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『フラクタクル』

    あらすじ

    現代の東京を舞台に、それぞれの生きづらさを抱える3人の男女を描いた物語です。
    見栄と虚栄心に縛られたコーディネーターの泰平、凄絶な過去から心に壁を作るコピーライターの亜望、親の愛情を知らず自暴自棄になる17歳の橙夏。彼らはひょんなことから、ハーブと精油のサロンを営む「メフィスト」と呼ばれる男と出会います。
    実は人間界に紛れ込んだ悪魔や神である彼らとの奇妙な交流、そして不思議な香りの力を通して、不器用な人間たちは自身の心の奥底にある傷と向き合うことになります。
    他者との関わりの中で、彼らがほんの少しだけ前を向き、再生へと歩き出そうとするまでの姿を丁寧に描きました

    本文


     「エレガンス足りてる?」
    栄華に耽る閻浮提(げかい)の上の空で、華奢な街灯が雪に映える。その彩(ひかり)は内気に杏色に煌いた。
     四角い、大小、柄様々な紙袋―。
     グレートマールボロー通りを行き交う人々は、通りに面した青白く煌めくチューダー・ハウス様式の老舗デパートを横切り、白い息を弾ませながら銀色の雪の上で寄り添いあっている。雪の匂いと、香ばしい七面鳥の匂い、パブから漂ってくるエールビールの匂いは店内の香水と混ざって、おもわず手ではらいたくなる。
     降誕祭(クリスマス)色の明滅が装着されている路面店。イエス・キリストの遺体を包んだ布より上質な生地で綿密に裁縫された洋服が大理石の上に掛かっている。店の中には、婦人用コートのハンガースペースの前で、森川(もりかわ)泰平(たいへい)が恵比寿の会員制図書館の経営者と並んで立っている。店内はなかなかの盛況だ。
     泰平は焦りが顔にこびりつかないように注意して「もう一度選んでみてはどうですか」と提案する。
    「あなたをわざわざロンドンまで連れてきてあげた理由わかってるんでしょうね」
     ロング丈のソワレ姿の自分を鏡で確かめながら上機嫌だった女は難色を示した。店内に入るまで、年下の恋人でも連れて自らの美貌を誇示するかのようなわざとらしく腕を絡めて入ってきた女は、みるみるうちに不機嫌そうに首を傾ける。
    数分後。ベージュのコートにモスグリーンのスカラップカットのヘムラインの清楚なスカートを持ってきた。女は流れるような身を動かし、試着室に運んでカーテンを閉めた。
     「どうですか」と声をかける。
    入店時に着ていた高級ブランドのニットワンピース姿で出てきた。ブラックのXラインが際立っている。
    ペールトーンの水色のアイシャドウがはっきりと見えるくらいに彼女は目を細め、「気に入らないわ」と唾棄した。先に委縮したのは店員の方だった。
    中途半端に選んだものが顧客に否定されると、今度は自身の直感を冴えわたらせる準備をしてからコーディネートを選び始める。顧客の表情のメイクの仕方から皺の入り方、鼻の曲がり方からピアスの色まで視界から入る情報は全て直感をかけあわせて初めて、人は人に合った洋服を選ぶことができるのだ。
    胸元の開いたシルクのチューブワンピースを購入して店を出る頃には、界隈ノほとんどの店から灯りが消えていた。
    「やっぱり寒いですね。外は」
    「じゃあ、またお願いね。日本に帰ったらまた連絡するから」
    空から降ってくる牡丹雪を、傘の代わりにクラッチバックで鬱陶しそうに頭を覆いながら、彼女がほんの少し湿った声で念を押す。乳首まで見えそうなくらい屈んで泰平をシートから見上げた。
     店を後にしてタクシーに乗りこんだ。運転手に「メリルボーン通り」と告げると、グリーンのモッズコートを所狭しと、腕をひっこめながら脱ぐ。店内に長時間いたせいで体の中に蓄積した熱は簡単には逃げなかった。頬が紅潮し、肩に鈍痛が走った。
     メリルボーン通りの有名高級チョコレートの店はすぐに見つけられなかった。というのも、通りのほとんどの建物がブルーかペールグリーンの見分けにくい色で、しかも甲板が分かりづらいのだ。
     タクシーから降りてイルミネーションの通りを歩くこと15分。ようやく細い路地にある目当ての店を何度か往復して、やっとたどり着いた。
     ひっそりとした店内には大小と色さまざまなチョコレートが陳列している。適当に注文し終わると、店員が質問する。
    「%&$#△」
     まったく聞き取れない。チョコレートの店での会話の練習はしてきていない。泰平は、聞き直そうとするが、何度言われても全く理解できない。苛立ってそうな女性陣が東洋人に軽い軽蔑の視線を向けている。 
    『包装用紙をどれにするの?』
     男の声が聞こえた。振り返ると、いつのまにか列の後ろに男性が立っていた。筋の通った力強い鼻筋だ。センスのいいモスグリーンのライディングコートを着ている。ヒッコリー傘を左手に持って、端正な顔立ちだ。
     逃げるように早足で店を出た。チョコレートが入った紙袋を左に持ち替えて、右手で携帯を取り出して時間を確認する。泰平はしばらく外でさっきの男を待つことにした。
     しばらくすると男が出てきた。如才なく右のポケットから名刺入れを取り出し、一枚をすっと、たあいもない仕草で男の前に差し出す。「先ほど、は、ありがとうございました」何語で話しかけていいのか迷いながら、カタコトの日本語を喋った。
     男は自分よりも大きい紙袋を左手に提げている。そして、なぜだから分からないが何かを得心したような表情で言う。
    『待っていました』
     泰平は意味も解らず笑った。
    「失礼ですが、わたくしパーソナルコーディネーター、という仕事をしていまして、ファッションコーディネーターを主に生業としているのですが……さっき店でお見かけしたときからずっと気になってたことがありまして」
     借りは返したので、話題の主導権を握りたい。
    「それ、どこのコートですか」泰平が訊いた。頭の中のブランドを思い浮かべる。胸のロゴは、マルベリーの桑の木のマークにも見えるが。
    『どこの……』
     男は意外だという顔をした。
     三人連れの女性が、甲高い声を出しながら店から出てきた。一瞬男のコートから視線をはずすのが遅れたので確かめることはできなかったが、笑われたような気がした。気を取り直して質問を続ける。
    「そうではなくて、誰が、または、どこが作ったんですか」
    『代々、先祖から受け継いでいる』
     形見ということか。「色つやいいし、型崩れもまるでないなんて信じがたいなあ。すごく、いいテイラーが作ったンでしょうね」
     男は何も特に応えずただ肯く。そして、首を傾げながら泰平の目を覗き込むように前かがみになった。男はどこかがっかりした様子だ。反射的に後ずさりをする。思わず雪で滑りそうになった。
     ふと喉が渇いていることに気づいた。充満したチョコレートの匂いのせいかもしれない。昨日のワインやシャンパンも残っているから、濃い目のコーヒーでシャキっとしたい。それより、ここにいれば恥の上塗りみたいなものになるから、とにかく移動したい。
    「あの、もしよければ、何か飲み物でもおごらせていただいてもいいですか」
     男は『ええ』と言って肯いた。
    「ただ、実は紅茶に飽きてしまって、できればコーヒーハウスで濃いコーヒーを飲みたいところなのですが、どこかもしご存知なら教えていただけませんか」
     コーヒーハウスで泰平はキャラメルとレッドアップル、そしてブルーベリーがブレンドされたエスプレッソ。男はアールグレイ紅茶を注文した。小腹も空いたので、アイオリソースのかかったチップもサイドメニューの中からみつけて注文した。
     その後、泰平と男は仕事の話、婚約者の話、お互いのロンドン訪問の目的や帰りの飛行機などの話をした。
     食後しばらくして「では一緒にいきましょう」と泰平は言った。
    「ちょっと、その前に、一度ホテルに戻ってスーツケースを受け取ってきてもいいですか」 
     泰平が訊くと、『では、私は空港で待っています』と男は応えた。
     もう一度『待っていました』という言葉が今度はより身近に感じられた。
     待っているのは誰で、誰を待っているんだ?
     


     
     荷解きせずに、ベッドでぼんやりと携帯電話でメールをチェックしてうとうとしていたときだった。渋々起き上がって、インターホンの受話器をとると、フロントスタッフのいつもとかわらない丁寧な声が聞こえた。
     長旅で自宅マンションに到着したのは1時間ほど前のことだ。成田空港からタクシーに乗り込み港区の部屋まで移動の車中で、榊(さかき)祐麻(ゆま)には帰国をメールで知らせた。返信はあっけなく届き《今夜行くね》と書いてあった。
     半年前に東京23区最南部の大田区蒲田本町の10階建てのマンションから、港区芝の家賃38万円の1LDKに引っ越したばかりだ。家具全般は、ほとんど婚約者が選んだもので、ランチョマット、クッションカバーからフラワーベース、リビングのカーテンから寝室の寝具まで白と青が基調となって統一されている。
     ピーンポーン。とさきほどよりも部屋の中に音が響いた。
    「おかえり!」
     高く甘い雲雀の声がさきほどまで冷え切っていた玄関に響いた。
    「やだ、寒い! 暖房つけてよー。体感温度が違うんだからー。前にも言ったでしょー」
     手に持ったグローシャリーバックを床に置いて、指先に息を強く吹きかけながら、注文する。泰平は鼻をすすった。「やだ、やっぱり寒いんじゃん」出逢った時から室温にはうるさい性質(たち)だ。初めて食事したレストランや休憩のために訪れたカフェでならば理解できるが、どうしようもならないであろう映画館や水族館の室温、はたまたデパートでさえも店員を捕まえて「寒い」と言える神経に、泰平は当初唖然としたものだ。
     上げ膳据え膳で育った年下の彼女と出会ったのは2年前。会社勤めをしていたときに同僚に誘われた若手起業家のための勉強会がきっかけだ。
     東京は12月末。空風が強く吹いていた。
    「分かった」と繰り返して、泰平は暖房のリモコンを押す。すると、身体をぴたっと寄せて彼女は怪しくリモコンに表示されている室温を覗きこんだ。設定温度について顎で指示する。そうして指導が終ると、飛びついて抱きついた。猫なで声に潜んだ天性の自由な気性がところせましと一気に四散していった。
    「下のコンシェルジェに全く顔を覚えられてないよ。失礼しちゃう」
     唇を尖らせて、暖房の風向きに合わせて移動しながら言った。
    「婚約者なのに、すっごい不審者扱いされるンだから。エレベーターカードキーを渡すときもなんか、アっ、そうだ―」
     そう言うと突然玄関に戻る。備え付けの脇の靴箱の上のインドで買った皿の上のキーを取った。すり足で戻ってくる。芝居が始まりそうだ。
    「嫌なのよねー、あの目線。絶対顔を覚えてやるぞ、みたいな、すごい、こうやって、手でキーを渡しながら顔を近づけるんだから!」
    「しょうがない」肩を叩いて彼女の苛立ちを抑えようとした。「そう言えば、ポストに何か届いていたよ」ポストの暗証番号を知っている彼女が受け取るのがおきまりとなっていた。泰平宛ての封筒―出版社主催の異業種交流会のお知らせの案内と地図が入っている。《お名刺を百枚以上ご持参ください。たった1回の交流会で1年分の人脈が得られます》
     彼女は軽く泰平の頬にキスしたあとキッチンへと入って料理の準備をし始める。肩より少し伸びた黒髪を右側にまとめてシュシュでとめながら「お腹すいてるかな」と訊ねた。
    泰平は「もう腹ぺこだよ」応える。「ほんと? よかったー。今日ハンバーグを作ろうと思って材料を買ってきたから。ちょっと待ってて。先におつまみでも作るから、ビールでも飲んどいてよ」
    「おお、ありがとう。分かった。そうするよ」
    「それで……どこか行くの」
     女の勘というのはどうもばかにならない、と泰平は神妙な顔つきで言葉を選ぶ。
    「パーティーがあるみたい。今回断れそうにないから、一応、顔だけ出すか」仕事関連であることを強調する。「あっそう。アタシは連れて行かないの」手作りの料理の皿を準備しながら、糾弾してくるかのような空気を声帯が帯びている。
    「いや、違うよ。これ人脈を広げる上では大事だからさ。とにかく経営者ってどれだけ人を知っているか、情報を手に入れてるかでしょ」
     まな板にあたる包丁の音だけが聞こえてくる。何か切れている音がほとんどしない。コツ、コツとまな板に刃があたる音と、大きなため息だけが聞こえた。
    「ひとりでは、ちっぽけな力しかないから、何かしらギブ&テイクの関係は作っておきたいンだ」
     なぜ、いちいち言い訳じみたことを言わなければいけないのか一瞬訝しんだあと、泰平の中には窮屈さがこみ上げてくる。その窮屈さに体が耐えられず、ソファにどさっと座り込んだ。テーブルのリモコンに手を伸ばし、スイッチを押した。ミュートにする。
    「人脈を広げる前にね、アタシとの関係は真剣ではないンじゃないの? ゲーム」挑発するようにまな板に包丁を強くたたきつけた。柄の部分が折れそうなくらい力が込められているのがわかる。
    「感情的になっていれば何でも許される訳ではないぞ」
     泰平は、春の暖かさの萌しを覚える矢先に冬の真最中を迎えたような不義を胃のあたりに感じた。挑発されているのはわかっている。
    「いつもアタシが話をしてても、いつもエッチにばかりもっていくじゃない」
    「またか……」泰平は大きく息を吐いて俯いた。「今日はもう疲れてるンだ。家に帰ってきたンだから、もう少しリラックスさせてくれよ」彼女が手を止める。「アタシのせいなの」
    正面の液晶テレビではお笑い芸人がアイドルとロケをしていた。
    「ちゃんと話を聞いてくれよ。そんなこと言ってないだろ。前も言ったけど、祐麻は小さい時から比較的……」そのとき泰平のすぐ隣に玉葱が飛んできた。ソファのへりにあたって、ぬちょっという音をたててフローリングに落ちる。
    「またなの!?」
     ソファで脚をオットマンにかけながら話をする泰平を睨んだ。
     腹筋に力をいれた。よくも婚約者をあんな目で見れるもんだな、泰平は軽蔑したくなるのをぐっと抑えるためだ。腰をさらにソファに落とし込む。泰平は玉ねぎの水分がフローリングの溝に入り込むのをうらめしそうに見た。
    「自分の望むとおりに物事がいかないとすぐ怒る。世の中自分の思う通りにはいかないンだからさ」
     無言で彼女は混ぜたハンバーグのタネを焼くときの大きさに分け始めた。が、挑発に乗せられた泰平の腹の虫は収まらない―。
     彼女は手を止めずに俯いたままだ。「祐麻」と呼ぶと少し遅れて顔を上げた。
    「一番に幸せにしたいンだから、そのためにやっているからさ」泰平は、諦めず、ぐいっと方向転換しようと試みた。
    「またアタシを悪者みたいにするのね」
     涙で声が潤っている。泰平は曖昧のまま放っておいた。もう一度「今何て言った」などと愚問を投げかけてしまえば部屋を飛び出すに決まっている。喉までせり上がった質問を腹にもう一度戻す。テレビの画面では外国産の車の新製品のコマーシャルが流れている。
    「いや、そんなの被害妄想だよ」
    彼女は絞り出すように「違う」と返す。シュシュを撫でる右手が場違いにも卑猥な動きに見えた。
    「じゃあ、オレが悪いのか? とりあえず、料理するのは一旦やめてこっちに来てくれるか。ちゃんと話し合おう」
     立ち上がり、泰平はキッチンに向かう。コーヒー豆をひくためだ。話が長くなる予兆があった。
     唇をかみしめて黒々としたコーヒーカップを手に持ちながら彼女が訊いてくる。内容とは裏腹に声の調子は意識的に抑えられている。よけいに恐怖心を煽った。泰平は天井に視線を彷徨わせ、言葉を選ぶために静かに目を閉じる。
    「オレ間違ったこと言ってないでしょ」
     彼女の噛んでいる下唇が上下に震え始める―高電圧の怒りが漏れる前兆。一瞬の判断だった。コメンテーターがスタンド席で視ていたらぜひとも評価して欲しいいほどの判断だ。
    「……分かった、オレもわるかったよ……」
    「そうやってすぐ自分の都合の悪いことは終わらせようとする」
    「あーもういい。ちょっと今日は帰ってくれ!」思わず怒鳴った。
     すると彼女は黙って俯いた。怒るかと思ったら静かになり、笑っていたかと思うと泣きはじめるところがある。泰平はいつも彼女の感情を理解することに苦しんだ。デパートの婦人靴売り場の品揃えにも負けないくらいに感情の起伏(レパートリー)が激しい。時々あえて修羅場を作ろうとしているようにしか泰平には思えない時がある。
     男のまざまざしい目が震える女をとらえる。せつなげな目が男の欲望を奮い立たせた。
    ベッドの上で、泰平は祐麻の着ていた服をねっとりと脱がせる。キャミソール一枚とアンダーウェアにする。胸鎖にはちきらんばかりに突出する血管と、どの角度からみても二重あごにならないその完璧なほどの輪郭を器用に交互に確認する。柳の葉のように美しく細長い眉が上下にしきりに動いて、女である自分に与えられた痺れるような悦楽を享けるか抑えるか決めきれないような動きだ。
     リモコンが見つからずしばらく部屋を歩き周って、ようやくキッチンの置いてあるのを見つけた。暖房の温度を1度上げる。投げられた玉葱はいつのまにかゴミ箱に捨てられている。テレビは歌番組に変わり、復活をとげたというバンドが陶酔しきった顔で演奏していた。
     


     1月某日―冬晴れの何の変哲もない日。
     寒さ身を切るようなものへと変わり、心なしか外を出歩く人は少ない。ところが「会場」は熱気という熱気で溢れている。日本の経済を回そうとする人間たちの交流会だ。港区高輪の品川プリンスホテルメインタワー39階のレストランに泰平が到着したのは午後7時を廻ったところだった。
     天井まで8メートルもある西側の窓からは、冬の冷たい大気の中でより一層幻影的な夜景が見える。各がビュッフェ形式の料理を立食しながら談笑している。
     受付で名刺を渡して中に入ると、すぐに目当ての人間が見つかった―胡陶鈞。中国は江蘇省出身で英語名はマット。
    「―泰平、あそこ見える」胸元のロザリオを触りながらマットが先に声を掛けた。泰平は彼が手の平で指す方向に顔を向ける。
     夜もすがらパソコンに向かったせいで疲労した目をこすりながら「あー」と言った。
     グループの中で別段異彩を放つほど佇まいにゆとりがある男が三笠(みかさ)則之(のりゆき)だ。去年会社を設立後、近年は海外の美術館やモールなどの展示も手掛けるまでに成長してきているやり手の経営者だ。「挨拶しとくか」泰平たちは中央のテーブルで談笑する三笠のもとへ近づく―。
    「あー泰平君にマット」彫りの深い顔に驚きの表情を浮かべて2人に反応した。
     ダブル・ブレストのグレイスーツ。高身長で肩幅の広い三笠の野性的な印象を和らげるようなコーディネートを担当しているのは他ならぬマットだ。
    「ごぶさたしています。その節は、たいへんお世話になりました」
    「いやいや、こちらこそ。それより、どう? あのキッチン用品。婚約者と一緒につかってもらっているかな」と、触ると切れてしまうのではないかとこちらが思うくらいの鋭利に引き締まった顔に真剣みが足された。
    「もちろんです。使いやすくて重宝してます!」泰平は思わず威圧されそうになりながら応えた。
    「今期の連結最終利益も大幅に上方修正されたみたいで、おめでとうございます」
     マットが三笠に近づいてもちあげる。
    「いやいや、まだまだこれからだよ。2年後には「まち・ひと・しごと・創生法」という法案が施行され、少子高齢化に的確に対応して、人口の減少に歯止めをかけながらも、都心の人口集中を是正して、地域の特性を最大限に生かして――」
     三笠が鼻息荒く片手に持ったシャンパングラスを指ではじきながら講義を終えると、狙っていたようにマットが喋り始める。
    「寡聞な為無知なので、今度じっくりとお邪魔じゃなければ、お邪魔じゃなければ勉強させてください。それにしても、トラッドスタイルが決まっていますね」
    「皆さん、今日の私のこのファッション。プロデュースしてくれたのがこの彼なんです」
     そう言うと、周りの人間が一斉にどよめき声をあげる。隣の団体までも三笠たちのグループに視線を送った。
    「今度、食事会をするんだ。君たちもどうだい? 婚約者の方も誘ってみてくれるかな」
    「必ず都合つけて参加させていただきます」
     三笠は返事を聞く前から、後ろを振り向き秘書らしき女性の耳元に何か囁いていた。
    それから「では失礼」と言って会場の外へと出て行った。
     
     ワインからスコッチの水割りに変えた泰平の口から芳醇な匂いがしてくる。
     にわかには信じがたかった。大手マーチャンダイズとのコンテンツ提携を結んだというのだ。どうやったらそんなコネがあって、交渉が成り立つのか。目の前の人間の、大都市の競争の混沌を乗り越えるだけの「熱量」が頼もしくもなり怖ろしくもなる。
    「泰平、『ヨハネの黙示録』は知っているね」
     彼は酔うと決まって聖書を引用したがる。
    「なんだっけ? 映画のタイトル」
    「それは『地獄の黙示録』だ。じゃなくて、新約聖書の中の『ヨハネの黙示録』だよ」
    「それがどう今この状況と関係するんだ」
    「あの中に悪魔、獣の数字の『666』が出てくる」
    「昔『オーメン』って映画あったな」
     泰平は小首をかしげながら先を促した。
    「神様、どうかこの愚かな人間をお許しください。彼に悪気はないんです。他人の話を理解できない人間にこの世の中が育ててしまったのです」
    「終わったか」
     いつものことで呆れて特に相手にする気がない。
    「アーメン!」
    「終わってなかったのか……」
    「で、その悪魔の数字の『666』はローマ帝国第五代皇帝ネロだと言われている」
    「それじゃ、マットのアークエネミーじゃないか」
     取って付けたようなわざとらしい言い方をして、スコッチのグラスの氷をまた指でかき回した。
     音楽が聞こえてくる。聴いたことのあるハスキーなこもった声だ。スコッチと絶妙に合う。思わず自分の人差し指に爪を立てる。
    「違うんだよ。ここからが面白いんだが、キリスト教徒が都合よくネロをさらし台に乗せるように暴君に仕立て上げたと……。奇行が目立っていた人みたいだし、極度のマザコンだったという説もある。ネロ以上にキリスト教を弾圧した暴君など山のように歴史上いるんだけど、結局ネロを悪魔の象徴としたんだ」
    「なんの話なんだ、結局」
    「つまり、最初に戻ると、スキャンダルは勘弁して欲しいってこと。ひとつミスすれば致命的なことにつながる。いつの日もみんな悪魔への生贄を探していないふりをしながら探しているもんだ」
     さきほどの女性の曲からすでに男性の歌う曲に変わっていた。
    「マーケティングだ」
     マットの間延びした語尾がカウンターに留まっている。泰平はひとりで携帯を取り出す。スコッチをすすりながらメールをチェックする。
     すると、隣にいつのまにか身長の高い男性が2人いることに気づいた。ワインを飲みながら周りに何気なしに目を送っていた。
     ―あ! 泰平は思わず声にだした。「奇跡」がそこにはいた。
    「どうも、覚えてますか」
     層積雲より厚ぼったい態度で、親気に片手をあげながら意識を自分に向けようとする。嬉しさのあまり、顔は恵比寿顔のようだ。芝蘭結契を大切にする泰平らしく、再会を心から喜んでいる。
    『もっともらしい嘘ですね。覚えていると確信していますね』 
     泰平は固まった。意外な返しだった。
    「いや、そういう訳じゃなく……まいったなーたしかに言う通りですね」
     男の偏僻(へんぺき)とした対応に面食らった。もっと親気に会話ができると泰平は予想していた。
     少し調子が狂う。
    「パーティーはお嫌いですか」
    『パーティーは好きですよ。私と同じように、隣にいる奴がパーティーが嫌いな限りは』
    「なるほどですね。御社は出版関係ですか」泰平は受け流した。
    『私は代々主に精油(オイル)を利用した療法とハーブコーディネーターをしています』
    『メフィスト様。コイツに理解できるわけがありませんよ』
     後ろにいるもう一人の男が眼光するどく泰平を短く睨みつける。泰平の眉間に皺が寄る。
    「なる、ほど、ですねーハーブですかー。僕はためしたことないんだけどいいものですか」
     声の緊張のせいでぎこちなく応える。
    『…………』
     質問を間違えたのかと思い、泰平は話題を変えた。
    「ところで、村沢(むらさわ)望(のぞむ)さんご存じですか? コピーライティングのプロダクションの代表取締役の方で、『マーケッティングチャンネルをデザインする法則』を出版されて、メディアにも何かと取り上げられている方です。ちなみに僕のメンターです」
     やたらと粘土をこねるように両手を前に突き出しながら泰平が続ける。居心地の悪さから何か話題を振ろうと思って頭に浮かんだのが彼の話だった。
    『私は彼が何者か知らされていないし、興味がないので分からない』
    「だから、その、今言ったように――」返しに窮した泰平は腕時計を見るふりをする。
    「彼は、今はネットビジネスでビリオネアです。リスクヘッジも巧みです。つまり、プロダクトローンチのプロフェッショナルですね。つまり、時間的、物質的、精神的自由をどれもっていて、港区の一等地に住んでいます。彼の勉強会とても勉強になりますよ。今度――」
     泰平はスパンコールを全身にまとうように、実に様々な過剰演出を唇にほどこした。
    『今の情報の中で一番伝えたい情報が何なのかはっきりしないが、どれですか』
    「あ、それはですね、つまり、彼主催の勉強会で得るものは多いですよ」
    『直接的にそのポイントを話しましたか』
     話の着地点が見えない。
    『いえ、「つまり」という言葉を多用されるので、結論かなと思って聞いてれば全く予想もしなかった新しいアイデアがでてくるので、興味深い(インテレサント)』
     二の句がつげず、汗が額に浮かんでくる。
    『それに。「しかし」じゃなくて「ただし」を使うべきでは』
    「あ、あ……」
    『「しかし」のあとを強調されたいように聞こえるが。どうやら聞いているとそうでもないみたいなので、この場合補足しているだけなので「ただし」を使うべきでしょう』
    「なるほどですね。すばらしい、今度じっくり話をさせて勉強させてください」
     苛々を隠すかのように作り笑いを浮かべる。なし崩し的に退散の意を表す。
    「では、失礼します」
    『最後に、ひとつ質問しても――』
     泰平は無視することはできないので、立ち止まって彼の方を振り向いた。
    『みなさん交換している、あの紙は、何ですか』
    「深い質問ですね―」と泰平が武者震いしているかのように身体を揺らせて説明を考えている。
    「あれは、いわゆるセルフブランディングの赤ちゃんです。つまり、赤ちゃんなので、まだ何の力もないし、スキルもありません。あれが効いてくるのは――」
    『それからもうひとつ―緊張しているような顔ですが』
     泰平は再び返す言葉に窮した。
    『それならこのパインがいいですよ』と言って彼は茶色の瓶をタキシードの内ポケットから取り出した。
    「食べ物の」
    『パインの精油(オイル)です』
    「あーそういうお仕事でしたね」泰平は投げやりな調子で応えた。
    『今、そのシャツは脱げないだろうけど、本来は肺のあたりに手に1滴とって塗るといいです。特に、公共の乗り物に乗ったあとや今日みたいなパーティーの帰りには』
    「なぜですか」
    『浄化する必要があるからですよ。緊張が高まった心臓を解放すれば心が戻る。本来の感受性が戻ってきます』
    「緊張なんかしませんよ」と、ぎこちなく笑った泰平が鼻を瓶の口に近づけると、ただ臭い匂いしかせずに、顔を歪めるのを必死におさえて笑顔を浮かべただけだった。
     名前を呼ばれたのを装ってその場をそれからあとにした―。
     
    『そろそろ工房(サロン)に戻るか、インキュバス。見栄の品評会にはもう飽きた』
     出口の方に向かおうとインキュバスが立ち上がると、メフィストは反対方向へと歩いていく。インキュバスの呼びかけを尻目に、男女で談笑しあうグループに入り、泰平に向かって話しかけた。
    『最後に、一言』
     一同がメフィストと彼を交互に視ている一方で、マットだけは目の置き場が違った。
    『そのボルドーのストライプのポケットチーフだが、君が醸し出す若くて未熟な青い感じにはとても不釣り合いで、まるでサーカスの団長だ。もうひとつ。サーカスの団長の特徴としてヒップが出過ぎだ。ジャケットの着丈が短すぎる。さらに、そのボルドーの靴下、まるで子供のピアノの発表会だ。せいぜい『エリーゼのために』でも弾けなさそうだが。それに君にはまだTVホールドは早い、陽気な感じを出すパフがいいところだ』
     指摘し終わると、喧しい沈黙に咳払いで応戦する。
     そのまま別れの挨拶もせずに窓からの夜景を一瞥してから、立ち去っていった。唖然とする彼を尻目に、マットが感心した眼差しをメフィストの背中に送った。
     
     最終日。真琴(まこと)亜望(つぐみ)は目的地へとゆっくり向かっている。こそばゆくて思わず身体をねじった。先ほどから音符が乗っているような五線のフェミニンな風が肌を撫でるのだ。
     パープルのフラットシューズは、ホテルを出る前に、聢と防水スプレーが振りかけられている。しっかりとした足取りだ。おかげで慣れない物思いに耽る余裕すらできる。黒と焦げ茶のプードル2匹に越されるのを亜望は余裕綽々と眺めた。
     フランス・パリ6区―セーヌ川の左岸のサンジェルマン大通り。夏時間の午前11時を廻った。パリの5月は気まぐれな天気だで、東京に比べると気温が少し低い。
     羽織っているライトネイビーのトップコートにパチンという軽い音がする。腕にこもった熱を逃がすために、袖を肘下の辺りまでまくりあげる。コートを着た女性と何人か通り過ぎる。キャサリン・ヘップバーンのように、少し大きめのサイズのコートをマニッシュに着こなす女性もいれば、『シェルブールの雨傘』のワンシーンのようなカトリーヌ・ドヌーブのフェミニンな着方をしている女性もいる。他にも、ジャストサイズやセクシーに着こなす女性も歩いている。
     鬱蒼としかけた気分が晴れていく――。
     サンジェルマン・デプレにあるラデュレのマカロンの店が、右手の先にみえてくる。どこかで交差するかもしれない人々が、カフェテラスでクロワッサンや葡萄酒(ワイン)やエスプレッソを飲みながら、真剣な顔をしたり、可笑しさで笑い転げそうになったり、待ち合わせしていたり、パリの街に溶け込む人間たちは、やはり素敵な趣がある―。
     マカロンの店ならばシャンゼリゼ前の月白のエトワール凱旋門の前にもあるのだが、観光客が多い。耳障りではないが妙に落ち着かない。
    店に到着するころには雨は止み、代わりに涼しい風が吹き始める。店内に入ると、頭がぐずぐずと不明瞭(ぼんやり)してきた。ピンク、グリーン、ブルー、パープル、ブラウン、イエロー……。そしてピンク、ピンク、ピンク―。
     ジェルマノプラタン達の頬は、薄紅色のチークでもひいたように蒸気させている。どんな香水でも敵わない。亜望はさきほどの記憶を手繰り寄せた。教会の厳かな空気の主人である風光明媚なステンドグラスの、魚たちの鱗の重ね合わせ様な模様に似ている。
     亜望の順番がきた。店員が何度も呼んだにもかかわらず応えなかったせいで、店員は少し怒っている様子だ。
     中腰になる。その時だった。ガラスケースに仄かに反射していた太陽の光の束が、まるでブラインドを上から下げるようにみるみるうちに消えていく。蕩(とろ)ける光の衝撃を亜望が気づいた矢先、ペールイエローの太陽が、身につけるミモレ丈の同色のスカートと混ざり合っていく。
    ガラスケースの右端に鎮座するのは、柑橘系色で積み上げられたマカロンタワー。そのタワーの先端部分にはメレンゲの猫―むしろ怪物に見える非現実的な格好で入口方面を視ている。幻惑させる万華鏡の宇宙が広がる。外の鬱蒼とした低気圧が身体の中に浸透して蔓衍がるのを避けるのには十分すぎるほどだった。
     ふと時計をみる。11時36分。メトロ4号線でセイントミシェルでRER―B線を利用して50分みておけば最終駅の空港に安心して到着できる。出発にはまだ時間がある。
     亜望がふと我に帰ると、目の端に男性が入り込む。6年前に少し年上の親友と旅行で訪れたロンドンで何度も目にしたルートマスターとそっくりに赤い雨外套を着ている。長身の男性だ。
     目の前の虹に目を戻し、そそくさと指で指しながら注文してその店をあとにして、小雨降る外苑通りへと歩いていった。
     30メートルほど歩いたところで、大通りの遠くに視線を向ける。地元の人々がどうやら集まっているようだ。近くに車と、どうやら運転していた親子と小さい子供、右手にはピンクの箱のような柔らかそうなものを持っており、左手で父親らしき男性の手を握っている。その先を2人も人々も見ているようだが、何か事件でもあったかと思ったが、みんな拍手をしているようなのでストリートミュージシャンか何かだと予測して、行きかけた踵を返した。
     
     帰国の飛行機まであと2時間。
     パリ=シャルル・ド・ゴール空港の化粧室で、雨の湿気ではねてしまっていたくせっけを丁寧に化粧室で直す。化粧室を出てすぐに電子ボードを確認する。
     一番近そうな左側のベンチに腰掛ける。ゴールデンウィーク連休も終了し、明日の朝早くから、クライアントとのコピーライティングの打ち合わせが入っている。遅刻=諸悪であり、遅刻を良い方向にとらえるという、南米のような常識はあの世代には皆無であることは容易に予想できる。
     15時30分発、全日航空217便のフランクフルト経由で成田翌日着の空港の出発ゲートで電子ボードに《DELAYED》の表示。亜望はため息を吐く。
     同じように明日に用事を控えた乗客たちがカウンターで何やら騒いでいる。遠くからジェスチャーをみただけで苛立ちが身体全身に表現されているのも無理はない。亜望もとりあえず状況を確認しようとノートとペンを持ってカウンターへと向かった。
    思った以上に乗客は暴徒化していた。並んでいる亜望を力づくで追い越して前に押し進もうとする。薄手のレースニットに暴徒化人間たちのバックなどがひっかかって穴が開いてしまった。こんなことで怯むような亜望ではないが、滅入ることにはかわりない。途方にくれていると、後ろから悠長に艶のある低音でフランス語を話す男の人―。
    亜望の上半身が硬直した。名状しがたい圧と揺れを一瞬だけ感じたからだ。背中越しだが違和感が消えない……反射的に亜望は全身に力を込めた。つま先から指の先まで右から左、左から右下と、揚力を得たり失ったりを繰り返して旋回していく。
    亜望はゆっくり気づかれないように振り向いた。
    『飛行機が遅れるの』男が訊ねる。
    「機内トラブルもあるのですが、何より天候が悪化して、離陸できないんです」 血の気のひいたグラウンドスタッフが応える。
    『ヴァイス! 天候は私の力の及ぶ範囲ではない』
    「全力で整備士やスタッフが離陸の準備をしておりますので、いましばらくお待ちください」
     亜望は交互に二人をさりげなく目で追った。その長身の男は周りとは対照的だ。特に怒った表情もしていない。
    「これだけひどいネージュがこの時期に降ることも珍しいので、とにかく困ってしまって」
     ガラス窓に叩きつけていたのは、風花とは呼べないほどの凄まじい風が運ぶ雨雪だ。
    『名前は』と男が訊ねる。「キャサリンです」とスタッフは応えた。
     亜望には2人の会話は分からないが、女性の顔を見て、彼がひどいことを言っているわけではないことは容易に分かった。
    《それで、飛行機離陸しそうですか》
     不安げな表情をわざとつくって、彼と視線を重ねた。すると無表情で、『2時間後ぐらいに着陸準備整。ミールクーポンは短時間なので出ないらしい』という返事だった。
    ちょうど傍を偶然通った日本人の初老の女性グループも耳をそばだてて、伝言ゲームを始める。亜望は、2時間もあるのならゆっくりと免税店をみて周りたいと考えた。早く礼を言ってこの場から立ち去りたい。
    《わたしちょっとお店を見て周りますので。どうも、ありがとうございました》
    故郷の長月の凪いだ海のように、僅かな不協和音もしない逃げ口上だ。右足を後ろに引きながら、肩を自分の内側にいれるようにして斜にかまえ、自分と彼との間に帳をつくった―。
    『いいや、私は御礼はいらないけど』
    きょとん。目を合わせてはいけないと本能で感じ取って足下に視線を移す。ふと靴をみると、彼の靴ひもが解けていた。しかも両方。この場合どちらを優先すべきか? 2つの違和感。もちろん前者だった。相手を傷つけないように、いわば積極的回避の技を見せたと思っていたが、彼は気づかない。おかげでさまざまな感情がごちゃ混ぜとなる。
    なんとか納得させ、同行することは断った。にもかかわらず亜望は彼のことが少しだけ気になった。自分と同じだったからだけではない。どこかで会ったような気がしていた。歩きながらしばらく考えてみる。
    結局、答えより先に亜望に届いたのは、空港内の効きすぎた暖房のせいで火照った頭と、ゆるんだ金銭感覚と、カード利用枠という魔物の絶妙なチームプレイによるエルメスのケリーバックだった。
     
    歩き疲れたので待合所のところまで戻ることにした。例の男はベンチに座っている。ひとりで近くのコーヒーショップで時間をつぶしていく算段で店の中に入った。
    中の席は遅延する飛行機の搭乗ゲートへの案内を待つ人で満席でとれなかった。仕方なく近くの店の外の空いている椅子を探す。お土産でぱんぱんに膨れたバックパックを足元に置いてから、家族連れの前の椅子に座り込む。シナモンとコニャックのホットダークチョコレートをすする。ひとときの沈静をもたらされる。目を閉じて一息ついた―。
     突然近くで複数の椅子が引かれる音がした。唖然とする亜望の顔を見て、彼がさらに爆弾を投げる。『どうやら怒っているようだが、生理の時期かな』
    《今なんと》聞き返すと彼は同じ質問をする。
    《は!?》亜望の少し赤みがかかった額に青筋を立てて怒った。
    『正解みたいだ。インキュバス、彼女怒っているよな』
    『左様のようです』話し掛けられた方の男の顔が引き締まった。
    《誰が怒らせてると思ってんのよ》
     どうやらアレルギー反応だ。慣れている手つきで、バックパックの前ポケット中から薬をとりだす。『それは』と男が訊いたが、亜望は無視をした。
     空気が読めなさすぎる男ほど始末の悪い者はない。そういう男のことを亜望は「ヒブン」(生物非分解廃棄物)と呼ぶ。亜望の大人としての「身分」に無鉄砲さを閉じ込めてはみたものの、幼少のときからの他人への静かなる悪態を吐く癖は―それにはちゃんとした整然とした理由があるのだが―悪魔の前でも健在だ。
    バックから茶色いひとつの瓶をとりだす。
    『葉と茎からの水蒸気蒸留のペパーミントのオイルで、くしゃみや鼻水などの鼻腔や副鼻腔のあたり炎症、さらに胸のたりと肺の中でおこる呼吸器系アレルギー疾患をおさえる』
    鼻で笑ってそれから一切相手にしなかった。
    2時間近く待って、ようやく搭乗ゲートに呼ばれるアナウンスが流れる。
    亜望は焦燥感に意識を空にされたまま保安検査場に並んでいる。出国審査を通過後、15時30分発全日航空217便の成田行きの搭乗口の待合所のベンチに、どすんと腰を落とした。あたりを見渡す。「ヒブン」はまだいなかった。
     機内への搭乗アナウンスが流れると、亜望も列に加わる。ようやく飛行機の中で眠れると胸を撫でおろしていると、何やらまた何かが起こったような気配がする。並んでいるところで左の列だけやたらと進み、亜望の並んでいる列がまったく進まない。ふと、横にずれるように首を傾けると「ヒブン」がなにやら乗務員と揉めているようだ。
    遠くからみていると、女性のほうが眉間に深い皺を集めている。一方彼は涼しい顔。
    まるで対岸の火事のように思ってみていた。しかし、次の瞬間にこちらに飛び火する。彼は乗務員と二人で亜望を視ている。その視線に気づいた「ヒブン」の連れの男も亜望に視線を送る。そして、女性が、亜望にむかって手招きした。気づかないふりをした。しかし女性の手招きはだんだん強くなる。仕方がないので素直に列を抜けて近づいていく。
    『保安検査場を入ったあと、飛行機をみていたら搭乗券が入ったリュックをそのまま盗まれた。パスポートはポケットに入れていたんだが……』
    《盗まれたんですか》
     彼はただこくんと肯く。
    《いまならまだ間にあうかもしれませんよ》亜望は関心を装った。
    『気分転換しても? 久しぶりに人に囲まれたからなんだかいつもと違って』
     亜望は目を白黒させる。
    《あなた自分の状況が分かってるの!?》
    『もちろん。こういうことだ』
    彼は咳ばらいをしてまったくお門違いな話題をぽつぽつと語り始めた。
    『喧嘩していたカップルに注目している間に盗まれた。その時間しかない。そもそもその2人の喧嘩の理由がよく分からないんだが―彼はそんなつもりはなかったのに、「君が勘違いしているんだ」と言って、彼女は「そういう風に聞こえたんだから、あなたが悪いでしょ! そう思っているから、そういう言い方になるんでしょ!」と怒っていた。そのあとは彼女は続けて「だいたい、この前の食事のときも、通る女の子を下かから上まで舐めまわすように見ていたでしょ! わたしのことを見下しているでしょ!」と言って彼は殴られたんだ。ここで分からないのは、彼女は昔のことで怒ったのか、それとも現在の口論のことで怒ったのか、どっちだなんだ』
    蝉が騒めくような沈黙が周囲に訪れた。
    《あなたちょっと、正直に言うけど、狂ってるの》
    亜望は調和第一のバターナイフを片付けて、分厚い幾層にも縦にも奥にも積み重ねられたレンガの壁を蹴破り、奥の奥から滔々万能サバイバルナイフを相手の前でちらつかせた。
    『違う。私はノーマルだ』表情を変えずに言う。
    『狂っているのはどちらかといえ彼女のほうだろうな』
    「お客様、わたしのことですか!?」
     彼が隣でずっと立っていた女性乗務員の方を見ながら「彼女」と呼んだので勘違いしたようだ。
    『彼を殴った彼女だよ』首を傾げて訂正する。
    「とにかく、このままでは乗せることはできません。規則ですので他のお客様にもご迷惑ですので、とにかく調査しないとどうしようもできないので」
     女性は毅然とした態度を崩さぬように言った。
    『それなら、コックピットに私を乗せればいい』
     彼は「これ以上のアイデアないだろう?」という顔を二人の女性に向けた。さらに続ける。
    『マンフレート・フォン・リヒトホーフェン、その弟のロタール、ジョルジュ・ギンヌメール、滋野清武だって全員無類の葡萄酒(ワイン)好きだったが、何か問題でもあるかな』
     たまりかねた乗務員が警備員を呼んだ。やがて警備員が到着する。恰幅の良いその警備員は彼をみるなり笑顔になった。
    「この人は嘘はつかないよ」というと、「どういうこと」と乗務員は訊いた。
     マカロンの店から出てきた亜望が目にしたひとだかりの子供の手をひいていた男性こそがこの警備員だと、のちに話を聴いてわかった。この警備が運転する車は彼に追突した。『大丈夫だから』と言って慰謝料も何も請求してこずに、挙句の果てにはマカロンを車から今にも泣きそうな顔をして心配そうに降りてきた少女に渡した。そう警備員が説明していると、今度はあのカウンターのグラウンドホステスが現れて、乗務員に事情を説明する。
    「確かにこのお客様は搭乗券を持っていました。お客様の座席は26のFです」
    そういうと徒に微笑んでみせた。証人たちのおかげで、乗務員も黙り込んで渋々彼は飛行機に案内した。
     眉根を寄せて首を捻ると、ぽきっと乾いた音がした。風向きが変わったどころか、重力が急激に変化したのかと思うくらいの、なんだかよく分からない感覚にひどく疲れてしまった。
     
    振りこもっていた雨もようやく解放することを覚えたようで、陽が差し込みはじめた。
    ようやく機上の人となったときには、亜望は既にぐったりとしていた。聞こえるか聞こえないかぐらいのボサノバ風のサウンドに誘われるように、疲れ果てて亜望はすぐに眠ってしまった。
     成田空港に着陸までほとんど眠ったままだった。飛行機の中から3層構造のアクリルを隔てた向こう側の空顔を入念に観察する。走り梅雨だった。
    ゲートを通過して手荷物を受け取る。手荷物受取所の外には大勢の人だかりが待っていた。ヒソヒソ話をしているようだが、誰か大物芸能人でもいるような気配でもない。とりあえず安心して近くのベンチに座った。
    ふっと一息ついて最後に財布やパスポートを確認する。立ち上がると、向こうの方に彼が見えた。
    手持ちのバックからあのレインコートを出していた。袖を通すとひろい肩幅がいっそう際立ち、そして襟を立てた。立てた襟の先が重力に抗うようにふわりとカールした後ろ髪に触れる。
    その背中からは30歳は越えている男性の多くが身にまとうあるものが感じられる。
    何かしらの荒削りの企みと別の企みとが交差点で出会い、新しい形態の矯正された絡繰りを紡ぎだして、脳内の噎せる熱で溶かして蒸発させ、それを背中に織り込んでいるかのような、一定の執着心に苛まれたあの不仕合せ感だ。
    背中から足元へ目線が映る。兄妹だろうか、子供たちが走り回りときどき目線が遮られた。首を左右に鶏のように動かしていると、自分の姿がおかしくなっておもわず失笑した。高身長というコンプレックスを持つ亜望が、映画館で前の人の座高が高くて観えずらいという「珍事」は今まで一度しかない。目線を下に向ければ、それと同じような経験ができるということに新鮮な驚きさえ感じた。
    亜望が立っている位置から逆方向の出口に向かっているというのに、なぜだが、彼の足音の残響は耳で徐々に高まった。
    だらしなく地面に小さな蛇のように這っている導線が亜望の意識を捉える。靴ひもが……まただ。しかも、あんなに大胆に。結んだ形跡がそもそも見受けられない。20メートルほど先の男にむかって失笑した。
    出口に向かって歩く男は、頻繁に開く自動ドアのむこうから入り込む温かい南風の薫りを運ぶ、「風の商人」のように見える。亜望は自分へ何かを言い聞かせているように、肯定しているような否定しているように唇を固く閉じて首を左右に振った。
    日本列島はうららかな春の陽気に覆われていた。
     

     
    東京の東側にある日本橋茅場町は上空から冷たい空気が風が吹き込む皇居と、海からの「風の道」ができる隅田川に挟まれたエリアで、春先から秋の入口までヒートアイランド現象に捕まえられることがない。比較的熱帯夜の季節も過ごしやすい。
    窓の下は神田川ならぬ隅田川。築8年。中古マンションを購入したのは3年前のこと。将来的な資産価値を考え、ファミリータイプ中規模のリノべートマンションを選んだ。
    いつものようにぎりぎりに家を出た亜望はコーヒーチェーン店に並んでいる。やがて、やっと順番がきて、パリの空港の免税店で奮発購入したロエベの長財布からプリペイドカードを取り出し、朝のコーヒー代を支払う。プリペイドカードに3000円をチャージし、使い切ったら翌月までチャージしないようにルールで決めている。
    決まった時間に家をでるため、近頃朝の8時45分という時間を確認する場所が決まっている。キャッシャーの奥のポンプ式のテロンギエスプレッソメーカーの上に掛けてある壁時計だ。たいていの場合ディカフェのコーヒーは時間がかかるので、5分ほどは待つことになるが、始業にちょうど間に合うタイミングなので好都合だった。
    クリエイティブ・エージェンシー【écriture】が亜望が務める会社だ。【écriture】の大代表取締役は村沢望。彼は、大手広告代理店時代に担当した商品やコンセプトのコピーライティングがTCC(東京コピーライターズクラブ)最高賞など多数の賞を受賞した新鋭のコピーライターであり、退社後設立したプロダクションが【écriture】。
    JR浜松町駅から増上寺方面に徒歩10分。芝大門2丁目の賃貸事務所ビルが立ち並ぶ通りの軒並み高いビルの最上階にオフィスをかまえる。
    50坪の広々とした空間にフローリングの床。そして5メートルはあるコンクリートの壁。オフィスビルでは珍しいメゾネットタイプで、1階に各社員の個人デスクと2階は長いデスクのミーティングスペース、映写室、暗室、仮眠室、フリースペースがある。
    そのプロダクションの制作部に所属する亜望は、村沢と同じ大手広告代理店のOLだった時代はクリエイティブ事業局の営業管理部に配属されていた。
    亜望の大学時代はいわゆる劣等生だった。
    そんな亜望でも、就職活動だけは首尾良くやった。広告代理店の就職面接で「好きな小説家はだれですか」と訊かれ、亜望は、浅黒い肌をしたやせ細った面接官にたいして、「村上春樹とレイモンド・カーヴァーです」と答えた。今考えてみても人を食ったような答だが、結果はまさかの採用だった。2人の名前を言うだけで一目置かれる時代だった。
     
    今日は金曜日。朝鏡をみると、特にその日は自分がいかに男向きではない都合でできているかを考えた。夜更かしをしたせいで肌荒れと目のクマが救いようのないものとなって鎮座している。化粧ポーチから固形タイプのコンシーラーを少量だし、いつも以上に念入りに塗り、仕上げにフェイスパウダーを顔全体に叩く。思わず粉で咽る。これで、今日1日の化粧室への回数が増える覚悟をして出社してきた。
    腰まで届く程度の長さの髪。海外ブランド靴のオーダーメイド会で思いきって10万近くしたが、コスパは悪くない5センチヒールをはくと日本人の女性の平均身長よりもだいぶ高くなる身長。3日絶食しないとはけるジーンズが少ない。夜中にコニャックのはいたチョコをダースまるごと食べても、20のときから肌寒い日のときの家着が変わっていない。それらのどれも未来永劫気にはしない。そんな思考も男向きではないことが、亜望はよく分かっていた。
    「久しぶり」
    肩を叩かれた。ハッと我に返る。急いで襟を正した。
    藤島(ふじしま)薫(かおる)が立っていた。夏を先取りするかのようなネイビーのトム・ブラウンのシャツワンピースに同色のレースアップシューズを合わせている。アシンメトリーな片方のフロント部分が編み込まれたヘアスタイルで年齢よりおそらく5つは下に見える。
    亜望は広告一課、藤島はデザイン一課所属で番組CMやラジオ、インターネットのサイトデザインを担当する。他にも立体ディスプレイデザインを担当するデザイン二課があり、藤島は会社のグラフィックデザイナーたちを統括するアートディレクター。亜望のようなコピーライターと常にチームを組んでクライアントのヒアリングを汲み取った企業広告や商品の広告のラフをいくつもつくる能力がある。
    村沢の強い口説きで藤島は【écriture】にグラフィックデザイナーとして中途入社した。
    コピー案や企画書をスポンサーの要求に応えて提出するとき、コピーライターの文章だけで提案することはまずない。つまり視覚表現案を添えることが求められる。藤島は当時アパレル業界のコピーでは知らない者はいないほど飛ぶ鳥を落とす勢いで名を馳せていた。大手広告代理店に所属する藤島を口説き落とし、自信の会社に引き抜いたことは、当時の業界では「村沢の変」として語り継がれているくらいだ。
    2人はお互いの感性を理解しているのか、言い争いを亜望は見たことがない、
    《つまらないものですが、お土産です》
    「あら、そんなことしなくていいのにと言わなかった」藤島が摩訶不思議なものでも見たような顔をして応える。
    《確かに、忘れていました! お口にあわなければ捨てていただいて大丈夫ですので。どうぞ》まとはずれな行動を指摘された気になって、急いで亜望は手を重ねておなかのもとへともっていき、おじぎをしながら修正にかかる。亜望はうまくかわしたつもりだった。
    「食べ物を捨てるのはもったいないでしょ」
     彼女の追撃の矢は止まなかった。
    《おっしゃる通りです。処理はお任せします》
    「なに、その人任せは。あなたでどうにかしなさいよ」
    《煩わせて申し訳ありませんでした。今日午後に社長がいらっしゃるので、そのときのお菓子としてだしましょうか》となだめると「さしおりそれでよろしく」とようやく無罪放免となった。
    《わかりました》
    同期入社の連中が自分の夢に酔って辞めていく中、亜望がなんとか人間関係の悩みに首を絞められずに済むのは、ほかならぬと観察力と加減力の賜物だ。
     
    亜望が連休中に溜まっていたメールを処理していると、村沢が到着した。
     藤島はすかさず総務の女子に、声にださずに唇を読めとばかりに大きな口を動かして、コーヒーを3人分用意するように指示する。
     藤島が村沢と2階への階段を上っていると、「真琴くんも」と呼ばれたので、資料を持って急いで2人の後を追った。
    「真琴くん。この前のコピーライティングご苦労だったな」
    村沢の言う「この前」というのは、彼の勉強会時々司会などもしてもらっている若手起業家のことだ。
    「あれ以来仕事もうまくいっているみたいだ。ホームページのパソコン、スマホ、タブレットのデバイス別でもIMPもクリック数もCVもかなり向上したと連絡がつい昨日あった。彼もイギリスから帰国したらしい」
    頑丈な角ばった胸の上にぴたっとジャストサイズのブルーのYシャツで収め、ネイビーの薄いチェック柄のスーツにドットのペイルブルーのネクタイを合わせている。先方の道西エステートコーポレーションの企業のイメージカラーに合わせた仕様だ。
    普段、筋肉質の体型のわりに、長細い手足にワイドカラーシャツとブレザーで合わせ、下はジーンズというカジュアルな格好で出社してくることの多い村沢の「本番」へのこだわりには舌を巻く。ビジネスバックはエルメスのブリーフケース。普段はスマイソンを使用するが、交渉の入り口ではエルメスを必ず使用する。常にパソコンとノートと鉛筆と鉛筆削りしかはいってない。
    鉛筆はドイツのステッドラー社のものときまっており、会社の社員全員に支給されるものだ。が、いまどき鉛筆でコピーを考える人間は社長以外にはいない。他の備品たちも日本製のものはほとんどないので、常に備品切れしないように亜望は監視しているくらいだ。
     そして、その鉛筆をみるたびに苦い思い出がよみがえる―。
     前の会社から引き抜かれるとき、土曜日の在宅で仕事中、大切な書類を会社に忘れてきてしまったことを思い出して、お昼前に出社した日のことだった。足音に気づいて村沢が振り向く。
    「真琴くんか、休日出勤とはそんなに仕事はたいへんなのか」
     資料置き場で何やら調べ物をしていたのか、手にフォルダーを持っている。
    「そうだ、ちょうどいい。この前の続きをしよう」
     亜望の動揺をよそに、社長は原稿用紙とステッドラー社の鉛筆を何もいわずに亜望の机の上においた。「90分時間をくれ」と突然言った。
    「その分の残業代としてわたしが上司に指示をしておくし、必ず損はさせない」
    今も愛用しているタグ・ホイヤー社の「カレラ」の文字盤を見ながら、いつものようにまばたきが多かった。亜望は「幸福」という題名の600字以内の作文を命じられた。
     高校受験のときのように紙とペンだけがひろがっていた。顔を上げると起動したはずのパソコンがオフになっていた―。
     
    《お役に立ててたいへんうれしいです》
    亜望はコーヒーをお盆から受け取って渡した。
    村沢の話す若手起業家のことを、亜望は〈スード〉(英語で〔偽りの、偽の〕の意)と呼ぶ。
    とんがり靴。それもありえない反り返り方。学生時代に冬休みに住み込みのアルバイトをしていた長野県白馬村のスキーのジャンプ台を連想させる。 自意識を圧搾機に一定時間かけて、出てきた青黒い油脂を薄くひいたような唇から、赦しもなく弾けるように出てくる言葉の矢雨は、家族愛、学歴、職歴、性格、メールアドレスから電話番号、全てのSNSのアカウントまで続いた。
    亜望は、社交性というものを大学時代に開花させ、ずっと研ぎ澄ませてきた。
    ホステスのバイトをしていた頃だ。かわいがってもらった先輩に湊(みなと)朋美(ともみ)がいた。彼女はそこで生きるしか道がなかった、学歴もなければ経済的援助も見込めない。親戚の場には顔を出せないし、何よりもというわけではなく、彼女は大学院を出ていた。それでも就職難ではなく、過敏性腸症候群、という目に見える異常が認められず、そこまで周りからも心配されずに、逆に精神論で諭される毎日に神経性胃炎を併発して散った。
     教育は力を与えるものではなく奪うものだから、大学時代はとにかく遊んでお金を稼いで好きなことをしようと決めたのは朋美の存在が大きい数年前に、ちゃんと「上がった」(お水の世界での結婚の意)というニュースを風の便りで聞いて以来、特に連絡もとっていない。
     
    〈スード〉の会社のキャッチコピーは以下のことに気をつけた。
    まず、物静かな語り口のコピーを目指した。完全に女性目線で書き上げた。20代は身体の絶頂期、30代は身体の不調は寝耳に水どころか氷水でであるエネルギーの低下、亜望がもうそろそろ突入する40代はおそらく、それまでのケアがものを言う世代に入っていく。
    ファッションでも同じことなのではないかと亜望は考えた。
    次に、口調は一人称―あくまで女性の気持ちを代弁するような大それた気持ちでなく、自分の気持ちと女性という生き物との距離の取り方、さらには自分とファッションの取り方を少し脚色して色彩をコーティングしてから、まずラフを持っていった。
    「いいんですけど、少し暗いというか、もう少し元気にできませんか? ほら、こうなんていうかもうちょっと軽く前向きに。分かりませんか? こう……」
    丸く円を描くような手の動きに何を具体的に読み取ればよかったのだろうか。具体的なことを指摘できない未熟さを、前衛的な芸術家が舞台演出家気取りの抽象的注文で恥を上塗りしてくるようにみえて、滑稽だった。
    村沢がコーヒーに砂糖を入れながら喋り出す。
    「君も昨日帰ってきたんじゃなかったか」
    煙草の臭いがふわっとする。禁煙して2年になる亜望にはさほど不快でもない。このたばこ臭にいやな顔ひとつせず話を聞く姿勢も村沢が目をかける理由のひとつだ。
    《そうなんです。パリに行かせていただいていました」
    「藤島さんが話していたからね」
    日本を発つ前に休暇届の際にいつ帰ってくるかはもちろん報告の義務があるので別段不思議はないことだった。
    「娘にも君みたいな女性になってもらいたいもんだな。愛嬌がなく調和を知らないからね」
    と、その後、仕事の話と話の間に娘の愚痴が30分ぐらい続いた
    《ひとり娘だったらなおさらですよね。いくら常に業績をあげている社長も、あまり顔には出せないので、娘さんもたぶん気づかないんでしょうね」
    「社長、そろそろ。でないと間に合いません。もう下にタクシーはわたしがまたせてありますので」と藤島が割り込んだ。
    村沢は瞳を右上に2秒ほど止まって、何かを思い出すように再び喋り始めた。
    「わたしの話にいつもつきあってくれてすまないな、真琴くん。いや……親父がよくおれをホステスのいる店に昔連れて行ってもんだから、いやなとこ似るんだろうな」
     語末で同意を求めるように藤島の方に目を向けた。
    「そ、そうですね」スケジュール帳を閉じて、藤島は一瞬鼻白む表情をみせたあとすぐに、左手で右側の再度の髪を右耳に静かにかけて整えながら不器用に微笑んだ。一緒に笑ってはいるが、一瞬にして笑顔が消滅する。
     村沢は九州熊本の出身で母親を幼い時に亡くしている。父親がたたき上げで当時和服の訪問販売のビジネスで仕事の裾野を広げ、遠方まで出張にいくことが度々あったらしい。父親譲りの機会(チャンス)への全力投げ込み(フルスロットル)は、文才よりもむしろ力が込められているのではないかと、時々末恐ろしさを感じることが亜望はあった。
    村沢はコーヒーを途中まで飲んでから立ち上がった。
    「その前にきちんとなにか食べていこう。こういう季節だと食欲も沸かないもんだが、ちゃんと気持ち悪くても食べておいた方がいい。うなぎを食べに行こう」
    亜望と藤島は微笑んで同意を示す。村沢は部屋を出ると、まっすぐに「コーヒーうまかったぞ」と言葉をかけた。
    亜望は資料を集め、念のため一度トイレで化粧をチェックに向かう。蛇口のある方の大きな鏡だと誰に視られるか分からないので、個室に入ってコンパクトミラーを開く。
     子供の時に、父親にテクマクマヤコンコンパクトを買ってもらってからというのも、とにかく呪文を念じ続けた。ほかの子供たちは遊びの一環としていたわいもない魔法使い遊びに講じていただけだが、亜望は半ば真剣だった。自分でない誰かになりたくて、いつか神通力のようなものが宿るのではないかと般若心経を唱える僧侶のように毎日欠かさずトイレで念じ続けた。
    (ラミパスラミパス、ルルルル~)呪文をしょうがなく胸の中で唱える。ヨッコイショ、という呪文を胸の中で唱えて、外に出た。
    外は故郷とは違い生温く偽善的な風が流れている。東京の四角い空の上空の雲の流れは早かった。
    3 
     
    泰平は昼過ぎに起きるとパソコンと携帯電話2つとデバイスをバッグにいれた。村沢の会社に行く準備にかかる。ウォークインクローゼットから、チャコールグレーのストライプのジャケットと無地のピンクのシャツを取り出す。それからストレッチタイプのベージュのチノパンも。素鏡を見るまでもない。玄関に行き、革素材の黒のスニーカーを履いた。
    会社員時代は考えられなかった。会社内のドレスコードで、役職のついていない平社員は無地のスーツとシャツ、そして靴は黒のストレートチップと決まっていた。一度、ウィングチップの靴を履いていったときに、上司のねちねちとした注意は2時間にわたったのを、昨日のことのように覚えている。
    「ごぶさたしております!」
    村沢たち3人がタクシーに乗り込もうとすると、勢いよく遠くから規格外の満面の笑みを従えて泰平は近寄った。
    「おお、森川くんか」
    「もし、ご都合悪ければ出直しますが――」
    「今からちょうど出かけるところだったんだが。君も一緒にランチにいくか」
    「すみません。お伴させていただきます!」
     泰平は藤島と亜望と一生に後部座席に乗り込んだ―。
    タクシーの狭い車内はすぐに、二人の香水で満たされた。泰平と村沢は同じコロンを使っている。泰平の方が「メンター」とあがめる村沢の香水をリサーチして真似たのだ。ボンド・ナンバーナインのB9オードパルファム。圧倒的な香りを放つサンダルウッドやムスクのベースは男の権力を演出するのには最適だ。自分には不釣り合いな気もしたが、取締役社長であることには変わりはないと開き直ってからは、毎日首元と足首につけている。さらに一週間に一回はクローゼットにスプレーしている。
    「そうだ、真琴さん! 本当にありがとうございました。これロンドンのおみやげです」
    ぎろりと彼女が隣を窺った気がしたが、気に留めなかった。
    結局、ランチはほとんど泰平が司会者かといわんばかりに空気を飲んだ。食事中に2度携帯電話を持って立ち上がり、最後には店員に「記念」写真まで取らせる独壇場だった。 
     
    去年の秋。ちょうど北東の冷たい気流が都会に流れ込み秋霖が十一月初旬にようやく終わり紅葉前線にバトンタッチされた頃、2人は会社の会議室で初顔合わせした。
    仕組んだのは村沢だった。
    出勤する途中の目抜き通りに植えられたカエデの葉も落ち着いた黒光のする赤に変身しており、行き交う人々もマフラーが目立っていた。明け方の最低気温が10度より低くなったのだが、昼頃には、都心は高気圧に覆われよく晴れていた。
    亜望の故郷の岡山県の津山盆地は、秋から初冬にかけて濃い霧がかかりやすく霧の名所とされている。母の故郷の熊本県人吉も同じような地形で、濃い霧を見る度に母は朝から機嫌が悪かったのを、歩きながら亜望は思い出していた。
    会社に到着し、入り口の右側にあるハンガースタンドに、ドゥロワーの深みのあるイエロートーンのコートを掛け、自分のデスクに到着すると、すでに泰平は会議室で村沢と談笑していた。
     プロジェクトで初めての結果をだしたのは少なからぬこの泰平だった。
     胡乱(うろん)の言を並べながら社交性を過剰演出させた笑顔は、一度嫌悪感を覚えたら忘れることはできない。一言で言い表せば、〈自分の作り上げたレゴブロックの世界でぶらぶらとぶら下がりを決め込んだ男〉だ。
    「真琴くん、こちらが勉強会で非常に熱心な森川くんだ」
     2人はお互いの進入領域を探るように全身を隈無くスキャンした後で軽い会釈をした。
     亜望は素早くラップトップパソコンをテーブルに出す。
    《宜しくお願い致します。お力になれるかどうか最大限ご要望にお応えいたしますので、おっしゃってください。クライアントさまに助けられることも多いぐらいの人間ですが、精一杯させていただきます》
    「じゃあ、あとは打ち合わせたのむよ」
     村沢はそう言うと会議室を出て行った。
    「なかなかプリミティブな色の靴ですね。すごく良く似合ってますよ」
     泰平の一言目はファッションに関しての褒め言葉だった。軽く笑ったあと、ノートパソコンを出してインタビューにとりかかる。
    《まず、会社の方針についておきかせいただけないでしょうか》
    「センス、ヴィジュアライズ、そしてクリエーション、最後にハッピネス……これがわたしの経営方針です。人間臭いと思われるかもしれないけど、僕は頭も良くないし、一流大学出ているわけでもないので、人間性で勝負するしかないんですよね」
    自分でハードルを上げる人間に、そのハードルを越えられる人間と遭遇したことが亜望はない。おそらく一生ありえないとどこかで確信している。
    どうやら消化に時間がかかりそうな人間だと感じた。野放図に話す内容をかいつまむと、苦労話だった。
    《森川さんはSNSにも注力されていますね、なぜですか》
     主導権を握られまいと誘導する質問を投げた。
     すると彼は主役が脇役に控室で話し掛けるような調子で笑った。さらにジャケットの前を4本の指でつまんでぱちんと弾く仕草が癇に障った。
    「VMDの一環でもありますね」
     とにかく横文字を遣いたがる男だ。
    「そちらには業界で有名なアートディレクターの藤島さんもいらっしゃいますよね」
     声が少しうわずっているところから察するに、どちらかという藤島のスキルに期待しているとみえなくもない。そもそもいまどき視覚化が優先の広告業界において、コピーライターの役割は見直されているご時世なので、亜望は質問には別段腹も立たなかった。
    相手のことをもっと深く知りたい、という気持ちが決然と萎えてくる。これ以上萎えてきては仕事にならないと、背筋を伸ばし直し、ジャンヴィトロッシのくすんだブルーのパンプスのつま先をコツンと一回床を蹴った。
     

