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意見を言うことと、自分を否定されること

    penry

    意見を言うことと、自分を否定されること

    「個人的な意見ですが」「批判するつもりはありませんが」「素人意見で恐縮ですが」

    意見を述べる前に、こうした一言を置く文章は珍しくない。
    もちろん、専門外であることを明示した方がよい場合もあれば、事実と推測を区別するために留保が必要な場合もある。

    しかし、読めばその人の意見だと分かる文章に「個人的な意見ですが」と断り、実質的には批判をしているのに「批判するつもりはない」と付け加えることに、情報としてどれほどの意味があるのだろう。

    日本では議論が苦手だ、反対意見を言うことを避ける、としばしば言われる。
    その理由として「和を乱したくない」「波風を立てたくない」「空気を読む」といった説明もよく聞く。

    だが、単に争いを避けたいというだけでは、意見を言う前にこれほど自分の立場を処理しようとする習慣までは説明しにくい。

    意見を言うことと、その意見によって自分自身が評価されることが、近すぎるのではないか。

    この距離の近さは、意見を言う前に予防線を張る形にも、反論されたときに自説を守ろうとする形にも、衝突を避けて「人それぞれ」と議論を閉じる形にも現れる。

    見た目は違っていても、意見と人格、主張と自己評価を切り分けにくいという点ではつながっている。

    自信がないから、とは限らない

    「素人意見で恐縮ですが」という表現は、そのことを考えるうえで分かりやすい。

    似た表現に「素人質問で恐縮ですが」がある。
    学会や研究発表をめぐる場面では、十分な知識を持つ人がこの前置きを置いたうえで核心を突く質問をする、という使われ方が知られている。
    そのためネット上では「この前置きのあとに厳しい質問が来る」という意味で半ばネタとして扱われることもある。

    ここで重要なのは、文字どおりには話が合っていないことである。
    本当に素人とは限らない。質問を控えるほど恐縮しているわけでもない。
    むしろ、質問するだけの知識も確信もある。

    したがって、こうした前置きを単純に「自信のなさ」と説明することはできない。本当に自信がなければ、意見を保留することもできる。
    「分からないので確認する」「判断材料が足りない」と言えば済む。
    それでも意見を述べるのであれば、少なくとも意見を出すだけの確信はある。

    内容は引っ込めない。ただし、発言する自分の位置だけは一度下げておく。
    ここにあるのは自信の不足というより、発言した自分がどう評価されるかをあらかじめ調整する動きに近い。

    「個人的な意見ですが」も同じである。意見である以上、それは基本的にその人の判断である。
    「批判するつもりはありませんが」も、その後に書かれた内容が批判なら、前置きによって批判ではなくなるわけではない。

    重要なのは、前置きがあるかどうかではなく、それが何を限定しているのかである。

    前置きは何を限定しているのか

    専門外のテーマについて「ここまでは確認できたが、ここから先は推測である」と書くのであれば意味がある。
    資料の範囲や、自分が確認できた事実の限界を示しているからである。

    「この分野は専門外なので、公開資料で確認できる範囲に限る」「この数字については一次資料を確認できなかったため、推測を含む」といった説明は、情報の確度や適用範囲を限定している。

    一方で「素人なので」「個人的な意見なので」とだけ書いても、その意見のどこまでが確認済みで、どこからが推測なのかは分からない。
    「批判するつもりはない」と書いても、文章の内容そのものは変わらない。

    必要な留保は、情報の限界を限定する。
    予防線は、発言した自分が受ける評価や責任を限定しようとする。
    両者は似ているようで、機能が違う。

    意見は言いたい。しかし、強く反論されたくはない。批判はする。
    しかし、批判した人として扱われたくはない。
    判断は示す。しかし、間違っていた場合に自分まで評価されたくない。

    この構造があるとすれば、問題は単に「議論が苦手」というだけではない。

    議論を争いと見るだけでは足りない

    日本におけるディベート教育については「日本文化に合わない」「勝者と敗者を決めるのは適切ではない」「扱う話題によって参加者が傷つく」といった否定的言説が繰り返されてきたことが、上土井宏太による2024年の研究で整理されている。

    上土井宏太「日本におけるディベート教育に関する肯定的および否定的言説の批判的分析」『日本コミュニケーション研究』

    こうした言説からは、議論を対立や勝敗と結びつけて捉える見方が存在してきたことが分かる。
    しかし、それだけなら「争いたくないので黙る」という説明で終わる。

    実際には、意見そのものは言いたい人も多い。批判もする。
    SNSを見れば、仕事、商品、教育、育児、文化など、日々さまざまな意見が流れている。

    それでも、反論されると「否定された」と感じる。
    訂正されると「恥をかかされた」と感じる。
    異なる意見を示されただけなのに、人間関係まで悪くなったように受け取ることもある。

    日下部春野・前田友吾・結城雅樹による2024年の研究では、日米の拒否回避傾向の文化差を、関係流動性と評判への期待から検討している。

    これは「日本人は和を重んじる性格だから」といった国民性だけで説明するのではなく、人間関係を選び直しにくい環境や、評判を損なうことへの警戒という条件から拒否回避を捉えようとする研究である。

