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符合の数は証拠の数ではない ― ファンダム考察の検証工程

ゲーム、漫画、アニメ、ドラマなどのファンダムでは、作品内で明示されていない設定を推測する「考察」が盛んに行われている。

断片的な台詞や設定、人物の配置、色彩、意匠、物語上の反復などを組み合わせ、人物の正体や過去の出来事、世界設定を推定する。
作品側が意図的に空白を残している場合、こうした読み方そのものが作品を楽しむ一部になる。

考察には推測が必要である。人物同士の関係を仮定し、年代の空白を埋め、反復する意匠の意味を考えること自体に問題はない。
ただし、資料を大量に集めていることと、推論が妥当であることは別である。

とくに気になるのが、仮説を立てた後、その仮説を検証する工程よりも、成立させる材料を増やす工程の方が発達していく場合である。

仮説に合う描写を探し、符合が見つかれば確信を強める。
合わない情報が出れば説の確度を下げるのではなく、新しい能力、人物関係、別名、失われた過去などを追加して説明する。

以前の記事で「可能性がある」とした内容が、次の記事ではすでに設定として使われることもある。

結果として説は複雑になる。しかし、説明に使う設定が増えたことと、最初の仮説を支える証拠が増えたことは同じではない。

仮説を立てることと、検証すること

以下では架空の作品を例にする。

その作品には、百年前に行方不明になった王女Aがいる。Aは月を紋章とする王家の人物で、青い衣装を身につけていた。
現在の時代には、出自の明らかでない騎士Bが登場する。Bも青い衣装を着ており、装備の一部には三日月に見える意匠がある。
ただし、作中では時間移動や不老、AとBの血縁や同一性については何も明示されていない。

ここから「AとBは同一人物ではないか」という仮説を立てることはできる。
行方不明の人物と出自不明の人物がいて、色彩や意匠にも類似がある。
仮説を立てるきっかけとしては十分である。

その後に必要になるのは、似ている要素を追加で探すことだけではない。
AとBの年代は両立するのか。Aに確認されていた能力をBも持つのか。両者を直接結ぶ台詞や記録はあるのか。青や月の意匠は、この二人以外にも広く使われていないか。
AとBを別人とした場合に説明できなくなる情報はあるのか。

仮説を作る工程と、その仮説の確度を評価する工程は別である。
この二つが一体化すると、自説に合う情報を発見すること自体が検証として扱われるようになる。

問題は資料の量より、推論の接続にある

考察では、個々の材料が作品内に実在することを確認しただけでは足りない場合がある。

Aにも月の意匠があり、Bにも月の意匠がある。ここまでは観察できる。
しかし、そこから「二人は同一人物である」と進むには別の推論が入っている。
重要なのは、この間を何によって接続したのかである。

資料の数が増えると、この接続部分は見えにくくなる。
A側の情報が十個、B側の情報が十個提示されれば、説全体も十分に裏づけられているように見える。
しかし、それらが同一人物を指すという関係自体が独立して支えられていなければ、二十個の資料がそのまま同一人物説の二十個の証拠になるわけではない。

ここでは、いくつか異なる問題が起こる。

たとえば作品内に「月の騎士」という、特定の騎士団だけを指す固有の称号があるとする。
Bが月の意匠を持つことから「Bも月の騎士を思わせる」と読むことはできるが「Bは設定上も月の騎士である」と進むには別の根拠が要る。
意匠上の類似と、作品内の分類は同じではない。

Aが王族、Bが平民として扱われている場合に「身分を失ったので平民として扱われているのだろう」と補うこともできる。
ただし、それは作品内で確認された設定ではなく、A=B説を維持するために追加された説明である。

同じことは能力や世界法則にも起こる。AとBの活動時期が百年離れているため、「Bは時間を移動したAなのではないか」と考えたとする。
作品内に時間の流れが特殊な場所が存在するという事実だけから「そこでは過去や未来へ移動できる」「Aは実際に利用した」と進めば、新しい前提が加わっている。

外見が違えば変身能力、能力が違えば失われた力、名前が違えば別名、記録がなければ記録の消失という説明を加えることもできる。
個々には成立する可能性があっても、それぞれが新たに検証すべき項目になる。

仮説Aを成立させるために仮説Bを追加した場合、BはAの証拠にはならない。B自身にも根拠が必要である。

オッカムの剃刀を「前提が少ない説の方が正しい」という判定規則として使う必要はない。

ただし、追加した前提を根拠なしに使えるわけでもない。前提が増えるほど、それ自体について確認しなければならない項目も増える。

自説が自説を証明し始めるとき

別の問題として、自説から作った条件を使って、自説を検証する場合がある。

Aには月、青、花という特徴がある。A=Bという仮説を立てた後で、Bについても月、青、花に関係する要素を探したとする。
Bの装備に三日月の模様があり、衣装は青く、Bのいる地域にはAの城と似た花が咲いていた。