     
    岡山県総社市の中では新興住宅街と呼ばれる地域に亜望の生家がある。亜望が生まれた年と同じなので築39年ということになる。亜望は長女として、瀬戸内海式気候の地域で育った。
    中国地方南東部に位置する岡山県は、全人口の半分近くの日本人が四国と間違うほど、名前ではなく地理的な知名度の低さは有名だ。亜望が育った総社市は、岡山空港からでも岡山駅からでもタクシーで約30分というまずまず都市化が進んだ市であり、そこまでの不便を生活で感じることはなかったものの、一周見渡しても山しか見えないところが玉に瑕だった。
    亜望が岡山市内の公立高校の英語科に入学して半年ほどたち、夏休みに入る直前のある日の夕方時分に事件は起きた。
    父が会社の定時よりも早く帰宅すると、大袈裟なくらいに母の美沙世(みさよ)は、洗濯物を両腕一杯に抱えたまま驚いた。少しの間、驚きに興じていると、父は何も言わずに、テーブルに座る。急いで母は少し早めの晩酌用の瓶ビールと鰆(さわら)のいり焼きを出した。目の前に出されたままいつものように無言で夕刊を開く。数ページパラパラとめくると、「そこに座らんね」と台所にいる母に声をかけた。母を座らせると、しばらく口を真一文字にして考え始めた。外では天照雨が地面をたたいていた。
    あまりに長い時間そうしていたので、たまらず「食事の支度をします」と席を立とうとしたその瞬間、ぽろっと言った。
    「気鬱病と医者に診断されたがー。今度おめぇを連れていかんと。説明を聞いてもらいたいらしいじゃ」
    「気鬱病? なんですか、それは」
    「詳しいことはわからんが、別にたいした病気じゃない。心の病だと。とにかく家族が話を聴かないといかんらしいから、おめぇ一緒についてきてくれ。来週の火曜日の朝に行く」
    美沙世は一瞬返答を言い澱んだあと、方向転換して一笑に付そうとした。「心の病」という言葉が幼稚に聞こえたに違いない。
    それからが不幸の連鎖だった。不幸と呼ぶにはあまりに度を越えている。気鬱病が深刻な鬱病へと移行し、やがて認知症へと看板を変えていった。
    今年75歳を迎えた隆太郎は約3年前に大学病院で【レビー小体型認知症】と診断されている。もともと女性よりも男性の方が2倍発症率が高いとされる認知症の一種だ。しかも、アルツハイマー病より進行が早い。
    一方、飛び跳ねた髪の毛のような差支えをも解消することさえも厭うような人が亜望の母親の美沙世だ。それに加えて幼児性が成長しても抜けなかった母は、もちろん娘どころか隆太郎の面倒をみるほどの母性も自己犠牲の感覚も元来持ち合わせたことがなかった。それゆえに、介護のストレスからアルコール中毒になり、介護に疲れた母は1年前、凍った路で足を滑らせて入院後、次から次へと併せて病が発覚し、3か月後には病院で亡くなった。
    亜望は母親が死んだ、あの蒸し暑い夏の日のときのことを片時も忘れたことがない。
    その病室での悪態(ひとこと)の矢が、今でも胸から抜き取れない。
    「この世は不公平たい―神様なんておらん。あんたがそれば一番よく分かっとろうが。分かっとろう」
    亜望は今でも何のことなのか分からない。
    「金があれば幸せになれたろうし、なかったけん、せんでもいいはずの苦労ばしてきた……わたしに生きる意味なんてなかったとよ。あんたもそうたい。わたしが産んでやったけん、分かるばってん……あんた幸せになんてなったら……罰があたるよ」
    苦しそうに咳き込みながら言い終わると、「これで、おむつば買ってきて」と言われ、当時は珍しい自動販売機の婦人用のおむつのSサイズを購入を亜望は頼まれた。言われたとおり自販機の前で札を入れようと悪戦苦闘していると、ふっと気配がした。背中が重くなる。急に廊下が慌ただしくなった。病室が地震のように横揺れする。サンダルの音が短い間隔で廊下に響いた。
    最後の心温まる言葉を交わすまでもなく、母は逝った。
    亜望は、自然と涙はでずに、虚無感がどっと押し寄せてそこに膝からついた。ショックで膝から崩れ落ちたと思われたので、周りの看護師が椅子へと擡げて座らせてくれた。が、欲しがっていた虚無感におそわれて力が抜け切っただけだった。「やっと死んでくれた」というのが偽りのない気持ちだった。そして、その気持ちが母娘関係の証明書のようなものだった。
    「幸運を祈る」―隆太郎の言葉の言霊はどうやら自分を守ってくれるどころか呪っているのかもしれない、とこのとき初めて強く感じた。
     
     
     
    東京都千代田大手町の1丁目の四叉路を神田橋方面に3分ほど歩いたところに、道西(みちにし)エステートコーポレーションの自社ビルディングがある。
    戦後まもなく創業。その後、不動産の売買、仲介にはじまり余暇施設の運営を経て、現在は従業員数600名を超え、連結では7000人を超える社員を抱える。東京を代表する一大オフィスビル開発、賃貸、管理を行う会社だ。
    亜望たち一行は、ビルの30階でエレベーターを降り、左に20メートルほど歩いた中会議室のL字型のロングテーブルの一辺の後ろで立っている。ふと窓の外をみると、オフィスから眺める外は狐の嫁入りの翠雨が走っていた。
    「ご挨拶よろしいでしょうか」
    その男は、昨年決算期の改編により、これまであった宣伝部という部署を総務と合併後、の総務広告一課部長を任せられている浅倉(あさくら)実(みのる)と名乗った。
     村沢と藤島に挟まれるような形で亜望が真ん中に座った。
    「早速ですが、まず今回の規模をご説明させていただきます」浅倉が丁寧な言葉で喋り始めた。
    道西エステートコーポレーションは、浦和駅周辺の再開発にむけて、エリアで不足するところの大規模オフィスやグローバル対応の施設群を計画している。さらに、埼玉にも人口を流すことで、東京の行き過ぎた過密を解消する狙いもあり、空港や駅から人口を流してインバウンドの拡大も期待している。
    「――アジアからの訪日外国人の数は急増を続け、海外投資家の呼び込みにも力を入れ、グループを挙げて国内市場の活性化に努めています――」
     ちらりと銀色のテーブルに似つかわしくない物体が視界に入る。彼は眉間に皺を寄せる。亜望はクライアントが求める方向を完全に把握するために、事前にボイスレコーダーで録音することの許可を得ている。浅倉が咳払いをしてから再び話に戻る。
    「英国式庭園造りには他社の協賛も仰ぎます。そこに、無農薬農家の方々や彫刻家やパブリックアーティストも国内国外がら募集を行う予定です。景観や環境を体感をできて普通ではない毎日が始まる。そのようなわくわくするようなコピーライティングをいただきたいんです」
     熱が伝わってくる口調だ。亜望も自然と力が入ってくるのを感じる。ついつい肩に力が入って、何度かメモするシャープペンの芯がぽきっと折れた。しかし不安の方がまだ勝っている。
    「こちらの真琴をリーダーとしてご提案をすぐにさせていただきます」
    商品やサービスのコピーは今までやってはきたものの、会社全体が会社のメッセージを依頼するのはコピーライターにとっては花形中の花形の仕事だ。誰しもがこの道をとおるまでに、数十年以上かかるといわれる。しかも、通常競合コンペで勝ち抜かなければいけないのだ。それを、たかが留学仲間だというだけで村沢を指名する村沢の人を引きつける魅力とはいったいどれほど畏怖すべきものなのか想像もしえなかった。
    「く、しゅん」オフィスに入った瞬間からどうも鼻と相性が合わない。必死に鼻水が落ちるのと戦っていた。鼻をすするたびに、頭痛がしてくる。
    「いいタイミングでくしゃみしたな。どこの国の返答の仕方なんだ」
    村沢のフォローのおかげで、亜望は一同に目をくべて会釈する。他の2人が顔を見合わせて少し騒めく。
    「こちらが真琴さんですか――」彼は腑に落ちない気持ちを眉に潜ませた。
    「いや、イメージしていたのはもっと、こうぎらぎらした方と言うかキャリアウーマンという感じの女性でしたが、雰囲気おとなしそうで、あまり気取ってない感じがいいですね。弊社の今度の複合施設ビルの建設のコンセプトと合います」
     無理やり褒められているような気もしたが、とりあえず笑顔で応対する。
    「分かりました。大賛成です。広告とは基本的には能動的にはだれも接触はしませんからね。気取らないからこそ目を引く。そのビルを利用する自分自身の、家族の、恋人の、それぞれのイメージが簡単に持てるようなボディコピーを目指します」村沢の言葉にも熱がこもっている。
    浅倉は視線を亜望に移した。
    「これまで、真琴さんが担当されてきたコピーどれもすばらしかった! 製薬会社や商社、医療機器メーカーなど、ゆっくり語りかけられているようで、親密さがどの文章にあり、小手先の器用さで化粧をした文章ではなく、素材で勝負してくるあたりの文章の配置が秀逸でした。現実的で嘘が少ない。特に、アレがよかったですね――介護付有料老人ホームのコピーです」
     亜望の胸は思わず高鳴った
    「《いのちは生み出すより、育てる方がはやい、そして老後(さいご)はまたゆっくり生み出したい》でしたよね」
     亜望は恥ずかしそうに頷く。
    「あのボディコピーの物語が非常に感動しました」浅倉は、亜望の広告をみて、自分の母親を老人ホームに預けることを決めた。仕事柄、マーケティングとはいわば「欺す」ことだと心得ているはずなのに、そんな一般人のよう対応が彼の誠実さを象徴している。
    「今日のようにミーティングで話をされてから決められたと思うし、あれにオッケーサインを出すと言うことは、おそらくそんなに酷くない老人ホームだとも思えました。あそこに時々息子たちを連れて行きますが、息子たちに母は色々な話を聴かせるんですね。まさに、ゆっくり何かを生み出すように。紡ぐように……少々話がずれました」
    彼は亜望に向かって微笑んだ。亜望の視界はみるみるうちに歪んでくる。涙が頬を伝っていくのも厭わないほどに聞き入れていた。藤島がすぐに気づいてうやうやしくハンカチを差し出す。
    《本当にありがとうございます》
    「資料だけでは分からない御社の思想がクリアになりました。貴重なお時間、誠にありがとうございました。早速ラフにとりかかり1週間以内に提出させていただきます」村沢が亜望の代わりに締めの挨拶をした。「最後によろしいでしょうか」と村沢が喋り始めると浅倉が立ち上がる隣の2人を制するように手をあげた。
    「こういうことを言うと驚かれるかもしれないし、もしかしたら常識から逸脱しているかもしれません」と、前置きを十分に置いてから続ける。
    「企業ブランドを前面に打ち出すという特命を司っている委託になります。こちらの真琴ですが、ご不明な点はできる限りで構いませんのでEメールでやりとりさせて頂いて宜しいでしょうか」
    そう言うと、村沢は頑丈な体躯を折り曲げて慇懃に頭を垂れた。一同はお互い目だけで会話しながら村沢と亜望を交互にみた。
     
    「あ、真琴さん!」
     建物の正面玄関まで3人が差しかかったところで浅倉が声をかけた。振り返った二人につられて遅れて振り向いた亜望は2人を先に促した。
    「すいません……」
     表情に雲がかかっている。早速船出したプロジェクトがもう難破だろうか、と不安が一瞬広がった。なぜ謝られるかそもそもわからないが、とりあえず笑顔を作る。
    「わたくし、実は、先ほど、話をした時から気になっていたことがありまして」
    《何ですか》
     急いでバックからペンとメモ帳を取り出す。
    「母からよく聞いていたのですが……」
     予想だにしない登場人物が出てきたので亜望は少し面食らった。
    「母は若いとき、父と結婚した当時、正確に言えばずっと前からそうなんですが、卵巣膿腫でした」
    亜望の顔の筋肉が固まった。
    「やはり、ですか」
     心臓が止まりそうになった。生唾を飲み込む。
    「真琴さんお痩せになっているのに、若干下腹部だけ膨れていますね。座っているときに下腹部にずっと左手を置いていた」
     とりあえずペンを走らせて仕事の話を聞いているふりをした。
    「――最初はご妊娠かとも思いましたが……」
     太字で【妊婦にもやさしい街づくり】とペンを走らせる。
    「あの老人ホームのコピーの言葉の選択が腑に落ちたんですよ」
    相手の洞察力に感嘆するべきか、プライベートなことを詮索されていることに怒りをぶつけるべきか困惑した。どちらにしても、恥ずかしさで頬が紅潮していることに変わりはなかった。
    「きっと命に執着してなさそうで、こだわっている? そういう人が考えたんだと。わたくしの悪い癖なんです」
     言い終わると、ぽりぽりと頭を掻いて一笑した。
    《癖》とペンを走らせる。自分でも何をしているのかわからない。動揺は動揺を越え、心底の薄氷が割れかけている。
    「どうでもいいことを深く考え込みすぎる癖です」
     反対に彼は自分が何を言っているのかをちゃんと分かっている。それでいて判断を託すような口調なのだ。
    「―よくいろいろな出来事に意味を見い出そうとするんです。世の中のあらゆる細部に神が宿っていると信じています。よく同期からも揶揄されていたのですが……これは、わたくしが話さなければいけないのでないかと……。すいません、少々後半はひかれるかと思いますが」
     遠くの村沢たちを横目で見て、深々と一礼をする。
    「すみません。話が長くなって」
    「それで、母は、わたくしを産んでいるので、ちなみに兄弟があと2人下にいます」
     何を言わんとするのか、亜望にもだんだんと想像がついてきた。
    「母の話です。『魔力で治療してもらった』と言っていたんですよ。『病院の薬?』と聞くと、首をふるだけで……結局、誰の施術を受けたのかは答えなかったんですが。たったひとつだけ思いだしたことがあるんです」
     亜望も村沢たちを気にして作り笑顔で肯く。
    「ある人物に、治療してもらったと、言ってました」
    興味を持たれているかどうか確認するために、覗き見るように亜望の目を見つめる。
    「その人物は、医者ではないようなのです」
    曖昧模糊としていて何の参考になるのか、間違った期待を抱くことだけは自分の哲学でしたくはなかった。
    何事もなかったかのように笑顔で《お気遣いありがとうございます。たいへん参考になりました》とだけ亜望は告げた。2人の後を駆け足で追おうとした。
    「最後に!」
    浅倉が大きな声で遠ざかる亜望を呼んだ。気配を感じて振り返る。
    「母が言ってました。『神に最も愛されたが永遠の罰に処せられた存在が目の前に現れた』と。それはたしか昭和47年……1972年だと言ってました―」
     神経質そうな引き笑いで雰囲気を和らげようとしている。行きかう人々が何事かと2人を訝しむような目で見つめている。彼は、柔らかい調子で、お節介に聞こえない、人の心にそっと足跡をつけるような表情でお辞儀をした。亜望は疑心を少しだけ捨てようと思った。
     
     村沢がハイタッチの構えを見せる。参考資料の入った紙袋を手から肘の関節にところまでスライドさせて、亜望は応えた。地面はまだ濡れている。
    「これで今後独立できるほどの実力をもつか、そうでないかが分かる仕事だ」
     村沢は、過去の自分の経験をなぞるように、首を上下に何度も振りながら、自分で言い聞かせるように言った。
    《社長、コーポレートメッセージとは正直驚きでした》
    「話してなかった。だって、面白くないだろ」
     至極理にかなっているだろ? といいたげだ。出し抜かれた亜望は釈然としない。
    「事前に知ってしまえば、ネタバレになってしまって何も面白くない」
    彼の普段からの哲学のひとつだ。今の世の中情報の伝達速度が早い。生の感情を抱くことが難しくなっている。オンタイムで喜んだり、泣いたり、ショックを受けたり、うれし涙を流したりなんていう当たり前の感情を、いまの世の中が忘れつつあることを常に危惧している。
    「真琴くんの驚きも良い例だ」ちらりと藤島に同意を求める視線を投げる。「それは、純度100%の裸のままの感情だからな。そういう感情をちゃんと生のまま保存して、読んでくれる人間がそのまますぐに解凍できてしまうような―そんな鮮度みたいなものが、言葉には必要だ」
     沈黙を挟んで肯いた。
    「今回のメッセージを読むのは商品を買う人間だけではないだろ?」
    《他に誰かいるのですか》
     彼はおもしろそうに黙った。
    「決まってるでしょ、ここの社員よ」と藤島が割り込む。
    「その通り」
    「コーポレートメッセージは社訓より大事よ」
    藤島は背筋をピンと伸ばして話す。聴いている亜望は村沢のときより緊張を強いられる。「社員は自分の会社の社訓にプライドをそこまで感じることができないが、自分の会社が外にむけてどういうメッセージを放っているかは、意外に気にしてるものだ」村沢は目を光らせて言った。
     いわゆる対外的な自社ブランドの打ち出し方がダサかったり、まったく実情に裏打ちされない偽善的な言葉には意味がないことだと亜望は理解した。
    仕事は自分に権限がある限りたのしめる。
    揺らぎ始めていたものが胸裏によみがえってきた。にもかかわらず、まだ恐怖心の方が強い。2人を交互に視る。
    《ご期待に添えなくて申し訳ないんですが、まだ早いかと思います》
     主張するには躊躇したが、予想していたよりスムーズに表現できた。
     先の自分の安定した生活が脅かされることのほうが怖い。クビを宣告されることはなくても、自主退職に圧力的にもっていかれるのだけは、もうこりごりだった。
    「勘違いしてるようだな。『まだ早い』なんて、この案件を見逃したらこの次はない」
     村沢が不愉快な声で満足そうに眺めている。
    「いつだって幸福の前髪、不幸の尾ひれ、というところだ。何でも全然自分が準備してないときにやってくる」
     準備が整っていないという言い訳をひっこめ亜望は了解の旨を伝えた。
    「藤島くんも手伝ってくれる。明日返事を聞かせてくれてもかまわない」
     彼は態度を軟化させるようにわざと気軽に言った。
    「ただし、これだけは請け合う。この仕事でこれまで以上に自分のことが分かることになる」
    《どうしてですか》
    「これまでは商品をいかに客観的に客層をマーケティングして書けばよかった。いわば、そういう商品自体のコピーというのは『人格』は必要ない。売りたい層に届けば、それが一番だ――」
    要は、伝わるか伝わらないかの勝負だ。なるべく多くの層の人間に共感してもらえる感覚をもちあわせていることは自覚している。
    「しかしながら、今回の案件は、真琴くんの『人格』が否応なしで出る。しかも、今まで以上に強烈に」
     亜望は、浅倉の話を思い出していた。そして、初めて気づいた。自分以外全員に「試されている」ということを。

     
    東京駅メトロ銀座線・表参道駅から青山通りを東に数分歩くと、村沢早紀(さき)のサロンの看板が見えてくる。好立地に立つビルの4階。サロン激戦区の青山でフラッグシップ店を創業して5年になる。今ではJR表参道駅周辺に1店舗、目黒、渋谷、池袋、浜松町、恵比寿、有楽町と合計で8店舗を展開する大盛況をみせていた。
    「森川様、本日は2時間のリラックスコースで予約を社長から承っております」
     外はバケツをひっくり返したような大雨で、東京の人間全員が雨に制限された言動をしているというのに、受付嬢のヘアスタイルは一点の乱れもない。その輝くようなきめ細かな白い肌に化粧はうっすらとのり、ファンデーションの壊(くず)れはどこにもない。泰平は思わず、その白さに息をのんだ。
    「すみません。道が混んでるようで、30分前に出先からタクシーに乗ったとは連絡がこちらにあったのですが……申し訳ありません。先にお部屋に通しておくよう言われておりますので。お部屋ご案内いたします」
     彼女の後ろの時計に目をやる。
    「あいかわらず社長忙しいみたいだね」
    「お陰様で村沢は講演後の取材や質問が相次いだようでして――」
    ふと、今日は銀座の公民館で講演だったことを思い出した。泰平は3日前に直接メールで知らされていたのを忘れていた。「今日のことだったのか」と内心つぶやく。
     後頭部で小さな団子をシュシュで止め、前髪はきっちりと左のサイドに向かって流され左耳の斜め上あたりでピタッと流れてヘアピンで止めている。濃い襟足の遅れ毛がなんとも成熟の一歩手前の瑞々しさの最後の滴を宿した優艶さと共犯している。
     泰平は、下の毛を想像していることに気づかれないようになるべく性とは遠い話題を振った。
     話を聞きながら泰平は悟られないように桂木(かつらぎ)早苗(さなえ)という名の受付嬢の顔のパーツを観察する。目は薄めのアイシャドウがアイホールに広めにのっており、一方白のアイシャドウが涙袋にしっかりとのせられており、目尻には濃いブラウンがのっている。そして、黒のアイライナーが太めに目じりの先の下までひかれておりタレ目が際立つ。
    「さっきから気になってたんですが、あいかわらずおしゃれですねーそのネクタイすごくかわいいです。憧れなんですよ。ここで働いてる女子たちの間では、森川さんは」
    褒められているネクタイは婚約者が選んだ。
    それから彼女はダイエットも本やDVDを購入してはすぐ止めること。料理の学校も明日から明日からと先延ばしにしていること。ハーブの苗もすぐ枯らしてしまうことなどを、雲の流れのように緩慢な声調と溶溶(ようよう)たる抑揚の言葉遣いで喋った。「女子力低いんですよね」とぼそっと言ったあと、またくすくす笑う。アニメーションのような笑い方だと、泰平は思った。
    自動扉の音がした。早紀が戻ってきたようだ。  
    ――安心している場所と、不満な場所が心の中で衝立もなく混ぜ合わさる。後ろめたいと思いながら自分と向き合っていることにどこかで我慢がならなかった。その困惑が同時に愉快だった……。
     じめっとした車内の空気を消し飛ばそうと、早紀は左フロントシートに乗り、冷房をマックスで一気にかける。そのまま駐車場を出た。帰り道、地面に大量に舞い散った青緑の葉を自動車で轢いていくぐらいの罪の意識しか泰平は持ち合わせていなかった。
     
    いつもより落ち着かない。部屋が知らぬ間に違う主に憑依されたように無愛想だ。無地のシャツをベッドの上に脱ぎ捨て、クローゼットにベストを掛ける。香水の残り香を感じると、瞬間的に扉を閉めた。時計の針は10時近くになっていた。
    早紀のサロンから自宅まで東名高速道路の連結する首都高速3号渋谷線を利用すれば30分ほどで到着する。それにもかかわらず1時間ほどかかったのは、メフィストの工房(サロン)を訪れたからだ。住所通り訪れてみたのだが、1階のエレベーターの利用方法がわからなかった。待ってみることにした。が、他にビルに入っているテナントからの人の移動もない。仕方なくしばらしくして2人は車に乗り込んだ。
     シャツを洗濯機に放り投げる。洗面所で念入りに顔を洗う。洗顔剤の濃い香料が、もうさっきまでの燻っていた罪の意識をもみ消した。
    成功した……鏡に映る男を軽蔑と尊敬のまなざしで見た。よくここまできた。もう少し。まだまだ成功したい。
    マンションのインターホンに呼ばれる。午後10時37分。「おまたせ」天真爛漫な笑顔をみた瞬間だった。泰平は一気に服を脱がせた。
    レースのカーテンの模様の間から漏れる月明かりが、2人の裸体にまだらな影をつくる。 
    日付が替わるまで抱きしめたのは、三日月の下の顔のない誰かだ。
     

     
    仕事を引き受けてから1週間が過ぎようとしていた。焦る気持ちが亜望の顔に色濃く出ている。必要以上に緊張しているのか、なかなか言葉が降りてこない。気負い過ぎなのかと思い、リフレッシュの方法に頭を巡らす。
    ふと亜望はパソコンを起動した。ココアを一口すすってから、記憶の片隅をたたく。長方形の箱の中に「湊(みなと)朋美(ともみ)」という文字を打ち込んだ。
     スクロールしていくと、朦朧(おぼろげ)に覚えていた記憶とつながるサイトがある。確証を得るために、しばらくホームページ閲覧する。スタッフとチャットできるようにデザインしてあるので、利用してみることにする。
    チャットを送ると、すぐに返事がきた。しかも彼女からだ。
    ――しばらくやりとりした後、再会の場所と時間が決まった。
    寝る前ゆっくりと頭の中で悪戦苦想(シミュレーション)をする。縁(しがらみ)の濃淡で人間関係の期間は定まるとしても、女友達は気を使わなくなったら終わりだというのは、これまでドラマや映画でよく描かれてきたが、唯一誇張していないテーマだと亜望は思う。
    男性との密度の濃い関係を女性とも持てることはあまり知られていない。これは意外に重要なことだ。自分を補完してくれるような女性。自分にないものを埋めてくれる女性。そういう友達がいれば男性などは必要ない。
    「アートの方だけど、社長に、なるべく競合と似せるようにしてくれって言われてるけど、そうするとわたしの仕事は、ほぼこれで終わったことになるけど、いいかしら」
     藤島は有無を言わさぬ態度で報告調で言う。
    《えっと、社長が言ったんですか、競合先に似せろって》
     挑戦状をたたきつけられた気がした。おそらく、社長の考えでは、アートの違いで逃げるなというメッセージであり、コピーライティングのボディーを含め言葉で勝負しろと言われているに違いない。
     もちろん、悲観するべき条件ばかりではない。新聞全頁広告(全15段の大きさ)なので、注目率は高くはなる。しかも、大手のコーポレートなのでなおさらだ。しかし、ホームページや電波やCMに乗るわけでもなければ人気雑誌に掲載されるわけでもない。人々が行きかう駅や電車の中刷り広告でもないのだ。「相手」は印刷媒体の大御所の新聞だ。
    新聞を読む人の中では、広告欄に目を止める人は約20%。その中で、キャッチフレーズで目を止める人が同じ20%。さらにその中でボディコピーまで読む人が20%いる。という話を、村沢は道西エステート・コーポレーションからの帰り際話した。ということは、単純計算で、100人分を読んでいて、広告を読む人間は20人。そして、キャッチフレーズを読む人間は4人。ボディコピーを読む人間は0・8人ということになる。つまり100人に1人読むかどうかだ。それなのに……。
    イメージを醸造するためのコピーなのに、イメージが陳腐ということは、どんなコピーも陳腐なものとなるということではないのか。
    良いデザインから、悪いコピーが生まれることはあっても、悪いイメージから、良いコピーは生まれない―これがこの業界の智識だ。
    怒りと焦りがごちゃまぜになった風呂につかっている気分だった。
     考えがまとまらず、黙ったままでいると。藤島が苛々しながら話しかける。
    「で、これでいいのね? ここに置いとくわよ、あとは、あなたが責任持って進行させてちょうだい。わたしは、これからクライアントの個展に顔出してくるから、今日はそのまま直帰するからね」
    《分かりました、お気をつけて》
    「言われなくても、気をつけるわよ」
     自分の考えに集中を戻す。
     アートがかぶるということは、基本的にきれいか爽やかなタレントをイメージにしてもコーポレートの想起率はあがらないことになる。アートはいいとして、とりあえずメッセージを考える。
    会社の「今」とは何? 「社会問題」は何? 
    単純に売るために、商品やサービスの良い面だけをコピーライティングする場合、やり方は3通りある。
    1つ目は、単純な論理的アピール。
    原因と結果を明確にしながらそのサービスや商品の必要性を相手に納得させていく。必要なことは、論破をされないだけの重要性をアピールすることだ。
    コピーライターは「例示」を説明することで「主張」を支持すると思い込んでいる。これは至極当たり前のことで、自分の主張をどういう例が支持してくれるかを考えているわけだから、その例が見つかった瞬間、ほぼ説明不要の例示が出てくることになる。しかしながら、亜望はここで敢えて、必ず「例示」がどのように「支持するべく例示」に見えるかをなるべく説明口調にならない程度に手短に織り込むようにしている。つまり、「例示」は自らを「例示」だとは説明できない。なので、ちゃんと「主張」に寄り添えるかどうかを説明してあげるのだ。要するに、相手に期待していない―だからこそちゃんと分かるように説明する。
    2つ目が、国民性へのアピール。
    いかに自分が書いてきたことが重要な結果につながるか―そこで拡大して社会問題の解決になることをアピールするわけだ。「人種問題を解決することがどう重要なのか」という問いに対して、それが「人間的に正しいから、倫理にのっとっているから」と至極当たり前の正論を人は嫌う。日本人独自がもつ、集団アイデンティティに訴えかけるようなアピールにつながれば、これが2つ目のアピール方法になる。
    たとえば、日本はものづくりの国、アニメの国、健康大国、高度な科学秘術、和食、犯罪率の低さ、などという日本人ならば誰もが誇りに思っていることが、現存している問題により脅かされてしまうというアピールをするのだ。アメリカのようにそこまで憲法というものにたいして日本人は自分との間に結束をみつけられないし、神話や聖書に明るいわけでもない。そうすると団塊の世代、「戦後」というノスタルジックな集団アイデンティティを刺激するような言葉を演出して、アピールする。この2つ目の方法は介護老人ホームのコピーライティングで使用した。
    最後の3つ目が森川泰平の会社のコピー。
    彼の会社のコピーライティングは相手の感情に訴えかけるようなアピールなので一番楽なものだった。つまり、喜怒哀楽、特に悔しいとかマイナスの感情を代弁することで、相手の感情と同目線に立ち、一気に解決していこうぜ、というような女性ならば誰もが好きなサクセス・ストーリーを先取りするのだ。
    コーポレートメッセージはこういう合わせ技が、全く下敷きとして持っていないものが必要とされる。分かっていても、自分ができるのは3種類であることに内心苛立つ。仕事がはかどらずまた就業時間が終わった。
     
    1週間後の水曜日。梅雨晴れの日に亜望は朋美と待ち合わせをした。
    夕暮れ時。JR日暮里駅で降りてから千駄木方面へ歩く。徒歩5分の谷中銀座は食品・服飾・飲み所、生花店などが立ち並ぶ。長屋のように所狭しと並んでいて、買い物客や仕事終わりのビジネスマンたちで賑わっていた。
    濃密に軒先にならぶネオンや提灯は悠長に街と人に溶け込んでいる。清々しい。少しだけ背筋を伸ばして顔をあげて歩きたくなるような街で、風情ある河原や愛嬌たっぷりの太い異性のいい女性の声が響く。
    衒いのない大人のカジュアルな店がいいからと、メキシカン料理とテキーラが飲める女子でも入りやすい店を選んだ。
    予定時間の5分前に亜望は店の前に到着した。案の定相手が遅れることは分かっていた。
    しばらくすると携帯電話のバイブが鳴った
    《ごめん、ちょっと待ってて!》
    ―それから約15分。川の下流の水面近くを直線的に飛んでいる鳥のように、すり足気味で彼女が亜望のもとへ直進してきた。ピンクベージュのひざ下までのスカートがふんわりと跳ねる。
    「ごめん!」亜望の目をしっかりとみつめて右手を顔の前に持ってきて、そのあと、同じ言葉を早口で翡翠が鳴くように5回繰り返す。深々と頭を下げると後頭部でくしゃっとした髪の毛先がふわりと揺れた。
    亜望は象牙細工のように目を細めてほほ笑んだ。眼輪筋を久しく使っていなかったので、ほほ笑んだあと、少し目じりがつっぱるような違和感は覚えたぐらいだ。
    店に入って予約名を店員にみせると、角のテーブルに通された。ビールを2杯注文する。乾杯すると、彼女の首元の細いチェーンのネックレスの王冠のチャームがぷるるんと揺れる。亜望は半分まで一気に飲み干すと、頭の中で賑やかなひらひらした音がなり、下町の仲間入りを果たした。
    暑くなってきたようで、彼女は手首をさらにまくった。一層露出部分が増える。
     亜望と彼女は2人で仕事で貯金したお金を飛行機が安くなる時期を見計らってヨーロッパ旅行を慣行した。バックパッカーに近い状況だった。というのも、宿はその日泊まれるところに殴り込むように安く泊まっていたからだ。イギリス観光したあとは、そのまま電車とバスを乗り継いで南仏のコートダジュールを観光し、スペインを訪れた。最後にイギリスに戻ってくる。11日間の旅程を汲んだ旅だった。
    「ねえ、今度うちのヨガくる? くる? きてみたらどうかな」
    少し考えてから亜望は参加する意志を伝えた。
    それから1時間後に会はお開きとなった。
    日中の雨は止んでいるが微かに霧がかかっている。火照った顔には丁度いい小糠雨(ミスト)だが、次第に無断で丸い鼻先を誰かに撫でられているようでくすぐったい。
    マンションのメインエントランスにつづくコリドーを渡りながら携帯をバックから素早く取り出し、画面をみて、指を動かす。《ごちそうさまでした! 今日はすごくたのしかったです! ヨガ、今度絶対行きますね!》
    突然、背中で自動扉が起動する音がした。コツンコツンとヒールの音がマンションのフローリングの大理石に響く―。
     やがて人の影が大理石の上に落され、亜望の足に被さった。抜け出したくても抜け出せないような物言わぬ影が生きもののように、両くるぶしをつかんで離さない。
    少し間をおいてから斜にかまえて振り向く。ゆっくりと目線を両足から影の大元まで上げた。そこには女性が立っていた。
    「久しぶり。え、ちょっと前より太ったんじゃない? 皺もちょっと増えたよね」
    影が喋っていた。その影は亜望の顔を覗き込むように前傾姿勢になっていた。
    低く亜望を支配しようと意気込んで選ばれた声色のように、そこには白石(しらいし)菖(あやめ)、旧姓不動田(ふどうだ)がまさしく不動明王のように仁王立ちしていた。
    相手の名前を胸の中でつぶやくのがやっとだった。驚きからではない。ただただ、波立つ未来が先に見えてしまった気がしたからだ―手足を縛られて、口にはガムテープが貼られて、ただただ自分の中の自分を諦めていく。空気が刃物のように耀(ひか)りながら、亜望の胸にじりじりと突き刺さった。
     
    話は前の職場に亜望が務めている頃にさかのぼる。季節は梅雨の頃の6月末。
    「雨だねーこりゃ、やみそうにないな。昨日より一段と強く降ってる」
    白石秀弼(えいすけ)がスラックスの裾を前屈みで折り曲げながら言った。
    どうしても婚約者のことで相談したいことがあるからと言われたので、渋々付き合ったのはいいが、彼から婚約者の悩みなど一度も出なかった。
    《ごちそうさまでした》
    「ちょっとこれはまずいから雨宿りしていこう」
    《いや、今日は帰ります。ごちそうさまでした》
    送り梅雨と酒と既婚者の三拍子が揃ったら、いくら抗ったところで「理性」から伸びた手足は剪伐される。残った肢体は這うように脱皮を図るほかなかった。
     ――ベッドで眠る男を無視して、鏡の前で最低限のメイクだけして、髪を整えた。ロングスカート風キュロットパンツをベッドの下から拾い上げると、気分がさらに萎えた。普段は着ない白だったからだ。細ピッチのストライプ柄のローン素材を利用したブラウスも白なのは、梅雨が最盛期を迎える時期で、雨の降り方はあまり強くはないが、カビが喜ぶくらいのじめじめした天気が続いたからだった。おかげで、生乾きの臭いが大嫌いな亜望はここ数日ドライ洗濯が停滞していた。
    フェイスラインから鎖骨のライン、腕から脇腹のライン。あばらからウエストのラインへと視線を這わせて、自分という恥ずかしい生き物がきちんと白の洋服に隠されているかどうかを確認して部屋を出た。
    水の滴る傘はまだ扉に寄りかかって濡れていた。
    菖の結婚式は亜望と彼がホテルに行ってから、青山・表参道のゲストハウスで2週間後に執り行われた。純白の高級ウェディングドレスにお色直しは怒涛の3回。ただ食事がすこぶるおいしくなかった。
    事件が起こったのは、ゲストハウスの更衣室で普段着に着替えた後、2次会への参加を断り、気分転換に映画を見に行く途中だった。
    翌日会社を休んだ。
    病院で医者に言われたのは妊娠2ヶ月。間違いなく相手は秀弼だった。
    そこからの亜望の決断は早かった。退職届を出し、過去から逃げ出すように仕事を辞めようとした。それ以来タバコをやめていた。毎晩眠れず、転職活動をできる状態ではなかった。中絶するのが当然だが……そんな簡単な決断がなぜか取れない自分を痛めつけるために自分の手をライターの火で炙ってみたり、頭を壁に狂ったようにぶつけてみたりした。
    2週間後にようやく意志が決まって病院に行くと、すでに心音は聞こえなかった。
     

     
    スタジオの名前《anela》とはハワイ語で「天使」を意味するらしい。甘酸っぱい体臭と無味無臭の銀イオン。亜望の心臓が脈々と動く―。
    「それでは胡座をかきます。座骨を立たせて、頭は天井に糸でひっぱられるようにして、あごは少し引きます。目は斜め遠くを見て、落ち着いたら、徐々に目を閉じていきます」
    普段ストレッチをまったくしない肋間神経痛持ちにはこのポーズだけですでに肋骨の辺りに痛みが走った。
    着替え終わってロビーで待っていると、朋美がカウンター左のオフィスから出てくる。亜望はバックから財布と銀行通帳を取り出してカウンターで入会申込書に記入した。ひと月で1万円は高いと思ったが、もとをとろうと思って自分のことだから必死に通うだろうと思いなおした。
    スタジオのすぐ近くのオープンテラスカフェで、亜望は風にあたりながらアイスコーヒーで一息ついていると、向いあわせに男が座った。亜望は驚く暇がなかったくらいだった。
    背格好さえ上々だが、顔は暗いし、笑顔がない。太くて短めの眉も顔の濃さを引き立たせている。どちらかと言えば、西洋的なのに切れ長のしょうゆ顔が亜望の好みだ。ナンパならよそでやって欲しかった。今はそれどころではなく全身に力が入らないのだから。
    朋美が遅れてやってくる―。
    「あれ、亜望ちゃんこの方とお知り合いだったの」
     亜望は躊躇して曖昧に肯いた。
    「どこでお知り合いになられたか聞いても大丈夫かしら。なんか、おばさんになると好奇心だけが強くなっちゃってねぇ」2人を愉しそうに見ている。
    「むかしはこれでも引っ込み思案だったんですよーおほほほ」
     彼に向かって話しかける。
    『パリの空港で、パスポートなくして騒いで……周りに人だかりができるぐらいに。それで、怒られて、でも結局パスポートなしでも飛行機に乗れました』
    「……亜望ちゃんがそんなミスするなんて珍しい! 盗まれたの」
    『でも、どうにかこうにか帰れました』
    日本語には欧米の言語と違う主語が必ずしもいらないから、相手は自由に誤解を楽しめる。亜望は否定するのも面倒だったのでほっとくことにした。探偵のように銃の形をした手を静かにあごのところに向かって、何やら好奇心に餌をあげながら彼女が思考している。
    「で、どうだった? 初めてのホットヨガは。脂肪も燃焼して、血液の流れもよくなってるし、顔色前よりよくなってるみたいだね」
     彼女は丸テーブルの2人の間に座って、ホットのルイボスティーを注文する。
     亜望はくすぐったい思いがした。
    《ほんと温かったね。冬とか最高だと思ったよ。冷え性も治りそう》
     亜望はもともとが貧血で低血圧症なので、冬になると毛布2枚に掛け布団を使う。それでも長時間眠れないこともしばしばだ。
    「ストレスとか更年期で女性ホルモンの分泌が乱れる時期があるから、冷え性が月経困難症とか膀胱炎も誘発しちゃう恐れもあるから、なめないほうがいいよねー」
    亜望の唇がみるみるうちに色をうしなっていく。末端冷え性の亜望には自力で身体の中に「熱」を作ることが得意ではない。それなのにアイスコーヒーを注文してしまった―。
    「やだ……話し過ぎよね」
     亜望は微笑んで首を振った。
    「帰ったらお風呂ゆっくり入ってね。だんだん自分の中で関節操作をうまくできるようになると身体もスパークしやすくなるんだけど」
    手を素早くすりあわせながら彼女の話を聞いていると、彼女はバランスボールや体幹の鍛え方などを愉しそうに話した、彼女は後頭部をみせているので気にはならないが、この2人の会話の間も彼は自然にそこに座っていた。
     そのとき彼女の携帯が鳴った。「ちょっとごめん」といって席をたつ。
    『さっきから、唇の色が紫になってきてるがもしかして寒いのか』
    《あ、大丈夫です》
    『君』といって男性の店員をさして、ブランケットを持ってくるように彼が頼んだ。男性の店員はお世辞にも愛想がいいとは言えない態度で応じる。
    ブランケットか運ばれてくると、すぐに彼は膝の猫のうえにかけた10段ギアの自転車を乗りながらギアを変えるときに響く不協和音のような音をならして2人のテーブルの周りの空気が揺れた。揺れたの鼓動が揺れたのか区別がつかない。2つの理解できないことが、1度に起こって亜望の頭は無秩序状態に陥る。
    『んっ』人差し指を目の前で左右に振った。
    《い、いや……何でも》上がったままフリーズしていた片方の眉を静かに元の位置に戻す。
    少なくとも話しの流れから自分のためにブランケットをとった、と亜望が予想していたのも無理はない。それにいつから……今まで猫なんていなかったはずだ。
    膝の上にひいたブランケットを前足でモミモミしている。高級なじゅうたんでも触るようにして彼はその猫を撫でた。白・茶色・黒の三色をしている三毛猫……オス? メス?
    《メスなの》
    『いいや、オスだ』
     猫好きな亜望は、オスの三毛猫が珍しいことは知っている。しっぽをピクリと動かして、翡翠のような色の眼で亜望を視界に捕らえたようだ。
    『話を替えるが、さっきの話を聞いていると、身体が冷えやすい体質だと思うんだが』
    そう言うと例の鞄の中から二本の瓶をとりだした。
    《……この前のペパーミントですか》
     意識は半分まだ猫に向いている。
    『身体を冷やしたいのか? ペパーミントは身体を冷やすよ。夏の暑い地域でのお風呂とかに入れたり、シャワーをあびるときに下に2、3滴垂らしておくのも気持ちいい。それに、お風呂上がりにペパーミントオイルでヘアマッサージも気持ちがいい』
     三毛猫は今度はメフィストの手首あたりに顔をスリスリとこすりつけている。
    《あの……ごめんなさい。どうしても気になっちゃって。それ、オスの三毛猫なんですよね? すごく珍しい》
    彼は質問には応えず、話を戻す。
    『それでこの2つの瓶だが、こっちがジュニパーでこちらがゼラニウム。ジュニパーを4滴、ゼラニウムを3滴お風呂にいれると身体が温まりやすくなる』
    《ゼラニウムとジュニパー》
    『それは質問? 鸚鵡返ししてるだけなのか』
    《ゼラニウムは聴いたことがあったけど、ジュニパー? それはないなと思って……》
    『このジュニパーのエッセンシャルオイルは果実を低温低圧で水蒸気蒸留して抽出したもので、ヒノキ科の仲間だ。従来の使用方法としては、ジュニパーベリーの束は、中性の時代魔女を追い払うために戸口に掛けられていた――』
     ぐっと興味をそそられて、アイスコーヒーに思わず2つもガムシロップを入れそうになった。
    『ジュニパーは利尿剤として何世紀にもわたって使用されてきた。最近まで、フランスの病棟では、感染から保護するためにジュニパーとローズマリーの小枝を燃やしていた』
    《どんな香りなの》
    何も言わずに彼は瓶を亜望の鼻先に近づける。木のフレッシュな香りだ。
    『あ、ひとつ……君には腎臓には疾患はないね? 診たところ問題なさそうだけど』
    《腎臓? 特にないと思うわ》
    『腎臓に疾患を抱えている人間は使用は避けたほうがいいから』
    《誰にでも効くわけじゃないんだ》
    『そう。芳香だけのためならどれも全て問題ないが、皮膚の中にいれたり、経口摂取する場合は、血液の中にはいって体中を巡るから』
    《なるほどね》
    『ジュニパーはさらに否定的な影響をはねのける力がある……』
     彼は、少しばかり思い出したいことがある、というように、目をぐるりと回した。
    《どうかしました》
    『いや、何でもない。人とか場からネガティブな影響を受けたときにサポートしてくれるから、そういう意味でも入浴時にオイルを入れるのに向いている』
    彼の説明によると、ジュニパーはフランス、イタリア、ハンガリー、カナダが主な産地の常緑樹で、手足の冷え、むくみ、腰痛、強壮、浄化、リウマチ、痛風、坐骨神経痛に効果がある。ジュニパーの実は3年の間に緑から青、そして黒へと色を変える。西洋ネズともよばれお酒のジンの香り付けにも使用される。
    《あと、これゼラニウムでしたっけ》
    『ゼラニウムは―』
    《ちょっとその前に注文しないんですか》亜望彼の話を中断した。彼は無表情で肯く。するともう一度店員を呼んだ。注文するわけでなくただのお湯をくれるように頼んだ。お湯なので「そういうものは置いてません」という逃口上もあるはずもなく、5分ほど血液循環改善と皮脂のバランスを整える効果のあるゼラニウムの説明をしている間に、さきほどの男性店員は、ハーブティーポットにお湯だけいれて嫌そうに持ってきた。
    『―あとは、せっかくこの時代だから科学的に説明すれば、免疫細胞を活性化させ、癌細胞を死滅させる。癌細胞は高温が嫌いだから』
    彼が精油(オイル)を入れたお湯を静かに飲みながらゼラニウムの長い説明を終えた。
    『もし治療ということだったら1年ぐらい週に2回ほど工房(サロン)に通う必要がある』
    自分の時間が拘束される危険性を本能的に察知した亜望は《いや、それは結構です》とはっきりとつっぱねた。
    『じゃあ、今度一度だけ工房(サロン)に来るといい』
    相手に深入りしない態度が蹌踉めく。
    《それならば……》
    『前もってあれこれ考えすぎると、行動する気力が失われる。行動することは一度思考を止めることになるから。穴だらけの大地に一歩を踏み出して、穴におちたら笑えばいいじゃないか。宙を浮くように歩いたって、不安に襲われながら生きるだけだ。現在だけでも生きるのはたいへんなのに、過去の不安や、まだ起きるかどうかもわからないことを心配して生きてもしょうがない』
     彼は悠々と語る。
     執拗な講釈にいい加減亜望は限界だ。《詮索しないでくれますか》
    『何をそんなに狼狽(うろた)えている? 様子が妙だ』
    《狼狽えてるのはそっちでしょ? これが普通だけど。質問の答えになってないし!》
     今度は亜望の番だ。少々僻みっぽい女に映るかもしれないが、この際どうでもいい。
    上着を手に取る。それから二度と会いたくないと胸に誓った。
    空は急に雲行きが怪しくなって、積乱雲に似た雲が頭上に停滞してきている。どどどっと雷が響き、あちこちで、「げ、傘持ってきてないよ」「もうそろそろ出ようか」などと話すグループが見受けられる。やっと朋美が戻ってきた。
    「あのね、ごめんごめん。実は、子供が熱だしたって。このタイミングで申し訳ない」
     帰り支度が済んだ亜望は《大丈夫》とOKサインを作る。彼女が3人分支払ってから、小雨の中走って「また連絡するからね!」と手を振りながらスタジオに戻っていくのを亜望は見送った―。
    『工房(サロン)にはこの猫もいるから、会いたくなったら来るといい』
     小走りでスタジオに戻る彼女の背中を視ながら彼が言う。
    《たぶん、行きません》
    バベルの塔が群れ聳(そび)える都会特有に降る雨は、「雨」とは呼べない。
    ふわふわと降り出す忌々しい水の舞に過ぎないのだ。親水的な人間でさえ、その雨には辟易とする。傘をささなくてもかまわない気もするが、傘をささないとやはり濡れてしまう。しかし、傘をさしても高層ビルに邪魔された雨は横から降ってくる。傘の意味がなくなる。
    『傘、使うかい』
     亜望はタクシーが拾える大通りまで雨の中を避けるように小走りして、そのままタクシーに乗りこんだ。振り返ろうとも思わなかった。
     
    まるで呼吸しているかのような打ち込みの壁に、アースカラーのトーンが優しく包み込んでいる。アートの展覧会のような装いに見えるのは、ガラスとカーテンをすかしたあとに弱まって室内に届く光の演出によるものだろう。零(こぼ)れてくるその光の手腕に亜望は思わず感嘆の息を漏らす。
    妙なことに部屋の両端の窓から太陽の光が部屋の中にこぼれている。おまけに、入り口のドアにある窓から光が部屋の中に降り注いでいる。しかも、キッチン空間から繋がった形で8~10メートル四方の空間が拡がっているにもかかわらずだ。
     太陽が複数個ある次元ならばなんら不思議はない現象だが、亜望は自分を縄でしっかりと常識と社会通念上の良識にしばりつける窮屈さをもってして社会と迎合するよう生きているので、唖然とした面持ちで、肚の底をつっつかれるような心持ちで部屋の中央に進んだ。
     彼女が部屋の中央のソファに腰掛けるように指示されると、視線が変わった状況でもう一度四方を具に観察してみる。大谷石を組んで作られた薪ストーブスペースが彼女の目を釘づけにさせた。各の方向に数秒固まって把握に時間をかける。
    入り口から正面の先の窓の近くのロンドン塔の時計台のようなものが、千手観音のように東西南北全面に時計が重厚にはりこめられている。中でもとりわけ奇妙なのは、地球儀だ。
    薄く茶色がかかった、表面にいくつもの汚れや傷があるが、北米大陸のすぐ東側がアフリカ大陸でさらにその南側にアジア諸国があるといった、その他含めて6つの大陸がまるで人間の脳の小部屋のようにそこに位置している。その前には、アルファベットで、真鍮で作られたインテリアのアルファベットがあり、The Morldと並べてある。WとMが反転しているのだ。奇妙に感じたが、Mの上の部分から鳥の置物がそのままつながってきちんと斜め上を見ていることから、正しい配置だと判断できる。
    屋根裏部屋風のスペースが木の階段を上ったところにあって、吹き抜けに勾配天井の登り梁が走る。そこには黒い女性のくびれのような曲線のハイバックチェアがひっそりと置いてある。
    『どうぞ、好きなところに座って』
     メフィストはそう言うと、ブラウンシュガーのような塊を見たこともないようなまるで魔術道具のような楕円形の網の蓋が上からしてある容器に炭を入れて、その塊を上に置いた。すると煙が立ち昇った。
    《あの、ここは開店して何年ぐらいなの》
     香りには言及せずに訊いた。
    『子供の時に祖母が教えてくれたんだが、16世紀からだ』
    《コレ、変わった絵ね》壁に飾られたカラフルな絵を見て訊いた。
    『剣に記されているのは中世のドイツ語だ』
    彼女が目にしている絵はバルディング・グリエンによる木版画―七つの大罪。そのほか、所狭しとギュスターブ・ドレの木版画や、ロシアの画家コンスタンティン・ソモフの「夏の夢」、鍵の束をフクロウの置物が口にくわえていたりする。
    『フランスでは何を』
     予期せぬ質問を、初めて見るようなインテリアに放射状の注意をもっていかれている最中に浴びたので、必要以上に―まるで疚(やま)しいことでもしていたかのように―彼女は驚いてしまった。
     急いで取り繕うように、人差し指を顔の前で天井に向かって伸ばす。
    『何かの研究や魔法使いの修行にも見えないし、芸術家にもみえなかった』
    《そういう理由じゃないとフランスに外国人が訪れちゃいけないの》
     道路側の窓から差し込む光を眩しそうに手で避ける。
    『ほかに理由が』
    《もういい。苛々してくるから》
    『屋上に行ってみよう』
    メフィストの提案に口をあんぐりさせる。伝わらないもどかしさを通り越えて、清々しいほどに不愉快さが増したように笑った。
    そんな彼女の返事も待たずに、来るときに乗ったエレベーターに向かう。好奇心の誘惑に勝てずに、矢も盾もたまらず静かに後を追いかける。急な階段を数段上がると、屋上に続く非常口の重たい扉を開ける―。現実と地続きな景色たちは悉(ことごと)く身を隠した。
    絹で囲われた別世界の体験が、その細い糸で亜望を包(くる)み、飲み込む。目に飛び込んできたのは魔法の絨毯が敷かれたような一面のハーブ畑だった。
    建物の中に入ってくるときには想像もつかなかった。屋上の形からみるとビルはコの字型をしている。昨晩の雨の残りで湿っていた空気が、次第に強さを増してきた太陽の光に乾かされ、目の前の花やハーブたちの葉が光のプリズムを作っている。
    小型のビニールハウスの中では、果実が成る木々が十分に生育しており、故郷の小学生時代によくいった桃狩りを思い出す。素人目と鼻で判断しても、ローズマリー、ミント系、グレープフルーツだろうか、ラベンダーにバラなどいくつものハーブが育っている。ハーブとハーブの間には、日よけと雨傘を兼用しているガーデンパラソルがオープンのエリアとクローズのエリアに分かれている。おそらく植物の特性をいかしての配慮だろうと想像した。
     しかも、さらに不思議なことに、四方八方に太陽を遮るものがなく、そして窓という窓がビルというビルが視界の範囲に入ってこない。
     2人が立っている位置は誰の視界にもはいることはないのだ。それは、おそらく衛星で見ても2人のいる世界は見つけられないかもしれない。誰も、勝手に見ることが許されないような秘密の庭―エデンの園―。
     目一杯四季の移り変わり―季節の万華―を愉しみながら自然を相手にして生きているのだろう、と亜望は千朶万朶(プロフュージョン)のハーブたちを心の中で想像した。
    一体、なんて名前をつけたらいいんだろうか……。草花たちを触れながら、感じたことも分類化もできない感情に手古摺(てこず)る。ふと、共感を覚える―ずっと前からこうして変わらず生きている、そんな時間を越えて、きっと、自分よりも年齢が古い植物たちが生きているのではないか……。
    亜望がゆっくりとかみしめている間、一方メフィストは黙って亜望をおいて、Myrtuscommunis、というカードが差し込まれたハーブの香りを嗅いでいる。
    彼と目があうと、『こっちへ』と目で合図された。亜望は素直に歩いていく。
    『マートルだよ。愛の女神アフロディーテ……あいつのママ……じゃなくて、クピドーの母親の神木とされている』
    《どこかで聞いたことがあるような。結婚式のリースに使われるやつだっけ?》
    『その通り』彼が感心した様子で言った。
    『これが。ベルガモットミント、こっちが、ミント・マリーゴールド、これが、スペアミント、そしてこれがアルベンシスミント、これが、あっ……』
    亜望はミントに近づけていた顔を戻して、彼の目線を自分も追ってみる。すると、カフェで会った猫がぽつんと小さなラベンダーンブルーの色をした小さな花が穂状に咲く植物のところで沐浴の最中だ。
    自分の前足で頭をこする猫ならではの仕草に落ちてしまいそうだ。
    『それは、ラベンダーに花が似ているが、ブルーキャットミント。ほかのミントと違って、ハーブティーやハーブウォーターや精油(オイル)には蒸留できない観賞用だ。まぁ、その猫のため、というところだな』
    《この猫、ほんとかわいいぃ! このおてての肉球がもうたまらなぁい》
    『君はハーブより猫か……』
    《猫の方が癒される》
     すると彼は立ち上がり、グリーンの光沢が施してあるガラス製の霧吹き器をとりだして、ハーブに散布しはじめた。
    『目に入ったら危険だからその猫をつれて風下はさけて、あそこのベンチにでもすわっておいて欲しい』
     亜望は可笑しいくらいに厳かに猫をだきしてめてベンチに避難した。
     初めて抱き上げられる相手なのに猫はおとしなくなされるがままだ。亜望の胸に抱かれるのに任しているように見える。両手で抱きかかえて自分の顔のところに猫の顔を近づけると、猫は亜望の口のところに鼻をちょこんとくっつける。
     しゅっつしゅっしゅっ。しゅっしゅっしゅっ。ふわっ。猫の耳がぴくりと動く。亜望の鼻も。農薬にしては嫌な香りひとつしない。むしろ良い香りがしてくる。
     亜望は相手に気づかれるようにベンチで大きく2、3度手を振ってから問いかける。
    《それ、農薬じゃないの》
    『農薬』彼は意外そうな顔をした。 
    『農薬は少しは使うが、これは農薬ではなくて虫除けだよ』
    《虫除けなんだ。なんかスパイシーな香りただよってきたから。なんだろ、香辛料みたいな……甘さもある……シナモンみたいな》
    『鼻がいい。この中には、シナモン、グローブ、ローズマリー、ユーカリラディアータ、オレガノのエッセンシャルオイルをブレンドしたものがミネラルウォターに入っている』
    《へぇ、そんなことにも効くんだ》
    『グローブにはふさぎこんでいる気持ちを開放する効果がある。その点に関しては、ジンジャーやシナモンバークなどおスパイシー系はそういう効果がある』
     彼は、足下にしっぽをピンと立たせて近づいてきた猫を抱きかかえて、グローブの説明を続けた。グローブは、ペストの蔓延した15世紀に死体や死にかかった人から物を奪った盗賊が身を守るために使用したらしい。
    《あと、ユーカリなんとか、とか、普通のユーカリと違うの》
    『ユーカリには、主に、ユーカリグロビュラス、ユーカリシトリオデラ――あそこのあたりがそのエリアだ』
     そう言って、彼が、屋上の手すり付近の一画を指さす。亜望はその方向に目をやる。そしてまた目を彼の指に戻す。なかなか綺麗な指だ。
    《あ、はい。行ってくる》
     指図されるがままトコトコ歩いた。跪くと、いろいろな種類の葉があり、そのどれもが同じようで違う香りだし、同じようで違う葉を揃えている。
     雲が差してきた空の下で亜望は小学生の女の子のように観察した。
    『そろそろ下にいこう』
     しばらく経った後、彼は亜望の背中を優しく叩いた。
     
     だれか人の気配―。 
     女性が工房(サロン)の扉の前で待っている。髪の色や後ろのシルエットの肉付きからスリムで、しかも見られる仕事をしていることがありありとイメージできる。
    「あ、お待ちしておりました」
    メフィストをみて彼女は弾けそうな笑顔を向ける。
    「あっ、先約でしたか、出直した方がよければ出直し……たいところなんですが……」
    『あーあなたか。例と同じものを』
    「はい! 宜しくお願いできますか」溌剌と応える。
    『まず中へ』
     彼は奥のもうひとつの部屋に足音も立てずに進み、それからしばらく出てこなかった。
     彼女は勝手知ったるのか、椅子にも座らず、ずっと、部屋中にあるインテリアを感慨深く見入っている。しかたがないので亜望も真似をした。そうやって「何かしている人」になることで初対面の警戒心を忘れようとした。
     ――ようやく彼はドアから入ってきた。数分この部屋に不在だっただけで、彼が入った瞬間この部屋には安堵と緊張にいりまじった空気に感じられる。
    『それでは、これで』
    「ありがとうございます。お代はいつものような形でお支払いしますので、しばらくお待ちください」
     今度は嫋やかに微笑んだ。扉へと向かう。
    「それでは、失礼します」と言って部屋をあとにした。亜望は、一度彼の方を向いてから、自然と足を扉の方向に向ける。足音をわざと立てながら進む。とんとんと肩を叩いた。彼女が振り返る。
    「何か」
     偶然にしても薄気味悪い。超越した確率だと亜望は内心驚く。
    《失礼ですが、ここにはよく来られるんですか》
    「今日が3度目です」
    《わたし、今日初めて来ました》
    「素敵でしょう」
     工房(サロン)の中のことだと目配せする。
    《これから精油(オイル)を見せてもらって、ブレンドしてもらおうかと》
     わざわざ打ち明けたのは、情報を集めるためだ。
    「まぁ、それはすてき!」
    薄いグリーンの瞳がきらりとひかる。むくむくっと肩を揺する。深まるグリーンの視線が亜望だけに向けられると、息が止まりそうになった。
    広めの額からアッシュとブラウンが混じったような色のセミロングの髪。くせ毛のようにウェーブしている。両肩にちょこんと乗る。幼く見えるのは髪型のせいだろうか。
    「私、先週が初めてでした。最初は祖母のお遣いでここに来たんですが、今週は私のためだけの調合されたものを受け取りにきまして」
    《そうなんですか、ずいぶんと昔からここはあるんですよね》
    「場所や佇まいは変わっていますが、ずいぶんと前からですよ。おそらく何世紀も」
     亜望は、メフィストが昔の世紀のことを話すたびに少し違和感を感じていたのを思い出す。歴史を話している、というようではなく、つい最近その世紀を生きてきたかのような語りぶりだからだ。
    「上から降りてきたようですが、上には何があるんですか」
    《え? 行かれたことは》思いがけない質問にドキっとした。
    「そんな、とんでもない。【恵まれた方】しかおそらく彼は通しませんよ」
    きょとん。一瞬目を疑った。読みまちがいだろうかと目を擦った。
    【恵まれた方】という言葉に内心動揺する。その動揺は亜望の心臓からなかなか離れてくれない。その意味に思いを巡らせるほど冷静ではなくなってきた。
    「恐れることはありません」亜望は彼女の言葉にはっと我に返った。「彼と出会うこと自体が、流星群をみるよりも可能性の低いことだと、祖母から聞かされています。【運命の魔法使い】とは、そんなに頻繁には出会わない方がいいですもんね」
     まるで疑いのない共通項を話しているような、投げっぱなしな言い方だ。情報が足りない。もう少しつっこんだ質問がしたい。だけど、初対面でそれは失礼だろうかと二の足を踏んだ。亜望はとりあえず無邪気な質問をぶつけてみることにした。
    《何ですか? 【運命の魔法使い】って》
    「祖母から聴いた話です」彼女は懐かしむような表情をみせると、頬のあたりがほんのり薄紅色になって少女性がぐっと増した。
    「本当かどうかは定かではありませんが、寓話のようなものだと信じています。子供にベッドタイムストーリーとして話すと、わくわくして逆に眠れなくなったこともあるので、子供へのお話には向いていないかもしれませんね」
    亜望は応え方が分からないので、神経質な笑顔をただ浮かべるだけだった。
    「あ、すみません、そろそろ私、下で車を待たせていますので、これで失礼します」
     そう言うと、彼女は優雅に笑った。実にいろいろな笑顔ができる女性のようだ。
    《あ、こちらこそ呼び止めてすみませんでした》
    「いいえ、お話できてこちらもよかったです。前からお話ししてみたかったものですから」
     初対面にはおよそ似つかわしくない様子で彼女は言った。
    エレベーターを使わず脇の螺旋階段で下へと降りる。幾何学的なつくりに目をみはっていると、ふっとどこかに吸い込まれるようにその女性は消えた。
    迷い込んだかな……。それが心臓から動揺が離れてくれる最後の自分への説得の文句だった。ようやく解放されたとほっとすると、溜めていたのだろうか、一気に軽い眩暈を覚えて、胸を手で押さえながら深呼吸する。
    彼女は外はまだ明るいというのに光がまったく浸透していないその階段で、一度亜望の方を振り返り手を振った。亜望も反射的に振り返した。慈悲深い笑顔が、およそ育ちのよさそうな、気品には不釣り合いな暗がりで、神々しく輝きを放ったように見えた。2人の間に急にすとんと奥ゆかしい障子が閉じられたようだった。
     
     
     
    17歳……。細く断続的に組み替えられる「年齢」。逃水(にげみず)のような「現象」に近い。
    村沢橙夏(とうか)は、カッターで縁切りしたかのような気難しい遮断をもってして呟いた。そこはかと現実味を帯びない。
    16歳……。ある種の業界で働く人間のように、年を重ねることがしゃくにさわる。鉄が打たれる音とシンナーの臭いででふと我に返ると、暖簾分けした苦々しい感情が今度は外の熱気に向かった。
    6月末。香港。冷房の効き過ぎた地下鉄に揺られ、石柱の婚姻石で恋愛成就アップを狙って女子4人で参拝後、橙夏たちは中環(セントラル)から尖沙咀(チムサーチョイ)にようやく到着した。地上に出て歩いていても、寒さは皮膚の中に残っている。芯から冷えた。橙夏はバックパックから上着のパーカーを取り出して肩を竦めながら羽織り、隣のレイチェルの腕にしがみついて暖をとろうとしている。
    MTR尖沙咀(チムサーチョイ)駅A1出口から外に出る。雑多な海防道を渡り、西へ歩き、2本目の漢口道に入り、50メートルほど4人で歩いていた。
    「ヘイ、マイレイディーズ」統率する高鍋(たかなべ)望埜(のあ)が3人の顔色(きもち)を視ることなく、居丈高に声をかけた。「ここにしよう。もう腹減ってマジでヤバいしね」目から鼻へ抜けるように額にこびりつく前髪を指の腹で数回左右に振って、ふわりとさせた。
    「そうだね」
    一同が過酷な冷房の反応として、鼻水をすする。寸分違わぬ同種類の口角の緯度を保ったまま、同意の証として器用に笑顔を作ってみせる。まるで、『笑え』というボードを、望埜の後ろで誰かもうひとりの彼女が上げているような、引きつった笑いだ。中国系アメリカ人のレイチェルが、隣のタイ出身のパットの左手に自分の腕を絡ませながら賛同する。2人とも身体のラインがはっきりと見えるピンクと緑のポロシャツの襟を立て、まるで孔雀の雄と雌のように番(つが)いになって離れないでいる。
    彼女たちの腕にはお揃いの緑色に光るものが見える。翡翠のブレスレット。上空の白縹の雲よりも重く同調圧力(ピア・プレッシャー)が両肩にのしかかった。
    ほぼ満席で活気のある店内のガラス鏡が壁に敷き詰められたエリアに通された。点心の蒸しに蒸された香しい匂いが充満している。テーブルに着くと、早速、麺とマンゴープリンを注文する。すぐさま望埜はポータブルデバイスをテーブルに出し、昨夜たまたまヒットしたというファッションコーディネーターのサイトの悪口をまくし立て始めた。
    そもそも、橙夏の父親にボーディンスクールを提案してきたのが家族ぐるみでつきあいのあったこの望埜の父親だった。2人は東京の大学の1学年先輩と後輩にあたる。よく、橙夏の父が当時、金のない高鍋をよく世話していたようだ。
    「ねえ、橙夏。これ、アレじゃない」望埜が嘲笑を浮かべる。悪口に違いない。
    「ウザイよね。貧乏くさい顔。というか、東京でがんばってますって感じ」
    尻上がりで語尾が伸びるような口調は、彼女の歪んだ優越感と嘲りの象徴だ。甘噛みするように対象の相手をしがむのを常としている。飽きたら吐き出す気だ。
    「もう大学決めたの」
     意図的に話を替える。
    「このままアメリカにするか、でもやっぱり田舎はもうたくさん! やっぱり東京が一番いいよね。住みやすいし。マジで都会だしさ」
     とりあえず別れられればどこでもいい。
    「学校のアカデミックアドバイザーに紹介したら、やっぱ、アメリカのカレッジが望埜にはフィットするって。でもねー、別に普通にイケるとは思うけど、もう3年間ボーディングで缶詰だったから日本でアソビまくりたいよね! でも、そうするとジェフが寂しがるからさ。日本来るとか言ってんのよ」
    「スウィート」
    「ウェイト! 全然スウィートじゃないし、マジでちょいスプーキーでしょ」
    束縛を予想してせっかく離れているのだから自由に遊びたいという意思が見え隠れする。
    「確かに、そうだねー」
     橙夏は同意を示さなければ話がこじれると思った。
    「かなりジェラスなんだけど」
    「なんで」
    「レイチェルよ。知らないの? 世界をほとんど牛耳ってるのって実は中国人だって」
     気づかれないように、彼女は舌打ちをしながらレイチェルを視た。
    「マジでアンフェアだわ。ほんとヤバいくらいありえない」
    「すごい」橙夏は意味もわからず太鼓を持った。
    「トレーダーとしてなかなか儲かってるってさ。ママが言ってたから。つまんないの。権力がないからね。逆に政治家って言うのは権力はあるけど、お金はそんなに稼ぐ才能なんてないから。頭悪いし。だからタッグ組んだら最強なのよねー」
     意味もわからず肯く。
    「レイチェルみたいにSATとかTOEFLを家庭教師をオンラインでつけて勉強とかできないし。一応帰国したら通うんだけど、橙夏も一緒にいかない? パパに話しとくけど」
    彼女がパソコンのキーボードを打ち始める。父親へのメッセージだろう。
    「橙夏は病気で学校休むわりにはGPAも悪くないでしょ? まじムカつくわー」
    「いや、ちゃんと勉強してるから」
     鳩が豆鉄砲を食ったような顔を望埜が浮かべる。
    「ウェイト! 何? ウチが勉強してないって意味!?」
    修正するのがもう遅そうだ。
    「マジで、何を知ってんの!? 調子乗んないでくれる? マジありえないんだけど……」
    「いや、そんなこと言ってないよ。望埜がバカにするからだよ!」橙夏は啖呵を切るような口調で言った。想いとは裏腹な行動が出てしまうのが人間だ。
    「……ウェイト! バカにしてんのマジでそっちでしょ!? 誰が口きいてアンタをスクールのオケのメンバーにしてあげたと思ってんの!? ダミット! 成金のくせに」
    一泊の流れる沈黙が、とどめを刺す低い声にその座を明け渡す。
    「言っとくけど……望埜のSNSのフォロワーの数、知ってるよね? 望埜を敵に回すとマジで怖いからね……」彼女は額と目の下に力を込めて憎しみを湛えた。
     ――17歳。現実は大人たちが憧憬の思いで見つめているよりもえげつない。
    橙夏は応急措置ですぐに謝った。さらに相手が喜びそうな話題を振ろうと頑張る。
    「それで、望埜はセンス高いからアート専攻?」
     自尊心をくすぐられたのが容易に見てとれる。
    「才能あるかなー」
     昼寝していたような惚けた顔して悦に入っている。
    「うん、あるよ。絶対」
    「でも、確かに、そうね。望埜はファッション専攻にしようかなーこの人みたいな仕事、やりたいなー」
    「いいねーうんうん。ファッションセンスあるし、いいと思うよ!」
    橙夏は張った顎を両親指と人差し指の間の水かき部分にはめて、合わさった両人差し指に鼻をおしつける―。橙夏がこれ以上喋るまいと決意したときに必ず行う癖だ。
     数十分経つと彼女たちのテーブルに全ての料理が出そろった。箸をもって食べようとする。が、意識が遠くのテーブルに移った。
    窓際に座る男。秒針は円を6回ほど描いた。しなやかな動き。意識が行き届いている指。無意識的に動くことがなく、収まるべきところに収まっている。まるで荒事の舞のように。
    橙夏は、ふと喉が乾くのを覚えて、ジュースを飲もうと手を伸ばす。カチンと乾いた音が響いた。左手にしているヘルメスの杖(ケリュイオン)のような葡萄色(えびいろ)のバングルとガラスが衝突した。物事との距離感を常に考える橙夏にとっては考えられない。いくら持ち運びする抗うつ剤を飲んでも、物に自分の何かが自分の意志と裏腹にぶつかることはなかった。それは、唯一自分を自分たらしめる特徴だという自負がある。
    橙夏は自分の内側に意識が向いていたので、名前が呼ばれているのに気づかなかった。
    「橙夏! 橙夏! ちょっと、アレ見てよ」
    言われた通り、自分の意識を入口の方向に向けてみる。突然、耳に大きな音が届いた。怒声が響く。隣のテーブルのカップルが不愉快そうに下を向きながらその隣のテーブルの男を視ている。父親が娘を怒っているようだ。しかも周りへの配慮をみせずに。それを母親だろうか、弟と一緒になって止めようとしていた。
    みるみるうちに橙夏の身体の臓器が縮み上がってくる。
    男は女の子の髪の毛をひっぱり始める。店員も近づこうとしない。すると、店内の入り口からみて、窓側の左のところにひとりで座る美しい顔の男が動く。橙夏が眺めていた男だ。その彼がテーブルに近づいていく。橙夏はたちまちその男の存在感に魅せられた―。
    180センチは優に越える身長だ。慌てて後を追う小太りの男がつまずきそうになっている。感情が豊かそうな分厚い唇。相反するやるせない眼差し。共感できるものがある。アーモンドの形をした目が中央に位置しており、目元には静まり返らせるような威圧感が宿っている。その目が叫ぶ男をずっと見返しながら距離が縮まっていく。必然的に、次から次へ引き波のように、客たちの動きが一時停止する。雲の流れが嘲弄する様にひと息で変貌し、店内が靄の中に迷い込んだようだ。
    その背の高いひょろりとした猫背の男が立ち止まる。目にかかっている前髪。細長い肢体。橙夏のテーブルからは見えないが、叫ぶ男性の前に立ち、子供たちの背中越し男の真向かいに位置するように仁王立ちになった。
    各テーブルの上からつり下がる電球がチカチカッと点滅する。口が動いているので、何かを話している。電源の周波数が変動しているのか、話している間もずっと電球は点滅したままだ。受け流していいほどの現象ではない。ほぼ間違いなくあの男が関わっていることをほぼ全員が、一時停止から徐々に五感が解放されて感じ取っていた。
    橙夏はこめかみをおさえる。偏頭痛を沈めるためだ。迷いなく左指から中指、中指から人差し指……もう一度繰り返す。それから垂直に力を入れたり、撫でたりを繰り返す。
    何度目かの人差し指にさしかかったところで、一瞬空中で指がとまる。
    立っている男が女の耳に何かささやいている。すでに怒鳴っていた男は腰を抜かしたように椅子に座り込んで驚愕の表情をみせている。
    その女のテーブルの下のフロアにぽとぽとと水のようなものが落ちていく……。憔悴しきった顔でだらしなく口が開いて、目は白目を剥いていた。急いで、我に返ったのか、父親にも他の家族に見向きもしないで、自分のハンドバックを引っ手繰るように掴んでそのまま外へと走っていった。
    数秒経つと、橙夏たちのテーブルに淫靡な匂いが届いた。
    羞恥と吃驚、心地悪さと夢心地、戦慄と性的衝動、恐らく融解することのないそれら全てが炉心で入り混じったような匂いだ。
    わざと音をたてながらスプーンを運ぶ。自分の年齢へのもがきを準(なぞら)えたような、ぐちょぐちょに――麻婆豆腐と見紛いそうなほど――化けたマンゴープリンが橙夏の前で微かに揺れていた。
     