    日下部春野・前田友吾・結城雅樹「拒否回避傾向の文化差はどこからくるのか:関係流動性と評判期待の役割」『社会心理学研究』

    ここから「日本人はこういう性格だ」と断定することはできない。
    ただ、異論を避ける理由を「争いが嫌いだから」だけで説明する必要はない。

    「人それぞれ」で終わるとき

    議論をめぐって「私はこう考える、あなたはそう考える。それでよい」という態度が、成熟した境界線の引き方として語られることがある。

    好みや、他人に強制する必要のない価値観であれば、それで終わる話も多い。好き嫌いまで互いに説得する必要はない。

    しかし、どのような意見の相違にも同じ線を引けばよいわけではない。

    人格と意見、意見への反論と人格への攻撃、ある論点での不一致と人間関係全体の否定は、それぞれ別のものである。
    本来必要なのは、このように対象を細かく切り分けることである。

    ところが、その切り分けができないと、意見が違った時点で大きな線を引くことになる。

    反論されれば、自分が否定されたように感じる。さらに話せば争いになると思う。
    そこで「あなたはあなた、私は私」「人それぞれだから」と話を閉じる。

    これは境界を適切に引いているというより、必要なところで区別できないために、最後に太い線を一本引いている状態に近い。

    そして、この線引きにはもう一つ問題がある。

    「あなたはそう考える。私はこう考える」と言えば、互いの意見を対等に尊重しているように見える。
    しかし、そこで検討を終えるなら、相手の意見を自分の判断を見直す材料として扱ってはいない。

    相手の根拠は何か。自分とはどの前提が違うのか。
    事実についての主張なら、どちらが資料に合っているのか。
    自分の方が間違っている可能性はないか。

    議論するのであれば、本来はこちらに進む。

    それをせず「それはあなたの考えだから」と互いの意見を隔離するのは、対等というより相互不干渉である。
    相手の意見を尊重しているようで、検討に値する意見としては扱っていないこともある。

    人格は切り分ける必要がある。
    しかし、議論の対象になっている意見同士まで切断してしまえば、議論は成立しない。

    この区別ができないと、議論の場そのものを保つことが難しくなる。

    反論が「その主張への異論」ではなく「あなたへの否定」になり、訂正が「前提の修正」ではなく「敗北」になり、譲歩が「考え直した結果」ではなく「相手に屈したこと」になる。
    そうなれば、議論が争いとして認識されるのは不思議ではない。

    その結果、攻撃して自説を守るか「人それぞれ」で退くかという反応が生まれる。表面上は正反対だが、どちらも論点だけを取り出して検討し続けられないという点では共通している。

    間違いが、自分への評価に変わるとき

    意見には前提がある。

    どれだけ考えても、その前提となる知識が不足していることはある。
    知らない事実があるかもしれない。
    条件を一つ見落としているかもしれない。専門分野では当然とされている事情を知らないこともある。

    その場合に必要なのは、再検証である。指摘された内容を確認し、根拠があれば考えを修正する。
    指摘の方が違っていれば、その理由を示す。意見を外に出せば、こうしたやり取りは当然起こりうる。

    ところが、自分では十分に考えたつもりだったのに、詳しい人から見れば浅かったと分かるのが怖い、単純なことを難しく考えていたと思われるのが怖い、という感覚もある。

    ここで恐れられているのは、間違いそのものなのだろうか。

    単に事実を間違えていたのであれば、確認して直せば済む。
    前提を一つ見落としていたのであれば、それを加えて考え直せばよい。

    ところが、実際のやり取りでは「知らなかった」が「無知な人間だと思われた」に変わり「前提を見落とした」が「頭が悪いと思われた」に変わり「意見を訂正した」が「負けた」に変わることがある。

    問題になっているのは、間違いだけではない。
    間違った自分がどう見られるかまで、一緒に扱われている。

    そうなると、意見への反論は内容の検討だけでは終わらない。
    自分の判断力や理解力まで評価されたように受け取られ、訂正することにも抵抗が生まれる。

    「自分の意見が間違っていた」と「自分という人間が否定された」との距離が近すぎる。

    「自分の論理」が崩れたのか

    このとき「自分が一生懸命考えた論理が間違っていた」と表現されることもある。

    しかし、多くの場合、そこで問題になっているのは論理そのものではない。
    その時点で持っていた知識や経験を前提として組み立てた解釈や仮説、意見である。

    推論の筋道に大きな矛盾がなくても、前提が一つ変われば結論は変わる。
    知らなかった事実が加わるだけで、見方が変わることもある。それは珍しいことではない。

    むしろ、自分には見えていない前提があると分かっているのであれば、他人からの指摘は検証材料になる。
    自分一人では見つけられなかった条件を知る機会でもある。

    ところが、自分の意見と自己評価が密着していると、これが難しくなる。
    意見を修正することが、自分の価値を下げることのように感じられるからである。そこで、意見への反論が、自分への否定へと変換される。