三つの符合が見つかったことになる。しかし、月、青、花という検索条件そのものがA=B説から作られている。
自説から人物像を作り、その人物像に合うものを探し、見つかった一致を元の自説へ戻せば、検証は循環しやすくなる。

この問題は、長期間にわたって同じ作品を考察するとさらに見えにくくなる。

最初の記事で「AとBは同一人物かもしれない」と書いたとする。
次の記事では「A=Bなら、Bが現在持っている剣はAの時代にも存在した可能性がある」と進み、その剣と同じ紋章を持つ百年前の人物Cを見つけ「CはAと関係していた」と推測する。

さらにCの記録に月への言及が見つかり「Cも月に関係しているので、やはりAとBは同一人物だった」と最初の説へ戻す。

一見すると、人物Cという別の資料から新しい証拠が出たように見える。
しかし、Cを調べることになった経路そのものがA=Bという仮説に依存している。

長期考察では、この依存関係が記事をまたいで見えなくなることがある。
最初の記事では「可能性」だったものが、数本後の記事では前提となり、その先では世界設定として扱われる。

仮説の確度が上がったのであれば、何によって上がったのかを示す必要がある。
新しい独立した根拠がないまま「可能性」から「前提」へ移ったのであれば、検証によって確度が上がったのではなく、文章上で仮説の位置が変わっただけである。

過去に自分が書いたことと、作品内で確認されたことは別に管理する必要がある。

符合の数と証拠の数は一致しない

前節の三つの符合は、それぞれ別の場所に存在している。
しかし、情報源が三か所に分かれていることと、三つの独立した証拠があることは同じではない。

別々のアイテム説明、別々の人物、別々の場所から情報を集めても、どの情報を重要と判断するかを同じ先行仮説が決めているなら、単純に証拠を足し算することはできない。

「これだけ一致するのは偶然ではない」という説明も同じ問題を含むことがある。仮説を立てた後で作品全体からそれに合う色、形、台詞、場所、人物を探せば、ある程度の一致は見つかる。
先に弾を撃ち、その後で弾痕が集まった場所を囲って「ここを狙った」とする、いわゆるテキサスの狙撃手の誤謬に近い。

ただし、後から見つかった符合に価値がないという意味ではない。
事後的な一致も仮説を補助する材料にはなる。
違いが出るのは、その符合がどのような経路で見つかったかである。

たとえば、Aが失踪した際に王家固有の剣も同時に姿を消したのではないか、と先に予測したとする。その時点では、百年前の出来事を記録した年代記をまだ確認していない。

その後で年代記を調べ「王女の失踪と同時に王家の剣も所在不明となった」という記録が見つかったなら、その一致は、作品全体を調べた後で似た情報を選んだ場合とは性格が異なる。

それだけでA=Bが証明されるわけではないが、仮説から先に具体的な予測を出し、自説とは独立して存在する資料によって後から確認された情報は、事後的に符合を選んだ場合より検証上の価値が高い。

したがって、符合について見るべきなのは個数だけではない。
事前に予測されたのか、後から選ばれたのか、その情報を証拠として選ぶ判断が自説に依存していないかまで含めて考える必要がある。

何を主張するかによって、必要な根拠は変わる

考察の精度を「証拠があるか、ないか」だけで判断するのも粗い。何を主張しているのかによって、必要になる根拠の種類が違うからである。

二人の人物が同じテーマに属するという読みなら、色彩、意匠、構図、台詞の反復が重要な根拠になることがある。
一方、二人が同一人物だと主張するなら、それに加えて時系列、経歴、能力、両者を直接接続する情報が問題になる。

血縁関係を論じるなら、外見や象徴の類似だけでなく、出生や家系を示す情報が必要になる。
世界に特定の能力が存在すると主張するなら、その能力そのものを示す記述や現象が必要になる。
出来事Aが出来事Bの原因だとする場合も、Aが先に起きていることだけでは因果関係の根拠にはならない。

象徴的な符合が弱いという話ではない。同じ意匠が繰り返されていれば、テーマ上の対応を読む有力な材料になる場合がある。
ただし、その材料をそのまま人物同一性、血統、世界法則まで広げて使えるとは限らない。

証拠には強弱だけでなく、適用できる範囲がある。

そのため、考察では仮説の確度も一律に扱わない方がよい。
作中で直接確認できること、複数の独立した情報から強く推定できること、象徴的な対応として成立すること、追加前提を必要とする仮説では、同じ位置には置けない。

「可能性がある」として置いた仮説を、別の根拠なしに後の段落で確定事項として扱えば、その位置が途中で変わっている。
長い考察ほど、どこまでが作中情報で、どこからが推論なのかを維持しておく必要がある。