    今にも雨が降ろうとたくらむ雲が空に滞る中、離陸体制が整う。
    橙夏は引き返せない身体をさらに強張らせる。数秒先の未来を想像した。乗っかろうか抗おうか考える。まず立ち上がる。叫ぶ。発狂する。キャビンアテンダントを振り払う。窓の壁に頭を何度もうちつけて血を流す。そして失神する。それらが、今、目の前だ。
    窓を眺めて抑えようとする。すると、窓際の男性と目が合った。夜桜のような幽玄な2つの瞳が橙夏を見ている。息を呑んだ。
    『もしかして――窓際、変わろうか』
    橙夏は虚ろな目で、何も言わずに肯く。
    『一度通路側に出るんだ。この子に窓際を譲る』
    『なぜですか、窓際でないといけないんじゃないんですか』
    『私は大丈夫だ。彼女、このままだと失神してしまう。隣の貴様がケガをするぞ』
    窓際の席に着くと、ちょうど機内アナウンスが流れる―。雲の切れ間から青空が顔をだしてくるのが窓から見えた。「滑走路」という言葉を聞いて、今一度身体に緊張が走る。ふと、自分の足元に目を移すと、スニーカーの靴ひもが解けていることに気づいた。橙夏が前のめりになると不快感が胃のあたりに襲った。
    『君、名前は』
    「えっ。あっ、トウカ」魔法のような香りが優しく橙夏を慰撫した。横隔膜がしゃっくりのときのようにひくっとなった。
    彼は足元に手を伸ばした。ブライドルレザーと真鍮の金具の光沢が際立つタナクロール製のアタッシュケースが置いてある。それを長く華奢な指で優雅に引っ張り上げて、中から小瓶を取り出す。思わず橙夏は「あっ!」と声をあげた。驚くのは周りだけでなく、橙夏自身が一番驚いた。慌てて口を隠す。「窓際の男」だ。
    その窓際の男はその小瓶の蓋をあけて、左手の平を返して、その中央のあたりの点から垂直に瓶をもっていき、そこで傾ける。ゆっくりともったいぶるように、ぽとんと掌に2滴落ちてから、両手で擦り合わせ、その掌を橙夏に向かって差し出した。その掌に橙夏は自分の鼻を近づける。
    すると、鼻腔に、一寸先の闇を蹴散らすに等しい力強さと穏やかな香りが通り抜ける。そして脳天まで突き抜けた。何も言わず、ふたたび吸い込むと、今度は肩、背中、3回目で下腹部のあたりにその香りが充満していく。
    『ラバンデュラ・アングスティフォリァだ』彼は口許に笑みを浮かべて言った。目の色はさっきよりも透き通っている。
    『私はこれのおかげで冷静でいられる』と言って、また少しだけ微笑んだ。
    「さっきの香りは――悪阻みたいな吐き気が治まったんだけど……」
    『肉体的にも精神的にも心を落ち着かせる。自分の心の操縦桿を自分のもとへ戻してくれる』
    「ラバンデュラ」鸚鵡返しでその説明ではまだわからないことを示すと、「ラベンダー」という聞きなれた言葉が入ってきて、ようやくひとつの問題が整理ができた。
    『どうやら手首のところに傷をしているみたいだな。ラベンダーは皮膚の再生能力に優れている。それに感情や気分の回復が目的であれば、ドイツ式の治療方法が一番だ』
    「へー」彼は橙夏の手首を見て言った。
    『手をだして』
    反応的に両手を差し出す。すると、そこに一滴、瓶からさきほどと同じ方法で滴が手の平に落ちる。人肌のようなぬくもりが手の平にひろがる。
    『両手の平でこすりあわせながら広げてから耳の後ろに塗ってごらん』
    言われた通りにすると、しばらく夢うつつな状態が続いた。橙夏は急激な眠気が訪れたようで目を開けたままそのまま死んだように眠った。
    憑き物が落ちたように眠る直前だった。隣の男があの店のテーブルに近づいていった男だと気づいたころには、橙夏の思考は沈滞し始めたところだった。
    紺碧の空下に成田空港が見える――。
    国際線搭乗ゲート前には、家族連れや中高年グループが目立つ。橙夏たちは手荷物受け取りの方向へ、男たちはそのまは出口の方へと進む。
     搭乗ゲートではパリ行きの搭乗案内が少したどたどしい日本語で、続けて英語、最後に流暢なフランス語で流れている。
    「……あの、えっと……どこで会えますか」
    グループからひとり外れて小走りでやってきた橙夏は、右手で羽織っているパーカーのジッパーを胸のあたりで上げ下げしながら訊いた。少し震えるような声だが、バックパックの取っ手の部分を強く握りしめながら返答を待ち続けている。
    名刺を差し出すように男が指示した。もう一人の男が胸ポケットから光沢(ひか)る本革の名刺入れを取り出した。名刺よりも深みのあるブルーの名刺入れの覚めるような美しさが際立つ。
    《erbe》という名前と住所が表に書いてある。裏面には絵。左右に赤い実と緑の葉をたくわえた木が描かれ、上下にはアラビア語の文字が並んでいる。中央で錬金術師らしき男が右手を口元にあてながら、左手でなにやら壺にある液体らしきものをかき混ぜている。
    『近くまでもし、寄ることがあったら来たらいい。気に入るよ』
    「嘘? やった」名刺の薄さと同じくらいの控えめな声で小さくガッツポーズをする。
    男は無表情のまま一度も振り返らずに去っていった。
     

     
    都内のマンションにようやく着くころには夜の底がみえた。
     ビル風に吹き飛ばされそうになりながら、ステッカーが何枚か貼られた白のトローリーケースを引きながら歩いていると、車輪の音が響く。3階部分まで突き抜けた天井の底まで響く音に嫌気がさしながら、エントランスホールを抜け、カードキーでレジデンス用の入口の中に入って、エレベーターを待った。時刻は7時を廻っていた。
     瀟洒なインテリアに囲まれながらも、蒸し暑い室内は饐(す)え臭さが充満していた。鼻をおさえながら、窓を全開にしてベランダに逃げようとしたときに、ふと白い紙がダイニングテーブルの上に置いてあるのに気づいた。
    《おかえり。好きに使って。病院ちゃんといってね。明日の午前11時に丸の内で予約済。母親としての責任よ。私にとって―》
     読み終わる前に、次をめくる。地図と行き方がプリントアウトされていた。「国立精神・神経医療研究センター病院」と大きく病院名が赤のカラーで印刷され、うつ病専門の担当医の名刺がその用紙にクリップで止められている。丸めて静かに元の場所に戻した。
    そのままベランダからぼんやりと、虹色に燿るレインボーブリッジを見据える。夜をどうやり過ごそうか、いくつか候補を頭の中で並べる。レイトショー、マンガ喫茶、深夜営業している渋谷のホテルにあるプール……。
    そうしていると部屋のベッドに投げた携帯が鳴った。
    橙夏は着替えるのも億劫で、そのまま掛け布団の上に身を横たえた。仰向けの姿勢になって目を閉じる。しばらくそうやって身動ぎ一つしなかった。瞼の裏にシーリングライトの丸い輪郭が滲んで入り込む。ライトに背中を4分の3ほどむけて、自分の枕についた右頬の数歩先をしきりに正視した。自分の影を左手のひとさし指の腹で撫でるように指を動かし、それから瞼を閉じた。
    天空は黒というより雲に覆われ乳白色を咥えている。目を覚ましたのは零時を2時間も過ぎたあたりだった。結局2時間しか眠れなかったということだ。小考する。レイトショー1本がちょうど終わるころの時間だ。
    しばらく目を閉じたり開けたりしてみたが、やがて諦めて身体を起こし、鞄の中をごそごそと何かを探し始めた。目当てのものが見つかると、冷蔵庫でペットボトルを探す。ミネラルウォーターのペットボトルを半分まで一気に飲み干すと、視界に異物が混入した。飲みかけのワインのボトルが冷蔵庫に入っていた。
    ひどく黒く赤い液体に自分の顔が反射される。不愉快そうにキャビネットのところに進み、4つあるワイングラスをキッチンに並べてただじっと精査した。2つだけが少し食器用洗剤のシミのようなものが残っている。すとんと暗い段ボールに自分を落とし込むようにしゃがみ込んだ。
    そのとき、さらなる直感が白く淀んだ事実を告げた。
    目の前にはちょうど自分が体育座りになると同じ背丈になるダストボックスが置いてある。中身を漁る。一番底にティッシュに包まれてコンドームが捨てられていた。
    ペットボトルを床に投げ捨てた。飛び上がって財布と携帯をもって、急いで外にカップ付きのピンクのトップスのまま飛び出す。1階まで降りるとカサックカサックという床の大理石とビーチサンダルが不協和する音が響いた。
    30分後部屋に戻るとビールとタバコをベッドの上に放り投げ、チョコレートは明日の朝食の代わりにとミネラルウォーターと一緒に冷蔵庫に入れた。
    梅雨のじめじめとした湿気のせいで、背中にブラウスがくっつきそうだったので、たまらずエアコンのリモコンを探した。が、どこにも見当たらず、しょうがなく諦めて窓の外に出ることにした。ベランダのガラス製の椅子に腰掛け、両足をテーブルの上にのせる。気温は24度近くあり、熱帯夜さながらの気候だ。煙草をもう1本取り出して2口ほど吹かしてから、吸う気がなくなったとばかりに爪弾きにした。じめじめとした暑さと高温の火が近くに暗闇にむかって燃えて落下する小さな炎は、下方では3人の風が雁首をそろえて消し去るだろう。
    遠くに見える高層ビルの窓の光を下から追っていき、やがて屋上まで舐めるように観察すると、別の赤い火が何個も確認できる。視界にはいるだけのそれらの航空障害灯の赤いランプの数を順番に数えてみる。ようやく別のことが脳裏に浮かんでやっと呼吸が少しだけ楽になったのは2本目の煙草を根元まで吸っている途中だった。
    部屋の中に戻り、スーツケースから取り出した瓶の中から錠剤を取り出す。パチン、という音をたてた。キッチンで包丁を取り出し、白く丸い錠剤を切り刻む。4分の1ずつ。そして買ってきたミネラルウォーターと一緒に呷る。
    その気はなかった。
    寝室に入って着替えると、ベッドに横たわる。ボア素材のピンクのショートパンツの中に右手を差し込んだ。乾いた音がした――。
    枕をひっくり返したのは、やや冷たい面に額から突っ伏す形で現実と対峙するのを拒むだめだ。シーリングライトは全灯のまま目を閉じる。そうして眠っているとやがて深い眠りの洞窟へと落ちていった。
    目を覚ましたのは、正午を過ぎた午後1時をまわったところだった。目を擦った手に昨夜のにおいが残っていて、橙夏は急いでキッチンにいって、洗剤で手の皮がむけるくらいに鬼の形相で消毒した。勾配のまるでない日常そのものだった。
     
     玄関で物音がしているのに気づいたのは、早紀が鏡の前で洋服を合わせているときだった。 
     トラバーチンタイルを敷き詰めた床を誰かが歩く足音がする。時刻は午後2時前。夕方からの東京商工会議所主催の講演会の前には美容院に行きたい。外着をクローゼットにかけなおして、ジーンズとブラウスのラフな姿で玄関に向かった。
     横隔膜が派手にひくついた。久しぶりの驚きだ。
    「そんなに娘に会うのがめずらしい」
     ポケットに手を突っ込んだ娘は、ヘアスタイルを整えるのも億劫なのだろう、ポニーテールにして上からフードを被った姿で玄関に立っている。迂闊にも驚きすぎたことに、ひそかに反省した。
    「なに、その恰好……」
     しかめっ面で娘を眺める。
    「いいじゃん、別に。ただ会いに来ただけだから」
     鼻を臭そうに抑えている。いまさっき香水をつけたからだろう。
    「もう少しちゃんとしてよ」
     言い終わると同時にリビングからカチッという音がした。電気ポットの音だ。一瞬気を取らている隙に、訪問者は隣を音もたてずに通り過ぎた。
    「また、誰に似たのかしら、あいかわらずの憎まれ口が好きね」と背中を睨みつける。
     いつから子供を愛せなくなったのだろうか? 
     愛や受容を被害者意識が勝ったのはいつ頃だろうか?
     夫に娘のボーディングスクール入学を提案されたときは、本格的な仕事復帰がやっと叶うだろうと、異議を挟むこともしなかった。母親である前にひとりの女であり、ひとりのビジネスウーマンだ。自分の感情や意志は尊重されるべきなのだ。
     それに、産まれてきて数カ月、授乳と寝かしつけでほとんど一日が終ってしまう日々だったことを考えれば、思春期に入って、その恩を仇で返されるような言葉を投げかけられ確執が生まれてしまうくらいならと思い、海外に出した。
    「そうさせているのは誰だっけ」
    ぼそっわざと力を抜いて言う。天邪鬼さに早紀はいささか苦笑した。
    「それで学校はどうなの? 勉強はちゃんとしているの」
    「普通よ―」
    すぐさま「普通って」と訊いた。しかし、その質問にはただ首を傾げるだけで、きょろきょろと物色するように部屋の中に視線を送っている。
    「普通じゃ少しママ困るわよ」語気が強まる。
    「なんで」質問ではなく反抗の狼煙(のろし)だ。
    「良い大学に入らないと未来はないも同然よ」
    黙ってキッチンに行く。戸棚からティーバックとマグカップを取り出す。そして早紀が自分のために沸かしたお湯を、慣れた手つきで注ぎはじめた。
    自分に都合の悪い状況から逃げるならばまだかわいい。無視をするのが現代の若者の傾向だとすれば、手のつけようがないと、内心思った。
    「おじいちゃんだってママによく言ってたわ」
     ひとつ間をあける。我ながら、何百人を前にした講演のようだ。
    「『勉強した人間と人様を大切にする人間が勝ち続けられる』って。いま思うと、ほんとそれを言われて育ってきたから今のママがあるの」
     講演と唯一違うところといえば、深刻な説教口調にならないように、わざとピアスをつけながら片手間を演出したという点だ。それでも娘は無視して、テレビのリモコンにおもむろに手を伸ばしザッピングしはじめる。そのままソファに深く座り直した。
    もし母が生きていてくれたら……。
    昔の、壁に背中をくっつけて泣いていた子供時代がふと早紀の脳裏に蘇った。
    あれだけ残酷な事件を経験しても、その子供は立ち直った。そして、今こうして立派に生きている。
    だとすれば、なぜ娘はそうではないのか? 
    できることなら、心療内科に通わせずに救ってあげたかった。しかし、自分が精神的に弱っていることさえも無視する相手を、一体どう救えばいいのだろう。それに、何よりも母と娘の思春期の繊細な距離感を経験できなかったことが、こうして自分と娘との間に影をおとしている大きな原因だと考えずにはいられなかった。
    「ママがよく行くお隣の国々なんて、大学戦争はテストの1点を争うらしいわよ。その1点で未来が決まっちゃうんだって、そこが日本との違いで、一発逆転なんてないらしいのよ。20歳手前で40歳とか50歳の自分の姿が楔(くさび)で打ち込まれるんだから」
     今日の講演のテーマを予行演習している自分が内心おかしくなってきた。
    「あなたの教育にはお金を運のいいことにかけられてるの。アメリカの大学にそのまま進んでいいのよ。だから、お願いだから病院――」
    「静かにして、聞こえないから」
    早紀は思わず下唇を噛みしめた。グロスが下先に少し付着したので、舌を磨きに洗面所に行った。
     
    母親の質問には答えずテレビに集中する。たいしてかわいくもない猫が橙夏の足にからんでくる。
     時代劇、旅番組、韓国ドラマ、ドラマの再放送と順にザッピングして、とりあえず一番後ろのセットが落ち着いているニュース番組で手をとめた。
     ニュースのコーナーでは『東日本大震災以降の電力の予備力の危機!~再生可能エネルギーは脱原発の切り札なのか!?』と題された大きなパネルの前でアナウンサーと元東電の社員が、『ノースイースト・ブラックアウト』(ニューヨーク大停電)と比較しながら解説をしていた――。
    最後に、その専門家は、両手を前で組んでからゆっくりと結論に達する。
    「計画停電の主要目的は、あまり多くの国民の方がおそらく知らないことなのですが……日本での計画停電は何のためかというと、それは火力発電所の発電機を守るためです。もし、火力発電所が次々と何かの理由で壊れてしまえば、大規模停電は引き起こされるのは必至です。都市機能を完全に麻痺させ、未曽有の大混乱が引き起こされるでしょうね」
    警鐘をならしている専門家自体が他人事のような顔をしてそのコーナーは終了した。
    別段何の感想ももたなかった。つまり電力の予備力がいつマイナスになってもおかしくない状態だという簡単な話だ。それはまるで生理がこなけれれば妊娠を疑うのと同じ原理だった。あとはただコメンテーターとして出演している、歌も演技も下手で、ゴシップだけでテレビに出続けた経歴のあるママタレの「視聴者を代表した」愚問に、軽蔑の視線を送りながら、静かに座り心地が悪くなったソファを降りて、カーペットの上に座った。
    「とりあえず10万円渡しておくからね」
     エルメスのバーキンから同じブランドの財布を取り出して母が差し出す。
    「うん、じゃあね」
     長居は禁物だと思い部屋を出ようとする。
    「あ、冷蔵庫に米原のおじいちゃんが送ってくれた牛肉が冷凍してあるから、食べたいときに解凍して食べなさい。塩胡椒ぐらいでちょうどおいしいからね」
    それにしても……、と橙夏は想った。
    玄関で居合わせたときの母の顔を思い出す。母親というものが、ああも見事なくらいの煙たさを瞳に宿して娘をみれるものだろうか。
    いっそう死んでしまった方が何かといろいろな意味で手っ取り早そうだと想像してみる。やはり生まれてくるべきではなかった。堕ろしてもらったほうがよっぽどせいせいする。アフリカの絶滅危惧種ではない人類がこれ以上命をつなぐほど存亡は逼迫してはいない。
    しかし、美しい死に方を自分で見つけるまでは自殺はしない。その約束だけは破るとさらに自分の心が歪みそうで怖ろしかった。
     

     
    ゆくりなく視線を上げる。身体の鳩尾(みぞおち)あたりで風船が破裂した。わなわなと震える唇を亜望は手で隠した。誰もいないはず部屋のライトがカーテンから動いた――。自身の睡眠時間の短さをしばらく回顧してみた。
    視者を嘲笑うようにライトが点滅した。どこかまごついているような電気の点滅に、亜望の顔からみるみるうちに生気が奪われていく。
    急いでポストを確認後、チラシ類を共用ボックスに捨てようとした時、手の中からするするっと異質な色と性質のものが落ちようとした。慌てて掴む。手書きの字で何かが書いてあった。
    〈真琴様 管理人のノダです。緊急事態ということでしたので、マスターキーでお部屋を同僚の方に開けてさしあげました。色々と事情がおありだとは思いますが、宜しくお願い致します〉
     亜望には、どの文節も意味をなさなかった。
     背中に何かが走る。しゅわしゅわっとした泡のようなものが連続的に弾ける音は、ぞくぞくぞくっと痺れるような感覚に先立ち、項(うなじ)の中央の窪みのところでこもったそれを弾いた。そして、後に残るのは思考の停止、運動機能の停止、そして「オマエ」という人間の凍結―。
    玄関の鍵が開いたままだった。得体のしれない何かは背中から臀部、膀胱のあたりをとおり今度は前面を喉元めがけてせりあがってくる。
     足音ににすでに部屋の占有者となっていた白石菖が振り向いた。
    《何してるの》
    白夜よりも白い項(うなじ)から背中にかけて半円の肌を亜望の方に向けて、黒のワンピースドレス姿の菖が立っていた。
    黒が目立つ白さなのか、白が目立つ黒さなのか、おそらくその補完関係に女の身体が必然的にぴたりと収まっているかのような立ち姿だ。
    目尻からこめかみのあたりがぴくぴくぴくと筋肉が痙攣する。誘発されたかのように首筋の筋肉も痙攣した。それから、きわめて平静を装いながらいつも通りに心がけて質問したのだった。
    《何のマネ》
    怒り散らして侵入者を糾弾する選択肢をとらなかった。経験上対人関係における感情の抑制を人生の中で十分すぎるほど学んでいたからだ。ひとつのミスは無間地獄の片道切符だ。装いを間違えたらそれが死衣装になりかねない。
    「アレ? 聞いていたのより早かったんだネ――」
    眉尻の上がり具合によって、上昇志向と自尊心の高さを窺うことができる。首筋が隆起し、そこだけじんわりと赤くなっているのが白い首でやけに目立っていた。
    胃のあたりがまた熱くなった。無遠慮な生物と対峙しなければいけないときの身体の生理現象だ。
    正体が暴かれた今、居眠りしていた感覚がじわじわと戻っていく―。
    鼻をつくような匂いだ。部屋に一歩ずつ入っていくたびに強くなるその匂いの発信源は、本来自分の部屋にあるべきではない異物が混入したせいだろう。つい数分以内に身体に振りかけただろうと思うくらい強烈だ。 
    真実が撓(たわ)められる予兆があった。
    《どうして、中に》
     満身の自制心を滔滔と発揮することに神経を集中している自身に無性に腹が立った。亜望は小部屋から獣が飛び出さないように頑丈に鍵をかけている。その代わりに、片手を背中に回して固く握った。人差し指の爪が親指の付け根部分に突き刺さった。それでしか、受け止めなければいけない現実の衝撃を細分化できる方法が他にはなかったからだ。
    「え? 亜望さん大丈夫!? 管理人に開けてもらったんだよ。考えたら分かるでしょ。アタシが鍵持っるわけじゃないんだし。アタシ、ほら、人にすぐ好かれるタイプじゃない」
     冗談を言っているようには見えないのは、その場違いなほどの真剣な顔を見ていれば容易に分かる。圧倒しようと両腕を胸の平坦な胸の前で組んでいるからだ。絶句に先を越される―。
    「携帯の番号変えたでしょ。変えたらアタシに報告するのは普通でしょ!? 本当にショックなのはこっちなんだから。全く……連絡とれなくて……アタシがどれだけ心配したか」
    背中にもう一度何かが走った。悪寒や戦慄を通り越えた得体の知れない化け物が、亜望の整理整頓されたいくつもの小部屋のつながった天井を破壊するかのように暴れる。主人を虚脱の蜷局(とぐろ)に拉致すると、爆発的な殺意が鎮座した。頭の中が通り魔に出くわしたときのように停止寸前だった。
    《管、理、人、が、開けた……》
     答えは分かっている。頭に落とし込むためだ。捨て台詞のようや役目をして欲しくて、亜望は訊いた。
    「亜望、さっきから全然言葉にセンスないネ。よくコピーライターやってられるネー」
     質問に答えろ。
    「ほんと運だけなんだネ。うらやましいわ」まるで主人のように無遠慮に木目調のダイニングテーブルに腰掛ける。「たいして努力もしなくてもいい人がいるのよね、この世には」
    亜望は歩を前にも後にも進めず、彼女との距離を量っている。
    「アタシの方がだ・ん・ぜ・ん、才能あるじゃない? いや、うんうんうとかじゃなくて、あるのにネ。アタシが本を読んだり勉強してる時に、どうせ亜望はひとりで酒でも飲んで男でもこの部屋に連れ込んでたんでしょ」
    4つある椅子のうち、窓側に配置している列のもうひとつの椅子を、まるでオットマンのように使い始めた。
    「アイツは偽善者だよ……亜望に優しくしてくる人間って、偽善者だと思わない」
    そう思う。
    「あっ、アタシはそんなグループじゃないからネ。本当に心から友達だと思ってるから」
     足の裏からふくらはぎにかけて、痺れがはしった。
    菖が寿退社をしてから、退社日と結婚式の日、それから挙式の年の年賀状を除いては、こうして部屋の中に侵入されるまで10年ぐらい会うことも連絡を取ることもなかった。
     主婦になってから少しは主婦にふさわしい穏やかな美意識を表現できないものなのか、と改めて下から上まで彼女を焦げるほどに亜望は視ながら、同時に訝しんだ。脱毛処理を定期的に行っているであろう腕と足を容赦なくさらす格好は、部屋には相応しくはない。美意識というものが、銀座並木通りを歩いていればふさわしい格好とメイクだが、彼女の部屋の中にいると、キレイなアヒルの子のようだ。「緊急事態だって言って、開けてもらったんだよ」とさも褒めて欲しそうに言われると、吐き気で気分が悪くなる。
    亜望はようやく一歩前ではなく、横のキッチンに入り、冷蔵個からルイボスティーの飲みかけのペットボトルを取り出して、一気に飲み干した。あまりに勢いよく飲んだせいで、口元からうっすらと赤い液体がこぼれる。
    「理解不能だけど。たいしてコピーライティングの経験が高かったわけでもないし、背が高いだけで顔は平凡じゃんか。アタシの方が経験長かったし、仕事もできたはずなんだけど、あ、これ悪口とかじゃないよ。アタシもまだまだっていう意味ね。なんで、亜望が選ばれたのかほんと七不思議」
    彼女は自分のネイルをみながら早口で喋った。
     亜望は頭の中で【恵まれた】と【選ばれた】を並べてみる。
     ――私はどうして彼に選ばれたのだろう? なぜ彼女は私を恵まれた方と言ったのだろう?
    「まっ、いいか、そんなこと言いにきたわけじゃないし」彼女がボソボソと言った。
     彼女の劇場の暗転は速い。
    「それより、喉乾いたんだけどお酒でもある」亜望の返答を待たずに訊いた。
    《えっと、今は、特にないかな》
    「ウソ。あっ、わかった。ひとりやけ酒用にとってあるとか? もー、誘ってヨ!」
    亜望は腑に落ちない顔をすると、すぐに続ける。
    「野菜室開けてみたけど、おいしそうな日本酒入ってたよ」
     料理酒として、醸造アルコールや糖類などが入っていない純米酒を普段使う。二の句が告げないでいると、驚いていると勘違いしたらしく気味の悪い笑顔を浮かべて彼女が言った。
    喉がまた乾く。
    「亜望ったら。久しぶりに飲もうよ。おつまみはたいしたもの作らなくていいからネ」
     わざと腹で笑った。横腹辺りが筋肉痛で返す。
    鬱々とした日々が、あの会議室を出た時から続いていたことは事実だ。煮詰まった仕事、珍しく先の見えない明日。軽い刺激を求めていたのかもしれない。何かを打破してくれるような軽い刺激。それは酒やセックスというありふれたもはや30歳後半の自分には刺激には、逆立ちしても成りえないものではない。奇想天外なものをどこかで期待していたのかもしれない。がしかし、これは度を超えている。
    亜望がこの日、急いで帰宅したのには理由があった。もう一度プロジェクトのための先方の社是や理念、事業戦略、過去の市場での位置付け、顧客や取引先との関係図、組織風土と新入社員へのOJT資料などの資料を読み直してみる予定だったからだ。
    キッチンのシーリングライトのスイッチを押した。突然の光に眩暈がして、ぐさりと地面に何か踏んだような気がして、全身から力が抜けそうになるのを必死でこらえた。
    冥々の裡に感じていた業の深さを見た気が胸裏を胸糞悪い色で染めた。最大限できるかぎりの「投資」をしてきたのに、過去への「返済」はこうして亜望の中で再生の節を待っていたことになる。 
    外は雨だ。一気に部屋が湿潤し、心を浸水させるほど降り止みそうにない。
    亜望が人と繋がりをもつときは、必ず相手を窮地に追い込むか、自分が追い込まれる。そして両方の場合とも、最後は自分が噛みつかれるのだ。「歯形」は容赦なく刻まれる。
    結局彼女が帰ったのは零時を過ぎた頃だった。
     
    駅から蒸し暑さを避けるために扇子で仰ぎながら歩いていると、死角にある用水路に思わず足を取られそうになった。素っ頓狂な声を出すと、制服を着た学生たちに失笑をもらった。ただいま。
    夏真っ盛りのこの日、母親の七回忌に合わせて亜望は帰郷することにした。
    朝のニュースでは、岡山県は降雨確率40%。この数字は90%の確率で晴れると経験則と照らし合わせる。梅雨でさえもさほど雨が降らないのだから。瀬戸内海式気候というのは、気候が安定している。しかし、そこが亜望は嫌いだ。
    風が玉の木々を揺らす音も、川のせせらぎの音も、夕方になるとまばらな車の音も、路面電車の音も亜望の耳には届かない。
    玄関を開けると、台所から酢の香りがふわふわとしてくる。しばらくすると、目下真琴家で確信的「猛威」を振るう義妹の佐智子(さちこ)が玄関にでてきた。亜望は深々と頭を下げた。
    「わざわざ、お忙しい、ところ、ありがとう、ございます」
    まるでかばのように大きく口を開く。句読点を節に突き刺したような話し方をする。取り繕われたその顔は、亜望にも負けず劣らずぎこちない。東京駅で買った名物のお菓子を静かに手渡す。
    「熊本の人吉のサトルさんはご夫婦と、あと中学生のお子さんと今日は新幹線でいらっしゃています。京都のカズコさんは息子のハルキさんが車で運転して一緒に来られています。あとは、広島のご親戚の方を今待っているところです。もう駅にはついておられると思うので、夫がさきほど車で迎えに行きました」
     受け取りながらさっと進捗状況を説明されると、亜望はまた頭を下げ、奥へと入っていった。流れ作業のようにして居間で訪問客たちに軽い挨拶を済ませると、2階へあがった。亜望の部屋は今は物置となっており、弟のギターや竹刀などが7畳ぐらいのスペースに所狭しと並んでいる。カーテンは高校時代までずっと使用していたものが色あせてまだかけられており、そこだけ時が止まったかのようだ。自分が異物だと感知され部屋から吐き出されないように注意深く足音を立てないように歩いた。
    父親とはまだ対面していない。その事実よりもっと奇妙なことは……何よりも、誰も触れないのだ。まるで存在さえ認められてはいないように。
    1階へ降りて廊下を歩くと、庭に覚悟していた人影があった―。服が白いシャツで隣の家の白い壁と同化していて、輪郭が分かり辛い。隆太郎は家の北側の庭に戸背(こせ)と岡山県民が呼ぶところの防風林を手入れしていた。車いすに座ったままなので、低いところだけしか揃えられていない。自慢の盆栽の手入れを始める。素人目から見てもその盆栽は既に枯れているのに、色々な角度から触りながらちょきんちょきんと切っていた。
    お坊さんがくるまでまだ時間がある。亜望は、気づかない父親を無視して部屋で喪服に着替える。仏壇のある居間で親戚の相手をしなければいけない。
    「亜望ちゃんは、まだ結婚せんとね」人吉の親戚がまるでスポーツ中継で自分のお気に入りの打者が打席に立つのを心待ちにしているように質問を投げた。
    「あんた、そんなことば、今の時代聞いたらいかんとよ」
    「なんや、そうか、聞いたらいかんとか」
    「当たり前でしょうが、亜望ちゃんだって感情があるとに」
     昔からだ。フォローが傷口を広げる。私だって……か、と亜望は自嘲気味に笑った。
    「誰もそぎゃんことは言っとらんだろうが」
    「せからしかけん、とりあえず黙ってお茶ば飲んどって」
     公の場で口裏をあわせられているかのような、そのざっくばらんな2人の性格に触れると、熟練の夫婦漫才を視ているようで熊本からの2人が場を和ませてくれる
    「ご家族は今日泊まられるんですよね」
    「そぎゃんたい、せっかくだけん観光ばしていかんと」
    「ここはなーんにもないから、美術館と博物館ぐらいなんですよ、誇れるものと言えば」
    佐智子が急流のように早口で割り込んでくる。運んでくるのは肥沃な土ではなく、ただ栄養のない黒い土のようなものを顔に塗られた気が亜望はした。
    「熊本の方が都会だから、つまらんかもよ。ねー慎一郎くん」
    佐智子はにこっと笑ってみせたが、年頃なのか無反応だ。
    「そぎゃんこたなかばい。福岡にはかなわんけんね。月とすっぽん、いや、万里の長城と熊本城ぐらい規模が違うばい」
    豪快な笑い声が九州男児の気性を拡散させていく。
    その間も佐智子はだだっ広い畳の居間を足の爪先に至るまで甲斐甲斐しくすり足で動いていた。そのたびにご婦人方にねぎらわれている。いま、こうして客人のように座っている自分は、さぞかし結婚できない理由を曝け出していると思われているのだろうと想った。
    「そうそう、佐智子さん、これ、家にあった写真」
    佐智子は夫婦の間に割り込んで、しみじみと写真を一枚一枚めくって、実の娘のように感情一杯に吐息を漏らす。さらに、終わりぐらいにさしかかると、ハンカチで目頭をおさえはじめた。その全てを、ただテーブルの端にすわった亜望は見つめるしかなかった。場違いなところにきてしまった、という後悔で頭をかきむしりたくなる。泊まって帰ろうかとも思ったが、やはり今日の最終で東京に帰った方が精神衛生上よさそうに思えた。
    「ほら、亜望さんも、これば」
    母のモノクロ写真から淡いカラー写真まで結構な枚数が収納できるアルバムが亜望の手に渡された。
    ハイカラといいう言葉が適さんとばかりに、若いころの母は黄色のワンピースや、橙色のワンピース、赤のセーターに、黄色のパンツと、暖色ばかりの衣装を身にまとい、サングラスをつけた写真が多かった。天真爛漫、というか、世間知らずで生きてきた母を感じ、結局自分とは一生相見えることはなかったのだ、という揺るがない証拠を目の当たりにしているようで、安堵と少しの淋しさがゆっくり胸裏に起こる。
    アルバムをめくっていると、ふと正面を向いてあぐらをかいている写真があった。少しお腹が大きいので、写真のカラーから見て、弟ではなく亜望を身ごもっているときの写真だろう。海辺でビーチカラソルの下で水着姿。バスタオルで下を隠している姿だったが、ふと、左も股の内側に黒いあざのようなものが亜望の目に入った。太陽の光で色があせたものかと思い、表面をなぞってみたが、別段周りの感触と違わない。今度は記憶をたどってみるが、母親の内股のここまで黒々としたあざがあった記憶はない。亜望たちを見下ろすように飾ってある遺影と写真を交互に見つめなおす。
    《みどりさん、あのね、お母さんって、こんなところにあざみたいなのがあるんだけど、記憶にないんだけど、ありましたっけ》
    彼女は一瞬押し黙った。
    「あ、あったよ。なんか、この1週間前ぐらいに階段からこけた時に内出血みたいになったんだって言ってたかな」
    《そうなんですか》
    ひとりごちなかった。しかし、お坊さんが到着したので疑問は棚上げした。
    外は狐の嫁入りらしくお坊さんは少し濡れていた。聞き取りずらい声で般若心経を唱えている間、ずっと考えが止まらない。
    やがてお経を終えて、言葉を頂戴すると、静かに佐智子が立つ。しばらくすると、台所から、鰆のばらずしが亡き母の「嫁入り道具」のひとつである備前焼の皿に盛られて運ばれてきた。皆がばら寿司を瓶ビールで流し込んで談笑し始める。食後のデザートとしてはマスカットが振る舞われた。料理が好きな亜望でも、鰆のばらずしの作り方は母からは教わっておらず、またしても彼女の株があがることとなった。
    それにしても。亜望は、取り皿に残った寿司を箸でつまみながら考えを戻した。身重の状態であそこまでひどい傷を負うということは、どう考えても奇妙だ。何かが咽喉にひっかかった。
     法事が終わると日帰りで東京に戻る新幹線に乗った。
    長時間の新幹線と気の使い方で、世の中は亜望の把握するかぎり首尾よく静止している。とにかくぐっと疲れてしまった。
    亜望はついつい数時間前のことを思い出す。感傷的な性悪女のせいで頭の虫がおさまりそうもなかった。というのも、ひととおり終わって実家を出ようと玄関に集まったときのことだった、足代を親戚中に渡すことは常識の範囲内だが、佐智子は渡しながら、「少ないですがもうしわけありません、うちは子供が2人いまして、せめてものお礼です」と悲劇ぶって渡したのだ。それを聞いた親戚中はもちろん心から同情し、逆に、財布から5万円取って彼女に愚かにも渡していた。
     眠気が狡賢い女を象(かたど)った厚いガラス盤につぶされるように、圧迫に近い怒りに追い抜かれる。東京に着くまでとうとう一睡もできなかった。
     

     
    橙夏はマンションの部屋で机に向かっている。
    英語の授業でリーディングの課題が出ているのだ。リーディングを読まないだろうという生徒のためにリストが渡されている。が、古くて興味をそそるものがひとつもない。19世紀の文学者を21世紀に生きる自分が読んで何になる? 一体何の役に立つ? 疑問で、さっきからネットサーフィンに思考の波を重ねているだけだ。
    フィクション―嘘の集まりだ。嘘の集まりを遺産と呼ぶのだから、人類はなんておめでたいのだ。そういう哲学に準じて、ほとんど橙夏はエッセイを提出していない。ただし、夏が終わって秋の最初の日にまた提出しなければ落第の可能性が浮上している。
    エッセイを提出したとしても……その後のことを考えるとやはり蕭蕭(しょうしょう)たる気分にさせられた。常にフィードバックで言われるのは「個性がない。主張がない」だ。個性を出せ、と言われて、個性は出せない。そもそも自分には個性がないのだ。
    この日、望埜からの連絡通り、橙夏は新宿の塾を訪れた。特に待ち合わせをしていたわけもないのだが責められた。数時間後、レッスンが終るとひとりで何食わぬ顔で塾を後にした。当てもなく新宿から原宿の方面へ歩く―。
    スーツ姿の男性や大学生らしきグループの間をかき分けて、十字路を左に曲がった角の店から出てきた姿を見失わないように走る。ひとりで笑顔の女子高生が走っているのを見見られたら恥ずかしいので、なるべく顔に力を込めた。
    「あのー覚えてますか」
     不愛想を装うことには失敗した。白い歯がこぼれているのが自分でも鏡がなくてもわかった。
    店頭にも店内にもどうやらきれいな花や苗が陳列され、そこにやさしい陽だまりができている。白い外壁に一度あたった陽光はそのまま溶け込んでいってしまったように、ふんわりとした佇まいだ。橙夏の鼻孔を店内から漂ってくるコーヒーと甘いペストリーの香りが刺激した。
     呼び止められると、少し歩いてからふと男たちは振り向いた。モスグリーンのライディングコートが風のない蒸し暑さのなかでふわりと翻る。
    『覚えていると思っているから声をかけてきている。違うかい? 橙夏だね』
    花屋と思った店内はカフェが併設されており、中を入口から覗くと、なにやら講習会のようなものが開かれた後のような雰囲気で、女性たちが花々を片付けている。
    「ちょっとぶらぶらしていたら、たまたま店出てくるところを見つけて、それ何なの」
    『ハンギングバスケットだ』花々が彼の腕に大事そうに赤ん坊のように抱えられている。橙夏は聞き慣れない言葉だなと思った。
    『開催してくれと頼まれた。彼も連れて』と言って視線を隣の男性に送る。『彼はただいるだけで、どうやら人気らしい。ドアの近くに立たせておけば引き寄せられる人間は少なくない』背のひょろんとした男が静かに橙夏を睨むように見ている。橙夏は一瞬背筋が凍るような想いがした。香港での一件を思い出さずにはいられない。
    「ガ、ガーデニングの一種」質問する声が上擦った。イメージが膨らまなかったからだ。背の高い割と整った顔の中年男性とガーデニング。加えて常に隣にいる目つきは悪いがおそらく王子様系の一重の目の男。橙夏は気づかれないようにさりげなくふたりの距離や醸し出す雰囲気を分析してみた。
    『これが、サフィア、こっちがペチュニア、これがローズ、そしてこれがアメリカンブルー』
     わざわざ教えてくれている気の使い方を蔑ろにはしたくはなかったので、分析を一時中断する。「へーきれいだねー特にこの青いやつ。ちっちゃくてかわいい」橙夏は少女のような無防備な顔で触ると『アメリカンブルーだ』と彼は解説した。
     それから3人は表参道の方角に歩いた。勾配が地味にある通りを歩いていると、夏の暑さでうっすらと汗が出てくる。その汗を拭いもせず、橙夏はどこに行くのか行き先さえも彼には尋ねなかった。2人の背中と距離に注意を向ける。手をつなぎはじめたら、逃げた方がいいだろうか、と途中途中の別れ道を確認しては逃げ道を想像した。
     やがて彼らは秘密の抜け道のように細い路地裏に入った。軒先には人影も見えず彼ら以外人がいない。一足早い蝉の鳴き声が上から降り注ぎ、足元からは下水道を通る水の音だけが聞こえてくる。
     彼は信号で止まった。しかも黄色の信号で。おもむろにペットボトルを開けた。握ったその手は指先まで美しかった。橙夏はそれを見てなんだかおかしくなった。
    そのうちただ漫然と歩くのにも飽きて、ジーンズの後ろポケットに手を突っ込んだ。携帯電話を取りだす。少し指を動かしたあと、「はい、ポーズ」と言って画面をこちらに向けて手の甲を表にしたピースのポーズをとった。カシャッ。続いて慣れたてつきで画面を左手の人差し指と中指を踊らせて写真の濃淡を調整する。
    『何をしている』
    「写真整理する前に、友達削除していた……」
    『貴様、友達を削除だって!?』
    「な、なに、突然」怪訝な表情で後ろを恐る恐る振り返る。
    橙夏を驚かせたのは、黙って後ろからずっとついきていた彼の連れの方の驚き方だった。青白く細い指で天に何かを描くように動かし身震いしている。
    そのとき風彼の柔らかそうな髪を揺らした。6月とはいえ、気温はあがっているが、それでも吹く風と言えばまだ肌寒いものがある。橙夏は東京の空を見上げた。
     蝉の声が聞こえてくる。辺りはすっかりと夏。そう、夏が来たのだ―。
    『橙夏、君は花や香りの力に興味はあるか』
     橙夏は強く肯いた。
    『そうか、じゃあ、工房(サロン)が近いから連れて行くとしよう』
     
     青い目をした猫が橙夏の足元にやってきた。足元の彼女の膝の少し下らへんに自分のにおいを擦りつけようとしているのか頭をスリスリと擦りつけている。彼女はシルバーの毛並みをしっぽの方に向かってさすりながら、歌をくちずさんだ。そうしているうちにうとうととし始めた。
    軽い時差ボケもあるのかもしれないし、炎天下の中、長時間外を歩いたのも身体を疲れさせていたようだった。籠った熱のせいか身体が火照っている。
    幸い、工房(サロン)の香りは眠りには最適だ。メフィストは眠りに入ったのを確認すると、そっと薄いタオルケットを彼女にかけた。
    ―どこ? 冷たい……海? ダムのようなものが決壊した。濁流に巻き込まれる。
    声を出したい。助けを呼びたい。水が大量に口の中に入ってくる。助けを呼び出せない。濁流をなんとか抜け出そうと、顔を海なのか湖なのか分からない水面から出した。まつげを濡らす水のせいで視界が不明瞭(ぼやけ)る。しばらくすると、遠くでビルの屋上から誰かが飛び降りようとしているのが見えた。男性が助けようと説得しているのだろうか、必死にとめようとしている。自分の命も分からないのに、その2人の幸せを心から祈った。祈って祈って……そのまま沈む―。水の奥底から誰かが視ている。しわがれた顔。首元にピンクのスカーフ。
    「おじいちゃん……」
    だが、身体のバランスが実に妙だ。おそらく小人達もこう見えていたのであろう、巨人のような大きさだ。足が小さい。反対に頭はものすごく巨大。両手からはウルヴァリンのような爪のようなものが生えている。足が3本あるようにも見える―。
    「―ごほっ! ごほっ!うぅ、あぁ……」
    『起きたか。ゆっくり眠れた? ほら、これを飲みなさい』
    寝ぼけた様子で言われるまま顔を近づける。カップから温かい湯気が出ている。咽るくらいの香りが鼻孔を刺激する。ソファから起き上がって一口すする。寝起きの頭がまた夢の中に誘われるような濃厚な甘い媚薬の香りが鼻腔の中一杯に広がった。
    「何の香り」
    『レモングラスベースのハーブティーにローズを一滴』
     すとんとさらに深くベッドのお尻が沈み込むように座りなおす。猫は窓の縁にちょこんと乗って黄昏ているのか、外を視ている。
    『誰かありえない人でも夢に出てきたのか』
     橙夏はびっくりして飲み込もうとしていたお湯を全て吐き出してしまった。しばらく咽る。
    「――私の、おじいちゃん、もう、亡くなったんだけど」
    『変化出現(アパリション)だ』メフィストは手を顎のところに持ってきて考える仕草をする。
     頭の中を指でなぞる。「なんだっけ? 学校のクソつまんない英語の授業で読んだかな。ヘンリージェームズの『ねじの回転』に出てきた。幽霊っていう意味だったよね」
     橙夏はこの瞬間、秋に出さなければいけないエッセイを思い出した。現実と地続きな事柄が頭に浮かぶのを根気よく目前で止めるように、首を左右に何度か振ってみる。
    『夢に何者かが現れた場合、それを変化出現(アパリション)と呼ぶ。たいていは何の脈絡もない悪戯な妄想だが、時には超自然的な要素たちが関わっていることも』
    「超自然的って」
    『そのありえない人はどこか奇妙な形をしていなかったか』
     橙夏は夢の中の祖父の姿を思い出した。
    「頭が大きくて、足がちっちゃくて、顔面もなんか黒かったかな。おじいちゃん、常に色は白かったと思うんだけど、それになんか爪みたいのが、こう、シャキーンていう感じで伸びてたよ!」
     話を背中で聞きながら、彼は窓の方に歩いて行った。窓の前で立ち止まると、一瞬迷っているのか考えているのか少し間を置いて、そしてカーテンと窓を開けた。
    『今日は、金曜日だな。外にもいい風が……それに満月だ。なんらヘンテコじゃない』
    毎回なんだけど、説明になってない……と橙夏は胸の中で毒づく。
    『伝えなければいけないことがあるんだろう。死後の世界から……それとも……』
    一艘の船の漕ぎ手を信頼しきった乗客のような目で彼を見上げる。
    『いや、何でもない』
    予想外の言葉に橙夏が意表をこつんと突かれたような気分になったのは、なにも言葉からだけではなかった。彼の表情が一瞬暗くなり、別人のように見えたからだ。
    『確か、街の中を歩いていると周りの不安や怒りを受けてしまうと言ってたな』
     彼が頭の中で何かを並べ替えるように目を回転させる。
    「うん」
    『それは、呼吸と関係がある』
     橙夏は「呼吸」という言葉自体が自分の行動の中で最も普遍的でしかも普通なことなので、思わず鶏のように顔を突き出しながら頭に疑問符を弾いた。
    「……呼吸は苦しくはなるけど。受けちゃうから呼吸が苦しくなっているんだし」
    『いや、その逆だ。呼吸が苦しくなるから、受けるんだ』
     彼は天井からつるされている灯篭の緑かかった火を息で吹き消した。橙夏はいつ火がつけられたのかを思い出す。
    『いま怒りで呼吸が苦しい』
    橙夏は言葉では答えず、先を促すように立ち尽くす。すると、次の一言はふたたび予想に大きく反するものだった。
    『論理的に考えれば、形而上という概念は存在しえない。アキレスは亀にかならず追いつくし、形而上という言葉には真実がない。無意味性だけがただ広がる。しかしながら、もし絵空事だとしたら、逆に考えても、けっして「まっとうじゃない訳じゃない」ということだ。つまり、戻すと、周りから受けるから呼吸が困難になる訳でなく、呼吸が困難になるから周りから悪影響を受けるとした場合、問題は解決する』
    「する訳ないじゃん! そんな簡単だったらこんなに苦しんでないもん!」 
    腹立たしさと悔しさが入り混じって、たちまちのうちに顔が紅潮していく。
    『モヤモヤしたり不安になる時には決まって呼吸は浅い』
    「違う、違う、違う! 何も分かってないくせに」消え入るような声だけが空気に乗って彼の耳に辿り着いた。その起源の身体はどこかに消え入ってしまうように存在感が軽薄だ。
    「何も分かってないのに、私を救うような言い方して。あなただけは、あなただけは、ちょっとは違う……違うと思ってたのに……自分がなんだかわかんない苦しみがわかんないのよ! みんな私を頭がおかしいみたいな言い方して!」
     無計画に橙夏は黒い審判をくだすように―それはもはや自分では驚かないほどの―邪推を続けた。
    『残念だったな』メフィストはさらにストンと一段階相手が暗闇に落ちるのを煽るように返した。
    「……ひどい」もっと違う何かを期待していた。何か許されるような……。
    いま取り乱してしまったことを正当化してくれるような何かを橙夏は期待していた。
    『思考では何も解決されない。行動だけが問題を解決する。論理的に考えてばかりいるから行き詰まる。自分の声は踊り出せば自然とこぼれ落ちるから、それを一つ残らず丁寧に拾えばいい。そうやって、物事を見つめていくんだ』
    「うるさい! どうせ、そこの引き出しにでも手錠が隠されてて、そこのろうそくでレイプでもするつもりだったくせに!」
    『悪いが風呂に入る。今日は帰ってくれ』
     彼は橙夏の発言の文脈と射程を十分理解したかのように、それ以上は一言も言わず足元に寄ってきた猫を抱きかかえて奥の部屋へと行ってしまった。
     頭痛と混乱が一気に押し寄せる。小さな声で違う、という声が遠くで聞こえても、頭の中を支配しているのはもはや自分ではなかった。他の誰か。いったい誰なの? 
    噛み締めた奥歯の痛みだけが自分を証明してくれるものだと想った。
     一か八か橙夏は思いっきり罵声を浴びせた。
    「ほんと最低ね。恥を知ったらいいわ。絶対罰がくだる。というか、必ず私が罰をくだす!」
    心ゆくまで罵ると、橙夏は闘わなくてもいいはずの痛みと相対した。吹き散らされた感情の欠片を踏んで怪我をするのはいつも自分なのに。真ん中のあたりが縦に揺れた。そして、今度は横になびく。ほろ苦いチョコレートを食べた時のような胸のあたりの感触に似ている。甘いのに苦い。苦いのに甘い。とどのつまり、どっちが先なのか分からなかった。
     

     
    20年ほど前のこと――。
    夏の空高く雲の峰が、眼下に観ているのは、かつてルノワールが愛した燭(ひか)り彩るパリ1区のヴァンドーム広場とコンコルド広場の、二つの王立広場の間。
    めずらしく3日ほどの雨が続いていた。パリのホテル前にはイカロスを除く3人の姿がみえる。
    『待ちに待った晴れだ! 晴れだ!』
     雨宿りをしていた昆虫たちも羽をひろげてパリに生命をかけた色をたしていく。生命の満ち溢れる季節だ。いくつも重なって立ち上った積乱雲に太陽は隠されているが、青空の下、3人のもとへ遠くから一人の青年が、まだ雨で濡れた路面を小走りでやってくる。
    『なんだ? その荷物は』
     朝食の時もいなかったイカロスのことを不思議に思っていたクピドーが、彼の背中の大きな茶色の古びたリュックを一瞥して言った。
    『あ、気づきましたか』
     聞くのが遅すぎませんか、のような澄ました顔で応える。得意げに何か懐から切り札でも出すような態度で、ガサゴソと何かを折りたたんだような形状のものを取り出した。ところどころにパイプのようなものが付属している。
    『テントです』
     澄ました顔で応える。
    『颯爽と答えてくれたところ悪いんだけどもね、閻浮提(げかい)の習慣だから聞いてやるけど、なぜだ』
     クピドーが目を細くして訊ねる。
    『何がですか』
    『純粋無垢なつるぴかイカロスくん。なぜ、寝袋を持ってきたんだ』
    『やだなぁ。テントですよ。携帯用テント。仲間が朝届けてくれると昨日連絡あったので、ちょっと出てたんですよ。どうしてメフィスト様は持ってきてないんですか』
     彼が話す相手を突然メフィストに変えた。
    『持ってくる必要がないからに決まってるだろう。おまえ、ほんといちいち疲れるだろうが。ただでさえ今、俺は、落ち込んでるんだ!』
     メフィストが答えるより先にクピドーがとても落ち込んでいるようには聞こえない調子で応えた。
    『ご自分の精神の均衡にたいして高を括ってはいけませんよ。だって、一緒に傍で見張ってないと、すぐやさぐれたように家出するじゃないですか。地上だけならまだしも「上」も探さなきゃいけないので、へとへとに疲れるんですよ。小生もいい年ですから。だから一緒に寝ようかと。生きているときも死んでいるときも一緒ですよ』
    『気持ち悪い……』
    『機嫌悪いですねー』
    『お前の寝言がひどくて、俺の不眠症を悪化させるのが関の山だろ!』
    『本当に落ち込んでるのか? 落ち込んでないんだったら面倒だから帰るぞ』
    メフィストはクピドーの特に変わりのない様子をみて、にべもない言い方で、踵を返そうとする。
    『小生はこの寝袋で寝ないと眠れないじゃないですか』
    イカロスは名残惜しそうに寝袋を抱きしめた。
    『前なんて、クピドー様と2泊3日の矢の修行にカナダまで行った時に、木のロッジなんかで眠れていうんですよ』
    『お前、自然が好きなのかそうでないのかよく分からないな』
    クピドーがぼそりと言う。
    『ところで、イカロス、それは、なんだ』
    今度はメフィストがイカロスが袋から出た木材のようなものを指して訊いた。
    『これスケッチ調です! やはりパリにくるので、小生も天界で趣味にしていますデッサンを。セーヌ川のほとりで。うまくいけば、天界でパートタイムでデッサンの仕事したいなと!』
    『だからその帽子なのか。インキュバスがさっきから笑いをこらえて苦しそうだから、その帽子はずしてやってくれるかな』
     メフィストが冷静な顔で言った。
    『ほら、もたもたしてないでルーブル行くぞ!』
     こうして一行はレンタカーで最も即断、即決ができて運動神経の高いイカロスをドライバーにして、ルーブル美術館を目指したのだった。
     散々迷った挙句に、テュイルリー通りをルーブル美術館方面に向かう途中のソルフェリーノ橋(レオポール・セダール・サンゴール橋)がみえてきたところで、イカロスが後部座席に座るメフィストとインキュバスにミラー越しに話しかけている。クピドーがどうしても時々自分に自信をとりもどすために、自分のポートレイトを見ないといけないジンクスを続けて説明する。
    『近頃は、毎晩咽び泣く夜を過ごしています。本当に今日はつきあってくれてありがとうございます―最近は、盲目どころか勘違いがひどいありさまでして』
     もじゃもじゃした頭を掻きむしりながらクピドーがすかさず『だから俺は盲目じゃないって言っているだろ!』と訂正した。膝にかけた赤と黒のチェック柄のチェスターコートを整えながら、白いスカーフで口まで隠した。
    『認知に関しての向上の精油(オイル)はブレンドしただろう』
    『うるさいなーブレンド、ブレンドって。一生、棒でも持って掻き回してればいいんだよ……』
     鼻白んで、口角をねじ曲げて首筋を引っ張って苛立ちを露わにした。わずかに瞼が痙攣し始める。追い込まれたときに身体反応として出てく彼の癖だ。
    最近のクピドーはかく云う誇大妄想と被害妄想の間を飛び回っているという――。
    『俺ほど、神々の中でも芸術家に愛された神はいない。数多の、そう、東西南北、地平線の彼方の向こうの向こうの、これまたその先の向こうに至るまで……造形の深い愛らしい芸術家たちをインスパイアしてきたのはだれだ? 俺でしょ。いわば、審美の玉手箱だ! 人間に信仰されて初めて実在すると言われるのが神々だ。ということは……一番信仰されている俺は最も実在を証明された、いわば最も人間に認められた神かもしれない! 自分が神過ぎて怖いな』―そうかと思いきや、『ボッチチェリの春に描かれているな。俺の全てが。全てだよ……忌まわしき存在の所以がさ。幸せそうに踊る「慎み」を、この汚れた弓で狙ってやがるんだ。俺みたいなやつが望まれてもいない神がのこのこと地上に降りていってさ、弓の練習とかいって、ばかみたいに打ちまくりやがってさ。空想的愛念などというニュアンスを足してしまったがために……俺が諸悪の根源なんだ……俺なんか……イカロス、頼む! 頼む! 頼むから俺を殺してくれ……』と叫ぶらしい。
     長きにわたるイカロスの物真似を見た他の2人は、笑っていい場所と神妙な顔つきをしなければいけない場所が、あまりの高低差に最後までわからず、結局曖昧なひきつった笑顔をうかべながら聞いていた。
     クピドーは殺気だった目で彼を眺めている。
    『一度波に乗れば、後は躁鬱でいうところの躁が続いてくれますので、多少のテンションの高さを我慢すれば鬱のときとを比べたら天国と地獄の差くらい楽ですから』
    『早い話が、私は、どちらも耐えられないんだが。本当に感服する』
     メフィストが彼を褒めると、恥ずかしそうに頭皮がみえかけている薄い頭をさすった。
    『すみません。お取り込み中に。あの、貴様たち、人を袖にするのはそこらへんで勘弁してはくれませんかね。勝手に他人をこけにしながら、絆を固めるって……』
    『メフィスト様、手前より幸せと縁がない人がいるのですね』
     インキュバスがぼっと言う。
    『貴様の方がよっぽど幸せだぞ。精神状態はフラットに陰鬱だからな。そっちの方が私にとっては心地がいい』
    『おっしゃる通りですね、確かにインキュバスの性格は猫の目のように変わりませんね。猫なのに』
    『あの、ですから……君たちよ』
    クピドーのことを気にする者が誰もいないようだ。
    『とんでもありません。もう、小生は不勉強により勤まりませんよ。インキュバスだからこそできることです』
    『当たり前だ』と、インキュバスが不機嫌さを語末に乗せる。
    『小生も、もうちょっとインキュバスのように毛髪があれば……』
    恨めしそうにインキュバスの長髪を眺める。
    『若い時に、太陽の光を浴びすぎましたよ』
    『浴び過ぎたというか、太陽の近くに行き過ぎたんだよな』
    『メフィスト様、それはいいっこなしですよー若気の至りです』
    『うるさいんだよ!』
     3人は一斉にクピドーを申し分のない残忍さをもってして睨んだ。その視線にクピドーが「死」を意識したことは言うまでもない。
     そうこう車中で騒いでいると、ルーブル美術館につながる巨大な地下駐車場に到着した。
     外に出るとひんやりとコンクリートの冷たさが芯まで感じれるほど密着してくる。一行はようやく駐車場からの入口を探すと、イカロスが先導するかたちで少し歩いた。
    やがて360度視界が白のロビーが現れた。天井には平行に一定の間隔を開けて設置してあるライトがまるで誘導灯のように奥のエスカレーターまで続いている。エスカレーターに乗ろうとしたが、故障中だったので、やむなく一行は階段であがると、ショッピングモールのホールに出た。
    さらに歩を進めると、幾何学の贅沢を凝らした目の前にルーブル逆ピラミッドが見えてきた。外の中天に昇る太陽の燦々たる光。その光を内部に取り込みロビーのいたるところに見物客の影を作っている。逆ピラミッドの構造物を過ぎ、お土産屋を両脇に見ながら歩いて行くと美術館の通路があり、そこでイカロスは他の3人に、『ここで、チェックがあります』と、チケットを手渡した。
     通路を抜けると、ルーブル・ピラミッドの下のホールは地元の人から海外からの旅行者で各々の言語が飛び交い埋め尽くされていた。迷ったら、ここが集合場所ということにして、一行は入口につながる階段をのぼり、再度チケットチェックをしてから、ようやく間接照明に照らされた厳かな階段を昇って館内へと入っていった。
     
     奔走する感情が出口を希求るように声が出る。クピドーが目を涙で潤ませながら走る。ドノン翼の1階にある彫刻がお目当てだ。
     ミロのヴィーナスやミケランジェロの〈瀕死の奴隷〉、ラムセサス2世の座像には目も暮れない。クピドーはある像の前で立ち尽くした。背に翼を、左の腰のあたりに矢筒をぶらさげた青年の像。その青年が乙女が横たわっている岩の上に降り立ち官能的な接吻を捧げている。アントニオ・カノーヴァの《アモルの接吻で蘇るプシュケ》だ。
    『オーロード! プシュケよ、おお、我が愛の源、プシュケよ!』
    《アモルの接吻で蘇るプシュケ》は古代ローマの作家アプレイウスの『変容』をもとにカノーヴァが作り上げた至極の名作だ。アモル(クピドー)は愛するプシュケ―その傍らに決して開けてはならないはずの小瓶が開けたまま横倒しの状態で―を優しく抱き上げ、彼女の顔に自分の顔を近づけている。プシュケは身をゆっくりと後にそらし、けだるそうな動作で、恋人に手を回している。
    ひとつひとつの手足の動きを具に鑑賞しながら、誰に話すでもなく、クピドーが口を開いた。
    『色々あったけど、俺も彼女も結局神と人間との越えてはならない線を越えてしまって全身全霊で愛することを自分の命に代えてでも誓ったから、さすがに母と他の神々も折れてくれてさ。それで不死の源(アンブロシア)をくれて、彼女に飲ませて、永遠の命を彼女は手にすることになっ……』
    『そして、人間だった彼女が魂の女神として神格化された』後をメフィストが引き継いだ。
    『少しは気が済んだか』
    『……付き合わせて悪かった。今回は俺の用事だが、次回はきっとお前の番だろうな。あと20年ぐらい先か』
     メフィストは像を見つめたまま聞いている。
    『判定者(ジャッジ)がいるんだったよな? この世界に』
     思いがけない言葉に苛立ちを隠そうともせずに『不毛な会話だな』と応えた。
    『悪行にどれだけ罪の意識を感じるかで判定されるなんて。まさに受難だよな』
    『余計なことに首をつっこむな』
    『それにしても、案外おまえの判定者(ジャッジ)って近くにいるかもな。この美術館のどこかにいたりしてな』
    声に出さずに笑った。
    『あーやっと笑ってくださいました! これでミッション終了でございます』
    2人のやりとりを緊張した面持ちで眺めていたイカロスは、ニット帽を脱いで胸にあてながら大きく息を吸い込んだ。ペルーの民族衣装のような柄のフリースにロールアップしたジーンズという恰好は、まさか空飛ぶ男には見えない。
    『悲劇の殻へのひきこもりは終了です(ザ・ショー・イズ・オーバー)!』
     遠くの方に外にあるルーブル・ピラミッドを見つめるインキュバスが3人の方向に顔をむけた。
     ドゥノン翼の2階は相変わらずの人だかりだ。3人と1人は、ボッティチェッリが描いたフレスコの祝婚画の『ヴィーナスから贈物を授かる若い婦人』を鑑賞した後、ダ・ヴィンチのモナリザ、その裏へ歩くとティツィアーノ・ヴェチェッリオの《聖母子と聖カテリナと羊飼い》(通称《うさぎの聖母》)の前で立ち止まる。
    すると、3人が肯きながら絵を眺めていると、惜しみなくため息を吐いた後、『さっきの場所で待っておきます』と、インキュバスがいかにも不機嫌きわまりない調子で言った。それから誰の同意も気にしないで、それだけ言うと来た道を戻っていった―。
     
