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まっすぐS2-4 タイムトンネルとババェの声。週末だけ現代に帰る男の、小さな誤解と大きな楽しみ

    南国のデッキに座る男性。麦わらのような帽子をかぶり、笑顔でくつろいでいる。背景には海と船、鉢植えが並び、穏やかな旅の空気。

    🌏 酒井先生のまっすぐ手記|旅で出会った、人と知恵とユーモア
    1947年、新潟県長岡市(栃尾)生まれ。
    青年海外協力隊員として2年半フィリピンに派遣され、理数科教師を務める。
    長崎大学熱帯医学研究所での研修を経て、1997年に酒井歯科医院を開院。
    以来、長年にわたり歯科医師として地域医療に携わってきました。
    そんな酒井先生が、旅先で出会った人々との交流や、異文化に触れて感じた驚きや学び――
    すべてを“まっすぐ”に綴ったエッセイシリーズが 『酒井先生のまっすぐ手記』 です。
    これまでに、東南アジアやモンゴルでの体験をまとめた旅行記をKindleで出版。
    ユーモラスな語り口と、現地の人々との温かな交流が、多くの読者に支持されています。
    ✏️ 一部のエピソードはnote記事としても公開中。
    Kindle書籍には未公開の話も収録し、読みごたえあるシリーズとして広がり続けています。

    1995年フィリピン手記より。
    短髪の女性が、黄色い鳥のぬいぐるみ「ペン吉」を胸の前に抱き、肩には青い小鳥の「ことりさん」がちょこんと乗っている。3人とも穏やかな笑顔で、背景はやわらかなパステルカラー。人と小鳥たちのあたたかな絆を感じる、やさしいイラストのGIFアニメ。

    ペン吉とは?
    育児や生活にまつわる記事を中心に執筆しているWebライターです。
    人との出会いや日常の「ぬくもり」を残すことを大切にしています。
    Kindle出版を始めたきっかけは、命の恩人である歯科医師・酒井先生の夢を叶えるためでした。
    先生が旅先で綴った手記を世の中に広めたい――その想いから挑戦を続けています。

     週末だけ“現代社会”へ

     私がイロイロの山の中にいたころも、サンマルセリーノという小さな町にいたころも、週末にはよく出かけた。

     イロイロでは、大学から市街地までバスで往復するだけでも交通費がかなりかかった。教師の給料では、よほどの用事がない限り外出できない。だからこそ、毎週のように出かける私を、少しうらやましく思う人もいたようである。

     最初の任地はイロイロの山の中、いわば陸の孤島だった。生活は、まるで数百年前のような昔ながらのものだった。

     だからこそ、週末になると“現代社会へ戻る”ために、私はタイムトンネルを抜けて出かけた。おんぼろバスに揺られ、ホテルに泊まり、湯につかり、一週間ぶりに食べたいものを食べ、ビールを飲む――それが私のリフレッシュの仕方だった。

     江戸時代のような生活から解放されたい一心で、65キロ先のトンネルを何度も往復した。あの道のりは、私にとって何ものにも代えがたい時間だった。

    青空の下、山道をひとり歩く中年の日本人男性。汗をぬぐいながらも、どこか嬉しそうな笑顔を浮かべている。背中のリュックには小さな荷物、遠くの丘の向こうには町の屋根が霞んで見える。緑の山々と赤土の道がつづき、南国の光があたたかく差し込む。文明の便利さを恋しく思いながらも、今を楽しむ先生の旅路が感じられる一枚。

    便利になった町、減った外出

     そんな生活を続けていたので、現地の教職員からはよくあらぬ噂を立てられたものだ。しかし、しばらくすると気にもならなくなり、私は相変わらず週末ごとに出かけた。

     やがて、サンバレス州のサンマルセリーノという町に移った。
     そこでは以前のように頻繁に出かけることはなくなった。サンマルセリーノは小さな町だが、大学と町の中心部をジープが頻繁に往復しており、生活に不便はなかった。

     買い物にも困らず、毎日行水ができ、冷たいビールも簡単に手に入った。そうしているうちに、市街地へ行く回数も次第に減っていった。

     町の市場で手に入らないものは、バスで1時間ほどのオロンガポ市へ行ったときにまとめて買うようにしていた。

     水や電気、食料にも恵まれなかったイロイロに比べれば、サンマルセリーノの暮らしはずっと快適だった。テレビこそなかったが、隊員としては十分に満ち足りた生活で、外出するときはいつも写真を撮りに行くときだった。


    サカ、どこへ行くの?

     やがて近所の人たちとも顔なじみになり、互いに声をかけ合うようになった。
     ある日、私が出かけようとすると、サリサリストア(雑貨屋)のおばちゃんが声をかけてきた。
     「サカ、どこへ行くの?」
     「町へ買い物さ」と答えると、今度は「何を買うの?」と聞いてくる。
     聞こえないふりをしていると、「ババェー(女)!」という声が返ってきた。
     本気で言っているとは思わなかったが、通りすがりの知人までが「女を買いに行くのか」と大声でからかうのは、さすがに感心しなかった。
     「冗談もいいかげんにしなさい!」と叫びたくなったほどだ。

     実のところ、サンマルセリーノはアメリカ第七艦隊のスービック基地からおよそ20キロの距離にある。基地の周囲には、米兵を相手にした女性が多く集まり、男女の欲望が交わるような施設も多かった。
     だから、若い独身の男が基地の近くへ出かけるとなると、「女を買いに行く」と思われても仕方がなかったのだ。

     その大声を聞いた日以来、私は歩いて出かけるのをやめ、できるだけ車を使うようにした。

     二番目の任地――サンマルセリーノは、ただ歩いて外出するだけで、あらぬ想像をされてしまうような、そんな場所だった。

    昼下がりのフィリピンの町角。サリサリストアの前で、おばちゃんが笑顔いっぱいに手を振っている。店の棚にはカラフルなお菓子や瓶ジュースが並び、通りには人やジープがゆっくり行き交う。風にそよぐヤシの木の下、陽気な声が響く。「サカーッ!」という呼びかけの明るさに、町全体の温かさが伝わる。

    結び:誤解が教えてくれたこと

     こうして私は、週末ごとにタイムトンネルを抜け、現代社会へと“帰る”生活を続けた。
     山奥の不便さも、町で浴びる視線も、いま思えばどちらも旅の味わいだった。

     便利になればなるほど、人の声は遠のいていく。
     しかし、あのサリサリストアのおばちゃんのように、からかいながらも声をかけてくれる人たちがいた。
     それは少し照れくさいが、どこか温かい時間だった。

     「サカ、どこへ行くの?」
     ――その何気ない声が、いまも耳に残っている。

     誤解もまた、異国のスパイスである。
     そして、あの頃の私は、まだその“辛み”を楽しむ余裕を学んでいる最中だったのかもしれない。


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