反対の情報が出たときに、説の確度は変わるか

ファン考察に、科学理論と同じ意味での反証可能性を要求する必要はない。

象徴解釈や文学的な読解には、一つの記述によって完全に否定できないものもある。
作品側が意図的に情報を欠落させている場合、決定的な証拠自体が存在しないこともある。

それでも、どのような情報が出ても元の結論を維持できる説は、検証しにくくなる。

年代が合わなければ時間移動したとする。能力が違えば失ったことにする。外見が違えば変身したとする。名前が違えば別名だったとする。記録がなければ、記録が失われたと説明する。

個々には成立する可能性がある。
しかし、反対情報が現れるたびに新しい条件を追加して元の説を維持できるなら、作品内の何が確認されたときに説の確度を下げるのか分からなくなる。

完全な反証条件までは必要なくても「この情報が確認された場合には、この説はかなり弱くなる」といった条件は置ける。
人物同一説なら両人物について両立しない経歴が示された場合、血縁説なら別の出生が明示された場合、特定の象徴を二人だけの関係として扱うなら、その象徴が作品全体で一般的に使用されていた場合などである。

重要なのは、反対の情報も実際に説の評価へ参加しているかどうかである。
自説に合う情報だけが確度を上げ、合わない情報はすべて追加設定によって無効化されるのであれば、検証は一方向にしか働いていない。

この問題は日本固有なのか

こうした推論上の問題を、日本のファンダム固有の特徴とみなすことはできない。

英語圏でも、作品を細部まで調べ、手掛かりを集め、パターンを見つけ、物語上の仮説を組み立てるファン活動は以前から存在する。
メディア研究では、Jason Mittellがこうした深掘り型の受容を「forensic fandom」として論じており、オンライン・コミュニティにおけるファン理論そのものも研究対象になっている。
Forensic Fandom and the Drillable Text | Spreadable Media

また、自説に有利な情報を探索・解釈しやすい傾向は、確証バイアスとして広く研究されてきた。
望ましい結論へ向かう際に情報の評価が方向づけられるmotivated reasoningについても、心理学では以前から議論されている。
したがって、自説を補強する材料ばかりを集める問題を、日本人だけの思考傾向として説明する根拠はない。
Confirmation Bias: A Ubiquitous Phenomenon in Many Guises - Raymond S. Nickerson, 1998

英語圏でも、オンライン掲示板などで生まれたファン理論が娯楽メディアによって取り上げられ、より広い読者へ流通する現象がある。
Columbia Journalism Reviewは『Game of Thrones』や『Westworld』などを例に、根拠の弱い説までメディアが記事化して増幅する問題を扱っている。
Entertainment journalists scour fan theories for truth - Columbia Journalism Review

一方、日本語圏で「考察」と呼ばれている文章を見ると、その範囲はかなり広い。作中設定の整理、人物関係の推定、今後の展開予測、象徴分析、神話との比較、人物同一説、大規模な世界設定の補完まで、同じ名称で扱われる。

英語圏にはcanon、fanon、headcanon、theory、metaなど、原作との距離や文章の性格を示す語彙が比較的多い。
headcanonは原作で扱われていない部分について個人が採用する解釈、fanonはファンの間で広く共有されながらcanonには属さない要素を指す用法がある。
ただし、この語彙の違いが推論の質を保証するわけではなく、fanonが原作設定と混同される現象もある。
Headcanon - Fanlore

したがって、問題そのものは日本と英語圏の双方で起こり得る。
違いを論じるのであれば、推論能力の国民差ではなく、ファン活動を分類する語彙や、それらが流通する媒体の違いとして扱う方がよい。

検証工程を見る

考察に推測が含まれること自体は問題ではない。
大胆な仮説でも、直接記述からどこまで離れているかが分かり、追加した前提が明示され、自説に不利な情報によって確度を修正できるなら検討できる。

一方、資料を大量に引用していても、過去の仮説を設定として再利用し、相似を同一性へ変え、自説から作った条件との符合を独立した証拠として数えていれば、引用量ほどには説の確度は上がらない。

確認したいのは、
それぞれの資料から結論までをどの推論で接続したのか、
その符合が自説とは独立しているのか、
主張の種類に対して根拠の範囲が合っているのか、
追加した前提自体にも根拠があるのか、
以前の仮説が途中で設定へ変わっていないか、
反対の情報が出たときに説の評価が実際に変わるのか
という点である。

これは短い人物同一説や展開予想だけの問題ではない。
複数の記事にわたって独自の人物史や世界像を構築する長期的な考察ほど、途中で追加した仮説が後続の資料として再利用されやすく、どの前提がどこから来たのかも見えにくくなる。

情報量や符合の多さだけでは、考察の確度は決まらない。
直接確認できる情報、そこからの推論、さらに追加した前提を分け、それぞれが何によって接続されているのかを追える状態にしておくことが、検証工程として必要になる。


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