    鈍い音がした。エスカレーターから降りて、少し歩いた先で、インキュバスの視界の外から何かが足元に当たった。
    「イタい!!」
    インキュバスの脚と少女の顔がぶつかって、少女はそのまま後ろに飛ばされてしまったようだ。ギロリとした眼を少女に向ける。
     ところが、妙なことが起こった。少女は逃げ出すどころか、立ち上がって「まいご……」と俯きながら近寄ってくるのだ。普段無機質な表情に難儀(くるし)む様子が見え隠れする。とりあえず少女を高圧しようと沈黙のまま鋭い視線を向け続ける。しかし、そういう態度をよそに、その少女は、のびやかなリズムで大人びた言葉を機関銃のように浴びせ始めた。
    「迷子になったの。ゆーちゃんが悪いんじゃないよ。ゆーちゃん、待ってたもん。大人のいうこと聞いてあげたのに。言われたところに。約束やぶってない。約束は守るものなのに……」
    今にも泣きだしそうに眉をヘの字に曲げて、下唇を突き出す。「破ったらダメ。破ったらにんげんしっかく!」と叫ぶと、周りの来場者たちが2人を好奇心から注目し始める。
    「のどかわいた! お腹いたい! 足つかれた。眠い……」
    インキュバスは我慢ができず、ほっぺたをひっぱたいて内臓をえぐりだしてやろうとした。それができない理由はただひとつ。すべては閻浮提(げかい)での大悪禍(カオス)のため。助けを求めようと周りを見渡しても、さすがに神聖な美術館の中には魔界の住人は見つけられずにいた。
    自分の意志で3人とはぐれたので見つかるはずもなく、師は群衆の中ではオーラを消し去って感じ取ることもできない。歴代のメフィストフェレスでここまで人間界で自分のオーラを消せることに場違いなほどインキュバスは感服した。が、いまとなると、そのことに何のメリットがあるのか、疑問でならない。みるみるうちに見物客が増える。
     そうか! インキュバスの白い心は躍った。
    しかし、肝心な小道具が必要だ。少なくとも、2つがなければいま目の前の人間に悲痛な叫びをあげさせることができない。それができなければ、暗闇の淵へと落とし込むことができない。
     ふと、少女の右手に手をやると、一筋の光明が体の中を貫通した。これだ! とインキュバスは心の中で想った。少女が持っていたノートのようなものとペンを強奪するようにとりあげる。「あっ」と言って少女は目の前のインキュバスの目を一点に見つめた。
    「なんで、それ、とるの? ゆーちゃんの宿題なの。ママに怒られる。ママこわい……」
    そのセリフを話し始めた次の瞬間、インキュバスはノートにペンを走らせた。しきりにペンを進める。昨日の映画のワンシーンをそのまま真似て、目の前の少女を悲しみの絶叫に連れ去る予定だった―。
     
    昨晩のこと。夜10時を過ぎたぐらいに、メフィストとインキュバスは夜の散歩からホテルの部屋に戻ってきた。いち早く先に戻っていたクピドーがテレビをつけて何やら古そうな映画を視ている。色彩豊かな花々のモンタージュの静止画がゆっくりコマ送りされる。オーケストラの演奏をバックに数分間続く冒頭をみて、コートを脱ぎながらインキュバスがたまらず言った。
    『不勉強で大変恐縮ですが、クピドー様、どういった変わったご趣味であられますか? 芸術家の考えることは手前にとっては、ボードレール以外理解ができませんからね』
    『なんと!』右手に持っているグラスから液体が急いで立ち上がったのでカーペットにこぼれた。『この花のモンタージュがいいんじゃないか!』
     このまま映画が終わるまで一切ソファから立ち上がらないぐらいのありさまを察知したメフィストはインキュバスに、構うんじゃない、と目配せをした。
     どうも近頃調子が悪いと、インキュバスは内心想った。
    靴を脱いでも脱いだ気がせず、ベッドに横になっても横になった気がしない。おまけに、食べたのも忘れて空腹を覚え、あんなに葡萄酒(ワイン)をたらふく飲んだのに酔いという僕にも相手にされない。性欲という性欲も生まれず、エレベーターで一緒だったグラマラスな女性に愛欲の目で見られても何も感じなかった。理由を考えあぐねていると、インキュバスはひとつの帰納的な思考を持って現状を理解せしめようとした。
     主人のメフィストの仕業である以外に理由がない、とやがて確信していった。知らぬ間に、この世の中が、月は月でなくなり、猫は猫でなくなり、天と地が転覆し、宇宙のそとに自分だけが追いやられたような……さりとて、そのような業を何の相談もなく実行するのもおかしい。
    既に、昨日の晩にメフィストはある〈提案〉を主人にしていたのだ。そして、その〈提案〉はやがて完膚なきまでに遂行されることになる。
     ――ううぇーん! ぎゃーーー!!
    突然後頭部付近から女性の叫び声が聞こえたので、インキュバスはやっと現実に引き戻された。共感を確かめようと師をみるが、何の反応も示していない。振り向くと、もう一度、この部屋でもなく外でもなく四角い箱から悲鳴が聞こえてくる。醜い発音の女が叫んでいる。
    映画の中ではオードリー・ヘップバーン演じる下町の花売りの娘イライザが悲鳴をあげていた。インキュバスは、クピドーに気づかれないように、横目でちらちらと盗み見た。
    やがて、イライザに悲鳴をあげさせる男の所作をみて、得意げな顔を作ってまたベッドに戻っていった。
     
    インキュバスは、今か、今か、と愉しみを抑えきれなかった。しかしながら、待てども待てども少女は口を閉じない。そればかりか、立て板に水のようにひっきりなしに楽しそうにお喋りしている。ひとりで普段何をしているか、飛行機の中でみた映画は何か、好きなおもちゃは何か、どんな家に住んでいるか、どんなメイドが働いているか、何匹の犬を買っているか――。
    『なぜだ!』心の中で考えるつもりだったが、耐えきれずに声に出てしまった。
    「なぜ」驚いた様子で少女が訊いた。
    『なぜ、泣かない』
    「なんで、泣くの? 悲しくない、よ」彼女は身体をもじもじとひねりながら言った。
    『いいや、おまえは悲しいはずだ』
    「悲しくない。だって、ゆまの話ずっと聞いてくれているから」
    『聞いてなんかいないぞ』
    「ウソ。だって、さっきから、ゆまの話すこと、ノートに書いてくれてる」
    『そうだ、ほら、泣けよ』
     インキュバスは焦る気持ちを振り払うように、顔の力を込めて不適な笑みを浮かべた。
    「……うん? ありがとう」
    『ありがとうだって!? 何言ってるのか分かってるのか』
    「初めて……だいすきだよ。おにいちゃんのこと」
     それから女の子はインキュバスの膝にしがみついた。
    立ったままだと手がちゃんと届かなかったのでインキュバスはもう片方の膝を落として彼女を遠ざけようとした瞬間、彼女はすぽっとインキュバスの胸に飛び込んだ。それから泣いた。その泣き声はだんだん大きくなっていった。安心しきったような泣き声。もう周りを行き交う人々で二人に妙な視線を送る人間などいなかった。それどころか、温かい眼差しで二人の、一言も言葉を交わさない抱擁を見守った。
    「一緒にいて。将来、おにいちゃんのお嫁さんになりたい」
     インキュバスは唖然とした。それは、長い日々の中で唯一といっていいくらいに。
    「ゆま!」
    突然大人の女性の声が遠くから響いてくる。
    「ゆま! 誰に抱かれているの!?」
    母親らしき人間が遠くから血相を変えて走ってくる。
    「もう心配したじゃない。あれだけ離れないでってママ言ったでしょ……ママから離れるからこんなことに……この人に何か悪いことされなかった」
     母親はインキュバスを見上げながら娘に訊いた。
    「ううん……されなかったよ」
    少女だけ振り返って、「ばいばい」とインキュバスに手を振る―。
    インキュバスは慌てた。そして少女の手に自分のネックレスを急いで渡した。指と指が触れ合った。なぜそんなことをしたかというと、それは自分自身が分かっていない。
     
     
     
    気後れするように指を微かに震わせながら泰平はチャイムを押した。扉の奥の広い室内にチャイム音が響き渡っている。
    祐麻たちは待ち合わせ時間より早く三笠宅を訪れていた。
    ここにくるまでの間、彼は経緯(いきさつ)を祐麻には説明し、口才を遺憾なく発揮し終わっていた。余念なく、くれぐれもキッチン用品に関しての具体的な説明を創作しておいてくれるようにお願いしてある。
    「はじめまして、榊と申します」彼に背中を押された祐麻が、合図とばかりにぎこちなさを最大限にまで抑えて挨拶をする。
    「こちらつまらないもでのすが」来る途中に銀座のデパートの地下食料品売り場でソムリエを捕まえて、お土産を見繕っていた。
    「ありがとう。ワインは好きだよ。さあ、どうぞ」受け取った三笠がすぐに奥さんに渡す。
    「あ、これワインボトルに入っているんですが、中国茶なんです」彼は祐麻の提案を代わりに話した。
    「それは珍しい。それはそれはありがとうございます」
    奥のダイニングテーブルに通され、彼は祐麻の椅子を引く。そして自分は窓のところに行き、高層マンションから見える東京という街を飲みこむように深呼吸をした。
    それから、先客のところに名刺交換に行く。次々と同じことを繰り返している間、祐麻はただ時計を気にしているのを悟れまいと演技をすることで精一杯だった。
    意識は自分の下腹部の方向に向かっていく。どうも朝から体調がよくない。十中八九、生理が始まる予感があった―。
    「今日はお集まりいただきありがとうございます」
     三笠が立って挨拶をする。乾杯の挨拶が終了すると、テーブルは社交場としてさまざまな話題が飛び交った。
    各々が、自分たちの子供の話、娘にポルシェを買ってやったが、今度はランボルギーニが欲しいと言ってきて困っているよ……毎晩六本木に白のランボルギーニでクラブのボス室でモデルとパーティーをする大手ゼネコンの息子の話……到底彼にはついていける代物でもないことを、祐麻だけは理解していた。とてもじゃないが苦し紛れに中学高校と自転車で通い、お金がなくてバイトをしていた苦労話などを彼がしないかどうかだけが心配だった。
    「とにかく困ったときは何でも相談してね」別の婦人が泰平に話しかける。
    「ありがとうございます。できれば、弊社のパーソナルコーディネーターにおまかせしていただければ。同行業務のみとなります」
     泰平はもったいぶるようにうっすらと笑った。
    「マーケティングと行動心理学、認知科学、あとは脳科学さえ自分で本で学んで、それを冷静に常に実践すれば誰でも成功できます」
    軽薄な語り口に祐麻には聞こえた。おそらくそれは自分だけではないとも思った。アカデミックな内容の言葉が何の権威も持たずに吐き出されていたのだ。場所が間違っている。
    「わたくしのコーディネートで、女性のみなさんも、自分を高めるフェーズを体感して欲しいんです。だから、まずわたくしに投資してもらえれば必ずそのフェーズを体感させます、というのは織り込んで欲しいです」
    胃の中に不和感を感じた。それはまるで、夏の暑い日に、冷蔵庫に残っていたレモンと、前日のお昼に絞り出しクッキーを作った余りの生クリームをパスタと絡めて口にしたときのあの芳香剤のようなまずさに似ていた。
    祐麻は味を回想している舌をコーヒーで洗い流そうと画策するが、先が見えたので、生唾つばでなんとか舌を鎮めた。
    「あら、そう」急に興味を失ったような様子で婦人が返す。
    「すみません、出過ぎた真似を。ご婦人をコーディネートだなんてまだまだ経験も未熟でした。修行しなおします」
    マットがフォローしようと割って入る。
    「そう」婦人が引き続きそっけない態度で応える。「ぜひ、そうしてちょうだい」切れ長の目をした婦人が汚れてもいない口をナプキンで拭いながら言う。
    「ばか、ビジネス界の大御所(ビッグ・ショット)だぞ、気をつけろ!」と小声でマットが注意する。
     
     額のあたりがずっしりと重くなってくる。紛らわせようと目の前のアルコールを一気に飲み干したが、重みはまずばかりだ。頭痛とも偏頭痛とも違う、天井が覆い被さってくるような圧迫感に近い。
    ナイフやフォークの磨き上げられているがゆえにシャンデリアの光を反射する光沢までもが、自分を暗い光で愚弄しているかのようだった。くすんだ味を運ぶそのフォークに移る歪んだ自分の顔が映し出されると、泰平は思わず手に力が入るのを抑えらえなかった。
    一方祐麻は鋭利な痛みを感じながら、虚空に浮かんでいるシャンデリアしか狭窄しつつある視野にしか入ってこなかった。泰平はそんなことには気にもせず、自分の世界で記憶の糸をたぐっていた。兄のことが頭をよぎったのだ。
    突然「ごめん」と言って祐麻が席を立った。泰平は祐麻の方を振り返ることなく、しきりにたいしておかしくないところで拍手をしながら蝶蝶(ちょうちょう)しく笑い続けている。
    トイレの場所を三笠の夫人に確認しながら、これが、初めて祐麻にとっての婚約者への蔑みだった。
    祐麻は、兼ねてから少し心配していることを指で顔をなでながら沈めて、その思考を振り払った。昨日出血したので生理が始まったはずだ。しかしながら、着床出血の可能性が祐麻の脳裏には飛来している。次から次へと波状に襲ってくる吐き気と貧血を抑えることができず、そのまま10分以上トイレにこもってしまったのだった。
    すると、たまりかねたのか、「トントン」とノックがなる。
    「泰平」とか細い声で訊ねた。
    「祐麻ちゃん、大丈夫? あんまり戻らないから心配して」
    「あ、マット? 大丈夫だよ。ありがとう」自分の小さな絶望よりも相手への気遣いを優先することを脳内会議で決めた。
    「すぐ出るから――」
    テーブルに戻る前に鏡で自分の顔を確認する。が、さっきまで手の甲でアルコールによる火照りを確認していた頬は、まるで1週間絶食を余儀なくされたようにこけている。思わず時計をみた。入った時間は確認してなかったが、30分はおそらく過ぎている。
    その間、力をいれて痛みを耐えていたので、全身に力がもう入らない状態になり、血液を体の中を流れているのか流れていないのか、分からないぐらい腕が青白い。
    メイクポーチから臨時用のチークを取り出して、頬広めに大きくのせる。念入りに繰り返す。何周かした後、祐麻ははたと手を止めた。惨めで仕方なかった。
    父親が3代目の大手食品メーカーの社長を継いでからというもの、何不自由なく生きてきた。鏡に映る自分の不幸さに耐えられるはずはない。それは、耐えるだけの強さがないというより、耐えなければいけない状況を経験したことがなかっただけのことだ。
    ニューヨーク州のある田舎町に、19世紀に人権活動家の女性が主導で建設したという女子高のボーディングスクールを、祐麻は4年かかって卒業した。英語が堪能だから海外のスクールへいった訳ではなく、中学時代から日本の三流インターナショナルスクールに通う祐麻は周りととにかくなじめなかったからだった
     祐麻は三笠たちに挨拶だけして、マンションを後にした―。
    タクシーがつかまる大通りまで歩いている間、汚れてしまった気位(プライド)の剥片(かけら)を投げつけた。外に出ると鬱蒼とした闇と陰鬱な雲が頭上を覆っている。踏まれた蝉の抜け殻のぐさっという音が聞こえた。
     
     

     
    店の中では、ビルの外壁の大理石の隙間を走っていたものと同じブルーライトと様々な色に点滅する光が、人種的背景の異なるさまざまな人を照らしている。「く」の字になっている階段を上がると、少し周囲を満たすアルコールの匂いが和らいだので、やっと、橙夏は深い呼吸をした。
    靖国通りから、新宿歌舞伎町の区役所通りを都営大江戸線火東新宿方面に歩いて突き当たる四差路の角に、10階建ての商業ビルがある。ビルの正面玄関は扇型となっており、2階に続く螺旋の階段では、カクテルドレスを着た外国人の女性2人がタバコを吸いながら遠くに聳えたつ新宿プリンスホテル方面に身体を向けて何やらゲラゲラと話していた。
    外では昼間蓄えた熱がそのまま夜になっても空気を温め続けているだろう。都心の密集空間では熱の逃げ場はなく、湯たんぽ状態の新宿は今夜も熱帯夜だ。
    「オールライト! じゃあ、ガイズ、乾杯!」
    レース調のチェックの柄の入った、黒のベアトップワンピースから露出した日に焼けた肩、背中、腕が照明に照らされると、きらきらと光った。赤い革張りのソファの上に裸足で立って、そうやって高らかに叫びながら、日に焼けた腕を上げた。
    「橙夏! 飲んでる? せっかく愛しのレイが来ているんだから!」
    「そうさ!」とレイが便乗し、橙夏の剥き出しの肩をぽんと叩いた。ネックラインがラウンドになった白のキャミソールにタイとジーンズという組み合わせ。日に焼けていない白い肩を所在なさげに動かしている。
    「これから飲むよー」わざと自分も楽しんでいることを知らしめるために、橙夏は語尾を伸ばした。
    効きすぎた冷房の風を避けるために、レイに不覚にも近寄る位置に座った。
    「俺が全部悪いんだ。だけど分かって欲しい。それだけ、俺はおまえが欲しいんだよ」
     原因と結果がまるで他人に理解できる代物ではない。
     事件は香港修学旅行の数日前。ラブホテル代わりに使われることは知っていた。しかし、まさか自分が当人になるとは橙夏は夢にも思わなかったのだ。男子トイレで、レイは望埜のボーイフレンドを入口でみはらせて、橙夏の腕を軽くとって素早く連れ込んだ。数日前から計画していたような意気込みが漲っている。心の準備もできていないのに彼は橙夏との展開を急いだ……そこから先はあまり覚えていなかった。
    「ふぅーーー!」望埜が囃し立てる。 
    「俺はまじさ。君のことを考えずに一時間だって送れやしない」
    待ち望んだ言葉なはずなのに、すっぽりとはうまくはまってくれない。圧迫を胸に感じた。胸のときめきとは違う。抑えようとグラスに手をかけた拍子に、彼が手を重ねる。
    後ろのポケットにいれてある携帯が突然震えた。電話の揺れ方だ。ばつがわるそうに取り出して画面をみると、そのままポケットの中にまた放り込んだ。
    「もう一度チャンスが欲しい」彼は自分の手を橙夏の手の上に置いた。
     ――チャンス。何様だ。わざと自らさりげなさを装って橙夏の胸に押し付けてくる彼の腕を視ながらそう想った。取り繕ってもう一度笑う。
    それから1時間はどんちゃん騒ぎでたわいもないことを話―基本的には滞在期間に訪れた原宿や渋谷、浅草の写真だ―お嬢様をほめたたえなければいけなかった。
    「おれ、ちょっとトイレ」レイが言うとジェフが同意して部屋を出ていった。隙間を利用するように望埜が橙夏に話しかける。
     橙夏がのけぞった。アルコールが余計に身体に周ってくるような気がして、気持ちが悪くなる。
    急に眠気が襲ってきた。いつもなら理性になんとか軍配があがって、ふらふらとしながらもちゃんと正気は保てるのだが、身体と精神に全く入らない。ちゃんと、ずいぶんと前に安定剤は飲んだので、お酒と反応して睡眠薬のような働きはしないだろう。
    ドクン。ドクン。ググッ。心臓の鼓動が耳にこびりつくように鳴っている。その心臓の向こうには、荒れ狂う海が見える。菓子をたべて身体を小さくして瓶の中に入ったアリスと逆の行動を―何かを胃の中に押し込んで、酔いを醒まして、ドアをあけないようにする―ため、橙夏は目の前のポテトを山盛り口にいれた。
    その行為をみて2人は心配するどころか、げらげらと大げさに手をたたきながら笑った。橙夏のボーイフレンドにいたっては、立って踊っている。完全に、皆がハイでおかしくなってきた。
     
    「あー起きちゃった」間の抜けた声が聞こえる。妙に緊張感のない声だ。
    橙夏の背中がぞっと震えた。薄暗い闇の中にぼーっと白い顔が浮かび上がる。黒と白、そして赤だけが認識できる。ま
    月の光がちょうどあたらない位置に彼らはそれぞれ違うピッチで呼吸している。既に意識がはっきりしている橙夏は声の主を理解していた。
    「暴れたりしたらそこに置いてあるナイフでけがさせてしまうことになるからね」
    そう言って、ちらりと橙夏の右側に目向けた。相手の視線を追う夜の闇に隠れきれないどす黒い陰を湛えたバタフライナイフの手垢のついた柄がこちらを向いていた。
    やけにさっぱりした顔が近づいてくる。橙夏の額にキス……。筆舌に尽くしがたい戦慄が橙夏の背中にひいてある毛布の上を走っていく。叫び声をあげたくても、目が回ってあげられない。動くと眩暈(めまい)がさらにひどくなる。ペットボトルを倒したかのように嘔吐の源泉が胃の中を往復した。
    体をよじってみるが、案外手首は簡単には自由にならない。何かの縄だと思っていたものは、実は彼のシャツだった。シャツできつく縛られている。
    彼は何も言わずにただ潤んだ瞳を眺めていた。口をテープで封じられているため、橙夏のある感覚が獣の様に冴えわたっていた。
    遠くでカラン、と何か鉄パイプのようなものがコンクリートの地面を転がるのが聞こえる。一気に冷たく重く絡むような風が近づく。そして遠ざかる……それを繰り返している。橙夏のむき出しにされた肢体の皮膚という皮膚に鳥肌が立った。カラン、カラン、カンカンカンカン、カキッカキッ、ズズズズ……。しばらく無音に邪魔される。同じ音が意志をもったように続く。
    彼が指を止めた。ゆっくりと抜いていく。後ろをふりかえる。見張りの男と目が合ったのか、顔で会話しているようだ。2人の男は血眼の目で暗がりの中、もうひとりの存在を意識したひそひそ声で話し始める。声をおとした怒声が店の裏に滞った闇と風を散らしていった――。
    ちょうど横になった状態からは橙夏の視界が衝立としておいてある、把手の部分の塗装がはがれたビールのケースがつみあげられていたり、サーバー用の瓶がならべられていてよく見えない。聞こえるのは足音だけ。その足音はどこかで聞いたことのある音だ。高い音が鳴り響く。
    『今日は満月だ』
    見張りをしていたジェフが言い返すには相手を確認する必要がある。が、声がどこから聞こえてくるのか全く検討がつかないでいた。
     2人の男らしき影は並んで歩いてくる。
    『誰の大切な使者に手を出しているんだ』
    橙夏がちょうど視界でとらえるとき、その2人はほぼ同時に何かに片方の膝を立ているように足をかけた。その影たちは、見張りをしている男の立ち位置から線をまっすぐにひくと、ちょうど反射線をYで描くように45度の角度で、膝をむけ、足下に両手をあてて、ゴソゴソとしている。
    『待ってたぞ』暗がりを槍で貫くような声がした。『俺が欲しがってるんだ』腹を減らした吸血鬼のような強欲さが滲んだ声だ。
     輪をかけて声がより高い振動を空気にぶちあてていく。埒が明かないと察知したのか、見張り役の男がたまりかねて声を潜めて言った。
    「あんたには関係ないことだから、今日のところは見逃してやってくれないか、おれの相棒が奥でさ……。ここは親友としてそっとしてやりたいんだ」
    『その女のことは別にどうだっていい』
     突き放すように言った。
    『しかし、いまその子に死なれると困る』
     角から左に曲がろうとしている人のかたちとは思えないほど歪な影が幽邃に見えた。
    それから後のことはあまり覚えていない。流し過ぎた涙のために、干からびた植物のように朦朧にしか記憶に残らなかった。
     
     2時間ほど前にさかのぼる。
     クピドーとイカロスは、偶然にも区役所通りを歩いていた。
    『つめたっ、ぬるっ!』
    温い飛沫がクピドーの足の甲にかかった。夕方の局所的なゲリラ豪雨のせいで、歌舞伎町もそこら中に水たまりができていた。アスファルトで舗装された道とコンクリートの建造物は熱を逃がすことなく溜め込んおり、水たまりが温い。
    2人は、いつも通り旅行を愉しんだ後、じめじめとした熱帯夜に耐えきれなくなり、雑居ビルの7階で涼んでいた。
    『こうも熱いと、東京で暮らすのは頭がおかしくなりそうだな。天空はほとんど見えないし、もうそろそろ家に帰りたくなってきた』
     グラスの中の氷を指でかき混ぜながらクピドーが嘆き節になる。
    『そうですね、日本は体感温度こそが夏の場合、問題ですからね。外気は外国と一緒でやはり海に囲まれていますから湿度がやはりすごいですね』
    『あいかわらずの天気の話はいいんだよ。お前は天気の話ばっかりだな』
    『天気ほどおもしろい話が他にありますか』
    『そういうのは、普通初対面の人間同士がするんだよ』
    DJが隅のほうで夏のサンセットを思わせるようなボサノバ調にリミックスされた曲を演出し、2人が座る窓の近くのテーブルを盛り上げるように両手をゆっくりとブースで動かしている。
    『愉しそうにみんな過ごしていますね』
     店の中は扇形の構造でそれぞれに段があり、2人は最上段から各テーブルを見渡せる位置に座っている。
    『そうだな』
    『美しい人間なのにな。やはり人間か……』
    『認めたくない気もしますが、クピドー様の親友の侮辱に当たりますからね……しかし……』
    『勝手な推測は止めておかないか、イカロス。あいつがもしかしたら今回何もできないかもしれない』
     イカロスは身を乗り出した。
    『あいつはきっと今回はやりそうな気がする』
    『何か根拠があるんですか』
     今度はがらりと変わって、身を引きながら質問した。
    『何かが違う』
    『その「何か」を訊いてるんですよ』
    『気づかなかったか? あいつのコートのポケットのふくらみ』
     イカロスは思い出すように目の玉を回転する。やがて、肩を竦めた。
    『じゃあいい。俺が記憶するかぎり、あれを持ち出したことはなかったはずだ』
    『話は替わりますが』
     突然イカロスが真剣な顔をした。
     話を聞けば、最近よく、自分が仕える意味を再考しているということらしい。
     クピドーは、特に相手にする様子もなくウイスキーを片手に窓の外を眺めた。ところが、次の一言で真剣に話を聞く必要があると判断した。両手を顎の下で組み合わせる。
    『小生には羽がない。あなた様には羽がある。この違いの意味がわかりますか』
    『さあな、飛べるか飛べないかだろ』
    『できることとできないことは明確に別れます。メフィスト様もそうではないでしょうか』
    『何が言いたい』
    『メフィスト様が人間のために何かできることなど皆無でしょう』
    クピドーは自分の思惑を先読みされたような気がして、身体を痒そうにねじった。
    『紀元前より光の反対としての闇の中で地獄の炎の傍で生きてきた悪魔の血が流れるメフィスト様に、人間が拠り所としている優しさやおもいやりなどという美徳は通用しません。よって、その2つを必要とする人間関係とは無縁です。そして、できないことに挑戦するということは必ず身を滅ぼします。できないことに挑戦するなど愚の骨頂であり、そして身の程知らずなのです。我々は自分たちの身の丈で生きるべきだ。少なくとも小生はそう想うのですが……』
     彼は相応の負担を覚悟で言っているようだ。
    一度は人間たちに神と思われた苦い過去がある。彼が空を飛んでいる姿を目撃した羊飼いたちは神の奇跡だと思ったのだ。地上からの神々しいものをみる視線に耐えがたい幸福を感じたという。そうして、身の丈に合わない幸福に身を漬してしまったがために、悲劇が襲った。それ以来、出家した僧のように節操を優先して無鉄砲なクピドーに仕えてきたのだ。
    『嘘だろ? そんな風に想ってたのか。俺の羽をいつもうらやましそうに言うのは冗談半分だと思ってたんだけどな……それにしてもそれは違うぞ』
     何も言わずに考えていたことを話してやるタイミングだと思えた。
    『常識を押しつけてる。悲しいことに俺たちもな。同時にいつも不満だ。間違ってないだろ? ということは、その常識を破ることでしか満足はできない。そして――簡単に言えば――その生きることへの満足こそが希望をもたらす。俺は、そう思うけどな。期待してみたいんだ。この街にも……』
     まるで公平に希望を捜しているみたいにして、改めてゆっくりと店内を見た。それから、窓から見えるネオン街を再び見て、自分の中で蠢く何かの一部分を削減するように一息ついた。
    『できることとできないことの閾を自分で決めるな。自分ほど不確かな存在はいないんだぞ。おまえ自身が一番よく分かってるはずだ』
     イカロスは小さく頷いた。
     メフィストとインキュバスは勇名を馳せる悪魔だ。そして、クピドーは同じかそれ以上に有名な神。
     しかし、イカロスは? 
     彼だけは元々神でも悪魔でもない。我々と同じ人間だった。ならば、なぜイカロスは3人と一緒にいるのか? そろそろ真実を伝えてもいいかもしれない。
     イカロスは死んだ。
     これは、まごうかたなき真実ということを大前提にしたい。イカロスはその死後、神々の話し合いによって「半炯(はんけい)」として輪廻転生が認められて天界に昇臨をゆるされた数少ない人間だ。
    「半炯」とは、天界で「神の見習い」のことを指す。そうして「半炯」として神の仲間入りを果たしたイカロスは不老不死を命令づけられた。不思議なことに、この物語の主人公の中でメフィストとクピドーの命は有限だが、イカロスの命は無限だ。後何年続ければいいのかは定かではないが、ずっと代々のクピドーに仕えている。
     そして、もうひとり忘れてはならない不死の男がいる―インキュバスだ。
    『お前は愚かじゃない。勇気……だな。飛び立つ勇気を俺はお前から学んだけどね。だから――』
     涙もろいイカロスのその後は言うまでもない。
     その後30分ほど続けて、イカロスは思わず嗚咽を漏らしながらテーブルに突っ伏したまま涙したのだった。「節操」とは似ても似つかない樽のような腹が揺れていた。
     そんな2人の前に突然2人の女性が近づいてくる。
    「ねえ、この後どこかで飲み直しませんか」
     おとなしそうな顔で、とても自分たちから男性に声をかえるような女性には見えない。
    『いいよいいよ。でも俺たちそろそろ教会に帰らないといけないから』
    「教会? もしかして教会の人」
    『いや、そうじゃないんだか、そうともいえるというか……その、とにかく寝泊まりをさせてもらっているんだよ』
    「じゃあ、今日は教会じゃなくて帝国ホテルにわたし達と泊まりましょ。決定!」
     2人は逃げるようにトイレに駆け込んだ。
    『びっくりしましたね』
     個室に入って隣にいるクピドーに話し掛ける。
    『まったくだな』
    『どうしますか』
    『わかっていたらここにはいないだろ』
    『そのうち帰りますかね』
    『さすがにそうだろうな』
    『一昨日よりびっくりしましたね』
    『まったくだ』
     一昨日2人は公園のベンチでソフトクリームを頬張っていると、見知らぬ老婆から突然「神様!」と悲鳴をあげられたのだ。両手を目の前にだして拝み始めたその老婆の対応に困っていると、走ってきた若い男が突然謝りだしたのだった。
     聞くところによると施設の職員が散歩に同行していると、目を離した瞬間に消えてしまったというのだった。はっきりとは言わなかったが、痴ほう症であることを暗にほのめかしていた。
    『案外、痴ほうの方が真実が見えてたりするもんですね』と、イカロスが感心したように呟いたのだった――。
     個室で10分ほどそのあと黙って過ごしていると。『そろそろ』とお互い同時に出た。どうしていいのかわからず、お互い見つめ合っていると突然一陣の風が吹いてきた。
    『クピドー様……これは』
    『うん……まずいな』
     2人で同時に端の半開きになったガラス窓を開けて、窓の下をみたときだった。
    『オーロード!』
     2人が叫んだ―。
     
    『さぁ、いこうか!!』
    喧嘩腰の宣言で近づいてこられても、ジェフが何の威圧も恐怖も感じることはもはや不可能だったに違いない。というのも、インキュバスは拳を握ってファイティングポーズもとることなく、手をだらんとして相手の動きに注視しているそぶりもない。
    「こんなやつが相手か。驚かせやがって」と、独りつぶやく。
     首を2、3度回し悠長に準備運動をし始めた。相手のひょろっとした背丈に一瞬勝機を見出したのか、おもむろに目を閉じて力勝負で相手を屈服させる男性の本能的な狩猟意識を喚起するように首を伸ばす。
     右肩をぐっと下にひく。右の拳を大振りにして大きく後ろへ回した。相手の顔に特大のストレートを打ち込むためだろう。インキュバスの顔面に届かせるためには、後3歩前に進まなければ当たらない。
     一方、インキュバスは凄まじい形相で相手に1歩、また1歩とゴムボールのように跳ねながら走っていく。距離が近づき、いよいよ後一歩で相手の右拳が届きそうになるところまできた。
    右足が宙に浮いて後着地と同時に強烈な右ストレートを食らわそうとした……。
     目の前が真っ暗だった。身体は誰かに知らぬ間に運ばれたのかと思うくらい、きれいによこたわっている。殺意が残る静寂の空気を張りつめる。
     起き上がると、彼の視界はインキュバスを捉える。さっきと同じ格好で手をだらんと下にやって相手を見つめている。嬉々として無防備な状態に自分をわざと置いているような余裕綽々とした様子だ。相手までの距離はおよそ10歩。
     もう一度。相手との距離をつめていく。助走をさっきよりもつけてスピードをあげて突進した。自分がひょろりとした奴に突き飛ばされる訳がないと考え直したのだろう。
    「ぐぐっ……ごほっう」
     物理的な距離のイメージは完ぺきだったはずだ。後2歩ほどで殴り掛かれる距離まで詰めた! その矢先、インキュバスは相手の顎の下の空間に沈んだのだ。
    インキュバスが一気に沈み込むように間合いを詰めた。一瞬動きが固まる。見逃すわけがない。左拳が彼の顔面にめり込んでいた。
    畳み掛けるかと思いきやインキュバスは一撃が終了するやいなや、大きく飛びながら下がって、仕切り直した。態勢を整え相手の戦意が回復するのを待って攻撃する気だ。
    彼がゆっくり相手の間合いをつめながら進む。今度は遠い距離だ。飛び蹴りをしようと飛びながら蹴りを繰り出してきた。インキュバスは、一歩左に軽やかにステップを踏むように移動する。相手の攻撃を体で捌く。左足の外側のつま先部分に体重移動した。そこを軸にして、今度は左から拳をぐるりと180度回転しながら、腰の回転させて振幅の短い反撃の左フックくらわす。矢継ぎ早に、相手がよろめいて下がっていくところ、相手の背後に生け垣を跳び越えるように回り込む。相手の腰をもちあげて、そのまま後ろにパイルドライバーの形でぶん投げた。
     やがて彼は腕力だけでなんとか身体を起こしあげた。口の中から出てくる血を拭いながら、起死回生の咆吼の声をあげた。
    「おぉぉぉぉぉぉぉ! おぉぉぉぉ!」
    インキュバスは嬉しそうにうしろへ下がる。間合いを無視した彼の上段蹴りが空をきった。空振りの脚が地面についた瞬間。それはインキュバスを一瞬視界からはずした瞬間だった。
    インキュバスは宙にいる。まっすぐ胴体とつながった足がしなる。起きる風がナイフよりも鋭く光った。ボコッ! 彼の胸のあたりに底足とかかとが刺さる。
    ガタガタガタガタ!!鈍い音と乾いた音が同時にした。彼はたまらず腹のあたりを抑えながらうずくまった。苦しそうな息を漏らしながら、呻き声をあげる。
    「起き上がるな、俺がやる!」
     橙夏のもとを今度はレイが離れた。一方インキュバスは犯し難い気品を帯びていた。少しの焦りも感じられない。髪の毛は1本たりとも乱れていないのだ。
    そうして何の素振りを見せない中、山が突然動いた。電光石火でインキュバスは膝を一端腹の高さくらいまで抱え込む。それから膝下をムチのように素早く蹴り出す。反撃の相手の右フックを避けて、そのまま伸びた手を下に受け流した。
    そのまま首をつかむ。相手を右に左にひきずりながら膝蹴りを連続。そして連続と5回――。相手もすかさず、首からインキュバスの手を力づくで離す。体制を整えようとするが、焦点が定まらずふらふらと体が揺れる。膝蹴りで目のあたりは膨れあがり、鼻と口からは血を流している。
    彼が突然走った。近くにある鉄パイプを持ってにやりとした。
    「調子に、乗るなよ、てめぇ、誰だ!?」
    『よく我にそんな口きけるな。ただじゃすまんぞ』
     彼は返し刀で笑い飛ばした。すると『死ぬ覚悟か』インキュバスがその笑いを一蹴する。
    「この野郎、ふざけてんじゃねえぞ!」
     鉄パイプで威嚇しようと大きく素振りする。
    『言ったはずだ。その子に今手を出されると困るんだよ』
     歴代のメフィスト家に仕えてきた者だけが持つことを許された威容を誇る口調だ。インキュバスが暗がりで横たわる橙夏を視る。
    彼は二メートル近くある鉄パイプを上下左右に振って、破竹の勢いで襲いかかった。インキュバスは右肩を前にして右手の平を上にあげるようにして構えた。初めてだ。
    ダダダダッ。強烈な鉄パイプの一撃をくらえば形勢逆転になると思ったのか、インキュバスは2、3歩下がる。相手は下がったのを勝機ととらえ、ほくそ笑んだ。
    インキュバスは静寂の声に耳を澄ませるようにして目を閉じた。
    「おい、神頼みか! 死ね!!」
     両者の間合いを詰まる。ここぞという間合いだ。鉄パイプの先端が上を向いた。インキュバスめがけてまっすぐ振り落とされる……。左腕が伸びる。伸びた左腕がしなる。インキュバスは相手の攻撃を左腕で受けた。鈍い音が静寂に混じる。
    「おまえ、正気か!? そのほっせぇ腕折れるぞ」
     そのころ、鉄パイプの音を聞いてか、ビルに入るテナントのホステスの一人が声をかけて、路地裏に野次馬が1人、2人と集まっていた。酔っ払った男女がまるでボクサーの試合でも観るように、野次を飛ばしている。このままだと歌舞伎町の巡回中の警察官がかけつけるのは時間の問題か。
    『思い出作りなら、我に血まみれにさせてもらってから、その後にもし余裕があったらやれよ』
     相手の顔がひきつった。
    『それとも、我がつくってやろうか……せっかくおまえらアダムの子孫のために、妖術を封印して素手で戦ってやってたのに、武器を使うとは、さすが下等な生き物だ』
     インキュバスは明々と闇を見上げて、両掌を高く掲げる。恍惚とした快楽を相手に与えてやるような歪んだ優しさに満ちた顔だ。街の明かりが差し込むあたりの天空は晴れ、雲ひとつない夜空がひろがっているというのに、路地裏の4人がいる上は刻々と濃い雲に覆われはじめた。熱帯夜の風は強さを増し、どこからか酒や油、香水や血の色を運んでくるようだ。空気は張り詰め、暑さと相まって蜃気楼な雰囲気だ。野次馬のひとりひとりもただごとではない空気を察知し、1人、2人とまた夜の街へと消えていく。
    路地裏には4人が残された。
    『おおおぉぉぉぉぉ!!』
    冬の山や川、湖のほとりなどにたちこめる冬霧のような霧に視界が遮られ、墨で濃淡を夜空に描いたような空に覆われている。その中に身を置く喜びを感じるように、インキュバスは低く、低く、唸る。地を這うような声は、呪文のように、あるいは詩篇のように朗々と続く。
    『警察だ!』
    その時誰かが叫んだ。その叫びは3人に緊張を走らせ、インキュバスだけ我関せず顔で【儀式】を遂行しようとしていた、
    『そこに立っている君! 手を上にあげなさい!』
     
     メフィストは急いで橙夏のところに駆け寄った。まだ意識が戻らない彼女の身体を抱え上げた。その声の主とは反対方向の小道を新宿駅を背にして両国橋方向へと疾走する。
     やがて後ろから追いかけてくる足音はもう聞こえなくなった。しかし、眠らない街を一刻も早く去らなければいけなかった。そうしたいと思った訳でもないが、そうしなければいけないと思った訳でもないが、それでもそうした。
     街の明かりもだんだんと落ち着いてきて、辺りは少しだけ暗闇が目立つようになってきた。走って行く姿を周りの人達は不審な目で見ていた。若い女の子を抱きながら中年くらいの男が走って何かから逃げている。しかも歌舞伎町方面からということは、ただ事ではない。そう考えた人達は誰も止めはしなかった。
     人数が少ないスナックの軒下でメフィストはようやく彼女を下ろした。そして、ポケットから瓶を取り出して、彼女の鼻先に近づけた。うぅぅ……うう……10秒もしないうちに効いてきたのか彼女は意識を外に向け始める。
    『橙夏、橙夏』誰かの声が聞こえる。いま一番自分が聞きたい声で、いま一番聞かなければいけない声だ。「橙夏!」今一番聞きたくない声も聞こえる。いつからか分からないけど、いつの間にか聞きたくなくなった声。あれは、夏休みのときだ――。
    夏休みの工作の宿題を家に忘れたことに気づいて、学校に遅刻することがわかっていても、駅に向かって走った。電車に乗って5駅先の自宅に取りに帰るためだ。あれだけ教わりながら、楽しかった思い出でもあるブーメランを先生にみせたかった。
    動く電車の窓から見えた。通過した駅にたしかにその人と腕を絡めてキスをする母親ではない女性を見た瞬間。母親を愛していないことが分かった時にもう、ただの「他人」になった声。
    『橙夏……橙夏―』
     今度はあの時の声だ。少しだけしわがれた声……。
     赤ん坊が沐浴されるような格好で首を後ろから支えられている自分に橙夏は気づいた。目の前にはメフィストがいた。
    『何も問題ない。君の心も体も誰にも犯されてはいない』
    意識を自分の足元に向ける。片方の足だけ軽い感じがした。素足に排気ガスがあたる。香港で自分にと買ったウェッジソール型の白と青のストライプエスパドリーユの片方が見当たらなかった。
    橙夏が二の句を言い澱んでいると、彼が先に質問を投げてきた。
    『どうしてあんなことに巻き込まれた』
    なんと言えばいいか分からなかった。昔セックスを断ったから、レイプされそうになったから、その続きだと思う――とは言えない。
    「勝手にあいつが私の胸をつかんできたから、止めてって叫んだのよ、そしたら仲間呼ばれてあんなふうにさせられたの……」
     嘘の代償が橙夏の頭をもたげた。
    『さぁ、帰るぞ』彼はそれだけ言うと立ち上がろうとした。
    「私は……このままでいい」
    『身体が冷えてくるとろくな考えは浮かばない――やがて悲しみに自分を譲ることになる』
     橙夏は携帯で時間を確認しようとした。携帯をポケットから取り出してみると数回着信があることに気づいた。父親の望からだった。クラブ内での電話も彼からだった。
    「もう放っといて……」
    彼の手を厄介者でも退治するように振り払った。ただただ自分が惨めでならなかった。同時に惨めと思えるだけまだ自分に自尊心があることにも腹が立っている。
     車は5分に一台タクシーが通るくらいだが、行きかう人は相変わらずの多さで、各々が2人を覗きながら通り過ぎていく。
    気恥ずかしそうに、橙夏があぐらをかいで座りなおし、首を垂れる。視界にはメフィストの足だけが映り込み、安心と自己嫌悪が同時に押し寄せて、気持ち悪くなって数回咽た。背中をさすりながら彼は何も言わず黙っていた。
    周りからの視線を集めても、橙夏は気にせず叫んで、叫んで、咽び泣きながら、叫んだ。「喜んでるのか悲しんでるかが分からないの!」
    通過するカップルがびっくりした顔で体をのけぞらせながら通過していく。
    「なんでみんな分かるの? なんで? ねぇ、どうしてあなたも分かるの? ぐすっ、自分が誰なんて、他の人と違うなんて、どうやったら分かるの」
    橙夏は下を向いたまま、上から声が降りてきてくれるのを待っていた。しかし、彼は沈黙を破ることはしない。「……誰にも教わってないよ。誰も教えてくれなかったもん……」涙でくぐもった声で悔しそうに言った。沈黙を破る音は、エコーの聞き過ぎたカラオケ曲だけだ。
    「でもいいの!」
     苦しそうに昇ってくる押しつぶされた笑い声だった。橙夏の顔の下の部分だけ、相変わらず染みと蒸発が繰り返されていた。
     それから2人はゆっくりと歩いて通りを後にした。帰る間、ずっと2人が並んで歩くこともなかったし、言葉も一言も交わさなかった。ただし、橙夏はひとときも彼のコートの裾を離さなかった。
     
    数日後―。橙夏はメフィストの工房(サロン)を見上げた。猫が鋳物面格子窓の周りから、じーっと外をみていた。やがて視線をおとし、橙夏と目が合う。「にゃん」と聞こえるはずのない鳴き真似をしてみると、縄張りの外の見張りを強化するようなキリッと睨まれたような気がした。
    「今日は、ほら、差し入れ。家で作ったんだよ」
     工房(サロン)の扉を開けて橙夏はメフィストの姿を探した。隅っこの方で何やら作業中のようだ。
    邪魔することはなく、慣れた感じで暖炉の傍にある一人掛けのアームチェアに腰かけ、アームの部分に脚をかける格好で本を読み始めた。やがて、メフィストが橙夏の存在に気づいて近づいても、橙夏は本から目を離そうとしなかった。
    『ジュール・ミシュレ『魔女』か』
     本の表表紙を読み上げると、ひょいっと橙夏が顔を出した。
    「読んだことある」
    『ある』
    「あまりオススメじゃない」心配そうに訊ねた。
    『そうじゃない。真実過ぎて問題になったくらいだ』
     橙夏はそれだけ聞くと神妙な顔を作った。妙に諒解したような顔をそれからして、ふたたび読み始めた。聞くと、提出しなければいけない課題の本を自分でたまたま本屋で見つけたらしい。
    「ところで、あっちで何してるの」橙夏は近寄ってきた猫の頭を撫でながら訊いた。
     質問にはすぐに答えず彼は作業部屋に戻った。
    『友と別れるときはギフトが当たり前だ』と、手を止めずに言う。
    『今日は、ここに精油をどれでもいいから、君が好きなようにブレンドするといい。そうだな、テーマだけ私が決めてもいい』
     栞(しおり)も挟むのを忘れるぐらいに勢いよく本を閉じで、目を瞠(みは)った。予想していないタイミングで予想していない提案だった。間髪に入れずに飛びつく。
    「うんうん! やってみたい!」
    『最初に、ひとつ質問をしてみたい。今の気分でなく、自分が一番最悪な気分の時を考えて欲しい。死にたくなるとか最高だ』
    「なーにそれー。だけど、やってみるね」
     相手を喜ばせたい一心で、橙夏は目を閉じてしばらく考える―。
    「考えたよ」
    『よし、いい子だ。君は想像力も豊かだから、きっと良い作品ができる。こういうのは想像力が生まれつき欠如気味の人間は、いくら頑張ってもできないからな』
     そう言うと、始めるように顎で指示をした。
     素直に目を閉じる。彼が一呼吸置いてから質問した。
    『その時に香りたいのは、柑橘系のシトラスの香りか――』
    必死にイメージする。
    『――ディープな花の香りか、それとも――スパイシーで濃厚な香り』
     学校で教師に揶揄われた時のことと、その晩抗うつ剤を過剰摂取し掛けた慌てて指を口に突っ込んでトイレで吐いた時のことを思い出す。最低最悪。
    「柑橘系は嫌だな。楽観的に考えろ! って強制されてるみたいで、すごい押しつけがましい感じがする。スパイシーなのも気分的に……もっと暗くなりそうで嫌だから……だから、残ったディープな花の香りかな……」
    『……よし、目を開けて』
     静かに目を開けた。
     すると目の前にいつの間にかガラスのテーブルと瓶がいくつかセットされていた。
    『これはキャリアオイル、これはオリーブ油だ。そして、他の瓶は全て精油の瓶、それぞれラテン語や英語で表記してあるから分からないときは質問もいいが、名前よりも自分と香りとの間で感じる一蓮托生(シンクロ)を基準に調合したがいい。左から、ハワイアンサンダルウッド、ジャーマンカモミール、ゼラニウム、イランライン、フランキンセンス、ラベンダー、ブルーサイプレス、ブルータンジー、ローズ、ラバンジン、スペアミント、オコテアだ。好きなものをとって、何種類でもいいから、自分で調合するといい。これが君の瓶だ。私は上に行ってるから、好きに時間を使っていい』
    「……うん! 分かった!」
     今から始まることへの期待値が「上に何があるのか」という疑問を上回っていた。
     
    『どうだ』
     1時間ぐらい経ってから、上から降りてきた。
    「まだ……何かが足りないの」
    ――いつも、そうだ、いつも何かが足りない気がする。
     そう考えると、橙夏は突然自分が何か物凄く劣っている存在であることが恥ずかしくなってきた。
     ファッションだけでは普段から感じる汚い「身体」へ向くその辱(はじ)を拭い去れない。これまで胸をわくわくさせていたものが急速に萎んでいく。手に力が入らなくなる。代わりに入ってきたのは、この場からすぐにでも逃げ去りたい、という火照り。逃げる準備をするために、両足が鶏のようにびくびくと揺れ始める。
    『言い換えれば、たったひとつ見つかれば全て解決する』
     橙夏は歓びを胸に閉じ込めて、雨上がりの澄み切った空の月のようにさっぱりとした驚き方をした。メフィストはもう一度繰り返して言う。
    「考えたことなかったけど、言われてみればそうなのかな」
    『幸福になることを想像したらいい。どれがマイナスの感情から救うのではなく。どれが幸福な気持ちになれるか』
     最悪なことのあとは幸福なことをイメージしろだなんて、ジェットコースターみたいだと想った。
    「幸福な気持ち? なんだか恥ずかしいな」
    ――恥。それは自分にむけられたものではない。「幸福」という概念自体への置き所のないこっぱずかしさからだ。むずがゆそうに身体を少し揺すった。橙夏が素直に恥ずかしいと伝えると、『――幸福。という言葉が恥ずかしいとは、閻浮提(げかい)にはたしかにいっつも何かが足りないんだな』と彼が膝を叩きながら言った。
     それから首を捻りながら必死に想像した。なかなかはっきりと最悪なことを思い出すよりも点と点が線でつながってくれず苦労する。
     何度か繰り返してやっと具体的に思い浮かべてきそうになったところで、「うん」と首を振って追加の瓶を選んで加えた―。
     彼が鼻から吸い込む音が部屋中に響く。
    『いい香りだ』
    「うん、ほんと、気持ち悪いけど気持ちいいような」
     少しの時間で最悪と幸福をイメージしたからだろう。想像力に体力を奪わらるくらいに費やしてしまったので、少し眠たい。
    『幸福とはそんなものかもしれないな』
     ゆっくりと咀嚼するように言った。
    『まず、イランイランが多め。イランイランは精神的な調和を助ける。そして怒りを緩和する――ゼラニウムも目立つな。神経を刺激して悪い記憶を開放する助けになる。後は、うん、やはり、サンダルウッド。負の自己帰結を排除する。そして、他のに比べるとブルータンジーも若干多いな。肝臓とリンパ系を浄化する働きってとこか』
     橙夏は次々に言い当てられる中身を隠すように胸に手を当てながら聞いていた。
    「どう? センスある」思い切って質問する。
    『…………』
     やっぱり、さっき逃げ出しておくべきだったのだ。
     そうしたらもう二度と会わずに済んだ。橙夏は、悔し涙を抑えるために罪人のように、踏んでいる猫のクッションを見つめた。
    何も言わずに目の前のメフィストの横を通り過ぎて静かにドアに向かった。落とされた肩は重力に逆らうことなく足取りを重くした―。
    『もちろんだ!』
     受け入れられる安心をこのとき初めて知った。重力を失いそうになった。
    『もちろん、私が思った通り、これは見事な解放系の精油だよ』
    そう言って、瓶もういちど鼻の近くに持っていく。
    『いつのまにか人間はいろんなものを背負い込みすぎるし、溜め込みすぎる。何事もほどほどが一番なのだが、そんな自分の中に溜め込んだ怒りなどが解けていくのをイメージしながら自分のお腹の部分や、足の裏に塗るといい』
     得意そうに胸をはった。さっきまでの落ちた肩は肩甲骨にくっつくほどに反り返り、腰にあてた両手まで瑞々しくなる。
    「今度は手じゃないんだ」
    『そうだ』
    「へぇ、奥が深いんだね」
    『上を目指すんじゃなくて、何事も奥を目指したがいい』
    「えっ。下ネタ」
    『何のことだ』
    「冗談だよ」
     橙夏は神経質に笑った。
    「この前は取り乱したりして、ごめんなさい。本気じゃなかったの」
     覚悟を決めて切り出す。
    「いつも同じこと繰り返しちゃうんだけど。それで何人も友達失ってね」
    『今、この瞬間、謝ってるだけで十分。君は何かを変えただろ』
    「ありがとう」
     自分の口からそんなシンプルで短い言葉が出て来ることに内心驚いた。
    「ほんと……優しいんだね。人間、とは、思えないわ」
     一言一言を慎重にくるむような言い方をした。
    『ふざ、ふざ、ふざけるんじゃない、私に、優しさなんて、そんなものは断じてない。それにこれは私の家業だ。仕事に打ち込むのは当たり前なことだ。雨でも降ってきたか―』
    遅ればせながら狼狽しながら手を広げて大口舌のようにまくしたてた。
    脈絡なく窓の傍に向かった。雨は降っていなかった。
    彼が窓の傍に向かう途中、周りの家具や瓶たちもすくすと笑うように音を立てた。外は燦々と太陽が輝き、日差しが窓の外から差し込んでいた。ちょうど、陽だまりのところで猫はくむくむと昼寝中だったのに、起こされて少々不機嫌にテーブルの下に悠々さを半分残したまま逃げ込んだ。絶好の場所を奪われて、不貞腐れたような寝方でおしりを彼らの方向に向けている。
    乾いたアスファルトを所狭しと人間と自動車が往来していた。
     突然前後に猛ダッシュで、裏路地を走るかのように野性味あふれる走り方で部屋の中を回りはじめた。呆気にとられて猫を追っていると、しばらくしてから猫耳形のトイレに入っていって、こちらを向いたので、気を遣って見ないふりをした。
    「ほらほら、怒ってないで香りでもかいでリラックスしな」
     橙夏は目をこすりながら先回りして布石をさらりと敷くように言った。そのままほんの束の間で眠りに落ちていった。日が暮れてからもそのまま起きることはなかった。
     

     
    入口のドアに近い「頂点」の部分だけ意図的に人が入れるようなスペース。長机がひし形の形に並べられ、パイプ椅子が囲まれた空間にサークル状に並べられている。
     遠ざかるメフィストの背中を橙夏は慌てて追いかけた。
     室内は射抜くような夏の陽射を避けるためか、黒いカーテンが窓に備え付けられてある。室温は弱い冷房のおかげでそれほど外と変わらないように感じられた。
     歌舞伎町での事件以来、橙夏はメフィストのアシスタントとして働いていた。というのも、ほぼ毎日予定されていた塾をすっぽかして《erbe》を訪れていたのだ。吸収力の早い年齢ともあって知識の成長度が著しい。「お客」の名前―そもそも覚えるといよりは、誰もが知っている海外・国内の著名人ばかりだったのではあるが―も覚えが早かった。
     彼は実にさまざまな外国語を流暢に話していた。発音は絹のようにへたりやぎこちなさがなく、手話の場合も彼の指は実に美しく空中で舞い踊っていた。来客を告げる真鍮のベルが鳴れば、すぐにソファに案内する。対面にメフィストが座るのを待って、お湯を沸かす。メフィストの目をみる。どういうブレンドでハーブティーを淹れるのか、もはや二人にしかわからない略語、いや、隠語を使用しながら会話が繰り広げられる。客と彼が話をしている間、戸棚の瓶からそれぞれのドライハーブを取り出してブレンドするというわけだ。
    教会や礼拝堂の牧師が演説するようなプラットフォームが空間の真ん中に位置する。そこには、プラスチック製のAフレームで「ファシリテーター」と書いてある。四角いテーブルから離れてぽつんとあるテーブルがどうやら受付らしい。やけに慈愛に満ちた表情の中年の女性と、ずいぶん笑顔を絶やさない若めの女性だ。
    「初めてですか」
    『私は、初めてではないが、この子は初めて』
     するとその2人の女性は感心したように橙夏に視線を向けた。
    「奇跡をみなさんで体験するために、少しだけ説明させていただきますね」
     ――奇跡? 面食らったように目を大きく見張って身体をのけぞらせた。既にインチキ感が充満していると想ったからだ。
    近づいてみてみると、下膨れした丸顔の中年女性と角ばったいかつい顔の薄化粧の2人は、笑顔がないとさぞかし怖いのかもしれないと想った。その2人のコンビがリーフレットを橙夏に渡しながら説明し始める。
     初回参加者に必ず説明しているのであろう内容を終始笑顔を絶やさず彼女たちが話し終わると、ネームタグを選ばせられた。さきほどから気にはなっていたが、自分の名前がある訳ではない。
    「好きなお名前をつけてください」
     影の薄い別の男が両手を膝に置いたまま2人に話し掛けた。
     メフィストは《ジャック》。橙夏は《キャサリン》を手に取った。
    「くれぐれもミーティング兼セッション中は、実名の名で呼び合わないようにしてくださいね」
    2人はテーブルの味気ない紙コップを持って、サークルの中へと閾を越えて入っていった。パイプ椅子に並んで腰掛けていると、徐々に人が増え始める。隣の彼は目で姿を確認してから椅子に座るまで追っている様子だが、それも気のなさそうな追いかけ方だった。
    10名ほど集まったところだった。会議室の大扉が閉まる。
    キャサリンには寮生活の光景と目の前の光景が重なって思えた。一人でいたいのに、一人でいられない。週一のフロアミーティング。積極性が絶対命令。消極性は負け犬の証拠。〈次世代のリーダーシップ〉とやらの素質を持ち合わせていない彼女にとって、寮生活は完全24時間監視下にある刑務所のようなものだ――。
    扉を閉めたスタッフらしき人間が急いで窓へ向かう。埼玉大宮駅舎とそごうデパートが見晴らすことのできるその窓をさささっと黒いカーテンを引く。何やら、夏の肝試しのような、ものものしくもおかしくなってしまう雰囲気になった。
    年齢はおよそ30後半から50歳くらい。ほぼ女性。共通していることは、誰もが鬱蒼とした心労の痕が顔に刻まれ、不安に後ろ髪を引かれているように思える。
    そうして視線を研ぎ澄ませていると、ふと視線同士が重なった。
    20代の若い女性。華奢な足がゆるりとしたパンツから出ている。座っていても身長が高いことがわかった。上半身はリネンガーゼのロングシャツ。シャツの中はグレーのタンクトップ。胸の色気は、声高々にとはいかないまでも、それなりに強調されている。華奢な両足の真ん中には、受付隣の丸テーブルに置いてあるジュースを自由に飲むための紙コップではなく、来る途中で買ってきたのだろうコーヒーチェーン店のカップが収まっていた。不幸を背負ったような細身の手足。眼窩のくぼんだ、土色を帯びた血色の悪い顔。
     楕円形の壁時計が4時を廻った。
    「愛情、そして信頼の絆――」
     まるで映画が始まったような軽い気持ちでキャサリンは紙コップを口にあてた。
    「だからこそ、こうしてわたし達はここに辿りつきました。支えあっているのです。恥ずかしいことではない。その絆のサークルの中でお互いの弱い部分を励ましあい、負の連鎖が入らないようにしてます」
     先が見えない冒頭だ。
    「しかし、本日はオープン・ミーティング。初めての参加される方もいらっしゃいます。黙ってお話を聞いておくだけでも全く構いません。お話しする気になられましたら、わたくしにお知らせくださいね」ファシリテーターのフレームの前で、小太りの女性がみずからの歩兵隊に指令を下すように見渡す。
    「本日ファシリテーターを務めさせていただきますエルマです」 
    オープン・ミーティングでは感情の回復に関心のある人なら誰でも参加できるらしく、クローズド・ミーティングは感情の問題を持っていると思う本人であれば、だれでも参加できるらしい。
     オープンでもなく、どちらかというと、どっちの場合でもクローズどのような……とキャサリンは心の中で思った。
    「それでは、まず瞑想にはいりましょう」
     チャカッとラジカセの再生を押す音がした。「それではー、いつものようにー、目を軽く閉じます。呼吸観察からいきましょう。だんんだんと、自分の呼吸がー、自分でコントロール、できるようになっていきます」
     キャサリンが面食らって助けを求めようと右隣をみると、既にジャックは瞑想に入っていた。清々しい顔に一瞬尊敬が揺らいだ。
    「いま、自分の、頭にイメージするもの、それを他人に聞こえないように、口にだしてみます。つぶやくように、出します。どんなものでも、大丈夫。普段は人に言えないことでも大丈夫。だれもあなたを差別しません。さぁ、イメージしてくるものをだんだん口にしていきます。神に全部委ねて、安心して、リラックスしてみましょう」
     エルマはまるで言語を覚えたての子供のように、ゆっくりと空気の膜に言葉を置くような口調で指示をだす。
    誰かの手が背中に置かれる感触。心臓にまで届きそうな毛布。目をふと開けると、ジャックの右手が彼女の背中に置かれていた。薄目で見ている。2人は目を合わせただけで無言で会話した。
    「それでは、呼吸を手放し、ゆっくりと心の静寂を大事に目を開けて、みましょう」
     瞑想というか祈祷の時間のようだった。
     エルマの次の合図で「告白」が始まった。
     摂食障害、アルコール依存症、近親者による家庭内暴力。学校や職場、ネット上でのいじめ。セクハラ、パワハラ、モラハラ。それぞれが当たり前のことだが物語がある。その物語は似ているようで異なるし、異なるようで似ている。そして、どれにも共通することは、皆物語の中でキャサリンと同じ年齢の時に深い痛手を負うような経験をしている、ということだ。
     皆「自分らしさ」に悩んでいた。「自分らしい感情」、「自分らしい思考」、「自分らしい服装」、「自分らしい進路」、「自分らしい生き方」……そんな「自分らしさ」に翻弄されている物語。時代に洗脳された物語。ようするに短い人生を棒に振るだけの物語。だんだんと、キャサリンは自分の悩みがバカらしいものに思えてきた。
    ある「実験」をしてみようと、胸に決めた。どうしてそんなことをしようと思ったのか、それを説明することは容易ではない。
    何かを断念するときには理由はいくらでも浮かぶ。逃げるときの理由は余るほど見つかってきた。諦める理由も、挑戦しない理由も、嫌いな理由も……。その反面何かを始めるときや継続するとき、後になって振り返ってみると意外にも言葉で説明できる理由が少ない。好きな人の理由より嫌いな人の理由の方が常に多く言うことができるものだ。
    皆が話し終わると、キャサリンの番だ。その前のジャックが棄権したので、キャサリンは多少面食らったが、どこか既に腹は決まっていた。
    「さぁ、今日初めての参加者の方ね。えーと、キャサリンさん。どうかしら、何かお話ししたいことあるかしら」
     エルマが訊ねる。脆性(ぜいせい)の高そうな演出された親しみ易さに思えた。
    「あります」
     後戻りできない後悔と突き進む覚悟が胸に押し寄せた。
    「あら、ではみなさんキャサリンのお話を聞きましょう」
     皆の注目がキャサリンに向けられた。
     始まった。人前でのプレゼンテーションが大嫌いなキャサリンの話。意を決っして注目の中話し始めたのだ。それは、第一声から場を凍りつかせることとなった。
    「魔法陣みたいですね。悪魔が入り込まないような」
     蟻の騒めきが沈黙の後に続く。
     エルマが場を制圧しようと口を開く。
    「面白いこと言われますね。どうしてそう思うのか、聞いてもよろしいかしら」
    半ば「聞かせろ」という命令を示唆しているように思えた。
    「宗教的だし、支えあってるようにはさっきから見えません」
    騒めきは今度は大型動物のそれになった。
    キャサリンは気にせず続ける。
    「自分の意見を正当化する集団だから、気が楽ですよね」
    「あのね、キャサリンさん」
     彼女の声色が変わった。
    「自分の意見を正当化する人がいなかったら、みんな自殺してしまうわよ。それに、先程のキャサリンさんの『宗教的』って意見に対してだけど、わたし達は特定の教義や信条を肯定も否定もしていないの」
     おのおのが肯くのが見える。
    「でも、『神』って言葉使ってました」
    「……たしかに『神』という言葉は使うわ。でも、それは人間の叡智を越えた存在。力という意味なの。自分の努力だけで世の中はよくならないから、見えない力―いわばサムシングオーサムなものを『神』という言葉に置き換えているだけなのよ」
    「分かりました。あともうひとつだけ、いいですか?」
     キャサリンの狙いはここからだ。
    「もちろんよ―」先ほどよりも険しい表情でエルマが促す。参加者も敬遠するように背もたれに背中を預けきった状態だ。
    「みなさん、最初の自己紹介の時に、1年以上、中には3年もこのサークルに所属している人がいるって言っていましたよね。自分の意見を正当化するのにそんなに時間がかかりますか? もし、傷が癒されなくて、それで正当化が必要だとしたら、こういう団体に所属するピリオドを設けるべきだと思います」
    「人それぞれなのよ、キャサリンさん。そのご本人が必要なだけここに参加されたらいいの。そういうところなのよ、ここは。一日で心を溶かせる方もいれば、何年もかかる方だっていらっしゃるの。そういう方にはずっとクローズ・ミーティングに参加していただくの。異分子が入った場合に、このコミュニティは理不尽に壊されかねないの」
     ついに射程距離に入ったような緊張感が場に伝わる。
    「私はアメリカの高校生です。留学しています。絆を大切にします。プライドを持てといわれます。自分に自信を持てとも……」
    「ほら、そうでしょう!」すかさず両手を重ねる。声が上ずった。キャサリンは首を振っているが、すぐさま彼女が続ける。
    「先生はそう教えるものなのよ。わたし達もそうなの。もう一度、人間としての個人の尊厳を取り戻しくてここに集まっているのよ。閉鎖的だと言われるかもしれないけども、いいの。それでも――周りを気にせず仲間とともに成長していくのですから」
     また笑顔を作って参加者を見渡す。
    「でも、違う気がするんです。うまく説明できないけど――」
    「どこが気になるの」
     嵩高(かさだか)い疑問の投げ方にキャサリンは一瞬怯みそうになる。
    「……尊厳って私はまだどういうのか分かりませんが――」
     ふたたび騒めく。分からない人間が意見などするなと言わんばかりのひそひそ声。キャサリンは深呼吸をして自分を落ち着かせる。
    「個人の尊厳って、偽善的……」
     まだ言い足りない。
    「……人間に必要ですか」
    どよめく室内。騒めきは深まり、やがて渦になった。キャサリンは、顎を両親指と人差し指の間の水かき部分にはめて、合わさった両人差し指に鼻をおしつける例の癖で自分を保護しようとした。
    ところが、背中に手の平が覆いかぶさった。
    「むしろお互いを疑いながら生きているように思えます。学校で、リーダーになれ、リーダーになれ、と言われるのと同じことだと思います。例えば、このペーパーにペンの役割をしろっていっても無理ですよね」
    「人間には無限の可能性があるんだから、若いうちに決めてはだめよ」
     恐々しい表情でキャサリンにぴしゃりと打つように言った。
    「いや、決めているのはわたし達じゃなくて周りです。わたし達は常に監視されて、その社会にふさわしい人間が形成されている」
    「じゃあ、キャサリンさんは犯罪者を社会で育てた方がいいとでも言うのかしら? 黙って聞いてれば、とんでもないわね」
     キャサリンが、というより、むしろ他の人間たちの表情が固くなった。恐る恐る皆キャサリンの次の発言を待っている、仰々しく手を合わせる者さえいた。キャサリンは尻込みすることなく続ける。
    「そんなこと言ってませんよね」
     いよいよひとりの女性は吐き気で嘔吐(えず)き始め、両隣の参加者が慌てて背中を摩る。血腥(ちなまぐさ)い決闘をしかけているわけではないのだ。
    「誤解しないでください。わたし達の役割を物みたいに決めているのはわたし達自身じゃなくて、この社会。『社会』って言葉を使わないと現れないモノ。この不透明で未確認のモノです。コンセプト上だけで存在するしかない、頼りないモノ。なのに、ものすごい強烈な威力を放つモノ―」
    「そうやって、社会や大人のせいにできるのは若い時の特権ね。そんなに世の中甘くないわ。わたし達は、人間の尊厳を奪われかけた存在なの」
    「何もできなかったんですか」
     ジャックが、ちらりとキャサリンの方を見上げた。興奮して立ち上がったまままくしたているキャサリンはようやく結論に達しようとしている。
    「あなた、何を言うの……」
     パタッ、とフレームが落ちた。固唾を飲み込む音が静寂を打ち破る。
    「偽善者は祈る姿を皆に見せるために、頃合いを見計らって会場や広場に集まるものでしょ。心から祈るつもりなんてないようにも思えるんです。あなたたちは、本当に祈ったことがありますか」
     唾をぐっと飲みこむ音がした。ふと周りを見ると、あたりは水を打ったように静まり返っていた。
    「何でもかんでも『建設的』とか『実はプラスの……』というのをくっつける風潮にありませんか――例えば、「前向きな離婚」とか、「建設的な葛藤」とか、「生産的な喧嘩」、「ポジティブな自殺未遂」、「必要悪な薬物乱用」、「自分探しのためのアルコール中毒」……そのうち「建設的な戦争」もありえそうです」
     ここまでくると、誰が話しているのかさえキャサリンはわからなくなっていた。「橙夏」ではなく「キャサリン」という別の女の子の意見を代弁しているような妙な錯覚さえ覚えた。
    「――ありえないと思うんです。そんなこと無責任に言わないで欲しい。いいじゃないですか、よくならなくても。なんで良くしようとするんですか……病気のままじゃダメなんですか」
    エルマは驚きのあまり、喉の奥から変な音を出した。
    「病気のままでいい訳ないでしょ!」言ったあとも、肩で息をしている。
    「異常だと思わせることの方がおかしいと思います」
     彼女は身悶えするような怒りを抑えるように手をだらりとした。
     下に視線を移して、キャサリンが息を吐く。相手を怒らせるようなことを言っているのは重々承知の上でだった。
    「傷ついて、なんでそれを肯定するようにして生きていかなきゃいけないんですか」
    「肯定しないと人は生きていけないからよ!」彼女は金切り声でをあげた。「自分を騙すことも大事なのよ」すぐに鎮めるように声の調子が下がった。
     キャサリンは首を振った。
    「傷がもし私にあったら……そのまま大切にします。だって……それって私の個性だから……」
    「個性」という言葉に自分でも声が詰まる……。
    「もう少し相手の観点から物事を見ることが大事よ。これからそれができるようになるわ。そろそろこれで……」
     制止されようとするのを感じ取った。
    「なんで物事を別の視線から見なきゃいけないんですか」
     話ながらキャサリンの頬を一粒、また一粒と涙が伝った。
     畝(うね)る静寂が部屋の隅々に手を伸ばす。そしてその手は、キャサリン以外の参加者に浸食し、海食洞のような洞穴を作っているように見える。背中に零度が走った。
    「啓発って楽しく生きるために暗い部分まで明るくしようとすることじゃないと思うんです。暗くていい。せっかく暗いのに明るくないって、思っちゃうのって……」
     粗さと隆起のない平べったい沈黙の声がキャサリンの耳朶にべったりとへばりついた。
     ふーっと一度息を吐いてから、なるべき力を込めないで言った。
    「癒そうとか、直そうとか、前を向こうとか、考え方を変えよう、とかあまりいって欲しくないんです。これが私の言いたいことでした」
     キャサリンはがくんと座り込んだ。達成感があった。そして、その平らな沈黙の上に自分で話をしながら自分でも驚く思想が彩られてた。
     どれくらいだろうか。ショーウィンドーのマネキンのような参加者たちが、魔法―呪いかもしれない―が解けたように静かに短めの衣擦れの音がぽつぽつとキャサリンには聞こえた。実は短かったのかもしれないが、あまりに長く感じられる沈黙なので、キャサリンはその場に意識を残さず、どこか遠い場所に意識を向けた。ここではないどこか。
     薄目で周りを見る。時間のねじを巻き戻したような光景が目に入った。皆が瞑想のときのような陶酔しきった顔でキャサリンを見つめていたのだ。
     次の瞬間。海の部屋の更衣室で着替えて出てきたら雪山に出てきてしまったと同じくらいに、キャサリンは驚きのあまりに目を白黒させ、目の中で星がちかちかと飛んだ。割れんばかりの喝采―それは誰も予想できなかったに違いない―が静寂の前に躍り出た。
     嘔吐(えず)いていた女性が鼻水と涙で滅茶苦茶な顔をハンカチで抑えている。
    「すごい! 涙でちゃう」
    「ずるい。そんなこと言われたら……」
    主唱者(アポストル)への拍手の中で聞こえてきた声はどれも少しだけ涙声で揺れていた。
    ぽろぽろと泣くものもいれば、咽び泣く者、前かがみになったまま動かない者もいた。特にあの若く暗そうな女性はきらきらとした涙を湛えながら、ずっとキャサリンの方に視線を送って合掌していた。エルマさえも泣きながら手を叩いている。ジャックは……皆より2拍ぐらい遅れてはいるが流量な拍手で讃えた。
    「キャサリンさん!」エルマが喝采を割った。
    「ほんとごめんなさい! わたしったら全然あなたの意見を受け入れなかったわね。すごく恥ずかしいわ……今は受け入れるどころか、賛同で胸が一杯! 今日は……来てくれて、ありがとう!」
     目の縁をハンカチで抑えて声を詰まらせながらも伝えようとしていた。手で胸のあたりの服をぎゅっと掴んでいる。キャサリンも、胸がぎゅっとされたように感じて思わず涙がこみ上げてくる。涙ぐみそうになってしばらく顔をあげられなかった。次から次へ零れる涙がいとおしくて仕方がなかった。
     エルマはプラットフォームの前に出てゆっくりとキャサリンのもとへ歩いていった。キャサリンの前で止まる。顔を綻ばせた。両手を広げてキャサリンを抱きしめた。 びっくりして呼吸が一瞬止まった。母親と同じ匂いがした。顔を歪ませてキャサリンはしゃくり上げるように泣いた。
     キャサリンは船舶から排水されるバラスト水のように、エルマの胸にすがってごーごーと泣きじゃくった。涙が後から後から出てきた。全身全霊で泣いた。へとへとに疲れて涙が涸れるまで。
     もらい泣きしていた人達の拍手もおさまると、戦場を生き抜いた兵士たちのように絆が強まり、和やかな雰囲気でミーティングは幕を下ろした。
    最後のエルマの総括で、もう一度キャサリンへの大きな拍手の波が起こった。拍手は時間が経つにつれて一層強まった。
    ミーティング終了後、思いがけないことが続いた。キャサリンは近くのボーリング場での「打ち上げ」に誘われたのだ。
    「これから行くところがあるので、遠慮させてもらいます」
     別にあるわけではない。相乗り(アシスト)を期待してジャックの方に顔を向ける。思いがけない一言が飛び出した。
    『私も行きます』
     唖然とした。わけのわからない衝撃で声に出せなかった。『行くよ』と言いたそうに、ジャックはキャサリンと目を合わせた。
    『みんな激しい命懸けの葛藤の末、君を受け入れたんだ。これは究極のヒューマニズムだ』とわけのわからないことを耳打ちされたキャサリンは、ジャックの裏切りのせいでもあるのだが、断る理由も特になかったので、行くことに決めた。
    皆帰り支度をして、わいわいとエレベーターに乗り込もうとしたときだった。
    すくっと例の若い女性だけが乗り込もうとしなかった。
    「あの……」困ったように鼻の頭を掻く。実際困っているのはエレベーターに乗り込んでる側の方だ。警告音が鳴る。
    エルマが「ミッチーさん」と呼んだ。ミッチーっていうんだ……キャサリンが彼女が名前が呼ばれるのをこのとき初めて聞いた。というのも、エルマは彼女の番にきたときだけ、少し沈黙を挟み、ひとつ飛ばして隣の人に移ったのだった。
    彼女は意を決したように叫ぶ。
    「ボーリング……行きたい……行きたいです!」
     キャサリンは目を見張った。
     皆もぽかーんとしていた。
    「ミッチーさん!! 話せたじゃない!!」
     エルマはエレベーターを降りた。ミッチーを力一杯抱きしめる。箱の中にいるキャサリンやジャックたちは警告音が鳴る中、示し合わせたように拍手を送った。
     世にも奇妙な光景だった。が、奇跡の一日に間違いはなかった。
     
