこに、ただ静かに立っていた。夏が来る。