    ここで区別すべきなのは、判断を見直すことと、その判断をした人間を評価することである。
    価値判断のように単純な正誤だけでは処理できない意見もあるが、新しい事実や別の観点が加われば、以前とは異なる判断に至ることはある。

    この二つが混同されると、考えを修正することまで自己評価の低下として受け取られる。

    反論と人格攻撃は別である

    もちろん、意見を公に出した以上、どんな扱いを受けても仕方がないという話ではない。

    「その前提には根拠がない」「その数字は違う」「その結論は資料からは導けない」という指摘と
    「そんなことも知らないのか」「頭が悪い」「こんなことを言う人間は信用できない」という攻撃は別である。

    意見への批判を受け入れることと、嘲笑や侮辱を受け入れることは同じではない。

    しかし、この区別がつかなくなると、正当な反論まで「攻撃」として処理される。
    反対意見を述べられただけなのに「否定された」「傷つけられた」と受け取れば、内容を検討する前に自己防衛が始まる。

    逆に、意見と人格を切り分けることができれば、内容への厳しい反論を受けても、自分自身まで否定されたと考える必要はない。

    「考えすぎない」は解決にならない

    自分の考えが間違っているかもしれない。それを指摘されるのが怖い。
    そこから「考えすぎずに行動しよう」という結論に向かうこともある。

    しかし、これは問題への対処として少し違う。

    前提知識が不足しているのであれば、必要なのは考える量を減らすことではない。
    調べること、根拠を確認すること、別の資料を見ること、他人の指摘を検討すること、反証を探すことである。

    問題は考えたことではない。
    考えた結果を、自分自身と一体化してしまうことにある。

    一生懸命考えたからといって、その結論を守り続ける義務はない。
    新しい情報が入れば変えてよいし、前提が違っていたと分かれば組み立て直せばよい。

    意見を変えることは、思考を放棄することではない。
    考え続けた結果として、以前とは違う判断に至ることもある。

    必要なのは「強い個」ではない

    日本で議論が成立しにくい理由を「個が弱いから」と説明することもある。しかし、この説明だけでは逆方向の問題を説明できない。

    ここまで見てきた反応は、表面上かなり違っている。
    発言する前に予防線を張る。
    反論を自己否定として受け取り、自説を守ろうとする。
    衝突を避けるため「あなたはあなた、私は私」と議論そのものを閉じる。

    一つ目は慎重に見える。
    二つ目は攻撃的に見える。
    三つ目は寛容に見える。

    しかし、いずれも意見と自己評価の距離が近く、違いを扱いながら議論の場を保てなくなったときに現れる反応として見ることができる。

    自己主張が強ければ、議論が上手になるわけではない。
    自分の意見を自分自身と強く結びつけている人は、むしろ一度主張したことを撤回しにくくなる。
    反論されると自分を否定されたと感じ、自分を守るために自説をさらに強く主張するからである。

    反対に、自分への評価を避けるために前置きを重ねることもある。
    さらに、衝突そのものを避けようとすれば「人それぞれ」で検討を終えることになる。

    したがって、必要なのは「強い個」ではない。
    人格と意見、自己評価と主張、反論と攻撃、意見の不一致と人間関係の不一致を別のものとして扱えることである。

    自説を守り抜く強さより、前提が変わったときに結論を組み替えられる余地を残しておくことの方が重要になる。
    強く主張することと、後から考えを変えることは矛盾しない。

    意見は訂正できる

    議論を続けるために必要なのは、自分の立場を最後まで守り抜くことでも、反論されても何も感じない強さでもない。

    意見を外に出したあとも、そこに含まれている前提や事実関係を検討し続けられることの方が重要である。

    他人から異論が出れば、自分には見えていなかった条件が加わることもある。反対に、相手の指摘の方が違っていることもある。
    そのとき確認すべきなのは、どちらが勝ったかではなく、何が事実として確認でき、どの前提が違い、どこまで判断を修正する必要があるのかである。

    「個人的な意見ですが」と断らなくても、意見は意見である。
    「批判するつもりはない」と書かなくても、妥当な批判なら理由を示せばよい。
    専門外なら、恐縮することより、どこまで確認できていて、どこからが推測なのかを示した方が情報として有用である。

    「あなたはあなた、私は私」と線を引く前に、何が違い、何は違わないのかを切り分けることも必要になる。
    意見が違うことと、人間関係そのものを否定することは同じではない。

    自分の考えが誤っていたと分かったとき、見直されるのは、その時点で出した判断である。

    その判断をした自分自身まで、否定されるわけではない。

    意見は訂正できる。

     
     
     

    penry

     
     
    カカポのように舞い、キーウィのように刺すー 文芸批評と社会小論。多声と沈黙が交わる静かな断片を届けます。 中の鳥はチップを投げてもらえると餌にありつけます。 英語版(Medium)はこちらから https://medium.com/@bulbulbeads

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