     斜陽の中、賑やかな大通りを歩いてきたはずだが、キャサリンは夢見心地でどこをどう歩いたが覚えていなかった。
    「ねぇ、どうして」ある疑問が頭をもたげている。
    「この2人もついてくるの―」
     キャサリンは喜色満面で隣のレーンで準備運動をするクピドーとイカロスを見ながらジャックに訊ねる。
    『タイミングが悪かった』一同が建物から出て大宮駅まで歩いていると、ちょうど2人に遭遇したのだった。
    「どういうこと」
    『あいつらは神出鬼没(オムニプレゼンス)だし、好感誘発(バトンホール)の能力があるからしょうがない』
    「……ったく本当にその言葉好きね。私と出会ったときもその言葉使ってた。説明になってないって。『オムニプレゼンス』ってだいたい何? 韓国語みたい」
     キャサリンはいくらか苛立っていた。というのも苛立ちには理由がある。クピドーとイカロスの2人はどこにいてもそのマイペースさで周囲を巻き込むようなところがあるのだ。新参者の2人は、すでに輪の中心となっていた。
    「キャサリンさんのお友達愉快な方たちねー」エルマの言葉に、キャサリンは苦笑いで応えた。隣に座って傍観しているジャックを肘でつっつく。
    「恥ずかしいから止(や)めてよ」
    『なにを』
    「あの2人」キャサリンは顎で指した。
    『だから――』
    「注意ぐらいできるでしょ! さっきからみんなに知り合いだと思われて私恥ずかしいのよ。何さっきから自分だけ知り合いじゃありませんみたいな澄ました顔してんの」
    『知ることは知らないことだ』
    「わけのわからないヘリクツはやめなさいよ。大人でしょ」
    『楽しそうにやってるじゃないか』
    「ガーターでハイタッチしているじゃん! ルール! 周りから白い目で見られているよ。喜んで応援しているのはあの人達だけだよ……見てよ、あの菩薩のようなみんなの顔!」
     ジャックは失笑した。キャサリンはこのとき気づいた。他人事のように笑っているが、おそらくこの男もルールを知らなかったことを。
     くせ毛と薄毛の2人の喜ぶ姿をみて、皆は慈悲深い笑みを浮かべている。
     ミッチーと呼ばれる女性とそのあと少しキャサリンは話をした。看護師の仕事をしているらしく、ここ1年間以上ミーティングには参加していたそうだ。 医師から「心因性失声症」と診断されたらしく、発声練習やカウンセリングも続けているか一向に快方に向かわなかっのだと。職場では使命感によってなんとか医師や他の看護師との意思疎通はできてはいるらしいが、職場から離れると声がでないというのだった。
     原因までは訊ねることはできなかったが、何度も「ありがとう」とキャサリンの手を握った。
    「名前、何ていうの」キャサリンがジャックの膝をたたいた。
    『名前』
    「名前だよ、ネーム」言葉の通じない赤ん坊に話すように彼女がゆっくりと話す。
    「あの2人。ちゃんと紹介してよね。あなたのア・シ・ス・タ・ントでしょ。それに今日は私がヒロインなんだからね」
     答えない彼を数秒間目を細めながらじろりと見た。その後、キャサリンは答えを待たずして、自分の番が来たのでボールを手に取った。
    振り返って笑う。過去の自分の山を登ってきて、過去の残層を下層部に確認したような感覚。そうして、にっこりとほほ笑んだ。彼もつられるように笑った。神経質な笑いだった。しかし、本心が見え隠れしたのも事実だ。刻まれて揺蕩(たゆた)う笑い皺が何よりの証拠だ。
     幼さの残った笑顔は、初夏の南仏プロヴァンスのラベンダー畑のようにどこまでも柔らかく朗らかだった。
     
    翌日。橙夏はいつもどおり《erbe》にいた。
    眠る前に思い出してまた泣いていたのだろう……腫れた瞼を隠すために帽子を深く被ってやってきたのだった。メフィストは何も言わずに、ラベンダーの瓶とコットンを渡した。
     しばらく横になってコットンを置いていると、ひりひりとはするがだんだん効いてくるのが分かる。10分ほど横になると、スクっと起きていつもの仕事にとりかかった。
    まずは猫のトイレの掃除だ。次にブラッシング、猫の餌やり。所要時間は10分。箒で掃き、そこら中に置いてあるインテリアの埃を拭く。とにかく走り回った。橙夏は芝居がかったような「貧乏暇なし」が口癖だが、何やかんや、嬉しそうに働いている。
     毎日通うことで橙夏は色々なことを学んだ。そのほとんどは見学しながらだ。メフィストとお客との会話をバレないように盗み聞きすることで知識を蓄えた。ハーブといっても3種類ある。
     1つは食用のハーブ。いわゆる料理やお酒やお菓子類を引き立てるために使う場合と、治癒力促進効果を強めることを目的として植物栄養素(ファイトニュートリエント)を含むハーブを使う場合がある。
     2つ目は治療や予防目的のメディカルハーブ。
     そして、3つ目のハーブは芳香を放つアロマティックハーブ。さらにはメディカルハーブとアロマティックハーブは特に、体に取り込んでも大丈夫な精油(オイル)と、インセンスを楽しむためだけのディフューズ用の精油(オイル)に別れる。
     この日も昼食の時間まで、いつものように有名人がお忍びで訪れてきた。そして、皆帰り際必ず橙夏に手を振って親し気な挨拶をしてくれた。
     昼頃になると、まず猫にキャットフードと鰹節を混ぜたものをお皿にいれる。そして、必ずその時橙夏は眉間のあたりからおしりの方向へ撫でてあげるようにしている。というのも、機嫌の良さそうな音をだしながらカチカチカチと食べている姿が好きなのだ。癒し効果抜群。
     しかしながら、唯一違和感を抱く対象があった。謎めいた事実――それはメフィストではなく来るお客に共通していることだ。皆一様に「お代はいつものような形でお支払いします」と言って部屋をあとにした。
    そうこうしていると、聞こえてくるのはいつもの「オーケストラ」だ。
    バスクラリネット奏者として嫌々参加している―オーケストラでは「お休み」が多いので退屈しのぎにもならない―時よりも何倍もすてきな曲。親愛なる夏の風。香りとその曲を運んでくれるこの時間帯が、橙夏の一番のお気に入りだ。
    瓶の蓋がポンッと開けられる音。瓶の蓋がパカッと小さく開けられる音。グラインダーのカシャッカシャという音。包丁で切ったり叩いたりする音。塩をひとつまみしてふりかける音。焼かれる音。フライパンとコンロがぶつかる音。アルミをひく音。オーブンの音。
    橙夏はこうして猫を撫でながらキッチンには入らず、音を聞いているのが好きだった。まるで、クリスマスプレゼントの前に目隠しされた状態で連れていってもらっているような気分になるのだ。橙夏の弾む音を出す心こそがコンサートミストレスといったところだろう。
    いつもように手作りの趣向を凝らしたランチが運ばれてくる。
    驚くのはこのランチが「コース」ということだ。しかも、一流ホテルで出てくるものと遜色ない。ちなみに、この日のメニューは――アミューズ・ブーシュはカジキマグロのハーブロールとトマトのソルベと卵のココット。前菜はホワイトアスパラガスのマリネ。魚料理はヒラメのフィレ トマトソース。お口直しはシャンパンのグラニテ。メインディッシュ:牛フィレ肉のステーキ。デザート:ショコラミルフィーユ。そして、アイスブレンドハーブティーはハイビスカスとローズヒップの水出し。
    芸術作品のような盛りつけと香ばしい香り。バゲットをちょっと漬しながら食べると最高なのだ。甘い魅力に勝てない。勝てる女の子がいれば会ってみたいものだと思った。
    いつもと変わらず、食事中の2人とも水入らずの無言だった。メフィストがそう命令したと勘ぐるかもしれないが、2人はそういうタイプの人間であるだけだ。無駄な話を食事中には絶対しないという哲学。レストランでもしこの2人が無言で食べていたら必ず注目を浴びたであろう。
    美食家たちと思われるか、冷め切った親子関係か、または年の離れた恋人と思われるだろうか。 
    「ね! 遊園地行きたい!」
     お腹のお肉を触る手をとめて、突然橙夏が言った。
    『誰が』彼は目を丸くした。おまけに猫までまん丸な目をさらにまん丸にする。
    「誰がって、私とあなただよ」
    上目遣いで下から覗きこむように、恥ずかしそうに髪を右耳にかけながら言った。
    プロポーズされた恥じらう処女のような微笑み方だ。
    「あ、でも勘違いしないでよ。メイクアウトなんてする気ないからね」
     憎まれ口は相変わらずだが、相手を傷つけないそれを橙夏は心得ていた。
    「あ、また止(や)めてよ! 例のもじゃもじゃしたお調子者呼ぶの。あのひとすぐ空気もってっちゃうから、雰囲気を台なしにしてくれるんだよね」
     彼は黙って、外を見た。対面に座る橙夏をみて、こくりと肯く。ふたりともまた黙って牛フィレ肉をナイフで切りはじめた。
     
    「なんでまた……」
    生憎、早朝から小雨とは言い難い雨が降り注いでいた。
    そんな天気にがっかりもせずに橙夏の顔は一点の曇りもない。いや、なかった……。ある神が参加するまでは。
    橙夏は睨みながら地図を見続ける。遊園地攻略の作戦を練った。
    『橙夏ちゃん、どこから先にいく』
     クピドーは愛用の陶磁器製のボウルに蓋を付けたパイプの持参に対して釘をさされていた。よって、リコリスの根を噛みながら話すのでのど飴のような口臭を漂わせている。メフィストは、禁煙に耐えられないであろう神のために、タバコのように数本を小さな包みいれて渡していた。
    「今考えてます」素っ気なく事務口調で橙夏が応える。
     甘く清涼感のある香りがリコリスの根から放たれているとは分かっていても、クピドーの口からも臭ってくるのには生理的に受け付けられないでいた。
    『ここがいいかな』クピドーが地図を指で指しながら言った。
    『まずこういうところで心臓慣らしてからじゃないとな』
     くちゃくちゃと音を立てながら話す。
    「こんなところに並んでたら、他の人気があるの全部乗れなくなるよ。何のために高いお金払ってチケット買っていると思っているの。それに、あなたのせいで相当な時間既にムダにしているし」
    『…………』
     クピドーはただならぬ彼女からの嫌悪感に思い当たる節がなかった。
    『おい』メフィストに耳打ちする。
    『嫌われ方がお前以上だぞ。なんとかしろよ、俺をこの子誰だと思ってるんだ。敵にしない方がいいぞ。じゃないと、一生結婚できなくなるぞ』
    「お腹すいてきちゃった」
     困惑するクピドーを尻目に橙夏が言った。
    「朝時間がかかって何も食べてない」誘惑の匂いがあちらこちらから漂ってくる。「朝からコーヒーぐらいしか飲んでないもん」
    『たしかに、私もお腹がすいた』
     メフィストも同意する。
    『いやいや、普通入ってすぐに『お腹すいたー』はないでしょ、お2人』
     またくちゃくちゃと音をたてながら異を唱えた。
    『乗り物系は並ばないと2時間は当たり前なんだから、まずとりあえず並ぼう。ほら、これ、一番人気だから、まずこれチケットとって、二番目に人気なこれに並ぼう』
     悩んでいる3人を次から次へと来場者が追い越していく。
     中には走っていく家族さえいる。皆が一様に、個人の楽しみを仲間と謳歌しようと必死になっている証拠だった。そして、その光景はいつの時代でも変わらない。
    『2人とも聞いて……』
     2人の眼光が鋭く光る。ぎらっとした上空で低く垂れこめる雲の重みと類似したその睨みは、それだけの威力があった。口を噤(つぐ)まざるをえなかった。
    「パフェ食べたい。レイヤーなっているやつがいい」
    『そうしよう』
    『いや、普通、もうちょっと揚げ物とかポテトとかチキンとかポップコーンだろ』
     クピドーにとって最大限の譲歩だった。
    「『うるさい!!』」重なった声でギョロリと目を剥く。
    『オーロード! どうしてみんな俺を共通の敵にすることで、結束を固めるんですか!?』
    弓なりにくだり気味の眉を限界まで下げながら、ひとり呟いた。
     
     やっとの思いで座れるテーブルを見つける。3歳ぐらいの子供連れの家族の隣のテーブル。クピドーは食べている間一言も発さない2人を交互に見ながら首を傾げている。
    幾層にも重なったお目当てのパフェを食べて2人はご満悦でも、クピドーだけは終始しらけた顔でコーヒーをすすった。
     半分以上パフェを食べきってから橙夏が化粧室に席を立った。口を開いた。おそらくしばらく戻ってこれないと予想し、クピドーが深刻な話題を振った。『あの子は幸せなのか』
    すると、メフィストはまるで自分のことについて語るように主観的な重さで言った。
    『……分からない』
     実感がこもった余韻が残る。
    『いや、他の2人に比べれば期間こそ短いが、お前と一緒にいる時間は長いだろう。でも、それにしてもおまえたち、あんまり喋らないんだな―まっいいけどそんな話は。もうちょっと感慨深いコメントがあるだろうが』
     話題を振ってくれた相手を雑に扱うな、というメッセージを込めた。
    『分からないから、分からないと言っているのだ』
    『いや、普通ラリーというものがさ、例えば、どうだろうなーう~ん、こういうこともあるけどこういうこともあるから、結局分からないなー、ていうのが会話なんだよ』
    『結論、分からないんだから、まどろっこしいい部分をカットしてやっているだろうが』
    『想像の翼をひろげたまえよ。俺にとっちゃ悪魔も現代の人間もおんなじだけどな』
    『一緒にするな。呪い殺すぞ』
    『合理性だけを求めやがって、結論とか序論とかうるさいんだよ』
     クピドーは隠している翼がまるで生えているかのように手で翼のフォルムを形りながら話した。
    『会話をしたかったら、まず聞く前にお前の意見を言ってから聞けよ』
     メフィストがスプーンの底を上にして舌の上に乗せながらパフェを口の中に入れた。『まどろこっしさを取り払っているのに態度悪いな、お前』と続ける。
    『まどろこっしさをくれよ! 俺はまどろこっしさを欲しているのだよ! まどろこっしさを楽しめる日本人の感性を舐めンなよ!』
    『どの目線で、そしてどの立場でモノを言っているのだ。目的はなんなんだ……』
    メフィストは、残ったパフェを最後まで食べきった後、勝手知ったる様子で橙夏のパフェに手を伸ばした。
    『天使だろうが悪魔だろうが、チベットの僧侶もアフリカの黒魔術師も世界のキリスト教もユダヤ教も、保守派でも先進派でも、俺でもお前でも、誰かのために死にたくないと思うモンだ。それさえ分かってればいろんなことひっくるめて乗り越えていけるんだろうけどな』
    『そん簡単なもんじゃない』
    『どこがだ』
    『愛観(あい)や恋落(こい)など、閻浮提(げかい)のどの国の人間も理解できない外国語のようなものだ』
    『お前、俺の専売特許……』
    『問題の核心に迫ろうとしてないだけだ。エピクトテスも『間違った考えを抑えれば不運も抑えられる』と言ったが、正しい』
    『なんだ……どんな返しをされるかと思ったら、プラス思考の総本山みたいなギリシャ人を引用したところでまるで意味がないね』
     目を細めてメフィストを睨めつけた。
    『バカみたいな恋愛賛美(ロマンティシズム)の権化がよく言えたもんだな』
    吹き抜けの頭上を立体的な太陽を完全には隠しきれない衰えかけた乳白色の雲が覆い始める。そして微かに水を隠す音が空を構成する音色に加わった。
     ちょうど橙夏が戻ってきた。
     
     茶色い煙突のレストランに入る前より灰色は濃く雲が分厚くなっていた。
    「ねぇ、そうだ!」橙夏がまるで空と正反対の勢いで2人のほうを振り向いた。「写真撮ろうよ!」悪魔と神は顔を見合わせて、『いい記念だ』とハモる。
    「じゃーいくよー」
     3人を携帯の画面にいれようと橙夏がぐんと手を伸ばす。自撮りの姿勢。3人はお互いの体と体を密着させ―メフィストはずっと苛々しながらクピドーの髪の毛を払ってはいたが―一枚の絵に収まった。
    『どこに行きたい』メフィストは地図を渡した。
    『どうしたんだ』
    「ううん、何でもないの……なんか最近色々なことが一気にあったから」
     彼女は花壇の前のスペースにに腰掛けた。
    「……塗り絵に失敗したの」
     メフィストは立ったまま彼女を見下ろす。クピドーは少し離れたところで遠い目をしながら空を見上げた。
    「パパとママが私のために用意してたんだと思う。塗り絵。輪郭だけはきちんとして、境界線がきちんとあった。全部何かの形になってたの。誰がみても分かるような、そんな形。私には……でも、きれいに塗れなかった。はみだしちゃうからかな」
     彼女は自分を少し嗤うように口元をつくる。「私、学校のアートクラスで油絵をやったのね」そう言うと、首を傾げるメフィストに「油絵具と水彩絵の具の違い知ってる」と訊ねた。
    「油の絵の具って宮廷画家のヤン・ファン・エイクっていう人が発明した、という史書があるらしいのね。水彩画にできなくて油絵の具にできることって何か分かる? 油絵具の色素ってくすんでるの。不透明で。でね、だから、画家は自分の好きな色になるまで何度もやり直しがきくのね。だけど、水彩画だと一発勝負って感じで。だから、油絵具を使えば自分の好きな色になるまで塗り直せる。間違ってもやりなおしがきくの。水彩画は自分の間違いを正すことはできないのよ」
     背筋を一度伸ばす。
    「間違ったとしても即興で間違いにみせないようにしていく技術が必要になるのね……最近分かったことがあるの。今朝から実はずっとそのこと考えていて、食べるの忘れちゃったのもきっとそのせい。そのエイクっていうひと、本当はかなり絵が嫌いだったんじゃないかって」
    『絵がきらい』
    「書きたい絵を描きたいから油絵を発明したんじゃないと思う。例えば、魔がさして、それまでの常識的な技法という描き方を壊してみたくなって、偶然やっちゃったような気がするの」
    『なんであんな真似をしたんだ』
    くるんとスカートを翻しながら恥ずかしそうに「だって……あなたは17歳のティーンエージャーじゃないもの」とだけ彼女は言って微笑んだ。 
     
     

     
    新宿御苑の大木土門と目の鼻の先にある高層ビルの22階のレストランの窓際からはライトアップされた新宿御苑の内側が見渡せる。
    「やっぱり、こっちの方が落ち着く」嬉々として眺める泰平をよそに、祐麻は頬杖をついてガラス窓に移る自分の顔を眺めていた。
    「祐麻が帰ってから、面白いことを聞いたんだよ。祐麻も聞いておくべきだったよ」
    祐麻は黙って聞いている。
    「あの祐麻の左斜め前に座ってた人。目のぎょろっとした人。海外の童謡の話が面白くてさ」
     温かいスープも冷やしてしまうような冷然たる笑顔が浮かぶ。
     笑わなければと祐麻は力んだ。変な力の入った笑顔を作る。一昨日産婦人科を訪れた。その結果に祐麻は驚いた。いや、どちらかと言えば自身の心境に戦慄をおぼえた。
    「タイトルが「くもとハエ」っていうんだ。くもってスパイダーのほうのね。気になったからネットで調べたけど、ちゃんと出てきた。単純に言えば、クモが甘い言葉でハエを誘い食べちゃう話なんだけど、これがなんか面白くてさ」
    「どこが面白いの」
     訊ねてから祐麻は残っていたシャンパンを最後まで飲み干した。
    「クモはしきりにハエを誘うんだ。ハエは最初は相手にしない。でもどうなったと思う」
     祐麻の空いたグラスにまたシャンパンが注がれる。言葉を考える。結論はもう出ていた。
    「どうなったって? ハエがクモに食べられちゃう」
     最初に言ったはずだ。
    「あの、話があるんだけど……」
     きちんと話さなければいけないと思っていた。
    「最後まで聞けよ」
     笑いながらではあるが、見下すような言い方だ。
    「クモはよく分かってたんだよ。愚かなハエがまたすぐ戻ってくることがね。そこで、賢いクモは小さな隅にこっそり細かな網をこしらえて、おいしいごちそうのためテーブルの支度を整えていた。それで一旦外に出て、歌を歌い始めたんだ。『ようこそ、ようこそ』って。また容姿を褒めたんだよ。すると、ハエはそのお世辞を聞きつけて、飛んできたところを捕まえた。らせん階段を引きずりあげて、真っ暗がりの部屋の中へと連れ込んだ。それっきりハエは出てこなかったんだってさ」
    「あの……」気づいて欲しかった。「食事中にそのトピックふさわしいのかなあ」どうせならば気づいてほしい。気づかないようであれば……あなたを捨てなければいけない。
    「それが感想? ここまで詳しく話したのに、その感想はないだろう」
     甲斐甲斐しく彼が不満を口にした。まるで芝居をみせてやったんだから、金を払えと言われているように聞こえて、顔がひきつる
    「いや、だって、隣の人とかこっちみてたよ」
     何度も見ていたという事実だけは伏せた。
    「なんだ、その態度……もういいわ」
     咎められるべき態度をとっているのはどっちなのだろう。祐麻は潜考した。
     気づくと一度は気にしないで彼を許そうと思っていた。そんな自分が無性に情けなくなった。ここ数日間休む暇なく祐麻を苦しめていたのはそういう自分への憐憫の情だった。そんなうらぶれた生活が続くと、だんだんと怒りの感情が芽生えてきていた。いつのまにか「何か他に理由があるはず、他に理由が……」ぶつぶつと唱え始めていた。
    何か考えをめぐらせるように目玉を一周させて、冷たく突き放すように息を吐いた。泰平もそんな婚約者の相手に困っているのか、黙々と食事をする2人はその場で浮いていた。
    「すみません!」
    突然の大きな声に祐麻は手に持ったフォークを床に落とした。
    さきほどからワインを注いでいるウェイターの声だ。年齢は40代で髪の毛は薄い。その薄い髪を薄い顔にオールバックにしている。ふと白いテーブルクロスを見ると、赤黒く染みが広がりつつあった。「お客様申し訳ありません、テーブルクロスを交換する間、あちらでシャンパンはいかがでしょうか」
     泰平が相手の目を直視する。「テーブルクロスにこぼすのも失礼だけど、おれらをどかすのはもっと失礼でしょ」ウェイターの手が震え始める。
    「優先順位がつかないのは、もう終わっているとしか言いようがないけど。サーブでお金もらっているんだったら、ちゃんと仕事した方がいいんじゃないんですか」
    「おっしゃる通りでございます。誠に申し訳ありません。それか、お席を動いていただくことは可能でございましょうか」
    「いやいや」相手を愚弄するように笑う。「可能なわけないでしょ。この席、夜景が見える席を予約しているんだから。まじで頭悪いんじゃないんでしょうか」
     八つ当たりしているように思えた。
    「ちゃんと仕事してくださいよ」
     相手の想像上の過去に土足で上がり込みながら話を続ける。
    「申し訳ありません。良い席をご用意いたします」ウェイターは精一杯な様子で返した。
    「は? この席はそんなには良くないんですか」
     強張った相手の顔を愉快そうに見ながら訊ねる。周りの客たちも不愉快そうに見始めていることに、祐麻しか気づいていない。
    「1カ月前に電話して、最上級の席って言ったのに、それでかしこまりましたって約束したでしょう。つまり、約束破ったってことですか? 最低だな」
     正論は寛容さの欠如の言い訳にはならない。祐麻は小声で「ちょっと」と何度も言って彼を制しようとした
    「申し訳……ありません……今夜はお代は結構ですので」
    「いや、別に金はもってますよ。ほら、これだけあるでしょ」
     財布を取り出して中身を見せる。中には一万円札がどっさりと入っていた。
    「それでは……あちらの窓際のお席をすぐにご用いたしますので」
     もう一度同じ妥協点を提案すると、気が済んだのか、彼は「それなら、あそこのテーブルいますぐを片づけてよ。あっちで待ってるから」と別のテーブルを指さしながら言った。
    祐麻は婚約者の豹変ぶりに沙門しさを感じずにはいられなかった。
    「かしこまりました。ご協力ありがとうございます」
     そう言うと、ウェイターは俊敏に動いて、テーブルのセットに取り掛かった。
     その光景に彼は気のない視線を送る。
    「見た? 祐麻、あれがハエだよ」祐麻の目を見ずに話し続ける。それから、うっすらと刳(えぐ)い表情でウェイターの背中を彼は見据えた。
    「誤解しないで聞いて欲しいんだけど、オレを信じてついてきて。絶対損はさせない」
     今度は目を見て話した。しかし、祐麻は彼の目に映る自分を直視はできなかった。ハエが映っていた。全部嘘だと思いたかった。
     
     異彩を放つテーブルがひとつだけあった。泰平と祐麻が座るテーブルからちょうど死角にあたる、角の窓際の出っ張ったところにメフィストでインキュバスが座っている。
    『またですか!』
     インキュバスが激昂を真空管の中にぶちまけるように声を潜めて言った。
    大悪禍(カオス)の決定が予定より遅れている。そのことをインキュバスは柔らかく忠告した。
    『悪魔に宿命はつきものだ。人間がもつ運命なら彼らは変えることが許されている。その場その場の決断で、運命はすぐにでも変えられる』
    『だったら、その人間のもつ運命を変えるために、大悪禍(カオス)を!』
     飲みかけのコーヒーはとっくに冷めている。
    『宿命だ。宿命は変えることはできない。私がメフィストであることも、貴様がインキュバスであることも、あいつらが神であることも、それは変えられない』
    『災いは全てを変える力をもっています。まるきり役に立たない哲学に陶酔している場合ではありませんよ……』と言ったあと、すぐに『その哲学をもう少し有効活用してください』と言い直した。
    『昔から言われている通り、どんなアンフォラにも把手がふたつあるように、どんな出来事でもふたつの面がある。不幸をもたらす面と、慰め元気づける面だ』
    『手前にもわかるようにお願いします』
     インキュバスの主人は子供のころの「苗」の植え替えを―ゆっくりとその苗から必要な情報を取り出そうとしながら―行う心つきで追懐(ついかい)するように目を閉じる。
    『はっきりとは分からない』
     インキュバスの視線が主人から外れていた。
    『インキュバス……おい、インキュバス……聞いてるか』
     インキュバスの動揺した横顔がメフィストの思考を止めた。
    どちらかと言えば否定的な意味で使われがちな「動揺」という言葉だが、彼らの関係上、その意味はわたし達が想像するものと大きく異なっている。悪魔は動揺などしないはず。動揺するのは神か人間なはずなのだが。
    ところが、インキュバスはいまメフィストの目の前で明らかに目を左右に素早く泳がせながら動揺していた。これが初めてのことだった。インキュバスが主人の声よりもほかの音を優先したのは。
     
    泰平がジャケットの右ポケットから黒いビロードでできた立方体の箱を取り出す。そっと。祐麻の腰骨のあたりに宙ぶらりんにしておいた左手の手首を軽く握った。
    今は止めて……。心の中でそう思った。思い続けた。どうか、指輪じゃありませんように……。しかし、彼女のしてほしくないことを独善的に行うのが泰平という男なのだ。 
    顔を綻ばせる彼には、一切の拒否を受け入れないとする態度が全身に漲っている。
    祐麻は、少なからずの恐怖を感じた。それは感じてはいけないものだった。感じるはずのものではなかった。すぐ隣のガラス窓には夜景をバックに幸せの絶頂に届いた男女が映るはずだったのだ。
    落ち着かせようと胸のネックレスに触れる。
    「そういえば――」彼が祐麻の胸元を直視して言った。「それ、オレがプレゼントしたものじゃないね。初めて見た気がするけど、前からもってたっけ」と訊いた。彼がプレゼントしたネックレスはラウンドダイアモンドを十字架の形にしたものだ。ところが、今つけているのは赤・紫・黄色・白のダイヤがついた十字架が複数つけられたものだ。
    「うん」憔悴した表情で肯いた。
    「どうかした」
    「話があるんだけど……」
    「うんうん」彼は楽しそうに返事を期待しているようだ。
    「妊娠……」
    「えっ」凍りついたように肘をついた。
    「してなかったの……」
    ―この人のはずだった、この人のはずがない、でも、この人のはずだった。
    「妊娠……してなかったの」
    「よかった。ちゃんと順番は守りたかったからさ……オレは別に妊娠しても全然うれしいけどね」
     慰めようとしている。嫌な予感がした。女性にしか備わらない不安へのセンサーだ。
    「違うの……ほっとしちゃったの……」
     彼は理解できないのか首を横に捻った。
    「欲しくないんだと思う」
     ―だって……最初から気づいていたのに、こうなることが分かってたのに、それでも自分を騙してきたのは……だれ?
     周りの客がちらほらと2人を気にし始めている。何度もロマンティックなプロポーズを期待していた。それができるだけの、なるだけキザが似合う男性を選んだはずだった。フランス映画のような地味で深みのあるプロポーズよりも、ハリウッド女優がはちきれんばかりに声をあげて涙がこぼれるのを必死に手で扇子のように扇いでみる仕草をしてみたかった。
     嘘……? 樹脂で固められたように。奥にたしかにあるはずのその言葉は―かつて何度か準備していたし、もっと言えば、小さなころから思い描いていたセリフでもある―見えているだけで掴めない。
     ピアノの音とナイフやフォークの皿に触れる音だけに満たされた2人の間に停滞する奇妙な分厚い沈黙に、彼は少し苛立ち始めていた。いい加減、感動で圧倒されているにしては長い沈黙に、業を煮やし始めたのだろう。
    声を弾ませ、鼻息荒く喋る彼の目をしっかり視て、話そうとしたその瞬間だった。祐麻はやっと思い出した。頭の中で記憶を書き換えていたのだ……。ネックレスをもう一度触る。あの時の感触がよみがえった。
    表情が激しく変わる。目からも口元からも、目の前にいる男への一度は着想した愛を取り剥がしにかかっていた。片方の目が痙攣(けいれん)する。しきりに擦りながら彼への嫌悪感を露わにしている。
    「………………どういうこと? よく理解できないんだけど」
    中央のグランドピアノでは、夜想曲(ノクターン)第8番が奏でられている。プロのピアニストらしき女性がショパンが到達させたその独特の右手遣いにひとつ、またひとつとテーブルに座る貴婦人達が心を奪われているようだ。
    一方祐麻は、その演奏者の卓越した右指の動きには目も触れていない。黒と白の鍵盤をただ見つめた。自分と婚約者の関係と重ねた。
    ―アタシが白い鍵盤だとしたら、この人は黒い鍵盤―世界中の四隅を探しても、同じ音は見つからない。一方彼は、思わぬ反応に心が抉られる思いで返答に詰まった。それからその傷は自分を守るための刃となって相手に向ける。
    「は? オレは投資しているんだよ! 祐麻もそうだろ? 祐麻は気付いてないかもしれないけど、そういうパラダイムシフトが都会では起きてるのが、なぜ分からないかな」
    動揺と自己防反応が闘ってその火花が口調に表れていた。
    「祐麻みたいに凡人がひいたレールに、オレの思想をのっけて自分の大事な人生を生きることはできないんだよ」
    過去の延長線上に未来はない―窃笑(せっしょう)しながら祐麻はそう想った。
     
    泰平がマンションに帰ったのは、祐麻とレストランで別れて1時間ほど経ったときだった。スイートルームで浴びるように酒を飲んだが、途中で馬鹿馬鹿しくなってチェックアウトしたのだった。
    祐麻が先に帰っているのに気づいて安堵より先にうんざりした。兎に角ひとりになりたかった。玄関に入ると、何の音もしない。彼女のネイビーのドルセースタイルのパンプスがきちんと揃えてあった。合鍵を渡したのが2週間前だった。
    リビングに入ると、こくんと首をたれて彼女が俯いていた。デコルテラインから肩にかけてシースルーデザインの黒のドレスが間接照明のなかで、部屋の中の闇と一体となっているように見えた。その華奢で可憐な背中を抱きしめようかとも考えたが、気が進まなかった。セックスする気にはなれなかった。侮辱をセックスで相殺を許しているようで癪に障った。
     精神的に手持無沙汰だ。話し掛ける気にもなれない。仕方がないのでとりあえず泰平は彼女を視界には入れながら、仕事机でパソコンの電源を入れた。彼女に背中を見せた格好だ。起動の音が2人の糸を削りとるようにこだました。
     彼女が「あの」と言いかけると、泰平が話させまいとするように「祐麻」と真剣な口調で切り出して「今日はひとりでいたいんだ。悪いけど帰ってれないか。タクシー代ここにおいておく」そう言って財布から1万円取り出した。取りに来ないのがわかると、立ち上がって彼女が座る隣にぱらっと落とした。そういえばいつか玉葱が投げられた場所だとパソコンに向かった時に思い出した。
    忍び笑いながら彼女は一言も発さなかった。やがてどたどたとわざと音を立てるように廊下を走っていった。玄関を力強く閉める。その閉め方がまた泰平の神経にやけに触った。
    それから何時間経っただろうか。時が流れるに連れて、我慢できないほどの寂寥感に襲われてきた。机から立ち上がって彼女の痕跡を探す。1万円札はそのままになっていた。泰平は1万円札を手に取らず、踏みつけた。一度では飽き足らず何度も踏み続けた。それから気を失いそうになるくらいに発狂した。部屋中を走り回り、机も椅子もひっくり返した。本棚の本もすべて強盗のように床に放り投げた。苦情がくるかもしれないと一瞬頭をよぎったがどうでもよかった。これだけの屈辱に耐えるだけの手段が他に見つからなかった――。
    身体から怒りという熱が放出されると、脱力してくたっとベッドにうつ伏せで寝転がる。ポケットから携帯電話を取り出した。電話をした。発信音の7回目鳴りやまないうちに相手が電話に出た。
    「祐麻、さっきはごめん。最近なんでか分からないけど、色々うまくいってなくて、いつもならプラスに考えられるんだけど」
     泰平はとにかく謝ろうとした。そして自分の怒りを正当化しようともした。
    「ほんとゴメン。オレが全部悪かったよ。祐麻はオレにとってたった一人の家族になるひとだから、失いたくないんだ。今からまた来てくれないか? 寂しくて……」
    ―アタシは凡人でしょ? あなたの相手はできないわ。
    祐麻は受話器のむこうで婚約者を嗤笑(ししょう)した。
    「悪かったよ、ゴメン」
     泰平は、電話だと、どういう声の出し方が最も寂しげに伝わるかがわらかなかった。
    ―他に謝ることはないの??
    「えっ」
     文末に疑問符が2つ、それも大きな符がついているような大袈裟な質問に、泰平は「何様だ」と胸糞が悪くなった。もしダメだったら電話する相手はもう決まっている。既に早紀のことを考え始めていた。
    ―嘘ついてたでしょ?
     ちくっ。皮膚に針を刺されたような感覚が脳を刺した。驚いて腕を確認したくらいだ。泰平は必死に考えた。思い当たる節がない。あるとすれば早紀との関係。バレてしまったのかもしれないという予想だった。思わず起き上がってベッドに座りなおす。無邪気さを必死に装ったが、声の弱弱しさだけは隠せなかった。
    ―アタシも悪かったの……。
     しばらく真っ白な沈黙が気まずくさせる。お互いがお互いの出方を待っている。
    「こっちに来て話そう」
     そう言うのが精一杯だった。
    「オレたち運命なはずだよ。いや、はずじゃなくて、そうだよ」
    ―冗談でしょ?
    受話器のむこうで相手が固まったのが手に取るようにわかった。
    「何が言いたいんだ? 怒ってばっかりじゃないか」
    ―黙って話を聞き出そうともしないくせに……聞くこともできないくせに……
    怒りが泣き声混じりに泰平にぶつけられる。それは彼女自身への自嘲となって戻り、やがて泰平への抗えない嫌悪感へ達したように舌打ちした。
    ―ゆる……せ……ない。
    「少しは優しくしてくれよ、そんなに性格きついんじゃ、オレも付き合うのはきついよ。アサーティブ過ぎて、なんかいつもオレが追い込まれている感じがするから」
     束の間の無言のあと、彼女が言った。
     ―あなたなのね……。
    縁が切れたようなうらがなしい沈黙が部屋をふたたび襲った。泰平は寝言のように抑揚のない声で呟いた。「あなたなのね……」
     
    2
     
    気づくともう4時間も求めていた。早紀の一糸纏わぬ姿。ときおり耳を劈(つんざ)くような獣声。泰平は、生命を再び嘆願するような感覚を覚えた。
    色々な心へのひっかかりは泰平の食欲を根本から奪っていた。食べ物が咽喉を通らない日々がここ1週間続いていたのだった。ゼリー状のものとアルコール、そして栄養ドリンクで過ごしていると、外出も億劫になり、ベッドに一日中横になって携帯を眺めていたのだった。
    しかし、性欲だけは失われていないことが証明され、泰平は安堵していた。
    お盆休み。都内のホテルは比較的すいていた。
     彼女が呼吸を戻そうとしながら「今日はなんかあったの」と訊く。泰平は天井の中世風の絵をみつめながら「何もないよ」と短く応えた。
     
     4時間前―。泰平はこれまでのことをきちんと詫びるつもりだった。謝罪するために祐麻のマンションを訪れていた。
    品川区の天王洲アイル駅から歩いて数分ほどの東品川海上公園に近い立地で、31階地下一階立ての23階の東京湾を望める2LDKが彼女の部屋だ。
     地下に車をとめて、祐麻の白いベンツAクラスの車を疲れた目をこすりながら確認する。地下の気持ちの悪い涼しさに一瞬吐き気を催した。何もないはずの胃が悲鳴をあげているのがわかる。
    ドアホンを緊張しながら鳴らした。待っていると、「はい」と応答があった。ところが、それは男の声だった。泰平は気が動転して、口ごもって、「あ、あ、あ、……」とだけ言って、逃げるようにそこから走って駐車場に向かった。運転席に乗り込んでから整理しても、やはりおかしい。
    彼女の父親の声は把握している。一度彼女の実家がある横浜で会って和やかなムードで談笑しているので、義理の息子になるはずの相手の顔を覚えていないはずがない。彼女には男兄弟はいないし、一人娘だ。会社の人間や友人を家にあげることも考えられない。自分とのツーショットぐらい見せているはずだ。
    声の主は完全に自分のことを知らなかった。婚約しているという事実もおそらく知らされていない。会ってないにしても、婚約者がいると知らされていれば家にあがっていることに少しは警戒しているはずだし、同じ年ぐらいの泰平が訪れてくれば、僅かな勘さえ働かせれば分かるはずなのだ。
    泰平はエンジンをかけて、急いで彼女のマンションを後にした。
    男の声が耳朶(じだ)によみがえる。野太く、威厳があり、そして泰平を見下すような響きがあった。
    動揺したまま首都都心環状線を猛スピードで走り、気がつくと六本木通りを走っていた。六本木通りに出るためには3つのジャンクションを通過しなければいけないが、通過した記憶が全くない。それでも、無意識的に早紀のサロンを目指していたとなると、自分が今一番会わなければいけない人のような気がした。
    青山通りで路上駐車して電話をかけると、10コール目で彼女が出た。
    「もしもし、村沢でございます」
    「早紀さん、ごめんね……おれ、今、下にいるんだ……」
    「……あ、はい、かしこまりました。お電話誠にありがとうございます。その件に関しまして、ご説明させていただきたく存じますので、すぐに向かえますが、ご都合いかがでしょうか?……ありがとうございます。お忙しい中恐縮です。それでは失礼いたします」
     電話を切ってからすぐに彼女は泰平の車の後部座席に乗った。
     
    蛇口をひねる。桜の木に墨をぶちまけられたような、肚(はら)の底から厭気が蒸し昇ってきた。シャワーを浴びていると、熱気で胃を刺激されたのか突然の空腹に後頭部をなぐられる思いがした。呆気なく食欲が復活した。体力の消耗を補うものを口にしなければ部屋から逃げ出すことさえままならない。歯痛のように空腹が頭痛を併発させてきそうな予感があった。
    泰平は数分後タオルで髪の毛をふきながら出てきた。早紀は既に入室と全く変わらない状態に戻っていた。
     緊張が走った。座るように促されると、濡れた髪のままベッドに座った。性的欲望を満たされたあとに、ただの雄に過ぎないのよと言われたような気がした。泰平は空気を変えようとほど遠い話題を切り出した。「ルームサービス頼むけど、何か食べる」
    「ううん、いらない」
    「そんな、さすがにお腹すいたでしょ」
    「ううん、すいてないわよ」
    「本当に大丈夫」泰平は白々しく念をおした。
    彼女は泰平の不安げな目をみた。しばらく無言のあと忍び笑い、そのうち我慢せずに高笑いに変わった。ベッドの枕元に座って、壁に頭をもたれかけながら泰平に届くか届かない声で「冗談でしょ」と投げやりに言った。
    希覯(きこう)な沈黙が部屋に訪れる。彼女は、首が折れるのではないかとばかりに横に傾けた。首筋の血管が濃厚な皮膚を押し上げるように隆起する。
    泰平は重力を失った。
    「そういう優しさじゃないのよ――」
    黒い何かが押し寄せてくる。それは飛んでいる。ハエだ。ふわりと何食わぬ顔で漂っているハエがパチンと無残に叩かれた。
    不気味なほど妖艶な皺を口許につくりながら、光を屈折させる涙が力の抜けた目に宿っていく。五芒星のイアリングを自分の耳に戻すと、無言で彼女は扉を閉めた。床にはガーターベルトとストッキングが生き物の抜け殻のように捨ててある。泰平は何かの意味を見つけようとして、しばし目を停止させた。
    誰なんだ!? 息絶え絶えのハエと己が重なった。同時に、祐麻のマンションの玄関で聴いた男の声が耳朶(じだ)によみがえった。底のない絶望に胸底が溶かされていくように泰平は膝から崩れ落ちた。
     
    昨晩ホテルの帰りに大量買いした缶ビールを冷蔵庫から取り出すと、一気に手首を傾ける。胃にアルコールが落ちる音が聴こえる。本当にどうでもよくなってきた。
    まただ。ベッドの上で携帯電話から音楽が流れている――手に取って画面をみると、スケジュールアラートだった。
    昼から日本流行色協会(JFC)でのセミナーに参加する予定だ。とにかく負のオーラを払拭しようと、急いでシャワーを浴びる。身支度をして泰平は部屋を出た。朝からフィットネスジムでマシンとランニングを1時間ほどして、水泳を45分ぐらいして、部屋に戻ってきた。そして、スーツに着替えまた部屋を出る。
     神保町にある協会の入るビルは神保町駅から九段下方面に靖国通りをまっすぐ歩き、2つめの角を曲がったところにある。駅から徒歩2分なので、泰平はマンションから徒歩3分近くの芝公園駅から都営三田線で神保町を目指すことにした。
     昼前だというのに電車は比較的混んでいた。どうやら今朝の線路内人立ち入りと客のトラブル、さらには踏切でトラックが立ち往生というトリプルパンチで、電車は大幅に遅れていた。おかげで、普段の本数の半分近くにまで減っているため、ぎゅうぎゅうな電車に泰平は乗り込むことになってしまった。
    クリーニング仕立てのジャケットに皺が寄るのを見ながら、泰平は心底気分が悪くなった。隣の大工姿の男は昼から発泡酒を飲み、隣の金髪の女子高生は匂いのきついファーストフィードを食べている。これからランチと言わんばかりに香水を振りまいた中年の女性たちはおしゃべりが止まらない。薄倖(はっこう)と汚臭と鄙劣(ひれつ)に塗れた車内は泰平の気持ちを決して上げることはなかった―。
    「きゃーーーー!!」
     悲鳴は日比谷駅を通過して数秒後のことだった。
     度を失った金切り声に車両の全員が振り向いた。声の出所を探そうと各々が聞こえた音をさがそうと首を動かす。くぐもった感じが全くなかったので、電車の外ではないことはたしかなようだ。
    さっきまで一心不乱に携帯電話の上で指を滑らせていた黒髪の女子高生が愕然としている。泰平が立つ目の前だ。どういうわけか両腕を震わせ、固まっているのだ。よっぽど衝撃的なニュースでも見てしまったのか、泰平は迷惑そうにその女性を下に見た。
    ところが、ただごとではない様子だ。女性の両隣に座る私服の大学生らしき男と初老の女性も、泰平の両隣も固唾を飲んだ。
    その女子高生の琥珀を焦がしたような栗色の首筋には血管が浮きでている。そして白目を剥いた目は充血し、唇はわなわなと揺れ動いている。
    当初、ニュースだと思った泰平も首を傾げた。さきほどから携帯電話を見ようともしない。泰平は暇つぶしに想像してみた。
    そのとき、奇臭鼻腔に入ってきた。アルコールの臭いでも脂っこいポテトの臭いでもない。加齢臭でもない。香水とも思えない。
    「ヘンタイ!!」
     ふと我に返った。誰かが痴漢でもしたのだろうか。なんだ、そういうことかと泰平がようやくフィールド情報の集中にあたろうと首をさりげなく左右に振った……そのときだった。脛をおもいっきり蹴られた。
    「どこ向いてるんですか!」
     広がる景色は一変していた。女子高生の両隣の人間が泰平の顔から目を離さない。「何してんのよ!」と右隣の初老の女性が、泰平に向かって上ずった声で叫んだ。すると、左隣の大学生に波状する。「気持ち悪!」今度は金髪の女子高生のグループの声。静かに泰平の周りから次々と人が離れていく。泰平は釈然とはしなかった。ただただその場に立っていた。電車はもう少しで大手町だ。
     念のため顔に何かついていないか触ってみた。何もついていない。さりげなく下半身を前のめりになって確認したが問題はない……が、そこには理解できない白い液状の塊が付着していた。
     あっという間に、背後に風が吹いた。
     誰かが凄まじい勢いで近づく。自分の首を絞めて、身動きを封じた。他の男性が自分の両手を動けないように掴む。
    『死ね』
    首を締める男が耳元で囁いた。幻聴にも思えた。
     
    3
     
    芝公園駅から乗った都営三田線電車のあの車両で何が起こったのか。事態は一瞬だった。頸動脈を押さえつけられて息ができなくなった。ブラックアウト。倒れた。その後のことは覚えていない。
    思い出せることはつい24時間前の早紀との会話だった――。
    「泰平君、怒らずにきいてね――」
     その後のセリフを思い出すだけで全身が粟立つ。
    「わたしに近づいたのは、愛してくれているからじゃないのは最初から分かっていたの」
     探偵が最後にすべての謎を解く直前の爽快感と緊張感が早紀の顔には滲んでいた。
    「最初はどうでもいいのよ、男女がくっつくときって。わたしは小さい時に母親を火事で亡くしているから、男手一つで父親に育てられたから父親の愛情が基本なの。父の愛情だけが本物で、後は全部偽物なことは分かってる……」
     肌理(きめ)の細かい配慮を施そうとする直前の、透明のビニールで包まれた残虐性が口元をそっとかすめたのを泰平は見逃さなかった。その後の空白の時間はじりじりと首を絞めていくようだった。
    「自分の価値を確かめたかったのね。男としての価値がどのレベルのものなのか、だから、村沢望の妻であるわたしの気を引いた。別れても口外しないという約束で今日で終わりにしましょう」
     きっとこの女性なら、ずっと自分を愛し続けてくれる。裏切られる心配は皆無だ。尽くしてくれるだろう……そう村沢主催の謝恩会に参加で出逢った時に思った。
     
    相手の女性を名誉毀損で訴えることもできた。冷静に考えれば、そうするべきだった。
     大手町駅事務所から警察署へ連行された泰平に意識はほぼなかった。辛うじて歩けるだけだった。
     さらには、タイミング悪く、祐麻との喧嘩と、早紀との別れが、屈辱に抗う冷静な思考を奪っていた。泰平はひとり暗い個室で奥歯をかみしめる。
    名前が呼ばれた。律するような声。既に囚人のような気がした。留置所での食事が配給された。それにはひとつも手をつけないまま、まんじりともなく壁を見つめる。やがてこのままだと完全に頭が狂ってしまうと思い、目を閉じた。このまま眠れなくてもいいから、目を閉じようと思った。
    気づくと夜が明けていた。明けて欲しくなかった夜が。会いたくなかった朝陽が泰平の身長より少し高い位置にある東の窓から差し込んだ。この日の接見の相手――それはマットだった。
    「オレじゃないんだよ! オレがやるわけないだろ……」
     自棄(やけ)になってはいない。内心泰平は安堵している。
    「祐麻ちゃんから連絡あった。自暴自棄(やぶれかぶれ)になるとしても、ここまでするか……」
     初めて聴く通声穴を通しての彼の声は、どこか知らない人間の声に聞こえた。泰平は自分が置かれている状況を改めて痛感する。「な、何言ってる……」泰平の顔にへばりついていた笑みが消えた。
    「オレがこんなバカなマネするわけないだろ。何のメリットが……人生を棒にふって、何のメリットが!」
    「今さら後悔しても遅いんだぞ」
    「お、おい……」
     様子がおかしい。事の経緯も聞かずに一方的に責める彼を前に唖然とした。
    「悪いネ、泰平」にやり、と彼は眼鏡を押し上げながら含みのある笑いをした。「身から出た錆、身から出た錆、というものヨ」その笑みから推測できることは、間違っても寛容さや親和でなく、どちらかといえば挑発と陰謀だ。泰平は悟った。確実な推測だった。
     泰平の感覚が波打つように心臓の鼓動を速める。
    「おまえ、もしかして……」
     彼が困惑の顔とは到底無縁な、今から全てを語ってやる、とでもいいたげな予兆を瞳に宿した。
    「おい! マット! 何でだ!? 何でこんなことを!? ふざけるな!!」
     鬱積していた怒りとも……
    「なんでだ!」
    悲しみとも……
    「答えろ!」
    呼べないものが一気に泰平を激昂させた。拳を強く握りしめ体中の憎しみをもって睨んだ。相手を睨(ね)めつけながら力一杯額をテーブルにぶつける。
    泰平の癇癪声を聞きつけた外にいた刑事らしき人間が2人ドアをけり倒すような勢いで入ってきた。面会の中止を叫んで泰平を連れて戻ろうとした。泰平の背中は樽のように曲がり、その後ろ姿はもはや生気というものがまるで感じられない。
    背中に、マットの射るような視線が刺さる。正気と狂気の閾はもう目の前だ。
    脳震盪を起こしている頭で理解しようとする。必死に痛みを忘れようとして、集中を彼に向けた。
     両手の爪に部屋の光が反射するのを彼は確認している。足を組み替えて、息を殺して泰平の目を彼は直視していた。「祐麻をねらってこんなことしたんだろ。人の女に手をだすなんて下衆野郎!」泰平は怯むのを必死に我慢しながら罵った。
     大量の唾が透明なアクリル板に飛んだ。
     地味な恋愛関係を築くのが面倒臭くて、新大久保界隈の風俗街にしかいかない男なのは知っている。だからこそ罵りながらも自分でおそらく間違っているのではないかという予感は泰平は捨てきれずにいた。
    「思い違いするなヨ」気圧されている様子もなく淡々とした語り口調だ。「あなたの女なんて1ミクロンたりとも興味はない。一回ヤれば満足」妙なアクセントが話の真剣度合いを下げる。さっきから泰平の耳には事の深刻さと告白の軽薄さが拮抗していた。
     何を話しているのか泰平には少しも理解できない。思わず対処に困る人間と対峙したときに起こる防衛反応として、泰平は相手との距離をとるように窓から離れた。反射的に泰平の目がこれ以上の直視を拒否した。
    目を閉じると天井にはめられた蛍光色の電灯の輪っかが目の裏に浮かんでくる。真っ白になった今、自分の手足の感覚がみるみるうちになくなってくる。怒りを爆発させたせいで胃がきりきりと痛んだ。怒りを発散させれば少しは気分がマシになるかと思ったが、胃はちくちくと痛むばかりで、呼吸をうまく吐けない。
    全身の血が逆流する。狭く、きつく、細い血管を真っ赤な血が外への道を見つけられずに、狂ったように身体の中で暴れている。やがて泰平は耐えきれず、目を開けた瞬時に嘔吐した。
    一体なぜ? いつ? どこで? いつから嵌(は)められたのか?  
    あの声……ドアホンから聴こえた声はコイツだったのではないか。これだけの小さな穴を通した声でも親近感を失ったように聞こえるのだ。ドアホンだったらなおさらのことではないだろうか。泰平の唇からは胃液が流れ、目は涙で潤んだ。冷たい床に胃液と涙が混じった液体が落ちる。
    「大……丈夫です。もう少しだけ……お願いします」
     警察官たちは「しかし、このままでは命の保証ができない」と首を振る。
    「お願いします、吐いたものは後で自分で処理しますので、どうか……この通りです」
    泰平より3つ4つ年上に見える男性が一喝する。頑なな拒否の姿勢が眼鏡の奥に浮かんでいた。
    「看守さん、もうこれ以上彼を刺激するようなことは言いませんので、もう一度彼をそこに座らせてあげください。このままでは彼は今日自分の寝床で自分の首をつりかねませんヨ」
     彼の言葉に憮然とした態度を維持しつつ、そっと制服姿の男たちは手綱を緩め、泰平の意志に任せる態度をみせた。視線を合わせず、泰平は軽く会釈した。
    「どうして……」
     言葉が詰まる。今、一番、何が聞きたいのか頭を巡らす。嘔吐による脱水症状のせいか、舌がざらつく。しかも嘔吐したものが腔内にへばりついているのか、自分の口臭がたまらないほどの臭気を放つ。意識が再び朦朧としはじめる。
    「……オレに、こんな罰を与える権利がどこにある」と訊ねると、「……罰を与えたか……」と不気味に彼が笑った。
     声を出さずに嗤うマットを視ていると、胃液が逆流してきそうでになる。口を抑えた。呼吸が整ってから、最も訊かなければいけない質問を投げる。
    「おまえのせいなんだろ? これは全部」
    「いいか」
     彼が座りなおした。パイプ椅子と床がこすれた嫌な音がする。愉色の笑顔をわざとらしく見せつけるように、下を見つめる泰平に気づかれようと弓腰になって目を合わせようとした。
    「この私は思考がチューニングされている。怒り、悲しみ、罪の意識なんてのは現実には邪魔だヨ」
     泰平は何を考えていいのかわからずただ絶句した。
    「『アンタゴニスティック・ダブル・イナベーション』って言葉知っているか」
    片方の眉をひくっとあげながらおおよそ場にふさわしくない質問を彼が投げた。
    「『二重支配』という意味だ」と、先に答える。
    「それがなんなんだ」泰平はさらなる不都合な真実を迎える覚悟を急いで決めた。
    「人は生きているだけで誰かにとっては迷惑なんだヨ。誰か、または1グループが成功するということは、成功できない誰かや他のグループがある、ということなんだヨ」
    「クズだな……恥ずかしくないのか!」
    「クズ? 一遍頭冷やした方がいい。塀の中で」
     憎悪と嫌悪を浮かべたぐちゃぐちゃの表情をよそに、彼は爪を擦りながら物思いにふける。
    「殴りたいだろ」
     泰平はただ視点の定まらない目で相手のぼやける輪郭を捉えた。
    「殺してしまえば楽になる。単純に刑務所で何年か過ごせばいい。規律に従って生きればいい。でも……あなたはこの私を殴れない」
    「必ずここから出て貴様を地獄に落としてやるからな」
    「偽善者め」
     泰平は「偽善者」という言葉に少なからずショックを受けた。なぜなら、そんなはずはないはずだった。常に周りのことを考えて、優しく振舞ってきたつもりであるし、人に嫌われるようなことは何もしていないという自負があった。
    「だからこそ、鍵を閉め忘れた時、祐麻ちゃんみたいな女を傷つけたんだヨ。レイプするよりも、殴るよりも男として最低」
     泰平は言葉が出てこない自分に苛立った。アクリル板の窓を彼が殴った。驚きのあまり泰平は椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。
    「目的はなんだったんだよ。こんなことの……」
    「な、ひとつ聴かせてくれよ。捕まったとき、どう思った」
    「こんなことに、なるなんて、想像してなかったさ……普通に、冤罪でどうにかなると思ってた」泰平は間をおいて吐き出した。舌に酸っぱいものが広がった。
    「雲を掴むような話だな」と言わんばかりに、彼が下を向いて不適な笑みを浮かべる。
    「おまえクリスチャンだよな? こんなことして罪の意識とかないのか」
    泰平は潤んだ瞳で自分の手の平を見た。自分という人間が確かに塀の中にいる。
    「神に背かないように生きるってのは笑えない冗談だ」
     前のめりに姿勢を変える。
    「神に背くように生きるように初めから創造されてるのだとしたら、どうだ? どうだと思う? 天使として創造したのではなく、初めから堕天使として創造されていたルキフェルは初めから神に背くように創造されていた。そして彼が地獄や拷問というコンセプトを生み出して、強烈に善の原理の中枢であり神の荘厳なる光を増してくれるという寸法だヨ。わたし達だ。だから、背くこと自体は神様の言うとおり。深海に生息する生き物から、天高く舞う鳥に至るまで、全てそのルールは適用されるネ」
     それからしばらく白々しく同情する旨を伝えたあと「目が眩むほど、理路整然とした世界だろ」と結論づけた。
    「マタイ伝福音書第6章24節〈汝ら神とマモンとに兼ね仕うる事あたわず……〉。じゃあネ。さっさと街からいなくなった方がいい」
     わざと囁くように言った。
    「人間に不幸と幸福をちゃんと配分する女神ネメシスに罰せられた。この私は、悪魔の存在を信じる者(デモノミスト)ヨ」
    パイプ椅子から腰をあげると「そろそろ帰る」と言って、ピースサインを作った。それから、2、3歩歩いた後、半回転して泰平の青ざめた白い顔を愉快そうにみた。
    「ビー・チェックメイト」
    リバースされたピースサインが、泰平には首が吊るされた男に見えた。
     
    4
     
     クピドーは久しぶりにメフィストの工房(サロン)を訪れていた。今日は橙夏はお休みのようだ。
    『なるほど』と彼は見回りながらテーブルで足が止まった。かわいらしい文字で《クッキー》と書かれたノートがある。
    『当初はロンドンの予定だったなあ、そういえば』
     長く昏い回廊と階段と扉を渡った先にある彼の心中をクピドーは察した。この時期どうして訪れたのか理由はわかっているはずだ。確認だ。決定したかどうか。
    『あれ、あいつは』
     ようやくもうひとりの存在がいないことにクピドーが気づいた。
    『どこか外にでも出てるんだろう』
    『なんかあったのか』
    『別に』
    『吐き出せ。不安なら飲みこまずに』子供に親が話しかけるような口調だ。『飲み込んだものが間違って気管の方に入ってしまうと、危険信号のように体中がたいへんな騒ぎになるぞ』
     クピドーは身体をねじっておどけてみせた。少しでもの気遣いだ。様子がおかしいのはイカロスの報告で知ってはいたが、自分で目で見るまでにわかに信じがたかった。悪魔が躊躇するような所以はないはずなのだ。もし渋っているのだとしたら……もし、その原因が到底ルキフェルが看過できないようなものであった場合を危惧せずにはいられない。
     いつものことだが彼はハーブティーをテーブルに置くと、巍然(ぎぜん)と立ち上がり、くすりともしない。
    『過去の苦痛を代替して――』と彼が言いかけると、長くなるのを察してクピドーが『まあ座れよ』と窓際のダイニングテーブルを顎で指した。クピドーが座る客用のセンターテーブルと距離にして10メートルほど離れている。亜望と橙夏と食事をしたテーブルだ。その椅子にドンと音を立てて座り込んだ。立っていたときとは違って威厳の欠片もない。
    『――何かで癒やすことをどう思う』
     話が途切れたので、上の句と下の句を頭の中でつなぎあわせる。すると難しそうな顔を作ってクピドーはしばらく黙り込んだ。『驚いた』と目を丸くする。
    『感情というものをもってるのか。なかなか可哀想な悪魔だな。さては―』と続けようとすると、『感情にほしいままにされるのも人間だけだ』と先を越された。
    『何百回と弓の練習してもいっこうに上達しないくせに。もはや存在してるだけで詐欺で、しまいには、盲目だからという哀れみまで閻浮提(げかい)の人間に受けてる存在には言われたくはない』
     彼は時々窓の外を眺めながらクピドーに向かっていつものように暴言を吐く。
    『もうちょっと爽やかな風を編めないもんか』
     彼は依然心ここにあらずといった様子だ。
    『おや? この距離で着信拒否なのかな』
    考え込んでいる癖であることは分かっていて茶化してみた。すると重い扉を開けるように彼は質問を変えた。
    『幸福を定義してみてくれるか』
    『幸せは恐怖』
     ウィンクを2回。即答した。葛藤の霧の森で迷っている友人を救うため、予想とは思えぬ確信さに満ちた調子で話し続ける。
    『怖いんだよ。人は幸せという目に見えない獣がさ。幸せは恐怖で、恐怖は幸せだ』
     彼は『拝聴する価値がなかったな……』と皮肉を込めながら言った。いつもとは違う。棘がない。その皮肉はどこか自身に向けられているようなひきつった笑みがただ浮かんでいる。
    『最後まで話させろ。このハーブティーが冷める前には話し終わるから』一呼吸ハーブティーの香りをぐっと肺に吸い込んだ。清涼感たっぷりのペパーミントの香りだ。
    『幸せになった次の瞬間には、こんな幸せが続かない、という恐怖に襲われる。ただでさえ幸せを掴む前に、なんとも切ない気持ちになりながら胸のあたりを掻きむしるような想いで進んできたというのに……愛は死の恐怖よりも切迫した問題だ。どんなに高価な代償を払ったとしても、人間に結論に達することなど俺は無理だとは思ってるけどね』
    『そうなのか』半信半疑で彼が肯く。
    『待てよ。とすると、お前、人間的だな』
    クピドーの背中にうっすらと冷たいものが走る―。
    『どうして人間みたいに怖れてるんだ』
    『それよりイカロスはどうした』
    『話を逸らすな』 彼は反射的めいたスピードで被せた。『お前、見損なったぞ!』室内に響き渡るほどの大声で叫んだ。ロンドン大火災のときのメフィストの先祖のような、神の形相とは思えない表情で喚(わめ)き散らした。
     煙に巻くことはできないと悟ったのか、彼は椅子から立ち上がり伸びをした。
    『過去の自分と決裂したらどうだ。一番感情にしがみついてるのは誰だ? それが来ないと分かってるんだったら、どうして逃げる? 苦しい時に逃げることなんて誰でもできるんだ。自分が人間と違うと豪語して自分自身に自尊心というモノがあるのならば、他人と同じことしてどうすんだよ』
     呆れた視線が四体を伸ばす彼に向かった。
     クピドーは彼に掴みかけたものをもう一度取り戻して欲しかった。かつて愛を知ったのだから。そんなちっぽけな自尊心をかくまったりしても、もともと誰も奪いにこないのだから。理論的ではないし、名言でもない。人生哲学でもないし法則でもない。方法論でも思考論でもないが、恋は魂を奪い、心を打つ。彼が人間の魂を奪ってきたように。
    『お前の中にはある死が訪れたんだよ。悪(ヴァイス)が死んだ。それでいいんじゃないかな。残念な結果かもしれないが、それがいい気がする。それでいい気がするよ。たぶんだけど』
     輪廻転生の目的は果たせなかったかもしれないが、その方がクピドーは嬉しい結末だったのだ。人間たちが苦しむのを見ずに済むのだから。
     悪魔の都合は人間の犠牲につながり、人間の犠牲は神の嘆きにつながる。ところが、悪魔の都合も創造主(ロード)が創ったので、創造主の都合は悪魔の犠牲につながることになり、悪魔の犠牲は悪魔の救いにつながるのかもしれない。それは理解できたとしても、やはりここ東京が犠牲になるのを観察しなければいけないという使命はできれば果たしたくはなかった。
    『俺の見込み違いだったのか? どうしたいのか、もうちょっと考えた方がいい。魂の契を奴としたとしても、なんとかできるはずだろ』
    クピドーは天井を見つめた。虚空に目を向けてつぶやくように言う。
    『新しい葡萄酒(ワイン)は新しい革嚢に盛れ、というやつだ。古いのに入れたら、春の雪がとけていくときの青々とした草木の瑞々しい香りも、分からなくなる』
    『さすがに私の前で聖書の引用は御法度(タブー)だろ。私の前では遠慮しとけ』
    『この野郎、言いたいことはそれだけか』埒外な反応に思わずムキなって言い返す。
    『それにどうしたいのかは考えてある』
     クピドーが身構えた。神ならぬ男が遂に大擾乱(ハボック)の宣言をしようとしている――。いよいよだ。いやがうえにも神の血が滾る……脹脛、背中、肩甲骨、鎖骨と順番に紅潮してきた……うん? こいつはそもそも本当に神ではないのか? 過去と未来をつなぐ輪からの解脱を目論むこいつは本当に神ではないのか? 額に悪魔の署名でも焼き刻まれていれば楽だろうが……。
     大袈裟に深呼吸した。仕切り直しだ。これから話す内容が内容なだけに、神妙な顔つきを作りたいと願ったが、空回りして二重の瞼が奇天烈なことに一重になっている。
    ところが、きょろきょろと額のあたりを検証するクピドーを尻目に、彼の口から出てきたのは意外な言葉だった。
    『例の場所に連れってくれないか』
     
    神と悪魔は、石畳の古い街並みの一本道を歩いている。
    大きさや質感の違う石。メフィストには牧歌的というよりは寂れているように見えた。ロンドンの西に広がる丘陵地帯コッツウォルズ。都市部からの開発の波も行き届かず、人間以外の住人も数多くいるとさえ言われている。そんな幻想(真実)を人間に抱かせてしまうような古い屋敷。はちみつ色の屋根。家々の壁の窓枠は小さな薄紅色の花で彩られている。
    左側は森の壁で、右側には無限に続く田園風景が広がり、さらにその先にはなだらかな丘陵地帯が広がっている。絵の具で塗ったような青々とした濃い緑と薄茶色が作る景色はメフィストを少なからず驚かせた。静かだ―。
    目に写るのは、一本道の100メートルほど先の方の古そうな建物――今にも雨が降り出しそうな灰色の雲の下に建つ、悠久の年月を経たロマネスク様式の老朽した教会だ。
    思わず拍子抜けしてしまいそうになって、ぼんやり歩いていると小石に躓きそうになった。クピドーが一笑する。とてもじゃないが、「どんちゃん騒ぎ」ができるような環境には見えはしない。
     やがてふたりは鄙(ひな)びた教会の前まで止まった。
     正面の真鍮の大きな鍵穴のついた木造扉は2人の降臨を待ち構えていたかのように少し開いている。扉口の上には、建物と同じ年月を経てはいないであろう比較的新しく美しい角燈(ランタン)がとりつけてあるだけで、灯(あかり)が灯(とも)るのかどうかは、信じるより疑う方こそが正気の沙汰というものだろう。ドアの上から伸び放題に伸びた枝垂れた草木を手で払いながら、クピドーが先行してその木造扉ををあけると、中にギコーっ、という音が木霊した。彼も後に続いて入る刹那、太陽の光が雲の割れ目から地上の田園に降り注ぐのを見て緊張が走った。
     外から想像していたよりも中は広い。かびやほこりの匂い。塵がきらきらと太陽の光を浴びて室内に星がちりばめられているかのようだ。外の九夏三伏の暑さとはまるで違い、肌にひんやりとした空気があたる。しかも中に気配はない。至る所の壁の塗装は剥がれ落ちている。「質素」をとっくに通り越えている。しかし、クピドーは慌てる様子もなく、奥の祭壇の方へと進んでいく。祭壇の上には祭壇画が飾られている。信者たちの崇拝心を視覚的に支える役割を果たすためのものだ。天井の壁のフラスコ画も例外ではない。銀の蝋燭台があちらこちらに置いてある。
     祭壇に着くと、クピドーは深呼吸した。
    『シスター! シスター!』
     静まりかえった教会内にクピドーの声が響いた。どう考えても人の気配はしないし、呼ぶのならば教会の裏手に回って呼ぶべきではないか、と彼は訝しんだ。
    「オーロード!」
     彼の背後から突然小柄なシスターがうさぎのように跳ねて現れた。突然重力を失った主人に驚かされたようにしてロザリオが揺れている。さすがの彼もびっくり驚いて『ヴァイス!』と思わず叫んでしまった。
    『まだ生きてたのーシスター・バートウィッスル!』
    クピドーは敬意を込めた挨拶としてシスターの右手に口を寄せる。
    「オーロード!」
    『そっちもまだ生きてたのかーシスター・アボット!』
    またもやひょこんと柱の陰から小柄なまだ30歳にも到達していないだろうシスターが現れた。シスター・バートウィッスルと同じ身長だが、フォルムがイカロスのようにまん丸い。飛び跳ねて喜ぶと僅かに床が揺れた。
    2人の修道女が出現すると、どこに隠れていたのか次から次へと同じ修道服を着たシスターたちが現れた。
    「オーロード!」
    『みんな元気そうだね! まだみんな天国に来てくれないからさ、久しぶりに遊びに来たよ!!』
    各々がクピドーのところに集まってきた。
    彼女たちが身に着けている修道服は、少し変わっていた。トゥニカと呼ばれるくるぶし丈のワンピースと、ウィンプルと呼ばれる白の頭巾をバンドーと呼ばれる布で縛って着用しているところまでは見慣れているが、頭巾の上に黒いベールをかぶってはいない。コルネットと呼ばれる白い頭巾を余らせて顔の両側に垂らしている。
    「前のクピドーちゃんがこちらに来たのはまだわたしが子供のときでした。70年以上も経っていますわ! 相変わらず、腕白で、天真爛漫で、そしてあいくるしい。まさに我々の偶像そのものよ」
     シスター・バートウィッスルよりも若そうなシスター・モーリスが感慨深げに言った。
    『今度わたしの親友の彼――』と言いかけてクピドーが後ろで所在なさげにしている彼の背中を押した『――の用事で一緒に降りてきたんだ』天井を指で指す。
    遅れて彼が挨拶した。クピドーは彼が歓迎されないことを十分覚悟していたのを知っていたので、からかい半分に今日一日だけは俺が面倒みてやる、と小声で囁いた。
    「まぁまぁ、それはそれは――」彼と視線重ねる。「メフィスト様もどうぞどうぞ、でもあれですよ。ここでは大悪禍(カオス)は止めてくださいよ」
     思いもよらない反応だった。一拍遅れて応える。
    『も、もちろんですシスター・バートウィッスル。私の生業をご存知のことでしょう。過去も全部理解しておりながら、受け入れてくれる数少ないお方のようなので、その方たちの前でそのようなことはしません』
     小柄なシスター・バートウィッスルは水に濡れた鳥の羽のような青く澄んだ瞳で彼を歓迎した。左手の薬指には薄暗い室内でも十分光を放つ芍薬(しゃくやく)のような形の指輪がおさまっている。
    「出迎えが遅くなりまして申し訳ありませんでした。ちょうど地下で聖母マリアに祈りを捧げていたものですから」皆一様にロザリオを強く握りしめる。
     目の前で重ね合わせた手と手の間に息を吹きかけるようにして微笑みながら、彼女hが続ける。
    「神が作られたものに、善も悪もありませんわ。あれは都合よく二極化して物事を理解した方が分かり易いという都合主義です。本当は、センターもなければディセンターもないし、光も闇もありません。光は闇で、闇は光です。わたし達も、同じ気持ちであなたを歓迎させていただきます」
     その言葉が合図となったようだった。というのもシスター・バートウィッスルだけ残して他のシスターたちは、皆正面や裏の扉から何も言わずに外にぞろぞろと出て行ったのだ。
     呆気にとられているのを悟られまいとして、開いていた口をすぐに閉じた彼に微笑みを絶やさず話し掛ける。クピドーはそれを嬉しそうに見つめている。
    「今夜は大いにどんちゃん騒ぎをいたしましょう!」
    外に止めてあった車から立て続けにエンジンが起動する音が鳴った。見事なくらいに狂宴を煽るようなタイミングだった。
    「さあ、こちらへ」と彼とクピドーは祭壇の前の長椅子に腰掛けるよう案内された。目の前の磔にされたイエス・キリストの大理石の彫刻を視ながら、クピドーが口を開く。
    『それにしても、こいつが一番口は悪いけど憎めないやつでさ』
     彼を顎で指しながら、言った。
    「オーロード! 先程から観察していますと、わかりますよ。仲が良ろしいのが――」
    『とんでもない』と彼は急いで訂正しようとした。
    『だって、お互いに距離感というものを大事にしながら、触れてはいけない部分を隠し持って接していながら、一心同体かのようにお互いときどき見つめ合うではありませんか。いますぐ食事を用意いたしますので。先に。葡萄酒(ワイン)でもいかがですか」
    『ありがとう、いただくよ』
     クピドーは遠慮なく歓迎されたまえと言わんばかりに胸を張って、また彼に目配せした。彼といえば、暗闇の中で突如はじまったルネッサンスのような爆発的な「物語」の展開を整理するのに時間がかかっているようだった。
    『それで、最近こっちはどう』クピドーがごく自然に訊いた。
     シスターの表情から急に生気がなくなったように表情が没した。埃に混じって重い沈黙の匂いが3人の周りに振っているようで、思わずクピドーは手で払いながら訂正した。
    『そんな真剣な顔するような質問してないよ。ただの世間話だから』
    「わかっております……」立ったままロザリオをまた固く握った。
    「わたし達人類は、試練の時を迎えています」
    『深刻そうな顔だね』
    「わたし達シスターたちも日々祈りを捧げるばかりです」
    『力になれるかもしれません』クピドーは椅子から転げ落ちそうになった。
    2人が驚きの表情で彼をみると、彼女は崩れた表情をといて語り始めた。
    「『理由』です――」
     クピドーも彼も黙って聞く準備は整っていた。
    「それが神の創られた宇宙を解明し、いささか解明する必要のないものを解明しているようですが、それがわたし達の文明を支えてきました。科学全般も政治も、経済も、全て『理由』です。『理由』が全てです。それがその中にとどまっていてくれればよかったのですが……」
    『いま、それは、ついに開けてはならない箱を開けてしまったと』クピドーが予想した。パンドーラ―の箱を頭に描いたからだ。ところが、開けてはならないのは外の箱ではなかった。
    「わたし達ですよ」予想外の結論だった。
    「主から頂いたわたし達の身体の中は『理由』という病に侵されているのです。処方薬もない。なぜなら、処方の薬は人間の中、つまり『理由』が侵入しているその場所にあるからです」
     シスターは束の間の沈黙を挟んだ。
    「わたし達は、全て『理由』、そして法律にさえ触れなければ何でもしてかまわない、という考え方で生きています。時には、法律に触れることさえも、それによって正当化できる悲しい人間もいます――長くなってしまいましたが、それに縛られるわたし達は……自由ではありません」
    クピドーは古びた箪笥から虫に食われた衣類を引っ張り出して、それを知らずに着ているかのような居心地の悪さに襲われ始める。
    人情や慈悲が古いものとされ、道徳心や倫理観が煙たがられて、無私よりも外見の個性、無欲よりも享楽、普通よりも特別、思い遣りよりも正論、容赦よりも刑罰の時代となった。しかも、その時代の到来を待ちわびていたのは他にもいた。競争と勝敗、そして自由と金銭だろう。19世紀の暗い錯節(さくせつ)したパリの下水道を彷徨っている気分だった。
    「合理的な『理由』がないと、人を愛せなかったり、助けられなかったりする。『理由』を先に考えて、神が望んだ行動を行う。要するに全て打算的になりかねません。『理由』は、わたし達の中に入ってきてはいけないんです! いますぐに出て行ってもらわなければいけません! 当たり前の行動をするのに、『理由』がないと動けないのだとしたら……だとしたら、わたし達はもはや神に向ける顔がないじゃないですか……」
     しばらく沈黙のあと、長広舌をふるった時間を恥じるように深々と首を垂れた。寂しそうにシスターは笑った。葡萄酒(ワイン)の準備をと奥にいくと、残された2人はただ俯いたまま動かなかった。
     
    沈む夕陽が教会内に差し込むころようやく他のシスターたちが戻ってきた。葡萄酒(ワイン)やバケットなどを手に取りおのおの祭壇の右側にあるテーブルに並べていく。バケット、ココット、チーズ、キッシュ、鶏肉のパイ包みが並んだ。
    「わたし達はメフィスト様を心から受け入れます」
     シスター・バートウィッスルが代表して宣言した。
    「『悪魔なければ救い主なし(ヌルス・ディアボルス・ヌルス・レデムプトル)』です」
     テーブルに定間隔で並んだ彼女たちはにこりとメフィストに向かってウィンクした――。
     食事の間、クピドーとシスターたちは色々な話をした。1914年以後、世界大戦、ホロコースト、カンボジアのジェノサイド、飢餓、核による絶滅の脅威に常に晒され、シスターたちは、限られた地域で起こる戦争よりも、今はテロリズム日々不安を感じているという話をした。そして、その背景には、今の外の世界では2つの観点が支配しているようだ、ということも。
    「一つは相対主義とニヒリズムの混じった下液に文化的絶望をふりかけたようなものです」
     シスター・モーリスが表情を変えずに言った。どうやら彼女たちの中では最も冷静沈着で感情を表情に出さないことがわかった。
    「もうひとつは罪深き我々の進化への信仰です。わたし達は、何の希望もないことを心から怖れています。主がいるかぎり、わたし達が殉教や死へ導かれようとも、この世から希望がなくなることはありません。ところが、主を信仰されない人達はや闇雲に希望を持って、しかもその希望は絶対的ではありませんので、任意で相対的に姿を変えていきます。人を救うことに希望をもっていた人間が翌日目ざめてみたら他の民を殺すことで人を救うことにしたとします。その虐殺は正義のもとで行われているわけでありますから、人類に希望をもたらしたとされます」
     シスター・アボットは遠くを見るように仮定の話をした。メフィストは我ながら神でも悪魔でもない生き物の別次元の悍ましさが、いたく体内に染み込んでいく想いがした。
    「つまり、いま外では主も悪魔も居場所がない、ということです」
     周りにいるシスターたちも沈んだ表情で下を向いている。
     すると、遅れて戻ってきたシスターがひとりの女の子と一緒に入ってきた。10歳に届くか届かないかで、水玉のワンピースにくたびれた猫のようなライオンのようなぬいぐるみを小脇に抱えている。片方の手でシスターの修道服の裾を握っていた。
    『遅かったねーシスター・キャロル』
     クピドーが歓談を中断して声を掛ける。
    「ごめんなさい。この子がぐずったものですから」
     どうやら、シスターたちは家から通っているようで、教会の中に住んでいるわけではないことが分かった。
    『名前は』と、メフィストが話しかける。
    「ブライトといいます。難民の子です。2年前知人から相談されてわたしがこの子を育てることに致しました」
    『いい名前だね。スペルは』
     立ち上がってメフィストはその少女の下へ近づく。
    「b.r.e.i.t.eです」
    『なるほど、ドイツ語だ』
    「はい。世界に平和と愛をもたらす存在、この子が将来そういう架け橋になって欲しい、という願いを込めて名前をつけました」
     少女は彼女の後ろへ隠れた。それでも手を引き戻さなかったメフィストを不思議そうに見つめている。恥ずかしがっているだけで怖がっているわけではないようだ。その証拠に、だんだんと裾を掴む手の力が抜けていく。少女はぬいぐるみを抱えていない方の手を伸ばした。悪魔と希望との握手をそこにいる誰もが神聖なものに祈りを捧げるように見つめていた。
    『さあ、一緒に食べよう。子供はたくさん食べなければ』
     そうして白の頭巾(ウィンプル)が全員揃ったところで宴は再開された。
     そのうちクピドーと対面するように座っているシスターの3人がひそひそと楽しそうに打ち合わせのように話し合ったと、真ん中のひとりのシスターが言った。
    「クピドー様! わたし達からプレゼントがあります!」
    『え! 何だろ!』
    「じゃーん」
     大きな包みがシスターたちの頭巾(ウィンプル)と同じ白の生地で包まれていた。形状からして額縁だろうか、とメフィストは思った。
    『オーロード! こんなことしなくていいのに!』
     彼は言葉とは裏腹に力が抜けたようにふにゃふにゃになりながらにやけ顔になった。
     大きな包みからでてきたものは額縁に入った一枚のデッサン。絵に描かれているのは寓話的な世界観。死体のクピドー、葬列に参加するニヤニヤした裸のクピドーたち。『アウグストゥス帝とティブルの巫女』で有名なフランス・ボーヴェ出身の宮廷画家のアントワーヌ・カロンの作品『Les Funérilles de l'mour(『アモルの葬列』)』だ。
    『おお、これは、カロンの下書きかー懐かしい!!』
     期は16世紀。アントワーヌ・カロンはイギリスをお忍びで一人旅行中に道に迷い、4時間歩いた果てにこの教会に辿り着いた。
    『あいつが、酔っ払いながらささっと書いたやつだよね! ちゃんとした絵はルーブルに飾られているけど、これはそれ以上の価値があるでしょ! これ、ほんとにもらっていいの』
    シスターたちはグラスを顎のあたりまで上げてクピドーに献杯した。
     
    鬱蒼とした森に囲まれて窪(くぼ)まった位置にある教会の外壁は、夜になると天空からの月明りがいっそう際立たせていた。月の光に照らされる〈緑人〉をさきほどから眺めていた。〈Green Man〉と呼ばれる〈緑人〉は、中世の教会に刻み込まれた数多くの首や顔を意味する。
    「ここにいらしたんですか」
     鼻歌交じりでシスター・バートウィッスルが現れる。どうやら独りのようだ。
    『シスター・バートウィッスルでしたか。中にいなくていいんですか』
     彼女はメフィストの肩を気さくにぽんっと叩いた。
    「せっかくの星空を独り占めはさせませんよ」
     隣に並ぶように立つ。
    「この教会のほかに、サウスウェルの牧師館、スコットランドのドーノッチの聖堂とマンチェスターの聖堂が有名なもので、そのほか何百もあるんですよ」
    慈愛のこもった優し気な目線を上に送っている。
    『これは何のかたちですか』気になるかたちがあった。
     彼女は声に出さずに笑った。
    「それは『シーラ・ナ・ギグ』と呼ばれるものです。女性の外陰部を大げさに表した裸体の彫刻なんです。『シーラ・ナ・ギグ』とは『乳房の女神ジュリア』を意味しています」
    『そんなものが教会に……。意外と教会も清廉潔白ではないんですね』
     彼女は意味深に笑った。「女性器だけでなく教会の西壁に行けば、男性器もご覧になられますよ」彼女は言ったあとわざと口に手を当てた。
    『インキュバスが喜んだだろうな』
     レストランでの一件以来、ほとんど工房(サロン)にも戻ってきていない。寝静まった夜中に返ってはきているようだったが、姿を見せないということは会うことを避けているのだろうと考えていた。
    「古代ケルト人は、戸口を守る役割の呪術として「女陰」に似た形の物を戸口や門の所に打ち付けておく風習がありました。南の入口にある東側の柱には、数多くのデーモンの要素や占星術の意味合いが残されています」
     彼女が緑人について語る間、メフィストは聞き入ったように彼女の横顔を見つめた。横からでも青く美しく黒く澄んだ瞳がみてとれる。「自らの尾を噛むウラボロス、ドラゴンを食らうドラゴン、鳥の頭をもつ怪物、黄道十二宮の双魚宮などがあります」
    『ヴァイス! 教会にデーモンですか』
    「おかしいですか」
    『この教会はエヴァンゲリカルプロテスタントの教会なはずですから……』
     彼女は含み笑いした。実にさまざまな笑い方をする。
    「ええ、だからこそうちのシスターたちはあなたを受け入れたのかもしれません。あなたの背後には多くの罪や血の匂いのする重たいものがあるとしても……」突然話を中断した。メフィストは横顔を見つめているのに気づかれたと思い、下を俯く。
    『どうかされ――』
    「そうだ、あれを見てください」
     メフィストが視線を彼女の指の先に向ける。
    「さきほどのジュリアも含めそうなのですが、全〈Green Man〉と呼ばれ、中世の教会に刻み込まれた数多くの首や顔がこうよばれます。首からなっていて、口から花模様の装飾や蔓(つる)が伸びているのが分かりますか」
     確かに、なにやら蔓(つる)のようなものが伸びている。
    「はい。ああいうものが口から出ていますから、オカルト的にデーモンだと盛り上がって今はそれが通説となりました。が、実はわたしの母が代々わたしの子孫にだけ伝えていくものなのですが――」もう一度途中で話を切り上げる。
     何かを考えるように目を閉じた。メフィストは瞼に包まれた瞳を想像した。
    「一切他言してはならぬ秘密があるのです」
     秘密……それは私のような存在には教えてはもらえないものだろうか、とメフィストは残念に思った。
    「この緑人は、そのままデーモンではなく、わたし達人間に関わるものなのです」意を決したように語り始めた。その物語は、全てに関する学問を熟知したはずのメフィストさえも知らないものだった。
    「ロゴスはご存知ですね。あれは、人間の言葉の概念を表していると言われています」
     彼女はもっと教会の外壁に近づいて、そして手を伸ばした。
    「あそこの口から伸びた花模様の装飾は、ロゴスに結び付く開口部を介して人間から流れるエーテルの力を表しています」
    『なるほど……ということは―』
    「クピドー様に言うなと言われたのですが……」
    『いいですよ。気にしなくて』
    「『あいつは悪魔の癖に、酒も喧嘩も嘘もつかない。飲むのはハーブ酒。趣味はヨガ。仕事は精油(オイル)をせっせとブレンド……これ、どうみたって、悪魔云云よりも、独身女性か! ってツッコミたくなるだろ? いわゆる世俗主義的なことをやろうともしない。だからこそ同僚からも距離を置けられていた。誰もあいつをどう扱っていいのか分からなかった。それは天使なのか悪魔なのか、普通はこの二項共存(コハビテーション)で成り立ってるから。でも、俺には分かった――』
     彼女の物真似は実に堂に入っていた。感情が高ぶると声が必要以上に高音になるところなぞそっくりだった。
    「『こいつは一生俺が守っていかなければいけない』って」
     メフィストは黙って何かを考え、そして口を開いた。『一方的な気持ちは、暴力と同じですけどね。あいつに守られた覚えはないんですけど』
    それ聞くと彼女は豪快に笑った。ひっそりと静まり返った薄闇で虫の声に混じった笑い声は実に耳に優しかった。それにストレートな笑い方がメフィストを居心地よくさせた。
    「こんなことも言っていましたよ――」悪戯っぽく笑った。
     メフィストはしばらくまた彼女の茶化したような物真似を聞いていた。
     メフィストは笑いながらその一部始終を聞いて、心の中で首を垂れた。ボーリングでガーターを出して喜んでいた間抜けな神ではあるが、教会を訪れる前に物凄い剣幕で怒ったのは心配してのことだろうと、やっと気づいたからだ。
    「最後に、泣きながらこう言ってました。『もうすぐ別れることになるんだ』」
     
     シスター・バートウィッスルがが快活な声で機敏にカーテンを開けた。絵のような田園風景と山並み、そして夏の陽光、空を翔け巡る鳥たち。「きれいなエメラルドグリーンですね。さきほど少し雨が降ったんですが、今では見てください、あそこの西の空低くに虹がかかってますよ」
     目を擦りながら口の中を舌でなぞる。内壁が乾ききっている。昨夜のどんちゃん騒ぎのあとどうやってこのベッドにたどり着いたのか覚えていなかった。サイドテーブルのデカンタに入った水をグラスに注いで一気に飲み干した。『あー』ようやく目覚めの鐘が鳴った。 
     窓の外を見ると思わずクピドーの口から感嘆な声が漏れた。自然が紡ぎだす人間の力を凌駕した色遣いの虹が、鮮やかに空を抱き寄せている。
    『あいつは』見事な空の鑑賞も早々に切り上げる。
    「メフィスト様ですか? 朝早くお帰りになられましたよ」
    『なんだって!? 俺を置いていくなんて……案内した神に対しての礼儀かよ。まず友を愛せって話だ……あれ、でイカロスも迎えにこなかった』
    「はい、いらしてませんよ」
    『そっか。世話になったね。久しぶりに愉しかったよ……』しみじみと昨晩のことを思い出す。久しぶりに羽を伸ばせた。
    「わたし達も、たいへん愉しい一夜でございました。主に感謝いたします」
    『シスター……』
    「はい」
    『あいつが初めてここに連れてきて欲しいって言ったんだよ』
     嬉しいような悲しいような表情で言った。
    「そうだったんですね」
    『初めてだったんだよ……悪魔が神の端くれに願いごとをするのは。最近は……』
    「どうかしましたか」
    『うん』
     クピドーの炯炯(けいけい)たる視線の先は机の上だ。何かを察したようにぴくんと片方の眉が動く。右手をベッド脇にある机の上にあるものに伸ばした。
    『これは……あいつが忘れるなんて、珍しいな』
     ただの忘れ物を見つけたとは違う、神経質な笑顔をシスターにむけた。それから一言も発せず古そうな本を上から下からと眺めた。緊張した空気が漂う。彼女はそれを嗅ぎ取った様子で、あたりさわりのない質問をした。
    「それは、メフィスト様のものですか」
     質問に応えないクピドーを彼女は心配そうに覗き込むように中腰になった。
    『誰も暗い水に浸されたあいつの秘密に触れることはできない』
     口元に諦めたような笑みを浮かべている。
    『俺にも教えてくれないんだ。この本には一切の装飾がない。そして、俺らにはこのページをめくってに何も書かれていないようにしか――』クピドーは『ほら』と言っておもむろにページをめくって見せた。
    『見えないんだけど、あいつには何か見えるんだろうな』ぱらぱらとページをめくる。
     何も書かれていない空白のページがどこまでも続いているだけだ。日に焼けたような染みが残っているのと、背表紙がとれかかっており、全体的にオレンジ色をしている以外わかることがない。
    『あいつは反乱の修羅場にも加わららなかった。虚偽や誘惑にも手を貸さず、情慾にも溺れず、かつて愛した悪魔の想像を絶する裏切りにも自制心を失わず、根っこから地獄に墜ちずにいられるのは――おそらくこの本のおかげだ。こればかり読んでいたからね……』
     クピドーがない混ざった感情の塊を対処できずに身体をぴくんとさせる。
    「わたくしには、『理由』に縛られない存在に見えました……」
    『どういうこと』クピドーは昨夜の話を思い出す。
    「人類の希望のような……御赦しください」彼女は急いで片膝をついて懺悔の姿勢をとる。
    「わたし達の試練の時に終止符を投げる予言者のように昨夜見えました」
    『そんな玉と違うけどな。あいつは平和主義者じゃないよ』クピドーは一笑した。しかし、あながち間違ってはいないともどこかで思える。それは今まで思ったことがないわけでもなかったのだから。
    『あいつ、苦しいんだろうなあ』窓の陽はいっそう強く窓から一直線に差し込んできた。  
    『俺は戦うあいつよりも、のんびりと閻浮提(げかい)で今まで生きてきた日々の方が好きだったよ』
     もうすぐ一番目を伏せたくなる友とその友の力を、倦(う)むことなく直視しなければいけない未来が待っていると考えると、真っ青な世界が膨らんだ。
     慈悲深い眼差しに思わずクピドーは涙目になる。
    『ちくしょ、あいつ、なんで、ちくしょ、俺は、なんで……』
     力一杯に瞼を固く閉める。涙と涙。その一杯の涙が意思を宿された生き物のように頬を伝った。一度別れた涙が顎の先でまた遭遇するまで彼女は何も言わなかった。
    「そうだったんですね。そんなに大切な本ならば、《カエサルの物はカエサルに》ですね」
     シスターは明るく笑った。その笑顔には一点の曇りもない。
    『見殺しにはできない……』
    息ができないくらいの嗚咽をもらしながら、人目もはばからずに咽び泣いた。やや紫を帯びた深い水縹(みなはだ)の涙の中で、希釈されない悔しさと無力感が後から後から追いかけ蠢いている。ひくひくと途切れ途切れのその声は教会の中を谺していく。
    「まずは腹ごしらえですよ!」声に快活さが戻った。「たっぷりと朝食は準備していますので、他のシスターたちとお食べください」
    『そこまで世話になるわけにはいかないよ。今度必ずまた来るから、その時一緒に朝食を食べよう』
    「かしこまりました」
     シスターは思い出したように他の話をし始める―。
    「さきほどのお話ですが、わたし達閻浮提(げかい)の人間も時々忘れてしまうんですよ」
     思いを馳せるように深まる緑の森を窓から見つめる。
    「あまりに世の中が忙(せわ)しない。生き急いで動くせいですね。わたし達もです。死に直面すると、初めて自分が生きてきた道を再考して愕然とする方もいらっしゃるんです。ですけどね……どうやって生きてきたか、生涯(キャンバス)に何の絵を描いてきたか、どういう彫刻を掘ってきたか……そんなことは、死ぬときは少しも関係はしないんですよ」
    手元にある本をずっと見つめていたクピドーが顔をあげた。
     泣きじゃくった痕が顔に残っているのを確認するようにシスターが覗きこんだ。そして、にぱーっと向日葵のような笑顔が輝いた。
    「神への深遠な信仰心、そして泉石膏肓(フィジオラトリー)の思いから教会に入り、裏の畑で作物を耕し、草花を育ている日々を送らせていただいているわたくしですが、死ぬ前に一瞬でもどう死にたいか、死んだ後にどう生きたいか……毎日、神のご意志なんでしょうね、わたくしが一生掛けて解かなければいけない難題なのでしょうね……どう生きたいか、という難題をいつも想います。そうやって考えればいいんですから」
     ふたりは視線を重ねて同時に笑った。
    『死んだあと、どう生きたいか……か』クピドーは声に出してみた。重要な問いに思えた。
    「鍵の穴から天を覗くような出過ぎた真似を御赦しください」
    『ありがとう。気にしなくていいから。じゃあ、そろそろ行こうかな』
    「神のご加護を。あっ、おまちくださいませ! 忘れるところでした!」
     そう言うと、シスターは走って奧の部屋に行き、そしてすぐに何かを手に持って戻ってきた。
    「こちら、メフィスト様からクピドー様に預かっておりました。何やら、何も言いませんでしたが。おそらくクピドー様のためだけの特別なもののようです」
     小さな包みをあけると、何やら見慣れた茶色の瓶が入っていた。
    「使い方はイカロスさんに聞いてみたらいい、とおっしゃっていました」
     料理家が隠し味を言うときの台詞回しの調子で励ました。
    「〈いいものは小さな包みに入ってやって来る〉とよく言われます」
    ―シスター・バートウィッスル……シスター・バートウィッスル!
    「おや、誰かがわたくしを呼んでますわ」
     
     この日、数週間ぶりにインキュバスは工房(サロン)でメフィストと会っていた。いや、対峙していた。
     もともと細身の肉体がさらにやせ細っているが、顔の精悍さは反比例して前より増していた。ある覚悟を瞳に宿した者だけが見せることのできる、漲った緊張感が所狭しと部屋の中に満ちていく。その背後にはひとつの決断があった。
    『どこにいらっしゃったのですか……』神経の衰弱が滲んだ声で訊ねる。この日、実はメフィストにとっても工房(サロン)に戻るのは久しぶりのことだった。教会での一夜以来消息を絶っていたのだった。
    『手前があなた様を見失ったことはありませんでした。ご命令なら、自分の手足をもぎとってその血を捧げます』
    弛(たゆ)まぬ緊迫感はメフィストにも浸透したようで、ただ言葉を失ったように沈黙を続ける。差し迫っている張りつめた糸が切れるその瞬間を感じずにはいられないのだろうか。インキュバスの逓増(ていぞう)する緊迫感は血走った目をみれば容易にわかることだった。
    『3世代前のメフィスト様にお仕えしている時に、18世紀のニューイングランドに降りたことがあります――』唐突にインキュバスは昔話を始めた。カップを口にもっていくメフィストの手が止まる。
    『そこでは当時ヨーロッパでの7年戦争の一環であるフレンチ=インディアン戦争で人間たちは人殺しに明け暮れていました。鮮やかな血がほとばしり、こんな時代なんかより明媚なひどくアンティ・ディバインな景色が続いていたものです』
     ちらちらと主人の様子を確認する。
    『戦争とは宿命的に人間と調和するものですよ』
     インキュバスは意志を徹頭徹尾貫通させた。使命を完遂するとぐったりとした心持に襲われる。口の中にぬるぬるっとした異物を感じる。自分の地位や役割と完全に相反する役を演じようとしているからだった。もしそのことで破門の脅威に晒されようとも覚悟はできている。この日主人であるメフィストを烈しく非難するつもりでいた。
    『何が言いたい』
     糾弾するような言い方に背筋が凍りつきそうになった。
    『わかりませんか』敢て挑発してみることにした。
    『私の意見では、全ての殺戮、全ての差別、全ての虚構、ばかげた浪費、浅はかな合理的思考、借り物の理論武装、警戒のための追撃、人間としての尊厳よりも自らの権威、地位、威厳、自尊心を維持するために行う森羅万象の「血の湖(うみ)」などは、けっして幸福になることのできなかった輩、そして幸福になろうと自分の意思で努力する人々に我慢ならない輩の仕業だ。そんな連中は一年中黒雲の中に隠れて月も太陽も照り輝くことなど無く、絶望に希望を被せているだけに過ぎない。何だって、そんな愚かな、悪魔にも劣るようなことが、閻浮提(げかい)の人間にはできるんだ』
     ふと異変に気づいた。珍しい。工房(サロン)には何の香りもしない……。
    『17世紀に増え続けた牢獄も処罰の形として爆発的に機能しはじめたのは18世紀を通してでした』インキュバスは講義に話を元に戻した。『というのも、マサチューセッツ州の最高裁判所の1790年から1794年の間の告発件数は1750年から1754までのそれと比べるとおよそ6倍まで亘りました』
    『誰が貴様の講釈を頼んだ』
    『牢獄からさらし台へと続く、草の刈られた一本道を歩く人間たちと治安判事や牧師たちの対立する構図は視るも愉快な光景でしたね』
     インキュバスにとって、主人の説得はやり遂げなければならないことだった。己以外の意見など容れない狭隘(きょうあい)さのためというよりは、狼狽を必死に抑えるために耳を貸す余裕がなかったので、自らを包囲して独り戦火の最前線にいるような錯覚を覚えた。
    『インキュバス』俯いたまま名前が呼ばれた。『私には……今回はどうしてもできない』うすうす感づいていた告白が実際に完遂に及ぶと、意外にも重々しい空気にはならず、空っ風が肌にあたるような妙な感触だった。苦しんだ末の結論だというのはよく分かる。むしろそうでなければ主とはいえ、首を絞めるどころの騒ぎではなかったはずだ。にもかかわらず、許す気には決してなれない。
    『今の時代に共通する大悪禍(カオス)は理解した』
    『光を亡くす』
    『それでも、やはりできない』
     理由などどうでもいい。結論が問題なのだ。理由を問いただしたところで、結論が変わらなければ意味はないと、インキュバスは焦れた。
    『何を言っているのですか? 何か悪い媚薬(びやく)でも飲んだのですか』被せるように怒りを閉じ込めて返す。説明を求めるように視線を重ねた。
    『いや』と応えると『では、弁解の余地はありませんね。ご自分が言っていることが分からないんですね』と、インキュバスは吐き捨てるように追撃した。
    『手前の唇に教え込んでくださった媚薬は破壊です』
     裏切らないでほしい一心に、インキュバスは主を褒めたたえることに作戦を変える。
    『その破壊の神であるメフィスト様が常に手前の生きる道を照らしてくれます――手に触れない空気のように蠢き、手前の周りを遊泳し、永遠に罪深い欲望でこの肺を満たしてくれている。メフィスト様は悪の華です』
     陳列された本に溜った埃を一冊一冊払いのけるように、一言一言に押し流れる感情たちを込めた。
    『どうやら彼らとの境目が分からなくなってきた』
    『境目ですって!? 何を言っているのですか!?』インキュバスは、鬼の、いや、悪魔の形相で主を睨みつけた。言葉に帯びているのは、信仰心を踏みにじってくれるな、と教祖に自信を取り戻させるようなメッセージだ。
    『誰かのように去勢にでも手を振るおつもりですか? 禍患(かかん)に背をむけるのですか? 手前の心臓は、血に染まれた剣で心臓を守るあらゆる骨を砕き、その後にゆっくり突き刺して頂かないと、また黄金の夢をみることなどできません!』
     剣幕に閉じ込められた嘆きは部屋中の壁に染みていく―。
    『これ以上はもう続けることはできない。冒涜です。判断の夜までもう2週間をきりました』
     もういい加減に指をくわえて視ているわけにはいかないのだ。人を、人々を殺してやりたい。この喉は血の塊を飲みこんでいる自分を想像してきたのだ。
    『あなたは所詮、光の影に過ぎない。影は光についていくだけで意志はもたない。ただ、光と正反対なことをすればいいんです。それが悪魔の定義ではないのでしょうか』
     一縷(いちる)の望みを託した。
    『手前はただ人間の必然性を壊したいだけです』インキュバスは最後に憂喜(ゆうき)を統制した。
    『必然性……』
    『文明を退化させ、復興を食い止める。帝国主義は復活し、民主主義は即刻唾棄(だき)されるべきです。奴隷制を復活させ、人間の劣悪な部分をもっとこの眼で見たいのです。無関心は横行すべきであるし、人殺しは正当化されるべきです。子供は親に強姦されるべきで、老人は自殺するべきです。死刑囚が被害者の家族を轢(ひ)き殺し、教育よりも戦争の仕方を教えるべきだ。伝染病と貧困も――』
     どれもこれもが人類が「間違っている」という猛省のもと、道徳感を無理やり成長させてきたからこそ、人類が乗り越えてきた問題だ。そのことがインキュバスは心底気に入らない。乗り越えてきた問題こそが人類を人類たらしめているものだったのにもかかわらず、愚かなあいつらは利口ぶって解決してきやがった。
     だからこそ、メフィストフェレスという存在が必要なのだ。
    『それが望みか』
    『あなた様の望みでもあります』
     一触即発の状況下でインキュバスは一歩も引かない。袂を分かつときなのか。重圧がインキュバスの背中にのしかかる。相容(あいい)れない者同士が対峙した時に必ず生まれるもの――君臨と顛落のどちらかを選ぶしかない血塗られた覇権争いだ。
    『……影は裏切る』
     インキュバスはそんな哲学に免疫をもってはいない。
    『あなた様の無鉄砲さには今まで何度も驚かされてきました』インキュバスは一笑した。冗談だと思ったのだ。
    『貴様はこのまま影として生きていたいのか』
    『少々悪戯が過ぎませんか』口許がひくつく。
    『諦める……』
    『安堵いたしました』笑みが戻る。
    『転生を……』
    『冗談でしょうね』
     憤怒(ふんど)とも憐憫(れんびん)ともつかない心緒(しんしょ)は、インキュバスに一線を越えさせた。その一線を越えることで、みずからの世界における地位を刷新されることも厭わない覚悟でそもそもここに戻ってきた。しかも、心緒(しんしょ)の先は三叉の鉾(ほこ)のよう至る所を一斉に刺した。ここまで傷ついた状態で、目の前の主に仕える意味がどこにあるというのだろうか? ここまで裏切られてまだ仕える価値があるのか? ここまで腑抜けな悪魔に弁明の余地はあるのか? まるでダナイデスの娘たちのように底のない水甕(みずがめ)に水を汲(く)み入れる罰を与えられているようなものだ。
    悪魔としての采配を放棄する者……冥界から追放されるか、地獄の炎の中で下等な悪魔たちにその魂を食い尽くされるだろう。それに、あの万魔殿(パンデモニウム)に鎮座するルキフェルへの背信行為が容赦される可能性などひとつもないのだ。今回の降臨の最初のロンドンの時から、疑問視していた……にもかかわらず、ここまで信じてきた自分への憐れみが全身の奧の奥まで食い込でんきた。
    『いい加減にしろ!!』煮え切らない態度についにインキュバスが業を煮やした。
    『貴様に沈黙を命じる。番号で呼ばれたいのか!!』主も同じくらいの怒号をもってインキュバスの下剋上を鎮圧した。そのように見えた。
    泡がぽつぽつと、これまで禁欲的に己の性欲に対して非寛容の態度を遵守し続けてきたインキュバスの上半身で破裂し始めた。
     このときインキュバスは決断をした。それは考えてもみなかったことだ。が、考えてみればずっと考えてきたことだった。言うなれば抑圧してきた渇望だった。それはもう出口の扉の前まできていた。
    『――ちょっと頭を整理してきます』
     考えは決まっているような背中は燃え滾(たぎ)る炎の観を呈していた。
     
    夏の果て、時刻は夕方6時を打った。
     
     ――誰かが泣いている(kh-kh-kh-hhhh)。
     
     大展望台とそれより100メートル高い特別展望台には多くの観光客が集まっている。夏休み最後の土日ともあって、賑わいは最高潮だ。燦々(さんさん)と照りつけ、行き交う人達を炙(あぶ)るような太陽はようやく沈みそうだ。蝉の声がうるさい炎暑も、もうすぐ終わり。とにかく長かった日本の夏が終わる。
     後もう少しで、ライトアップされるのを今か今かと皆が待ち望んでいた。
    早々と周囲の光の弱さを感知して点滅を始めたのは、東京タワーの航空障害灯だ。避雷針に囲まれるかたちで点滅する塔頂部、アンテナゲイン部、塔本体最上部、大展望台上部……。インキュバスがいる。大展望台上部の人がひとり辛うじて立てる場所に。
    目の眩むような西日を手で塞ごうともせず、橙色に輝くその表情からは息をしているかどうかも分からない。それくらいに静かに佇んでいるのをみると、嵐の前触れだとはとても思えないほどだ。
    油照りの時刻。太陽が沈んでもぬめぬめとした息苦しいくそよ風の吹かない東京の暑さの幕開けだ。外を歩く人々はその粘着質な蒸し暑さに翻弄されるように扇子や団扇で夕涼みに余念がない。
    日没と同時に180個の白色のランドマークライトが一斉に点灯した。ライトアップされたタワーを見て多くのこども達が嬌声を上げている。涼しげなサンダルやストラップシューズが展望台を走り回っていた。夏の灰色の闇の中に浮かび上がった東京タワーは不気味な凄みがあり、冬のライトアップとは異なる妖艶さを醸し出している。
    雲は天空にはどこにも見当たらず、無風状態。
     
    『乱痴気騒ぎ(メイヘム)を!』
     インキュバスの儀式が始まる。
    『暗闇(ひかり)を背にして告ぐ
    全存在を大きく凌駕する
    俺の名を叫べ
    叫べ、インキュバスと!』
     
    遠くで他人行儀(よそよそし)く雲が膨れあがり、そして同時に微風がインキュバスの髪を撫でた。みるみるうちにインキュバスの青白い皮膚がどす黒く染まり始める。やがて闇と同化していく。黒潮していくようで、黒い血が体中に流れているような染まり方だ。
     
    ――また、少女のような声で泣いている(kh-kh-kh-hhhh)。
     
    積乱雲の中の氷の粒が激しく擦れ合うように、一声一声に感嘆符を打つ。風はさらに強まり風の音がインキュバスの祈祷を天に昇らせるようだ。やがて」と肩で息をしはじめ、喘息のような苦しそうな息が漏れ始める。一方地上にいる人々はどこか涼しさが感じられる風を秋の訪れと錯覚していることだろう。
     
     ――大勢が泣いている(khh-khh-kh-hhhhhhh)。
     いつのまにか空をさらに暗くするひんやりとさせる雲が膨らんでいる。残響から新たな音が蠢き始める予兆だ。
    その時だった。一呼吸で人々の視界を塞いだのは滝のような雨だ。東京の空中の埃をさらった大きな雨粒は滴となり、やがてアスファルトを穿(うが)つ。濡れたアスファルトと空中の塵と埃が混ざると、まるで有機体となって意志をもって立ち上ってくるよう独特の匂いが広がっていく。
    そうして黒い雲からの豪雨は地面に到達すると飛沫(しぶき)となって日中照りつけたアスファルトを暴力的に接吻するように愛撫し続けた。蝉の鳴き声は止み、雨脚の激しい夕立が東京タワーの周りに降臨すると、ライトアップされたタワーも外を歩く人々の目に滲んで映る。皆は目をこすって茫然としている。
    インキュバスは雨滴を全身で受け止める。身を奮わせながら頬の肉をゆるめた。自分の求める光景がもうすぐ目の前に映る……映画の前のカウントダウン―そのカウントダウンは、政治家や科学者など人類史上誰もが監督したことのない類いの大悪禍(カオス)だ。
     
    『あの詩人はこう吹き散らした―『偉大な詩人にとっては、美の感覚というものが、他
     のどんな思想にも勝る。あるいは、他の全ての思想を消し去ってしまうと』
    あの科学者こう豪語した―『科学者は、罪を知った』
    あの哀れな政治家はこう囀った―『意志あるところに道は開ける』
    あのむかつく哲学者こう言った『愛とは、2つの肉体に宿る1つの魂から成る』
    我は輪奐(りんかん)の美を極もうとする者
    俺の名を叫べ
    叫べ、インキュバスと!』
     
     ――やはり少女たちが泣いている(khhhh-khhhh-khhhh-hhhhhhhhh)。
     
    ひんやりとした空気は看過できないほどまで空気を冷凍した。秋が通り過ぎてまるで冬の早朝のように肌寒い。いくら夕立でもこれほどまで空気を冷やすことはありえない。アスファルトにはところどころに大きな水たまりができ、まるで浸水するのではないかと思うばかりに、夕立は長く、そして激しさを増していった―。
    視線を上に戻すと、インキュバスはぼんやりとした陰影を残し幽霊のように立ったままだ。人間は生きているだけで、誰かの忌まわしき迷惑だと言わんばかりに、殺気だった視線を地上に注いでいる。
     ネオンと共に息吹く街が物憂げな濃霧の中に浮かんでいる。
     白い大鴉はその羽をひろげて霧を薫(くゆ)らすと、鼠色の霧の街をその羽で包み込んだ。濃霧は生き物のように街を飲み込み、その様子を見ることをゆるされているのはかぎられた者だけだ。高度3万5000フィートを走る旅客機か、東京タワーのような地上から100メートル以上の位置にいる者だけがそれにあたるだろう。
    東京タワーの展望台にのぼってきた人々が楽しみにしていたのは、他ならぬ摩天楼の夜景だったはずだ。が、薄紙をはぐように不安が伝播しているようだ。大多数の見物客がタワーを降り始めた。
     
     ――だいすきだよ………。
     
    『あぁぁぁぁぁ!!』
    インキュバスは肚(はら)の底から咆(ほ)えた。低く垂れた霧に己の迷いを投影してしまったのだ。そして、それを払いのけるように、地の底から這い上がってきたような声で咆(ほ)え続けた。その声には人間を傷つけるしかない道を孤独に歩くしかない己へ憐れみと、彼女の中に自分の道を探そうと一瞬でも考えてしまった己へ罰が込められていた。
    最後に指をぱちんと慣らして静かに目を閉じた。
     
     
     
     塔の頭上。くっきりとした陰影を湛(たた)える藤紫の宙(そら)が踊る雷鳴を轟かせる。
     別次元に長い夕立。不均衡に濃い霧。不可視の号哭(ごうこく)。つばぜりあう天と地。地上から天空に向かって伸びる若紫(わかむらさき)の幾千本の稲妻。
    インキュバスの怨念と欲望は飽和した。それが蜷局(とぐろ)を巻いて巻き上がり雲を突き抜ける。すると、やまびこのようにぎざぎざ状と曲線状の稲光(いなびかり)が周囲に降臨した。一度に集中したかと思うと、至る所にある都心部の架空地線付近に落雷したのだった。
    通常、架空地線に落雷した時には、雷の電流は地面に流れていくようになっており、停電は発生しないのが通説だ。なぜなら、架空地線に落ちた雷の電流は、鉄塔と電線間の絶縁の役目をする、磁器でつくられた「がいし」を損壊しないように、角の形のアークホーンという雷の電流を角の間で放電させて流す。いわゆる「フラッシオーバ」という現象を誘発する。ところが、雷の電流が非常に大きな場合、架空地線や送電鉄塔に大きな電圧が発生して、その電圧が電気を送っている送電線の電圧を上回ると、アークホーンから送電線側に電流のスパークが発声する。いわゆる「逆フラッシオーバ」だ。
    この時起きていたのはまさにその「逆フラッシオーバ」だった。さらには、街を包む、物欲しげな濃霧が雷を助ける役目を果たした。というのも雷は電気抵抗の少ない場所を一番通り易い。なので、霧の濃いところというのは電気抵抗の小さいところであるので、雷が架空地線に落ちないのだ。逆に、電気を送っている電線の方に落ちてしまう。
    こうして未曾有の大停電(ブラックアウト)が首都圏及び関東一帯を襲った。
    ―東京タワーのライト消滅。見渡すかぎり信号機は消えた。人も車も大混乱。東京タワー内のエレベーターに残された人達はパニックを起こし始めた。悲鳴が飛び交う。だがしかし、驚きに目を見張る大悪禍(カオス)――悪なる舞踏(ダンス)――はまだ序章に過ぎなかった。
     
     ちょうどその頃。
     森川泰世(たいせい)を含む葛根田地熱発電所からの蒸気輸送設備・中央操作室研修団が品川火力発電所を訪れていた。葛根田(かっこんだ)地熱発電所は岩手県雫石(しずくいし)町に位置し、森川家がある花巻市からは通勤電車で1時間ほどかかる。
    午前と午後の研修が終了し、ようやくホテルに引き返すところだった。長時間の研修で凝り固まった肩や背中をそれぞれが思い思いの方法でほぐしている。泰世は、ホテルに戻る前に電話をしておこうと、他の研修員たちから少し離れた位置で、携帯を握っている。
    「もしもし、緑(みどり)か」
    ―あら、あなた、研修は終わり?
    「ああ、さっき終わったよ。長かった」空を仰ぎながら深く息を吐いた。
    ―そう、お疲れ様でした。予定通り明日の朝帰るんでしょ? 今度はまた変更とか言わないでよ。今日子供たち一日中すねて機嫌とり大変だったんだからね。
     電話の向こうからの愚痴でさえもほっとできた。本来ならば昨日の夕方の新幹線で岩手に帰る予定だったのが一日延びたのは、今日火力発電所の出張イベントがあったからだった。どうしても品川の職員だけでは足りなくて、葛根田地熱発電所からの研修団も研修の一環として参加を急遽上司から義務づけられたのだった。
    「明日の朝帰るから。子供たちにも伝えといてくれ。東京のお土産たくさん買ってくるからって」
    ―分かったわよ。あっ、お菓子とかじゃなくて新幹線のプラモデルとか東京スカイツリーのプラモデルとかの方がいいかもよ。お菓子とかじゃなくて。
     送迎のバンに戻ると「よっ、愛妻家」と揶揄した声が泰世に飛んできた。言われたくなかったからこそ離れたのだが、笑ったときに思わず声が大きくなってしまったかもしれないと、泰世は曖昧に笑ってその場をすり抜けて自分の座席に戻る。窓から空を確認した。癖なのだ。いつでも空を確認してしまう。
     車は海岸通りをまっすぐ走ること13分。東品川のビジネスホテルにようやく到着した。バンから仲間たちと出て上を見上げる泰世は、どこか東京の空の下で生活する人々を気の毒に思った。高層ビルこそないが、送電線がやたらと視界を遮っているので、夕陽の色も一日の仕事の終わりを告げてくれる優しい使者には思えそうもない。
     フロントで預けていた鍵を受け取って部屋に戻って着替えると、まず大浴場に出かけた。夕食まで20分ほどだが、仕事の汚れをさっぱりとしたかった。身体にまとわりつく辟易としてくる都心の暑さが残した火照りを、少しでも早く拭い去りたかった。
     部屋を出ようとすると、ゴゴゴゴと突然音がした。窓から外を見ると、ホテルを入るまで雲ひとつなかったはずなのに、上空には雲はおろか霧のようなものが濃く拡がり、大量の雷と雨が走っていた。
    テレビのスイッチを急いで押した。テレビ中継で天気予報を確認してもどこの局も大雨注意報など出ていない。能天気な旅番組や夕方のニュースが流れている。妙だなと思ったが、別段気にせずに浴衣に着替えて大浴場へ向かった。
    泰世の部屋が8階。大浴場は10階だ。2台のエレベーター扉の前で待っていると、突然世界が揺れた。吠えた。揺れた。そして、光を失った。
     泰世は目をカッと開いた。一度に多くのことが起こりすぎて困惑して、まず現状を把握しようと、エレベーター近くの窓から外を眺めるた。すると驚くべき光景が広がっていた。電線の全てが焼き爛れていた。大量の同時落雷を物語っている。
    「う、う、嘘だろ……」
     気象状況よりも深刻な問題なのは停電だ。エレベーターは止まったまま。仕事柄落雷には敏感だが、落雷ごときで停電するわけもない。そして、もし落雷で停電するほどの凄まじい電圧が電線に落雷したとしたら……
    「火力発電所が危ない!」
     急いで部屋に戻った。まず家族のことが心配になった。しかし家族は幸いなことに離れたところにいるし、管轄は東北電力なので影響はおそらくないと泰世は受話器を置き直した。作業着に着替えて火力発電所の研修担当の杉並に連絡するためにホテルに備え付けの電話を掴んだ。
    「もしもし、杉並(すぎなみ)さんですか? 早く避難してください」
    ―おつかれさまです。え? 森川さん……あーはいはい。今日はお疲れ様でした。停電? そうみたいですね。連絡は入っています。港区の架空地線に落雷したそうです。大丈夫ですよ、保護継続方式で電力系統は保護されるようになっていますし、夏は雷と台風は多いですから。そんなたいしたものじゃないから大丈夫ですよ。原子力発電所とは違うんですから、避難は大げさですよ。
     この時、東京電力が運営管理する他24カ所の火力発電所にも同様な連絡が入っていた。
     実際、事態は想像も及ばないほど尋常ではなかった。落雷により大規模電源がいくつも脱落することで、事故波及防止のシステムは追いつかなかった。しかし、事態は停電どころの騒ぎではなかった。インキュバスの大悪禍(カオス)はそんなところで終わりはしない。落雷による大停電(ブラックアウト)の裏で進んでいたもうひとつの大悪禍(カオス)。それは人類にとっての進化の証のアンチテーゼとなろうとしていた。
     落雷による一時的な停電は、発電量と電気使用量のアンバランスを瞬く間に引き起こしていた。それによって生じる周波数低下のシナリオが頭に描かれたとき、泰世は背中に凍るような戦慄が走った。
    「泰平……」杉並に逆に落ち着かされた泰世は弟の名前を無意識につぶやいた。受話器を置く。今度は泰世は弟の泰平の安否が気になった。長年連絡はとってはいなかったが、電話番号だけは携帯に登録していた。
    「泰平か? いまどこにいる」
    ―兄貴か?
    電動歯ブラシが震えるような音がした。どこか屋内いるような空気が耳に伝わる。
    「いまどこだ」
    ―どこって……新幹線だよ。
     受話器のむこうの声には生がまるで感じられなかった。ただ咽喉から空気を出しているような無常な、吐息に近い音に、泰世は底冷えのする思いがした。「新幹線? どこを走ってる」弟の表情が浮かんだ。膝を胸に近づけてうずくまって話をしている姿を知っていた。
    ―なんで?
    「なんででもいいから、とにかくどこを走ってるんだ」
    ―…………。
    「おい、聞いてるんか」
    ―どならないでくれよ……もう色々あって死にたくなってるんだから……。
     声が押し殺されているのか、それとも低く抑えられているのか、泰世は判断がつきかねた。
     泰平は、この時東京駅18時20分発の秋田新幹線「こまち」31号に乗っていた。故郷を目指し、東京―大宮間を走行していたのだ。大宮到着は18時40分頃と予定されている。
    ―兄貴、オレ自殺しようとしたんだ。
    「自殺……何言ってるん、だ……」
     線路に寝そべっていたら、身体の上を電車が通過して、心臓を守る皮膚が張り裂けるような衝撃だった。目の前の大停電(ブラックアウト)。目先の空前絶後の周波数の低下が引き起こす事態。そして電話の先での弟の自殺。関係性を必死に頭で考えた。全て同じ理由なのではないかとさえ心の中で思った。
    ―オレ……本当に、人生は面白いわ……オレは最低のヤツなんだよ。兄貴が正しかった……オレは負けだよ。
     彼は泰世に事の顛末(てんまつ)をかいつまんで説明した。むこうで電話を切ろうとしたので、何か言わなければと見切り発車で泰世は喋り始める。
    「本当に、お前が、最低な悪者なら……」表面的な話以外ここ数年したことがなかったので緊張で少しどもった。「おれが東京から逃げ去ってきたから、お前に変なプレッシャーをかけたんだと思う」自覚はしていた。認めるのがただ嫌だった。兄の失敗が弟の人格を変えてしまった。思い上がりとも思われかねないが、事実だった。それは弛(たゆ)まぬ事実だ。
     弟は短く笑った。
    「前を見れば悲しみはない。悲しみは翼を与えられて空高く舞い上がるんだよ! 上を見るな。前を見たらすべきことが分かるはずだ!」
     誰を今救わなければいけないのか―見失わないようにするため自分に言い聞かせるように語気を強めた。泰世は、弟の人生の尊さをひとつも疑いたくなかった。それは、ごく当たり前の感情だった。
    ―兄貴、いつも、説明が足りないよ。オレは、兄貴みたいに頭良くないんだからさ。
     
    品川火力発電所では研修担当の杉並の楽観が叩きのめされていた。火力発電所の警報ブザーがけたたましく鳴り響いている。
    数カ所の大規模電源の脱落により、関東一帯では発電所の発電量に比べて電気使用量が凌駕した。それによって、周波数は大きく低下。周波数が低下したまま品川火力発電所の発電機室のタービンの羽根は回転を続けていた。火力発電機停止の元凶となった。
     タービン羽根の共振周波数と低下した周波数の倍周波数が一致すると共振現象が起きる。それによってタービン羽根が大きく変動してしまったがために、タービン羽根および車軸が受ける負担が頂点に達した。
     彼女は緊急避難指示を出し、職員全員を外に避難させた。泰世からの電話を切った直後、念のために発電機室に向かおうとするすんでのところで、自動避難警告が流れた。強く握りしめていた携帯でかたっぱしに天気予報とニュースを調べたが、気象庁も発表が遅れているのか、情報が何もないことに焦燥感が募った。彼女にとって―火力発電所で働く全職員にとってもだ―火力発電の停止はおとぎ話のようなものだった。
    タービン羽根と車室の隙間は数ミリしかなく、高速回転しているうえに蒸気の温度が高い。そのため僅かな振動があっても蒸気タービンは損壊する。周波数の低下により、火力発電所は壊れないように、周波数低下を感知するセンサーが働いたことによって、火力発電所が完全に停止したというわけだ。
    火力発電所と同じ現象が複数の火力発電所で起こり、発電機は次々と壊れていった。こうして計画停電をする暇も与えることなく襲ってきた首都圏の火力発電所の停止は、陸・海・空あらゆる電気システムに障害を与え、国家の機能を麻痺させる一歩手前だった。
    朱色と橙と紫の集合体(グラデーション)が描く天空―インキュバスが創った完成した世界―からは、雷と雨の音以外何も聞こえなくなった。品川火力発電所の外からぼんやりと発電機舎を眺めながら、彼女をはじめ誰もが非現実的な考え方で自分を落ち着かせようとしていた。
    神の怒り……。
     
    橙夏は成田国際空港のターミナル2での出国審査を終え、18時10分発全日航空008便ボストン行きの搭乗案内をゲートで待っていた。
    この時期の国際線の搭乗ゲートは、ボーディングスクールの秋学期のために日本中の帰国子女たちが一斉集会をしているかのようになる。普通の乗客には異様な風景だ。というのも格好は13時間の長い走行時間に耐えうるジャージ素材のパンツとパーカーのラフな格好で、日本人であるのに、聞こえてくる言語は英語だけなのだから。
    いつもの空港での過ごし方は携帯で音楽を聴きながらインターネットをするが、このとき橙夏は座禅のように姿勢よくベンチに腰掛けていた。隣の小さな子供が騒いでいても、全く集中がきれることがない。
    ゆったりとしたベージュのサルエルパンツに無地の白のトップスを着た橙夏はこの夏の思い出をドラマや映画の回想シーンのように、のんびり振り返った。
    こうして、また現実が始まろうとしている。その現実に耐えるために、思い出す必要がどうしてもあった。橙夏にとってメフィストと過ごした夏の日々は、17年間の歴史の中でかけがえのない時間だった。
    頭の中で時計を巻き戻す。そうして思い出しているだけで涙が込み上げてくるので、顔を下に向けて耐えた。
    瞼が置くなって、呼吸が浅くなり、目が乾き、指にしびれがきても、目を閉じることができなかった。悪魔が自分の目に棲みついて歌でも歌うように爛々(らんらん)と光の暴力的な束を収れんさせると、遅れるようにして浅く不定期な呼吸音の間を悲哀と暗澹(あんたん)がそれぞれの領域を侵さないようにすり抜けていった。救いの鐘の音は一度も掠(かす)めもしなかった。
    《これより皆様を機内にご案内致します》
    橙夏は、手を2回パンパンと叩いた。それから立ち上がる。覚悟と期待。復活の合図かのように辺りにほんの一瞬響いた。すぐに周りの会話にかき消されはしたが、爽快な気分だった。学校初日に提出しなければならないエッセイ……ミシュレの『魔女』のエッセイは既に書き終えていた――。
     右翼側3連席の窓側の席に腰掛けた。窓から見える右翼を赤紫の夕暮れが橙色に染め塗っている。
    全日航空008便は、予定時刻通り乗客200名を乗せて、全長2・5キロのB滑走路の手前で停止した。管制塔(タワー)の指示を待つ。世界各国からの離着陸を捌く成田国際空港の心臓部である高さ90メートルの司令塔だ。
    「あの人と、あの人達と出会った―」と紫の髪ゴムを触りながら、橙夏は免税品の機内誌をぱらぱらとめくりながら思いを巡回させた。機体は5分ほど経って着陸許可が出たよう機内アナウンスののち加速し始めた。
    「あの薪ストーブ動いてるの見てみたいし、その時にまた帰ってこよう。でも、私がいない間にあの人と……デキちゃったらちょっと嫌だな」―でも、それも何だかすてきかも。独り言に誰かが返した。「それがいいのよ」と女の人の透明な色をした優しい声だった。
    蝉の声と油照りする幽玄(ゆうげん)な夕陽によって縁取られた機体の影が滑走路を移動していく。
    成田空港滑走路上空の夕映えは、付近に管制塔(タワー)以外は高層ビルがないため、愚鈍なまでに赤の玉が地平線に完全に沈むまで地上一帯の色は空と同化する。空港内展望デッキの人も増え、皆が視野の彼方まで広がる体を焼くように熱い夕焼けが沈むのを見守っていた。各国の空港から着陸態勢に入って降下してくる飛行機たち。それらの機体の色も同じ橙紫色に塗られていくのを見ていると、橙夏はふと魂が一緒に遠くへ飛んでいくような心持ちにさせられた。
    夕陽が沈めば、滑走路の誘導灯がバトンタッチし、夜のしじまの主役となるはずだった。
    機内から夕陽に目を細めていた乗客たちは、戦火を機体が浴びているような音に茫然とするしかなかった。橙夏の座席の窓から見える右翼にも攻撃的な雨がまるで一瞬にして浸食しつつつある。橙夏は目を閉じたままだ――。
    瀑布のような驟雨(しゅうう)。天と地を繋ぎ、間の大気を裂く青光りの稲妻。2つが全てを真っ白に染めたその瞬間から数秒後―。第5貨物ビル、第2給油センター、そして管制塔(タワー)の光が消えたのは、離陸直後だった。優しく目を閉じ微睡(まどろみ)の中にいた橙夏はそれを気づくよしもなかった。
     飛行機は太平洋に向かって高度をぐんぐんと上げていき、高度3万3000フィートにさしかかったところでパイロットは自動操縦装置(オートパイロット)に切り替える。全日航空ボストン行008便が、航空路を管制する東京管制区管制所のレーダーから突然消えたのは、離陸後わずか10分を過ぎたところだった。
     
     亜望は仕事に没頭していた。完成したコピーを目を離して見つめて満足そうに頷いた。
    誰かのためにコピーを書くことに専念した。すがたかたちが曖昧な相手や不特定な相手より、たったひとりを思い描いて、その人間へのメッセージを送るようにすればいい。
     ふと、亜望は自分の子宮のあたりをみた。指で下腹部に触れる。聞こえないはずの音。もっと長く聞くはずだった音。恵まれない子供とはいえ流産した罰として、美沙世の願いとして、そして自分1人で生きていく決心の土台として、連綿と続いてきた塊がもうすぐ絶え入るばかりの生々しさを直に感じた。
     ピンポーン―。マンションの共同玄関のインターホンの音ではなく直接ドアのインターホンの音が微かに聞こえた。すっぴんだったので急いでマスクをして、玄関に向かう。すると、立っていたのは招かざる客たちだった。
    「これから一緒に部屋で食事しよう!」
     驚きのあまり返答ができないでいると、菖がさらに追い打ちをかけるように言った。
    「ぜったいきてよ! 着替えてからね。親友がお願いしてるんだから、ぜったいだよ!」
     秀弼と会うのは結婚式依頼だった。彼は居心地が明らかに悪そうな顔を隠せずにもぞもぞとして、亜望とは目を合わせなかった。ドアはそのまま閉じられた。
     亜望は、けろっとした表情で笑った。すぐにメイクとヘアセットにとりかかった。クローゼットの隅っこからペイズリー柄のエスニックなプリントワンピースを取り出す。敢(あ)えてアクセサリーは何もつけずに、ベージュのサンダルを合わせてエレベーターに乗った。
     萎える気持ちを奮い立たせるようにわざと足音を鳴らした。リビングへと進む。テレビと目と鼻の先にソファが置いてあって、どれだけの至近距離でテレビを視ているのか不思議でならなかった。人に見せるためだけに置かれているようなインテリアはシャネルで統一されていた。
     菖はやけに上機嫌だ。定石通り、シャネルのインテリアを眺める。
     亜望は、仕方なく意識を菖の上機嫌な理由の推測に無理に向ける。おそらく理由は特にないのだろう。お気に入りのアーティストのコンサートチケットが当選したとか、ひいきのヨーロッパのサッカーチームが優勝したとか、そういう類のことだろう。
    「どうぞどうぞ」秀弼がうながす。瞬きが多いのは相変わらずだが、声に生気はない。亜望は目を離さずにちょこんと肯いた。無意識に下腹部に手が伸びる。「そう……それはよかったね」蛞蝓(なめくじ)に塩といった表情だ。何だかひどく憔悴しきった様子だったのは意外だった。
    その後、会話とは呼ばない会話が、彼女が電子レンジで次から次に解凍しては皿に盛っていく間、続いた。
    ふと、外をみるときれいな夕日が落ちる寸前だ。お昼を食べてから机をかじるように座って仕事をしていたので、時間の経過が麻痺していたことに気づいた。結局なぜ食事に誘われたのか聞くのを忘れて3人は缶ビールで乾杯した。
     
     ――誰かが泣いている……(kh-kh-kh-hhhh)。
     
    カーテンのかかった窓を眺めた。5センチほどの隙間から見たこともない厚い雲が迫ってくる。
    亜望の異変に気づいた彼が、後ろを振り返る。広辞苑のような雨がざざざあと落ちてきた。
    「うわーすっごい雨ねー」
     彼女が特に気にとめない様子だった。しかし、箸を冷凍のポテトに戻すと、突然の鼓膜が破れんばかりの雷が轟いた。
     亜望は夢遊病者のようにベランダから体を乗り出した。信じられない光景。残照を感じさせぬ暗黒と赤紫色に光る光明がせめぎ合うような空が視野の果てまで広がっている。亜望は慌てて帰る支度を始めた。彼女の返事を聞く前に、亜望はハンドバックを手に取って玄関に向かった。電気が部屋で彼女はパニック寸前の状態に陥っていた。
     サンダルをはかないまま片手でもってエレベーターへと全力で走った。停電ということを思い出したのは、エレベーター前でボタンを何度も連打した後だった。急いで階段で下に降りようとしたその時。
     亜望の体が一瞬宙に浮いた―。
     引き伸ばされた沈黙に雨の音がようやく取って代わった。雨の音は女の叫び声にさらに取って代わられた。階段の上には夫婦。下には亜望がいた。胎内の芯からパニックになったような彼女が、頭から血を流した亜望を視て、ヒステリックな甲高い声をあげていた。
     薄気味悪い笑顔を浮かべた夫が妻の肩を支えていた。どちらも生気を失ってただ震えていた。
     
    泰平は途中で切れた兄の言葉を別段噛み締めるまでもなく、死んだ魚のような目をして車窓からの景色を眺めていた。携帯を握る手にも力が入らない。
     朝方、自分の部屋のベッドの隣で眠っている女を視て決断したのだ。決断するまでにかかった時間は、カフェでコーヒーにするか紅茶にするかを悩む程度の時間だった。大方の自殺してきた人間たちもこういうものなのだろうなと妙に納得できた。
     上野駅に到着すると、まばらだがグリーン車の11号車にも乗客が乗ってきた。空いている隣に誰も座らないことを願いながら、前から後ろから乗り込んで自分の席を探している人達が通り過ぎるのを横目で視ていた。運良く泰平の隣には誰も座らずにこのまま岩手まで帰れると安堵の息をもらしたその時、隣にごそっと鞄がおかれる音がした。招かざる客だ。そう思いながら、顔を左に向けると思いがけもしない相手がそこに立っていた……村沢望だ。
     隣に座った村沢は肩で息をしていた。泰平の方を向かず独り言のように話し始めた。「やあ、なんとか間に合ったようだ」とまず言ってから、ペットボトルの水を飲み干した。
    「どうして……ですか」力をできるだけ振り絞って声を出した。
    「全て聞いている」
     故意にセミナーのときのような改まった専門家口調に聞こえた。泰平は拝むような目で次の言葉を待った。
    「今朝連絡がきた。君のマンションに行ったら、部屋から女が出てきて……まったく何をしているんだ……どうでもいい。君がどこにいったか分からなかったようだ」
    泰平は何を話されるのか先が見えなく不安しか見つからなかったが、黙って頷いた。
    「何から始めようかと、ここに来るまでの時間考えた。しかし、まだわたし自身、整理ができていない。何から始めれば君に一番いいのか……だから、話がまとまらず無意識的に話がシフトしてしまうかもしれないが、全て君に伝えなければいけない」
     もう嘘は突き通せないと泰平は覚悟した。
    「それにしても酷い事態になったもんだね。大丈夫か」
    「なん……とか……大丈夫です」閉じた唇がなかなか開こうとせず、泰平はしどろもどろに応えた。
    「ひとつ誤解を呈させて欲しい。君のためにも。わたしのほうは、彼女とは離婚を前提に結婚生活を送ってきたようなものだ」
     やはりばれていたのだと、生唾を飲みこむ。
    「子育てに向いてなく、お互い忙しかったから、そもそも家庭に入る気がお互いになかったんだろうな。でもお金と社会的体裁だけはあった。早いうちから一人娘をアメリカにいかせることで、お互い楽になりたかった」
    「そうですか……」泰平は生返事を返すので精一杯だった。
    「だから、君と妻が不倫関係にあったことを咎める資格はわたしにはないと思っている。問題なのは……君の警察沙汰の方だ」
     村沢は僅かな静寂の間をとって、ある質問をした。
    「君ではないんだろ」
     泰平は理解者を捕まえたと思って、離すまいと神妙な顔つきで証言してみせた。ところが反応は意外なものだった。
     彼の顔には明らかに失望が表れていた。「違う」と裁判長の通告のような言い方をされると、泰平は自分の内側に見つけられる答えを求めたが、答えが見つかる前に彼は話を切り出した。
    「君の保釈金を払うように頼まれた。妻の不倫にはわたしの責任もあるからね。わたしは黙って支払ったよ。その時、彼女と少し話をした。保釈金を支払う替わりに秘密を告白された」
     泰平は、もっと痛烈に後悔した。昨晩のことだ。誰でもいいから、弱っているから介抱して欲しいと、あろうことか早紀のサロンで働く受付の桂木早苗に連絡していたのだ。
    心から謝罪してもう一度やり直したい、もう一度許してもらって彼女をこの手で抱きしめられたらどれだけ幸せだろうか。「僕はやり直したいと思ってます」咄嗟に出た取り返しのつかないような嘘は彼の表情を硬直させた。
    「さっきの質問だが。『君ではないんだろ』と訊いたのはえん罪についてではない。あの時……ルーブル美術館で迷子になっている彼女の手を握ったのは君じゃないんだってな」
     泰平は完膚なきまでに絶句した。
    「遠い子供の頃の記憶だから、記憶違いだと思って、君だと思い込もうとしたようだ。素直に認めていればこんなことにはならなかったのかもしれないが……君は、彼女とルーブルで出会ったときの会話、洋服の話になった事を覚えているね」
    「……はい」
    「小さいときから緑色が好きだったようだ。緑色のワンピースと緑色の靴の話になったんだってね? しかし、彼女は靴ひもがうまく結べずに裸足で歩いていたそうだ。だけど、君は、『あの靴を将来自分たちの子供にも履かせたい』と言ったらしいね。話の日時も場所も合っていたから、信じたかったらしいよ。その気持ちが真実を曇らせてしまった。見えていたのに見えないふりをした。君と一緒だ……」
     深い真実は慣れ親しんだ世界から泰平を引き離そうとするかのように猛威を振るった。なんとか現実につなぎとめておくために、乗る前に買って置いたウイスキーのミニボトルをそのままストレートで一気に飲み干した。胸のあたりで蠢く精神、感情、そして肉体そのものが焼けるように熱く、凍てつくように寒くなった。意識が溶暗していきそうになる。
    「愛してその醜(しゅう)を忘る―。あの子は、それだけ君のことを愛していたんだ」
     彼は組んでいた足を解いた。次の駅で降りようとしているように時計と電光掲示板を交互に見た。
    「女が愛するとき、女は全てを許す。それが道徳に背くことや嘘でも。女が愛さないとき、女は何も許すことができない。それが正しい行いであっても……」
     目を細めながら述懐する彼を尻目に、泰平は意識が混濁してきた。
    「わたしは次の大宮で降りる。話はそれだけだ。螺旋階段には気をつけた方がいい。踏み外さないようにと足元ばかり見ていたら目が回る気をつけて―」
     そう言うと、彼は鞄をもって車両を後にした。普通車両の方に向かっていった。
     
    2
     
    東京航空交通管制部(東京TC)と管制塔(タワー)の管制官たちは、恐怖に震えていた。それは見えない「犯人」によって数時間内に奈落の底へ落とされる日本の「空」を想像すれば当然だった。「空」の領域は「地」の領域に侵入するだろうという予想は人間を圧迫した。緊張で嘔吐している管制官も1人や2人どころではない。2つの離れた場所の停電は刻々と訪れるその瞬間を物語っていた。
    この頃、火力発電所の停止の連絡は既に入っていた。関東一帯の火力発電の停止、ということは復旧が数時間で終了することは考えられない。空を飛んでいる飛行機を、燃料を使い果たすまで上空で待機させたとしても、復旧しない状態で無事着陸させる見込みはゼロだ。停電のような機械の障害が生じた場合でも、安全性を維持できるフェイル・セーフ機能が基本的には作動するようになっている。これは、空港の管制システムに限らず、踏切や信号機などにも同じ安全システムが用いられている。徹底した機能障害への対策だ。
    ところが、管制官内及びレーダー室の脈絡のない阿鼻叫喚は、そのフェイル・セーフ自体の機能不全を証明していた。気象情報と各航空機の位置を把握するレーダー画面が消えた今、現在進行形で空を飛んでいるパイロットは全て目視で航空機同士の接触を避け、そして着陸を余儀なくされていた。しかし、理論上それは不可能なことだ。天候は最悪の濃霧と大雨の状態だ。目視などできるはずはない。1922年、世界初の空中での衝突事故の原因のひとつが悪天候にあった。
    管制官はすぐさま非常用無線で未曾有の大停電(ブラックアウト)の事態を、橙夏が搭乗している全日航空ボストン行008便にも伝えなければいけなかった。
    《ZK 008便、こちらTOKYO TC。こんばんは》
    《こんばんは、TOKYO TC こちらZK 008。何がありましたか》
     切迫感の滲んだ声は、パイロットが離陸直後から何度も管制官に呼びかけていた証拠だった。
    《ZK 008。緊急事態発生。成田に戻るため高度2万5000フィートまで降下してください》
    《TOKYO TC、緊急事態宣言。航空障害灯が全てダウンしている》
     離陸直後に航空障害灯も当たり前のように停電している事を副操縦士が気づき、霧の中で視界が完全に遮られた状態で飛行していた。
    《ZK 008 了解。そのまま降下。羽田アプローチ要請します》
    《TOKYO TC、了解》
     羽田アプローチ? 当然ともいうべき疑問が、パイロットの2人の頭をもたげた。
     この時、幸いにも航空機のレーダーは正常に作動していた。だからといって航空機のレーダーだけで羽田アプローチをすることは至難の業だ。世界でも有数な複雑な空域を持ち、各国のパイロットがその離着陸に最も神経を使うと言わしめる日本の「空」。管制塔(タワー)からの指示なしで着陸することなど無理難題に近い。
     離陸直後の地上を真っ二つに裂くような幾千本の雷によって、既に客室では緊張と不安、そして客室乗務員たちの精一杯の歪んだ笑顔が交錯していた。騒ぐ他の乗客たちをよそに、橙夏はバックからバニティポーチを取り出した。ラベンダーの精油(オイル)の瓶をだけ座席のテーブルの上に置いた。それから自分の手の平にたっぷり落として、首の後ろと胸元、足元、そして手の平を何度もこすった。あの時の彼のように―。
    いま目の前で広がりつつあるパニックを鎮めるのは自分しかいないと思ったからだ。近くで不安がる外国人夫婦にも声をかけ、落ち着かせようと座席を動いて必死に叫んだ。
     パイロットや管制官たちは、まさに盲(もう)亀(き)の浮木(ふぼく)とも呼ぶべき着陸成功という奇跡を神に祈るしかなかった。 
     
     さいたま新都心を過ぎるころ、泰平は背もたれに足を組んで体を預けて目を閉じた。村沢が去った後、もう3本、それも一気に酒瓶を飲み干していた。精神が崩壊寸前だ。目を開けて現実を受け入れる気などなれなかった。しかし、こうして目を閉じていても現実はその姿を隠しはせずに、却ってより鮮明に泰平の頭の中を支配した。酩酊状態に入る寸前のところで、のらりくらりと左右に揺れながら外をぼんやりと眺めた。
    景色など意識の上に昇ってはこなかった、しかし激しい雨は例外だった。妙な雨だ。厚い窓のむこうで重く薄情な液体が地上に落ちている。泰平は、ふと故郷の「蓮華(れんげ)の壁」を思い出す。子供の頃に家族で行った幽玄洞の出口付近にあった鍾乳石だ。今でも皮膚の奥深くに残っているあの感覚。酔いを冷ますために泰平は自分の上腕筋の部分に頬をくっつけた。洞内は寒くて狭くて息苦しさを覚えるほどだった。霊的な存在がわからない子供でも怯えてしまうほどだ。一瞬でも緊張の糸が切れたらパニックに陥るだろうと、子供心に恐怖に慄(おのの)いた。もう切れたよ……。おふくろ……。
    泰平は、筑波山のあたりで起きるだろうと予想して眠りに落ちた。
     午後6時43分。交流2万5千ボルト、架空電車線方式で時速110kmの高速で走行するE6系「こまち」は大宮に到着しようとしていた。
    「キキキキキキキー!!」鼓膜が破れるほどの轟音が乗客たちの足元でけたたましく響いた。
    意識の遠くで聞こえてくる音。泰平は既に無力な酩酊状態だった――。
    2004年の10月23日午後5時56分。新潟県中越地震が発生。この時、「ときわ」325号は地震動により11軸が脱線。幸いなことに先頭車は横転せず姿勢を保ったために、脱線こそしたものの、奇跡的に負傷者は1人もでなかった。
     泰平が乗車していた「こまち」は回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキを使用しての緊急停止を……するはずだった。緊急停止の鳴動が真っ暗な中響いた後、一瞬空白の時間が流れた。その空白はひどく現実離れしていて、極楽が近くまで来ているようなある幻想的な風が車内に吹いたように泰平は感じた。
    その出来事は数秒間に過ぎなかった―。車内は尾を引く静寂が支配し続けている。
     ―カーブでの緊急停止の摩擦に耐えられずに全7両が脱線した。東京―大宮間はそのカーブの多さが故に、上越新幹線のようにはいかず、茜色の車体は先頭車をはじめ全車両が、停電で真っ暗な中を底のない底へと直走る。
    新幹線開業以来―2004年以来2番目の脱線事故。死傷者が出ない、という奇跡が起こるはずもなかった。
    奈落の底へ乗客を落されるときの……絶命するときの悲鳴は車体の上から側面にまっすぐに蠢落(おち)る雨にかき消された。
     
     機内アナウンスは羽田空港へ緊急着陸する旨だ。それまで胸ぐらを掴み合っていた乗客や、泣き叫んでいた乗客、ペンを貸してくれと叫んで遺書を書こうとしていた乗客さえも少しずつ落ち着き払うように座席に座り込み始めた。
     他の乗客たちの言葉を繋いでみると、常識外れの数の雷だったらしいが、機体に落雷したような衝撃はなかったはずだ。機内の故障が一切ないのに、なぜ緊急着陸なのだろうか? いくつもの疑問が沸々と湧き起こった。 
     しかし、次の瞬間―。突として高度が下がった。理由を探そうと、橙夏は窓の外を視た。驚くべき程近くで、斜め上を他の旅客機が飛んできた。間一髪だった。いつか大宮から帰る時に乗った埼京線の隣を通る京浜東北線のような距離だ。
    着陸する衝撃だけを心配していた橙夏の血の気が一気に引いた。恐怖の淵に追い込まれる。ペンや固いものは座席の前ポケットに収納という指示が先ほどでたばかりだから、遺書も書けない。
    「あっ!」あまりに大きな声だったので、近くの乗客たちの注目を不本意にも奪った。
     橙夏は祖父の命日を思い出す。2000年7月25日。離陸直後に墜落したエールフランス4590便。遺書も何も残せず天国へ旅立った。
    首を大きく横にふって、バックパックからポーチごと取り出した。中をあけると、10本以上の小さな瓶が並んでいる。それぞれに橙夏の字でラベルが貼られている。メフィストが最後の日に工房(サロン)で渡してくれたものだ。そこから、フランキンセンスの精油(オイル)瓶を取り出した。慣れた手つきで、数滴手に落としてから擦り合わる。その両手で顔を覆った。ゆっくりと呼吸をする。5往復。じわじわと胃のあたりに巣食っていた失望が散っていく。
    感情に支配されるわけにはいかないと気持ちを奮い立たせる。橙夏は自分の頭の中を片付けた。
    それに、自分が世話をしてあげた方があの猫も喜ぶ。きっと待っていてくれる……。橙夏はこうして死への覚悟を心の中でふっ飛ばした。
     その後、全日航空ボストン行008便は奇蹟的に機体が揺れることもなく、嵐の前の静けさなのか、順調に高度を下げていった。機内の動揺は少し収まりかけていた。
     
     ―それから10分後。機内。
    「頭をさげて! 前にかがんで!」
     衝撃防止姿勢の指示が2本の通路を反り返りながら貫いた。ときおり声が裏返ったり掠れたりしながら指示は何度も繰り返される。
     ドアの隙間からのエアーの漏れ? 火災? 異常は見当たらない。天候による影響も受けているようには感じられず、電気系統も点滅すらせず正常なのだ。
     指示を出している客室乗務員たちは自分たちの指示に疑問を感じながらも業務を遂行していた。
    6000フィートまで降下。地上の夜景がはっきりと見えてくる―。
    そこで客室乗務員たちは息を飲んだ。何度見ても飽きない東京の夜景。それらが目の前に広がっていない……。
    機長からチーフアテンダントに、そして他乗務員たちに「成田も羽田も管制塔(タワー)と交信ができない」という情報は伝わっていたが、それは管制塔(タワー)だけの電気系統の問題だと推測していた。
    それが―都心全体。事態の全容がうまく飲みこめない。脂汗を拭い、全保安員がシートベルトをつけて非常口近くから声を一層振り絞って叫んだ。
    幸い、なるべく早く衝撃防止姿勢の指示を出しているので、皆下を向いているはずだ。乗客の中で外の異常さを目撃している人はごくわずかだろう。しかし、ひとりが叫び声をあげればすぐに浸潤していくのが集団妄想(ハルシネーション)だ。それは保安員であるならば常識だった。
    廃墟のような街が眼下に広がっているだけで、羽田空港傍の東京湾と地上との境目がほぼ見えない。こんな状態では、滑走路手前の東京湾に着陸しないとも限らない。管制塔(タワー)までが真っ暗となると停電は広範囲に及んでいると考えて間違いない。管制官に、航空路のレーダーでこの機をモニターすることも要求できそうもない。
     
    コックピットでは必死にレーダーから位置を頭の中で描き、東京湾と滑走路の境目を暗闇の中に探そうしていた。目視で確認は当然できない。グラスコックピット(6台の大型液晶パネル)で機体の飛行姿勢、機首の包囲、速度と高度の情報と、そして生と死の境界線(インターフェイス)となるのがパイロットたちの風景の追憶だ。
    東京TCからのエンルート上からの降下許可も、羽田空港管制塔(タワー)からの着陸のためのアプローチ許可と着陸許可もなく、地上の灯りもなし。勘と記憶と判断を頼りに高度と速度を下げ、後は運を天に任せるしかなかった。
    両翼の根元部分からフラップを下ろし、エンジン出力をゼロへ。飛行機はグンと一段下がった。機首を上げ、失速させる。。
    後輪が地面へ接地。すさまじい喚き声と、野太い絶叫が響く。着陸の車輪に関しての報告を受けていない保安員たちの緊張はここから異常値(ピーク)まで詰め上がる。地面衝突は避けたようだが、滑走路のセンターラインが暗くて見えないばかりか、滑走路の距離が許す範囲で停止できるかどうか。
    全身を強張らせて、最悪の航空事故(インシデント)に備えた―。前輪が降りる。地面との摩擦音がいつもより客室内の空気を駆けていく。
    無言の緊張が雄弁な喝采に変わったのは機体が完全に停止してから数秒経った後だった。
    緊張から解き放たれたばかりのぎこちない拍手があちらこちらから飛び交う。
     窓の外に、消防車、はしご車、放水車、救急車数十台が右側一体に見えて、事の重大さを橙夏は改めて痛感すると、膝から足の指にかけて震えが止まらなくなった。
    《機長の伊藤です。当機無事に着陸いたしましたが、みなさまを出口までお連れすることが難しいという判断ですので、非常口扉より、脱出用スライド……みなさまをドアから直接地上にスライドしながら降りていく滑り台で地上に降りていただきます――》
     アナウンス終了後、橙夏は急いで通路を歩く乗務員の一人に手を挙げて声を掛けた。
    「あの! 私、英語もできますので、サポートにまわります―」橙夏の声は裏返らなかった。逞しくなった自分を撫でたくなる。
    「ありがとうございます!」橙夏の気迫に一瞬鼻白んだ表情を見せたが、相手の目はきらりと光った。快く承諾してくれた薄いグリーンの瞳が特徴的な乗務員の女性は、真剣な表情で橙夏はまっすぐ目を見て礼をする。くるんとした毛先が可愛らしくて思わずほっとした。橙夏は照れ隠しにはにかんでみせた。
     ふと、見覚えのある顔だと思った。どこかで会ったような気がするが、思い出すことができない。
     それからスライドでの降り方及び衝撃防止姿勢について説明を受ける―。幅跳びのようにして足を前に出し、摩擦で火傷しないように手を前に突き出した状態でこぶしを握る。ハイヒールの様なヒールの高いものは脱ぐ。非常ドアの下部の出っ張りにスライドが格納されている。乗務員の彼女が、ドアの右側にあるセレクターレバーをオートにして、出っ張りを床に固定した。その状態でドアレバーを時計回りに回転させると、ボンと音がしてドアが開いたと同時にスライドが展開する。
    グランドスタッフをはじめ、消防隊員、救急隊員など50名近くが待機していた。
    室乗務員たちはスライドの展開を確認後、反対側のドアを確認する乗務員と確認をしながら、ひとりひとりに指示を与えて脱出を補助する。橙夏も、来る乗客ひとりひとりに「大丈夫」「落ち着いて」と日本語と英語で交互に声をかけ、背中をぽんぽんと叩くと「せーの!」と合図をする。これは、非常口でジャンプするか尻餅をつくようにしないと、手から滑り台についてしまうと摩擦で火傷するので、安心させるために背中を叩くように彼女に指示をされていたからだ。
    次々と乗客が滑り台を降りていく。橙夏は的確に指示を出していく。誰も転ぶこともなく、けが人もいないようだ。残り少なくなってきた時に、橙夏と同じくらいの年齢の男の順番が回ってきた。恰好からするに橙夏と同じような帰国子女の日本人の青年だ。精悍で頼もしそうな目をしており、鼻の周りのそばかすとのミスマッチが妙にしっくりくる。どことなくメフィストに似てなくもないかもしれない。
    その時、彼は橙夏の肩をその小麦色の太い腕でそっと触れ、「ありがとう」としっかりと目を見て言った。近くで見るその青年の目に自分が映っている。2人は息を呑む。一瞬見えた―。
    初めてだった。初めて見えた。勘違いではないのは、彼の目を見ればわかる。2人の視線は―ほんの数秒だが―複雑に絡み合った。17年分の歴史をお互いが交換したのだ。
    橙夏はさきほどの乗務員のように真剣な表情になった。青年の目を見つめ返す。
    「せーの!」
     するするっと無事に彼は地上に到着して、救急隊員に補助されて立ち上がった。
     立ち上がると、橙夏の方を一点に見つめた。
    橙夏は地上からの青年の視線には気づかず、最後の乗客を補助すると、ほっと安堵感に満たされた―。
     客室乗務員たちと橙夏は残された乗客がいないか、各座席を確認してまわった。
     もしかしたら震えて動けなくなってうずくまっている乗客がいるのかもしれないと思い、声の反応は期待せずに動き回って隅々まで確認して最後尾まで進んでいく。橙夏は汗も拭わなかった。「お客様、ありがとうございました! 後はわたし達が確認いたしますので、お客様は早く避難されてください!」という制止も橙夏の耳には入らない。
     
     確信めいたものがあった。最後尾まで誰もいなかった。踵を返して、安心して非常口に戻ろうとした。その時、視界に目を疑う光景が。《OCCUPIED》の文字。
     橙夏は目を剥いた。ノックすると……誰も返事はない。学校の化粧室も同じことがよく起きる。誰もいないのに使用者を表す赤のマークがドアノブの窪みにでていることがあるのを思い出して、立ち去ろうとしたその時。ガチャと乾いた音がした。《VACANCY》ドアは向こうから静かに少しだけ開いた。
     緊張で臓器の重さが身体から消えた。そこには自分と同じ年齢ぐらいの女性がパニックに陥った状態で、下着を足元までおろしたまま座っていた。頭を抱え、髪を掻き毟った後が落ちている大量の抜け毛で容易に想像できる。気分が悪くなって嘔吐したのだろうか、胃酸と強い消毒液が混じったような臭いが橙夏の鼻をついた。身につまされる思いで橙夏はしばらく動けなかった。
     目の前の光景に驚愕の色を隠せなかった。果たしていまこの状況を変える力があるだろうか。橙夏は自問した。答えは思いがけないほど早く戻ってきた。注意深く決断している猶予はないとすると、これしかない。
    「なんだあ、ここにいたんだあ」
     不安に押し潰されないようにすっとんきょうな声をわざと出した。少しでも陽気な奴だと思ってもらえれば本望だった。そして、かつて包帯が巻かれていた手首を手の平が自分の方を向くようにひっくり返して、手首に鼻を擦りつけた。ラベンダーが身体を纏っていると思うと、安心できた。
    それから橙夏は急いで下着を戻して、彼女を抱え込むようにして便座から立ち上がらせた。
    「もうひとりいます!」大声で叫ぶ。
    「大丈夫。安心して。みんな無事だから。さぁ、一緒に帰ろう!」
     女性はぶるぶる震えながら何かつぶやいているようだが、聞きとることができない―。
    日本語なのか英語なのか、それとも他の言語なのかも区別がまるでつけられない。表情も見えず、ただ髪の長さと胸のふくらみから女性と判断できるだけだ。落ち着かせるために、ポケットに入れておいたフランキンセンスの瓶を取り出して、彼女の頭から振りかけた。木のぬくもりと力強さが融合した香りが彼女の心の乱れを治してくれることを願いながら。
     橙夏は、彼女に声をかけ続けた。「大丈夫だから。大丈夫だから。怖かったよね。もう大丈夫だよ」言っているうちに、なぜだか涙がこみ上げてくる――。
    ねちねちと愚痴や泣き言、悪口を言ったり、他人からの憐れみを求めたり、同情を買うことで被害者になりすます。ストレスや劣等感を解消していたかつての自分を見つめているようだった。彼女の滲み出る気持ちが、橙夏の中に染み込んでくるからだ。抱きしめているのは……励ましているのは……他人ではなく過去の自分だった。
    「この子で最後です!」
    「ありがとうございます!」
    「ほら、じゃあ、たぶん教わってないよね? 説明するね―」
     そう言っても、彼女と一切視線が合わすことができない。願いを込めて橙夏は優しい声で衝突防止姿勢を説明した。彼女は終始無言だ。
    「じゃあ、いくよ、せーの!」
     彼女は降りようとしない。橙夏は、諦めずもう一度声をかけた。彼女は固まってしまったように動かない。橙夏は彼女と並んで降りる作戦に変更した。乗務員が代わりに合図をしてくれる。
    「それではいきますよ! せーの」
     橙夏は乗務員の声に合わせて防止姿勢をとる前に、掌を一杯に開き、指からできるだけ力を抜いて、隣で立ち尽くす彼女の背中をそっとぽんぽんと叩いた。そして、自分の背中を乗務員の女性がぽんぽんと同じように触った。ふわりと香るフランキンセンス。あっ! 
     ―きゃっ!
    (えっ)
    ―何するの!
    (えっ)
     ―あぶない!
     橙夏はスライドからバランスを崩した。背中を橙夏にぽんぽんと叩かれた彼女は恐怖が極限に達したように、狂い暴れ始めたのだ。さらに、あろうことか必死で抑えようとする橙夏を横に突き飛ばした。スライドの横の長さを大きく越えていく力で押されて―。
    橙夏は声もでないまま。その体は宙に浮かぶ―。
     薄れ行く目に飛び込んできたのは、白い暗闇の下で重なった2つの影だった――。 
    天空は雲ひとつなく、満天の星空が広がっている。
    17歳……そうではない……村沢橙夏。色彩や陰影のない世界だった。天空の下にぽつんと孤立して存在する2人の身体。ぬくもりに包まれた。もうひとつの魂に溶け込み、そして自分を失った。その自分を失う感覚こそが、自分が自分たる証明だった。
    『ザ・ショー・イズ・オーバー』
     
    3
     
     蝟集(いしゅう)した緊急車両よりももっと遠くから4つの目が巨大な飛行機を見つめていた。
    『クピドー様に言われました―』イカロスは上下する肩を鎮めるために深呼吸し、神妙な顔をした。『小生がこんなことをできるなんて――』声は微かに湿っている。
    『見事だ』
    『夢にも思いませんでした。クピドー様のおかげです。小生が間違っていました』
    『さすがだったよ。イカロス―』
     イカロスの背中をぽんぽんと叩くと、イカロスは、はにかんでみせた。
    『まさか……夢にも思いませんでした』
     メフィストは彼の背中から手を離す。
    『この私が、なぜ気づかなかったのか聞かないのか? 私としたことが――』
    淫魔として卑俗な存在に思われがちだが、メフィストら一家が代々不死の彼を下僕として選んだのは他でもない――影ながらの彼の教養と魔力の高さだった。人智を越えた大擾乱(ハボック)には、切れ味鋭い思想と回転からの助言が不可欠だ。言葉をしっかりと操り、暗躍しメフィストの行いを正しく評価できる。そんな悪魔はどこを探してもいなかった。
    『聞いてもいいのでしょうか』
    『……正直私にも分からない。これだけの霊的な猛威をなぜ私が感じられなかったのか……理由がおもいあたらない……理由が』
     どんなに呆けた悪魔であったとしても、閻浮提(げかい)であれだけの死の禍(わざわい)を起こそうとする同類の存在に気づけないわけがない。メフィストは自分の両掌を見つめながら考えを巡らせた―。「理由」……「理由」……「理由」……。そのときシスター・バートウィッスルの顔が浮かんだ。そうか……そういうことか……。
    『メフィスト様は昔、小生にこう教えてくれました―《自分を欺かず、卑下せず、できるだけいつも誰かを楽しませる、ということが幸せになるコツだ》と。あの言葉、そうなんです、あの言葉を聞いてから、いつでもお道化て生きてみよう。そう決めたんですよ』
    彼は自分の頭と樽みたいなお腹をさすって感慨深げに笑った。『見てください!』メフィストの意識を目の前に向けさせる。
    『ほら、あの2人。きっと、これから幸せになりますね』
    『ああ』
     遠くで橙夏と青年が救急車で運ばれながらお互いの指を握り合っているのが見える。
    『謝らなければいけません……。小生は夢物語だと思っていました。しかし、違ったようです……』予告めいた低い声で苦笑する。
     メフィストの心中を察してか、彼は返事を要求することなく、メフィストの心を代弁するような寄り添う口調で予言した。
    『誠の恋―それは誰にも定義できず、条件で縛り付けるくらいなら定義なんていうのは品と優雅さに欠けた箇所ですが―をするものはみなバカップルなんです』
     メフィストは思いがけない言葉にふっと短く笑った。
     人間の歴史に思いを馳せるようにして彼は天に手の平を向けた。雨が降っているかどうか確認するようなポーズだ。上空の星の瞬きとおなじくらい、彼の横顔は神々しく、そして眸には並々ならぬ強い意志が感じられた。
     失敗でもいい。また次の機会まで待てばいい。しかし、彼女と別れたくない―。
     メフィストは暗闇の中に溶け込むようにその場から消えて行った。メフィストもまた、橙夏のように、この光を失った暗闇に自分の特異性を見つけたもうひとりだったのかもしれない。
     
     脱線事故から8時間後。
    森川泰世はさいたま市北区のおおみや中央病院の喫煙室にひとりでいた。
    玄関と廊下の非常灯のみの院中では、喫煙室の自動販売機の灯さえ消えている。住宅密集地や商業地に電気を供給している配電用変電所のスイッチを優先的に切っていくため、消防署や救急病院などの公共性や人命を預かる施設は、辛うじて明かりがついていた。それでも頼りなく、弱弱しいことには相違ない。自家発電機も利用しているようだが、なるべく電力を温存しようと、廊下の電気は数か所ついているだけで、医師や看護師たちは懐中電灯で足元を照らしながら戦々恐々と病室を移動していた。
    病院の周りではロウソクの火や懐中電灯、ランタンなどの灯がちらちらと見え隠れしている。子供の泣き声や女性の悲鳴、怒号、パーティーかのような嬌声をあげる若者たち―。都市全体だけではなく人間までも麻痺しているかのようだ。
     通常、鉄道や大病院、大規模ビルや超高層マンションなどの大電力を必要する施設は 二次変電所が高圧で電気を直接供給している。電力会社では、よほどのことのないかぎり二次変電所のスイッチをきるようなことはしない。しかし、火力発電所が損壊したことを知っている泰世は数時間後を想像すると寒気がした。夜が明けてからの関東一帯の大混乱が手に取るように分かったのだ。
    携帯電話を強く握りしめて、胸騒ぎを鎮めるため、心ここにあらずで肺と血液にニコチンを送る。
    病院から実家に連絡があったのが8時間前。泰世が花巻の家を不在の中、泰平が運ばれた病院まで足の悪い母を妻の緑が車で連れてきている最中だ。時々、携帯電話で連絡を取り合うなかで、閉鎖中の道路の情報を緑に伝えた。
     通常、新花巻周辺から大宮まで車で6時間ほどかかる。だが、東北自動車道と北関東自動車道が交わる岩舟JCTから奧の東北道は閉鎖中だ。県道と国道を利用しながら病院に向かっているという話だった。おそらく8時間ほどはかかるので、もうそろそろ到着するころだ。
     ピピピピピ! 
    緑の車の到着を知らせる着信音だ。「もしもし」彼女は落ち着かせようと必死な声で到着した旨と泰世の現在位置を聞いてきた。
     
     東京駅18時20分発の秋田新幹線「こまち」31号はさいたま新都心と大宮の間で電力系統の大損害により、数十メートル逸走ののち脱線。そのまま転覆し未曾有の大惨事となった。
     最も近いおおみや中央病院の待合室からは椅子が撤去され、医師や看護師たちは、雪崩込んでくる人波に流されそうになりながらの応急措置に追われていた。
     奇跡的なことは、あれだけの転覆事故に遭いながらもクッション性の高い座席のおかげでほとんどの乗客が切り傷やねんざ、打撲などの軽傷で済んだことだった。
     ところが、妙な現象が起きた。気絶して運ばれてきた人々が口にした言葉だ。
    「翼をもった神……が、見えた」
    空言の意味を図りかねた医師たちの関心は薄かった。なぜなら、負傷者の身体を触診と、希望者には超音波やPET検査を用いて多くの患者を診断することで多忙を極めていたからだった。
    夜中の3時前の緊急病棟は電子音以外物音ひとつ聞こえず静まりかえっていた。さきほどまでの大混乱が嘘のようだ。
     
    泰世がちょうど3階に着いたときには、緊急治療室のランプが消滅していた。執刀医の胸ぐらを掴む勢いで小走りで向かった。すぐに画像を見せながら説明をするらしく、診断室に案内された。
    執刀医の話では、急性肺血栓塞栓症、という下肢の深部静脈で長時間の同じ姿勢により血液が固まり血栓ができた後、急に立ち上がったなど姿勢を変えると、血栓が血液の流れに乗って移動し肺動脈を閉塞するという疾患らしかった。いわゆる「エコノミークラス症候群」のひとつらしい。
    説明を聞きながら、聞き慣れた名前が出てきたこともあり、安堵のため息を泰世はついた。エコノミー症候群で突然死したなどという話を聞いたことがなかったからだ。無理に笑おうとして、頬のあたりが痙攣したぐらいだった。そのひきつった笑顔は長くは続かなかった。
    担当医の説明は続いた。運ばれた時には四肢の組織は既に壊死状態にあった。大量の飲酒により脱水状態となり、しかも酩酊状態のため衝撃の時に受け身をとれなかったせいで、脚がありえない角度で椅子の下に挟まってしまった。
    手術が開始されたとき、泰平は心肺停止状態だった―。よって予定されていた手術よりも蘇生に時間を費やした。一度は心肺が蘇生するも、すぐに停止。蘇生と停止をその後数回繰り返したという。
    「弟様は致死的血管疾患です。普通なら手術で助かることの方が多いのですが―」
     執刀医は奥歯に物が挟まったような言い方で説明しようとした。
    「血液から大量のアルコールと頭痛薬が検出されました」
     泰世の感情の海原に、不吉な波が一気に押し寄せてきた―。
    それから先、泰世の記憶はとぎれとぎれになった。薄暗い廊下をふらふらと徘徊した記憶も、階段を降りてきた記憶も、角をいくつか曲がった記憶も、看護師にぶつかって懐中電灯が転がっていく光景の記憶も、たばこに火をつけた記憶すらない。あるのは、耳に残る愛妻の声だけだった。それだけが現実につなぎとめてくれた。
     そしてもうひとつ。杉並に電話をかける。火力発電所の復旧はどれだけの時間を要するのだろうか、という問いが泰世を現実に引き戻した。夜中だが、ただ事では済まされない事態になっているはずだった。10コールしても出ずに、泰世は仕方なく電話を切った―。
     
    「あなた!」突然呼ばれて、全身の毛が逆立った。振り向くと、母を後ろから支えるようにしてこっちを緑がすがるような目で見つめている。
    「おふくろ……」
     二の句がつげないでいると、母の泰未(たいみ)がぼそりと、しかし確信を持った口調で訊ねた。
    「んで、お医者さんな、なんて語っとる」
     呼吸がうまくできない泰世は胸を押さえながら、言いたくもない、聞かせたくもない言葉を言う準備をした。
    「おふくろ、落ち着いて聞いてくれ……泰平な……もぅ……」
    「もう無理なのはわかっとるよ。さっき車でおまえの嫁っ子の緑さんとここまで来るとき、現れたべ。泰平が。笑っとった……」
    「縁起でもないこと言うなって……」
    「あんな笑顔は子供のとき以来だったから、うれしくてうれしくて」
     腰の折れた老女は長男の肩にそっと手をのせた。
     目から堰を切ったように涙が溢れてきた。考えたことがなかった。覚悟したことがなかった。自分より先に弟が死ぬなんてことを。最後の会話はあれでよかったのだろうか―。
    止まらない涙は少年のように無垢なまま、病院の床に落ちていく―。どれぐらい泣いていただろうか。緑は静かに夫の肩を抱き、自らも夫の肩で泣いた。それから3人で担当医の3階まで階段で上がった。家族が集まったことを知らせると、もう一度泰世に説明したことと同じ事を3人で聞いた。ハンカチで涙を抑える泰世以外の2人は黙って医者の説明を聞いた。
    「もう、ご自分で、呼吸することは、困難な状態となりました……」
     つっかえながら担当医が言う。
    「呼吸器で、無理に、呼吸させている状態です。お別れのご挨拶を……ご案内いたします」
     画面から目を離し、椅子から立ち上がると、3人は黙ってついていく。病室の前で備え付けの消毒スプレーで手を殺菌してから、強い消毒液の匂いがする病室へと入っていった。
     ベッドの脇のモニターのアラームは断続的に鳴り続けていた―。
    無機質なそのモニターでは、血圧の数値は上も下も低いばかりか、呼吸の波はほとんど隆起していない。病室の漂白されたような白い壁を背景に、弟は苦しそうに呼吸を強いられながら横たわっていた。
    ベッドに行こうとした緑を泰世が止める―。
    死に行く人間の匂いとはなぜにここまで独特なのだろうか。無味無臭というわけでもなく、バスタオルの生乾きのような匂いと、身体の口という口から滲み出てくる体液の匂い、そしてリネンの強烈な消毒された匂いが混じって、まだこの後の人生を生きなければならない人間たちを圧倒する。
     泰未はモニターの傍に寄ると、息子の顔ではなく、しばらくモニターを見つめた。息子が生きている最後の証を確認しているかのように、モニターを撫でた。震えている手からは血管が浮き出て、我が子を最初に抱いた時からの年月を語っているかのようだ。
    それから、死に行く息子を静かに見つめた。取り乱すことなくぼそっと言う。
    「わたしは呪われているのね。きっと」
     涙がぽつりと乾いた肌をつたった―。それから、ゆっくりと入口のあたりの廊下でたたずむもうひとりの息子に向かって言った。
    「お兄ちゃん、明日死なせてくれないが? いますぐでなくていいんだよ。 明日でいいんだ。明後日でもいい。死なせておくれ」
     何を口にしたらいいのかわからず、泰世は自分の崩壊間際の心を守るために、冗談だと思うことにして薄く笑った。
     その時、医師と看護師が部屋に入ってきた。
    「この子が助かるんなら、いますぐ死なせてください!」
     泰未は、額からの汗をそのままに涙を流しながら、しかし嗚咽に負けることなくしっかりとした口調で嘆願した。
    「わたしが悪いんです。この子は、この子は何も悪いことはしてない……何も悪くない。誰かがこの子が悪いから命ば奪ったのなら、わたしはそいつの目ん玉をひんむいてやりますよ……いつもわたしの膝の上に座っていたんです―」
    息子の青白い手の甲をさすりながら、腰をかがめた。親子の顔が目と鼻の先の距離になると、呼吸の波が気のせいかもしれないが一段と隆起したように泰世と緑には見えた。
    「よく、がんばったね。えらいよ、泰平。どうしてね? 起きたら朝ごはん一緒に食べようね。泰平の好きな味噌汁作って、裏の畑からとったきゅうりは浅漬けにしてあるから、食べようね」
     そこに居合わせた一同が一斉に咽び泣かずにはいられなかった。
    「無理してきたんですよ、先生。わたしの膝の上を離れてから、この子はずっと所在なさげでした。不安な目をしていつもわたしを覗き込んでいました。今もそんな顔している。子供の時に、ぼそっと言ったんですよ。『大きくなったら僕がお母さんを守るから』わたしは笑いました。すると、この子が怒ったんです。敏感な子なんです……」
     今度は足の方に回って生白い足をさすり、それから丁寧に脚の指を一本一本もみほぐした。
    「泰平……お母さんの時間あげるから、帰っておいで。上京する時にあんた何言ったか覚えてるね? 『オレは、ただ母さんのために生きているだけ。でもそれで十分だって』」
     廊下から足音が聞こえる。
    「あのときみたいに、もう一度神様は奇蹟を起こしてくれたら……もしそうしてくれたら、いますぐお母さんは死んでもいいんよ……」
    ―どれくらいの沈黙は続いただろうか。モニターの動きを静かに見つめて、それから泰未は一言も喋らなかった。
     泰未がカーテンを開けると、窓から差し込む東の空から昇り始めた陽光は青白い顔をあますことなく照らした。
     
    【現在からの使者】がこの世を後にした7時間前―。
    東京23区は転覆していた。救急車両のサイレンが鳴り響く。耳を塞ぎたくなるくらいの鋭くえぐるような音だった。
    そんな騒然たるサイレンの渦中に亜望もいた。
    茅場町の自宅マンションから緊急搬送された東京中央区総合病院は、さいたま新都心―大宮間で起きた新幹線脱線事故、全日航空緊急着陸が原因での負傷者など、多くの既に重軽傷の患者でひしめき合っていた。病院入口のはるか先から行列ができており、入口でメディカアシスタントや看護師、臨床検査技師、放射線技師などで構成される医療スタッフが患者の重症度に分けて手術の優先順位を決める選別(トリアージ)が行われているほどだ。
    医療チームの連携の会話の中で聞こえてくる濁音は、人が水を飲む音だ。大地震とは異なり幸いにも断水は起こっておらず、集まった人達は、しきりに自分たちを落ち着かせようと備え付けのウォーターサーバーや浄水器から水を勢いよく飲み込んだ。息づまる死闘が繰り広げられていた―。
    「こちら、茅場町から緊急搬送! 30代女性。頭を強く打って出血多量で意識不明の重体。階段から転げ落ちた模様」
     スクープストレッチャーから病院のストレッチャーに亜望が移される。
    「こんばんは! こんばんは! 聞こえますか! 病院! 病院着きましたよ!」
     医師が意識の確認のために声をかける、目に光を当ている。片方の瞳孔は開いており、顔の半分が麻痺しているようにひきつっている。呼吸も弱々しい。酸素フェイスマスクの中の鼻と口はわずかに動いているだけだ。
     素早く処置室でレントゲンを撮った後、CT検査室に運ばれる―。
     CTスキャンの図をコンピューターの画面で見ながら医師が宣言する。
    「急性硬膜下血腫。いますぐオペ室運んで!」
    「オペ室に連絡!」
     急性硬膜下血腫とは頭蓋内損傷といって、脳にまで影響が及ぶ外傷を指す。頭蓋骨の下には硬膜と呼ばれる硬く白い膜があり、脳を包み保護する役割を果たしている。その硬膜と脳表との間の急性出血が死への秒読みを無残にも始まっていた。
     寸秒を争う緊急事態の中、ひとりの他病棟からヘルプに来ていた医療スタッフが声を上げた。
    「この方! うちの産婦人科の外来の方です! すぐカルテをもってきます!」
    〈そえだ〉と書かれたバッジをつけたその女性は、急いで階段を駆け上がった。
     このとき偶然にも搬送先は亜望が子宮筋腫の診断のために通う病院でもあり、稽留(けいりゅう)流産の手術を受けた病院でもあった。
    彼女がカルテを持ってくると言った理由は、処方歴を調べるためともうひとつあった――血液型を調べるためだ。大量出血を伴う頭蓋内損傷をしているのだから、当然術には輸血が必要となる。輸血直前の検査をするのだが、この混乱の中おそらく通常の2倍の時間がかかってしまう恐れがある。大量出血による2次的なショックを引き起こしてしまえば、命が助かる見込みはかぎりなく低くなるのだ。
    ―息をきらしながら処置室に戻ってきた彼女が医師にカルテを渡す。
    血液型はO型Rhマイナス。他の3タイプの血液型と違って、血液の互換性をもつ供給者の血液型はO型のみが可となる。
    さらにカルテを見ながら医師が眉根を寄せて重々しく呟いた
    ―血管性紫斑病か……。
    「オペ中に輸血が必要になる可能性あり! 輸血準備!」
     最悪の場合、輸血用の血液が足りなくなり、他からの手配を頼むことになる。一刻も争う状況でのその選択は医師にはなかなか難しい。  
    血管性紫斑病とはいわゆる出血傾向を示している。事実亜望はちいさいときから一度外傷を被ると出血がなかなか止まらない症状と闘っていた。
    急性硬膜下血腫の手術は、全身麻酔下でまず血腫を完全に除去し、次に出血源を確認して止血しなければいけない。しかも……日常生活に戻れる可能性は、後遺症の残る確率と真逆の甚だしい低さだ。
     
     オペ室―。最後の一滴の血液が太いチューブに落ちる。輸血用血液の入ったプラスチックのボトルは空。手術前と手術中亜望の側で声を掛けていた「外回り」看護師のそえだは無力さを覚えた。
    「輸血用血液の配送、お願いしてきます!」
     そう言って、外に大急ぎで出ていって、廊下の角を曲がったその時。バタン!「すみません!」誰かにぶつかったようだ。
    『彼女は』
    「…………えっ」
    『真琴……亜望はどうなりました』
    「ご、ご家族の方ですか」どこかで見たことのある顔だった。『そうです』彼の震える声が、血管が浮き出るくらいに強く握った拳の揺れと共鳴する。
    「すみません、今急いでいますので、後で執刀医が説明いたしますので、待合室でお待ちください」
    『緊急事態だな』
    「……とにかく、とにかく、そちらでお待ちください」
    『何か役に立ている事があるかもしれない―』
     そえだは咄嗟の判断で一か八かで聞いてみることにした。いつしかのある女の子の言葉を思いだした。頬の涙を手で拭った。守秘義務などこの際気にしている場合ではなかったのだ。
    「すみません! 血液型分かりますか? ご自分のです。それと――」
     互換性を判断するための交差適合検査を行ってもらわなければいけない。その検査には数分かかるが、それでも他の病院からこの大混乱の外で緊急車両が迅速に病院に到着できる見込みは限りなく少ない。
    『私の血液型は……』
     そえだが両手を祈るように組み合わせて答えを待つ。
    『―Rh null型』 
     そえだは膝から崩れ落ちた。助かるかもしれない、と安堵の涙が溢れてきた。
     
    亜望は病院のベッドの上で静かに眠っている。
    ―わたし、何が起きたの?
    『もう、何も心配いらない』
     ―死んだの?
    『まださ』
    ―死ねばよかったのに。わたし……。
    亜望は悔しくてたまらなかった。淡々と無難に生きてこれたはずだった。それが、いつしか幸福を真剣に考えるようになってきた。一日の最後のお喋りができる相手が必要だと―。
    『喜びは若いから権威がなく、悲しみは王座にあっていつも尊敬され過ぎている』
    ―え?
    『悲しみには抵抗しなければいけない』
    哀艶な言の葉の海に沈んでいくように亜望には返す言葉が見つからない。
    ―ねぇ、なんか香水つけてる?
    亜望の嗅覚は暗澹たる重みとは遠くにある深切な香りに気をとられていた。
    『何も』
    ―だって、いつもと違う香りがするよ。なんか、花のような、中国茶みたいな……ジャスミン?
    『なるほど。君にもようやく……』
     そう言うと、一度振り向いて廊下の方を向いてから、未だ眠っている亜望に向き直した。
    『君の言うとおりだよ。ジャスミン。さっきまでいたんだよ。ここに』
    ―誰が?
    『言っても信じないと思うけど』
    ―ためしてみて。
    『分かった。彼もわたしの調合したジャスミンのオイルを持ち歩いている。さっきまで、ここに天使がいたんだよ―。正確に言えば神というか』
    他愛もない微笑が亜望の口角にあがった。そして、ゆっくり瞼を閉じてまた開けた。「分かった。信じるよ」という合図のように。
    ―ねぇ、喉かわいた。
    『なんか買ってこようか』
    ―この状況視てわからないの? 飲めるわけでないでしょ。
    『しゃべれない君もとても魅力的だよ』
    ―元気になったら蹴ってやる―。
    『買ってこの冷蔵庫にいれておこう』
    ―分かった、そこの引き出しの中にある財布取って。
    亜望は何重にも折り重ねた紙幣をカードフォルダーのひとつから抜き出すように指示を送った。
    ―これで買ってきて。
    メフィストが亜望の財布に手を差し込んでもぞもぞと探すと、まるで涅(くろつち)でも拾うようにとると、くちゃくちゃになった新渡戸稲造の札を眺めた。
    ―それね、おかあさんのなの。それね、昔、お母さんもこうして病室にいる時に、わたしにこの5千円札渡したの。『おむつ買ってきて』って。でもね、自販機に5千円札入らなくてね。
    ―それがわたしの……罰、なの。そのふくらみは、呪い。幸せにはならない……なれないよ。だって、あの人はわたしに側にいて欲しくなかったから……そんなこと、分かっていて……渡したのよ……
    『聞いているから、ここで―』
    ―お母さんに愛して欲しかった……。
    大粒の涙が後から後から落ちていく。閉鎖していた感情が解放されていくかのように。自己完結してきた感情が誰かに伝わっていくように。眠りながら涙を流すので、みるみるうちに耳のしたのあたりのベッドシートの部分だけ水たまりができた。
    「すみません―。今夜夜勤を担当します、そえだです。奥様目を覚まされましたか」
     メフィストが首を振ると、彼女は肩をおとした。
    「もう面談時間は終了いたしておりますので、そろそろよろしいでしょうか」
     時計をみると、面談終了時間の8時を10分ほど過ぎていた。
    『分かりました。すぐに出ます。後15分ください』
     そえだは快く承諾した。
    『亜望』
     ―なあに?
    『君が統計の中に加わるのはいやだ。君を死なせるわけにはいかない。淋しさは身体によくない』
    ―探しても見つかりっこないと諦めていた。
    ずっと自分が望んでいたのだ、これは自分が全身全霊で望んでいたことなのだと、強く亜望は自分の胸の中で柔らかく力強いものを感じた。それはやがて体中に温かいものを巡らせた。きっとこのまま死んでしまうのだなと分かっていた。
    ―でも……できない、わたしには許せないから。自分が。わたしね、一度子供を殺したの。ありえないでしょ? 命を殺したのよ。犯罪者なのよ。どうせ死ぬなら外国がいいかなと思って、それでパリに行ったのよ、実は―。
    滲んだ涙越しに見える風景は全て壁も電気も自分のように涙を流しているように亜望にはみえた。だから、メフィストが本当に涙を流しているのかどうか分からなかった。が、自身の涙の色と少し違う色のものが頬を伝うのを視たような気がした。
    『どうした』
    ―こんなわたしとでもうまくやってくれる人。今まで、男なんて最低の生き物だった。ただの嘘つきでしょ。偽善でしょ。大嫌いなの、そういうの。できないのなら言わないで欲しいの。できるんだったらずっとできて欲しいの。愛してくれるなら絶対ずっと愛して欲しいの―。
    そっとメフィストは手を彼女の胸に置く。
    『胸のあたりが苦しいってどこかで読んだ気がする』
     メフィストは小さく笑った。
    無艶の泥をかぶせたようにやつやつしかった亜望の顔に血色が戻っていく。
    『かつてエミリー・ディキンソンは〈希望とは羽あるもの 言葉なき節を絶えず歌う〉と詩に込めた。その羽よりもっと巨大な黒々とした羽が生えるのが不幸や絶望だよ。だけど、君の羽を白く染められるのは私だと……思う』
    返事をまたず、持っている力全てでメフィストの人差し指を力一杯つかんだ。
    メフィストは亜望の手をぎゅっと握った。2人は一つの「身体」を「共有」していた。そこには、確かに、他人との物理的な隔たりは存在しなかった。
    ―ねぇ、もうひとつきいてもいい?
    『いいよ』
    ―今日の香水。精油(オイル)かな……すごく好き。消毒液の匂いきつかったから。
    『会ったときからずっと私が身体に塗っている精油(オイル)は変わらない』
     ―そうだったんだ。
     亜望はお喋りを止めて、自分の中に閉じ込めた箱をあけるマスターキーをようやく見つけたように安心して深い眠りに落ちていった。
    「あなたは」
     突然背後から医師が質問した。
    内縁の夫であると告白すると、医者は予後不良で意識の回復の見込みは低いということ。このまま植物人間としていつ目が覚めるか分からないということ。明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれないし、1年先かもしれないこと―。
    『魂の契約を結んでいます。自分の魂をかけてこの女性を救います』
     
    4
     
    亜望は中秋の名月を越えて晩秋の頃、メフィストのもとに戻ってきた。
    インキュバスが都心に混沌をもたらした後も、夏は終わり、秋雨前線と大型台風が襲来し自然の猛威を容赦なくみせたかと思うと、傷ついた体も心も黄金色に輝く稲と同じように、静かにしかし力強く生きることを後押しするかのような秋風。昼に鰯雲が空に鱗を広げ、地上では金木犀が香りを放つ。全国各地で復興と豊作を願う祭りで賑わい、日が沈めば花鳥風月を謳歌する。月を愛で、秋霖(しゅうりん)を経て、雁渡しの季節を迎えた。
    驚きを隠せない医師たちを尻目に、メフィストはそっと精油(オイル)の瓶たちを鞄に片付けた。 
    1週間後―。合併症が起き易い段階も過ぎ、管が全部取れた亜望は十分動けるようになった。感染や発熱の兆候、痛みはほとんど感じず、消化器系統の機能も回復している。
     何よりも記憶に何の影響もないことが奇蹟だった。翌日、メフィストの付き添いで亜望は自宅に帰っていった。
     火力発電所の停止、鉄道事故、大型旅客機の着陸事故、大雨による土砂崩れ、その他さまざまな場所で負傷者を出し、都市機能は完全に崩壊した。専門家、有識者の見解によれば、復旧には数年かかると見込まれた―。未だ電気が通らない箇所もあるが、それでも地球は周り、日々は過ぎていく。そうした時の中で、着実にどこかが修復され、人々は自分を癒し、他人を癒し、希望を取り戻していった。人類の歴史上で悪魔の大悪禍(カオス)から立ち直れなかった歴史は今までもなかったように―。
    《どうぞ、あがって。汚くて狭いところだけど》
     すっかり回復した亜望は退院のその日メフィストを家に招待した。
    そっとスリッパをフローリングに置く。長い間留守にしていたせいか、少しだけ部屋が埃と黴の匂いがしていた。亜望は、まっすぐに外に向かって天鵞絨(ビロード)のカーテンをあけ、窓をあけた。
    《あーー気持ちいい風。ほら、こっちこっち》
     ベランダに出る。穏やかな風と風の間で春疾風(はるはやて)が涼しい風を運んできてくれる。
    ―あれ?
    『どうした』
    《蛙の鳴き声が聞こえたような……》
    『蟇蛙(パドック)だな、おそらく。君の退院祝いかな。それとも――』
    かすかだが遠くの木が茂った地域から蛙の鳴き声がまたきこえてくる。
    調子から推測するに一匹のようだ。緑化運動が進んでる地域なので珍しくないと言えば、珍しくはない。
    『―魔女が誰かに呼ばれたかもしれないな』
     何か愉快な企みを考えている子供のようにメフィストは目配せした。
     言葉に頼らないそのまぶたの合図につられるように、亜望も頬にかかった髪を耳にかきあげながら外を見て小さく笑った。
     その時、思いに耽る散歩道を歩く秋風がふわりと部屋の中に入ってきた。その風は机の上にあの日のまま置いてある原稿用紙をほわっと舞わせた。
     
    第一稿(ゴミ)は捨てないで
    追記(あとがき)はラブストーリー
     
     誰かと出会うと消したくなる。
     誰かと別れると消したくなる。
     誰かの言葉で消したくなる。
     誰かの無言で消したくなる―。
     
     いつだって書いて消して、また書くことができる。
    だから、わたしたちはいつも追記(あとがき)の場所で待ってます。
    追記(あとがき)ができる場所ぐらいあってもいい。
     道西の青(ブルー)はあなたと共に歩みます。
     だから、あなたの第一稿(こころ)は捨てないで―。
     
     目を開けると、亜望はメフィストの視界から消えていた。袖を誰かに引っ張られたような気がして反動的に後ろを振り向くと、亜望が悪だくみをする子供の様に顔を近づけて、メフィストの唇に真紅のもうひとつの唇を重ねた。手加減して欲しくなかった。亜望は力いっぱい抱き締めた。
    2人の間に「理由」は侵入(はい)る隙間はなかった。身体を密着させた2人はお互いの「理由」を相殺した。自然でありのまま。そして、接吻の雨。幸福が心に殺到していくのを捌くののに苦労するほどだった。
    《魔が差しただけよ》
     しとしとと降る秋の雨のような静けさと物悲しさを湛えて亜望は笑った。
    快哉の鐘を意思と裏腹についてしまったかのように声が漏れてしまった。気恥ずかしさに亜望はぽっと顔を赤らめながら、何も言うなといわんばかりにふざけてメフィストを睨んだ。
    明日から、雨が数日続くとテレビから聞こえてきくる。
     突然メメフィストがそれまでの濃い視線を外す。2人の足元には、さっきの風で机の上から落ちた一枚の写真が―。
    《どうしたの》
    『写真が―』
    《お母さん。実家に帰った時にどうしてか気になって……もって帰ってきたの》
    『何か気になった』
    《たいしたことじゃないのよ―》
     亜望はメフィストの胸から両手を離す。あれ以来常にデスクトップの隣の目の届く位置に置いておいた写真。なぜだか思いあたる事こと必死に思い出してみようと何度も試みたが、結局なぜ気になるのかは釈然としないまま放っておいた。
    『ちょっと見せてくれ』メフィストが言うと、亜望はしゃがんで落ちている写真を取り彼に渡した。
     みるみるうちに険しくなっていくメフィストの顔に亜望は後ずさりした。『こ、こ、こんなことが……』初めて見るような狼狽した姿に、所在なさげにおどおどしていると、『そういうことだったのか』と彼が呟いた。
    《どういうこと》
    『亜望、これから全てを説明する。なぜわたし達が出会わされたのか……それでも、忘れないで欲しい……私は、君から離れたくない』
    《わたしも一緒よ……》
     亜望は息ができないくらい心臓がびっくりしてしまって、それでも精一杯伝えなければいけないと思って、手を動かす。躊躇はない。
     
     
     
     ルカ伝10章18節―イエス彼らに言ひ給ふ『われ天より[閃く]電光のごとくサタンの落ちしを見たり。
     
    1972年5月13日は、一言で言えばこの物語の全ての始まりであって、全ての終わりであった。
     名残惜しそうに、松原(まつばら)早紀(さき)は後ろを振り返った。
     お化け屋敷と喫茶店を組み合わせた、松原一家が後にした店の入り口には、スタンド型の看板がいかにも不気味なフォントで―『皮肉』という言葉では収束つかない事件となるが―書かれた〈サタン〉の文字が並んでいた。松原家は地下一階から7階の「プレイタウン」に向かった。
     
    7階の「プレイタウン」では。森川泰未(たいみ)を含むホステスが70人ほど巣の中の働き蜂のように忙しくしていた。客が60人弱。
    泰未は1歳になったばかりの長男を実家の宮城県の実母の家に預け、バンドマンである夫の出稼ぎのために1カ月前からプレイタウンで働いていた。夫である一郎(いちろう)がアルトサックス奏者としてステージでの演奏バンドに参加していた。
     
    「―お父さん、僕はあのあたりで勉強してます」
     喧噪を離れられるカウンターの端っこの暗がりの席を指さしながら、青年が言った。
     カウンターでは妊娠しているのかただ太っているのか分からない女性が、自分より若いホスト風情の男にまとわりつくようにじゃれている。どうみても夫と妻との関係ではなさそうだ。しかし、この際不埒な男女が近くにいても、父親の見たくない姿をみるよりしょうがない、と青年は思った。
    青年は身構えた。一斉に酒が入った大人の注意が集まることは覚悟していた。瞬きの数が多くなる。不安げな表情で、父親の許しを待っている。
    「ばかたれ。おまえを連れてきたのは、何も学校の宿題をおりこうにやらしたくて連れてきたっちゃなかとばい。周りば見渡してみ。何がみえっとや」
     乱暴に聞こえる方言は九州弁だ。父親らしき男は、息子の愚弄きわまる提案を一蹴する前に、わずかにのこった薄いウイスキーを飲み干した。
    「ほら、なんが見えるか言ってみんか、さっさと」
    「まぁまぁ」隣の男がその場をひきとろうと前に出る。
    「いやいや、ここは親子の問題ですけん。ほら、言ってみんか」
    「男と女が酒を飲んでます」青年は平坦な調子で返した。
    「ええ加減にせんか! ばかたれが!」
     言葉とは裏腹に父親は笑いながら、赤い5人掛けのソファに座りなおした。
    「ここに見えるのは光と闇ぞ。仲良くしとるやろが。そういう場所たい。そりゃ明るい顔したやつばかりでもなか。暗か顔したやつばかりでもなか。明るい話、暗い話、何でも飛びかっとっとばい。借金あるもんもおれば、商談成立で大金が今から入るもんもおんだろ。ばってんな、光も闇もあるけん、生きることは奇蹟っていわるっとばい。わしは、おまえのおっかさんがはよーに亡くなってから、闇ば抱えて生きとるばってんが、それでも何も仏さんば恨んだりすることはなか。光と闇、それがなかと、生きとる意味がなかばい」
     青年は父親の言っていることが分かるような分からないような小鹿のような顔をした。「いますぐ死んでも後悔せんように生きろ、分かったら、そこ座っとれ」
     父親は場を変えるつもりで、「かんぱ~い」と陽気な声で周りにいるホステスと乾杯した。
     青年は、胸に染み入る箇所もあったので、しかたなく腰かけ直す。飲みかけのコーラに手を伸ばした。
    「学歴も大事かもしれんばってんが、世の中大事なのは世渡り術ばい、やっぱ」
     この日、高校1年の村沢望は渋々父親の接待に同行していた。熊本から仕事で大阪に出張するという父親に、無理やりついてきたいと言ったのは自分なので仕方がないと思い直した。既に大阪観光は済ませてあるので、ここは大人な振る舞いを見せておこうとした。
    「分かりました」
    「よーし、それでこそおれん子たい。なあ、明美ちゃん」
    「ぼっちゃん、おいくつ」
    「明美(あけみ)」は泰未の源氏名のことだ。胸のあたりまで素肌が見えるキャミソール型のドレスは、青年をまごつかせるのには十分だった。第一子を生んだとはいえ、泰未には女としての魅力がその首筋から肩にかけてやわらかく剥き出しの鎖骨に宿っていた。
    「15歳です」
    「じゃあ、ちょうどお姉さんと10歳違うわね。ぼっちゃんは、きっと大きな男になるわね。きっと大きな会社の経営者……」
     望は背中を撫でられるような優しい物言いにこそばゆくなって、顔を少し赤らめた。
    「見てますからね」
    「えっ」
    「テレビ」
    「…………」
    「きっと大きくなってからテレビで取り上げられるような男になるだろうから」
     さりげない言葉は、生きる指標となり得るときがある。この時の明美の何気ない本心からの言葉は、生涯村沢望という男を折に触れて推し進める言動力となった。
    「望くんだったかしら。証明してね。わたしが嘘つきじゃなかったってこと」
     望は耳まで真っ赤に染めた。その場で溶けていなくなってしまうんじゃないかと心配になるくらいに、こくんと俯くだけしかできなかった。
    「村沢さん、明日の新幹線で熊本に帰るんですってね」明美が訊ねる。
    「そぎゃんたい」名残惜しそうに、貫禄のある太い眉をへの字にしながら嘆いた。
    「ほんなこつ、課長さんありがとうございました。日本一の千日デパートさんの婦人服売り場でうちの和服を扱ってもろたら、こぎゃんうれしかことはありません。色々勉強させてもらいますけん、何でもおっしゃってくださいね」
     明美を促して、社長とよばれる男性の空いたグラスにウイスキーの水割りを作らせて、せて、自分は豪傑に笑った。
     
    「隆太郎に顔向けできんぞ」
     カウンターのホスト風情の男は格好に似あわず、曇った表情でワイングラスを手にとる。
    「何よ、この場におよんで、墓場までもっていくんだから、よかとよ。苦労して岡山からでてきたのよ」
    女は、愛情の中に憎悪がちらりとゆらめく艶やかな眼差しを男に向けながら、不服を表した。
    「すぐ近くじゃないか」男が正論を言うと、自分のお腹に顔を埋めるように俯きながら、言った。
    「何言ってんの。心臓いま2つあるんだから」
    「何カ月だっけ」急に周りをきょろきょろと男は見渡し始めながら訊ねる。
    「6カ月よ」女は平素に返した。
    「明日の新幹線何時」女がたっぷり間をとってから訊ねた。
    女は用心深そうな男の表情とは対極だ。悪戯っぽく笑った後、グラスに入った赤ワインをすすった。舌にのこったサラミの油を拭い去るように目を閉じる。
     梅に鶯とはとても言いがたいその組み合わせを、バーテンダーは勝手知ったる顔で淡々と受け入れ、グラスワインのおかわりを促した。
     女の野性的なその仕草に男は蜜欲をかき立てられずにはいられなかった。この場で抱き寄せてキスをしたいが、世間がこの2人をくるむような悠長さをもちあわせていないことは十分理解できるほど十分には酔っていなかった。夫の目を盗んで、こっそりと人妻を独占する不貞に武者震いした。男の気持ちに呼応するように、するりとグラスの水滴がコースターに落ちていった。
    「大阪駅を18時12分発で、大分に7時10分ごろだよ。それから、別府の温泉まではタクシーで移動しよう」
    「ゆっくりできるわね」
     ステージでは、男女の絡まる指と指を余すところなく語るようなアルトサックススとコントラバスの重く跳ねるような音が重なり、金色の楽器がスポットライトの下で光を反射していた。
    美沙世のこの言葉(カレス)の裏には2つの意味が隠してあった。
     当時の大阪と九州を結ぶ新幹線ではブルートレインと称された20系寝台列車「富士」を利用するのが定石だった。ところが、敢(あ)えて停車駅の多い急行「高千穂」の切符を男に取らせる手筈を踏んでいたのだ。いわゆる日豊本線経由の日本最長距離列車の「高千穂」を利用することで、少しでも元交際相手の男との浅瀬を愉しみたかった。
     もうひとつは別府の老舗温泉旅館で水入らずで1泊することを指している。
     出産日まで半年もない。当時23歳の美沙世のお腹にいた「亜望」と名付けられる女の子は生まれつき耳に若干の障害を持たされてしまうことをこのとき知る由もなかった。
     それぞれが土曜の夜を満喫していた。時間が過ぎるのも忘れ、腕時計に目を遣ることも忘れていた。が、壁の時計は刻々と時間を刻んだ。そうして、巨大デパートが平常通りの閉店時刻9時を廻ったのだった。閉店時刻を過ぎても営業が許されていたのが、雑居ビルの最上階にあるキャバレー「プレイタウン」だった。
     
    午後10時30分。惨禍(カオス)は人々の虚(きょ)を衝(つ)いた。その惨禍(カオス)の着想の主はインキュバスだ。
    相対性理論、方程式、半古典型のシュレディンガー方程式など数々の業績を残した理論物理学者には申し訳ないが、天使や神々はサイコロ遊びをするものと決まっている。それに対して悪魔の中には「はずみ」や「気紛れ」によって天使や神々のように事を起こす者はいない。明確な理由があって、常に演繹と帰納を使って「その地」を選ぶ。
    丸にSのシンボルが掲げられているビルの正面を見ながらメフィストは静かに目を閉じた。まるで時間軸を往復しているような瞑想の時間が冷たい川の下で流れるように。インキュバスは、自分の提案が採用されたことの喜びをかみ殺すようにしてその場に仁王立ちにした。
    千日デパートがなぜインキュバスによって選ばれたのか?それは、彼独自のヘブライ文字による文字認知方式による。
     ヘブライ文字とは、今の算用数字、つまりアラビア数字が伝来する前の時代の、アルファベットそのものを「数」と置き換える文字のことだ。アルファベットをヘブライ文字に置き換えて悪魔同士で暗号を閻浮提(げかい)で分かち合うのは珍しいことではないし、実際メフィストも頭の中で置き換えることができる。
     キャバレーの名前は「プレイタウン」という。これを順に「6」の倍数で当てはめていく。すると―。【Playtown】のWをMとすると、P=96、L=72、A=6、Y=150、T=120、O=90、M=78、N=84―全て足すと696となる。
    インキュバスにはある特定の文字が移る。それは数字をアルファベット順に6の倍数でみる、ということだ。6は代々悪魔の世界で重宝されている並々ならぬ愛着をもつ数字で、インキュバスは自分の興味のあるものとなると並々ならぬ集中力と理解力を示すところがあった。
    インキュバスは「6」と「9」が同じ「6」に見えてしまうのだ。9を180度反転させた数字が「6」なわけだが、これは、鏡文字とも言われる。どうしてこのようなことが起きるのか?
    実は、目で見た文字は目のレンズを通して脳に反転して写る。通常であれば文字を書く時、脳に写った反転字を左脳が無意識のうちに変換する。が、インキュバスの場合、右脳と左脳の機能が非常に不釣り合いで左脳が著しく発達していない。よって、変換することをしないで、脳に写った文字をそのまま理解する。
    よって「696」が「666」に見えていたのだった。
     
    2
     
     明美が頭を押さえながら「ごめん、ちょっと、夜風にあたってきてもいい? 今日は早いわ」と同僚に言った。
     非常階段を下へ降りる。ぬるい風の中に、時折温度が少し低い風が吹いている。全ての音は時間差で遠くから空気が運んでくるだけだ。デパートはひっそりとて、閉店時刻を過ぎると、日本の地図のどこかに浮かぶ孤島に自分がいる気がしてならなかった。ため息をして、明美は泰未に戻った。さきほどの青年のことを考えた。長男にも弟が必要だろうか、そんな思考にいつまにか結びついていた。
    突然異臭がした。煙臭い。咄嗟に一周見回した。泰未の脳裏をある記憶がよぎった――以前地下1階の「サタン」の近くにある喫煙者エリアに設置されている灰皿からたばこの不始末が原因で燃え上がり、対処が遅れて7階のエレベーター付近まで煙がきたことがあったからだ。
     また? と別段気にも留めない様子でつぶやくと、突然、後ろのドアがバンと開いた。
    「明美ちゃん、ごめん、気分よくなった? さっきの少年連れの地方からのお客さん帰る前にあけみちゃんに挨拶しておきたいって」
    「すぐ、行きます」
    「贅沢にお金使ってくれたみたいで、店長大喜びだったわよ。これで、あけみちゃん、また株があがったわね。今度、話術勉強させてね」
    「たまたまよ、たまたま」明美は照れ隠しにはにかんでみせた。
    ぎこーと音をして非常ドアを閉める刹那に白い煙が遠くに見えた。
     
    「おおー明美ちゃん、いたいた!」
     大柄な男が屈託のない笑顔で迎える。明美はうれしさを隠そうとしても笑顔にこぼれてしまう。どんな形にせよ、誰かに待たれている、というのは悪い気持ちはしない。そんな母親に、子供のためにわたしもならなければ、と感じた。
    「長い旅路になりますが、無事に望くんと帰れるようにお祈りしております。また元気なお顔を見せにいらっしゃってくださいね」
    「あたり前田のクラッカーたい!」
    「今の時間帯はこのフロアと地下1階しか空いていないので、そこまでエレベーターご一緒させてください」
     ボーイが呼んだエレベーターに3人で乗り込んだ。
     明美と村沢親子の3人は、地下1階へと向かうエレベーターの扉が閉じられる間際、女と男が腕を絡ませて歩いてきた。
    「しばらくおまちくださいませ」
     ボーイが2人に言うと、男がさっと女の腰を抱いた。今にも社会が簡単にはその胸に受容しないであろう2人の隠微な口づけが始まりそうな予感だった。ボーイ2人はなるべく自然とエレベーターの方向に向きなおす。
    エレベーターで地下1階に下りた村沢親子と明美だが、明美は「ちょっと」と言って喫煙エリアまで小走りした。
    「どぎゃんしたとねー」
    明美の予期しない行動にたまりかねて、男が声をかけた。望は黙って返答を待っている。
    「何でもないんです、すみません、あの、お見送りします。何でもないんです」
    「なんか、妙やないと、なんか隠しとるんじゃなかとね」
    「いえ? 何でもありませんよ。ほんと、何でもないんです」
    「あけみちゃん、わしは商人ばい。嘘をつくのも得意やし、嘘を見破るのも得意たい」
     男はじっと明美の目を近づいて見つめた。
    「まばたきの数が多くなって、あんなに目をちゃんと見て話しとったあけみちゃんが、いま目は合わせんもんね。それに、同じフレーズ場何度も繰り返すのも、証拠たい。どぎゃんね」
     明美は小さな隠し事のつもりだったが、楔形の分析眼にどこかたじろいでしまった。
    「わけは後で話せばいいけん、とりあえず、わしらあけみちゃんについていくけん、これからどぎゃんすんね」
    「じゃあ、保安員がいるはずなんです。探します」
    「分かった。望、保安員ば、さがぜ。あっちば、探せ」望は父親の主導で何の疑問も持たず、とにかく走り回った。
     ――プレイタウンの壁時計の長針は30度進んだ。
    「おーい、1階、1階にいるよ!」望が強風の中でも聞こえるくらい大きな声で叫んだ。
    「よーし、今から階段であがるけん、そこおれ!」
     明美たちは1階に上がり、眠そうにしている保安員を捕まえた。非常階段での異臭、白い煙と何の以上もない灰皿……の話を話し終わるまでに休憩室で監視カメラを確認していた別の保安員が口を挟んだ。
    「火事です! 3階で!」
     
    7階のエレベーターホール前では、人だかりができていた。地下から昇ってくるはずの途中で、2台あるプレイタウン専用の直通エレベーターが両方停止していた。「点検作業にとりかかるので、もう少々おまちください」と自信なさげにボーイが言うと、露骨に美沙世たち2人は我慢ならないという顔をした。
    数分後、殺気を後頭部に受けながらエレベータの下を覗いていたボーイが異常を察した。尋常ではない煙の量。その時! 白かった煙が黒い煙に変わった。そこで初めて、エレベータの故障ではなく火事だと気がついた……。
    「火事だ! みんな早く逃げろ!」
     店内は一瞬水を打ったように静まり返った。
     早紀はこの時、ステージで演奏されるアルト・サックスとピアノの音色に夢中になっていた。叫び声が聞こえて、バンドマンたちは演奏を止めて控室へと戻って行くのをおもちゃを取り上げられた子供のような目で眺めていた。
    「早紀!!」
     けたたましく自分の名前が呼ばれるのに振り向いた瞬間、父親に痛いくらい力で掴まれていた。それから数十分の間の記憶が、早紀の頭には残っていない。
     
    3
     
     人間の集塊(かたまり)がエレベーターホールに増殖していた。松原家3人を含む多くの客とホステスたちはボーイの声を耳にして急いでホールまでやってきた。
    同じように殺到してきた客とホステスの中には、既に何らかの理由で惨たらしいほどの血を上半身から流している者や、涙で化粧が崩れ、黒い涙を頬につたらせるに任せている者、そして暴発した不安を制御できずに奇声をあげる者もいた。
     息が詰まる。内臓が圧迫される。
     他人にかまっている余裕はなく、早紀は大人にもみくちゃにされながらも父親にしがみながらエレベーターに進んで行った。母親の姿は見つけられないことが一層不安にさせたが、それ以上何かを思考していることは9歳の女の子にできるはずもなかった。
    その頃、プレイタウンには階下の保安員からの電話を受け取るものは誰もいなかった。我先にと押し寄せる人数はおよそ100名……大混乱は容易に想像できるだろう。しかも、エレベーターの扉の隙間からは勢いよく煙が噴き出し、その勢いはそこに居合わせた全ての人間の理性を完全に奪った。息もできないほどの一酸化炭素がたちこめて、もはやエレベーターでの脱出は不可能だった。
    ボーイの1人が血相を変えて支配人のもとへと駆け寄って事態を報告する。
    「非常口だ! 階段を使わせろ!!」
     支配人は非常口を開け、そこから逃げるように指示を出した。野次が飛び交う中を縫うようにして、支配人がエレベーターホール脇の非常口の扉の奥の階段から非難させようと扉に近づいた。ところが、非常口には普段、客の無銭飲食を防ぐために鍵がかけられていた。
    「鍵だ! 鍵をとってこい! クロークの中だ!」
     支配人の声を聞き取ったボーイが一目散にクロークを目指した。が、既に暴力性を増した熱と煙がたちはだかった。他の脱出ルート……非常階段等でさえも、容赦なく昇る下からの煙で、閉ざされた。停電……。酒や女性のスカーフや化粧ポーチなどが散乱した赤いカーペットを次に埋め尽くしたのは、次から次へと倒れる人間だった。
     こうして、数十分でプレイタウンは、一酸化炭素を吸い込んだ人間たちの断末魔の叫びが聞こえるほどの、まさに孤島の地獄と化した。
    歩ける人たちは、停電になった真っ暗な店内から非常灯と外から漏れる薄明かりを頼りにステージ脇の壁に向かって千鳥足で歩いた。
    「美沙世!! 美沙世!!」
    「ごほっ、ごほっ、く、く、苦しい…ん…ん」
     心臓が2つある美沙世は意識が薄れかけていた。一酸化炭素に呑み込まれるまで時間がない―。
     生きながらえたとしても不倫が暴かれて近所からも親戚一同から愚弄される恥辱(ちじょく)!
     このまま死んでしまえば、身勝手な愛欲から殺人者に成り下がることへの慚愧(ざんき)!
     自ら迫りくる火の中に飛び込んで、身元不明者になり果てられるまで焼き焦がれてしまおうかという諦観(ていかん)!
     何よりも、お腹の中の子が普通に生まれてくるわけがない……。普通に生まれてきても、母親としては会えないかもしれない、それに、認めたくはないが罰が当たってしまったのだろう。自分は地獄に行くしかない、助かったとしても幸せなど訪れるはずがない。この時美沙世はその後の人生の大部分を諦めた。
    「がんばれ、非常灯が見える、あそこまで行けば、なんとかなる!」
     男が苦しそうに必死に声を掛ける。
    「もう、いい……一緒に、死のう」
    「ばか言うな!! 生きるぞ!!」
     
    早紀が父親に抱かれて地獄の窓から顔を出すと、既に消防車や救急車が蟻聚(ぎしゅう)していた。
    周囲を見渡しながら、7階にあるいくつかの窓から助けを求め、手を振る人がいた。中には、停電になったフロアから辛うじて逃げ出した支配人や、必死に自分の子供の名前を叫ぶホステスの姿もあった。何とか生き残り、窓際まで避難してきた人達全員が我先にと助けを求めていた。
    「みんな、こっちだ!! こっちから外に出れるから!!」
    「ほら、これ救助袋、これを窓から投げるぞ!!」
    「おい、ほら、子供だ、この子を先にいかせてくれ!!」
     早紀は他人をなぎ倒してでも前に進む父親に必死にしがみついていた。父のこめかみに仄暗く赤い血管が浮き出るのを見つけて、息が一瞬止まった。この時、親と子の「事情」を汲みとる人間は誰もいなかった。早紀の目に飛び込んできたのは、口から血を流す男性や、顔中血だらけで血のりのように額にこびりついている女性からの突き刺す殺気だった。
    さらに、彼らの瞳は煙と炎に嗾(けしか)けられているように生生しくしかも気魄漲(みなぎ)っていた。口元には軽蔑的な笑いがそして炯々たる闇が燿(おど)っていた。そのように窓に集まった人間たちは皆一様に「故障」していた。
    早紀は血の匂いに耐え切れずに口元と鼻を手で手の甲でふさいだ。烈火による死より先にこの人達に殺されてしまうのではないかと感じた。悪魔の見えざる手は人間たらしめる「理由」をじわじわと焼き尽くそうとしていた……。
    悪魔に乗り移られたような目の色は早紀の人間たらしめるものさえも凍らせた。
    「おまえら、それでも人間か!!」早紀の父親が血管がひきちぎれんばかりに鬼の形相で叫んだ。
     生のような死の舞踏会を繰り広げる彼らの背後には、灼熱地獄(コンフラグレーション)が容赦なく勢いを増すばかりだった。
     救助袋は当時防火対策として装備が義務づけられていた長い袋状になった非難器具だ。4人がかりで「せーの!」で号令をかけて持ち上げて窓の外に放り投げる。救助袋は一直線に地上まで届く……はずだった。最後に残された脱出の術だった。2階のネオンサインにひっかかってしまったのだ。それでもまだ希望はあった。
    「おーい、下からひもを引っ張ってくれ!!」望はいち早くその声に反応した。
    救助袋の先端部分には砂袋が括り付けられており、下にいる人に引っ張ってもらい設置してもらわなければいけない。そうでなければ、滑り台の様に中にもぐりこんで滑ることができないからだ。
    救助袋がぶらぶらと覚束なく揺れる真下に、望は手を振り回して突進していった。
    ひもを探す。上からはガラスの欠片や漆喰(しっくい)などが落下し、とても見上げていられる状態ではなかった。望はどこかに必ずあるはずだと思い、諦めずに探し続けた。闇の空に手をかざして、掌を広げたり閉じたりして、夜を噛(つば)むように続けた。
    頼りになる灯は街灯だけではなかった。およそ80台以上の駆けつけたポンプ車、はしご車、放水車、そして救急車のライトだった。人的災害を最小限に食い止めようと、野次馬の避難指示そして消化体制は万全に敷かれていた。
     そして、もうひとり望の背中をそっと支える存在いた――幼い時に家の畳の上で亡くなった母の言葉だった。
    『あなたの名前ね、希望の下の字からとったのよ。自分の望む通りに生きて欲しいって、お父さんと話をして決めたのよ。でも、もっと大事な意味がその名前にはあるの。誰かの希望になりなさい。誰かが助けを求めたら必ず助けなさい。あなたは誰かのために生きることで初めてあなたらしく生きれるんだから……』
     強く強く耳朶(じだ)によみがえってくるその言葉ながければ、頭上で蠢昇(うごめ)く噴烟(ふんえん)の中心に吸い込まれて、遠巻きに様子を眺めることしかできていなかった。
     泰未の夫はまだ中にいた。お願いだから、救助袋で避難して欲しいと、血眼になって探す望の背中に祈り続けた。
    事態はまさかの状況に陥った―。確認の不手際で、砂袋が取り付けられていなかったのだ。当時は防災への意識は低かった。管理する人間も天災は二の次で、とにかく自身の「バベル」の高さを競い合って高度経済成長の波にのってデパートビルを建設会社に発注し続けていたのだ。
     一刻も煙と熱から逃れたいという塊の体の反応は、人間の理性を完全に狂わせた。
    「あっ!」誰かが叫ぶ1人だけでなく、窓から身を乗り出している大人全員が声にならない声をあげた。早紀が父親の手から零れ落ちた。
    ……ブサッ! ガラガラガラ……ボトン。
    早紀の父親は驚きで目を瞠った。偶然電線にひっかかったのだ。体重が軽いおかげでその電線は早紀の身体を受け止めるクッションの役目を線をしならせることで担った。が、落ちるのは時間の問題であることは変わりない。
    きゃーー!! 
    ボトン……ばたっ。
     
    ―誰かのために生きることで初めてあなたらしく生きれる。
     
    地面に溶けていくように意識が陰りそうになっている中で聞こえた声。
    「望!!」
    「望くん!!」
    早紀の下になったのは望だった。
     遠くから聞こえてきた声がもうひとつある。『この人が君の将来のパートナーだ。大丈夫、いま別れてもいずれ必ず会うことになっているから。ゴッドブレスユー』
     
    4
     
    二人は同時に同じ市内の病室で目を覚ました。
    望は目を覚ますと、父親がベッド脇の椅子に座っていた。意識がなくなってから今までの間父親がどんな気持ちでいたのか、顔を見れば十分だった。望は父親の顔を少しの間ぼーっと視た後、目をきょろきょろとさせた。
    「望、大丈夫か!」
     こくんと頷く。
    「あああああ、よかったばい。ほんなこつ。ばかたれが!! ……親より先に死ぬかもしれん行為ばするとは何ごとや! 勉強しとるくせに、そぎゃんこともわからんのか!」
     怒りは、咽び泣く声の中に包まれて、ただただ籠った。
    「父さん……」
    「なんね。医者はさっき呼んだけん、すぐ来るけんな」
    「父さん……じゃないよね」
     望は分かりきった質問をした。毎日般若心経を唱えるような無類の仏教徒が「ゴッドブレスユー」なんて言うわけがない。
     隣からも父親の咽(むせ)び泣く声が聞こえてきたが、首が動かせないので、できるだけ目を端っこに寄せた。同じような父親らしき人が、隣のベッドで眠る人に優しく声をかけていた。  
     おそらく助けた女の子だろうか……。いや……まてよ……助けたのは……僕じゃない……。望は思い出そうとこころみると、頭に痛みが走った
    ―落下しても受け身さえとれればなんとなかなる。正気の沙汰とは程遠い思考回路を経て、男性客のほとんどが救助袋にしがみつき25メートル下の地上を目指した。
    その〈蜘蛛の糸〉は人間をあざ笑うようにふるまった。試みた人のほとんどが途中で力づき、落下していった。人間の全身の骨が砕かれるこもった重い音が続いた。現場はまたもや静まり返った。規則正しく落ちる人間。
    不自然な方向に足が曲がったまま即死した人間もいれば、頭部強打による即死または、病院に搬送されて死亡が確認されたものも数多くいた。
     奇しくも火災があったのは、母の日の前日だった。掛かったままの大きな垂れ幕は、隅と部分部分が虫食いのように焦がされ、愍然(びんぜん)な姿に変わっていた。
    泰未の夫を含むバンドマンたち、そして美沙世とその不倫相手を含む50名の人達が何とか飛び降りたいという衝動に打ち勝ったのだった。
     美佐代の右太股の内側は熱傷による皮膚と粘膜の損傷がひどく、大阪市内の病院で2週間の入院の後、もう2週間は地元岡山の病院に通院を余儀なくされた。瘢痕はかぎりなく薄くはなったものの、不倫の証明を一生残す体で生きなければいけなくなった。一方夫の隆太郎は、とうとう一度もなぜ大阪の千日デパートにいたのか問いただしもしなかった。
     事故からおよそ4カ月後、真琴亜望は産声を上げた。
     
     
    最終章 解脱:Emancipation
     
    1
     
     収まりきらなかった。
     不都合な真実が波となり粒となり霰(あられ)となった。部屋に響いているのは壁の時計の音だけだというのに、その真実の音は亜望の心底の薄く張った膜を突き破った。亜望の震えに合わせるように、時計の針の音の音律も狂っているように聴こえてくる。
     やがて身体から力が抜けた。全身全霊で泣き叫んだ。咽(むせ)び泣く姿をメフィストは無表情に見つめた。その目にいつもの力は感じられない。
     亜望の切願は残酷なまでに砕け散った。その後のことは亜望は覚えていない――。
    壁に頭を打ち続けたせいで記憶が飛んでいるのだ。狂乱状態になり、《死ね!》とぎこち
    ない音を連呼しながら、部屋のものというものをメフィストに向かって投げ続けた。瀬戸物から、ガラスから、本から、電化製品まで全部……。
    メフィストは亜望が凶暴に振り回した平手打ちを避けもせず静かにマンションを後にした―。
     雨が窓を叩いたのは夜が明けた頃。亜望には朝まで眠りはとうとう訪れなかった。体中の水分がからっぽになるまで涙を流したせいで、頬は涙の塩分で赤くなっている。
    とにかく忘れるまで吐き出さなければいけないと思った。涙の河に棄(す)てた自画像(かこ)が蠕(うご)めくのを怖れていた。
    結局昼過ぎまでぐっしょりと亜望は雨に濡れた。
    必死に自分の不幸を決して言い訳にせずに生きてきた。はじめから敗残者として生きてきた。
    人間は言語のなかにうまれおちるはずだ。そして、生涯のほとんどをその言語のなかで過ごす。言語は交わり繋がり、共同体ができあがっていく。しかし、はじめからその共同体から切り離された。
    夢をみた―。分厚い本を脇に抱えて風に曝(さら)されている。傘もささずに。誰も傘を持ってきてくれない。夢の中の像は必ず音声が伴っていて、現実よりも現実味を帯びて記憶に残ってしまう。まるで数時間前に実体験したような感覚が足の痺れのように身体に残るのだ。
    物心ついてからというもの、亜望にとって、夢は消えかかる過去のような幻影的なものとは正反対のよみがえる過去を記憶に焼き映す静謐な鏡だ。「あるがまま」に生きてきたというよりはむしろ「ないがまま」に生きてこらされた。
    人の心にもあるかもしれない温かさというものを信じてみたかった。《きっとうまくいく》そう思ったのも束の間、どん底に落とされた。
    翌日会社にメールすると、藤島が返信をくれた。会社の無事を確認したら、体から放出してしまった水分を取り戻すために水をがぶ飲みしてから原稿用紙をファックスした。
    《もう遅いかもしれませんが、村沢社長にお渡しいただくようお願い申し上げます》
    もうひとりで生きていかなければいけなくなった以上、仕事を続けなければいけない。
    幸福ごっこは終わったのだ。亜望は自分に何度も言い聞かせた。
     数日間は自宅で安静にしておかなければいけなかった。通院もしなければいけない。やらなければいけないことは、この後もたくさんあるのだ。そう。いつだって、《この後やることはたくさんある》のだから。
    亜望は幼い頃からとにかく周りから自分を見つめていた。よって、自分とは何者か、自分の長所は何か、短所は何か、なりたい職業は何か、結婚願望は、家庭観などを、全て諦観の缶かんの中にいれて固く蓋をしてきた。だからこそ、「自分を見つめなおす」や「自分の心に正直にいきる」、「思い描いた事は実現する」などという言葉に全く共感しない。「やるべき事」を「処理」する人生の方が楽だと考えている。霤(あまだれ)が石を穿(うが)つように、おもむろに亜望は自分の文才を磨き、砥ぎ、削り、そうして物の見方というものを確立してきたのだった。
     外の雨は秋の長雨らしく本降りにならないままアイドリングしているかのように降り続いている。雨が降った隅田川は、亜望の思いをのせて滔々と流れていた。
     それから4日間は必要最低限の外出にとどめ、家の片付けを主に行った。調子が戻ってくると、料理も作り始めた。ちょっぴり「料理酒」をキッチンで飲んだ。久しぶりに胃の中に届いたアルコールは全てを拭い去ってくれるほど強烈で、メフィストのことを思い出さずに済んだのは、そういうふうに亜望が自分のライフスタイルを既に構築していたからだった。
     5日目の金曜日、冬の寒さが厳しくなってきた頃の春のような穏やかな小春日和の朝、亜望は辞表を持って家を出た。
    「髪だいぶ伸びたわね……そのワンピかわいいわね……ちょっと、社長があなたに話があるらしいわよ」
    出社するやいなや、色々な近況の交換もせずに藤島が声をかけてきた。都心の大混乱でさすがに語り口調は優しいものになっていた。張り合う社会というものが壊れたのだ。それに伴って自分を見失うのは当然のことのように思えた。
    「真琴くん!」
    亜望はドキドキドキッと3連の心臓音を聞いた―。ファックスしたコピーが結局没で、お役御免となったのだろう。
    「生きていてくれて本当に良かった! 何度かお見舞いに行ったんだけど、もう君の顔を見ていると胸が苦しくてね。それに、いつも……あれは君の親戚かなんかかな? 男の人がいて……あっそうだ。あの彼ね、あそこの病院の看護師の旦那さんがわたしと同郷で、同郷の飲み会の時に懇意にさせてもらっていたんだが―。その看護師の奥さんが言うには、彼のおかげだそうじゃないか! 彼が輸血に名乗りをあげなければ君の手術は失敗していたかもしれない、と言ってたぞ」
     いつもの村沢の喋り方ではなかった。しかし、もっと驚いたことは彼の輸血の件だ……。亜望は思わず自分の掌を凝視した。
     あの人の血が流れている……やっぱり……。亜望の涙の河は2人の思い出を流しはしなかった。
    いつも無意識に思い出すのは、彼と工房(サロン)のエレベーターで屋上に上がる間の、あのなんとも言えない香りだ。病室で初めてフランキンセンスと気がついたのだが、記憶を追想していくとはっきりとその香りがよみがえってくる。そうしてメフィストのことを思い出す度に鼻腔がひくつき、その香りが鼻の中で再現された。どこかが痛いような、どこかが気持ちいいような、どこかが燃えるような、どこかが冷やされるような―。
    そんな鎮静と興奮の交配が導いてくれる絶佳(ぜっか)。自分が立っている地面が溶けてどこかにおぼれるような瑞々しい錯覚。
    所詮、女子のフィニッシュラインが潔く引けないんだろうなと自虐的に考えてみた。されど、女としの自分は色づいては褪せていくが、ある意味本能的かつ強制的で義務的なもの―幸福への準備はできていた。
    彼の正体を知った今、彼との未来はありえない―。が、彼の過去を知ってしまった今でも、彼への気持ちが変わることもありえなかった。
    そしてその思いは香りとなって胸に染みついた。
    「それで、例の件だが……」 村沢は小さく咳払いをして喋り始めた。亜望の意識が目の前の村沢に戻った。「大手町の例のコーポレートコピーの件だが」誰か代役を立てて既に別の案で進行しているだろうと覚悟はしていた。
    「真琴くんのを採用する」
     亜望は寝ていたところをたたき起こされた直後のような放心状態の表情で、一点を見つめた。
    「先方が、どうしてもと譲らなくてね。真琴くんの状態を話をしたら、あそこの広報部部長の浅倉さんが真剣な声で電話口でこう言ったんだよ―」
    ―真琴さんならおそらく目を覚まします。驚くかも分かりませんが、昨日死んだ母が夢に現れまして……それで、真琴さんは必ず目を覚ます、と告げました。どうか、真琴さんの一刻も早い目覚めを心からお祈りさせてください。
    「最初は、失礼な話だが、頭がおかしいのか、極度の妄想家か、どれかと思っていたが、案外本当だったのかもしれないな……それはさておき、そういうことだから」
     まだ亜望は目をひよこのように丸くしている。
    《じゃあ、これからどうするんですか》
    「もう先方には君ので承諾はもらってるんだ」
    《本当ですか!?》
    「高橋副社長も大いに満足したそうだよ。あんなのは一生かけても俺には考えつかない」
    《ありがとうございます!》亜望は深々と礼をした。
    「それで、今後のことなんだが……」
     その時、亜望の右手がするりと、裾にスリットの入ったワイン色のチェック柄のワンピースのポケットにと伸びた。
     取り出されたものを彼が見た。驚きを隠せない色が浮かぶ。その白い封筒には達筆な字で《退職届》とい字が。
    《わたし、専業主婦になるので!》気風のいいパン屋の女主人のような顔を作る。
    「…………」
    亜望との会話を堂々と後ろで手を止めて聞いていた一同の口があんぐりとしていた。
     しばし時が止まった。遠くからさざ波が近づいてくるように彼は顔全部で笑った。あまりに大きい声で笑ったのでデスクのマグカップのコーヒーに小さく波紋ができる。亜望もその顔を見ていると力が抜けたように笑った。本当に力がすっぽり抜けた。
    「それも悪くないな」
    それ以上は何も言わずに立ち上がった。容易に丸め込める相手ではないことぐらい分かっていたのだろう。ベージュのキルティングコートを手に取って会社を出ていこうとしながら、誰に話すでもなく「映画でも観てくるか」と言った。
    《社長!》亜望にはどうしても訊かなければいけないことがあった。
    《どうしてあの時『メールをCcしてください』と先方に言わなかったんですか》
    「あの時……」彼は自身の記憶を軽くたたくように親指と中指の腹をこすりあわせて、それから中指でこつんこつんと頭を叩いた。
    「あーあの時か。いつもならそう言ってきたが――」
     2人が話をしている「あの時」というのは、道西エステートコーポレーションでの会議の帰り道「最後によろしいでしょうか」と村沢が浅倉が立ち上がる隣の2人を制した後の言葉だった。
    去り行く姿を驚きながらも冷静に見送って、亜望はまた深々と礼をした。
    ―人の心を想像することができる、君は自分の心は分からなくてもだ。
    退職届を出すのは2度目だった。流産したあの時期。あの時言ってもらえた言葉を今でも覚えている。あの言葉でコピーライターの仕事をしてみようと決意したのだった。
    ―開高健が昔こういうことを言っていた。《コピーライターに書くべからざる資質は、人の心を想像する力》だってね。付け加えれば、その力は才能じゃなく感性でもない、勉強して養えるものでもない。
    彼が鉛筆を回しながら話すと《勉強して養えなかったら才能じゃないんですか》と亜望は訊ねた。すると村沢の答えはこうだった。
    「いや、力とは、傷跡だ。それが残っているから力を発揮できる」
     
    《この後、道西エステートコーポレーションに一緒に行っていただけませんでしょうか》
     亜望は藤島にお願いした。
    《ご挨拶をしたいもので》
    すると、藤島は「わたしも映画でも観てくる」と言った。《自分の好きにしたらいい》という彼と同じ藤島の隠語だった。
     幸運を祈ります……胸の中で強く願ってからデスクで私物の整理にとりかかった。
     
    2
     
    道西エステートコーポレーションの建物の入り口から亜望が出てくる。快活に歩く姿は穏やかでしかも頼もしい。暖かな日が並木道の木々との連携によって織りなす木漏れ日が顔を照らしている。
    いわゆるノープランだ。何より、相手がどこにいるか分からない。そうすると、さっきの発言は相当恥ずかしいことになる。さらに見つかったところで相手は人間ではないのだから致命的なほどどうしようもない……。「専業主婦」とは我ながら飛ばし過ぎたと、亜望は少し後悔した。だけども、笑い飛ばしたくなるほど難題ばかりで、亜望の中には嬉しさも湧いた。「やること」が「この後」たくさんあるのだから。
    背筋もまつげもピンと上に伸びている。シルエットもボディラインもほんのりと幸福感が漂い始めていた。思いのほか短時間で答えがでた。
     猫だ。亜望は工房(サロン)にかけ足で向かった―。
     
    《ご搭乗の皆さま、本日も全日航空081便、成田国際空港発パリ=シャルル・ド・ゴール空港行きをご利用いただきまして、誠にありがとうございます……到着時刻のパリの天候は、降誕祭(ノエル)にはふさわしい雪。摂氏6度でございます―》
     メフィストは胸の奥に閉じ込めた思いの扉に杭を打ち込むようにぽんと胸を叩いた。窓から見える最後の日本の景色だ。
     日本人の復興への速さには舌を巻く。どこの世界をさがしてもあれだけのインキュバスの大悪禍(カオス)からこんな短時間で復興できるという精神性の高さには正直感服さえ覚えた。
     今回も解脱は失敗に終わった。
     さらに掟を破って人間に自分の正体を暴露してしまった。よって、もう二度と閻浮提(げかい)に降りることは許されない。死ぬまで地獄の焔(ほのお)の傍で生きて行く覚悟がしたかった。
     最後に行きたい場所がパリにはあった―。
    ライディングコートの生地のドレープ感がいつか亜望の病院に毎日のように通っている日々で見上げた時に目に入った鱗雲を思わせる。
    「パリは初めてですか」
     隣のカーディンガンのようにラフにスーツジャケットを着こなす端正な佇まいのロマンスグレーの髪色をした紳士がメフィストに声をかけた。黒縁の眼鏡がかくしゃくたる姿勢で座席に座る彼の威厳を増しているようだ。
     メフィストは返答しようと紳士に顔を向けた。その紳士の隣の窓側には孫ぐらいの年齢の離れた少女が落ち着きなく座っている。
    『初めてでは……』メフィストが途中で話すのを止めた……。黒縁の眼鏡の奥の目が合うとその上品な視線にに圧倒されてしまった。
    《この世にはあらゆる種の目がある。スフィンクスでさえ、驚くなかれ、目を持っているのだ。つまりは、さまざまな真実があり―その結果として、つまり真実はない》ニーチェの言葉通り、メフィストは白髪の紳士の目に真実を見た。あらゆる真実を超えた真実。
    『そろそろ来る頃かなと思っていました。風向きが変わったようですからね』
     メフィストは左翼のウィングレットの先端部分の動きから察知した。
    「忙しかったかな」独特の濁声が年輪を感じさせる。
    『静かにこうして本を読みながら空の旅をたのしもうとしているところです』
     彼は何者なのか―?
    「おじいちゃん! やっぱり怖いよ!」今にも隣の少女が泣き出しそうな声をだす。
    「大丈夫だよ。いいものがある」バックから何かを取り出した。
    「手のひらをだしてごらん」
     そう言うと取り出した小瓶を逆さまにする。1滴、2滴、3滴。
    「手の平で擦り合わせてごらん。そして、笑いなさい」
    「笑えないよ!」少女は俯いたまま顔を上げなかった。
    『お嬢さん、笑った方がいい。飛行機は愉しいよ』メフィストが話しかける。
     顔を上げた少女は、それから間を少しとって小さく笑った。紳士は、「ありがとう」という目をよこす。
    「悪人正機、という真実がある。悪人こそが、つまりそれは君は自分のことだと思っていると思うが、阿弥陀仏の救済の第一の対象となっている、ということだ。ところが、この意味、というのは悪人とは罪人、という意味でなく煩悩から抜け出せない自分に気づいた人のこと―つまり今の君のことなんじゃないかね」
     オールバックにされた銀色の髪が紳士の端正な顔立ちを際立たせ、ブルーの大きな瞳は冷徹さと達観を呈している。
    「驚いたかい? 今は仏教の坊さんなんだよ。改宗してね」予言者ゼカリアのような長く豊かな顎鬚を撫でながら言った。
    『確かに驚きました……』
    『判定は聞くまでもありませんが、パリで数時間過ごさせてください。その後帰ります』
    「末法の世と言われているね」紳士は話題を変えた。
    「絶対・真理・法則・永劫不滅などを求める人間は非常に危険だと想っている。求めていいのは幸福だけだ。幸福には絶対はない。人ぞれぞれだからね、真理もない。それに永劫不滅もない。だからこそ人は自分の意志で努力して幸せにならなければいけない。分かるね」
     メフィストが肯く。
    「万物―それが目に見えぬ歴史や文化というものであっても、ひとつも留まるものはなく流転していく。広がったり収縮したり、時には人為的か自然の選択化で終焉をむかえなければいけないときもある」
    『末法ですね。私もそう思います。末法の世、というのは万物が流転することに抗(あらが)うからこそ、その時代を迎えた。戦争もそう、虚栄心もそうだ、愛でも……』
    「天使は悪魔に化け、悪魔は天使に化ける。一貫して善人であることは非常に難しいし、自分を善人であるべきだと信じた瞬間から辛い道を歩むことになるじゃろう」
     メフィストは相手の意図を思い図(はか)ることができずに、一度目を閉じて深呼吸をした。
    『諦めを勧めているようにも聞こえるのですが、勘違いでしょうか』
    「諦めることと諦めないこととは矛盾する。諦めが肝心だし、諦めないことは実に人間的だ。人が溺れている時に前者を説く人間はおそらく村八分にされるし、去っていたものを自分のものにしようと追い回したり、殺人をして自分のものにする人間などは前者を説いてあげた方がいい。いついかなるときも、矛盾して何も真実を産まない。だからこそ、必要な第3の視点があるんじゃよ」
    『それは……』
    「君の存在だよ―」
    どの角度から見ても同じにしないと人間は安心できない生き物になってしまったのかもしれない。なので、絶対・真理・法則・未来永劫の4つを求める。そして、善人だ悪魔だとラベルを貼るというのは全てを縫い目のない球と見るようなものだ。正気な人間、真っ当な信仰の裏には狂気があり、不当な信仰がある。どちらが優れている、劣っていることはない。悪魔は徹底的に忌み嫌われ排除されようとする。だからこそ、いまこの時代に必要なのメフィストの福音なのだ。メフィストの幸福論と存在なくしては、鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の世は訪れないばかりか、メフィストが去ったとしても次の悪魔が降臨してくると彼ははっきりと予言する。
    「悪魔は人間が作り出したもので悪魔自体が実体のないものだ。君はどうしてあの3人が君のもとへ訪れたと思うかね」
    『その問いの答えは……』考えたこともなかった。『恥ずかしながら、解脱のことで頭が一杯でした』
    「無理もないかもしれないね―」離陸後すぐに眠りに落ちた隣の孫の髪を撫でてから、メフィストを向きなおす。
    「君の解脱は終わりじゃよ」紳士は微笑んでみせた。
    「悪魔の存在意義はこれまで数多くの悪業に支えられてきた。君は3人を救った。さらには、大悪禍(カオス)そのものに手を染めなかった。悪魔界からしたら由々しき問題なのだが、それが我々の秘密なのじゃよ」
     メフィストは3人の使者たちを改めて思い出す。最初に出会った森川泰平は死なせてしまった。村沢橙夏を救ったのは自分ではない。さらには、真琴亜望は救うどころか、永遠なる闇に葬り去ってしまった……。
    「ところで君の名は」
     痺れてきたのだろうか、左腕を孫が起きないようにそーっと抜き取り、座席と座席のレバーを上げて膝の上にそっと起こさないように頭を動かした。紳士が機内誌を何の気なしに取り開けて開く。
    「君の名前じゃよ。わしの名前は玉名(たまな)弥勒(みろく)」機内誌から顔を上げずに言った。
    ―名前?
     耳を澄ますと、己の頭が濃密な回想に急ぐ音がする。氷の上を走るように滑らかな動きだ。
    「君には名前がないんじゃないかね」
    『どうして……』 
     意表を突く質問だった。
    「彼らは一度たりとも君に名前も聞かなかったし、名前を呼ばなかったろ? 彼らは君の名は知らない……知らないのではなく、知っているんだが、教えられないんだ……」
    『教える……』メフィストの身体の中では滾(たぎ)る衝撃が感覚を麻痺させ始めていた。冷静に考えることを許さない。
    『教えてください。なぜですか』
    「君は名前を持ってない。わしがいまここで大声で君の本当の名前を読んだらどうなると思う」
    メフィストの耳で小声で紳士はおもしろそうに質問した。
    「【メフィストフェレス】という名前も閻浮提(げかい)の人間が勝手につけた名前だ。名前はただラベルをはるだけに過ぎない。そうだろ? 君が何者なのか知らなかったわけじゃない。何者なのか知ってたからだ。彼らが君に伝えたかったんだよ、解脱を果たしたとしても、それで終わりではない。降りてきても解脱はない」
     森川泰平、真琴亜望、村沢橙夏……。皆、解脱を成功した者たち―。
     
    「君がずっと抱えてきた疑問があるだろ? どうして悪魔である君が新たな幸福論を持たされているのか……」
    『そ、それは』メフィストは静かにコートのポケットに手を入れた。しばらく指で中を弄った。そしてひそかに笑った。
    「至上者はなかなか洒落の効く方みたいじゃな」
     玉名弥勒はまたしわがれた声で笑った。刻まれた皺がまるで潮騒のようにやわらかく上下に動いた。
    「古い門番の権威を見事に君は葬り去った。わしはさきほど末法の世と言ったね」
    『はい』
    「末法の世というのは新世界のはじまりでもあるんじゃよ」
    『新世界……』
    「悪魔の決まりごとを凋落(ちょうらく)させたんだからね。次の新世界では君が人間たちを指導しなければならない」
     創造主であり指導者だということだ。引き返すこはできないのだが、それでも後悔しないのか? メフィストは鼻の頭に皺を寄せながら自問する。
    『ひとつお願いがあるのですが』
    「何でも言いたまえ」
    『女性へのプレゼントは何が喜ぶんですか』
    「…………」
     紳士の機内誌をめくる指が止まった。
    「驚いた。君が質問している内容は、まるで『ホメロス』を愛読しているのに『マザーグース』が読めないのと同じことだよ」
    「答えは自明だ」という意味だとメフィストは捉えた。自分でとにかく考えなければいけない。
     紳士はしばらく雪を踏みしめたときの音のような笑い声で笑った。あまりに体を波打たたせるように笑ったので孫が起きてしまったくらいだ。
    「おっ、ごめんごめん、とうか、起きたのか」
    「とうか寝てたの」女の子は自分のことを「とうか」と呼んだ。
    「そうだよーぐっすり眠ってた」
    「そうなんだーよく寝たね。腹減った。気持ちよかった」
    「とうか」と呼ばれた少女は伸びをして、欠伸を2度した後、自分の方を見つめるメフィストを見返した。
    「どうした」目を丸くしている孫に向かって紳士が心配そうに尋ねる。
    「おじいちゃんに似ているなーと思って……その人」
    『今……』メフィストが言葉に窮していると、紳士は『ヴァイス』と一言だけぼそりと呟いた。
     意識が交錯した――。目頭が熱くなる。枯れていたはずの涙。蓋をしていた時間が伸びてきてメフィストの心臓をとんとんと叩く。涙がこみあげてくるのを必死に抑えようとしても、背中を判定者(ジャッジ)の紳士はゆっくりとさすったので、後から後から涙が出てきた。その涙はただ頬を温かくした。
    「これからが大事な時期だ。人間になることが輪廻転生の解脱の目標ではない」
    『新たにその真価を試されることになるんですね』
    「そうじゃ。『観経琉』という書の中に、「二河百道」という言葉がある。火の河と水の河を人の虚栄心と私怨に例え、その間にある白い道は極楽に通じる道だ、という意味の言葉じゃ。そんな道を歩く日が人間に来るのだろうか……」
     パリで一か八か。メフィストの足に血が通ってきた。
    「あ、あと、それとひとつ言い忘れていた」紳士が自分の額をペチっと叩いた。
     メフィストは何も言わず次の言葉を待った。
    「今回、解脱に成功したのには、もうひとりいる」
     ロシア国境を過ぎる頃、メフィストはもうひとりの存在に思い当たった。
     
    3
     光の都にふさわしく、凱旋門からコンコルド広場までのシャンゼリゼ通りは、黄金の光の海だ。地上を流れるセーヌ川まで光の都を投影する映写機のようなな役目をはたしている。一年中でパリが最も華麗に彩られる日―降誕祭(ノエル)。
     家路を急ぐ人波でパリ市内の大通りや駅は沢山の人と車でごったがえしている。マルシェ・ド・ノエルで有名なシャンゼリゼ通りには、ホットワインやタルティフィレットを手にして談笑しながら歩く人々で賑わっていた。
    ノートルダム寺院のような外観とステンドグラス窓が美しいサン・ジェルマン・ロクセロワ教会教会の鐘の音が聞こえる。もうすぐ真夜中―。
     メフィストはルーブル美術館の中庭にあるライトアップされたルーブル・ピラミッドを眺めていた。胸に今去来するのは、真実を知った亜望を忘れることができない苦しみと、彼女を失った気持ちと、解脱した自分に残された心細い道への恐怖心。希望は胸のどこを漁ってみたところで見当たらない。かつて一切ぶれることのなかったメフィストの生きるための論理は、一歩進むとどこかにひびが入って、それを修復している間にまたどこかにひびが入るというような、堂々巡りの修行に思えた。
    記憶の中では、今の自分と奥多摩で星の姿が線でつながった。星はもともとは閃光はしない。ところが大気を通るから屈折し点滅しているように見える。そしてその光の屈折はとくに雷雨の後に鮮明になるのだ。
    はたと全てのことがつながった。人間がどうしてあそこまで感情に振り回され幸福から逃げるようにして生きているのか……。星の閃光は人間が物事をありのままに理解できないことと類似しているのではないか。感情によって物事が見えにくくなったり屈折したりする。覚えていたことを忘れ、意識していたことがどこかへ飛んでいき、自分が朽ち果てていく使い道のない枯れ木のように感じられて人生に絶望する。
    望(のぞみ)にひびが入るのだ。今の自分のようにひびの入った望(のぞみ)を修復しようと自分でやってみるが堂々巡りでひびは拡大していくばかり……。これまで人間は愚かな哺乳類だと思ってきた。ところが、それさえ気づかなかった自分が一番愚かなことを、メフィストは驚愕と諦観を繰り返しながら、ようやく認めたのだった。 
     
     賑やかな声楽隊に混じって、誰かの声がする―。
    「お……い―」
     メフィストの背後から記憶の中の懐かしい小さな声がした。
    その懐かしさのガラス玉が割れないようにそっと振り向き、そっと零れないように自分を見つめる人のことを優しく見つめ返した。いたずらに2人微笑みあった。
    「嘘だろ」
    《あなたのこと探そうと思って、工房(サロン)に行ったら、あの猫ちゃんが何かくわえて持ってきたの。何かなと思ったら、飛行機の便名と時間だったの》
    「だからって……パリは広いのに……」
    《あれから考えたのよ。あなたにいなくなってもらいたくないの》
     メフィストは小躍りしたくなる気持ちをぐっと抑えた。
    《もうすぐあなたがいなくなったとしても、それまであなたとやっぱり一緒にいたいの―》
     メフィストは曖昧に笑った。
    《この立ち位置で本当に良かったなん今までも思ったこともない。今もそう》亜望は舌を見つめた。《思えるわけないわよね。もともと早く死にたかったから。でも……》
    彼女は照れ笑いをしながら動かす指を止めた。
    《わたし、あなたとは生きていけないけど、あなたなしでは生きていけない》
     真夜中のミサに参加する人々の群れが2人の間を行進していく。
    《何かを回避すると、さらに何かを回避しなきゃいけなくなって、又次の回避を回避しようすとすると、何かをまた回避の回避しなきゃいけなくなって……》
     黙っていた気持ちを全部吐き出したいのがメフィストには手に取るようにわかった。
    《最初のときからそうなの。空港であなたが去っていく時……そーっと心の中で跪いて祈りを捧げるように手を重ねてたの》
    「もう、逃げることはないよ!」
     彼女は遠くで照れて目を伏せた。
    《最後まで一緒にいて! いいよね? だめだって言ったら殺す》
     メフィストは、一瞬手話を読み間違えのたかと思った。「殺す」と伝えられたのはじめてだったからだ。が、意志を込めて力強く肯いた―。
     玉名弥勒の「二つの海の話」を思い出した。生きることを決めても、死ぬことを決めても、それぞれの海に目を瞑(つむ)って飛び込む。波の頻度も、高さも、幅も、水温も、蠢く「生き物」もまるで異なる生と死の二つの海。悩みは尽きない。幸せも然り。
     
     亜望はつま先で地面を叩きながら、メフィストを目がけて走った。亜望の涙は多種多様な感情が込められていた。悔しさで胸が埋められて、沈黙の三点が頭の中に抑揚のない音符のように続いた後、後悔したくなくて家も会社も日本も飛び出したのだ。目の前の愛する男を少しの間なりとも離そうとしてしまった自分に少し腹が立っていた。
    ―走った勢いが強過ぎたのか、止まれずに、彼に真正面から飛びついた―。周りの目も気にせず。光の都に愛する男女が加わった。
    《わたしを選んでくれてありがとう》
     彼は泣いた。泣いている。
    《あ、ひとつ言うの忘れてた》
    「まだ何か驚かせるようなことが? もう心臓がもたない」
    《怒らないで聞いて。その……あの……》
    「早く戻らなきゃいけないから急いで」
    《その……猫ちゃんが逃げちゃったの》
    「…………」
    《ごめんなさい! ドアのところ開けっ放しにしていたら、気付いたら走って外にでていって、追いかけたんだけど、みあたらなくって……》
    「…………」
     亜望が泣きそうな顔になっていると、彼は優しく白い息を吐いた。
    「そうか……逃げたのか……」
    ふと亜望の顔が真剣さを増した。もうひとつ言わなければいけないことがある。
     メフィストは亜望の提案に快く快諾した。
     
    ひざまずく。【受胎告知】の大天使ガブリエルのように、右手をそっとあげて、右手の人差し指と中指を立てて、Vサインのような形をつくり、亜望の子宮のあたりを柔和な視線を送った。30秒ほどそのままの姿勢をとってから、聖母マリアへの祝福の意を表し、天に向かって叫んだ。
    「アレルヤ!」
     はらはらと雪に混じって白いスカーフが空から落ちてきた。雪の上の白い布を拾ったメフィストは、躊躇なく自分の首に巻いたのだった。
    ―彼の声が響いたのは地上だけではない。教会の上から2人が抱き合って喜んでいるのを見ていたクピドーとイカロスにも届いたのだった。
    『イカロス、みたか!』
    『やりましたね!ついに』
    『天使が見えるぞ。それもたくさんだ! あいつらの周りに』
    『本当ですね! まるで夢物語だ』
    『あいつはその強大な呪われた魔力によって多くの人間の魂を奪ってきた。だけど、あいつは誰にも言ってなくて、俺だけが知っていることがあるんだよ』
     クピドーはパリの光を全身で浴びるように手を広げた。
    『なんですか』
    『昔、大阪での失敗のあと、あいつが表情ひとつ変えずに俺に金を貸してくれ、と言うんだ。珍しいから理由は訊かずに貸した。後をつけたんだが、あいつは地獄の河(アケロン)の渡し守――守銭奴で健啖家のカローンに金を渡していた。カローンなんて奴に金を渡して何になるのか全然分からなかった。そしたら、ある日ランチの時に隣テーブルで小難しい錬金術なのか科学なのかわらからない本を読んでいたグラシャラボラスとバベルが話を耳に挟んだんんだよ。『おい、最近起こった閻浮提(げかい)での大悪禍(カオス)で死んだ人間たちを全員無償でカローンが河を渡らしてやったらしいぞ』って。で、俺は今わかった。あいつ、おれから借りた金をカローンに渡して、全ての死んだ人間の魂が例え地獄でも罰は与えられないようにしたかったんだ。時々遺族が埋葬の時にコインを口の中にいれてやるのを忘れる場合も多かったから、それを見越していたんだろう」
    『それにしても……』イカロスが鼻をひくひくさせながら訊いた。
    『何か特別にメフィスト様に精油(オイル)をブレンドしていただいたのですか? 何か……こう、変わった匂いが今日はクピドー様からしてくるのですが』
    微かに揺(ゆ)の音(ね)が聴こえてくる。深く遠く、そして威容を呈した音だった――。
     
    4
     
     二人は帰国した。
     彼は工房(サロン)のこともあるし、行かなければいけないところがたくさんあると言うので、亜望はひとりで岡山県の実家に向かっていた。玄関をあけると佐智子がテレビをつけたまま歩いてくる。見るからに凍るような視線を亜望によこした。
    《佐智子さん、ちょっと話があるんだけど、いまいいかな》
     亜望は張り付くような視線で彼女の目を見返した。その視線はいままでの相手の心情の煮え加減を恐る恐る確認するようなそれとは異なっている。
     真琴家の権力階級では上に位置していると自負していた佐智子は、動揺を悟られまいと、力を振り絞って無言で怪訝な表情に自分の顔を押し込むように、七回忌の時よりもしめやかに腕を居間の方へと向けた。
     亜望は居間に通されると、座布団をどかして畳に座った。
    彼女はさきほどまでテレビを見ていた座布団の上に座り直す。威力に竦(すく)みそうになるのを我慢しているのは座布団の角房をいじっている姿を見ればわかる。
    「お茶だしましょうか」
     出したくない気持ちは明瞭だ。
    《大事な話なので》ゆっくり深呼吸すると亜望は話しはじめた。《父はいまどこに》
    「夫が近くの公園に散歩に同行しています。もうそろそろ戻ってくるはずです」
    《弟が帰ってから話すべきことなんだけど、あなたにまず最初に話しておくのが筋だと思うから、まずあなたにお話します》
    「何でしょうか。手短にお願いします」
     別段忙しくないのにもかかわらず、彼女が防御の姿勢を見せる。
    《わたし、父と一緒に住みます。この家で》
     最初の一言は東京を出る時に既に決めてあった。外はやわらかく中は芯が詰まった言い方だった。
    「な、何を、急に、言っているんですか」怒りと驚きが入り混じった表情で聞いた。
    《あなたにはずいぶんと迷惑をかけました。子供2人を育てながら、父の介護をするのはとても疲れた……いいえ、そんな言葉では足りないくらいに。ごめんなさい》
    「…………」
    《本当に血がつながっているのに。お互いのことをどこかで一生理解できないものだと思っていました。何の感情ももてなかった》
    「何から聞いていいのか、全く意味不明なんですが」彼女は低く抑えた声で言った。「狙い……いや、理由を話してください」彼女は唇を震わせながらも、目には怒りがしっかりと込められている。
    「亜望さんは、このままどうか東京で仕事して生きていてください。何が、問題なんですか? 貯金があるにせよ、あれだけ毎月仕送りできて、しかも海外旅行に頻繁に――」
    《落ち着いて聞いてくれますか》
     相手を鎮めようと間をあける。
    「落ち着いてます。だいたい、なんで戻ってくるんですか? 仕事クビになったんですか」
    《辞めましたけど、フリーランスでやっていきますので生活には困りません》
    「じゃあ、何が狙いなんですか?」彼女は今度は言い直さずに亜望を牽制した。
    《ただ、娘として父の看病をするだけ》
    「それは、これまで娘らしく生きていた人が言える台詞ですよ……」
     彼女は相手を宥めすかすような言い方でテレビの音量を大きくした。
    「お義父さんは一度だって亜望さんの名前を呼んでいません。呼ぶときはわたしの名前か孫たちの名前です」
    《親子関係を修復するつもりはありません。そんな簡単なものじゃないわ》
    「じゃあ、どうして」
     相手がようやく順序立てて、理由を言える態勢が整ったようなので、もう一度深呼吸してから亜望は喋り始める。
    《いま、父の薬はたしかアリセプトでしたよね》と訊ねると、彼女は訝しそうに頷く。
    《まずその薬の投薬をやめたいの》
     彼女は再び防御姿勢に変わった。
    「ばかなこと言わないでくださいよ。何か悪い宗教にでも勧誘されたんじゃないんですか」
     さきほどよりも、もっと侮蔑を込めた言い方をした。
    「はあああ? いいですか。鬱がひどくなるんですよ。薬を飲まないと。突然、『ここは誰の家だ』とか『そこに死神がきている』とかいうレベルならまだ笑えます。でも……突然、しかも夜中に怒り狂って、ものを投げたり、孫を突き飛ばした……分かりますか? これがどんなに辛い……。普段看病している相手に自分の子供に手をあげられる気持ちが……」
     涙を浮かべた彼女が早口にまくしたている。
    「薬を飲まないと、いつかキッチンにある包丁で刺されるかもしれないし、だから、いっつもわたしは眠る前に包丁を金庫にしまうんです。そういう恐怖が……ったく、いい加減にしろ!」
     彼女は涙をこぼさないように少し間をあける。そして喋り続ける。
    「夜中に起きて、夢遊病のように動き回る。何度か交番に保護されたこともありました。その時は、まだ結婚したてで、お腹に長男がいたものですから、夫だけ夜も眠れず見張っていました。あの頃からです。夫がいつどうなるか分からないので車を運転できるように大好きなお酒をやめたのは」
     七回忌の時に弟はグラスにビールがずっと同じ量で残っていた。亜望は予想はしていたが、顔面が蒼白になってくる。いまさらかもしれないが、目に見えない不幸を父は周りに無意識に拡散していると再確認した。無意識だから許されるというわけではない。人間はどこまでも人間であり、動物にはなれない。年をとって呆けたからといって、突然猫のように何でも他人が許してくれるなんてことはありえないのだ。
     彼女は俯いていた顔を上げると、亜望を睨みつけた。嫌悪感を隠すことにもはや限界がきたのだろうか、身体全身に緊張を走らせ、嫌悪感を匂わせた。
     聞くと、実家のあらゆるカーテンが無地に変えられたのは、思い出せば、隆太郎の幻覚を防ぐためだった。色や柄があるものが視界に入ると幻覚につながり易いという指導を母が受けてきたのだ。それ以降、家の中のデザインはシンプルになった。とすると、彼女や子供たちがテレビを見られる時間も限られている……。
    《この前……帰ってきた時に、目を視て分かったの。あんなに目や頬が黄色くきばんで、窪んでやせこけて、顎がとがった父でも、きっと、もう何かを食べたり飲んだりするのが障害があるんだと分かった。でも、本当に一瞬だった……手の震えをしっかり片方の手で押さえるようにしてたの。あれを見て、まだ父は娘の前で強い父を演じようとしてくれているって》
    「実の娘だからといって、看病してよくなるわけじゃないんですよ」
    《看病のためでもないのよ、それが》
     夕方を告げるアナウンスが牧歌的な街に流れた。いつのまにか西日も沈みそうになっていた。亜望は両手を膝の上に置きなおす。
     ショルダーバックから何かを取り出した。それは、ディフューザーとふたつと茶色い瓶。
    《精油(オイル)なの。これを経口したり、肌にぬったり、拡散して香りをかいで、父の認知症の状態を近くで視ていたいの。嘘だと思うかもしれないけど、色々な病気が香りで治ることがあるんです。必ず効くと思うから―》
     庭に植えてある無花果の実は食べごろになるまで後2、3カ月はかかるだろうか。子供の時から秋によく食卓に並んで食後に家族で談笑しながら食べた情景をつぶさに亜望は思い出す。
    《五感のうち嗅覚だけが直接脳に繋がっているんです》
    彼女が右手で足の裏をつまみながら訊いてくる。
    「何の話なんですか? 五感って……」
    文字通り話が分からないわけでなく、どこにつながるのか分からないといった風な返答だ。もう一度亜望はゆっくりと同じことを言った。
    《実は、アレルギー鼻炎を精油(オイル)で治したんです。薬は即効性はあるけど、やっぱり腎臓や肝臓に与える影響は無視できないものがあるらしいの。わたし、じつは卵巣膿腫なのね。しかも悪性の。正確には「だった」のね》
    彼女の目から怒りが少し薄れたようだ。
    《もちろん子供も産めない身体だし。とにかく、その卵巣脳種が改善してきたの》
     亜望はそれから具体的に説明した。亜望の卵巣は子宮内膜症・脳腫に疾患していた。見つかったときは既に膿腫は65ミリを超えていた。しかも悪性に変わったのがパリ旅行の10日前のこと。さらに大きくなると、他の臓器を圧迫してしまうので、手術の日取りを決めなければいけない状態だった。手術は卵巣の全摘出が決定的だったのだ。
     徐々に膿腫が小さくなるのに1年以上かかったが、植物状態のときもメフィストはお腹に塗っていてくれたとパリからの帰りの飛行機で話をしてくれた。
     レビー小体病はいくつかの神経細胞が壊れて減少することで神経を上手に伝えられなくなる。それにつれて認知症の症状が起こる。視床下部――いわゆるホルモンのコントロールセンターがそこでその神経伝達物質の生産を行っているわけだが、持参した精油(オイル)は直接その嗅覚の刺激に返答する視床下部を刺激することができる。
     亜望は相手の反応を真正面から観察した。
     理解は十分でないかもしれないが、さきほどまでの嫌悪感は消えている。《お願いします》亜望は額を畳に擦りつけるように頭を下げた。
    《お願いします、長時間ここに住むことになりますが……お願いします!》
    いつもの居丈高な物腰を隠し、静かに彼女は立ち上がった。
    「お茶いれてきます。電源はそこです」
    彼女が台所に入っていくと、亜望はガラス製のディフューザーを畳の隅で試そうと、茶色の瓶を数滴垂らしてから、コンセントにプラグを差し込んだ。
    バジルとペパーミントの感覚を研ぎ澄ませるようなシャープの香りが部屋中に拡散していく―。
    瓶の中身はカルダモン、ローズマリー、イランライン、ジャスミン、ゼラニウム、パルマローザなど10種類以上。
    別々の場所にいる彼女と亜望の脳天にも鼻から突き抜けるような清涼感が届くと、2人は思わず目を閉じる。そうして、しばしお互いの存在を忘れた。
     弟と子供たちと一緒に隆太郎が帰ってくると、挨拶も適当に済ませて、小走りで車いすの傍まで進みそっと腰を落とした。
    「あねき……」
     弟が訝しそうに視ている。子供たちは我関せずで、階段を上がっていった。
    「あなた」と2回言って彼女が制す。
     亜望は、2滴手の平にとり、隆太郎のこめかみに塗り始めた。
    「お、とうさん、つ、ぐ、み。さいしょ、は、ずつう、する、けど……それは、からだ、の、なかの、どくを、ぬくため、だよ。か、らだの、なかに、たまっ、ちゃた、どく、を、ぬい、て、よく、なろうね」
     とぎれとぎれに喋った。一生懸命に喋った。声は、澱(おり)混じりのダミ声に近かった。顎の骨が悲鳴を上げていた。が、やめなかった。隆太郎の手をとって、強く握った。こんなに強く握ったのは、子供の時以来だった。よく手を握って買い物をしたあの頃。
     涙が堰(せき)を切る。怒りを、自分へと他人への批判を、恐怖を、不安を、しがみついて生きてきた過去の轍(わだち)を、これまでのすべての自分を制限してきた感情を受け入れようとすることで、手放そうとしていた。
    「お義父さん、亜望さん、ここに住むからね。最初は頭痛がすると思うんだけど、それは身体の中にある毒を抜くためだから。身体の中に溜った毒を抜いたら、病気治りますよ!」
     潤んだ瞳の彼女が、隆太郎の手を握る亜望の手の甲の上から自分の手を重ねた。
     一縷の風が見える。
     デクレッシェンド。風の音が瞳を濡らす。親子は顔と顔を近づけた。徐々にたちこめる霧と輝く太陽。薫香が空気に色をつけていく窓の外の景色を、胸の底の砂に刻み込むように見つめた。その色はだんだんと濃く、だんだんと明瞭だ。
     
     ――幸運を祈るわ。お父さん――そう、娘は胸の中で彼に祈った。
     
     

    #創作大賞2026

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